うとする。すると沙漠が迫って来るのである。それを海だれほどの平静さが昇を感動させた。 と思おうとする。しかし砂が口をおおい、鼻孔をおおっ彼はいっか、この沙漠に身を埋めた女に陶酔を与えよう あだ て、彼女を埋めてしまう。彼女は男だけの快楽を、恐怖をとする徒な努力が、彼自身の快楽のためではなくて、ただ 以て想像する。まるで馬蹄にかけられる恐怖と謂おうか。単に、虚栄心にすぎぬことに気づいた。顕子の肉体はそこ むこうには異様な忘我の世界があり、こちらには庭に置かに存在し、顕子は正にそこにいる。彼女は何も男に挑戦し れた庭石のような存在がある。彼女たちはむこうの世界をようとしているのではない。ひたすら自分に忠実に、物質 模倣しようと思う。追いかけたいとう。しかしそれは無に化身しているにすぎないのである。 限に遠のき、大きな厚い硝子の壁が目の前に下りて来る。 このままを抱かなければならない。そう思った彼は、別 昇はいつも敏感にそれを察知すると、女の演技に欺されのやさしさで女を抱いた。 たふりをするようにすぐさま心仕度をするのである。自己そのとき昇に、異様な力で、彼の幼年時代が還って来 ぎまん 欺瞞をあばき立てて、こちらまでも沙漠に直面しなければた。再び石と鉄の玩具が与えられたのである。祖父が拾っ ならぬ義理はないのだ。彼がねがうのは相手が演技を少してきた河底の石や、鉄の組立玩具や、発電機の模型は、彼 でも巧くやってくれることしかなかった。 の両腕の中いつばいにあった。それらのものを胸に抱きか しかし顕子はちがっていた。目をつぶって横たわり、小 かえて、昇は腕の強さを自慢した。ああいう玩具の冷た ゆるぎもしなかった。完全な物体になり、深い物質的世界さ、固さ、感情を持たない機械の忠実な動き、子供の指に 抵抗を与える重さ、ああいうものは何と好もしかったろ に沈んでしまった。 焦慮するのは昇のほうであった。彼は墓石を動かそうとうー石は決して子供におもねらず、堅固な石の世界に住 こわ 努めて、汗をかいた。彼がこれほど純粋な即物的関心に憑まっていた。鉄は子供の指の力を冷酷に嘲笑し、決して壊 滝かれたことはなかった。よくわかることは、顕子が自分のれない玩具が彼を囲んでいた。友だちはしよっちゅう玩具 る無感動をあざむこうとしていないことである。彼女は絶望を壊していた。昇は分解したり組立てたりすることはでき めに忠実であり、すぐさま自分を埋めてしまう沙漠に忠実でるが、決して自分の玩具を壊すことができなかった。玩具 ある。この空白な世界に直面して、自分が愛そうと望んだ たちは彼の所有物でありながら、彼に属してはいなかっ 男を無限の遠くに見ながら、顕子は恐怖も知らぬげに見えた。そういう堅固な別の世界に属するもので、自分の欲し た。生きている肉体が、絶望の中にひたっている姿の、こ いものを組立てて遊ぶことは、昇の大きな喜びであった。 ガラス
と一人が言った。女たちの顔はひしめいて、自分たちの 「早いのねえ」 女たちは讃嘆の気持をすこしも隠さずに、こう叫び合っ手の甲を、一種真剣な面持で見下ろしていた。一つの手が こ 0 俄かに身をす・ほめてのがれ去った。 「ママの指環のあとが、ほら、こんなについちゃったわ」 「でも、その奥さん、今日たしかに来るかどうかわかっ て ? 」 昇は未だかって一人の女と、一度以上夜をすごしたこと 「もう二三度会ってるんだよ。手も握らずに」 がなかった。自分の空想力の乏しさをよく知っている昇 「手も握らずに : : : 」 たす 加奈子は復誦して、溜息をつき、自分の手首を自分で握は、二度目の逢瀬の援けになるその力に頼らなかった。即 うった 物的な好奇心だけが彼に愬えた。彼を冷酷だと云えるだろ 「ママったら、自分の手を自分で握ってるわ」 うか。一度だけで人はそんなに冷酷になれるものではな 一度だけでは、捨てたり、捨てられたり、という残酷 と目ざとく見つけた由良子がからかった。そうして「手 も握らない」というこのネガティヴな表現に逆に心をそそな人間関係は生じようがない。 られた女たちは、申し合わせたようにめいめいの片手をさ終った行為から離れるようにきわめて自然に、その肉体 うすたか から、その女の存在そのものから離れること、昇はいつも し出し、加奈子の手の甲に堆く積み重ねた。 あらかじ 「代りに一度きに手を握らしてあげるわ。四人の手を一どそれを志し、予め伏線を張り、大抵の場合、その通りにな ったのである。彼はそこのところをいつも巧くやったの きに握れるなんて、幸福たと思いなさい」 で、単なる即物的関心から子供が生れてしまうというよう 昇は微笑して両手をさし出した。乾いた或いは湿った、 筋張った或いは肉づきのいい四つの掌な矛盾に、たえて身を縛られることがなかった。 熱い或いは冷たい、 或る官能に身を委ねることは、昇にとっては知的な事柄 がそこに在った。それらの手は屍のように打ち重なり、 指はもつれ合い、折からの薄暮の室内に、白い肉のこまか だった。一人の特定の女に対する心理的な認識欲なるもの な起伏を浮ばせた。昇は左右から掌をあわせてそれを包んの曖味さをよく承知していた昇は、単なる反復を深化とと わくでき だ。この野菜のようなかさばった感触は妙に目新らしく、 りちがえたりはしなかった。感覚に惑溺する才能の持ち合 こっき 人体のどこの感触とも似ていないように思われた。 せがなかったので、彼はまるで自制や克己に似かようほ ど、ひたすら欲望の充足のために、おのれの知的な統制を 「もっと強く」 っこ 0 しかばね にわ
らない。昇の内心がどうであっても、もろもろの世俗的な に掛けながら、いつものようにこう言った。 はんちゅう 5 「お仕合せだわ。お仕合せだわ。昇さんほど幸福な方って範疇には、一種の真理がひそんでいた。 昇は思想とは縁のない人間であった。足るを知るという ないわね」 いやおう 加奈子の前へ出ると、昇は否応なしに「幸福な王子」扱世俗的な思想からも、おのれの物質的所有に罪悪感を抱か いをされる。祖父の遺産で相当な証券収入のあるこの美貌せるような思想からも、彼は純潔だった。ひどく飽き飽き で健康な青年は、幸福というものを客観的にたしかめて満していたが、自分が何に飽き飽きしているか、つぎとめて 足する習性をもった加奈子のような女の目には、欠くるとみることもしなかった。 その結果昇が陥ったのは、一種の悪趣味である。加奈子 ころのない人物に映った。幸福 ! 幸福 ! それが生きて のような無害な女の顔に彼の反映が宿るのを見ること、彼 動いているところを見るだけでも尽きせぬ慰めである。 自身にはまるで理由のわからない誇大な讃美や無邪気な羨 昇は実際、二十七歳がもてるだけのものを全部もってい きようじんたいく た。若さ。金。秀抜な頭脳。強靱な体嫗。加うるに累の望を眺めること、そういうことが慰めにな 0 た。乳母に対 ない完全な自由。一方にはまた、男の必需品である仕事。するのに似た或るやさしさから、彼は加奈子の前ではっと どこから見ても人ぎきのわるくない職業。退屈に陥らせぬめて幸福そうに、そのイメージを裏切らぬように心掛け た。その実かって何の感情もない明るい少年だった彼の心 程度に自由を抑制するこれら市民的な調味料。 しかしまだ持たないものを思い描くことは人を酔わせるは、今も何の感情もなく、荒涼としていたのである。 が、現に持っているものはわれわれを酔わせない。もし酔そして昇にとっての加奈子は、彼が告白の相手を決して うとしても、それは人工的な酔いである。昇はこんなわけ必要としなかったために、彼の閉ざされた心の孤独の安全 たんぼ で、何事にも酔わないだけの資格があった。その上、彼のな担保と謂った趣きがあった。昇はこの女の前にいるとき ように客観的に「幸福な」人間は、人が不幸と呼んでいるほど、安心して一人ぼっちになれることはなかった。まる いささげんき ものをよし味わうとしても、些かの衒気が伴うように見らで盲らの前に身を置くように。 れるので、こんな意識が不幸を危ういところで彼から遠ざ : ・階段にざわめきがして、三人のウェイトレスが固ま けてしまう。狼を知るには、われわれは狼にならなければ ならない。同様に昇が不幸を知るには、幸福な人間であるって御出勤になった。その一人はゆう・ヘ付合ったお客と、 ことを止めて、その瞬間から不幸な人間にならなければな今日の午後まで付合いつづけるのが退屈になって、電話を
るような興奮とが、疲労の中にまざり合ってくる。それはまって、用ありげに本堂の玄関のへんでうろうろしてい しった ただ、空虚へ打ち下ろされる三十数本の竹刀の叫びにすぎる。賀川ももうやめており、竹刀を提げて下級生を叱咤し ない。竹の乾いた軽い叫び。その中に砂金のように、或るている。 光輝がひそんでいる。壬生は早素振りを振り終ったとき「四十五、四十六 : : : 」 に、次郎の次の命令を待つ、心の空っぽな状態をうれしく そうして七十回までやり了えたとき、残ったのは、次郎 感じた。 のほかには十五人ほどしかいなかった。 次は三四人ずつ、五十米の疾走だった。 整理運動に体を柔げながら、壬生はその十五人の内に残 はんすう 次は又円陣を作って、腕立て伏せが命じられた。 った矜りを、何度となく心の中で反芻した。 「十五、十六、十七、十八 : : : 」 朝食は八時である。今日の当番の一年生二人が、熱い味 と次郎は迫る息で数を唱えた。 こしら したたり 壬生は庭の乾いた黄いろい土へ、自分の汗の滴が黒い点噌汁を拵えていた。 てのひら をいくつもえがくのを見た。掌に触れる土の感触は、はじ昨夜、当番表が張り出されたが、食事係りと、清掃係り めは誰も触れたことのないものにじかに手を押しつけて捺と、牛乳番に、二年生以下が割り当てられているうち、壬 印するような新鮮な感じがあったのに、数を重ねるにつれ生の食事当番は三日目であった。明日は、前の当番を引き て、土は固く反抗的に、下から逆に掌を押しあげて来る意継いで、食糧の買い出しゃ献立を考えたりしなくてはなら 地悪な力に変った。 一同は正座して、 三十五、二十六、二十七、二十八、 いただきます ! 」 腕の付根はえぐられるように痛み、壬生は黄いろい地面「 と一せいに叫んで箸をとる。 が、突き上げて来て、自分の顔に噛みつきそうになるのを 感じる。殖えては乾いて消える自分の汗の黒い点滴。その食後一時間あまりの休憩時間、壬生は窓から目をあげて 点滴が動きだした。蟻だったんだな。 : : : 彼はこんなとこ海を見る気もしなかった。十時からは烈しい稽古がはじま たずさ る。みんなで稽古着に胴と垂れをつけ、面籠手と竹刀を携 ろに蟻のいることが信じられなかった。 えて、中学の体育館へ行くのだ。 「三十五、三十六、三十七、三十八、 ちらと見ると、マネージャーの山岸はとっくにやめてし中学の体育館は新しくて立派だった。しかし床は本物の メートル なっ めんこて
ひとけ 頭では知っていたけれど、何かそのためには、自分自身によりも早く教室を出ることができたとき、午前の人気ない もっと興味をもち、自分に何らかの問題を課する必要があグラウンドを校門のほうへよぎりながら、国旗掲揚台の旗 ったであろう。自分を天才だと思い込んでいながら、ふし竿のいただきに、金の珠がきらきらと光っているのを見る。 ぎに少年は自分自身に大した興味を抱いてはいなかった。すると、えもいわれぬ幸福感に襲われる。旗は掲げられて 外界のほうがずっと彼を魅した。というよりも、彼が理由 いないから、今日は祭日ではない。しかし今日は自分の心 もなく幸福な瞬間には、外界がやすやすと彼の好むがままの祭日であって、あの珠のきらめきが自分を祝福してくれ の形をとったというほうが適当であろう。 るのだと思う。少年の心はやすやすと肉体を脱け出して詩 詩というものが、彼の時折の幸福を保証するために現わについて考える。この瞬間の恍惚感。充実した孤独。非常 めいせきめいてい れるのか、それとも、詩が生れるから、彼が幸福になれるな軽やかさ。すみずみまで明晰な酩酊。外界と内面との親 のか、そのへんははっきりわからなかった。ただその幸福和。 は、久しくほしいと思っていたものを買ってもらったり、 彼はそういう状態が自然に訪れて来ないときには、何か 親につれられて旅行に出かけたりする幸福とは明らかにち身のまわりの物を利用して、無理にも同じ酩酊を呼び出そ がっていて、多分誰にも彼にもあるという幸福ではなく、 うと試みた。たとえば虎斑の鼈甲のシガレット・ケースを おしろい 彼だけの知っているものだということは確かであった。 透かして部屋のなかをのぞいてみること。母の水白粉の罎 外界をでも、自分をでも、とにかく少年はじっと永いこをはげしくゆすぶり、粉がやがて重々しい乱舞のはてに、 と見つめているのは好きではなかった。注意を惹いた何ら上澄の水を残して、徐々に罎の底へ沈澱してゆくさまを眺 めること。 かの対象が即時何らかの影像に早変りするのでなければ、 はむら きとろ・ 年たとえば若葉の葉叢のかがやきが、その光っている白い部彼はまた何の感動もなしに、「祈疇」とか、「呪詛」とか、 少分が変貌して、五月の真昼に、まるで盛りの夜桜のように「侮蔑」とかいう言葉を使った。 書見えるのでなければ、すぐ飽きて見るのをやめた。確乎と少年は文芸部にはいっていた。委員が鍵を貸してくれた 詩した、少しも変貌しない無愛想な物象については、『あれので、行ぎたいときにはいつでも部屋へ行って、一人で好 は詩にならないんだ』と思い、冷淡に構えた。 きな辞書類に読みふけることができた。彼は世界文学大辞 試験に思いどおりの問題が出て、いそいで書いた答案典の浪漫派の詩人たちの項が好きだった。かれらの肖像 ひげ を、ろくに読みかえしもせずに教壇へもってゆき、級の誰は、決してもじゃもじゃな髭などを生やしていず、みんな ぶべっ とらふ べっこう びん
つかなかったかと訝かった。しばしば人を愛していることを唾棄すべきものと思ったであろう。彼はひとりで階段を に気がつくのが遅れるように、われわれは憎悪の確認につ上り、二階にあるとある喫茶店に立寄った。窓という窓か いても、ともするとなおざりな態度をとる。そういうときら日があたたかく射していて、客は少ない。鳥籠の中で鳥 が囀りだすと、客が皆鳥籠のほうを見る。それはその店に われわれは自分の感情の怠惰を憎らしく思うのである。 誠は一人で街へ出てしまった。早春のやや風の鋭いしか和やかさと親しさの空気を与えた。 し明るい午前である。街には勤めをもたない呑気な顔がひ彼が奥まった椅子に掛けて温い飲物を註文したとき、反 しめいていて、お互いに少し間抜けにみえる表情をたのし対側の窓ぎわに掛けている二人連れが目に入ったので、そ んでいるようなところがある。この余裕ありげな観察は、れが誰であるかに気がつくと、誠は気取られないで観察で 誠の観察でもあったので、彼は強いてすべての上に余裕あきるような姿勢をとった。そこの白い卓布の上には午前の りげな観察を必要とする心の或る状態にあった。誠の外套日がふんだんに落ちていた。その光りの中へ顔をさし出す の肩は何度か行人の肩にぶつかった。ふりむく相手の苛立ようにして話している青年と少女がある。そういう少女と った目に会うと、誠は自分の苛立った心をのぞかれるよう話しているのが意外だったので、誠は一瞬それが易である な心地がした。百万円の赤字、これが何ヶ月か先に何倍のかどうかを疑ったのであるが、機嫌のよいときに目ばたき 赤字になることは半ば自明の事柄である。担保品は売れをしきりにする癖で、それとわかった。易の外套の袖ロは かび ず、詐欺団は横行していた。いたるところに不況の黴が生ほころびているが、少女の着ている外套も、ほころびてこ えかかっていた。貸した金は返らない。殊にちかごろ多くそいないが、それに劣らず粗末なものである。ただ光りの ひつばく なった小口金融の金が返らないのは、小市民生活の逼迫の下へさし出している二人の頬の光沢だけは誰も粗末だとい のつびき 諸条件のそれそれの退引ならない組み合わせから来ているうことはできまい。その二つの顔は光りのなかで、傾いだ もので、このこんぐらかった糸目を解きほごすことは誰に り、うつむいたり、のけそって笑ったりした。そして二人 も出来ない。 の額の生え際にちかいほっれ毛は、ほんとうの金いろに見 誠はまだ芽吹こうとしない街路樹の梢に目をやって、ふえた。 とした気の迷いで、自分はともすると空を見る癖がある、 易は一体共産党を出たのかしら、それとも同じ党の中の いっそ詩人になればよかったのだ、と考えたりするが、芸女の子とよろしくやっているというわけかな、と誠は考え こうち 術家が必要とする真の狡智を知ったら、彼もまたこの職業た。どこにどうしていようと彼は同じなのだ、易は易であ さえす
ぎようほう ほとんど祈りに似ていた。この執拗な拒絶は、ほとんど執したいという不測の翹望、擬死、相手にさげすまれたくな 拗な願望であった。社長さんなんかきらい、あなた大きら いために身を護ろうと考える本能的な媚態、怒り、肉のよ : あらゆるものがのこり 、と彼女はたえず言いつづけたが、その声は適度な音量ろこびに対する肉感的な憎悪、 をもち、決して叫びにまでは至らなかった。誠には敵意のなく耀子には備わっていた。というよりは耀子自身が、処 うちに微妙な香料のようにまざっているこの程のよい思い女性の集大成だったのである。この羞らいにみちた肉のう うすらひ 遣りが、このいたわりが、このやさしさが好もしかった。 ちに、薄氷の下を流れだした雪解水のような清冽な陶酔が かほどまで程よく織り込まれた逆説的な厚意のかずかず動きそめるのを、誠はこの上もなくうれしく眺めた。 を、愛と呼ぶべきだろうか、それとも不実と呼ぶべきだろ 戸外の夜を時折震撼してすぎる都電の響のほかには、音 はきかれない。瓦期ストーヴの焔にまじる空気のかすかな とまれここには一個の儀式が、一個の音楽があったので息吹がきかれるだけである。残雪のように耀子はまっ白に ある。この理不尽に進行した破綻の多い行為の下に、或る音もなく横たわっていた。そこに今生れ、そこに今出来上 はつらっ 照応が、或る抑制と調和が刺と目ざめていた。耀子は純ったばかりの女体が置かれているようであった。やがて耀 潔な、火のような裸かになった。あらゆるものを苦痛と嫌子は目ざめ、身ぶるいして寝台の上に半身を起した。微細 悪で表現することを片時も忘れずに、耀子の眉と頬と唇とな皺に隈なく埋められたシーツを引き上げて、倦そうに膝 手は、凍った、硬い、いたましい苦渋の表情をうかべたまのあたりを隠した。実に子供らしいことに、隠されていな ま、汗のなかに溺れようとしていた。そこには彼女が心を い自分の乳房の存在を、彼女は忘れてしまっているように つくして表明しようとしている苦痛によってしか与えられ思われた。 ない慰藉の静けさが見られたのである。 ズロースを頂戴と耀子が怒ったような口ぶりで言ったの ぬおぎぬ 代事のあとで誠が接吻を与えると、誠のロの下ではじめてで、こんな莫迦げた濡衣を着せられた誠は、腹いせに部屋 時 瞬時の微笑が動いた。お・ほっかなげに唇に応える力がうごの燈火を点じて大っぴらな探索をはじめたが、容易なこと 青いた。そのときこの白い精妙な歯が、つややかに瞥見されでは見当らない。丹念に丸められた毛布の皺の中からその 桃いろの絹のズロ } スが手品のように取り出されると、耀 た。しかし微笑はたちまち消えた。 これほど処女らしい処女を、誰も夢にだって見ることは子は大そう顔を赤らめ、それをわが手にうけとるのをため しゅうちむく できまい。羞恥、無垢、嫌悪、恐怖、好奇の心、身を減・ほらった。 べつけん
いて入ったが、哀れな母親は、鬼のような髭男にこき使わ業だという確信は、このごろの彼には動かしがたいものに れてうろうろしている学生服の息子の姿を探し求めた。曲なり、こんなに悲しいお話をたくさんきくことのできる職 かどわ 馬団に拐かされた子供をさがしもとめる半狂乱の母親のよ業を選んだことが、一種の幸福感を以て心に反芻された。 せま まさ うなこの取乱し方は、場内窄しとばかりに詰めかけている彼は困っている人間に金を恵んでやるーーーというのは正し お客の雑沓のなかで目立たずにすんだ。 く誤解だがーー よろこび以上のよろこびはないような気が 愛宕と猫山は一番奥の椅子に坐っていた。二人の椅子だした。従って取立はまことに辛いが、さきに味わった喜び けは緑いろの天鵞絨を張った回転椅子で、専務取締役の愛の報いと考えて自分を鼓舞し、相手を容赦せぬことは自分 宕のデスクの前には某ネーム・プレート会社の重役が、取を容赦せぬことだと考えて、その結果みちたりた悟達の心 締役の猫山の前には藤代機械株式会社の会計課長が頭を下は、いつものどかで寧らかであった。 げていた。愛宕は椅子に斜めに掛けて、片手の鉛筆で机上「もうこれはまちがいなしと思っていた売上代金がだめに ガラス の板硝子にときどき数字らしいものをいたずら書きした なりまして、それを見合いに振り出した手形は不渡りにな り、その鉛筆で耳をほじくったりしながら相手の話をきい りそうなのです。不渡りになって取引銀行の信用を失うの ラシャ た。彼の視線はいくたびか自分の新調の英国羅紗の背広のは何より怖うございます。十日で一割五分の高利は高いよ 袖へ満足げに落ちた。胸の釦穴には純金の太陽の・ハッジが うですが、何とかして拝借した金で手形だけは落しておき かがやき、馬鹿にされない用心に生やしたロ髭のさきが、 。どうかこの手形を担保に、百五十万拝借したいので その血色のよい頬をくすぐると、愛宕はうるさそうに耳をすが : : : 」 うごかすので、相手はわれを忘れてこの耳にみとれては、 「よございます」ーー愛宕は熟考のすえ頼もしげに言っ 話のつづきを催促された。 た。「お話をうかがって、信用できる方だという、このカ そろばん 代愛宕はこうした商談のあいだにも、しばしば算盤をわすンですな、これが働きました。手形一本を担保という例は ほかにございませんけれども、よろしゅうございます。お れて相手の窮状に感動したが、 ; 誠とちがうところはそんな 青ときの愛宕が、冷静であれと自分に言いきかせる必要のな貸ししましよう」 かったことで、小口の借手にもまめに面接して、相手の訴こう言われた瞬間の借手の顔にひろがる明るいものを、 えるみじめな窮境に時にはほんものの涙を流した。自分の愛宕は朝空へひらかれた窓のようにすがすがしく感じた。 やっていることが一種の社会事業であり、人道的な救済事相手に金をわたす瀬戸際など、むしろこちらの手が喜びで ビ 0 はんすう
はこれはむしろ禁欲的なもので、いつも自分をがんじがら よいそこはかとない恐怖心を抱いていた。 これらの幻影において、誠ははからずも一個の通俗的なめにしておいてくれる観念を愛していたのだというほうが ーを身当っている。そのあらわれはどのみち同じでも、青年はや 詩人であった。彼は今日新調の背広と新調のオー・ハ にまとっていた。その身は太陽カンパニイの会長であり、むをえずこうしているのだというよりも、自分の意見によ すでに借入金総額四百万円、貸付け二百万円を縦横に動かってこうしているのだと考えることのほうを好むものであ している。おまけに東京大学の学生で、卒業成績は銀時計る。誠は耀子を愛していたのだ。 組に相違ない。何て素晴らしいんだ ! 道ゆく学生や青年映画館の前で耀子が赤革の楽譜鞄をぶらさげて小さな輪 の顔がみんな阿呆にみえる。彼は自分の容貌に負け目があをえがいて歩きながら彼を待っているのを見ると、誠はわ ったが、そこらの学生の懐ろの貧しさを想像すると、このが目を疑った。何事にも定刻を厳守する誠は、六時半に一 負け目は一掃された。銀座を闊歩するのに自分ほどふさわのかけちがいもなくそこに現われたが、してみると耀子 しい青年はありえないような気がしたのである。右に述べは定刻前から待っていたのである。あの冷淡な女が約束の たようなもろもろの条件が整わないことには、彼の恐怖心時間の前から待っているとは、大したと・ほけ方だ。それで の征服は難しかったろう。何という努力と危険に対する何なければ何か企らみがあるにちがいない。 ところが耀子にしてみれば、時間におくれたり早すぎた というささやかな報酬だろう ! りすることは、単に交通機関の気まぐれと彼女自身の気ま こんな完全無欠の陶酔のあいだにも、いかにも誠らしい ざん ざん ことは、例の耀子に対する作戦計画の復習を忘れなかったぐれとの足し算引き算の問題だった。比べるものがないほ てんたん ことである。 ど正直で恬淡なこの令嬢は、一度に一つ以上の嘘をついて いることができない。嘘を一つついているあいだはそれに 『彼女が物質を求めているあいだ、僕は誠心誠意精神的に 代彼女を愛しつづける。そしてついに彼女が僕を精神的に愛かかりきりで、精神の他の部分はどこをつついても正直な 時しはじめたら、そのとぎ僕は彼女を征服しておいて敢然と反応を示した。 捨てる。僕が彼女を捨てる自信を得るまでは、どんなに苦『川崎さんって本当にへんな人だわ』と彼女は考えてい 青 た。『あの人が私を好きだという感じにはもう馴れつこに しくても、指一本彼女の体に触れてはならないぞ』 彼にはこんな機械的な観念を三年間ももちつづけているなってしまったから、改めて私をきらいだとでも言ってく ことのできる一種の天分があったが、執念探さというよりれなければ刺戟がありはしない』 おさらい
を分析して、朱実は仮名で呼ばれる習慣を愛していたのる。ちょっと見ぬ間に、毅には二つ三つ鳴らない鍵盤のあ に、それを妨げた君が悪かったと結論を下した。愛宕説にる古ビアノのような気配が見え出し、末子の一高入学で安 よると、男性は本質を愛し、女性は習慣を愛するのだそう心してぼけたのだというのが母の意見だったが、きのう毅 いんぎん けんどじゅうらい である。捲土重来のためにまたモンドへ出かけようというの慇懃きわまる取扱に感激した患者が、今日は打ってかわ 愛宕の誘いを、誠は何の未練もなく断った。それから二度った尊大な態度に出られたりして面喰うことがあった。毅 とモンドの入口のフレンチ・ドアを押さなかった。この頑に言わせるといちいち意味があるのだ。ぎのうの慇懃さ くるみ は、この患者のロききで遠縁の子供が良い就職口を得られ 固さの喜びは、彼にとって一つの人生経験の胡桃のような たことへの感謝であり、きようの不機嫌は、十年まえこの 頑固な皮殻を、割らずにただ掌にころがしている、そうい う喜びにちかかったのだ。 患者がある会合で毅のことを「干のような顔をして」と 悪態をついたのを何かの加減でふと思い出したためであ 第六章 誠は海軍兵学校の入学準備にいそがしい易を誘い出して しばしば泳ぎに行った。水上飛行機が着水するさまを彼方 その夏は、八月二十八日に平沼内閣が総辞職をした。総に見ると、泳ぎの子供たちは喚声をあげた。着水後の数百 辞職に当って総理が欧洲情勢複雑怪奇と言ったので、そのメエトルを余力で海面を走る姿はいかにも美しく、時折そ しぶき 複雑怪奇という安直な言葉がしばらくのあいだ意味ありげの飛沫には疾走する虹が現われるのが、子供の目ざとい目 に流行した。総辞職の近因は、日英会談打切りと、独ソ不にとらえられて驚嘆のたねになった。易はまたもや志望が 変って飛行将校に憧れていたが、さしあたっての憧れは、 可侵条約成立とである。 代誠はひねもす飛行機の爆音がやかましい夏を市ですご兵学校の制服を着て誠の寮を訪ねることである。凡ゆる愛 時 し、毎日日英会談冫 こついて意見を吐露する父親のお相手を国心にはナルシスがひそんでいるので、凡ゆる愛国心は美 青っとめねばならない。毅は英国の不信を鳴らしながら、クしい制服を必要とするものらしい。 レーギー氏の身だしなみのよい白麻服の写真にばかに感心誠は日焦けのしにくい性質だったので、寮へかえってみ 昭していた。これは地方の紳士が、地方的意見への八割方のると友達よりはやや白い顔色は、不健康にさえ見えるのを 賛同から二割方の無難な反対を目立たさせるやり方であ気にしていたが、浪曼主義時代の仏蘭西では死人のような