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検索対象: 現代日本の文学 35 三島由紀夫集
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1. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

祖父の悪口が、おっとりと育った孫の耳に入りだしたの は、大学を出るころになって、ようやくのことである。そ れまで昇のまわりには、祖父を神格視している人ばかりが 集まっていた。父をも母をも幼ないころに喪ったこの城所 三世は、ふつう威勢のさかんな祖父を家長にいただく家で 囁かれがちな、どのような不満も聞く折がなかった。その 実、彼が小学生のころ、白色テロの一味が未遂のままに検 挙されたとき、その暗殺名簿のなかに、城所九造の名を見 出だした世間は、ひそかな拍手を送ったのであった。 九造は鹿児島の産である。明治十二年、九造の父は旧藩 主の東京の屋敷の執事になり、家族ともども上京する。や がて九造は、明治時代の実業家にとって共通の師父である 第一章 福沢論吉の塾生になる。 明治三十一年に、すでに福沢論吉は、実業を論じて、水 きどころのぼる 城所昇は、小説の主人公たるには不利な人物で、人の共カ電気の開発に目をつけていた。九造は大いに共鳴した 感や同情をこれほど受けにくい男はめずらしい。世間の判が、十数年後には九造自身が電力事業に携わって、東北地 断で言うと、彼は「恵まれすぎていた」のである。 方の公益事業を手中に収めるにいたっていた。 父は早く死んだので、彼は祖父の寵児であった。その祖九造の生涯には、いつも一種の予感による調和が働らい 滝父も三年まえに亡くなったが、祖父の庇護は、死後もなていた。良いほうへにせよ、悪いほうへにせよ、事情はた るお、愛する孫の生活を厚く包んでいた。 えず九造の予測するとおりに動き、「だから言わないこっ め祖父の城所九造の名は、電力界では誰知らぬ者がなかっちゃない」という文句は彼の口癖になった。実際まちがっ た。豪宕で、復讐心に富み、道楽には目がなく、おそる・ヘたことは、ぎまって彼の意志の挫折から生れ、九造に言わ き精力の持主で、夏のさかりにもネクタイと上衣をつけ、せれば、役人はつねに愚鈍であり、民衆はつねに盲目であ 終始一貫、「民衆の敵」であった。 った。企業の自由は国家目的に、物質文明の進歩は民衆の 沈める滝 ・・」うとう ささや たすさ うしな

2. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

をやるのは」と聡明な処女は言った。「為にもなるし、面気高いと謂ってよい風情をかもし、その姿にはいささかの 白くもありますわ。さっきあなたは私のことを、微笑を以構えもみられず、火にかざしているほうの掌を神経質にも て恕されている人間だと仰言ったわ。何でもやれるのは、 うひとつの掌とたびたび替えるのが唯一の目につく変化で 恕されている人間に限るわね。私たちは恕されているのあった。 で、誰よりも自由なんだわ」 誠は耀子が声を立てはすまいかと窺った。突然かって私 「恕されていると思うのは心外だな」と誠は憤然と反駁しかに立てた誓を思い出し、兵士のようにこれを心に諳誦し た。「僕はお目こぼしをねがっているのじゃなくて、相手こ。 . ・『彼女を捨てる自信を得るまでは、どんなに苦し に文句を言わせないんだ」 くても指一本彼女の体に触れてはならないぞ』 : : : 彼は珈 「つまり恕されていることですわ」 琲サイフォンに火を点じた。そのとき耀子が立ってドアの 「相手に恕す権利があればね」 ほうへ歩き出した。 「恕す権利はいちばん凡庸な在り来りなもので、赤ん坊に 「どこへ行くんですか」 だって乞食にだってあるでしよう。ただ私たちにだけはな「もう失礼いたします」 いんです」 「そのドア、鍵がかかっていますよ」 「そんな権利はまた持ちたくないしね」 「鍵を下さいまし」 二人は顔を見合わせてはじめて笑ったが、この一句はの「珈琲をおのみなさい」 ちのちまでも誠の脳裡に鮮やかに残った。恕す権利のない 「鍵を下さいまし」 一一人のあいだに生れる諒解の無力さは、想像に余りある。 それから耀子は威厳にみちた調子で同じことを三度も言 二人は時の経つのも忘れて話し合ったが、誠は笑いなが った。誠はこういう場合の女の正面切った態度を見るとい ハンカチ 代ら何気なく立上って手巾に隠して扉の鍵を閉めてしまったつも滑稽を感じるのであるが、女の守ろうとしている価値 ので、その微かな鍵音は耀子の顔色を失わせた。安心させそのものは男の賦与したものであるのに、まるで一度貰っ たものは返すものかといきまいているように見えるのであ 青るために誠は部屋に燈火を点じた。すると耀子の頬にも、 りんしよく うすらひ 薄氷のような、こわれやすい不安な微笑がうかんだ。誠はる。貞潔は吝嗇の一種であることを免かれない。 軽いまばたきをしてみせたが、女にはその意味を読みとっ それにもかかわらず、耀子が何の構えもしらずに、恐怖 しゅうちさいな た反応があらわれない。耀子の無防禦なことは、ほとんどに蒼ざめ、羞恥に苛まれ、受け入れることと拒むこととが ゆる うかが ひそ

3. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

「どうして、あたくしが」 拝しますわ」 「不真面目だよ。あなたは人生とちゃらんぼらんな関係し「あなたの理屈は、ありていに言えば処女の論理ですね。 か結ばない。あなたはせいぜい人生を馬鹿にしているつもそれと同時に、義賊と革命家の論理でもある。とんだもの いたずら りでいるが、人生が悪戯っ子をゆるすように微笑を以てあにとつつかれたな」 ゆる なたを恕していることに気がっかないんです。そういつま「何とでも仰言いまし。私は何も馬鹿にしていはしませ でも人間を愛さないで生きてゆけるものじゃありませんん。その代り尊敬もいたしません。持ちっ持たれつで動い よ。愛される危険を避ける道は、愛することのほかにはなている世の中が丸い輪のようなものだとすると、私はその いからね」 輪の切れ目になりたいんです」 たちま 「切れ目は忽ちつながりますよ」と誠は言葉を継いだ。 「誰も人生と確かな関係なんか結べる人はありませんわ」 と耀子は気持のよい率直さで言葉を返した。「社長さんだ「僕のはじめ考えたことは、あなたに似たようなことだっ ってそんなものをもってはいらっしゃいません。合意は拘た。ところがこの丸い輪は、つながった蛇は、いわば不死 束さるべしというモットオで、まず社長さんは御自分を誠身です。愚劣さが救われたと思われるのは一瞬にすぎな 、。不真面目さで愚劣さを救うという企ては、質屋の番頭 実さで縛ってお見せになりました。チンパンジーをつかまし えるには、こちらの足を縛ってみせると、むこうも真似をを寄席へ落語をきかせにやって、心の洗濯をさせるような ものにすぎません。僕はもっと永つづきのする方法を考え して足を縛ってしまうから、たやすくつかまえられるとい うあの方法ね。でも私は人生にむかって自分の誠実さを示た。それは目的を忘れてしまうことです。太陽カンパニイ すということが、まるでスカートをもちあげてみせるようは征服に憧れている。僕に言わせれば、軽蔑する権利を得 な気がして出来ませんの。ですから私は人生についぞ誠意るための戦いが、征服です。ある価値を征服したいと思う 代を示すまいと固い決心をいたしました。お金を飼葉桶に投僕の目的は、ただただその価値を軽蔑したいためにすぎま 時 げ込むときだけに、わたくしは人生と関係をもちます。裏せん。ところで僕の処生訓は、目的を忘れてしまえという ことだな。そのとき僕は征服すべき対象を誠心誠意尊敬す : お金があるべきところになくっ 青切りという関係を。 て、ある筈もない場所へ移る瞬間が、私にはほとんど酔うることだって出来るんだから」 ような心地がしてよ。そういうとき、私は自分の作った人「目的を忘れてしまえましようか ? 」と子は甚だ冷静に 生の小さな結び目を、自分の作った小さな神様のように崇疑った。「私は一刹那だって盲らになれません。な・せって、

4. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

は南寮である。ぎのうまでは各部の所属がまだ確定してい 「いや、思わず吹き出しちゃっ . たんです。僕はいつもわる なかったので、一応の部屋割が決められるにとどまった。 い癖で後先の考えなしにやっちまうんです」 きようは各部ごとに確定的な部屋割が決められる。南寮八誠は嘘をついた。軽率になりたさに笑ったなどと言って 番室の弓道部の部屋が誠の住所になった。 も、わかってもらえそうもないと思ったからである。 芸術的なことには一向に興味がなかったので、それなら このとき彼の中には奇妙な心理が働いた。自分がまった いっそ、ポート部やラグビー部のような羽振りのいい運動く軽率に、後先を考えずに笑ったと思わせたかったのであ 部へ入ればよかったが、彼は連動のエネルギーをできるだる。決して後悔はしていないが、自分と同じような感情の け節約して、知識欲の満足に充てたかったので、あんまり動かし方をするこの新らしい友への警戒心から、彼はおの くたびれないですみそうな弓道部を選んだのであった。 れの鋭鋒を隠さねばならぬと考えた。 荷物を片付けていると、小肥りした快活な新入生が、行 ひとつには、愛宕の発音があまりにも流暢な東京弁だっ 李を肩にかついで入ってきた。先輩の勝見がその顔を見るたので、この市出身者は、田舎者のとんちきを露骨に出 と、誠に紹介した。 しておもねりたい気持もあった。 おたぎ 「愛宕だ。同室だよ」 「大丈夫でしようか」と誠は心配そうにたずねた。「僕す 誠は立上って埃の手を叩いて挨拶すると、相手の耳がか つかり不安になっちゃったんです。あとで呼び出されてひ すかに動いた。 どい目にあうんじゃないでしようか」 「やあ、さっき僕の隣りにいたでしよう」 「そんな心配は要りませんよ。この学校には鉄拳制裁なん と誠が言った。 かない筈です。あんなに怒鳴るのは、あれはエネルギーを そのとき勝見が用ありげに出て行ったので、二人の新入発散させたにすぎないんですよ」 代生はすこし気が大きくなって、べッドに腰かけて足をぶら 二人の新入生が偉ぶった意見を交換している最中に、勝 時ぶらさせながら話した。 見と一緒にのっそりとさっきの風紀点検委員が入って来た 青「さっき君が吹き出したでしよう」と愛宕は言った。「あのにはおどろかされた。二人はペッドから飛び下りて、直 のとき僕は偉いなと思いましたよ。まったく可笑しいもの立不動の姿勢で委員を迎えた。 を笑わないでいるなんて、真理に忠実じゃありませんから委員は巻いたノートを手に持っていて、それで頸筋を叩 ね」 きながら、部屋のなかを刑事のように見回した。それが照 かつみ

5. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

る。しかしたとえ自分が高等学校の話をはじめても、易のく詫びるだろう。この再従兄は何て自然なんだ。彼こそは 興味を惹くことは殆どありえないというこの予測は、誠を興味のないものを黙殺できる人間、つまり愛することので 押され気味にしていたいちばんの原因だった。 きる人間なんだ』 「僕は陸軍よりもこのごろは海軍がよくなったな。何とか こんな讃嘆には、もとより幾分は自信のなせるわざだっ たが、いつになく自分の弱点をすなおに認めているやさし して兵学校へ入れないかなあ。もう遅いかなあ」 「遅くないよ。今からだって間に合うよ」 さが籠っていたので、この視線をうけた易は戸惑いしてぎ 「今からでも遅くはないか。二・二六事件を思い出すね」 ごちなく笑った。彼の白いシャツの肩には木洩れ陽がまだ と易が言った。二・二六事件は思い出したが、誠の一高らに落ちている。 「なんだい、黙ってるなんて陰険だ。一高の話をしてきか 入学は思い出さない。 そどう 二人は蕨の生えそめた阻道をの・ほり、やや雑木のらなせろよ」 太田山の頂きへ出て、そこの古い切株に腰を下ろした。ま「君には興味がないだろう」 ことによく晴れた日だったので、山道に汗ばんだ二人は上「いや、あるよ」 「いや、ないに決ってるよ。君の顔に書いてあるもの」 着を脱いだ。脱いでいる最中に、易はふと思い出して、こ 易は図星をさされて眩しそうに笑った。笑うときしきり う一一 = ロった 0 「ああ、一高の話をしてくれよ。もう寮なんか見て来たんに目ばたきをする癖がある。 だろう」 「うん、ほんとはね。ただ東京へ出てゆくのがうらやまし いな。君は頭がいいから、どんどん偉くなるだろう。上 誠は徴笑した。少しも冷笑の影のない、彼のいわゆる仔 : しかし背の伸びるときには肥ること へ、上へ、上へ。 猫が微笑したのである。 『実に自然だなあ』ー、・・・・彼は讃嘆して再従兄を眺めた。『こも忘れないでほしいな。日本は地震が多い国だから、摩天 の自然さが業に欠けている最大のものなんだ。僕だった楼みたいな人間はみんな倒れてしまうのだ」 とっさ 忠告にも咄嗟の機智にも溢れている自然さが誠を喜ばせ ら、話している相手の心をしよっちゅう読みとろうとあく た。彼はうなずいて感謝した。それから易は寮へたずねて せくするだろう。たとえ相手の重大事件を忘れていても、 思い出した時には、忘れていなかったふりをするだろう。ゆくことを約束し、甚た疎い東京の地理について根掘り葉 そうでなければ、忘れていたことを口に出してそらそらし掘り学校の在処を訊いたので、地図を持ち合わせていない トらび

6. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

そのうち昇は、自分の横になった姿を、じっといたわし昇は衝立のかげからのそいた。瀬山の顔はすぐ目近にあ 0 く眺めている瀬山の視線に気づいた。瀬山はもう喋らなか って、受話器をとりあげた。奥野荘は、会社で使うことが った。彼の角ばった厚い顔は、逆光のために、重い影に包多いので、特にこの建設事務所とのあいだに、電話が引か まれた。 れているのである。 はばか 昇にはあとでわかったことだが、このとき瀬山の心に瀬山はあたりを憚る声でこう言った。 は、彼の本当の持ち前でありながら、永いあいだ隠されて 「もしもし、奥野荘かい ? お清さん ? 俺は瀬山だよ。 ちょっと いた従者の魂が、目ざめかけていたのである。 ・ : 君の 町事務所の瀬山。一寸たのみがあるんだがね。 ところに、きれいな奥さんが東京から来て泊ってるだろ 突然、瀬山がこう言った。 う。あの人をね、御主人にわからないように、うまく呼び 「ああ、町へ電話をかける用事を忘れてた。又あとで会出してほしいんだよ。ね、電話なんて云わないで。こっち いましよう。あなたは午後もクラッシング・プラントの工はうまく呼び出せるまで、大人しく待ってるから。 事現場ですね。もしかしたら、そこへたずねてゆくかもしや、浮いた話じゃないよ。急用なんだ。大事な用件なんだ。 れない」 : : : え ? 御主人は今しがた露天風呂までいらしった ? : そうか そうして、そそくさと立上った。 ふうん、一人で ? ああ、宿の主人と一緒に。 、そりゃあ丁度いい。それじゃあ、奥さんは留守番だね。 昇は瀬山というこの予断を許さぬ男への人間的な興味の早く呼び出しておくれ、うん」 とりこ 虜になった。電話は宿舎の階下にもちゃんとあるのに、昇瀬山はあたりを見まわして、妙な鼻唄をうたい、拳の背 がふと覗いた窓から、別棟の事務所の非常階段へ向ってゆで机をかるく叩いた く瀬山を見ると、思わずそのあとを追わずにはいられなか「 : : : ああ、菊池さんの奥様でいらっしゃいますか。はじ っこ 0 めまして、私、 xx 電力の瀬山と申します。どうかよろし 昇はいそいで、事務所の裏階段のほうへまわった。それく」 をの・ほると、例の衝立に囲まれた茶呑み場へ出る。人に聴『瀬山はまだ顕子に会っていないんだな』と昇は思った。 かれたくない電話は、衝立の際にある電話機を使うのがな『そうすると、あいつは顕子が俺のホテルへ来ていた留守 らわしである。 に菊池家をたずね、いよいよ顕子が出奔してから、行先を ついたて きわ しゃべ まじか

7. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

が、屈辱には耐えない人間だということも知っていた。しある。 ごもっと かし世間には菊池のように、昇以上に感情をもたず、決し「そうですね。そうお考えになるのも御尤もです。顕子は、 て屈辱を怖れない男もいたのである。 あれは、女房にする女じゃありませんよ。ひろい世間に、 がまん 青年は黙っていた。 あの女と一緒に暮して我慢していられる男は、私ぐらいの しかし答の代りにその頬を赤らめたので、菊池ははじめものでしよう」 冫をし力に、も てゆったりした大人の徴笑をうかべ、昇をいかにも小僧っ彼は意気揚々とそう言ったが、こんな揚言こよ、 陰惨な誇りがあった。そればかりではない。昇は、菊池の 子だという風に見た。昇はその誤解に委せた。 「まあそれはそれとして」と菊池は言った。「私は万事話言う意味が、昇の体験した意味と、丁度うらはらになって を事務的に運ぶほうでして、お気を悪くされては困りますいることをすぐ読みとった。菊池にとっての顕子の耐え難 はんらゆう が、いろいろお尋ねしたいこともございます。第一に、あさは、昇にとっての顕子の耐え難さとは、別の範疇に属す なたは、何ですか、顕子と結婚なさるお気持はありますか」る。 菊池は急に、のけそらせた眼鏡を裸電球に光らせて、笑 昇は気圧されて、本能的な恐怖にたれた。考えるより いだした。彼もそれに気づいたらしかった。 先に、うなだれた青年は首を左右に振った。 『俺はこう言うこともできた筈だ』と昇は思った。『いき「第二にうかがいますが」とようよう笑いを納めて言っ り立ち、ヒロイックに、「僕は責任をとります」と言うこた。「あなたは今後も、顕子とずっと付合をお続けになり たいお気持がございますか ? それならそれで、こんな常 とも』 世間の考え方で、こんな瞬間の昇が卑怯だとしても、昇識外れなやり方でなしに、何かと御使宜をはかりたいと思 いますが : : : 」 は人生が、青年の理論的確信を裏切り、それを打ち負かし、 どうちゃく 滝それに自己撞着を犯させ、ただの世間並の虚栄心から、結昇は今度は、うなだれる必要が少しもなかった。彼が欲 る 果として人生に屈服させる、そういう危機を乗切ったわけしいのは自由だった。こう言った。 「いや : : : に : 沈である。 菊池は、あいかわらず表情を動かさず、お人よしの安堵菊池は腹の底からこみ上げるような笑いを笑った。実に も、店の品物を安く見積られた怒りも示さなかった。おそ快げで、昇から見ても、この場合、不謹慎だと思われた らく昇のこんな答は、菊池にとって自明の事柄だったのでほどである。 こころよ

8. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

うな気がしたのである。 昇の中でこのとき何か小さな力が崩れた。 ネルの着物は虹のように色を潤ませ、乱れ箱の端には、 彼がどういう心境にいたかは後で述・ヘよう。目前にはと 白い一対のレエスの手袋が、羽根のような軽さで懸ってい にかく欲望が立ちはだかり、彼にとって心理的些事は重要 なかた た。また濃緑の帯は、衣桁の中桁から、大きくうねって、 ではなかった。 しゅうしゅ 畳の半ばにまで辷っていた。銹朱の帯留も、衣桁の一端に、 『それにしても』と昇は思った。『駅へ迎えに来てから今 切り揃えた固い房を垂れて揺れていた。白い洋風の肌着まで、顕子があんなにも悩んでいた無感動のことを一つも かいふく は、これら色とりどりの漂流物にむかって、余波の泡のよ言わず、その恢復の希望をすこしも洩らさないのは何故だ うに乱れ箱を溢れていた。 ろう』 しんし 女たちの纏うものは、みんな、藻だの、鱗だの、海に似 だが、真摯な女に生れかわり、眼差から一挙一動まで恋 たものを思い出させると昇は思った。しかし漂っているのする女になった顕子が、そんな自明な不快な話題に、触れ は磯の香ではない。 ものうげな、濃密な、甘くて暗い匂いなかったのは当然だ、と昇は思い返した。 である。夜の匂いというよりは、女たちの時刻、午後の匂『もし今さらそんなことを言い出したら、そのロを手でふ いである。 さいでやろう』 昇は顕子の肌着を顔に押しあてた。こういうたのしみ は、顕子の不在の、最後の時間をたのしんでいたのだとも ・ : 湯上りの顕子は美しかった。目の張りつめた光りは いえよう。あの永い半年の不在のあいだに、顕子がほとん潤み、心持反り返った訴えるような形の唇には、心をそそ ど観念的な実在になったことは前にも述べたが、昇にはこるもどかしさがあった。昇はその唇に軽く唇を触れたま の移り香、このかすかな体温の名残、この布の微妙な皺が、 ま、じっとしていた。顕子はいっかのように、接吻をする 滝現実の顕子ではなくて、観念的実在がいま身にまとって、前に、あらぬところを見つめたりはしなかった。昇はさき る残したもののように思われた。 ほどから顕子の接吻が、半年前の接吻の味わいと、すこし しかし青年は急に不快な記憶に襲われて顔を離した。そも似ていないのにおどろいた。 沈 の香水の匂いが、あの清純そうな手紙に染ませた匂いを思 この髪、この額、この耳、と思いながら、昇の唇は確か い出させたからである。 めた。それらの物質的な細部はそのままだったが、顕子は 少しも似ていなかった。美しい細身の体はつつましくして な・こり

9. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

の肉、猟師たちの巧みな表現によれば「崖から落ちて死ん ある朝、食卓にはえもいわれぬ香りが漂い、青年たちは かもしか すく でいた」羚羊の肉も、それにまじって贈られることがあっ競って味噌汁を椀に掬った。それは鍋鶴が沢まで行って摘 ふき んで来た蕗の芽だった。かれらは味噌汁の湯気に顔を埋め て、この春の香りを嗅いだ。 春の最初の黒い土を見ることが、これほどの歓びをもた らすのを、昇ははじめて知った。すでに柔らかな雪は、う 暖かい日がつづくにつれ、そこかしこに底雪崩が起り、 ・ : うおん つかり行くと、太腿まで足を埋めた。雪はまず宿舎の周辺、轟音はいつも四、五分っづいた。ダムサイトの崖でも起っ 熱い石炭殻を捨てる一劃から融けはじめ、一ヶ所に風呂敷た。喜多川の川ぞいでも起った。また喜多川の上流の方角 ほどの黒い土が見え、それが日と共に広くなった。 から、遠い雪崩のとどろきがたびたび聴かれた。 その土を踏みに行こうと言う者がある。みんなが賛成すある日、昇たちは五人で一組を作って雪崩の調査に行っ にわ る。久しく使わなかった地下足袋をはいて、かわるがわる た。喜多川の氷はすでに融け、俄かに水嵩が増して、その あなうら その土を踏みに行った。かれらの地下足袋の蹠に、土は根瀬の音がめずらしく耳にひびいた。 さかのぼ 深い弾力を帯びて応えた。 はるか町へかよう道を、喜多川ぞいに遡った一同は、 或る者は、その上で地下足袋を脱ぎ、足になってまだ荒沢嶽の北斜面に夥しい雪崩のあとが連続して、道をすっ 冷たい土を踏んだ。その小さな土の部分が広大なものにつかり遮っているのを見た。 ながっていることが、これほど足の触感からじかに心に触「これだな。俺たちの越冬を永びかせるやつは」 れることはなかった。久しく絶えていた音信が通じ合い と佐藤が言った。 ふたたび自分たちの存在が、在るべき秩序に組み入れられ「これだけの雪が溶けるのを待たなくちゃならないんだ」 たような気がしたのである。 「枝折峠からこっちは、いたるところこの調子だろう。殊 最後の雪は、四月の二十四日に降った。 に明神沢の雪は、吹きだまりで凄いんだってな」 土の上のその雪はたちまち消えた。 と昇が言った。 後の雨に、濡れては乾いていたこの小さい領土には、こ 一同が調査をすませて宿舎へかえる途中で、昇は列を離 まかい雑草の緑が芽立ちはじめていた。 れて、銀山平を東へ走った。例の小滝を見に行こうと思っ たのである。 こ 0

10. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

ヘリコプターは、ほぼ百米の高度のまま、宿舎の上空ま聴いたのである。遠くを走るらしい声が、又それにこたえ で来て、そこで昇降機のように垂直に下降した。十五米ほた。 どのところで、巧みな操縦で、小ゆるぎもせず、空中停止奥野川は水を増した。一月の一秒当り八・ = 一立ら、 りゅうべい をした。操縦士の笑っている顔が見える。鼻下に髭を生や二月に六・五立米に落ちた流量が、三月に入って、たちま りゅうべい している。四ヶ月ぶりに見るこの他人の髭は、云いようのち倍増して、一二・七立米になったのである。昇たちの流 ない親しみを与えた。 量調査にあらわれたこの今年最初の増水の数字は見飽かな 鉤にズックの袋をかけた長いロープが、ヘリコプタ 1 か かった。調査に携わらない人たちも、何かの香りがあるも ら手繰り下ろされた。 ののようなこの数字を、熱心に回覧した。 まどお 荷は少し揺れながら、ぐるぐると回ったので、影が袋の雪は少しずつ間遠になった。あれほど深い沈黙に包まれ 凹凸の上をめぐった。 ていた戸外には、時折雪の崩れ落ちる音を聴くようになっ 鉤が目の前へ来ると、一同はとびついて荷を鉤から外した。 た。歓声があがり、「ありがとう」と書いた瀬山の手巾の昇は次の季節に対して、兎のような過敏な耳を立てて暮 小旗が鉤に結ばれた。 す毎日を、今はふしぎとは思わなくなった。都会にいたこ ロープは忽ち、大まかに揺れながら、青空へ向って昇つろ、彼の考えていた未来はひどく難解なものだった。彼が オしここでは ~ 不 た。その昇ってゆく縄の力が、空に泛んでいる一人の人間それを信じようとしなかったのも無理はよ、。 の力だと思うことが、感じやすい若者たちの心を幸福にし来は単純なものだった。信じないほうが、むつかしかった。 それは春にすぎなかった。 握ろうとしても指のあいだからこ・ほれ落ちてしまった粉 しる る 第六章 雪が、いっかしらしっとりと潤み、握った指の形を印し、 め 掌の中に堅固な玉になって据っているのを見るのは、子供 沈 三月上旬のある晩、かれらは狐の声を聴いた。それは雪らしい喜びである。永らく拒んでいたもののこの最初の和 のない夜で、ストーヴの啗のごうごうという音にまぎれ解。 : : : 昇たちはいくらか温かい日には戸外へ出て、雪を て、突然鋭い、凍てた空気を鞭打って鳴るようなその声を握って、むこうのの幹に当てつこをして遊んだ。幹に当 こ 0 たちま