行っ - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 35 三島由紀夫集
383件見つかりました。

1. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

・ : 煙草が尽きた。彼はさっきの鳥影を探して窓に凭っ嗟に固くなった心でうけとったのだ。 炻た。奥野荘の方角には、楓林がつづいて、道の上にさやい でいる木洩れ日が見え、その道を来る人は一人もいない。 次のような考えが、瀬山が階下でぐずぐずしてから昇の このとき、聴き馴れたランドローヴァーの音が近づ 部屋へ上ってくるまでの五六分のあいだに、纏め上げられ た。音は奥野荘へゆく道からではない。ずっと右方の、 たものだということは、言っておく必要がある。 町から来る喜多川そいの自動車道で、音が対岸の山々に反瀬山のあの妙な逡巡、首をめぐらす陰気な鈍い動作、昇 響して、可成遠くからきこえるのである。 の部屋を見上げたときのあの上目づかい : 瀬山だと思うと、昇はなっかしく感じた。彼の今の単純昇にはすべてが、突然明瞭にわかった。菊池に顕子の居 どころを教えたのは、他ならぬ瀬山だったのである。 なたのしさに、瀬山の単純さはきっとよく似合うだろう。 な・せ瀬山が菊池を知ったのかと昇が考えると、例の越冬 現われたランドローヴァーは、草地の只中の道をたどっ て、宿舎の前へ着き、案の定、片手に脱いだ上着をかけ、中の告白の際、瀬山が顕子の封筒にあった住所を口のなか で呟いて、お・ほえこんでいた状景がすぐさま浮んだ。何の 白いワイシャツの腕捲りをした瀬山が下りた。 昇は声をかけようとしたが、それにも及ぶまいと思ってために ? おそらく瀬山は、それが昇に対する一等ききめ 差控えた。瀬山はまだ二階を見ない。そして妙な素振をしのある復讐になると、誤算したからにちがいない。 た。宿舎の玄関の前に立って、入ろうか入るまいかとため昇は瀬山の性格について知っているいろんな材料から、 次のような自分の直感の正しいことを、思わずにはいられ らう様子をしたのである。 うつむいていた瀬山は、陰気なのろい動作で、顔をあげなかった。 た。昇の部屋のほうを、ぬすみ見るように見上げた。 『あいつは俺に殴られた怨みを、いっか晴らそうと思って しかしその窓に昇の姿をみとめた瀬山は急に、ほとんど いたんだ。それに俺があいつのためを思って専務に会いに 衝撃的な愛想笑いをして、 行ったことは知らないから、あいつにとっては、まだ決し 「やあ、元気ですか。今、そこへ行きますよ」 てこの怨みは帳消しになっていなかった。あいつはたとえ と言った。 使い込みをやっても、帳尻だけは合わさずには気のすまな 昇は自分が瀬山の笑いに応えるのを忘れていたのに気づい男だからなあ』 とっ いた。先程はなっかしく思っていた瀬山の挨拶を、昇は咄彼が瀬山を見ていたその甘い見方を、昇は口惜しく思い ただなか

2. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

供がよく小さな山を作るが、それを拡大したような形のこの自転車が、車の前後に黄水仙の花束を二つも三つもつけ ういう丘陵は、どういう地質学的原因によって出来たものて、巴里へいそいでゆく。ある花束は揺れるうちに顯倒し であろう。 て、切りそろえた茎の淡緑の切口をタ空へ向けている。相 一つの巨石の上に登って見ると、むこうにも同じ石の山乗りの元気な乗手は、しばしば自動車を追い越すほどであ が林を抜きん出ている。石の色は荒涼たる白さであるが、 る。 まだ 遠目に見るとその荒涼たる感じは柔らげられて、斑らの残われわれが巴里に入ったとき、七時でまだ明るかった。 雪のように見える。 しかし巴里はすでに灯をともしていた。こうして暮れぬさ ひとも われわれは一つの奇石のかげで、弁当をひらいた。葡萄きから灯している都会へかえるときに、われわれの感じる 酒とフロマージュが美味しかった。 悲しいような嬉しさは、都会に育った者だけの知っている にわ そのうちに森の中で、俄かに賑かな笑い声がきこえた。幾多の感覚の喜びの一つである。 何台かの・ハスに分乗して来た小学生の団体が着いたのであ る。かれらの駈けつくらをしている姿が、樹間に隠見す ロンドン及びギルドフォード る。半ズボンからあらわれた少年の膝頭は、白く引締っ て、いかにも美しい。 四月十九日ーー一一十三日 私は再び多忙な旅人となった。巴里の一隅の沈滞した・ハ 各国の田舎者の間にまじってわれわれはフォンテエヌプンシオンを後にして、再び飛行機や両替やたえざる心付の ロオ宮を見物したが、私はそれについて殊更に書く気がし心配や、ホテルの活気あるロビイや劇場や昇降機やアポイ ない。そこで数枚の色つきの絵葉書を貼りつけるための、 ントメントの生活の人になった。そういう生活が今の私に 杯余白をあけておくにとどめよう。 は、日本を旅立ったときのように新鮮である。 ロ帰路、鮮やかな緑の麦畑のかたわらに立って、黄水仙の私は巴里が好きではなかった。巴里滞在を一ヶ月半に及 花束をかかげて、疾走する自動車に呼びかけている人が、 ぼしめたあの盗難事件ばかりではなく、巴里では私の心身 ア 一町おきに二三人っづいている。帰りをいそぐ自動車の乗を疲れさせる瑣事が次々と起った。一刻も早く私は巴里を 四手はなかなかこれを購おうとしない。買手は主に若い自転遁れたかった。最後の晩、友人木下恵介氏と黛敏郎氏が、私 車の人たちである。若者たちの自転車、若い男女の相乗りを伴ってゲイテ・リリック劇場へ行った。フランツ・レハ のが

3. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

お第廰を まさおカ 文庫本の正岡子規を持ってはいたが、まあ、一種の背伸 びでしかなく、それが証拠に、昭和二十二年の春だっ 2 ーダーズダイジェストの日本版が出ると、す つかりファンとなり、さらにカストリ雑誌に、いうばわ れていた。 らんば きくちかん まあ、乱歩、菊池寛、子規といったところが、読書 経歴で、後は落語ばかりの中に、とびこんできたのが、 同志社大学学生に借りた雑誌「人間」所載の「煙草」 であった。昭和二十二年のことで、学生はまた「ファ ウスト」と「ヴェルレーヌ詩集」もみせてくれたのだ せんさいかれ、 ぎはってん が、「煙草」の繊細華麗な文章にすっかり仰天し、し かもこの著者が、学生と同年の数え年二十三歳である 道と知って、またびつくりした。ばくと五つしか違わな べつだん小説を書きたいなどとは、思ってなかった ふろうじ のだが、浮浪児に近い生活だったから、小説家を比較 的身近かに感しるおもむきがあって、というのは、当 台 おださくのすけ ふうぶん 燈時、大阪にいて、織田作之助の無頼ぶり風聞していた ためだが、ばくは小説家が処女作を書いた年齢に注意 し、全集など買えやしないから、よくその年譜だけを 社立ち読みし、その比較において三島の二十三歳はかな り早いと感したのだが、さらに調べると、「煙草」は一 八年前の作品だし、十九歳の時、すでに、この作者が小

4. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

る。どうして、かりにも酒場にいた女が、こんな男と一緒ときは、お客のスタイルのためを思って、わざと注文に逆 になったのかわからない。 らった、という顔をしてみせるのよ。洋裁店と美容院のお 昇が名刺を出す。男は読んで、愛想よくこう言った。 客は、頭ごなしに限るのよ」 「御祖父様には、うちの銀行の恥が、若い時分、大〈 んお世話になったことがあるそうで : : : 」 町の宿でのその晩の酒宴はたのしかった。 昇は、どういたしまして、と言おうとしたが、やめてお酔うほどに、房江と良人は文学論をはじめ、良人が勤務 の余暇に書いている小説の出来栄えについて、房江が堂々 かねてリショールで出世頭の噂が高い景子は、黒レ = と論難したので、可哀想な銀行員は泣き出した。この二人 スづくめの服を着て、沢山の赤い羽根毛をこねて固めたよ は、取引先の招待で二三度良人がリュショールへ来てから うな小さい帽子をかぶって、最後にタラップを下りて来懇意になり、良人と房江はときどき抒情的なことや深刻な た。少女歌劇で芽が出ないでリュショールにつとめていた ことを、。ほっり。ほっりと話し合った末、夫婦になった。ど しようしゃ 景子は、好し 、。 ( トロンがついた今では、銀座に瀟洒な洋裁ちらも相手の、それそれの社会における稀少価値をみとめ 店をもち、今年中にパリへ箔をつけに行くことになってい あい、鋭敏な感受性や、汚れない心や、文学的才能や、静 るのである。 寂を愛する趣味などにおける犠牲者としてのお互い自身を 昇はわざと気取った手つきで、景子の手をうけとってタ発見したのである。この夫婦は大そう仲が好く、良人が泣 りゅういん ラップを下ろしてやったので、溜飲を下げた女たちは無遠 いたのは泣き上戸だからにすぎず、房江が流産ばかりして 慮に笑った。 いて子供をもたない不幸を除いては、まことに幸福につま 「昔は君は空想家だったが : : : 」 しく暮していた。良人は或る小説の大家に傾倒していて、 滝と昇が景子に言った。 昇にしきりに同意を求めたが、昇の目から見ても、この男 る 「今はそう見えないでしよ。空想家でなくなった代りに、 は作家たるには、芸術に対して切手蒐集家のような幸福な 夢を見すぎていた。 沈たつぶり小皺がふえたわ」 「編物の目をまちがえてばかりいた君が、デザイナアとは景子は一種の酒乱であったが、昇をつかまえて、どうし てもアメリカへ行ったかえりに、 リへ寄れ、と言ってき ね」 「今でも寸法をまちがえるのはしよっちゅうだわ。そんなかなかった。そのころには景子はパリにいて、昇の案内役

5. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

会った先生の奥さんに、どうかあの作文は父に見せないで反省な夜になってしまいそうな気がして、反省というもの くれと幀んだんだ。奥さんなんかに頼むんじゃなかった。 に大いに人生的な価値を認めている誠は、 ( もちろん反省 考えてみるとあの人はお喋りだし、その上心臓脚気の持病以外に今のところ彼の人生はなかったのだが、 ) 何でもよ があるので、しよっちゅう親父の診察をうけにやって来るい減入った考え事に自分を縛りつけて離さないことが今宵 のだ。何て馬鹿なことをしたもんだろう。奥さんは愛嬌よを有益に送る道だと感じた。この種の感情の上の功利主義 く安請け合いをしてくれたが、よく考えてみると藪をつつが、彼の教養の萌芽である。 みち いて蛇を出したようなものだ。先生ならまず一二ヶ月に一 彼は結局矢那川べりまで引返して来て、川べりの径をあ 回偶然親父と会うくらいが関の山だ。ところが奥さんと来てどもなく海の方へ向って歩いた。曇りがちの夜空であ たら、毎週一回家の診察室の患者になるんだ。きっとそのる。行手に海があることはわかっているのに、その海はじ うだい しやだ。いやだ。 話が出てしまうにちがいない。、 っと息をひそめてこちらをうかがっている厖大な真黒な獣 この取越苦労は南京虫と共謀してその晩誠を眠らせなかの気配を感じさせる。磯の匂いがこのあたりの空気まで涵 らつま った。しののめの起床喇癶が、わずか一二時間前に寝入っし、潮騒は予感のように轟いていた。自分の弱さに腹立た た彼の目をさました。朝の小鳥の声でいつばいな庭で宮城しくなった誠は、歩きながら泣いた。自分のためになら泣 遙拝をさせられるのが日課の第一である。誠はその遙拝のくこともできる。 方角に父親がまだぐっすり眠っているのを思うといやな気『何という弱い僕だろう。何という脅やかされつづけの憐 がした。 れな僕だろう。親父に反抗しようとした最初の試みを、親 市の家へ帰ると父親の態度には変化がなかったので、父の目につかないところでやって、しかもそのすぐあとで 先生の奥さんはまだ告げ口をしていないことがわかった。 くよくよしはじめる。何という甲のなさだろう。死ん こそく 代誠は一ト安心したが、そのすぐあとには、こうした姑息なでしまったほうがいい。こんな人間は一トかどのものにな 時 安心に浸っている自分自身への烈しい憎悪が生れた。憑かれるわけがない』 とうとう立止って川の中を見つめたが、この小じんまり 青れたように、彼は一人で家を出て歩き回った。 。あの 町のほうへ出てみたが、夜の賑わいの中を一人で歩いてした川では死ねそうもなかった。海へ行ったらいい いて、陽気な友達に冷やかし半分に肩を叩かれでもした真黒な獣の白いきらきらした歯並みの中へずんずん歩いて ら、その瞬間から今夜は愚劣な中学三年生の意味もない無ゆけばそれでおしまいだ。死のうと思う決心が生れると、 かつけ とどろ

6. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

8 呂合せだ』 らしかった。手つだう仕事は別になかったが、無聊をかこ っということはなかった。彼は喰べては寝、寝ては起き、 かもしか 羚羊を見たあくる日から、曇り日がつづき、温度は甚だ起きているあいだはたえず流行歌を歌っているが、怠け者 しく下り、やがて永い吹雪の日々に入った。ある朝、昇がで、スキーのような快活な遊びを好まなかった。尤も彼が 目をさますと、窓の隙間から入った粉雪が、畳をとおってスキーをやらないのには炊事夫が大いに賛成した。この大 掛蒲団の上へまで一直線にのび、針のようなその先端は、 喰いがこの上スキーでもやって腹を空かされては、たまら 掛蒲団の中央のところで途切れていた。 ないと思っていたのである。 積雪は日に日に高まった。窓の下まで積っていた雪は、 ガラス 日毎に窓硝子の第一の桟、第二の桟と昇ってゆき、わずか又しても瀬山の語を借りると、昇には瀬山に対する に窓の上部だけを残していたものが、やがて窓は雪に充た「人間的な」興味がしきりに湧いた。都会の昇は、ほとん された。 ど他人に対する関心を失っていたのだが。 屋根の雪は日々に重たさを増した。廊下に通ずる唐紙ひいては彼は、今まで気のつかなか 0 た瀬山の美点をみ も、硝子戸も、屋根の重さに圧されて、あけたてに難渋すとめるまでになっていた。それは瀬山が自分の感情をいっ るようになった。 わろうとしないことで、この点の傍若無人は、ほとんど愛 例のランドローヴァーの運転手は、まことに暢気に暮しすべきものがあった。 ていた。彼は瀬山の越冬や、車一台を冬じゅう山の中に寝瀬山はいわば硝子張りの性格をもっていた。水族館のそ じようふ かしておくことが、自分の責任だとは思っていないらしかれと同じ壊れない丈夫な硝子からは、魚が小さな岩の洞穴 った。月給は積立ててくれるだろうし、まだ独り身だし、 を出たり入ったりするのがよく見えた。 要するにひどく屈託がなかった。この男がよく眠るのに、 雪にとじこめられた最初の数日、彼の悲嘆は目にあまる みんなはおどろいた。 ものがあった。悲劇を演じるような見かけを持って生れな 「あいつ、冬眠するつもりでいやがる」 かった男が、悲劇を演じなければならないとは、本当の悲 と田代が言ったくらいである。よく五六分待っていてく劇である。彼のとらわれている激情は、一つも彼にはそぐ れと言われて、暗い車内で一時間も待たされるのに馴れたわず、人間の個々の感情が他人に説得力を及・ほすまでに、 かんきやく 彼は、それがたまたま六ヶ月にのびただけだと思っているどうしてもとらねばならない手続を、彼が閑却しているよ こわ ふりよう

7. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

黒人は白人の少女と肩を組み、あるいは黒人の少年と白石段を下りた。その時かれらは休んでいた。しかし石段を 人の少年はをつらねて踊っている。合衆国では決して見下りかけたとき、又おこる歌声と鼓笛の響におどろかされ られない眺めである。かれらは、時々見物のなかの子供やた。 少女の上に踊りながら襲いかか 0 て、踊りの渦の中へ捲き濃紺の星空に包まれている丘上へむか 0 て、かれらの踊 込もうと試みた。 りながらゆく影が、街燈に照らされて大きく躍動するさま 暗い舗道は時折明るい窓明りや街燈の下へ出た。するとが眺められた。一人の黒人の少女の影が、突然高く跳躍し かれらの狂喜乱舞は、あからさまに照らし出された。そうて、人々の影を抜きん出たりした。 いう道へ、自動車が進んで来たりすると、自動車は行くこ植民地時代の古い建物の並んでいる夜の暗い街路をゆく とができない。しばらく辛抱したあげく、警笛を鳴らしてと、暗い石塀に墨で黒々と描いた絵がある。それはべっと 走り出す。するとその場は恰かも革命劇の一場のようになりとして、まだ絵具が乾いていない。絵は一人の男の立姿 り、群衆は自動車を群がり襲って、行かせまいとするのでらしい。そして描きそこねて、墨で塗りつぶしてしまった あった。 ものらしい。 程よいころに、踊りの人たちは休息をとった。道ばたで突然白い歯が笑う。絵はうごめき、身悶えするように、 煙草を吹かし、新聞紙で焚火を焚いて、太鼓の革を乾かし壁からその身を引き離そうと努力しているのがわかる。や た。五分も休むと、かれらはまた踊りだした。そして草むがて、身を離して夜の街へ何事もなげに歩きだす。 らに腰を下ろして煙草を喫んでいる、目の美しい少年鼓手私はこの小さな奇蹟の理由をたずねた。そうだ、あんな をせき立てた。 にたやすく画像が背景をぬけ出すことのできた責任は画家 らせんけい 道は丘の頂きへ向って螺旋形にの・ほってゆく。踊りの群にある。彼は黒い夜の中に黒人を描く過ちを犯したのであ はわずかずっそれを登ってゆくのでいっ果てるとも知れなる。 い。夜は暑かった。人々は前庭の椅子に涼み、前庭をもた ない人は、門前の舗道に茣蓙を敷いて横たわっていた。或アパ ートメントの発達がポルトガル風の習俗を大方減ば る人は二階の窓から、戯れに火のついた巻煙草を群衆の上してしまったが、まだ街のそこかしこにそれら古い恋の絵 へ投げたりした。 は残っている。 私は丘の頂きまで行かずに、道の半ばでかれらに別れて 二階の露台、窓、前庭の石のペンチ、低い鉄門、低い石 ござ たきび

8. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

ことをお・ほえていた。いっかの手紙に染ませた香水と同じ「回りくどい言い方なんか、もう私に似合わなくなったの 匂いである。しかしその匂いは今ではただの快い匂いで、 よ。女は自分に似合うものを、よく知っているんですから 決して昇の嫉妬をそそらない。今夜も女のかえってゆく先ね」 が、良人の寝室であることがはっきりわかっているのに、 「だから今日は洋服で来たんだね」 それでも嫉妬をそそらないのである。 昇はますます愉しそうに言った。女は昇が感傷的な言草 顕子の体のほてり、夥しい汗、 : : : そういうものは、官のきらいな男だとよくわかった。 能の断片の寄せ集めで、昇は自分の欲望の対象が、はっき「今度はあしたは、簡単服で来ようかしら」 り見定められないのにいらいらした。顕子は息も絶えなん あした。顕子はまた和服で来た。洋服が昇の気に入られ なかったのだと判断したのに相違ない。こんな思いすごし ばかりであった。その酔いしれた体を昇は抱き上げたが、 彼の硬い掌は汗のために辷った。 が、昇の心持をひどく空つぼにした。自分の生活が、いっ ・ : 軒を打っ雨音が高くきこえた。二人は砂浜の上でのかこういう「微笑ましい」心理的行き違いばかりでいつば いになることを考えたのである。 ように、寝ころがってその音を聴いていた。ひとっ耳立っ 点滴があった。樋をつたわる滴りが、出窓の小屋根に落ち雨は降りつづいていた。宿の ( イヤアで、二人はままご る音らしかった。 とのような引越しをした。昇の荷物はまことに少なく、顕 「この雨のなかを、私、帰って行かなくちゃならないのね」子の荷物と云ったら何もなかった。 顕子がそう言った。昇は黙っていた。彼は漂い寄る蚊を車中、二人はあまりものを言わずに過ぎた。顕子が何か 両の掌で叩いたが、これは透明な雄の蚊で、灯にかざすと、言ったが、昇にはきこえなかった。 青いほのかな液が蚊の体なりについていた。昇は朗らかな午後のホテルのロビイは仄暗く、深閑としていた。革張 と、、 滝声で言った。 りの椅子が遠くまでつづいていた。灯さないシャンデリヤ おっくう る 「億劫かい ? 」 は重々しく垂れ、その硝子の瑣雑な影には、雨の湿 0 め 沈「そうね、でも、自分で億劫がって、それをあなたの情熱た昼の闇が澱んでいた。 あか ふだ 昇は、 Reception という字を青い燈りで抜いた札のかた のせいにしようなんて、それは無理だわね」 わらで、カードに署名をし、二週間の滞在日数を書いた。 菊「ずいぶん回りくどい言い方をするんだね」 顕子は少し疲れの見える目を大きく見ひらいた ペンはするどくて、紙に突き刺って、こまかいインクの飛 ほの

9. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

顔を埋めて泣いていた。 「何をするんだい」と誠がのどかにぎく。 「こいっさ、こいつが本当に一文なしか怪しいもんだ。裸事実の生起は名状すべからざるものである。或る人にと っては革命であり、或る人にとっては単なる債権の取立て にして調べてみようじゃないか」 りふじん 「裸かはめちゃだ」と伯爵が、あいもかわらぬ独り言の調であり、或る人にとっては理不尽な強奪であり、或る人に とっては面白い見世物であり、或る人にとっては職業的な 子でいう。 誠は伯爵の目くばせには一向気のつかない顔をしてこうスポーツの一種であり、また或る人にとっては何物でもな いところの、この騒々しい祭典がこうして終った。一同は 言った。 寝台を載せたトラックとダットサンに分乗して、意気揚々 「いいよ。やっちまえ」 伯爵は忽ちパジャマを脱がされ、白い大きい蛆のようなと引揚げた。 半裸の毛糸の腹巻のなかを探られた。すると金いろのエル かえりの車中でうるさくなりそうな母親をおそれた誠 ジンの腕時計と、真珠の頸飾が出て来たので、易が没収しは、易と母親をダットサンに乗せておいて、自分はトラッ て誠に手渡した。 ク上の寝台に仰向けに寝たまま帰路に就いたが、この寝台 今や寝台は運び出されようとしていた。それは「権利のの周囲では若い者たちの粗野な酒盛りがはじまっていた。 うこん いささ ための闘争だい」という奇妙な節をつけた懸声に鼓舞されしかし些か豪奢な鬱金いろの羽根蒲団は誠の体を絹の冷た て、角々を壁や柱にぶつけながら、堂々とこの十二畳を出 い沈黙の中に包み、誠の指は持主を失った黄貂の外套の肌 てゆきつつあった。一方では片手に外套を、片手に頸飾をに触れるともなく触れていたので、身のまわりの放歌高吟 ていねい は気にならなかった。都電の電線のひろい網の目に縦横に もった誠が、裸かの伯爵に丁寧に挨拶していた。 「ひとまずお預りしておきます。清算しましてもし余りま截ち切られてゆく冬空を彼は仰いだ。一点の雲もない。そ した節は必ずお返しいたします」 のために不動の空は、厳めしい晴れやかさで彼の視界を包 「それは御苦労」 んだ。手がかり一つ与えないこの澄み切った青空を頭上に その拍子に易が何の理由もなく伯爵の大きなお尻を膝で見ると、誠はいいしれぬ嫉妬を感じた。その澄明、その完 ちょうたっ 蹴上けたので、彼は縁側に平つくばった。川崎夫人がパジ全、その暢達を彼は妬んだ。やがてトラックが新橋から昭 ヤマの上着をうやうやしく彼の肩に羽織らせた。こうした和通りへ走るに及んで、とある焼ビルの背後からあらわれ 重ね重ねの親切に打ちひしがれて角谷伯爵は縁側の茣蓙にた一ひらの雲が誠を安心させた。 うじ わた

10. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

えるには、殆ど日本の河原のような夥しい石を想像してで、私は二人の小さい友を得た。かれらは徳兄弟同士で姓 4 もらわなければならない。耕地は少く、石だらけの荒蕪の地も同じミトロボウロスといし 一方の父親につれられて、 と、石だらけの牧場がつらなる彼方に、褐色のなだらかな私と同じ・ ( スでデルフィよりもっと遠くへ一晩泊りの遠足 山々を見るのみである。彩りといえば、ところどころにあに行くところである。かれらは二人とも十二歳で、快活で、 る罌粟畑と、石のあいだに咲き竸っている黄や白や紫の 小利巧そうで、日本の子供のように学校がきらいではない。 さい野生の花だけで、緑は松や、アテーナのゆかりの樹、インペリアル・ 、ツション・スクールへ通っており、・ハス 橄欖のほかには、さほど鮮やかな緑を見ない。松はいたるケット・ポールが好きで「古橋」の名を知っている。かれ ところにある。多くは低いずんぐりした松である。 は私の案内書の略図に、山と河の名を書き入れてくれた。 せいれつ 川は多くは涸れていて、豊かな清冽な水を見ない。とき同じ年頃の私には、日本地図に利根川の気儘な曲線を書き どき石のあいだ、黄いろい野菊のあいだに、真黒な山羊が入れることは、到底でぎない芸当であった。・ ( スの出発の うずくまっている。所によっては白い石だらけの山ぞい 合図があったので、かれらは・ハスのほうへかけ出した。私 に、鴉の大群のように、黒い山羊の群が集っている。 がおくれて行くと、一人がふりかえって「 Run. please! 」 民家は土あるいは石の低い塀をめぐらして、土壁の家のと叫んだ。何という奇妙な、可愛らしい英語であろうー 多くは白く、あるものは水いろに、あるものは戸口の周囲 レヴァディアの町からは、丘のいただきのビザンチン様 だけ桃いろに塗られている。低い屋根、土間に椅子を置い式の教会が見え、その彼方に雪をいただいた峨々たる・ ( ル た暗い室内、すべてが・フラジルで見た民家に酷似して いナッスを見ることがでぎる。その。ハルナッスの麓、・ハイド る。ある家の庭に二三の小動物の毛皮が干してある。こう リアドスの断崖の下にデルフィがあるのである。 いう犠牲は商業の神ヘルメスに捧げられたものであろう。 レヴァディアをすぎると、牧場があり、蜜蜂の巣箱があ ・ハスがとまるガソリンスタンドの傍らによく茶店があるる。黒衣の女と、黒い上着を肩にかけた男が、遠い山ぞい が、そういうところには概して泉があり、前掛をかけた子の道を歩いてゆく。 供が水を運んでいる。茶店の前庭では、牛だか羊だかわか ・ハスがとうとう動かなくなった泉のほとりに一軒の屋根 あぶ らない肉を、野天で焙って売っており、茶店の室内には無の低い農家がある。 ( そうだ、私は思い出した。焼けたエ 数の蠅がうなっている。 ンジンにこの泉の水がそそがれたおかげで、・ハスは蘇生し 行程のほぼ三分の二のところにあるレヴァディアの町たのであった ) 。農家の室内は暗く、土間にゆがんだ椅子 かんらん かたわ おびただ きまま