と言った。洪作がこちらに来ていることを、母の七重にに不快だった。 対して気兼ねしているふうであった。 洪作も一日に一回は土蔵へ顔を出した。おぬい婆さんは 洪作は言われるままに土蔵を出た。洪作にも、おぬい婆洪作の来るのを待っているらしく、いつも洪作の顔を見る と、 さんはもうそう長くは生きないのではないかと思われた。 洪作はしばらく庭を歩き回りながら、この世は憂きことが「今日は早かった」 多いというような試験問題の文章があったことを思い出とか、 し、実際に人生というものは憂きことが多いと思った。大「今日はきのうよりおそかった」 飼が狂ったことも憂きことであったし、おぬい婆さんに老とか、そんなことを言い、見舞いに貰ったものを、なん 衰がやって来つつあることもまた憂きことであるに違いなとかして少しでも洪作に食べさせようとした。洪作はおぬ かった。洪作は久しぶりで若くして他界した叔母のさき子い婆さんの枕もとでは何も食べる気にはならなかった。以 のことを思い出した。さき子の死もまた憂きことの一つで前、おぬい婆さんといっしょに土蔵で暮らしているとき あった。人生というものが複雑な物悲しい顔をしてその夜は、おぬい婆さんの差し出す物を、一度も不潔だと思った の洪作の前に現われて来た。 ことはなかったが、このごろは妙に手を出す気にはならな それからおぬい婆さんはずっと床に就いたままになっかった。 わずみ た。上の家の祖母と七重のふたりが、交替で毎日のように「洪ちゃが食べるまでは、鼠も遠慮して近寄らんといる。 何回も土蔵に顔を出した。近所の内儀さんたちも、朝に晩さ、食べなされ」 おぬい婆さんは言った。洪作は、 に土蔵へ見舞いに行った。近所の内儀さんたちは、土蔵か ら出ると、母屋のほうに顔を出し、 「あとで勉強しながら食べる」 と言って、おぬい婆さんの手から受け取ったものを紙に ば「まだ、まだ、あの分じゃ、今年中はもちますそ」 ま A 」か 包んで懐ろの中に入れた。そうすることで、おぬい婆さん は気がすむようだった。 し「なんといっても食があるんで、とり入れは越しますべ。 新しい米食って死ぬ気ずらか」 十月の中ごろのある夜、洪作はおぬい婆さんのためにそ とか、そんなことを言った。いかにもおぬい婆さんの死ばがきを作ってやった。そば粉を茶碗の中に入れ、熱い湯 を待っているような言い方なので、洪作はそれを聞くたびを少しずっその上にかけて行って、それを箸で掻き回し
大飼は言った。洪作にはその夜の大飼は、いつもとは違ばならなかった。しかし、追いついても、すぐまたふたり って、まったくの常人に見えた。目の色も静かだったし、 の間隔は開いた。大飼は歩いているのでなく、半ば駆けて 口から出す言葉も穏やかで、少しも変なところは感じられいると言ってよかった。 な . かっ 420 ふたりが大滝部落をぬけるころ、洪作はひたすらたれか 「ええ、行ってみましようか」 に会うことを期待した。たれかに会ったら、事情を説明し 洪作も言った。浄蓮の滝までは小一里の道のりだったて、犬飼を宿へ連れ戻すことを頼もうと思った。やはり犬 が、月光に照らされて、下田街道を歩いて行くのも気持い飼は明らかに常人ではなかった。 「先生、帰ろう」 いだろうと思った。勉強は休まなければならなかったが、 一晩ぐらい休んでも、差し当たってどうということもなか洪作は大飼に追いついては、何回も同じ言葉を口から出 していたが、大飼はまったく受けつけなかった。洪作のほ った。洪作は風呂敷包みを犬飼の部屋において、犬飼とい うには目も当てないで、街道を、何か急ぎの用件でも持っ っしょに旅館を出た。 ているかのように、歩きに歩いていた。洪作ははげしい不 「もうすっかり秋だな」 安な思いに襲われていた。月光に照され、暗い影を地上に 犬飼はしんみりした口調で言った。 わきめ 捺して、人の子ひとり通らない街道を、傍目もふらずに歩 「寒くはないかい ? 」 いて行く大飼の姿は、神経衰弱などというものではなく、 「寒くはありません」 「風邪を引くなよ。これから試験の日までは、体だけは大もはやれつきとした狂人のそれであった。 大滝部落から浄蓮の滝のあるところまでは部落はなかっ 事にしておかねばならん」 うしろ た。洪作は途中で犬飼の体に背後からすがりついた。 洪作は、犬飼がすっかりもとへ戻ってしまっているよう 「先生、帰ろう」 な気がした。今夜の犬飼にはどこにも神経衰弱患者らしい 暗さはなかった。渓俶から下田街道へ出る坂道を上って行洪作は抱きついたまま、大飼に引きずられて歩いた。洪 く間は、犬飼は洪作と肩を並べて歩いて行ったが、街道へ作は大飼がこんなに強い力を持っていようとは思わなかっ た。洪作はなんとかして犬飼の歩行を妨げようと思った 出ると、洪作から離れて、ひとりでさっさと歩き出した。 が、どうする術もなかった。道が杉木立の中へはいろうと 「先生ー」 洪作は犬飼に追いつくために、ときおり小走りに駆けねする少し手前で、大飼はふいに足を止め、
た。街道までは走ったが、街道へ出ると、あとはのろのろと、 「駆けろ」 と歩いた。陽は頭の上に昇っていた。空腹でもあったし、 なんとなく学校のほうへ歩いて行くのが気が重かった。そと、幸夫に命ずるように言った。 のころからふたりはロをきかなくなった。黙って並んで歩「よし」 いて行った。何丁か歩いて、もう一つ小さい土橋を渡るとそう答えるともう幸夫は駆け出していた。洪作も駆け 大滝部落へはいるというところまで来たとき、突然幸夫はた。洪作はすぐ息が苦しくなり、横腹が痛くなったが、そ れでも我慢して駆けた。いくら苦しくても、この場合だけ 足をとめた。そして、 は止まってはならぬと自分に言いきかせた。しかし、一一三 「あれ、向こうから来るの、校長先生じゃないか」 と言った。洪作はその幸夫の言葉でぎよっとした。なる丁駆けると、幸夫は駆けるのをやめて、大きな息使いをし ほど向こうから急ぎ足でやって来る人物は、伯父の石守校ながら道端にしやがみ込んでしまった。洪作も幸夫になら って同じようにした。ふたりはしばらく休んでからいっし 長に似ていた。体を前屈みにして歩くその歩き方はそっく ょに立ち上がった。石守校長との距離が縮まったので、否 りだった。その人物の小さい姿がひと回り大きくなるま 応なく立ち上がらなければならなかった。 で、洪作と幸夫はなんとなくそこに立ちすくんでいた。 ふたりはまた駆けた。そして少し駆けるとまた路上に腰 「校長先生だ。どうする ? 」 幸夫は洪作のほうへ顔を向けた。どうすると言われてを降ろして休んだ。そんなことを四五回しているうちに、 も、洪作もどうすることもできなかった。まったくどうし洪作はたまらなく気持が悪くなって来た。 ていいのか判断がっかなかった。道は崖と山とにはさまれ「幸ちゃ、気持が悪い」 かく た一本道であるし、どこへも匿れ場はなかった。このまま洪作が言うと、幸夫はそれまで平生の彼に似すものも言 そそう ば歩いて行ったら、石守校長とぶつかる以外しかたがなかつわないほど意気沮喪していたが、洪作の言葉で急に生き生 きした本来の表情をとった。幸夫は息をはあはあさせなが ろ「洪ちゃ、どうする ? 」 ら立ち止まると、あたりを見回した。次々わが身に降りか 幸夫は半ば・ヘそをかきながら、真剣な表情で言った。洪かって来る苦難に、今や敢然と立ち向かう決意をしたかの 作はもと来た道を引き返すこと以外に、いまの自分たちにように見えた。 できることはないと思った。洪作はいきなり回れ右をする「あそこへ匿れるか」
ノ原の伯父伯母のところへ挨拶に行った。伯父の石守森之もよかった。そうでしようが。それがおぬい婆ちゃが亡く 進には長く会っていなかった。校長をやめてから、伯父は なったんで、やっとのことで門ノ原に伯父さんの家のある 湯ヶ島へ来ることなどはめったになかったので、顔を合わことを思い出し、それで今日来なさったんだと」 せるという機会はまったくなかった。洪作が石守家の古い 伯母は言ってから、ちょっと間をおいて、少し改まった いろりばた 農家ふうの土間へはいって行くと、伯父は囲炉裡端にすわ感じで、 っていて、すぐ洪作のほうへ目をやったが、別によく来た「ま、 をしよういらっしゃいました」 というようなことを口にするでもなく、相変わらず気むずと言った。皮肉たつぶりな前置きを言ってから、さてそ かしい顔で、 の上で挨拶をするといった感じで、そうした言い方には伯 「洪作は嘘字ばかり書いたが、最近は直ったか」 母独特のものがあった。この伯母はロが悪いので親戚の間 と言った。洪作は自分が嘘字を書いたような覚えはなかではあまり評判がよくなかったが、洪作はかえってそうし ったので、その言い方ははなはだ心外だったが、 た伯母に親身なものが感じられて好きだった。伯母の顔 「直りました」 は、ちょっと見ると鬼の面のようにこわく感じられた。し と言った。 かし、よく見ていると、伯母の顔は整っていた。目はきっ 「あれを直さんと試験には受かれん。お前のお父さんも、 かったが、澄んで涼しかったし、おはぐろの歯の見える小 さい口もともきりつとしていて、若いとぎは美しかったろ 若いときはよく嘘字を書いた」 伯父は言った。自分のことばかりでなく、父のことまでうと思われた。伯母が裏の畑に行っている間、洪作は伯父 非難されるので、洪作は内心はなはだおもしろくなかっと話していた。 た。囲炉裡端へ上がると、奥から歯を黒く染めた伯母が「洪作は将来何になる ? 」 やって来た。似た者夫婦というのか、伯母のほうも、別に「わかりません」 歓迎の言葉を口にするでもなく、しかし、このほうは笑顔「家は代々医者だから、医者にならなければなるまい。し で、 かし、お前は医者には向いていないかも知れん」 「洪ちゃ、よく門ノ原へ来る道を忘れなんだな」 伯父はそんなことを言った。 と言った。 「なんでも、自分のなりたいと思うものになるがいい。人 「洪ちやはおぬい婆ちゃがおれば、あとはたれがいなくて間の一生なんて、すぐ終わってしまう」
れい子は言った。そしてほんとうに憎々しげに洪作を睨 女を、障子の間から見た。すると、相手も洪作の姿を目に とめて、いかにも驚いたように洪作のほうを見守っていたみつけた。洪作は驚いた。相手がこのような理由のないは げしい敵意を自分に持っていようとは、このときまで知ら が、やがて、 なかった。すると、このとき、もう一つの声が飛んで来 「あんた、だれ ? 」 た。やはり少女の声だった。 と、ロを尖らせて言った。洪作はすぐ相手がれい子とい う次女であることを知った。 確かにそう聞こえた。″ただいま″とは聞こえず、″ただ 「洪ちゃだ」 とだけ聞こえた。 洪作は言った ぞうきん 「たれかいないの ? 早くお雑巾頂戴よ」 「洪ちゃなんて子知らないわ。たれと来たの」 それからしばらくすると、 「ひとりだ」 「ようし、持って来ないな。このまま上がっちゃうぞ」 「どこから来たの ? 」 かばん それにつづいて大きな足音と鞄を引きずって来る音が聞 「湯ヶ島だ」 こえた。洪作はその少女の顔を見たとき、これが親戚中で すると、初めて少女は納得したといった表情になって、 手のつけられないわがまま娘で通っている長女の蘭子であ 「ああ田舎の子ね」 ろうと思った。蘭子はさっき妹のれい子がしたと同じよう と言った。そのませた口調が洪作には不快だった。 に、穴のあくほど洪作の顔を見守っていたが、ふいに目を 「田舎じゃないや」 「田舎でしよ。田舎でないの ? 湯ヶ島。そんなとこ聞い反らすと、まったく洪作を無視して、 たことないわ。草が生えていて、お墓のあるところよ。田「ああ、おなかが空いちゃった。お菓子食べようっと」 ま いかにも宣言でもするように言うと、戸棚から菓子折り 圃ばかりで、人なんて、少ししかいやあしない を取り出して、それを食卓の上に置いた。そして中から何 ばに、れいちゃ、行ったことあるわ」 しそれからくるりと背を向けると、台所のほうへはいってか取り出すと、それを口に運んだ。 行った。洪作は縁側から立ち上がり、彼もまた台所へはい この蘭子に対しても、洪作ははげしい敵意を覚えた。な んと小生意気ないやなやつだろうと思った。そうしている って行った。 ところへ、小母さんが帰って来た。彼女は蘭子の姿を見つ 「だめ、いやな子 ! 遊んでやらないよだ」 らんこ
とになるだろう。授業時間におくれたことなど、これまで っているらしく、 に一度もないことだった。心配なのは学校のことばかりで 「先生に憤られたって、神かくしの正吉さんを見たほうが はなかった。目の色を変えて自分を探し回っているであろ しいや、なあ、洪ちゃ」 うおぬい婆さんの姿も目に浮かんで来た。それでいて、洪 そんなことを洪作に言った。 作は地面に腰を降ろし、両膝を両手で抱いて頑張ってい 「そりゃあそうさ。そのほうがずっといいや」 た。幸夫も同じような姿勢をとっていたが、幸夫のほう 洪作も言った。そのほうがずっといいかどうか、はなは だ自信はなかったが、しかし、そうロに出さないではいらは、絶えず体を細かく動かしていた。ふたりは立ち上がら おっくう れないような心の動きがあった。幸夫と洪作は、雨が降ろなかった。妙に立ち上がるのが億劫になっていた。ふたり いかなる日でも毎日のように連れ立は大人たちがむすびを食べるのを、なんとなく見飽きない うと、風が・仄こうと、 って遊んでいたが、しかし、この場合のようにお互いがお眺めででもあるかのように、見守っていた。 「あのおっさん、三つ食った」 互いの意見を肯定し合ったことはなかった。 「もうじきだそ。見ていような」 幸夫はときどきそんなことを言った。 そうしているとき、杉林へ祈禳に行った大人たちの一団 幸夫が言うと、 が帰って来たらしく、急に農家の前の大人たちの数が増え 「見て行かなけりや、損だもんな」 こ 0 そんな言い方を洪作はした。また洪作が、 「いまにおもしろいぞ。正吉さんが出て来ると、みんなう「あんたら、何しとる ? 」 みとが 女のひとりがふたりを見咎めて言った。 わって言って逃げるそ」 「学校へも行かんと、何しとる ? 」 そう言うと、幸夫は、 さっきのこともあるので、洪作と幸夫はいっしょに立ち 「むすび置いて逃げるそ。そしたら、おれ食ってやろう」 そんなことを言った。むすびを食うというようなことを上がった。このとき初めて、 だえき 言われると、洪作は、自分のロに甘ずつばい唾液がたまる「帰ろうや」 と、洪作は言った。 のを感じた。ほんとに腹が減ったと思った。 「うん、帰るか」 そうしている間に、洪作はしだいに絶望的な救いのない 気持になって行った。これから学校へ行ったら大変なこ幸夫も言った。ふたりは農家の前を離れると、街道へ出 おこ
そう言わんと、握り飯の一つぐらい頬張って行きな あれさ。 され。 塀も倒れた。 相変わらず風雨ののたうつ音がものすごく聞こえてい どこの ? る。稲妻も混じっているらしく、ときどき雷鳴も聞こえて ーー所長さんの塀でさあ。 しゆく いる。そこへもう一人宿部落の上のほうに家を持っている あれさ。屋根が飛び、塀が倒れちゃあんた、大変じ あしかが 足利太平がやって来た。七十過ぎた小柄の老人である。何やがな。 代前かに縁組みしたことがあるとかで、現在でも親戚の間 近所の若いのが二三人手伝いに行ってるが、このあ 柄だということになっていて、ことあると必ず顔を見せるらしじゃ、あの家はつぶれるかも知れん。古い家ちゅうの 老人だった。 は始末に悪いもんです。 どうかな 0 ーー夜食を。 そうしちゃおられん。 その声は風に吹き飛ばされながら、土蔵の中へ飛び込ん で来た。 足利太平はほんとうにその言葉どおりすぐ出て行った。 おかげさまで。 洪作は起き上がると、細く開けてある戸口から外をのそい おぬい婆さんが答えると、 た。その洪作の目に、ふんどし一本締めただけの全裸の老 うしろ 気をつけしゃんせよ。どうせ屋根はちっとは飛ぶべ人の背後姿が、電光を浴びて瞬間青く見えた。 えが、まあ、一年に一回の年貢だと思えば・ー・・。 洪作はあき子の家の屋根が飛び、塀が倒れたと聞いて、 あんたんとこは ? 今ごろあき子はどうしているであろうかと思った。塀が倒 うちか。前の崖が崩れましてのう。 れたというが、どこの塀が倒れたのであろうか。 きぐすり あれさ。 「まだ生薬屋が来んな。何しとるじやか」 おぬい婆さんは言って、 わしが出て来るとき納屋の屋根が飛びかかってい た。もう今ごろは飛んでるかも知れねえ。 「洪ちゃおなかすいたろう、こんな夜半に起きて。 ー・あれさ。 握り食・ヘなさい」 さっき行ってみたら、御料局の所長さんのとこの屋「食べたくない」 根はもう半分飛んでいた。 洪作は言った。実際に少しも空腹を感じていなかった。 お
泳ぎながら、蘭子になんと言われるだろうと思った。蘭子て来られると、そうしないわけには行かなかった。それは は、しかし、そのことについては何も言わず、ただ、 叔母のすず江のほうにも、七重から同じ連絡があったらし 「洪ちゃったら、落ちるみたいだったわよ」 と、言った。洪作は、自分の恰好が自分が思うほどぶざ「洪ちゃ、ちょこんとでええから、三島へも顔出してくだ まではなかったのかと思った。 されよ。また三津で洪ちやを引きとめたなどと思われると 洪作にとっては松村家は居心地がよかった。祖母も叔母大変じゃ」 も親切であり、優しかった。初めはいやになったらすぐ帰すず江は言った。洪作は、花火があるという日、義一、 、スで三島へ行った。義 るつもりだったが、湯ヶ島で夏休みを過ごすより、三津の武二、蘭子の三人といっしょに、′ ほうがずっと楽しいことを知った。蘭子も同じ気持らし一、武二、蘭子の三人は三島の真門家とは親戚でないの く、二泊の予定で来たと言ったが、四日経っても、五日経で、松村家の人たちはみんな引きとめたが、蘭子が諾かな っても、帰りそうな気配は示さなかった。 「いっ帰るの ? 」 「三島の真門ってお家は、洪ちゃの伯母さんの家でしょ う。なら、 いいわよ、一晩ぐらい泊まったって」 洪作が聞くと、 蘭子は言 0 た。そしてけつきよくいろいろ相談した 「わたし、もっとここで遊んでるわ。ここにいるほうが、 句、四人で出かけることに決まったのである。 おこづかいっかわなくてすむわ」 「一晩泊めていただいたら、すぐ帰るのよ」 と、ませた口調で言った。 蘭子が来て五日ほど経ったとき、三島の親戚の真門家かすず江は家を出るまで、同じことを繰り返していた。 としき ら、大社の花火を見に来ないかという誘いがあったので、 真門家には、やはり洪作と同年配の俊記というひとり息 ちょっとでも、 しいから真門家にも顔を出すようにという母子があった。洪作とは従兄弟の間柄だったが、洪作は真門 の七重からの連絡があった。真門家の伯母は門ノ原の石守家を訪ねるのも、俊記に会うのも初めてだった。 家から出た女性で、石守校長や洪作の父の姉にあたってい 真門家の伯父は町長をやっていた。家は三島大社の前に た。 あって、いかにも町長でもやっている人の家らしく、品の 洪作は毎日海で泳いでいるほうがおもしろかったので、ある二階屋だった。 花火のほうには興味はなかったが、母の七重からそう言っ真門家を訪ねた夜、子供たちは二階の座敷に集まって花
うで、何よりのこってす。お母さんにも、お父さんにもよ たので、それまでに五六時間の時間しか残されていなかっ 3 ー ろしく言ってくだされ」 ぼくとっ 朴訥な顔をした老人は言った。 洪作は川で顔を洗うと、すぐ川の向こうの田圃へ出た。 あみち 畦道は固く凍りついていて、そこを歩いて行くと、ときお「うん」 ぞうり り、水溜りに張っている氷が草履の下で音を立てて砕け洪作は言った。大人からていねいに物を言われても、洪 た。陽は上って来たが、空気はつめたく、ロから吐く息は作はなんと答えていいかわからなかった。すると老人は、 白かった。遠くに真白く雪をかぶった富士が小さく見えて洪作の顔をしげしげと見守って、 いる。何年間か、毎日のように見て来た富士であるが、明「こんど、あんたが来なさるのは何年先のことやら・ー大 日からはもうこの富士を見ることができないと思うと、さ方、このわしはもう生きておらんでしよう。もう、坊に も、これで会えん。勉強してえらい人になんなされ」 すがに洪作にも多少の感慨があった。 洪作は田圃から酒屋の裏手へ出ると、そこから長野部落そう言うと、そのまま老人は歩いて行った。洪作は小さ ぶち いときは、よく村人から″坊と呼ばれたが、最近はこん へ通じている街道へと抜けて、そこをへい淵のほうへ歩い て行った。去年の夏から一度も歩いたことのない道であつな呼び方をされたことはなかった。老人はもうこれで会え のらぎ た。そこを二丁ほど歩いて行ったとき、野良着を着た老人ないと言ったが、そう言われてみれば、洪作もまたおそら くこの老人にはもう会うことはできないだろうという気が が向こうからやって来て、洪作の顔を見ると足を止めて、 した。そう思うと、せつかく別れの挨拶をしてくれた老人 「今日、お発ちかな」 に、自分が言葉らしい言葉を返さなかったことが悔やまれ と言った。洪作はこの老人が長野部落の老人であるとい こ 0 うことだけは知っていたが、・ とこの家のなんという名の老 人であるかはまったく知らなかった。年に一回か二回、ど洪作は何か一言老人に言葉をかけたくて、途中から引き こかで顔を合わせる老人であった。 返すと、老人のあとを追った。老人はゆっくりと、一歩一 「うん」 歩足を運んでいたので、洪作はすぐその老人に追いつくこ と、洪作が答えると、 とができた。 「あんたも、おぬいおばあさんを喪って、さそおカ落とし「おじいさんー」 てしたろう 0 で、も、これから町 からっしやるそ うしな そうに
「そうか、それでもいいが、何も匿し合うことはない。ば口調で言った。洪作は伯父の校長が、自分が祖父を棚場に 訪ねて行ぎ、このような作文を書いたことを、けつきよく かだな」 教師は言った、洪作はこの場合も、教師によっていくらは悦んでくれているのであろうと思った。伯父のにこりと か誤解されていることを感じた。 もしない気むずかしい顔からは、その心の内側をのそくこ 洪作は二晩ほど作文のために使った。この間唐平とふたとはできなかったが、洪作にはなんとなくそのように感じ りで棚場へ祖父を訪ねて行ったときのことを、そっくりそられた。それから伯父が自分を棚場へ行かしめたのは、こ つづりかた のまま書いた。自分がいかに祖父から大きい感銘を受けたんどの学校から郡へ出す綴方にそのことを書くようにとい か、そして孤独な生活の中で椎茸の研究に没頭している祖う含みがあったのかも知れないと思った。 父にいかに大きい共感を覚えたか、そういったことを、綴洪作はあき子がいかなるものを書き、いっそれを教師の 方用紙十枚ほどに綴った。洪作がそれを学校へ出す日の手もとに出したか、まったく知らなかった。洪作はあき子 朝、おぬい婆さんは、 と道で会っても、学校の運動場で顔を合わせても、ひと言 「どれ、見せてごらん」 もしゃ・ヘらなかった。ロなどきいてやるものかという気持 と言って、それを窓際で読んだ。読み終わると、 だった。あき子のほうはあき子のほうで、やはり同じよう 「石守のじいちゃも、洪ちゃにこんなによく書かれたらいな敵意を洪作に抱いているらしく、洪作の顔には決して視 っ死んでもよかろう。幸せなじいちゃだ」 線を当てなかった。まったく洪作の存在には気づいていな と言った。綴方を教師の手もとに出してから三四日し いといったふうを装っていた。 て、洪作は校長の石守森之進に呼ばれた。洪作が校長室へ十二月にはいってから、洪作は教師に呼び出され、教員 はいって行くと、 室へ行くと、 ば「ここが違っている。直しておきなさい」 「綴方を出したが、最初に落ちた。町の学校の生徒とはま るで月とすっ・ほんだ。まだあき子のほうを出したほうがよ と、伯父の校長は言った。椎茸の栽培に関することを、 し粂さんが洪作と唐平に説明する個所であった。瀾外に鉛筆かったかも知れん」 しか 教師は言った。叱られたのかいや味を言われたのかわか で二三の用語が訂正されてあった。 らなかった。洪作はたまらなく不快だった。あぎ子の綴方 5 「棚場に行ってよかったろう」 と自分の綴方が比較され、自分のほうが選ばれて郡のほう 伯父は、例によって、憤ったような表情と憤ったような かく