では信仰とも観音とも補陀落浄土とも無縁であった。結局渡海上人たちの顔に対して、また別の考え方をするように は信じると言える信じ方で、そうしたことを一度も信じた なった。これはかなり大きい変わり方であった。金光坊は、 ことはなかったのである。 そのどの一つの顔でもいいから、それに自分がなれるもの 二十一歳の光林坊と、十八歳の善光坊の二人は、静かなならなりたいと思うようになったのである。秋の初めまで 何とも言えず心の惹かれる渡海の仕方をしたが、しかし、 は、ともすればそうした顔のどれにでも容易になりそうな これとて信仰とは無縁なのだ。骨と皮だけになった痩せ衰自分を感じ、それに嫌厭を感じていたが、いまは反対にそ えた少年たちは、どんな大人たちよりも自分の生命というのどの一つにでも、なれるものならなりたかった。なりた ものにいさぎよく諦めをつけていたのである。 いと思ってから、容易になれると思ったことがいかに甘い 金光坊は自分の眼の前に現われて来るそうした幾つかの考えで、簡単なことではそれらのどの一つの顔にもなれる 顔を、それを見詰めている自分に気付くと、いつも大急ぎものではないということが判ったのであった。 でそれを追い払った。みんな惨めであった。自分はそのど金光坊は、いまや、自分の眼にも補陀落の浄土が見えて の一つの顔になるのも厭だと思った。それでいて、ともす来たら、どんなにいいだろうと思った。祐信や梵鶏の、常 ればそのどの一つの顔にでもなりそうであった。祐信や梵人のそれとは思われぬ青い光を発している眼も羨ましかっ 鶏の顔にも、正慶上人の顔にも、日誉の、清信の、光林の、た。清信上人のこれで漸く一人になれたという顔も羨まし 善光のそれそれの顔にも、少し心をゆるめれば立ちどころかったし、日誉上人の何ものかと闘っているような不機嫌 にしてなってしまいそうであった。 な、足一つ海水に浸したことでさっと変わるような顔も羨 金光坊としては、自分の知っている渡海上人たちの誰とましかった。正慶上人の静かで立派な顔は望んでも及ばな いことだったが、年若い二人の少年の顔さえも、自分など 記も別の顔をして渡海したかった。どのような顔であるか、 わか 海勿論、自分では見当がっかなかったが、もっと別の、一人の到底求めて及ばぬ遠いものに思えた。それにしても年稚 のこ、どうしてあのように静かな、しかし、諦めきった 落の信心深い僧侶としての、補陀落渡海者としての持つべきい冫 補顔がある筈であった。どうせ渡海するなら、自分だけはせ顔が持てたのであろうか。 めてそうした顔を持ちたいと思った。 金光坊は今や急に増えて来た訪問者たちと会わなければ 四しかし、十月の声も聞いて、渡海する日が僅か一カ月あならなかった。金光坊は誰がいかなる用件で来たか、その とに迫る頃になると、金光坊は、自分の眼に浮かんで来ることを考えることはできなかった。考えるゆとりもなけれ
すような、そんなばかなことがあっていいものだろう て、小使が教室を出て行くと、洪作とみつのふたりの名か。洪作は憎しみの気持をもってみつを睨みつけると、 を呼んで、ふたりともこれからすぐ家へ帰るように言っ 「死にそこないのおお婆ちゃが、やっとこさ死んだんず ら。それに決まっとる」 洪作もみつも、これまでにこのような取り扱いを受けたそう言って、みつから離れて歩き出した。洪作はいぎな ことはなかったので、何事が起こったのかと思った。曽祖り土蔵へ駆けて行く元気はなかったので、まず上の家へ行 母ちゃが死んだんずらとか、お裏の婆ちゃが死んだんずってみることにした。上の家の前にはだれの姿も見えなか らとか、生徒たちは口々に騒ぎだした。実際に生徒が授業ったが、表ロの戸を開けると、すぐこの家に変事が起こっ をやめて家へ帰る場合は、家のたれかが死んだときだけだていることが感じられた。何人かの近所の内儀さんたち った。したがって洪作も同級生たちが言うように、曽祖母が、なんとなくそこらをうろうろしていた。幸夫の母親 のおしな婆さんか、おぬい婆さんか、そのいずれかの人物が、洪作とみつの顔を見ると、 の急な変事が予想された。 「おお婆ちゃが死なさりかかっている。あんたたちも早く 洪作は教室を出ると、校門のところまで駆け、そこであ行って、婆ちゃにお別れしておいで」 とから来るみつを待った。みつもただごとでない顔をしそう言った。洪作はやつばり曽祖母だったと思った。お ふろしき て、教科書のはいった風呂敷包みを抱えて、洪作のところぬい婆ちやでなくてよかったと思った。洪作は吻として、 まで駆けて来たが、洪作にみつの顔が蒼く見えた。校門の急に心が晴れ晴れして来るのを感じた。 付近のいま萌え出そうとしている樹木の青葉が、みつの顔洪作はすぐ一一階へ上がって行った。二階には祖父の文 をそのように見せていたのかも知れなかった。 太、祖母のたね、さき子、それから親戚づき合いしている ば「おお婆ちゃが死んだんか」 何人かの男女の顔が見えた。みんな神妙な顔をして、蒲団 ば洪作が言うと、みつは首を大きく振って、 に横たわっているおしな婆さんの顔をのぞき込むようにし ろ「おお婆ちやは死んだりせんと。おぬい婆ちゃずら」 ていた。洪作とみつのふたりもおしな婆さんの枕もとにす と言った。みつの口からおぬい婆ちゃの名が出ると、洪わった。 作は自分の顔から血がひいてゆくのを感じた。そんなこと「ふたりとも、ようくおお婆ちゃの顔を見ときなさい」 があっていいだろうか。おぬい婆ちゃが自分の前から姿を祖母のたねが言った。洪作には八十歳を越えた曽祖母の おおば
顔はいつもと少しも変わらなく見えた。生でもその皺だの前とあとで、生と死というまるで違った状態の中に曽祖 らけの顔は、ひと握りほどの小ささになっていて、生きて母が置かれていることが信じられない気持だった。洪作 も階下へ降りて行ったが、刻一刻、家の内部は近所の人た いる人間の顔には見えず、置き物か何かのようであった。 ちで騒がしくなりつつあったので、すぐ洪作は上の家を出 「死んだ ? 」 洪作が聞くと、 洪作は土蔵へ行って、おしな婆さんの死をおぬい婆さん 「これさ、まあ」 に伝えるつもりだったが、おぬい婆さんの姿は見えなかっ と、祖母のたねはたしなめたが、 「まだだ。もうそろそろだろう」 た。上の家の台所のほうにでも行っていて、洪作がそのこ 文太のほうはそんな言い方をした。一座のたれも神妙なとに気づかなかったのかも知れなかった。洪作は、曽祖母 顔こそしておれ、少しも悲しんでいるふうには見えなかつの死によって、思いがけず何もすることのない時間の中に た。今か今かと、みんなおしな婆さんの息を引き取る瞬間自分が置かれたのを感じた。遊び仲間はみんなまだ学校で のやって来るのを待っているふうであった。十分ほど、洪授業を受けており、どこへ行っても仲間の姿は発見できな っこ 0 、カ子ー 作も黙ってそこにすわっていた。そしてそろそろ立ち上が 洪作は土蔵の石段に腰を降ろして、長いこと・ほんやりし りたくてたまらなくなったころ、親戚の小母さんのひとり ていた。上の家へ行けば大・せいの人が詰めかけていてにぎ が、突然、 おとな やかだったが、しかし、自分が大人たちのたれからも相手 「息を引きとりなされたようだ」 と、言った。その言葉でそれまで静まり返っていた一座にしてもらえないことはわかっていた。洪作は暑くも寒く の空気は少し動いた。祖父と祖母が替わる替わる顔を、曽もない五月の陽を浴びながら、退屈きわまる時間を持って いた。そうしているうちに、洪作は、もう一度曽祖母の顔 祖母の顔のところへ持って行ったり、腕の脈をとったりし を見て来ようかと思った。ほんとうに死んでいるか、どう ていたが、 か、もう一度自分の目で確かめたい気持に襲われた。 「お亡くなりなされた。大往生じゃった」 そうたねは宣言するように言った。何人かの人が座を立洪作はまた上の家へ出かけた。わずかの時間の間に、上 ちょうもん した の家は弔問客や手伝いの男女でごった返していた。洪作は って階下へ降りて行った。 こ 0 しわ こ 0 こ
かった。二三人の女がいっせいに横を向き、ひとりは舌をめいた。おぬい婆さんは両手を大ぎく泳がせて、すんでに 出した。上の家の祖母だけが、神さまのような心をまる出倒れるところを男の客の手にささえられた。 しにして、 洪作の耳には、子供たちの喚声が車輪の音といっしょに 「ほんとにな」 聞こえていた。大人たちの一団はみな手を振り、子供たちは A 」か 馬車とともに駆け出していた。先頭の幸夫の歯を食いしば たもと 「そうだとも、そうだとも」 っている顔が、すのこ橋の袂まで馬車のすぐうしろについ あいづち とか相槌を打って、おぬい婆さんの話の相手をしてい ていたが、そこで彼は馬車との競争を打ち切った。洪作の こ 0 目の中で、大人たちの姿は小さくなって行った。御者の六 六さんの吹く喇叭が鳴り響いた。洪作はあわてて第一番さんは、すのこ橋までの三十メートルほどの間、喇叭を吹 ためきち に馬車に乗り込んだ。それに続いて幸夫と為吉が乗り込んきながら馬にをくれたが、橋を渡り切ると喇叭を手から で来て、洪作の体をつつ突くと、すぐ御者台から降りた。離し、手綱をゆるめて馬の歩調をゆるくした。橋のところ 幸夫はそんなことを二三回繰り返したので、六さんに叱らから道は大きくカー・フを切っており、市山部落の茂みには れて頭を掻いた。 いるまで、見送りの人たちの姿は小さく見えた。 二度目の喇叭が鳴ると、三人の大人たちも乗り込んで来洪作はさっき見た幸夫の顔のように、自分の顔が歪むの た。さき子が窓の外から洪作に声をかけた。 を感じていた。何かわけのわからぬ感動が胸を押しつけて 「洪ちゃ。、、 しね、汽車に乗れて。うれしがって宿題やらおり、ともすれば何か大きな声を口から出しそうであっ なかったらだめよ。二学期には一番にならなければ」 た。洪作は馬車に揺られながら、見送りの人たちゃ、振り それを聞いたおぬい婆さんはちょっと表情を固くした返りながら戻って行く仲間の子供たちの姿から目を離さな かった。もはや祖母の顔も、さぎ子の顔も、みつの顔も、 ばが、さすがにこの場合は聞かんふりして、ヘらずロは叩か . んなかった。 幸夫の顔も見分けはつかなかった。小さい手が二三本上が ろ「じゃ、みなさん」 ったのを最後に、それらの人々の姿は洪作の視野から完全 そう言っておぬい婆さんは洪作の肩揚げのところをつかに消えた。馬車は早くも市山部落の真ん中を貫いている下 んで引っ張り、自分といっしょに並んで立たせた。それと田街道のゆるい傾斜を走っていた。 うしろ 同時に馬車は動き出したので、ふたりは反動で大きくよろ洪作は御者台のすぐ背後に席を取っていたので、馬のた ゆが
三十人ぐらいである。みんな同じような棒縞の着物を着、のとでは、七の家はまったくそこにたてこめている空気が わらぞうり 藁草履を履き、たくあんのはいった弁当箱か、梅干のはい違っていた。さき子ひとりがいることによって、薔薇の大 ったむすびを持ち、同じようにきたない顔とでこぼこの頭輪でも活かっているように、上の家は陽の当たらない奥の 部屋までが明るく華やかなものに感じられた。 を持っていた。 教師は教室の数と同じく八人いる。ひとりずつ一つの教さき子はほかの村の娘とは違って、沼津の女学校に行っ 室を受け持っている。先生たちはたいていすぐ生徒の頭をていただけあって、身に着けている雰囲気は都会的であっ た。三つ編みにしている髪形にしろ、着ている着物にし なぐったり、小突いたりするので、生徒たちは教室へはい ると、刑務所へでもはいったようにしんとした。いつも一ろ、ロのぎぎ方にしろ、そしてその歩き方までが当時の言 年を受け持っ先生がいちばんきびしかったので、一年坊主葉で言えば垢ぬけてハイカラであった。 あお 洪作はさき子がいるようになると、上の家へ日に何回も はたいていなぐられまいと緊張して顔を蒼くしていた。 一日の授業が終わると、子供たちは家へ荷物を投げ込ん行った。なんとなくさき子の傍へまといついていたい気持 で来て、集合場所へ集まる。上級生と下級生とで授業の時があった。しかし、おぬい婆さんはさき子が嫌いであっ 間が違うので、遊び場所には初め下級生の顔ばかりが見えた。 るが、しだいにそれに上級生が加わってふくれ上がって行「いやにしゃなしゃなした娘だ。いまにろくでもないこと く。そしてタ刻、しろばんばが舞う時刻まで遊び続けるわをしでかすずら」 けであった。 さぎ子の話が出ると、口癖のようにおぬい婆さんは言っ かたき た。おぬい婆さんはさき子を目の仇にしたが、よくしたも のでさき子のほうでもまたおぬい婆さんを嫌っていた。さ ば洪作が二年にな 0 た春、ムのではさき子が沼津の女学き子は道などでおぬい婆さんと顔を合わせても、子供の洪 校を卒業して、家へ帰って来た。洪作はさき子がもう沼津作にも感じられるほどみごとにおぬい婆さんを無視し、 ろの学校へは行かないで、ずっと村にいるようになることをささかも意に介さない態度を取った。おぬい婆さんのほう しぐさ あら 知って、なんとも言えず明るい楽しい気持がした。洪作はは、はっきりと敵意を露わにして、極端な仕種で顔を横に 上の家へ行くのが楽しくなった。今までも冬休みや夏休みそむけたが、さき子のほうは、顔などそむけないで、まっ たく普通な態度を取りながら、声もかけなければ挨拶もし にはさき子は必ず帰省していたが、さき子がいるといない こづ
と思うと、早くそれを目にしたい思いで、矢も盾もたまら気持に襲われた。まだ一度も会ったことのない嬰児に初め ぬ気持だった。ほんとうの明け方がやって来るころ、洪作て顔を合わせるには、まだこちらの心準備ができてないと はいっかまた眠りに落ちて行った。 いう気持だった。 「そんなことを言わないで、洪ちゃ、見てあげておくれよ」 洪作がさき子の産んだ男児の顔を見たのは、それから一 週間ほどの後だった。洪作はこの世に突然ひとりの赤ん坊祖母のたねは笑いながら言ったが、洪作は、 という小さな人間が生まれ出ることも不思議だったし、ど「見たくなんてないや」 そう言うほかはなかった。顔の表情も真剣であったし、 うしてさき子がそのようなものを産むような仕儀になった 口調も真剣だった。 のかも、考えてみると納得のしかねることだった。洪作は としゆき 嬰児の生まれた日とその翌日へかけて、何回か上の家へ出一週間目の、嬰児に俊之という名がついた日、洪作はお かけて行ったが、嬰児の泣き声らしいものをかすかに聞いぬい婆さんの使いで上の家へ行ったが、庭先から縁側へ回 ただけで、見たいという洪作の希望はいれられなかった。 って行ったとき、茶の間で嬰児を抱いているさき子とばっ 祖父も祖母も、そのほかの者たちもみんな、 たりと顔を合わせた。 「あっちへ行っていなさい」 「洪ちゃ」 と、同じ言葉を口から出して、洪作を追い出す態度をと さき子は言って、自分の抱いている嬰児を洪作のほうへ った。洪作には、上の家の者がみんな、嬰児が生まれたと差し出すようにした。洪作はおそるおそる小さな生き物の きから急に意地悪になったような気がした。 顔をのぞき込んだ。それは人間の子供とは思われぬ小さな 五日目に、洪作が学校から帰って上の家の前を通ったと肉の塊りでしかなかった。自分に話しかけて来るどころ き、洪作の姿を見かけた祖母のたねが、 か、生きているか、死んでいるかさえ、はっきりとは判ら ば「洪ちゃ、嬰児見るかい」 なかった。 と言った。 「なんだ、これ赤ん坊か」 し「見たくなんかないや」 洪作は言って、すぐ二三歩後退りした。長く見ているの 洪作は言った。あまり見せられなかったので、多少気持が不気味だった。 のねじ曲がったこともあったが、それよりいざ嬰児を見る「洪ちゃのいとこよ」 かと向こうから切り出されると、急に洪作は気恥ずかしい 「いやだい」 たて あとじさ
不安な思いにも駆られず眠りに落ちて行った。 中狩野村の医者の息子で、学校を卒業してから家でぶらぶ が、この夜は洪作は門ノ原から逃げ帰ったことで多少興らしていたが、教師の数が足りないからという役場からの 奮しているのか、なかなか寝つかれなかった。伯父の顔依頼で、一一年ほど前から代用教員として湯ヶ島の小学校に や、般若の面のような歯の黒い伯母の顔や、意地の悪い唐勤めていた。 平の顔などが目の先でちらちらした。 洪作も中川先生は好きであった。この若い先生にだけは 運動場などで平気ですがりついて行けた。 翌日、洪作が上の家へ行くと、祖母のたねが、 「洪ちゃ」 「洪ちゃ、逃げて来たんかい。せつかく泊まりに連れてつ若い先生は先生らしくない呼び方をして、いつもすがり てもらったのに。 門ノ原の伯父ちゃん、伯母ちゃんえついて行く洪作の体を両手で抱き取って、頭の上に高く差 らい災難なことだった」 し上げてくれたりした。こうしたことをするのは洪作の場 と、いつも困ったことが起きたとぎする悲しそうな顔を合ばかりでなく、どの生徒にも同様であった。だから生徒 まゆ して、眉をひそめて言った。祖父は祖父で、 っせいにいつも彼の たちはこの若い先生の姿を見ると、い 「黙って帰って来ちゃだめじゃないかい。しようのないや周囲に集まった。 つだ」 「中川先生がいらあ」 しっせき と、このほうは明らかに叱責の口調で言った。さき子だ洪作が言うと、さき子は初めて中川先生に気づいたふう けは多少異った言い方をした。彼女は洪作の顔を見ると、 「やったわね、洪ちゃ」 「あら、先生ー」 と言って、軽く睨む真似をして、さもおかしそうに笑っ と、はにかんだ表情をして、 「もう出てください。わたしがはいるんですから」 その日、洪作とみつはさき子に連れられて久しぶりで西と言った。 平の湯へ行った。西平の湯には五年受持ちの先生の中川 「よし、川へ行って泳いでこよう。その間にはいったらい 基がひとりではいっていた。中川基は東京の大学を卒業し ているということで、村からも生徒たちからも、特別の目中川基は言った。そして中川は洪作に、 で見られている二十八歳の若い代用教員であった。隣村の「洪ちゃ、女の人たちをここに置いて、泳ぎに行こう」 こ 0 ちが で、 い」
と言った。洪作がこちらに来ていることを、母の七重にに不快だった。 対して気兼ねしているふうであった。 洪作も一日に一回は土蔵へ顔を出した。おぬい婆さんは 洪作は言われるままに土蔵を出た。洪作にも、おぬい婆洪作の来るのを待っているらしく、いつも洪作の顔を見る と、 さんはもうそう長くは生きないのではないかと思われた。 洪作はしばらく庭を歩き回りながら、この世は憂きことが「今日は早かった」 多いというような試験問題の文章があったことを思い出とか、 し、実際に人生というものは憂きことが多いと思った。大「今日はきのうよりおそかった」 飼が狂ったことも憂きことであったし、おぬい婆さんに老とか、そんなことを言い、見舞いに貰ったものを、なん 衰がやって来つつあることもまた憂きことであるに違いなとかして少しでも洪作に食べさせようとした。洪作はおぬ かった。洪作は久しぶりで若くして他界した叔母のさき子い婆さんの枕もとでは何も食べる気にはならなかった。以 のことを思い出した。さき子の死もまた憂きことの一つで前、おぬい婆さんといっしょに土蔵で暮らしているとき あった。人生というものが複雑な物悲しい顔をしてその夜は、おぬい婆さんの差し出す物を、一度も不潔だと思った の洪作の前に現われて来た。 ことはなかったが、このごろは妙に手を出す気にはならな それからおぬい婆さんはずっと床に就いたままになっかった。 わずみ た。上の家の祖母と七重のふたりが、交替で毎日のように「洪ちゃが食べるまでは、鼠も遠慮して近寄らんといる。 何回も土蔵に顔を出した。近所の内儀さんたちも、朝に晩さ、食べなされ」 おぬい婆さんは言った。洪作は、 に土蔵へ見舞いに行った。近所の内儀さんたちは、土蔵か ら出ると、母屋のほうに顔を出し、 「あとで勉強しながら食べる」 と言って、おぬい婆さんの手から受け取ったものを紙に ば「まだ、まだ、あの分じゃ、今年中はもちますそ」 ま A 」か 包んで懐ろの中に入れた。そうすることで、おぬい婆さん は気がすむようだった。 し「なんといっても食があるんで、とり入れは越しますべ。 新しい米食って死ぬ気ずらか」 十月の中ごろのある夜、洪作はおぬい婆さんのためにそ とか、そんなことを言った。いかにもおぬい婆さんの死ばがきを作ってやった。そば粉を茶碗の中に入れ、熱い湯 を待っているような言い方なので、洪作はそれを聞くたびを少しずっその上にかけて行って、それを箸で掻き回し
を持っていたので、たいして気おくれしないで鳥居をくぐ「そんなこと言いっこないわ。洪ちゃって、嫌いよ、ずる って行った。六年生のあき子は下級生たちを監督している いから」 とい 0 たで、社殿の横手に立 0 ていた。洪作はあき子洪作としてははなはだ心外な言いがかりだと言わざるを が自分の姿を見つけたはずだと思ったが、いっこうにそ知得なかった。 らぬ顔をして、ほかの女生徒と話をしているのが不満に思 「ほんとうに先生から相談しろって言われたんだ」 われた。洪作はあき子のところへ行くと、 洪作は相手を睨みつけながら言った。すると、あき子も 「先生から聞いた ? 」 瞬間はげしい顔をした。洪作はこれまであき子がこのよう と言った。 な敵意をもったはげしい顔をするのを見たことはなかっ こ 0 「何を ? 」 あき子は初めて洪作のほうへ顔を向けて言った。 「じゃ、洪ちやは洪ちやで、書くことを先生に話したらい 「綴方のこと」 。わたしはわたしで先生に話すわ」 洪作が言うと、 それからあき子は、洪作のほうへきらりと光った目を当 「ああ、あれ、聞いた。ーー・何を書いてもいいんでしょ て、 う」 「そうでしよう。そんならいいでしよう」 と言った。 と言った。洪作はあき子の口から出る村の言葉とはまる 洪作は人から誤解されるということをあき子によって初 で違った言葉使いが眩しく感じられた。 めて経験した。自分の気持や自分が考えていることを、ど 「何を書く ? 」 うしても相手に理解してもらえず、そればかりか自分が相 洪作はまた聞いた。 「秘密よ。ずるいわ、洪ちゃって。 わたし、書いてし手に対して悪意を抱いているようにすら受け取られること の、なんとも言いようのない悲しさを味わった。 まうまで言わない」 洪作は、翌日登校すると、受持ちの教師に、自分が書こ そんなことをあき子は言った。 うと思っている綴方の題を知らせた。 「先生が相談しろって」 「あき子さんとふたりで先生に題を言いっこすることにし 「嘘 ! 」 しいたけ こういう題で書きます」 たんです。″祖父と椎茸″ 「嘘なものか。ほんとうにそう言ったんだ」
が、大ぎい力をもって働いていたことはめないようであには、そうした顔をした上人の気持は、そっくりそのまま った。しかし、渡海を決意してから渡海の日までの日誉上自分の気持ででもあるかのようにこちらに伝わって来た。 人はともかく立派であった。渡海上人の称号を貰ってから梵鶏上人は、祐信上人の場合と同じように、自分には補 急に気持がしゃんと立ち直った感じで、渡海の年の夏から陀落が見えるというようなことを時折ロ走っている人物だ 秋へかけては別人のように穏やかになった。他処目から見つた。渡海の時の年齢は四十二歳で、体は兵肥満で、裸 ている限りでは、上人の心の内部にはもはや生とか死とか になると土方人足のように頑健で、素行は概して粗暴であ そうした観念はいささかもないようであった。 った。金光坊は自分より十歳年少のこの僧侶が何となく虫 日誉上人は渡海の前日、自分の乗る舟を浜辺まで見に行が好かなかったが、梵鶏上人が渡海を発表した時は、妙に った。その時金光坊は供をして一緒に行ったが、上人は舟痛ましいものを感じた。渡海上人たちは概して繊弱な体格 を見た時だけ、少し不機嫌な顔をして、正慶上人の時もこを持った人物が多かったが、梵鶏上人は余りに大きく、渡 のように小さな舟だったかと言った。金光坊は前の上人の海の舟にも似つかわしくなく、補陀落の浄土にもまた無縁 の人のように見えた。 場合はもっと小さかったと答えた。 うっしみ みずぎわ 渡海の日、日誉上人は舟へ乗り移る際、水際から舟縁へ梵鶏上人ははっきりと現身のまま自分が補陀落へ行き着 渡してある板の橋を踏み外して、片脚を海水に浸した。こくものと信じていた。自分は死ぬのは厭だが、しかし、補 の時日誉上人は誰にもそれと判る顔色の変え方をして、何陀落山から招きを受けているから、自分がそこへ無事に行 ひじよう とも言えず厭な顔をした。金光坊はこの時の上人の顔ほどきつけることは必定である。補陀落山が自分の眼に見える 絶望的な顔を見たことはなかった。日誉上人は片脚を舟縁ということは、そこから招かれていることである。そんな にかけ、濡れた片脚を橋替わりの板に乗せて、暫くの間そことをくどくどと喋った。 のままそこに立っていた。そしてやがて思い諦めたかのよ みんなそうした梵鶏上人の言葉に対して、彼の満足する うに舟にはいった。五人の同行者の話では、日誉上人はそような返事は与えなかったが、日誉上人のあとを受けて住 れから綱切島を出るまでたれとも一言も口をきかなかった職になっている清信上人だけは、いつもその通りだろうと そうである。 優しく穏やかに答えていた。 金光坊は日誉上人の顔を、その時から二十年経った現在その清信上人もまた、五年前の六十一歳の時渡海した もはっきりと眼に浮かべることができた。そして厭なことが、金光坊は清信上人の渡海には、それまでのなにびとの よそめ ふなべり ぼんけい