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検索対象: 現代日本の文学 35 三島由紀夫集
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1. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

この一言が少年の自尊心を傷つけた。少年は冷たい心に 少年は大きな目をみひらいて、まじまじとの姿を眺めなり、復讐を企てた。 た。「ここに恋に悩んでいる人がいるんだ。僕ははじめて「だって本当の詩人だったら、天才だったら、詩がそうい 恋愛というものを目の前に見ている」とまれ、それは大しうとき、救ってくれるんじゃないですか」 て美しい眺めではなかった。どちらかというと不快な眺め「ゲーテはウエルテルを書いて、自分を自殺から救った に近かった。は常のように生気をなくし、潮垂れ、要すさ」とは答えた。「でもゲーテは、詩も何も自分を救え るに不機嫌だった。物を失くしたり、電車に乗り遅れたり ない、自殺するほか本当に仕方がない、って心の底から感 した人が、よくこんな顔をしているのを見たことがある。 じたからあれが書けたんだよ」 とはいうものの、先輩から恋の打明け話をきかされてい 「それなら、どうしてゲーテは自殺しなかったんですか。 ることは、少年の虚栄心をくすぐった。嬉しくないことは書くことと自殺することとおんなじなら、どうして自殺す なかった。彼はせい一杯まじめな、悲しげな同感の表情をることのほうを選ばなかったんですか。自殺しなかったの うかべようと試みた。しかし、現実に恋をしている人間のはゲーテが臆病だったからですか。それとも天才だったか ぽんよう 姿の、凡庸さはちょっとやりきれなかった。 らですか」 少年の心にようやく慰めの言葉がうかんだ。 「天才だったからさ」 「大へんですね。でもそのために、きっといい詩ができる「それなら : : : 」 でしよう」 少年はもう一つ 「いつめようとしたが、自分でもわから はカなげに答えた。 なくなってしまった。ゲーテのエゴイズムが結局のところ 「詩どころじゃないんだよ」 ゲーテを自殺から救ったのだという観念は、明確ではない 少「だって、詩って、そういうときに人を救うものじゃない が、・ほんやりと心にうかんだ。少年はそういう観念で自己 弁護をしたいという欲望を強く感じた。『君にはまだ分ら 書んですか」 ないんだよ』というの一言が、少年の心を深く傷つけて 詩少年は自分の詩ができるときの至福の状態をちらと思い いた。その年齢には、年齢の劣等感が何ものよりも強い うかべた。あの至福の力を借りれば、どんな不幸や懊悩を 口に出しては言わなかったが、少年に、をあざけるのに も打ち倒すことができるだろうと思われた。 「そうは行かないんだ。君にはまだわからないんだよ」 最も適当な、すばらしい理論が生れた。『この人は天才じ る 0 しおた

2. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

318 「俺はやるだけやる。全身全霊をあげて、やれるところま でやってゆく。俺について来れば、絶対にまちがいがない 強く正しい者になることが、少年時代からの彼の一等大 んだ。だから、俺を信じる奴はついて来い。ついて来られ切な課題である。 ない奴は、ついて来なくていい」 少年のころ、一度、太陽と睨めつこをしようとしたこと これを先輩の居並ぶ席で、四十人の部員にむかって言っ がある。見るか見ぬかの一瞬のうちの変化だが、はじめそ しやくねっ たとき、次郎はもう何かを選んでしまった。 れは灼熱した赤い玉だった。それが渦巻きはじめた。びた その場合次郎はきっと自分がそういう意味のことを言う りと静まった。するとそれは蒼黒い、平べったい、冷たい だろうと、ずっと前から予感していたし、又事実、そう言鉄の円盤になった。彼は太陽の本質を見たと思った。 くさむら ったのである。それは予感の成就だった。その言葉はずっしばらくはいたるところに、太陽の白い残影を見た。叢 と永いこと心の裡に畳まれていて、時を得て、翼をひろげにも。木立のかげにも。目を移す青空のどの一隅にも。 て立ったのだ。 それは正義だった。眩しくてとても正視できないもの。 その言葉によって、次郎は自分のなかに残っていた並のそして、目に一度宿ったのちは、そこかしこに見える光り 少年らしさを、すっかり整理してしまった。反抗したり、 の斑は、正義の残影だった。 軽蔑したり、時には自己嫌悪にかられたりする、柔かい 彼は強さを身につけ、正義を身に浴びたいと思った。そ れんち 心、感じ易い心はみな捨てる。廉恥の心は持ちつづけてい んなことを考えているのは、世界中で自分一人のような気 しゅうち るべきだが、うじうじした羞恥心などはみな捨てる。 がした。それはすばらしく斬新な思想であった。 「 : : : したい」などという心はみな捨てる。その代りに、 カンニングをすること、いろんな規則から一寸足を出す たいしやく 「 : : : すべきだ」ということを自分の基本原理にする。そこと、友だちとの貸借をルーズにすること、そういうもの うだ、本当にそうすべきだ。 が若さと考えられているのは本当に変なことだ。強く正し 生活のあらゆるものを剣へ集中する。剣はひとつの、集い者になるか、自殺するか、二つに一つなのだ。級友の一 中した澄んだ力の鋭い結晶だ。精神と肉体が、とぎすまさ人が自殺したときに、彼はその自殺は認めた。ただそれが れて、光りの束をなして凝ったときに、それはおのずから体も心もひょわかった男で、彼の考えるような強者の自殺 剣の形をとるのだ。・ ・ : その余はみんな「下らないこと」でなかったことが残念だったけれども。 にすぎなかった。 そいつは睡眠薬を嚥んで、自分のペッドで、シーツと同 にら

3. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

由紀夫神宮競技 場前で ( 昭和 9 年 ) 3 妺美津子と ( 昭和 10 年 ) 0 左より妺弟 ( 千 橋家の庭にて 母 由紀夫 ( 昭和 11 年 ) 之 ) の こ折 も れ氏 て れ さ し と と 生 た ろ き と と い ーよの だか と む夜凶窓わ っ で き け し い と の て わ フ て 、軍私 れ 日 の変えにた い あ て そ ら 輪 、国の き も フ虹 t の立く 通の 心、 礼 詩 主遺 。た そ も し の どちし 力、 っ の は 太 讃 に の一中義書 る椿事 よ う椿えは ら の よ よ十代 っ悪事じタ 陽 お つ で つ でで れ五こ も し なをな て あ の も の を・ へ に の で イ寺 よ町砂さ待タ フ 滅 よ ば歳 つ な の そ る よ せ並塵えつな 、詩 れ っ 期 び い れ ク ) 氏集 出 ばな た 待 、ば の がた つ た そ て フ 兀 は 「金・ ォ何 く を の と れ れ の こ日寺 心生 か国 か る ル い 収代 らたフ 心家 同 は き カゞ ム の 、て を っ を じ め で の の 丿匸 じ、 詩 ら あ 心形中強 の 言哉二 し ) 成へ権 っ ち っ た が た た さ し の で 収て 三件 源せ み も で の泉 る通な め倨 : あ ー凶ま , し、 ノい ら傲 i る っ 氏挫 つけ と と 438

4. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

必要というからには、何か欠乏の前提がなければならない。ていた。付属戦という野球の試合が、春秋二回、学習院の それはなかった。いくら考えてみてもなかった。第一彼は中等科と付属中学の間に戦われたが、学習院側が敗北を喫 詩の源泉をみんな天才という便利な一語で片付けていたすると、試合終了後、泣きじゃくる選手たちを囲んで、応 し、一方、自分に意識されない深い欠乏というものは信じ援の後輩たちも一緒に泣いた。彼は泣かなかった。すこし ることもできず、もし信じても、それを欠乏などという言も悲しくなかったのだ。 葉で表わすよりも、天才と呼んだほうが彼は好きだったか『野球の試合に負けたからって、何が悲しいんだろう』と ら。 彼は思った。その泣いている顔は、彼の心の遠くにあっ そうは言っても、少年に自作の詩に対する批判の能力た。たしかに少年は自分が感じやすくできていることを知 こと′」と が、まったく欠けていたというわけではない。たとえば先っていたが、その感じやすさが悉く他人とちがう方向にむ 輩たちが褒めそやす四行詩の一つなどは、軽薄で、恥かし かっていて、一方では他人を泣かせることが、彼の心には いものに思われた。それは、これほど透明な硝子もその切少しも響かなかった。 ロは青いからには、君の澄んだ双の瞳も、幾多の恋をかく 少年の書く詩には、だんだんに恋愛の素材がふえた。恋 すことができよう、という大意の詩である。 をしたことはない。しかし詩が自然物の変貌にばかり托し 他人の賞讃はもちろん少年を喜ばせはしたけれど、それて作られることは彼を飽かせ、心の刻々の変貌を歌うこと に溺れる成行から、傲慢さが彼を救った。本当のところ、 に、気が移って行ったのである。自分のまだ経験しない事 の才能に対してさえも、彼はあまり感心していなかっ柄を歌うについて、少年は何のやましさをも感じなかっ た。は文芸部の先輩のなかでは、たしかに目立っ才能でた。彼には芸術とはそういうものだとはじめから確信して はあったが、格別その言葉が少年の心に重きを成していた いるようなところがあった。未経験を少しも嘆かなかっ わけではなかった。少年の心には冷たい箇所があった。も た。事実彼のまだ体験しない世界の現実と彼の内的世界と しがあれほど言葉を尽して、少年の詩才を讃えていなけの間には、対立も緊張も見られなかったので、強いて自分 れば、彼もおそらくの才能を認めようとはしなかっただの内的世界の優位を信じる必要もなく、或る不条理な確信 ろう。 によって、彼がこの世にいまだに体験していない感情は一 あのたびたびの静かな至福を味わう代りに、自分には少つもないと考えることさえできた。な・せかというと、彼の 年らしい粗雑な感激性が欠けていることを、彼はよく知っ心のような鋭敏な感受性にとっては、この世のあらゆる感

5. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

ちよくじよ っていた。もしむこうの手紙が事実の直叙であったら、こ奥野河畔を上流へ辿りながら考えた。「苦い薬を呑み込む ちらの嘘の手紙をも事実の直叙だと思うだろうし、もしむように、あの手紙を丸ごと信じ込むことが必要だろうか ? こうが嘘をついていたのなら、こちらの手紙をも嘘だと思なるほどあの文面には、やさしい真実を述べた部分もあっ うだろう。自分が苦しんだようには顕子は苦しむまいとい た。しかしそんな部分だけ信じようという甘さは、もう俺 にはない。信じるなら、仕方がないから、丸ごと信じなく う妙に謙虚な確信から、右とは逆の場合が成立ちうること っと を昇はカめて考えなかった。それにしても今まで昇の虚栄ちゃ。なるほど、女の真実を信じることと、女の嘘を信じ 心が、自分の現にしている色事を隠すことはしばしばあつることは、まるぎり同じことなんだ』 たが、してもいない色事を数え立てる憐れな虚栄心に、と彼がこんな平凡な定理に、今さら感心するのはいかにも らわれたことは一度もなかった。 可笑しかったし、日ましにすがれた紅葉の下道を歩きなが 書きかけた手紙を急に破って、昇は心にこう独言をしら、山そいにあがっている炭焼きの煙を見て、次のような か・んかい こ 0 平凡な感懐を抱くのも、どうかしていた。 『嘘の手紙をこちらが書き、それを向うが、事実の直叙だ『人間はあんな風にも暮すことができるんだ』 と思うなら、こちらがありのままを書けば、却って向う 道のほとりには焚火のあとがある。草がまだらに焼け、 が、逆の想像に苦しめられることだってある筈だ。どっち野蛮で新鮮な黒い灰の色を見せている。昇はそれに気をと が顕子を深く苦しめることができるだろう』 られ、人々の踏み消したあとを、もう一度自分の靴で強く これはふしぎな経験だった。昇は今まで相手の同意のほ踏みにじってみたいという気持が起きた。灰は昇の靴底に かには、女の心の裏側などを考えてみたこともなかったのきしみ、彼の足跡は、柔土にはっきりと描かれた。自分の である。今考えるのは肉体のことではなく、心のことであそれだというのに、人間の足跡というものの、この紛れも る。相手の心に或る仮定を立ててものを考える。こんなこない鮮明な形に、彼は力を得た。 とをしていたら、世界は無限の「もしも」の中に埋もれて道は急にひらけて、二百坪ほどの学校の広庭に出る。鞦 やしろ しまう。 : : : 昇は返事を書くまいと思った。 韆があり、シーソオがある。社のような茅葺の小さな学校 から、オルガンの音が洩れている。そこは小学校と中学を 『俺は生きてゆく必要上、何かを信じなければならないの兼ね、生徒は十人しかいないのである。 だろうか』と、彼はあくる日の午休みに、ふたたび一人で昇はオルガンの音をあとにしてさらにゆく。又広庭があ ふう かやぶき

6. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

は ~ 、らく みんな皮膚の表面へ出て来てしまって、そのために顔は重 の幾月をくぐって、少しも剥落した跡がなかった。 昇は足下の楓の葉むらを縫い、昇ってくる白いものの曲たい感じを与えた。目ばかりが冴えて、病的にいきいきと きら りくねった列をみとめた。それは人夫たちが一人一人コンして、感情の動揺につれてすぐ裸かに煌めいた。こんな環 クリートの袋を担って、山道を来るのであった。 境をわきまえない都会風の念入りな化粧は、自然らしさを 狙いながら、実は自然さを全く欠いていた。顕子が今も自 分を美しいと思っていなかったら、こんな美しさはとっく 昇は毎夜、奥野荘の顕子のもとへ通った。暗い電燈の下に崩れ果てていた筈だ。 の夜毎の数時間は、細君が大そうなおめかしをして、仕事約束の手前、昇は、東京へ帰れ、とは言わなかったが、 に疲れて帰る良人を迎える、わざとらしい陰気な家庭の模心は敏活に、一人きりの昼間の顕子の姿をえがいた。 写であった。若い昇は、青年たちの活気にあふれた宿舎の発破がひびく。じっと待つ。もう一つ鳴る。しばらく間 せま 夜のほうへ惹かれた。あまっさえ、数日のうちに窄い土地をおいて、また鳴りひびく。もうおしまいだと思う。しか の噂が宿舎へ届かない筈はなく、それと知りながら同僚たし安堵はやって来ない。代りに今度は孤独感に身を包まれ ちが見て見ぬふりをしているという印象が、昇の心を傷つる。顕子は窓をすっかりあける。又すっかりしめる。又あ けた。 ける。時計を見る。時間は少しも進まないのである。 わがまま ある夜、顕子は大そう顔いろが悪かった。昇がわけをき昇はいかにも我儘だったが、こういう顕子を見て、彼女 いたが、答えなかった。答えれば、早く東京へ帰れと言わの自業自得だと考えて済ませるわけではなかった。彼には れるに決っているから、答えない、というのである。彼が冷たさを程のよいものにするあの性格上の単純さが欠けて そう言わないと約束したので、顕子は言った。 いた。それだけに、こんなみじめな想像によって心を傷つ 滝「昼間のあのダイナマイトの音がたまらないの。あっちかけられることが、いかにも不当な気がした。もし女が彼の、 る らもこっちからもきこえるんですもの。耳をふさいでも頭さほど難解でもない心の動きに協力してくれたら、女も悲 沈にひびくわ。散歩をしろと仰言るけれど、怖くて散歩もで劇を避けうるし、彼も傷つかないですむ筈だった。すべて きないの。一日この部屋にこもっているのよ。食事は進まを顕子の無理解のせいにしたがる昇は、やがて女の理解の 仕方におもねるまでになっていた。とうとうこう言った。 。あたくし、すこしむくんで来やしない ? 」 6 / 一し いんえい 顕子の顔には、心なしか陰翳が消えていた。心の訴えが「俺を冷たいと思う ? 」 かえで

7. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

由紀夫豊島園にて ( 昭和 4 年 ) 由紀夫 ( 1 歳 ) ( 大正 15 年 ) 母倭文重と由紀夫 ( 大正 14 年 ) し平静を装う人の心の奧底には、あるときには外 じゅそ 界への呪詛が、またあるときには破滅への希求が 秘められてはいないであろうかどのような理想 社会が実現しようと、他人と分かっことのできな またそ い精神的な孤独がなくなろうはすはない。 しんえん うした孤独の深淵に宿っているのは、何か兇悪な もの、現世の秩序とは根本的に対立する兇暴な夢 想ではないであろうか。戦後の文学のなかで、三島 氏をひときわ目立った存在たらしめているもの、 それは本質的にいって、人間性を否定する猛毒を、 氏が作品のなかに盛りこんできたこと以外にない のである。 こつながる何ものかであ それは′危険な思想〃ー る。そして危険なるがゆえに魅力があり、また魅 力のあるがゆえに人の心に不吉なものをもたらす 何かである。幾多の名声に飾られながらも、三島 氏の心は、なおも不可能なものへの渇望を捨てて しオし 『太陽と鉄』の末尾にある『イカロス』 と題する詩は、次のように書き出されているので ある 私はそもそも天に属するのか ? そうでなければ何故天は 435

8. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

417 アポロの杯 老いたるハドリアーヌスと、その重臣と数人の巫女と、ア ンティノウスの霊とである。それが書かれた暁には、私の 近代能楽集に、多少毛色の変った一篇を加えることになろ 註 ( 1 ) 左は帰朝匆々書いて、完結にいたらなかった詩劇アンティノウス の草稿である。 鷲ノ座ーー近代能楽集ノ内ーー 所 埃及ナイル河岸なるアンティノウスの神殿。 時 紀元一三五年 ( 羅馬皇帝ハドリアーススの治世。晩年の帝 は埃及を訪れていないが、作者はその史実を枉げ、老いた るハドリアーヌスをして再度埃及を訪れしめた ) 人 年老いたるハドリアーヌス皇帝 ( 六十歳 ) 。十三年前に死 せるアンティノウス。大臣。五人の巫女。 幕あきの前に、リラの弾奏につれ、低き憂わしき嘆声をあらわすコ かみて ーラス、「ああ、ああ」と歌う。幕あくや上手に一本のコリント式円 しもて 柱と大理石の玉座あり、下手に二本の円柱、一一三段のきだはし見ゅ。 舞台奥はナイル河を見渡す心持。夜。五人の巫女、あるいは坐りあ るいは立ちて、きだはしの上に集いいる。大臣 ( 実は執政官であ る ) 下手より登場。なおもリラの弾奏つづく。 大臣私は羅馬皇帝ハドリアーヌス陛下の大臣です。お年を召さ れた陛下の永い旅路をお守りして、はるばるとここ埃及のナイル の河のほとりまで来ました。これはあの悲しいことどもの起った みゆき 御幸以来、十三年をへだてた一一度目の御幸です。美しいヒ = ラス 0 かいな が水に溺れた土地を、大なる羅馬をその腕に支えておられる、 まつりごと 今の世のヘラクレスがどうして忘れましよう。 政事は政事、恋 慕は恋慕、私は永い宮仕えで、王者のお心の、この止みがたい二 つの力を知っております。一一つの力は王者のお心を引裂きます。 ここからか遠い羅馬の民草も、この永い旅路の収穫が、ただお 国の費えのほかには、何もないものとは思わないで下さい。陛下 がここで尽きぬおん悲しみに、それだけ思うさま身を沈められれ ば、御帰国のあとそれだけお恵みは、一そうひろく民草の上にう いさお つわもの るおうでしよう。羅馬の功し高い兵士たちも、陛下の御心弱りを 責めないで下さい。今まであなた方の前にマルスの姿で、雄々し みかど く君臨しておられた帝のお心には、もっとも深いおん悲しみが、 秘し隠されていたのですから。 ( 五人の巫女たちにむかって ) そ いっきめ れからここアンティノウス神殿に、清らかな日夜をおくる斎女た みゆき ちょ、どうか陛下のみ心を察して、御幸のあいだはいっそう怠り なく、神前のっとめにはげんで下さい おとど 五人の巫女 ( 合唱 ) 長りました。大臣の君。 大臣 ( 巫女たちに近よりて、きだはしに身を横たえる ) よく言 いっきめ われました、斎女たち。 巫女一どうかあなたの永い旅路を、わたくしどもに語ってくださ 大臣たとえ王土のうちとはいえ、旅の心は安らかではありませ ふなたび ん。旅のほとんどは船旅でした。船がシキリアをかたえに見て、 さらに東へ進むにつれ、陛下はじっと東のかた、埃及の空を眺め ておられた。 五人の巫女 ( 合唱 ) そここそはアンティノウスが 大臣悲しい思い出を残した土地です。 五人の巫女 ( 合唱 ) わずかな海風に帆布がしほむと、 大臣陛下は目立っていらいらなさった。 うしお 五人の巫女 ( 合唱 ) 風が帆布を大きく孕ませ、潮が船をやさし く押すと、

9. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

入って来たのは佐藤である。セータアの頸に襟巻を巻き、 たが、それを性急に動物的だと云うには当らない。昇は絵 もち 生まじめな顔は湯上りの光沢を放っている。目がやや常なに描いた餅、図解した欲望、のようなものを目の前に見て、 らず血走っている。 実物よりも数倍醜いその形にがっかりした。彼はこのとき 「入れよ」 から佐藤を嫌った。しかしこのいわれのない嫌悪は一向佐 こたっふとん と炬燵蒲団を少しもちあげて昇が言った。 藤に通・せず、佐藤はまた何かと思いっきを打明けては昇を 「うん」 悩ました。 と佐藤はひどく躍動的なしぐさで、いきなりうずくま り、手から先に炬燵に深くさし入れると、半ば中腰のまま、 一方、あの田代の人柄も徐々に変り、赤い頬はいっしか 炬燵蒲団につけた顎から、鋭い上目づかいで昇を見上げ失われて、いらいらした、傷つきやすい少年になった。何 て、こう言った。 かというとすぐ怒るので、みんなは田代には気をつけても 「俺、今、決心したんだ」 のを言うようになっていた。 かわ 「何を」 田代は昇にだけは怒らないで、彼の前では渝らぬ笑顔を 「急に気が変って決心したんだ。越冬がすんだらな」と彼見せた。田代に云わすと、彼の心を傷つけないのは昇ばか は血走った目を小刻みにまばたいた。「 : : : 俺、やることりで、他はみんな敵であり、自分は一人・ほっちだというの に決めたんだ。いっかの写真の女を」 であった。昇はそれが当り前なんだということを、年少の 昇が日頃きいていた佐藤と仏像の女との優雅なロマンス友に納得させようと骨を折ったが、それでも昇の言葉な から、この「やる」という粗末な日本語はひどく飛躍してら、どんな荒っぽい言い方も心を傷つけないという確信に いたので、一瞬、昇には佐藤が何を言い出したのかわから酔った田代は、世界中に味方が一人はいると思う幻想から 滝なかった。わかってみると、これは決して欲望というようは、どうしても醒めようとしなかった。 る なものではなく、一つの観念をつつきまわしたあげく、子 こういう頑固な夢想を託されてみると、昇の心にも、一 沈供がついには玩具を壊すように、突然その観念をこわして種の甘さがやすやすと生れた。佐藤に対するときは酷薄に しまっただけのことだとわかった。 なる心が、田代に対するときには温かくひらいた。彼が顕 佐藤の息ははずみ、目は腥い光りを放っていた。その若子の上を思う気持も亦、この二つの態度のあいだをあちこ い形のよい鼻翼の動くさまは、動物の殺気という感じがしちと動いた。佐藤を見ていれば、自分の顕子に対する感情 なまぐさ

10. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

があらわれていたというのは、他人にきかせる告白の価値いたからである。 判断は本来他人の判断であるべきだから、今まで物事に自家族から何の便りもなかった瀬山は、手持無沙汰に、昇 にお座なりの冷やかしを言った。青年は笑って答え、部屋 分の判断をしか顧みなかった昇が、いつのまにか他人の、 人もあろうに瀬山の判断を信頼しようとしていることを意へ呑みに来ないか、と瀬山を誘った。 味していた。彼は瀬山がよろこんで聴くだろうと疑わなか昇の部屋には残り少ない一瓶があった。リ、ショールの っこ 0 贈物をみんなに分配したのち、彼はジョニイ・ウォーカア しかし昇がすべてこれらの好い気な心理に無意識だったの黒レ・ヘル二本とコニヤクの一本をとっておいた。それを と言ってはならない。若い意識家の心には一種のクウ・デ少しずったのしむうちに、最後の一本のジョニイ・ウォー タが起って、心が意識的に働らこうとする傾向を、無理強力アも、半ばを残すばかりになった。 いに無意識の領域へ追いやろうとカめていたのである。 瀬山はこの貴重な振舞に感激してみせ、酔うより先に酔 なぐ 『俺は瀬山に打明けようとしている』と青年は心に呟い ったふりをする宴会掛の習性を発揮して、擲られたあとに た。『これはもしかしたら、その告白がどうにも聴手を探さ生れる人間同士の本当の理解を力説したり、自分を「男一 ずにはいられないほど、俺の中で重味をましてきたせいか匹」と呼んでみたり、「男の友情」を讃美してみせたりし いっぞや もしれないぞ。俺は又、瀬山がその告白に高い値踏みをすた。日外の論争のときの瀬山と、こういう浪花節的な瀬山 るだろうと信じている。これはひょっとすると、俺の自分とのあいだに、どういう関係があるのかまるでわからなか の判断が、もっと強いカのおかげで、ぐらついているためつこ・ : ナカへリコ・フターで帰ろうとして失敗した瀬山には、 かもしれないぞ。俺は打ちあけたいという欲望に盲目にな少くともあらゆる失敗が第三者の心によびおこす好意に訴 わか り、それを打ちあけることの喜びを他人も頒ってくれるにえるものがあった。 滝ちがいないと思っている。してみると、どうだろう。俺は瀬山のふしぎな動物的反応のおかげで、酔うほどに、昇 る恋をしているのかもしれないんだ』 が口を切ろうと思っていた告白は逆転して、すらすらと訊 問の形をとった。 沈 告白のきっかけは容易についた。一週間毎に町へ届く「あの電話の女性は誰です。リュショールの娘だとする と、どの娘だろう。あんたもまったく口が堅いね。ここの 顕子の葉書を、搬送電話で昇がきいているかたわらには、 もしか妻子の便りがなかったかと聴耳を立てている瀬山が宿舎じゃみんなその噂をしているのに、誰一人、彼女がい