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検索対象: 現代日本の文学 34 井上靖集
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1. 現代日本の文学 34 井上靖集

148 かった。四五本の桜が満開の花をつけ、ときおり競馬らしらに」 いものが行なわれさえすればそれで充分だった。 そんなことを言う老人もあった。そんな清さんについて 紺屋の次男の清さんの馬が駆けるときは、洪作も幸夫もの賞讃の言葉を聞くために、洪作たちは大人たちの酒盛り 緊張した。大見部落の左官屋の辰さんの馬と競争するとい の場を、次から次へと回って歩いた。 うことなので、洪作たちは清さんを応援するために、人々洪作たちはそうしたことに飽きると、あとは辛抱強く次 の余り集まっていない馬場の北側に席を取り、そこで頑張のレースが行なわれるのを待った。そして次に出走するこ ることにした。 とになっている騎手の傍ばかりにくつついていた。騎手は いちばんむずかしいとされているスタートは、このレー コールテンのしゃれたズボンをびったり身に着け、皮の鞭 スでは成功した。二頭の馬は同時にスタートを切って、並を手にして、いまにも出場しそうな恰好をしていたが、し んで駆け出した。しかし、間もなくどういうものか辰さんかし、幾つかの宴席を回ってはそこここで酒を飲んでいて、 ばけいじよう の馬はふいに駆けるのをやめて立ち止まり、天にでも駆けなかなか馬繋場のほうへ出かけて行かなかった。そうして 上るように、後脚で立って、前脚で宙を掻いた。そのため いるとき、洪作の傍に温泉宿の女中をしている娘が近寄っ に、たちまちにして辰さんは落馬した。どっと喚声は沸きて来て、 起こり、大ぜいの人が宴席を離れて、辰さんの倒れている「洪ちゃ、さき子さんが嬰児産みかけているって、ほんと ほうへ走って行った。しかし、辰さんが怪我もせず起き上うか ? 」 がったのを見ると、みんないっせいに、なんだつまらない と聞いた。 と言った顔をして、またそろそろと自分の席のほうへ戻っ「嬰児 ? 」 こ 0 洪作は相手の言った言葉の意味が、よく理解できなかっ こ 0 そうしている間に、紺屋の清さんは自分だけで馬場を一 周し、それで足りないのかもう一周馬を駆けさせた。清さ「知らん」 んの姿は、洪作の目には立派に見えた。平生は道楽者だと 洪作は首を振り、すぐ、 か、怠け者だとか、悪口を言っている大人たちも、この日「さき子姉ちゃ、嬰児、産むんか」 ばかりは清さんを褒めた。 と逆に聞き返した。 「本物の騎手になったら清のやつは日本一の騎手になるず「今朝方、産みかけたって言うじゃないか。洪ちゃ、知ら

2. 現代日本の文学 34 井上靖集

もへカ ふすま 「おら、行きたくない」 ないことに気づいた。襖を開けてみると、おぬい婆さんも 洪作が言うと、 若い女の訪問者の姿もなかった。洪作はすぐ階段を駆け降 「洪ちゃがいやなら、ばあちゃが行って来てやる」 りた。暗い階下にはおぬい婆さんの姿はなかった。 と、おぬい婆さんは言った。 洪作は藁草履を足にひっかけると、すぐ戸外へ出た。月 「ばあちゃに来いなんて言わなかった」 光があたりを昼間のように明るくし、樹木の影だけがイン 洪作が言うと、 キを流したように黒かった。洪作は街道を駆けて、上の家 「ばあちゃのことは言わんでも、洪ちゃの替わりに行ってへ行ってみた。 貰って来てやる」 「ばあちゃ、来なかった ? 」 「そんなことしたらみつともない」 一枚だけ戸の開いている戸口で声をかけると、 「何がみつともないことあるもんか。取りに来いというの 「いま、出て行きなされた。所長さんの家へ行くと言って に行かんてはない」 じゃった。洪ちゃ、そこで会わなかったか」 おぬい婆さんは言った。 祖母の声が奥から聞こえて来た。洪作はすぐ戸口を離れ 夕食が終わってから、おぬい婆さんは階下で食器をかた ると、御料局の裏門のあるほうへと走った。裏門まで行 づけていたが、洪作はおぬい婆さんがもし所長さんの家へき、そこをくぐると、広場を横切って官舎のあるほうへ歩 出かけて行くようなことがあったら、絶対にそれをとめな いて行く人影が見えた。おぬい婆さんに違いなかった。背 ければならぬと思っていた。が、そのうちに洪作とも血のを屈め、五六歩歩いては立ち止まって背を伸ばす、ひどく 繋っている酒造家の嫁さんが何か用事でやって来て、二階間延びした歩き方なので、歩いているというより動いてい ばでおぬい婆さんと話をし出したので、洪作はおぬい婆さんる感じだった。洪作はおぬい婆さんに追いつくと、背後か ばを監視する気持を解いた。夜になってしまえば、いくらおら、 ぬい婆さんでも所長さんの家を訪問することはあるまいと「ばあちゃ」 し 思われた。 と声をかけた。おぬい婆さんはゆっくり振り返った。白 しわ 洪作は奥の部屋で机に向かっていた。明日学校が始まる髪が月光を浴びて銀色に光っており、顔の皺も昼間より深 ので、宿題をやってしまわなければならなかった。洪作はく刻まれていて、老婆というより、媼といった感じだっ つなが

3. 現代日本の文学 34 井上靖集

集まる青年たちも農村の若者であり、連れて来る馬も平生出して行った。長野部落までいっきに駆け、それからその こくし 農耕に使っている馬であった。竸馬そのものは、一時間に部落を抜けると、国士峠へ向かって走りづめに走った。少 すなぼこり 一回ぐらいの割で三四頭の馬が馬場を駆けるすこぶるの年たちの列は背後に砂埃を上げながら街道を走ったり、山 いかだ んびりしたものであったが、それを見るために集まる人はの斜面の間道を伝ったりして、ひたすら馬飛ばしのある筏 おびただしい数に上った。人々は競馬場のいたるところに、場を目ざした。子供たちは必死だった。一刻も早く行かな 筵を敷いて宴席を張り、桜を見たり、馬を見たりしなが いと、待ちに待った馬飛ばしが終わってしまいそうな不安 ら、春の一日を楽しんだ。おでんやしんこ饅頭などを売る が、絶えず彼らを襲っていた。 小屋もできた。食べものの店は農村の女たちの内職で、た 洪作たちは国土峠まで休まず駆け、峠へ登り着いたと いてい毎年同じ顔ぶれが店を張った。大人たちにも楽し いき、その峠付近の山の斜面を埋める茅の原へ身を埋めて休 一日に違いなかったが、これは子供たちにとっても楽しい んだ。この付近は茅がいつばい生い繁っているので、普通 一日であった。ある意味では、子供たちには馬飛ばしは、 村人たちからは茅場という名で呼ばれていた。茅は一、二 お盆や正月よりも、もっと大きい継力を持っていた。 尺の長さに伸びているところもあれば、正月の山焼きです 洪作たちは三月ごろから、馬飛ばしの話ばかりした。紺つかり焼かれて黒い焼け跡を見せているところもあった。 屋の次男の清さんという若者が、毎年この村から馬を引い丈の伸びているところは、遠くから見ると銀灰色に光っ て行った。子供たちは三月の終わりになると、紺屋の前ばて、象の皮膚のように見えた。 かりに集まり、街道を駆けるときも、馬に乗ってでもいる洪作たちは茅の中へすっかり体を埋めて、長く駆け続け たことで荒くなっている息使いを調整しようとしていた。 ように、体に調子をつけて手綱を取るをして走 0 た。 馬飛ばしの当日、子供たちは朝家を出るとき、よそ行き息使いはなかなか静まらなかった。そこからは伊豆の山々 の着物を着、小使銭を帯に巻きつけ、学校の授業が終わるが重なり合ってひろがっているのが見渡せた。よくもこん ばと、すぐ竸馬場へ駆けつけられるように用意して家を出なにたくさんの山があるものだと思うほど、山は無数に重 」た。学校もその日は特別で、午前中二時間だけ授業をや 0 なり合い、その果ては霞んでいた。そしてそうした山なみ て、あとは休みになるのが慣例になっていた。 の果てに、頂だけに雪をのせた富士が、青い姿を中空に浮 菊その日、洪作たち湯ヶ島部落の少年たちは、授業が終わか・ヘていた。置物のような小さい富士だった。息が静まる ると、校庭の一隅に集まり、すぐ遠い競馬場へ向けて駆けと、幸夫が、 むしろ こう かや

4. 現代日本の文学 34 井上靖集

おおけさ した気持を味わった。祝言すると同時に、さき子はいなく豊橋の両親の代理というのもなんとなく大袈裟であった なってしまうのだと思い込んでいたが、祝言がもうすんでし、またそのような問題に声をかけられるほど成長もして しまったというのに、し 、つこうにさき子の周辺には変わっ いなかった。上の家へ行くと、文太やたねにとっては、洪 たことは起こっていなかった。そのことが、洪作を安心も作は単なる孫にしか過ぎず、孫以外の何ものでもなかっ させ、また拍子抜けした気持にもさせた。 中川基は三学期が始まる前日、荷物を馬車に乗せて、新中川基がいなくなると、村人は以前ほどさき子の噂をし しい赴任地へと出発して行った。洪作は中川がさき子を奪なくなった。噂をしても、以前ほど悪意のこもったもので って行かないということで、再び彼に好意を持っていた。 はなくなった。たとえ内輪の真似事であっても、さき子と 洪作は幸夫や芳衛や亀男や茂たちといっしょに、駐車場ま中川が祝言を挙げたということは、一応村人たちを納得さ で中川を送った。上の家では祖母のたねのほかに大五とみせ、彼らの好奇心を静めたらしかった。ただこのころにな つが駐車場に姿を現わした。しかし、近所の者はたれも送って子供たちはうたい出した。さき子と中川ちやかちやか らなかった。洪作が、その夜、中川基を駐車場まで送ったちゃ、祝言挙げてちやかちやかちゃ。その唄を聞くと、洪 ことをおぬい婆さんに告げると、 作はなんとなく気恥ずかしく、そうした唄をうたう子供た 「婆ちゃも、近所の衆も、みんな知っていたが、知らんこちを憎んだ。 とにして送らなかったのさ。祝言の披露もせんに、まさか 五章 聟さんやと声もかけられんからな」 この場合に限らず、さき子と中川の祝言問題では、おぬ正月のあとの子供たちの楽しみは四月の馬飛ばしであっ い婆さんはひどく腹を立てていた。たとえ内輪で祝言の真た。長野部落の向こうにある小さい峠を越えると、隣村の かみおおみ 似事をするにしても、自分はともかくとして洪作には出席上大見部落になるが、その上大見部落にはいったところに いか ~ ば を乞うべきはずであるという考えであった。 ある小さい平坦地の筏場で、毎年四月の桜の花の時期に、 「洪ちやは豊橋の父ちやや母ちゃの代理じゃ。洪ちゃに声草競馬が行なわれる慣わしだった。村では大人たちも子供 をかけんという法はあるまい」 たちも、競馬とは言わないで、馬飛ばしという言い方をし おぬい婆さんはその話に触れるたびに息まいたが、そのた。その日近郷十個村ほどの青年たちは馬を持って筏場に 婆ちゃの考え方には洪作自身びんと来ないものがあった。集まり、そこで小さい馬場に馬を駆けさせる技を竸った。 むこ こ 0

5. 現代日本の文学 34 井上靖集

136 学 このころから駆けるのをやめて道端に屈み込んだり、 中川基の「用意ー」という声が、語尾を長く引いて、洪 作の五体に滲み渡った。洪作は涙ぐましい気持になってい校のほうへ戻り出したりする生徒が何人か出始めた。洪作 た。遠い未知の国へ遠征の途に上る者の気持であった。はと幸夫は駆けた。へい淵の曲がり角を通過し、長野部落へ るかな行く手には見知らぬ山や川があった。幾つもの山を通じる坂を上った。 いっか横腹の痛みは感じなくなっていた。洪作はさき子 攀じ、幾つもの川を渡らなければならなかった。苦難は満 ち溢れていた。よし、行こう。あらゆる苦しいものに耐えから貰ったカミー ルが利ぎ出したと思った。そう思うと、 て行こう。洪作は眉を上げて、人で詰まっている観覧席の急に足が軽くなり、いつまでも駆けることができそうな気 がした。カミー ルを呑んでいない幸夫はしだいに弱り出し ほうを見た。そのとき合図の笛が鳴った。生徒たちはいっ せいに飛び出した。 た。 洪作は幸夫のあとについて走った。洪作は何も見なかつ「洪ちゃ、おらやめる ! やめようや」 た。いっ父兄席の前を通り、アーチをくぐり、 街道へ出た幸夫は言って、何回も足を止めかけたが、洪作が然って か知らなかった。横腹の痛みは早くもはげしくなりつつあ駆けているので、しかたなしに彼もまた駆け続けた。しか った。上の家の横を一団となって駆けているとき、洪作はし、長野部落の入り口まで来たところで幸夫はいきなり道 祖父の文太が道端に立っているのを見ると、文太のところの真ん中に屈み込んでしまった。 らくごしゃ へ駆け寄り、 洪作は幸夫を残して駆けた。落伍者は急速にふえつつあ 「おなかが痛くなったー」 った。みんな駆けている洪作のほうを見送って、道端から と訴えた。 声援を送った。二年生もあれば三年生もあった。洪作はひ 「腹が痛くなった腹の痛いのなどは、駆けていれば直とりふたりと前を走って行く生徒を追い抜いて行った。ひ / カ利いていると君った。折 とり追い越すたびに、カ る」 にがむし 文太はいつもの苦虫を噛みつぶしたような顔で冷たく言り返し点の椎の木の近くまで行くと、洪作はすでに折り返 った。しかたないので洪作はまた駆け出した。幸夫との距して来た生徒とぶつかった。いちばん先に走って来たの 離は開いたが、すぐまた追いついた。酒屋と呼んでいる芳は、新田部落の芳平という小柄な二年生だった。彼は洪作 衛の家の横を通り越した。芳衛はしんがりでも駆けているとぶつかると、ちょっと足をとめ、 のか、洪作の前後には姿を見せていなかった。 「長距離の一等は鉛筆何本だっけ」

6. 現代日本の文学 34 井上靖集

134 分の席を離れて、おぬい婆さんのいる近くまで行き、そし「お裏の洪ちやはいるかや、お裏の洪ちやはいるかや」 てまた帰って来た。近くまでは行ったが、決してその場所と言いながら、生徒席の前を歩き出した。 へ姿を見せることはなかった。おぬい婆さんとも、祖母と洪作はすっかり恥ずかしくなっていた。穴があったらは も、大三とも、どういうものか、この日は話をするのは恥 いりたい気持だった。洪作はしかたないので、恥ずかしい ずかしかった。 のを我慢して、縄をまたいでおぬい婆さんのところへ駆け 一部が終わって二部が始まるまでの間に、生徒たちは昼寄って行った。 むしろ 食を食べた。父兄席でも、みんなすわっている筵の上に弁「洪ちゃ、たまご」 おぬい婆さんは言った。 当を開いた。洪作は弁当の海苔巻きを食・ヘているとき、父 兄席のほうから運動場を横切って、こちらにやって来るお「洪ちゃ、卵なんていらん」 ぬい婆さんの姿を見た。おぬい婆さんはゆで卵を洪作のと「いらんことがあろうかさ」 ころへ届けるためにやって来たのであったが、途中で教員「早く向こうへ行ってー運動場へはいってはいけないじ のひとりにメガホンで声をかけられた。 ゃないか」 「おばあさん、そこを歩いてはいけません」 「なんの、かまうことがある・ヘえか。ちゃんと税金払って 教員の声は大きく聞こえたので、どっと笑声が起こつる」 た。洪作はおぬい婆さんが足を止め、あたりを見回し、そ おぬい婆さんはまた運動場を横切って自分の席のほうへ れからまたこちらに少し腰を曲げて歩き出して来るのを見歩いて行った。こんどはそれをとめる教員の声は聞こえな こ 0 かった。おぬい婆さんの姿が運動場を横切ってしまうまで 洪作は小さくなっていた。ゆで卵を食べるどころではなか 「運動場を歩かないで、父兄席の裏を回ってください」 また教員の声がメガホンにのって聞こえた。おぬい婆さった。 二部が始まると、青年たちの楽隊が太鼓を鳴らし出し んは再び立ち止まったが、こんどはロに手を持って行っ て、何か叫んだ。もちろんその声は聞こえなかった。おぬた。急に会場は浮き浮きし、軍艦マーチの曲に乗って、競 い婆さんはまたのこのこ歩き出した。そしてとうとう運動技はにぎやかに開始された。生徒たちが走ったり、父兄や 場を突っ切ってしまうと、生徒の陣取っている席のほうへ青年たちが走ったりした。ときには内儀さんたちばかりが 綱引きをやったりした。洪作は何種かの競技へ出たが、い やって来て、 なわ

7. 現代日本の文学 34 井上靖集

「坊、なんでこんなところにいた ? 」 ない。湯ヶ島にも帰れないだろう。そんなことになったら 女は聞いたが、洪作自身にもどうしてこんな田圃の真ん大変である。 中まで来てしまったか見当がっかなかったので、返事がで洪作はどうしても逃げなければならぬと思った。そして きなかった。そのとき、 自分を連れて来た男女がひと固まりになって、通行人のひ 「うわっー」 とりに交番のあり場所を聞いているとき、洪作はするする という声といっしょに、女は洪作の背をカまかせに叩い と路地にはいり、はいったばかりのところからすぐ右のほ た。瞬間前にのめろうとする洪作の体は、女の他の腕でさうへ曲がった。こんどは細い道がどこまでも続いていた。 さえられた。 洪作は足の向いているほうへ夢中で駆けた。交番につかま 「こんどこそ、コンチャン堕ちたやろ」 っては大変だという気持だけが、今の洪作を支配してい 女は洪作にではなく、ほかの男女に向かって言った。洪こ。 作はしかし、いつまた背中をどやされないものでもないの道はいっかまた広くなっていた。が、こんどは一軒の商 で、提灯の光に足もとを照らされながら用心して歩いた。店も見当たらず、普通の住宅だけが並んでいた。ガス燈は 一団の男女たちは、狐に騙されるとこんな遠方まで歩くも消えていたので、あたりは暗く、通行人もほとんどなかっ のかといったような話を、がやがや話し合っていた。実際た。洪作はそのころからまた、思い出しでもしたように低 田圃の中の畦道はいくら歩いても尽きなかった。洪作は自く泣き声を出しながら歩いた。口からは泣き声を出し、鼻 分でもこんなに遠くまで歩いて来たことが不思議に思われは鼻汁をすすり、まったく機械的に足を動かしていた。洪 作はそれからいろいろなところを歩いた。木柵があって、 ようやくにして商店の並んでいる一画へはいったときその向こうに二頭の馬がいて裸の男たちが馬体を洗ってい ばは、洪作は歩き疲れて、足は棒のようになっていた。町へるところも通った。それからまた神社の前も通った。社務 ばはいってから、洪作はこの一団から逃げ出さなければなら所のようなところで、二三十人の男たちが酒盛りをしてい しぬと思った。男女が口々に交番という言葉を口から出してるのが、幻燈の中のひとこまのように見えた。 いたので、洪作は自分が交番へ連れて行かれるであろうこ それからだらだら坂を上ったり、そこを下ったりした。 とにうすうす感づいていた。交番へ連れて行かれたら、も途中で二三回通行人から声をかけられたが、洪作は一切受 うおぬい婆さんにも、母の七重にも二度と会えないに違いけつけなかった。自分に声をかける者はーみんな交番に連 こ 0

8. 現代日本の文学 34 井上靖集

「兼さん、千本浜へみんなを連れてっておあげ。自転車をのを見る思いで、ふたりの姉妹から目を離さないでいた。 持ってっていいから、喧嘩しないようにかわりばんこに乗頬を打たれたれい子は憎しみの表情で姉を睨みつけていた せるんですよ」 が、目には一滴の涙も見せていなかった。それに反して蘭 そう小母さんは言った。兼さんはすぐ戸外へ出て行っ子のほうは目に涙をいつばいためていて、やがてうわっと た。蘭子とれい子は、その兼さんを追うように先を争って大声で泣き出した。れい子は姉が泣き出すと、これでわた 土間へ駆け降り、それから戸外へと走り出た。 しが勝ったのだといったふうに母親のほうににやっと笑っ 洪作が小母さんに送られて道路へ出たとき、兼さんが引てみせた。明らかに喧嘩はれい子の勝ちであった。れい子 ぎ出した自転車の回りで、蘭子とれい子ははげしく言い争は泣き喚いている蘭子を横目で見ながら、 っていた。自転車のうしろの荷物を載せる台に、それそれ「兼さん、何を・ほや・ほやしてるのよ。のつけてって言った 自分が先に乗ろうとして諾かなかった。 ら、のつけてちょうだいよ」 「これ、これ」 と、兼さんをきめつけた。兼さんはれい子を荷物の台へ きやしゃ 小母さんは遠くのほうから華奢な手を振ったが、それはのせると、すぐ自転車を引き出した。洪作は泣いている蘭 洪作の目にもなんの効果もない無力なものに見えた。 子のほうへ、 「打っそ。蘭ちゃが打っと言ったら、ほんとに打っそ」 「行かないの ? 」 と声をかけてやった。すると、蘭子は泣くのを中止して 蘭子がそんなことを喚いたと思ったら、それと同時にば ちんという音がした。その言葉どおりほんとうに蘭子は右濡れた顔のままで、 「行くわよ。次は蘭ちゃが乗る番よ。その次はれい子、そ 手で、妹のれい子の頬を打ったのであった。 れからまた蘭ちゃ、そしてれい子」 「これ、これ」 そんな憎まれ口を叩いた。洪作は自転車などに乗ってや 小母さんはまた手を振った。しかし、小母さんは子供た ばちの喧嘩に慣れているのか、たいして動じているふうにはるものかと思った。洪作は兼さんの引っ張って行く自転車 し見えなかった。ただ遠くから、これ、これと言うだけであのあとから、蘭子といっしょについて行った。道の両側に っこ 0 は店舗がぎっしり並んでいて、通行人も多かった。洪作は 二度目に、ばちんと言う音が響いた。蘭子がまたれい子きれいな着物を着たふたりの少女と自分がいっしょに行動 の頬を打ったのであったが、このとき、洪作は不思議なもしているということで、ひどく気恥ずかしいものを感じて わめ

9. 現代日本の文学 34 井上靖集

家の茂りを、それを取り巻く樹々を、白い街道を、そして「これは、これは、お帰んなさいまし。遠いところを、よ りようせん く、まあーーーー」 天城の稜線を。 と、外国からの帰国者でも迎えるようなことを言った。 「うわあっ ! 」 洪作は叫んで立ち上がった。おぬい婆さんが何か言った駆けつけた近所の人たちも、久しぶりで会うためか、ひど が、洪作の耳はそれを受けつけなかった。馬車はすのこ橋くていねいな言葉で挨拶を取りかわした。お変わりなくて を渡り、駐車場目がけて最後の坂を駆け上がった。荷物が何よりですとか、これからもまたよろしくお願いしますと 二つ三つ座席から転がり落ちた。六さんは喇叭を高く高くか、初対面の人に対するようなことを言い、それから例外 っせいに風がはいって来た。豊橋では想なくみんな、おぬい婆さんの足もとの荷物のほうをじろじ 吹ぎ鳴らした。い ろと見回した。おぬい婆さんのほうは豊橋へ行って来たこ 像もできないひんやりとした清澄な秋ロの風であった。 とで、位でも一段上がったかのように、 駐車場に着いたとき、洪作は真っ先に馬車から降りた。 桜の木の根もとに部落の子供たちが四五人固まって、こち「お前さん方も丈夫でけっこうじゃ。村には変わったこと らをねめつけているほか、たれの姿も見られなかった。まはなかったろうね」 おうへい と、なんとなく横柄な口をきいた。 だ学校へ上がらぬ子供たちであった。しかし、洪作はいま かじゃ ふたご の六さんの喇叭の響きで馬車の到着を知ったらしく、旧道「鍜冶屋の嫁っこが双生児を生みましたじゃ」 の坂道を何人かの大人たちが駆けて来つつあるのを見た。 ひとりが言うと、 あき 近所の吁儀さんたちが何人か、火事場にでも駆けつけるよ「あれ、まあ、呆れた」 おおげさ うに、大あわてにあわてて坂を駆け降りて来つつあるので おぬい婆さんは、豊橋では決して見せなかった大袈裟に あった。洪作は家のほうへ駆けて行きたかったが、 驚いてみせる表情を作って、 ば「洪ちゃ、待ちな」 「しようもない嫁じゃ。あのあまっ子は、いっか、わしに ばそうおぬい婆さんに言われて、そこに立っていた。おぬ憎まれ口をききおったー天罰というものはおそろしいも しい婆さんは六さんの手で荷物を地面へ降ろしてもらうと、 「それから酒屋の犬が役場の小使いの武さんを咬みまして その傍に立ったまま、出迎えの人たちの到着するのを待っ 四た。 ほかのひとりが言うと、 の家の祖母が息をはあはあ粥ませてや 0 て来ると、 らつば

10. 現代日本の文学 34 井上靖集

146 いる者もあった。食べ物を売る小屋がけが三つ四つできて 「よし、駆け出すぞ」 と、大きな声を出して叫んだ。その声で、十人ほどの子いて、その小屋のまわりに何本かの桜の木が植わってお 供たちはいっせいに立ち上がった。横腹を押えながら立ちり、ちょうど満開の花を咲かせている。 上がった者もあった。そうした者は腹が痛いらしかった洪作たちは道から馬場へ下り、人々の群がっている場所 が、馬飛ばしのためには、腹が痛いなどと言ってはいられへはいって行くと、もうだれも口をきかなかった。見るも ないという顔つきだった。田圃から飛び出すいなごのようのがあまりにもたくさんあったので、ロをきく余裕はなか に、少年たちは茅の原から飛び出し、再び道路の上に降りった。それでもなんとなくひと固まりになって、同じよう 立っと、そこから下りになっている道を筏場のほうへ駆けに人々の間を移動して行った。 「こんにやく ! 」 峠から一丁ほど駆けたとぎ、洪作は遠くから聞こえて来おでんの小屋がけの前まで行ったとき、幸夫がとんきょ そうじよう る馬飛ばしの騒擾を耳にした。人々のうわあっというざわうな声を口から出した。そして、みんなのほうへ顔を向け めきが、遠く、低く、しかし力のこもった潮騒か何かの音た。こんにやくを買って食べようかという提案であった。 おおなペ だれも返事をしなかった。目の前の大鍋に湯気を立ててこ のようなものとして聞こえて来た。 いま馬が駆け出したに違いないと洪作は思った。馬が駆んにやくが煮られているのを見ると、子供たちは喉から手 けたので、観衆はどよめきを上げたのである。そう思うが出そうなほど欲しかったが、だれの心の中にも、まだも っといいものがあるかも知れないという気持があった。 と、峠で休んだばかりに大変なものを見落としてしまった ような気がして、それからはスビードを早めて無我夢中で「おらあ、こんにやく買う」 駆けた。ほかの子供たちも同じ気持らしく、みんないっせ幸夫はこんど宣告するような口調で言って、一同の顔を 見回してから、 いにまわりの仲間のことは考えず、自分だけで駆けた。 やがて競馬場が目にはいって来た。峠から続いている坂「おばあ、こんにやく」 と、そこの店の主人である老婆のほうへ声をかけた。 小さい平地があり、そこ 道が台地へ下りきったところに、 に何百人かの人々が動いているのが見えた。人々はひとり「あいよ」 老婆は長い串のまま、その先端に刺してある三角型のこ 残らず馬場の真ん中の空地に集まっていて、そこで酒盛り をやっている者もあれば、宴席と宴席との間を歩き回ってんにやくを鍋から取り出すと、味噌のはいっているどんぶ こ 0 しおさい