の内部を窺うようにした。しいんと静まり返っているが、 「なんだ、見えんじゃないか」 別段家の内部に変わったことが起こっているふうにも見受 いちばん先に隣の柿の木に登った平一が大きな声で言っ けられなかった。洪作は庭の横手へ回って行った。するとた。ちょうどそのとき、 突然、 「こらあ、ばかもんどもがー」 という大きな怒声が背戸のほうから聞こえて来た。祖父 という声が頭上から降って来た。振り仰ぐと、柿の木のの文太の声であった。それといっしょに、し 、っせいに幾つ 上のほうに、枝に身を張りつかせるようにしている幸夫のかの小さい体は、われ先にとそれぞれの木から降りようと した。 姿が見えた。 「上がって来い」 平一が柿の木の中途から滑り落ちて、地面に尻餅をつい 幸夫は低い声で言った。洪作は幸夫をまねて、すぐ藁草たまま割れ返るような大きな声を上げて泣き出した。洪作 履を脱いで帯へはさむと、ざらざらした荒い樹幹へと体をは、そんな平一の泣き声や木の枝の折れる音を耳にしなが 張りつかせ、手と足を使ってしだいに上部へ上部へと登っら、幸夫とほとんど同時に地面へ降り立った。 ていった。 「逃げろ ! 」 柿の木へは登ってみたが、二階の窓は重く閉ざされてい 幸夫が叫んだとき、洪作は自分の襟首が祖父の手でつか て何も見えなかった。 まれるのを感じた。 「見えんじゃないか」 「ばかもんー」 洪作はロでは抗議したが、二階がのぞき込めないという 祖父の声が降って来て、観念してそこに突っ立っている ことで、何か吻とする思いがあった。 洪作の頬が一つ鳴った。 ば「降りようや」 「ばかもん、木に登っちゃあ、いかんとあれほど言ってい こじゃないか」 ばそう言ったとき、洪作は隣の柿の木にふたりと、石段のナ まき し横手の槇の木に三人の子供たちが取りつこうとしているの文太は手拭いで赤くなっている鼻の頭をこすりながら言 を目に留めた。彼らはいずれも息をころして来たらしく、 った。祖父の顔は平生でも気むずかしくて有名なので、憤 ったからと言って特別こわく見えるわけではなかった。し 彼らがやって来たことにそれまで洪作は全然気づいていな かった。 かし、洪作は縮み上がった。祖父から襟がみを取られたこ うかが
403 注解 注解 て結びの、「五人の楽隊の一行は決して花やかなものには見え なかった。どこかに佗しいものがあった。こうした佗しいもの を佗しいと感じたのは、洪作にしても初めてのことだった。佗 しい、佗しい : : : そんな気持を洪作は胸に抱きしめていた」に 至るまで、すべて洪作の初めての心の記録でもって綴られてい る。結尾の文ーーー・「洪作は佗しい音楽をやはり佗しい音楽とし しろばんば て受け取るだけの年齢になっていたのであった」は、書きだし 当しろばんば「「しろばんば』とは″白い老婆″ということで の「しろばんば」の説明と相呼応し、一人の少年の成長の記録 をしめくくっている。 あろう」と靖は書いている。「白い老婆」とは、「おぬい婆さん」 にほかなるまい。しかし、「しろばんば」の意味するものは果話おぬい婆さん靖の曽祖父「潔」の妾であった「かの」がモ してこれだけであろうか。靖は続けていう。「「しろばんば』は デル。靖の母「八重」の養母として入籍されたので、靖にとって かす 真っ白というより、ごく微かだが青味を帯んでいた。そして明 は、戸籍上は祖母にあたる。靖は、六歳 ( 大正一一年 ) から十三 るいうちは、ただ白く見えたが、タ闇が深くなるにつれて、そ 歳 ( 大正九年 ) まで、この小説の舞台である伊豆湯ヶ島で「か れは青味を帯んで来るように思えた」と。この個所は「しろば の」によって育てられた。大正九年没。靖は『私の自己形成 んば』を読むうえで重要なポイントとなっている。「ただ白く 史』 ( 昭和三五・五「日本」 ) で、「両親以外に自分に決定的影 見えた」ものが、実は「青味を帯んでいた」ことを知った少 響を与えた何人かの人」の一人、「その人に会わなかったら恐 年洪作の驚きと悲しみとせつなさ、これがこの作品のテーマに らく自分の生涯はよかれ悪しかれ変わったものであったろうと つながる。洪作は、物事を真に見ることができるようになって いうような」人の一人としてあげ、「私と祖母とはかなり強固 きたのである。同級生光一の、横暴な上級生に対する「美しい」 な同盟関係にあって村人や親戚を敵に廻して共同生活をしてい てぶくろ 勇気ある行動を見て、「生まれて初めて自分の卑屈さを・ : : ・思い た」と述べている。他に「グウドル氏の手套』 ( 昭和二八・十 知らされた」ことを始めとして、「おぬい婆さんの腕の方が、昼 一一「別冊文藝春秋」 ) でも「おぬい婆さん」の人柄をぶこと ができる。 間見たさき子の腕より、もっと細く頼りないのを知った」こと、 「人から誤解されるということをあき子に依って初めて経験し老曽祖父辰之助靖の曽祖父「潔」がモデル。初代軍医総監とし にらやま た」こと、「学校で何かあき子に関するでも耳にはいってく て活躍した松本順の門下で、韮山の江川家のおかかえ医者、静 ると、そのために洪作は自分の心が全くそれまでとは違ったも 岡県立病院初代院長などをつとめ、伊豆地方でかなり名を知ら しか たちま のになるのを感じた」こと、「自分という人間が厭だと思う自 れていた。「併し一方に於いて晩年中風で倒れるや忽ちにして 己嫌厭の感情を、初めてこの事件によって知った」こそし その日の生活にも困った程、平素不用意な生活をしていた人物
走っていた。わたしはそれらに目をやりながら、修釜〔 寺へ出、さらに三島をたすねて沼津の千本浜へ出た。 千個の海のかけらが 千本の松の間に 挾まっていて 少年の日 私は毎日 それを一つすっ 食べて育った 井上靖文学碑は、松林のなかに置かれている。が、 方朝是こ 浜には防潮堤がつづいていて海は見えない 立ってやっと海は見えたが、それはよごれかえり、松 林のはうをふりかえると文学碑はたいへん孤独に見え た。もっとも、文学碑は近くほかへ移されるというこ とを現地で聞いた。 大阪 井上さんの戦後初期の作品には、「闘牛』『猟銃』以下、 関西に題材をとったものがタタい。全部がそ、つだといっ て 9 もト小い というのも、昭和七年、二十五歳で京都帝大哲学科 に入学して以来、二十三年末の東京転勤まで六カ月あ 右沼津千本浜にある井上靖文学碑 左上大阪府古市にある安閑天皇陵 ( 「玉碗記」 )
右天城山中の路 ( 「しろばんば」 ) 左湯ヶ島付近で畑仕事をする人 ( 「しろばんば」 ) に、詩『猟銃』は大阪で書かれたものだけれど、その ときこの峠のカヤのなかの道が作者の目には、ふと浮 かんでいたのではないかとも思われた。 こんど三度めに国士峠をたすねたときは、カヤの海 は深い霧にとざされ、足もとのカヤのほかは何も見え なかった。ただ、ぬれたカヤの葉を霧はいきもののよ うにゆっくり移動し、黒い昆虫の群れが飛び交ってい たくつもズボンもぐっしよりぬれた。が、しばらく 幻影のなかに遊ぶことができて、わたしはすっかり満 足した。 井上さんは、数多い自作のなかでも、『しろばんば』 にはことに友と自信とを持っている、ともらしたこ とがある。それは少年の目をとおして描ききった本格 的自伝小説の成就ということもあろうか、その愛着と 自信とはふるさとに対するそれと結びついていること なつぐさ を霧のなかで田 5 った。『しろばんば』はそののち『夏草 ふゅなみ 冬濤』、『北の海』と書きつがれ、また井上さんの文学 の主題の多くは人間の孤独であるが、その原点はたし かにこの天城湯ヶ島、ことに郷家と熊野山と国士峠と にいまも生きているよ、つに田 5 われる 峠を北 ~ 越えると、道は第を ~ て幡 ~ 出、修善 寺へつうしる。その道にはシイタケが栽培され、ハン の木の林のなかにはワサビ田がつくられ、清冽な水が せいれつ
と言った。言われて初めて洪作は自分の足もとに目を落掻いて舌を出し、それから女の腰のあたりをちょっとつつ としてみたが、なるほど足は両方とも下駄を履いていなか 「あれさ」 おぬい婆さんはいぎなり窓から首を突き出すと、大きな女はそんな声を出して、男を打とうとした。男はすばや 声で、 く飛びのいたが、そうした男女のようすが、妙になまめか 「下駄、洪ちゃの下駄ー」 しく、気恥ずかしく洪作の目には映った。 と騒ぎたてた。洪作はそんなおぬい婆さんの態度が周囲列車が動き出して、ホームの男女との距離が開くと、 の人たちに対して恥ずかしかった。洪作がちらりと目に収「ばかもんめが」 めた範囲内だけでも、都会人らしい人が何人もいて、いっ おぬい婆さんは言いながら、それでも窓から手を出して せいに自分たちのほうに好奇の目を向けているのが見え ハンケチを振った。そして長いことそれを振り続けていた た。間もなく見送りの夫婦者が洪作の下駄を二つ揃えて持が、やがて手を引っ込めると、こんどはその ( ンケチを三 って来て、荷物といっしょに窓から入れてくれた。片方は角にたたんで自分の衿にかけ回した。 ホームに、片方はデッキの階段に落ちていたということで「洪ちゃ、もうこうなりやしめたもんじゃ。一歩も歩かん あった。 でも、汽車が豊橋へ運んでくれる。ありがたいこっちゃ。 「よかったぞ、洪ちゃ。そら」 極楽じゃ」 おぬい婆さんは礼も言わずにそれを受け取ると、屈み込おぬい婆さんはいかにも吻としたような表情で言った。 んで洪作の足もとに置いた。それから自分は座席に下駄を洪作はおぬい婆さんにならって、自分もまた座席の上にす えりもと しいものではなかったが、そう 脱いですわり込むと、やれやれというふうに衿元をゆるめわった。すわり心地はそう、 ばて団扇を使いながら、初めてゆっくりとホームのふたりにするものだと思った。四人向かい合わせの座席がすっ・ほり あみだな 目をやり、 あいていたので、荷物を網棚に載せなくてもゆっくりふた りで占領することができた。 」「喧嘩せんとやんなされよ。何事も辛抱、辛抱」 と言った。すると女のほうが、 「それにしても、ここまでくるの大変じゃったな。洪ち 四「そうだとも、よく聞いておき。何事も辛抱、辛抱」 と、自分の夫のほうへ同じ言葉を繰り返した。男は頭を話し手がほかにないので、おぬい婆さんはやたらに洪 うちわ につ
と言った。 君、毎日、今まで何時間眠っている ? 」 「君はこの学校の六年生ではいちばんでぎるということに この犬飼の質問に、洪作はすぐには答えられなかった。何 なっているが、町の学校へ行くと、とうてい上位にははい時間眠るか、自分の睡眠時間など算えてみたことは一度も れない。まごまごすると中ほど以下に落ちるだろう。中学なかった。 はどこを受ける ? 」 「十一時ごろ寝て、七時に起きます」 「まだ決まってませんが、多分浜松だろうと思います」 「八時間か。ー・・ー気の毒だが、六時間にしてもらおう。日 洪作が答えると、 曜以外は十二時に寝て、六時起床。その替わり、日曜だけ 「いまのところ、浜松は県下の中等学校ではいちばんむずはたつ。ふり眠るんだ。そして眠っていない時間は、いつも かしい。四人か五人にひとりの率だ。このままではとうて勉強だ。学校の休み時間も遊んでいてはいけない。君は、 いはいれない。さかとんぼりしてもはいれないだろう」 普通ならとうてい望み得ないことをやろうというんだ。そ 大飼は言った。そして、どうする ? というように、洪のくらいのことはしなければならぬ。飯を食べるときも勉 作の顔を見守った。洪作は黙っていた。大飼の整った顔の強、便所へ行っても勉強。風呂へはいっても勉強。 じやけん 中で、一一つの目がひどく冷たく邪慳に見えた。 いか、それができるか」 「でも、君ははいらなければ困るんだろう ? 」 犬飼は目を光らせて言った。 「困ります」 「できます」 「そいつは困ったな。どうしてもはいらなければならんと洪作は身内にはげしいものが突き上げて来るのを感じな いうことになると、さて、どうしたものかな」 がらロった。 大飼は考えるような表情をして、 「よし。それなら僕もっきあってあげる。ほんとうはあす やるか」 校長に断わるつもりだったんだそれを断わらないで、僕 ん ・よ と、それだけ大きい声で言った。 も真剣にやるから君も真剣にやれ」 し「はいらなければならぬということになると、はいるよう その晩、洪作は犬飼とふたりで旅館の風呂にはいらた。 にするほかはない。今日から町の学校の子供の二倍勉強す浴場は長い階段を降りて行く地階にあって、浴場のすぐ向 るんだな。三倍と言いたいが、時間的に見て三倍は不可能こうが川縁の崖になっていた。川瀬の音が浴場いつばいに だ。一一倍なら、睡眠時間を縮めればできんことはあるま流れ込んで来ている。旅館には客らしい者の姿は見えなか
ゆっくり食べ、 いるところへ小母さんがはいって来て、 「婆ちやからお迎えが来ましたが、洪ちやは御病気だから「食べたいでしようね、こんなおいしいお菓子を」 そんなことを言った。それから縁側へ花火を持って来る と言って帰ってもらいました」 と、 と言った。 なお 「花火をやってあげるから、見てなさいね。起きて来ては 「洪ちゃ、癒ったー」 だめよ。起きて来たら、お父さんに言いつけるから」 洪作はあわてて跳び起きて言った。 いえ、まだ癒 0 たかどうかはわかりません。お医者さそんな意地の悪い言い方をした。洪作は寝床に腹這いに なったまま、縁側へ目をやっていた。線香花火を手に持っ んも、今夜一晩だけは静かに寝ているようにつておっしゃ て、火の滴りの落ちるのを見守っている蘭子の顔は、いか ってました」 にも都会の子らしく怜悧に、かわいらしく見えた。口をき 「洪ちゃ、おばあちゃんのところへ帰る」 洪作は半べそをかきながら言った。こんなところへ自分くと嫌いだったが、ロをきかないで真剣に花火を見つめて いるようなところは、その限りにおいては嫌いではなかっ ひとりだけ残されでもしたら大変だと思った。 「まあ、今夜はここに寝てらっしゃい。おばあちゃんが明た。絵雑誌のロ絵から脱け出して来た少女のように見え 」 0 日汽車に乗る前に迎えに来てくださるそうです」 一度小父さんが顔を出した。小父さんは縁側へすわっ そう小母さんは言った。 て、小母さんと若い女中に肩をもませながらビールを飲ん 洪作とれい子は、夕食を寝床に運んでもらって食べた。 お粥と梅干だけだった。れい子は卵焼きをほしいと言ってだ。ビール壜に貼ってある商標をはがすと、下から小さい わめ 芸者の写真が出て来る仕組みになっていて、小父さんはそ 喚き立てたが、小母さんはいけませんの一点張りだった。 れを取り出すと、縁側の板に貼って、 ばほかのことではなんでも子供たちの言うなりになる優しい 「沼津ではこの妓がいちばんべっぴんで、二番目はうちの ば小母さんだったが、ふたりの病人に対しては厳格だった。 しれい子はもうよくなったから起きると言ったが、そのこと蘭子だ」 と、そんなことを言った。洪作は小父さんが自分のふた も許されなかった。 ときどき、蘭子が病室へ顔を見せた。蘭子は菓子をのせりの娘たちを分け隔てして、上の蘭子だけをかわいがると いうような噂をいっか聞いたことがあったが、なるほどそ た皿を抱えてやって来ると、わざとふたりの前で、それを したた びん
という、「しろばんば」の一節に描き出された洪作少望を希求の情熱に変えていくような少年だったろう。 だからこそ、孤独は、氏の情念の表層ではさわがず、 年の、はにかみと、とまどいの、っちに、母とい、つ「寺 殊な女性」への希求と絶望をないまぜにした作者の深深層へ深層へと滲み透ったのだともいえる。 しっえん 「補陀落渡海記」には、「現世の生命の終焉を約束され い感情が染み出ている。 「しろばんば」に続き、浜松中学から沼津中学に転校ていると同時に、宗教的な生をもまた約束されている」 し、「津という町に野ばなしにされていた」日の作者渡海の厳しさを映し出し、「信、い深い僧侶としての、 補陀落渡海者としての持つべき顔」を否定するくだり 自身を描く「夏草冬濤」にも、母恋の心は、直接にう があるが、それはもっともらしげな孤独顔を否定する すいている。 洪作少年の生き方にも通じよう。 そして、そのうずきは「生き生きした少年の群れ」 「めそめそしたところはないし、諦めはい、 しし、友達 の中で、文学への思慕に結品してい 。その少年の一 次第で模範生にもなれるし、不良にもなれる。明るい 人金枝と洪作との会話、 し、どんな大胆なことだって平気でやってのけるよ。 「洪作は孤独を知らないな」 俺たちの仲間ではお前だけ違ってるよ」 「冗談じゃないよ。俺だって、孤独ぐらい知ってる」 と評される洪作の生き方には、深層に孤独を沈め、 「いいや、お前は知らんよ。本当はお前が一番孤独を 感じていい環境にあるんだ。ト / さい時から、すっと両情熱的に限慕し、絶望の悲哀を情熱の薪にしていく井 親から離れてひとりで居るだろう。だけど、お前は孤上文学の呼吸が、実に象徴的に染み出ている。 独という気持を知らんと思うな」 私はいまでも都会の雑沓の中に 「そんなことあるもんか」 ある時、ふとあの猟人のように歩き 「いいや、そ、つだよ、併し、そこが洪作のいいところ たいと、つことかある。ゆっくりと そして、人 静かに、つめたく 中学時代の井上氏も、洪作と同しように、「孤独とい 生の白い河床をのぞき見た中年の孤 う気持を知らん」少年だったのに違いない。そう見え 独なる精神と肉体の双方に、同時に るはどに、遠い母を、さまざまな形で恋い、届かぬ絶 442
いた。通行人の視線がことごとく自分に向けられているよて行った。松の樹幹と樹幹との間から青い海の一部が見え 」 0 うな気がした。半丁ほど行くと、 「うわっ、海が見えるー」 「さ、こんどは蘭ちゃよ」 と、蘭子が言うと、れい子は素直に自転車から降りた。 洪作は思わず叫んだ。こんな近くから海を見るのは初め 替わって蘭子が乗った。表通りが終わって、千本浜の入りてのことだった。豊橋へ行くとき、汽車の窓から海を見た が、そのときの海と、いま松の樹幹と樹幹との間から顔を 口に来ると、いっか地面は砂になっていた。 のぞかしている海とは、まったく別物のような気がした。 「さ、こんどはれい子」 そう言って、蘭子は自転車から降りた。するとれい子汽車の窓から見た海は一枚の紺の布でも広げたように静か に見えたが、いま自分の目の前にある海は、一面に白い波 頭を立てて揺れ動き騒いでいた。 「こんどは洪ちゃ」 うわっ、海だー」 「うわっ、海だー と言った。このれい子の言葉は洪作には意外だった。 洪作は何回も叫んだ。叫ぶ以外にいま自分の心にたぎり 「洪ちゃ、乗りたくないや」 立っているものを表現する適当な言葉を知らなかった。洪 洪作が言うと、 作はふたりの姉妹にはかまわず、松林を駆け抜けた。松林 「遠慮しなくてもいいの、乗りなさい」 がなくなると、砂浜がゆるやかな傾斜をなして、際ま れい子はませた口調で言った。 で続いていた。波打際では白い波が次々に寄せては砕け散 「乗りたくないや」 っていた。蘭子もれい子もやって来た。 洪作はれい子の好意を突き離して、前方に見えている松 林のほうへ駆けて行った。駆けながら、洪作はれい子の好「うわあっ、うわあっー」 意を受けつけなかったことで、自分の心が痛んでいるのを洪作はやたらに歓声を上げた。蘭子もれい子もさすがに 感じていた。洪作は松林の入り口で立ち止まってうしろをそうした洪作の興奮には驚いたらしく、しばらくは呆気に とられて黙っていたが、やがて蘭子が、 振り返ってみた。蘭子とれい子の駆けて来る姿が見えた。 ふたりが自分のあとを追って駆けて来るのも、洪作には意「洪ちゃ、田舎には海はないの ? 」 と聞いた。洪作は自分の名前が、蘭子の口から出たこと 外だっこ。 洪作はふたりがやって来るのを待って松林の中へはいつに驚いた。 ま、
とはこれが初めてであった。 出て来たら、一つ洪ちゃに貰って来てやる」 「だって、赤ん坊見たか 0 たんだもん」 おぬい婆さんはそんなことを言いながら、着物にたすき 洪作はロを尖らせて小声で言った。 をかけ、頭髪の乱れを防ぐために手拭いを頭部に巻きつけ 「赤ん坊 ? 」 ていた。そんなおぬい婆さんの姿が、共作の目にはかいが 「さき子姉ちゃ、赤ん坊産んだんだろう」 いしく見え、いまや容易ならぬ事態が上の家へ押しかけて すると、文太は顔をくしやくしやと歪めてから、 来つつあることが感じられた。 「まだ生まれん。猫の子じゃあるまいし、そう簡単に生ま「洪ちゃも行く」 れるかい ばかもん」 「子供は赤ちゃの生まれるところへは来るもんじゃない 文太はばかもんを繰り返してから、洪作の額を二本の指おとなしく待ってなさい。その替わり、明日の朝見せてあ で小突いた。 げる」 その晩、洪作は深夜おぬい婆さんが起き出して、あたり おぬい婆さんは決めつけるように言って、 をごそごそ言わせている音で、目を覚ました。 「平生豪そうなことを言っても、おばあちゃんが行かんこ 「婆ちゃ、何してる ? 」 とにや、嬰児ひとり産めんじやからな」 洪作が蒲団の中から声をかけると、おぬい婆さんは一度そんなことを言いながらランプの火を消して、そのまま は洪作のほうを見たが、 五既を下りて行ってしま 0 た。洪作は暗い土蔵の中にひ 「赤ちゃがいま生まれるそうだ。これから行って来るか とり残されたが、さしてこわいことはなかった。嬰児がい ら、坊は寝とんなさい」 まひとり生まれかけているということで、闇はいつもとは それどころではないというふうに、身仕度に余念がなかまったく違ったものに見えた。 った。 おぬい婆さんが出て行くと間もなく、遠くで鶏の鳴く声 「洪ちゃも行く」 が聞こえて、なんとなく明け方近いのが感じられた。洪作 洪作は床から起ぎ上がった。嬰児が生まれると聞くと、 は床を出て、土蔵の窓の重い扉を細目に開けてみた。外は それを見てみたい気持を押えることはできなかった。 まだ暗かった。 「いま、生まれるところじゃ。行ったってまだ見られはせ洪作はこの夜ほど朝が早く来るのを待ち遠しく思ったこ ん。いい子だからおとなしく寝とりなさい。赤ちゃが二つとはなかった。生まれたての嬰児がどんな顔をしているか えら