城所 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 35 三島由紀夫集
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1. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

菊池に連絡したわけなんだな』 るところから、夏の白い旅行服を着た顕子の、白いサンダ ・瀬山の電話はつづいた。きいている昇はおどろい ルを穿いた素足が見えた。その顔は表情を失って硬かった こ 0 が、下草の反映のために美しく見えた。 「 : : : 実は、私、城所昇の友人の者でございますが、城所瀬山は立上った。顕子は人に挨拶するときによくうかべ もろ : はあ ? の代理で一寸お目にかかりたいと存じまして。・ たあの脆い不本意な微笑を忘れていた。 今すぐなら ? 場所はお宿ではないほうがよろしゅうござ顕子は立ったまま、光沢のない鋭い声で、苦しい言葉に いますね。お時間はとらせません。ほんの五六分でよろしつぎつぎと追いかけられるようにこう言った。 ゅうございます。は ? お宿の前の林、川にちかいところ「城所さんは何て言ってらして ? 主人は、もう城所さん そと の楓林ですね。はい、承知しました。あそこなら外から見が、私を少しも愛していない、 って伝えて来たんです。主 えませんから。ではすぐ伺います。自転車で伺いますから」人は城所さんが仰言ったとおりを伝えるんだ、って言って 昇は河原づたいにゆく険阻な近道を知っていた。沢に足いましたけれど、私信じません」 をとられ、荊棘に膝をやぶられながら、走ってゆく自分の顕子のこの「信じません」という語調の、槌をふり下ろ 熱情を、昇は疑っている暇がなかった。蘆をわけると、葦すような力に、昇はぞっとした。木洩れ日は、女の顔の上 きり 切がさわがしく飛び翔った。奥野川の瀬のひびきが、昇のから、ややくつろげた胸の上にまで、たえず動いた。白い 木製の首飾は鮮明に白く、顕子の胸がこの数日の夏の日ざ わけて歩く草や、折れる小枝の音を凌いだ。 しのために、かすかに灼けているのがわかった。昇は灼け 奥野荘の屋根が、楓林の梢にわずかに見えるあたり、 ふな なかった前の胸が、どんなであったか、い出そうとし べりの古い撫のかげに、青年は身を隠した。激しい息づか て、果さなかった。 いをこらえるのは苦しかった。蘆はすでに丈高く繁ってい 瀬山は肉づきのよい背をかがめてうつむいていた。この 滝たが、 彼は自分のシャツの白さを気に病んだ。 る 楓林のなかには、下草に木洩れ陽が動いている。光って鈍重な背に、昇は瀬山の善意を読んだ。彼がとにかく昇の * びう め いるものがある。瀬山の自転車のハンドルである。彼は昇見せかけにだまされて、良心に責められて、何らかの弥縫 沈 に背を向けて、草に腰を下ろして、汗を拭いている。顕子の策に出ようとしていることは明らかである。 れはまだ来ていない。 瀬山はようやく、重ったるい口を切った。緊張して口を なま きくとき、少くとも誠実に話すときの常で、軽い広島訛り 昇は待った。やがて楓林の奥の、あかるく草が燃えてい

2. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

祖父の悪口が、おっとりと育った孫の耳に入りだしたの は、大学を出るころになって、ようやくのことである。そ れまで昇のまわりには、祖父を神格視している人ばかりが 集まっていた。父をも母をも幼ないころに喪ったこの城所 三世は、ふつう威勢のさかんな祖父を家長にいただく家で 囁かれがちな、どのような不満も聞く折がなかった。その 実、彼が小学生のころ、白色テロの一味が未遂のままに検 挙されたとき、その暗殺名簿のなかに、城所九造の名を見 出だした世間は、ひそかな拍手を送ったのであった。 九造は鹿児島の産である。明治十二年、九造の父は旧藩 主の東京の屋敷の執事になり、家族ともども上京する。や がて九造は、明治時代の実業家にとって共通の師父である 第一章 福沢論吉の塾生になる。 明治三十一年に、すでに福沢論吉は、実業を論じて、水 きどころのぼる 城所昇は、小説の主人公たるには不利な人物で、人の共カ電気の開発に目をつけていた。九造は大いに共鳴した 感や同情をこれほど受けにくい男はめずらしい。世間の判が、十数年後には九造自身が電力事業に携わって、東北地 断で言うと、彼は「恵まれすぎていた」のである。 方の公益事業を手中に収めるにいたっていた。 父は早く死んだので、彼は祖父の寵児であった。その祖九造の生涯には、いつも一種の予感による調和が働らい 滝父も三年まえに亡くなったが、祖父の庇護は、死後もなていた。良いほうへにせよ、悪いほうへにせよ、事情はた るお、愛する孫の生活を厚く包んでいた。 えず九造の予測するとおりに動き、「だから言わないこっ め祖父の城所九造の名は、電力界では誰知らぬ者がなかっちゃない」という文句は彼の口癖になった。実際まちがっ た。豪宕で、復讐心に富み、道楽には目がなく、おそる・ヘたことは、ぎまって彼の意志の挫折から生れ、九造に言わ き精力の持主で、夏のさかりにもネクタイと上衣をつけ、せれば、役人はつねに愚鈍であり、民衆はつねに盲目であ 終始一貫、「民衆の敵」であった。 った。企業の自由は国家目的に、物質文明の進歩は民衆の 沈める滝 ・・」うとう ささや たすさ うしな

3. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

昇は田代の電話できいたと答えた。 を慄わせて、 「そうですか。ところがその噂はもう立ち消えになります『君は私をゆする気か』 と来たね。愉快じゃありませんか。そこで私は急に下手 「何故 ? 」 に出て、決してそんな大それた気持はない、女房子を飢え 「越冬中、私が手記を書きためていたのを、御記憶でしょ させないですむように、おすがりするだけだ、と哀れつぼ う。反城所派の陰謀を察知したんで、私は自分が調査した く言ってやりました。あげくのはてに、専務は、私があの 限りの事実を、 もちろん正確な、確実そのものという手記を決して人に見せず口外もしない、という条件で、馘 データばかりをーー、手記にまとめていたんです。これがどころか、本社へ転勤することを約束してくれましたよ。 思わぬ役に立ちましてね。 は、 . ほ「ほ 尤も私の転勤ーーれつきとした昇進ですよ もしこの手記が発表されたら、専務はじめ反城所派は総りのさめたころ、この九月ごろという約束になりましたが 退陣を余儀なくされるような、彼らにとっては身の毛のよね。あと町も二三ヶ月なら、却って避暑代りでよござん だつような資料なんですよ。 越冬がすんだら案の定、奴らの陰謀で、私が使い込みを「その手記を俺に見せないかな」 やったのなんのって、いろいろデッチ上げが出来上ってい 「そりゃあだめですよ。そりゃあだめだ。専務との間に、 そうそう ましてね。私は帰京匆々、あの手記を持って専務に会いに男と男との約束がありますからね。あなたにだけはお見せ おととい 行きました。それが一昨日ですよ。 したいが、口外はできません」 専務は手記を。 ( ラバラめくるなり、顔色を変えました瀬山は 0 ップをも 0 た指の一本を離して、それで以て よ、あんた。自分の目の前で、人が見る見る顔いろを変え押のほうを指さした。見ると城所九造の、フロックコート 滝るくらい、痛快なものはありませんな。それから何て言っを着たいかめしい写真がかかっている。 る たと思います。 「やつばり先生の霊が護って下さったんだ、と私はこう考 えています。人間、正道を歩んでいれば、誰もおとしめる 沈『この手記を譲ってくれんか』 と、こうなんですよ。 ことができませんよ。正道と云ったって、私は何も、聖人 私は、ちゃんと写しがとってあるから、これをお譲りし君子になろうというのじゃない。ただ、純粋無垢に、人間 ても無駄だ、ってつつばねてやりました。そうすると、唇的に生きることが正道なんですよね」

4. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

とっさ が言葉にまつわった。 ない。昇も咄嗟にそれを考えたが、 , 彼の足は制せられて動 「お目にかかりたいと思ったのは、そのことでして、私はカなカった 友人ですから、城所君の気持はよくわかっていました。冬昇は昨夜の菊池が帰りぎわに言った言葉を思い出してい ごもりまで一緒にした仲ですから。 : : : 彼はあなたを本当たのである。青年は決して残酷になれないと菊池は断定的 に愛しておりますんです」 に言い、昇は今まで女の苦悩に対する自分の想像力の欠乏 昇は事の成行におどろいた。彼の薬は利きすぎた。復讐が、ただ単に残酷さを装うていたのだと考えた。そして今 のつもりで昇を救った瀬山は、今度は味方のつもりで昇をの目前の事態は、この青年の硬い心が、菊池の言ったよう おとしい 窮地に陥れるかもしれなかった。顕子はすばやくし ; ロ 、詰めな無類の残酷さに達する一つの試煉のように思われた。 こ 0 何故なら、何も知らずに言った瀬山の一言で、顕子がど 「城所さんは何て仰言って ? あなたに何て仰言って ? 」んな苦悩に陥ったか、昇の想像力は十全に知っていた。彼 瀬山は十分重厚に、意気揚々とこう言った。 には残酷になる資格があった。この瞬間に彼が飛び出して 「冬ごもりのあいだ、あなたのことをさんざん聴かされまゆけば、彼は人生に負けた男になるだろう。しかしこの怖 してね。失礼ですが、あなたのどこに惚れた、とこう訊きろしい瞬間に耐えれば、昇はその当初に、石と鉄に似た物 ましたら、城所君は言っていましたよ。 質として愛した女の存在を、そのままの存在に保ちつづけ ちしつ 『あの人は感動しないから、好きなんだ』って」 るだろう。昇は自分の想像力が知悉している苦悩によっ て、こうまで自分の心が引裂かれるのにおどろいたが、彼 彼は人間が絶望に襲われる刹那をまざまざと見た。こんの関心はすでに愛の問題をとおりこして、もしかしたら顕 なすさまじい瞬間に立ち会うのは、一生のうちに何度とな子自身が耐えきれないだろうその人間的苦悩を、彼が引受 いだろう。 けて、彼自身が踏みにじり、寸断して、それで以て彼の 顕子の顔は、まわりの楓の緑とまぎれるほどに、蒼ざめ持ち前の硬い心を本当の石に鍛えようという考えに傾い た。そのみひらいた目は、大きな固い壁に直面して、突然た。 ・ : 昇はもう一度顕子を見た。 視界をふさがれて、視線はむなしく前方をまさぐっている ように思われた。もし昇が撫の木かげから飛び出してゆけ瀬山はおどろいて立上った。顕子は顔を両手で覆って駈 ば、顕子は別の衝撃で、こんな絶望から救われたかもしれけ去った。 かえで ぶな

5. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

「あなたの思ってるほど、僕は尋常な人間じゃありませんる学生らしい顔、気負い立ったあまりに陰鬱になった顔、 くだ 世間的に砕けすぎた顔・ : 「そりゃあ大先生の御血筋だからそうでしよう。しかし独昇は控え目に話した。技師長が彼の越冬の意向を伝えた り者ってものは、まったく妙なことを考えるもんだな。私ときに、一座には俄かに親しみが湧いた。 は東京でも、独り者の運転手のタクシーには乗らないよう「それじゃ俺たちと一緒ですね」 にしているんです。危いから」 とひどく赤い頬をした田代という若者が言った。本当の 技術者にとってしか自然でない生涯持ちつづける子供つ。ほ 夕刻、若い技師たちは、測量や地質調査や原石調査の仕さを、彼は早くもその年で用意していた。 事からかえって来た。風呂に入って、かれらは食堂へ集ま「それはそうと、城所君はスキーはできるね」 った。「服装清潔」とか「手洗励行」とかの貼紙のある、 「できます」 食卓の上には白い花瓶に町からもってきた大輪の菊を活「そりゃあよかった。スキーができない人に、越冬をさせ けた、学校の寄宿舎ふうの食堂へ。 てあげるわけには行かない」 昇の赴任の噂は、夙にかれらのあいだにひろまってい 一同は、中学の先生がよく濫用する技師長のこんな反語 た。城所九造の孫で非常な秀才、しかし本社ではごく付合 に、素直に若々しい笑い声を立てた。越冬者の一人が、ス のわるい男。これだけで前評判は十分だったが、昇には自キーも女の子とするならいいが、一人でやったってつまら てんぷ 十 / . し 分に関するどんな概念をも裏切ってしまう天賦があった。 と言った。彼は昇のほうを見て率直に言い添えた。 そこでかれらは、蒼白な顔をした冷酷な秀才肌の男の代り「城所さんみたいに、しばらく本社にいた人ならいいです に、浅黒い肌に一種の素朴さをたたえた気持のよい一人のが、僕なんか学校を出るとすぐ、ここへ引張られて来たん 青年を見たのである。その顔に残っている逸楽の疲れのよですからね」 うなものは誰にも気づかれなかった。 昇は佐藤というその青年の顔に、一種の青春の合言葉を 昇はというと、そこに集まった顔の若さに喜びを感じ見た。焦躁、逸楽への憧れ、埋もれた若さ、純潔さの自己 た。或る者は昇より年長だったが、多くは同年か後輩であ嫌悪。しかもそういうものを、佐藤といくつもちがわぬ若 る。理想家肌の顔、若さがあらゆる形の不平不満になったさで、反対側から眺めている自分を昇は感じた。佐藤がま 口を尖らした顔、いつも滑稽なことを言おうと身構えてい っとうに覗いている望遠鏡を、昇は反対側の、大きなレン よ」 っと にわ

6. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

見やる。無帽で、地味な天いろの背広を着、手には何も入 な若者の一人であった。 かばん 道徳的な顧慮をすこしも持たずに、彼は、戦時下の避暑っていないようにみえる薄い書類鞄を提げている。 地の乱脈な生活を抜けくぐった。まるで感情というものが秀でた眉、浅黒い肌、軽い段をなした稜線のはっきりし ないみたいで、それほど冗談も飛ばさないが、いつも朗らた鼻、人並すぐれて切れ長の眼。決してまわりへ自分の孤 独を押しつけようとするのではないが、自分の周囲の孤独 かな少年が、女たちをちっとも退屈させなかったのは、 には敏感に反応すると謂った顔。頬の豊かさが、もう一寸 かなる理由によるのか ? 昇は一向勉強をする様子もみえないのに、高等学校の理で鋭くなる印象を割引していると謂った顔、健康ではあっ 科を一番で卒業し、工科大学へ進んで土木工学を専攻しても、生気に乏しく、そこらへ投げる視線に、どことなく いつらく た。これについては、この損な学科の教授が、死んだ母の投げやりなところがあって、そういう目遣いから逸楽の疲 しよくぼう 弟に当っていて、かねて昇に嘱望していたために、昇もそれを嗅ぎだすのはわけもないことだ。 城所昇はふりかえった。うしろから総務課の瀬山が、鞄 の気になったというのにすぎない。戦後、大学を出る。祖 父が会長をしている電力会社に入る。いずれは重役になるを前後にふりながら、駈け下りてきて彼の名を呼んだので という黙契がある。昇はさしあたって現場へはやられず、ある。 にら 瀬山は昇より七つ年長である。昇の少年時代に、城所家 設計図を書き、青写真と睨めつくらをしている : の書生をしていたことがある。いくらか広島訛りのある言 私がこうして経歴を紹介しておいて、次のような現在の葉で、せかせかと、しかし重ったるい口のききようをす 昇の素描をすると、奇異の感に打たれる人があるかもしれる。顔は角ばっていて、目は小さく三角形をしている。強 ない。彼の素描は、右の経歴から人が想像するところのも い引締った顎をしている。 「おかえりですか、城所さん。ちょっと話があるんだが」 滝のと、多少ちがっている筈である。 る九月末のタ陽が、電力会社の正面の古風な柱廊を照ら昇は無感動に微笑した。 めし、石の階段の段落をくつきりと際立たせている。退けど「何ですか」 きの社員の群が、ひとしきり、その階段を降りおわったと「いや : : : 歩きながら」 なるほど瀬山は着実に歩いた。車をよけて、溝とすれす ころである。一人の青年があとから降りてくる。石段の途 中で一寸立止って、まぶしそうに目を細めて、夕日の空をれのところを強情に歩くのである。 こりよ りようせん なま

7. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

110 を、しよっちゅう考えているー』 その晩、食事のあとで、ストーヴのそばにいる昇のとこ ろへ、無電係がにやにやしながら電話を告げに来た。みん たまたま雪の絶え間に青空がのぞかれたので、昇たちはなは遠慮なしについて来て、無電室の電話にかかる昇のま また奥野川の流量を測りに行った。流量はやや衰えていたわりで聴耳を立てた。 が、凍ってはいなかった。薄ら氷が川岸から流心にむかつ「城所さんですか」 もろ と交換手の春江は言った。 て、脆い刃先をさしのべているだけであった。 仕事がすむと彼は一人でスキーを駆って上流のほうへ走春江の声をきくために、昇の受話器へ耳を近づけた一人 は、春江が何の愛想もなく、 った。例の小滝を見に行ったのである。 雪のなめらかな起伏は川岸へ向って傾き、垂れた枝々は「一寸お待ち下さい」 長い影を延ばしていた。小滝がどこにあったか、彼は目標と言って引込むのをきいて、のこりの一同に首を振って を見失って、しばらくさまよった。福島県の山の切り込んみせた。 女の声は変った。そしてこう言った。 だ稜線が、彼にその在処を知らせた。 ぶな 川にさしのべられた太い撫の枝に手を支えて、青年は久「城所さん ? あたくし、顕子」 しく見ない対岸の小滝を眺めた。滝は氷っていた。それは昇は耳を疑ったが、すぐ交換手が声を変えて、悪戯をし つらら ているのだろうと考えた。彼はっとめて平静な声で応じ 半ば雪に包まれ、からみ合った鋭い氷柱になって動かなか きら った。氷柱は細く錯雑していて、奥のほうに透明な氷の煌た。 めきを隠していた。折からの西日をうけ、小滝は大そう繊「一体どうしたんです」 「町まで来たの。どうしてもお声を聴きたかったから。 細にかがやいた。 うちの : ・ : ・ ( 彼女は『主人』と言おうとしたが、周囲を糴 どこかで雪の落ちる音がした。 よど こだま って、言い澱んだらしかった ) ・ ・ : めずらしく九州へ一一三 音は周囲の山々に谺した。 そのとき昇は、顕子が呼んでいるように感じたのであ日行ったの。それでその留守に : : : 」 る。彼はスキーの向きをかえると、宿舎のほうへいそぐ同声は急に衰えて間遠になった。顕子にちがいなかった。 僚のあとを追った。 昇は声高に、もしもし、と呼んだが、この「もしもし」に は、周囲の技師たちがおどろいたような強い裸かの感情が りようせん ありか ちょっと

8. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

若い主人のこれほど活々とした顔つきを見たことがなかっ た。『きっといよいよ気に入った婦人をお見つけになった 第二章 んだろう。家にも、どこの馬の骨だかわからない若奥様が できるわけだな』ーー・昇が部屋に落ちついて考えたことは 別のことだった。祖父から譲られただだっぴろい家を処分昇の出発は瀬山よりも十日遅れた。彼は見送りを断わっ て一人で夜行で発った。あまたの広告燈のために赤く染ま して、あの召使に退職金をどれだけやるべきかを考えてい った都会の空が遠ざかると、この自由な孤児は、自分がど たのである。 朝の来るのは待遠しかった。出社すると、すぐ上役の机んな生活の中でも物に動じないだろうという確信に心が浮 き立った。酒場リュショールや、女たちゃ、放浪や、数し へ行った。 れぬホテルの夜や、そういうものへの訣別も、その訣別ま 「僕を奥野川ダムに行かして下さい」 上役は目を丸くし、この今まで特別扱いをされていた青でには紆余こそあれ、決して自分にとって大袈裟なセンチ メンタルな変革ではないという考えが彼の気に入った。 年が、技術者の良心にめざめたことを大いにもちあげて、 こうして十月下旬のある朝、新潟県の駅に、祖父の外 賛同した。人事課長はそれをきいて首をひねったが、直接 呼んだ昇の口から決心の固さを知ると、本社にいて周囲か遊先のさまざまなホテルのラベルを貼った形見のトランク しわ ら目ざわりな存在と思われなくなるだけでも、昇のためだを提げ、皺くちゃなレインコートを着た昇が下りた。 ほうさ 粗い箒の掃目ののこったホームに、改札口がはっきりし と考えた。 異動があって、辞令が下りた。暗い廊下で昇は浮かぬ顔た影を落している。さしこむ朝陽には秋らしい麦いろの埃 が舞っている。出迎えの瀬山は帽を振った。 の瀬山に会った。 「ようこそ。私はもう倦き倦きしているんです。一週間で 「やあ向う三年間一緒だね。僕も奥野川ダムだ」 と彼の肩を叩いて昇が言った。瀬山はびつくりして、物結構です、こんなところ」 も言えずに、昇の顔をつくづく眺めた。青年はひどく朗と挨拶もそこそこに瀬山が言った。 らかな顔をしていたが、瀬山はこの冷たい流竄に、彼お「城所さんみたいな贅沢な坊ちゃんが、どれだけ辛抱でき よび昇を支えていた城所九造の権威の瓦解を見たのであますかねえ」 「僕だって軍隊生活をしているんですよ」 るざん

9. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

162 昇が人前でこんなに内心の動揺をあらわすのを、親しい 唇を噛んだ顕子はひどく果敢な表情をした。 おうよう 友も見たことがなかった。そこにはいつも沈着で鷹揚な 「思うわ」 「それにはちゃんとした理由があるんだ。俺はどうしても「城所九造の孫」の代りに、うつむいて暗い落着かない様子 で飯をかっこんでいる一人の青年がいたのである。昇は紺 疑うことをやめられないんだ」 のスポーッシャツに、薄いろのギャ・ハジンのジャン・ハアを 「何を ? 」 着ていたが、そのジャン・ハアの広い肩幅は、今は広いまま 昇の声は意識せずに朗らかになった。 「君を治した男が、俺以前にいるのじゃないかっていうこに見す・ほらしく見えた。うつむいているために、湯上りの 髪につけている髪油ばかりが輝ゃいていた。この観察が当 とさ」 顕子は一瞬信じられない顔をした。男の嫉妬を何度か見つているかどうか知らないが、田代は昇の屈辱の表情をは ている彼女は、正確な直感から、今の昇が決して嫉妬をしじめて見た。 あせ ている男ではないと思ったのである。 昇はというと、一つのことばかり考えて、その答が焦れ ば焦るほど得られなかった。 『顕子の良人はどうしてここを嗅ぎつけたんだろう。もし あくる日の寮の夕食の最中に、訪う人の声がする。男のかして、顕子が寝返って、俺に復讐させるために、わざわ 声である。炊事夫の鍋鶴は玄関に出た。こんな時刻の訪客ざ良人を : : : 』 はめずらしかったので、みんなは箸を休めて聴耳を立て昇は自分の行為の何らかの結果というものに、今まで出 た。かえってきた鍋鶴はこう言った。 会ったことがなかったのである。社会に甘え、何もかも呑 「城所さん、お客様です」 みこんでしまうその混沌に信頼を置きすぎていた青年は、 いつも偶発的な自分の行為に必然性をみとめず、はては彼 鍋鶴から名刺をうけとった昇は顔色を変えた。それに は、菊池証券取締役菊池祐次郎と刷られてある。 自身に決して必然性をみとめぬまでになっていた。彼は明 日を思わなかった。金を借りる必要のない身分だが、もし 、つけた。 彼は二階の来賓用の座敷へ客を通すようにいし その後の昇が、いかにも不味そうに食事の残りを片付ける昇が金を借りて、明日になって返済を迫られたら、昨日の さまを、みんなは会話を熄めて、見ぬふりをしてしきりに見昇と今日の昇は別人だから金を返す義務はない、と答えた ことだろう ? た。気詰まりな沈黙のおかげで、窓外の雨の音が高まった。 かかん おとな

10. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

に、瀬山はようやく目をさました。一家の家長らしい重苦前に、誰かがその何とか・ ( イプに傷をつけておいたにちが ちょうど いないんだ。丁度こっちに着いたときに壊れるように。・ しい寝起きの顔を周囲〈向けたが、誰もいなか 0 た。そこ ・ : そうだ、それにちがいない。会社の反城所派の仕業なん で、「ええ、寒いな」と独り言を言った。 習慣で枕もとに煙草を探した彼は、窓のほうを見て叫んだ。やった奴は大体わかっている。俺をこんな僻地に閉じ だ。予期していたこととはいえ、この悲痛な叫びは昇をう込めて、その上また、俺の地位を奪おうとするなんて、奴 らはどこまで卑劣なんだろう。昇君、みんなが寝返ったん んざりさせた。 「雪だな」 ですよ。君と俺をこういうところへとじこめて、城所派の 息の根をとめようという気なんだ。俺たちはいわば人質に 「雪だよ」 なったんだ」 と昇は致し方のない返事をした。瀬山は気力を失って、 こういうことになると、瀬山のロマネスクな空想は果て 床の上にあぐらをかいた。それから一縷の希望を以て立上 しがなかった。「まるで涙も出やしない」と彼は何度も言 り、窓のところへ雪の様子を見に来た。こう言った。 「大した雪じゃよ、。 オしこれなら帰れる。車ももう直ったろった。昨夜昇との別れに流した涙、あの軽い人情的理由の るいせん 涙なら、瀬山の涙腺にたつぶり貯わえられていたけれど、 きっきん 昇は黙っていた。 かくも喫緊な自分の問題になると、涙の代りに、無限の空 とりこ 「え、帰れるだろう ? 」 想力の擒になった。 ともう一度瀬山が言った。 昇はこの気の毒な男を正視することができなかったの 「無理だな。君も越冬さ」 で、雪のふりつづける窓に向って黙っていた。この雪は昇 瀬山がそれからどんなに気違いじみた苦情の並べ方をしを下界と遮断するばかりか、瀬山をもそうしたのである。 たか、想像してみるがいい。彼は女房の名を呼んだり、子この家族もちの男の「熱い血の紐帯」は、同じように目前 供の名を呼んだりした。彼が生甲斐を見出だしていた人間の雪でもって絶ち切られた。喋り疲れた瀬山は、黙って、 関係そのものが絶たれた結果、あげくのはてに瀬山は、こ昇と並んで、音のない雪に向った。 ややあって、瀬山は、今度はカのない声で又こう呟いた。 の不測の事故の原因をも、何らかの人間関係のせいにする ことを口走った。 「陰謀だ。・ : : ・陰謀だ。 「陰謀だ。これは陰謀だ」と彼は断言した。「町を出る昇にはこのとき納得が行ったが、あらゆる現象を人間関 とこ こわ っふや