とになるだろう。授業時間におくれたことなど、これまで っているらしく、 に一度もないことだった。心配なのは学校のことばかりで 「先生に憤られたって、神かくしの正吉さんを見たほうが はなかった。目の色を変えて自分を探し回っているであろ しいや、なあ、洪ちゃ」 うおぬい婆さんの姿も目に浮かんで来た。それでいて、洪 そんなことを洪作に言った。 作は地面に腰を降ろし、両膝を両手で抱いて頑張ってい 「そりゃあそうさ。そのほうがずっといいや」 た。幸夫も同じような姿勢をとっていたが、幸夫のほう 洪作も言った。そのほうがずっといいかどうか、はなは だ自信はなかったが、しかし、そうロに出さないではいらは、絶えず体を細かく動かしていた。ふたりは立ち上がら おっくう れないような心の動きがあった。幸夫と洪作は、雨が降ろなかった。妙に立ち上がるのが億劫になっていた。ふたり いかなる日でも毎日のように連れ立は大人たちがむすびを食べるのを、なんとなく見飽きない うと、風が・仄こうと、 って遊んでいたが、しかし、この場合のようにお互いがお眺めででもあるかのように、見守っていた。 「あのおっさん、三つ食った」 互いの意見を肯定し合ったことはなかった。 「もうじきだそ。見ていような」 幸夫はときどきそんなことを言った。 そうしているとき、杉林へ祈禳に行った大人たちの一団 幸夫が言うと、 が帰って来たらしく、急に農家の前の大人たちの数が増え 「見て行かなけりや、損だもんな」 こ 0 そんな言い方を洪作はした。また洪作が、 「いまにおもしろいぞ。正吉さんが出て来ると、みんなう「あんたら、何しとる ? 」 みとが 女のひとりがふたりを見咎めて言った。 わって言って逃げるそ」 「学校へも行かんと、何しとる ? 」 そう言うと、幸夫は、 さっきのこともあるので、洪作と幸夫はいっしょに立ち 「むすび置いて逃げるそ。そしたら、おれ食ってやろう」 そんなことを言った。むすびを食うというようなことを上がった。このとき初めて、 だえき 言われると、洪作は、自分のロに甘ずつばい唾液がたまる「帰ろうや」 と、洪作は言った。 のを感じた。ほんとに腹が減ったと思った。 「うん、帰るか」 そうしている間に、洪作はしだいに絶望的な救いのない 気持になって行った。これから学校へ行ったら大変なこ幸夫も言った。ふたりは農家の前を離れると、街道へ出 おこ
た。街道までは走ったが、街道へ出ると、あとはのろのろと、 「駆けろ」 と歩いた。陽は頭の上に昇っていた。空腹でもあったし、 なんとなく学校のほうへ歩いて行くのが気が重かった。そと、幸夫に命ずるように言った。 のころからふたりはロをきかなくなった。黙って並んで歩「よし」 いて行った。何丁か歩いて、もう一つ小さい土橋を渡るとそう答えるともう幸夫は駆け出していた。洪作も駆け 大滝部落へはいるというところまで来たとき、突然幸夫はた。洪作はすぐ息が苦しくなり、横腹が痛くなったが、そ れでも我慢して駆けた。いくら苦しくても、この場合だけ 足をとめた。そして、 は止まってはならぬと自分に言いきかせた。しかし、一一三 「あれ、向こうから来るの、校長先生じゃないか」 と言った。洪作はその幸夫の言葉でぎよっとした。なる丁駆けると、幸夫は駆けるのをやめて、大きな息使いをし ほど向こうから急ぎ足でやって来る人物は、伯父の石守校ながら道端にしやがみ込んでしまった。洪作も幸夫になら って同じようにした。ふたりはしばらく休んでからいっし 長に似ていた。体を前屈みにして歩くその歩き方はそっく ょに立ち上がった。石守校長との距離が縮まったので、否 りだった。その人物の小さい姿がひと回り大きくなるま 応なく立ち上がらなければならなかった。 で、洪作と幸夫はなんとなくそこに立ちすくんでいた。 ふたりはまた駆けた。そして少し駆けるとまた路上に腰 「校長先生だ。どうする ? 」 幸夫は洪作のほうへ顔を向けた。どうすると言われてを降ろして休んだ。そんなことを四五回しているうちに、 も、洪作もどうすることもできなかった。まったくどうし洪作はたまらなく気持が悪くなって来た。 ていいのか判断がっかなかった。道は崖と山とにはさまれ「幸ちゃ、気持が悪い」 かく た一本道であるし、どこへも匿れ場はなかった。このまま洪作が言うと、幸夫はそれまで平生の彼に似すものも言 そそう ば歩いて行ったら、石守校長とぶつかる以外しかたがなかつわないほど意気沮喪していたが、洪作の言葉で急に生き生 きした本来の表情をとった。幸夫は息をはあはあさせなが ろ「洪ちゃ、どうする ? 」 ら立ち止まると、あたりを見回した。次々わが身に降りか 幸夫は半ば・ヘそをかきながら、真剣な表情で言った。洪かって来る苦難に、今や敢然と立ち向かう決意をしたかの 作はもと来た道を引き返すこと以外に、いまの自分たちにように見えた。 できることはないと思った。洪作はいきなり回れ右をする「あそこへ匿れるか」
「立っとらんで、少しでも横になったほうがよかんべ。土と言った。そして、 蔵へはいらっしゃれ」 「お世話かけてすみません」 と、そんなことを言った。すると、七重は、 と、おぬい婆さんに礼を言った。 「そうね。土蔵で休ませてもらうわ」 「なんの」 そう言って、柿の木から離れると、土蔵のほうへ一歩一 おぬい婆さんは言って、 歩ゆっくりと足を連んだ。 「きのうから陽気がむしむししていたでな」 そんなふたりをそこに置いて、洪作は上の家へ走って行それから二階へお茶をいれに行き、茶盆を持って来る っこ 0 と、祖母と二人で七重の枕もとでお茶を飲んだ。七重はし 「母ちゃが倒れかかってる。すぐ来てくれ」 ばらく横になったままで黙っていたが、やがて気分が癒っ と、祖母に告げた。祖母は一言も言わないで立ち上がるたらしくて、体を起こすと、 と、庭下駄を履いて土蔵へと向かった。祖母は走るつもり「ああ、驚いたー婆ちゃと喧嘩していたら、すうと気持 らしかったが、あわてているので歩みは平生よりもっとのが遠くなった」 ろかった。少し歩いては立ちどまり、そのたびに大きい吐と言った。 息をついては、何かロの中でぶつぶつ言った。洪作にも祖「喧嘩」 母が何を言っているかはもちろんわからなかったが、わた上の家の祖母が聞き咎めると、 しが身替わりになりますから、どうそ娘の七重の身の上に「大喧嘩していたの」 変わったことがありませぬようにと、そんなことを祈って そう言って七重は笑った。 ばいるに違いないと思われた。祖母はいつでも、何か困った「笑えればけっこうじゃ、もう癒ったも同じじゃ」 ばことが起こると、自分が身替わりになろうとしていた。 おぬい婆さんは言った。どこから聞いたのか、近所の内 し土蔵へ戻ってみると、七重は土蔵の階下の板の間に身を儀さんたちが二三人見舞いに来た。 横たえ、おぬい婆さんに濡れ手拭いを額の上に載せてもら その夜、洪作は大飼のところから帰ると、やはり土蔵へ っていた。上の家の祖母は七重の顔をのぞき込むと、 行った。おぬい婆さんは洪作の顔を見ると、 「おなかの中に嬰児がはいってるんで、よくよく気をつけ「早く帰んなさい。また嫉くでな」
と言った。言われて初めて洪作は自分の足もとに目を落掻いて舌を出し、それから女の腰のあたりをちょっとつつ としてみたが、なるほど足は両方とも下駄を履いていなか 「あれさ」 おぬい婆さんはいぎなり窓から首を突き出すと、大きな女はそんな声を出して、男を打とうとした。男はすばや 声で、 く飛びのいたが、そうした男女のようすが、妙になまめか 「下駄、洪ちゃの下駄ー」 しく、気恥ずかしく洪作の目には映った。 と騒ぎたてた。洪作はそんなおぬい婆さんの態度が周囲列車が動き出して、ホームの男女との距離が開くと、 の人たちに対して恥ずかしかった。洪作がちらりと目に収「ばかもんめが」 めた範囲内だけでも、都会人らしい人が何人もいて、いっ おぬい婆さんは言いながら、それでも窓から手を出して せいに自分たちのほうに好奇の目を向けているのが見え ハンケチを振った。そして長いことそれを振り続けていた た。間もなく見送りの夫婦者が洪作の下駄を二つ揃えて持が、やがて手を引っ込めると、こんどはその ( ンケチを三 って来て、荷物といっしょに窓から入れてくれた。片方は角にたたんで自分の衿にかけ回した。 ホームに、片方はデッキの階段に落ちていたということで「洪ちゃ、もうこうなりやしめたもんじゃ。一歩も歩かん あった。 でも、汽車が豊橋へ運んでくれる。ありがたいこっちゃ。 「よかったぞ、洪ちゃ。そら」 極楽じゃ」 おぬい婆さんは礼も言わずにそれを受け取ると、屈み込おぬい婆さんはいかにも吻としたような表情で言った。 んで洪作の足もとに置いた。それから自分は座席に下駄を洪作はおぬい婆さんにならって、自分もまた座席の上にす えりもと しいものではなかったが、そう 脱いですわり込むと、やれやれというふうに衿元をゆるめわった。すわり心地はそう、 ばて団扇を使いながら、初めてゆっくりとホームのふたりにするものだと思った。四人向かい合わせの座席がすっ・ほり あみだな 目をやり、 あいていたので、荷物を網棚に載せなくてもゆっくりふた りで占領することができた。 」「喧嘩せんとやんなされよ。何事も辛抱、辛抱」 と言った。すると女のほうが、 「それにしても、ここまでくるの大変じゃったな。洪ち 四「そうだとも、よく聞いておき。何事も辛抱、辛抱」 と、自分の夫のほうへ同じ言葉を繰り返した。男は頭を話し手がほかにないので、おぬい婆さんはやたらに洪 うちわ につ
と言った。洪作がこちらに来ていることを、母の七重にに不快だった。 対して気兼ねしているふうであった。 洪作も一日に一回は土蔵へ顔を出した。おぬい婆さんは 洪作は言われるままに土蔵を出た。洪作にも、おぬい婆洪作の来るのを待っているらしく、いつも洪作の顔を見る と、 さんはもうそう長くは生きないのではないかと思われた。 洪作はしばらく庭を歩き回りながら、この世は憂きことが「今日は早かった」 多いというような試験問題の文章があったことを思い出とか、 し、実際に人生というものは憂きことが多いと思った。大「今日はきのうよりおそかった」 飼が狂ったことも憂きことであったし、おぬい婆さんに老とか、そんなことを言い、見舞いに貰ったものを、なん 衰がやって来つつあることもまた憂きことであるに違いなとかして少しでも洪作に食べさせようとした。洪作はおぬ かった。洪作は久しぶりで若くして他界した叔母のさき子い婆さんの枕もとでは何も食べる気にはならなかった。以 のことを思い出した。さき子の死もまた憂きことの一つで前、おぬい婆さんといっしょに土蔵で暮らしているとき あった。人生というものが複雑な物悲しい顔をしてその夜は、おぬい婆さんの差し出す物を、一度も不潔だと思った の洪作の前に現われて来た。 ことはなかったが、このごろは妙に手を出す気にはならな それからおぬい婆さんはずっと床に就いたままになっかった。 わずみ た。上の家の祖母と七重のふたりが、交替で毎日のように「洪ちゃが食べるまでは、鼠も遠慮して近寄らんといる。 何回も土蔵に顔を出した。近所の内儀さんたちも、朝に晩さ、食べなされ」 おぬい婆さんは言った。洪作は、 に土蔵へ見舞いに行った。近所の内儀さんたちは、土蔵か ら出ると、母屋のほうに顔を出し、 「あとで勉強しながら食べる」 と言って、おぬい婆さんの手から受け取ったものを紙に ば「まだ、まだ、あの分じゃ、今年中はもちますそ」 ま A 」か 包んで懐ろの中に入れた。そうすることで、おぬい婆さん は気がすむようだった。 し「なんといっても食があるんで、とり入れは越しますべ。 新しい米食って死ぬ気ずらか」 十月の中ごろのある夜、洪作はおぬい婆さんのためにそ とか、そんなことを言った。いかにもおぬい婆さんの死ばがきを作ってやった。そば粉を茶碗の中に入れ、熱い湯 を待っているような言い方なので、洪作はそれを聞くたびを少しずっその上にかけて行って、それを箸で掻き回し
ノ原の伯父伯母のところへ挨拶に行った。伯父の石守森之もよかった。そうでしようが。それがおぬい婆ちゃが亡く 進には長く会っていなかった。校長をやめてから、伯父は なったんで、やっとのことで門ノ原に伯父さんの家のある 湯ヶ島へ来ることなどはめったになかったので、顔を合わことを思い出し、それで今日来なさったんだと」 せるという機会はまったくなかった。洪作が石守家の古い 伯母は言ってから、ちょっと間をおいて、少し改まった いろりばた 農家ふうの土間へはいって行くと、伯父は囲炉裡端にすわ感じで、 っていて、すぐ洪作のほうへ目をやったが、別によく来た「ま、 をしよういらっしゃいました」 というようなことを口にするでもなく、相変わらず気むずと言った。皮肉たつぶりな前置きを言ってから、さてそ かしい顔で、 の上で挨拶をするといった感じで、そうした言い方には伯 「洪作は嘘字ばかり書いたが、最近は直ったか」 母独特のものがあった。この伯母はロが悪いので親戚の間 と言った。洪作は自分が嘘字を書いたような覚えはなかではあまり評判がよくなかったが、洪作はかえってそうし ったので、その言い方ははなはだ心外だったが、 た伯母に親身なものが感じられて好きだった。伯母の顔 「直りました」 は、ちょっと見ると鬼の面のようにこわく感じられた。し と言った。 かし、よく見ていると、伯母の顔は整っていた。目はきっ 「あれを直さんと試験には受かれん。お前のお父さんも、 かったが、澄んで涼しかったし、おはぐろの歯の見える小 さい口もともきりつとしていて、若いとぎは美しかったろ 若いときはよく嘘字を書いた」 伯父は言った。自分のことばかりでなく、父のことまでうと思われた。伯母が裏の畑に行っている間、洪作は伯父 非難されるので、洪作は内心はなはだおもしろくなかっと話していた。 た。囲炉裡端へ上がると、奥から歯を黒く染めた伯母が「洪作は将来何になる ? 」 やって来た。似た者夫婦というのか、伯母のほうも、別に「わかりません」 歓迎の言葉を口にするでもなく、しかし、このほうは笑顔「家は代々医者だから、医者にならなければなるまい。し で、 かし、お前は医者には向いていないかも知れん」 「洪ちゃ、よく門ノ原へ来る道を忘れなんだな」 伯父はそんなことを言った。 と言った。 「なんでも、自分のなりたいと思うものになるがいい。人 「洪ちやはおぬい婆ちゃがおれば、あとはたれがいなくて間の一生なんて、すぐ終わってしまう」
小母さんは聞いた。 「嫌いだ」 洪作は興奮していて、相手が口から出す食べものの名が 「オナメ ( 金山寺味噌 ) 」 よく理解できなかったので、なんでもみんな嫌いにしてし 洪作は答えた。 まおうとっていた。すると、 「オナメって、お味噌のオナメ ? 」 「うん」 「じゃ、おばちゃんが洪ちゃの好きなものを考えてあげま すると相手は白い歯を見せて、さもおかしそうに笑うしようね。いまにお連れが学校から帰って来るから、それ までお縁側で遊んでらっしゃい」 と相手は言った。洪作は言われたように、立ち上がると 「おご馳走では ? 」 と、また聞いた。 縁側へ出た。庭にはつつじの株がたくさんあって、どれも 「とろろ」 赤い花をつけていた。洪作はそこで小母さんから与えられ た絵本をめくっていた。そうしているとき、ふいに表ロの 洪作は答えた。 ほうから、 「じゃ、天ぶらは ? 」 「ただいま。 ただいま。 ただいまよ」 「そんなもの食べたことない」 きんきんした声が飛んで来た。 「うそおっしゃい。じゃ、おすしは ? 」 「ただいまったら、れいちゃ帰ったのよ。ただいま。た、 「洪ちゃ、嫌いだ」 「それは困ったわね。うなぎどんぶりは ? 」 だ、いま」 それから最後に、できるだけ大きく張り上げた声で、 「嫌いだ」 「天どんは ? 」 「嫌いだ」 そう叫ぶのが聞こえた。小母さんも女中もどこかへ行っ ているのか、家の内部からは応ずる声は聞こえなかった。 「ますます困っちまうわ。茶碗むしは ? 」 「嫌いだ」 するとあぎらめたらしく、もう″ただいま 4 という声は聞 こえないで、畳をばたばたさせて、足音だけが近づいて来 「おさしみは ? 」 こ 0 「嫌いだ」 洪作は自分より三つ四つ年少の、頭をおかつばにした少 「卵やきは ? 」 と、
れい子は言った。そしてほんとうに憎々しげに洪作を睨 女を、障子の間から見た。すると、相手も洪作の姿を目に とめて、いかにも驚いたように洪作のほうを見守っていたみつけた。洪作は驚いた。相手がこのような理由のないは げしい敵意を自分に持っていようとは、このときまで知ら が、やがて、 なかった。すると、このとき、もう一つの声が飛んで来 「あんた、だれ ? 」 た。やはり少女の声だった。 と、ロを尖らせて言った。洪作はすぐ相手がれい子とい う次女であることを知った。 確かにそう聞こえた。″ただいま″とは聞こえず、″ただ 「洪ちゃだ」 とだけ聞こえた。 洪作は言った ぞうきん 「たれかいないの ? 早くお雑巾頂戴よ」 「洪ちゃなんて子知らないわ。たれと来たの」 それからしばらくすると、 「ひとりだ」 「ようし、持って来ないな。このまま上がっちゃうぞ」 「どこから来たの ? 」 かばん それにつづいて大きな足音と鞄を引きずって来る音が聞 「湯ヶ島だ」 こえた。洪作はその少女の顔を見たとき、これが親戚中で すると、初めて少女は納得したといった表情になって、 手のつけられないわがまま娘で通っている長女の蘭子であ 「ああ田舎の子ね」 ろうと思った。蘭子はさっき妹のれい子がしたと同じよう と言った。そのませた口調が洪作には不快だった。 に、穴のあくほど洪作の顔を見守っていたが、ふいに目を 「田舎じゃないや」 「田舎でしよ。田舎でないの ? 湯ヶ島。そんなとこ聞い反らすと、まったく洪作を無視して、 たことないわ。草が生えていて、お墓のあるところよ。田「ああ、おなかが空いちゃった。お菓子食べようっと」 ま いかにも宣言でもするように言うと、戸棚から菓子折り 圃ばかりで、人なんて、少ししかいやあしない を取り出して、それを食卓の上に置いた。そして中から何 ばに、れいちゃ、行ったことあるわ」 しそれからくるりと背を向けると、台所のほうへはいってか取り出すと、それを口に運んだ。 行った。洪作は縁側から立ち上がり、彼もまた台所へはい この蘭子に対しても、洪作ははげしい敵意を覚えた。な んと小生意気ないやなやつだろうと思った。そうしている って行った。 ところへ、小母さんが帰って来た。彼女は蘭子の姿を見つ 「だめ、いやな子 ! 遊んでやらないよだ」 らんこ
うで、何よりのこってす。お母さんにも、お父さんにもよ たので、それまでに五六時間の時間しか残されていなかっ 3 ー ろしく言ってくだされ」 ぼくとっ 朴訥な顔をした老人は言った。 洪作は川で顔を洗うと、すぐ川の向こうの田圃へ出た。 あみち 畦道は固く凍りついていて、そこを歩いて行くと、ときお「うん」 ぞうり り、水溜りに張っている氷が草履の下で音を立てて砕け洪作は言った。大人からていねいに物を言われても、洪 た。陽は上って来たが、空気はつめたく、ロから吐く息は作はなんと答えていいかわからなかった。すると老人は、 白かった。遠くに真白く雪をかぶった富士が小さく見えて洪作の顔をしげしげと見守って、 いる。何年間か、毎日のように見て来た富士であるが、明「こんど、あんたが来なさるのは何年先のことやら・ー大 日からはもうこの富士を見ることができないと思うと、さ方、このわしはもう生きておらんでしよう。もう、坊に も、これで会えん。勉強してえらい人になんなされ」 すがに洪作にも多少の感慨があった。 洪作は田圃から酒屋の裏手へ出ると、そこから長野部落そう言うと、そのまま老人は歩いて行った。洪作は小さ ぶち いときは、よく村人から″坊と呼ばれたが、最近はこん へ通じている街道へと抜けて、そこをへい淵のほうへ歩い て行った。去年の夏から一度も歩いたことのない道であつな呼び方をされたことはなかった。老人はもうこれで会え のらぎ た。そこを二丁ほど歩いて行ったとき、野良着を着た老人ないと言ったが、そう言われてみれば、洪作もまたおそら くこの老人にはもう会うことはできないだろうという気が が向こうからやって来て、洪作の顔を見ると足を止めて、 した。そう思うと、せつかく別れの挨拶をしてくれた老人 「今日、お発ちかな」 に、自分が言葉らしい言葉を返さなかったことが悔やまれ と言った。洪作はこの老人が長野部落の老人であるとい こ 0 うことだけは知っていたが、・ とこの家のなんという名の老 人であるかはまったく知らなかった。年に一回か二回、ど洪作は何か一言老人に言葉をかけたくて、途中から引き こかで顔を合わせる老人であった。 返すと、老人のあとを追った。老人はゆっくりと、一歩一 「うん」 歩足を運んでいたので、洪作はすぐその老人に追いつくこ と、洪作が答えると、 とができた。 「あんたも、おぬいおばあさんを喪って、さそおカ落とし「おじいさんー」 てしたろう 0 で、も、これから町 からっしやるそ うしな そうに
へ来た。 外村の子供たちはひとりも使わなかった。しかし、洪作は おもや そしてその隣は″さどや。という屋号の農家で、母屋のおぬい婆さんから、戸外から帰って来たら必ずそういう言 ほかに牛小屋があって二頭の牛がいつも暗い中に鼻をう葉を口から出すように言い含められ、それに慣らされて来 ごめかしていた。そのさどやの前に、日傭仕事をしているていた。 ぶんきち 文吉という独身の四十男の住んでいる小さい家があった。 洪作はおぬい婆さんとふたりきりで、毎晩ランプの下で ぜん この文吉の家の隣が、部落ではいちばん庭らしい庭を持つおそいタ食の膳に向かった。 ぼう た洪作の家の屋敷になっているが、今は母屋のほうは東京「坊」 おぬい婆さんは洪作のことをこう呼んだ。 から来て村医をしている医者に貸し、屋敷の裏手の土蔵の ほうに、洪作とおぬい婆さんのふたりは住んでいた。母屋「上の家のほうへ今日は何度行ったかい」 の医者は夫婦者で子供がなかったので、家の中はいつもし「二度だ」 「あんまり行かんほうがええ」 んとしていた。医者ではあったが、患者はほとんどなかっ た。死にそうな病気にでもならぬ限り、部落の者はたれも おぬい婆さんは言った。夕食のとき、必ずふたりの間に 医者などには診てもらわなかった。 かわされる会話であった。洪作はそれに対していつもいし 洪作はそうした部落の旧道に沿った四五軒の家々からもかげんな返事をした。行かないことを約東するわけには行 れて来る明かりを横目に見ながら、自分の家の屋敷にはい かなかったからである。上の家の付近が、洪作ら少年たち 、母屋の脇を通って裏手の一段高くなったところに建ての遊び場の中心地で、一日に何度も水も飲みに行かなけれ られてある土蔵へと戻って行く。洪作が戻るころ、おぬい ばならなかったし、珍しいものでも作っていればそれも食 した 婆さんはたいてい、夏でも冬でも、土蔵の階下からもれてべに行かねばならなかった。 ばいるランプの光をたよりに、戸外で炊事をしていた。炊事「上の家へ行くと、あんまりええことはないぞ。大五の餓 こにく んといっても、老婆ひとり子供ひとりの生活なのでしごく簡鬼はほんとに小憎らしい。道で会っても知らん顔してけっ 単なはずだったが、・ とういうものか、夕食の支度はいつもかる。みつはみつで、前はほんに気前のええ子だったが、い し おそくなった。 まはみんなを見習うて、いっ会 0 てもふくれ 0 をしよる。 「ただいま」 おおかた、大人たちが悪いことを吹き込んでいるずらよ」 洪作は言った。″ただいまというような言葉は洪作以おぬい婆さんの言うことは決まっていた。洪作は三百六 ひやとい だいご