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検索対象: 現代日本の文学 35 三島由紀夫集
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1. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

以て慄えるのを感じた。人助けは実に気持のよいものであかと思われる大ぎな音で舌打ちをする。相手の顔を何度か 、殊に利潤の上る人助けと来たらたまらない。 悲しそうに見する。溜息をつく。そうかと思うと、憂わ 愛宕はこのごろ日常の会話にも、「わたる世間に鬼はなしげに頭を垂れて永く上げなかった。 し」とか「人間本来仏性」とか「世の中はもちつもたれつ」話をきき了ると猫山は例の小さな口を、以前のように敏 とかの古風な常套句を交えるようになっていたが、そうい活には動かさずに、不明瞭に独り言ともっかぬことを呟く ただ う金言は彼にとって三度三度の食事のように欠くべからざので、相手が質すと「いや : ・ : ことそれだけ言う。つまら あくび るものになり、高等学校で習いお・ほえた懐疑思想のごときなそうに欠伸を噛み殺しながら帳簿を繰り、相手の担保に は一文の足しにもならないとしばしば広言した。 さんざんけちをつけ、面を伏せてしばらくじっとしてい 「世間、 これには一本の大道がついている。誠実と いる。やがて世にも哀しい降伏の表情で、「よろしゅうござい う大道がね。胸を張ってこの大道を歩けばいいんだよ」 ます。お貸しいたしましよう」という。それからが永い 一つ二つ若い社員をつかまえてこんな訓誡を垂れること彼は別室の金庫の前で金をかそえてしまったのち、わざと のある愛宕自身、その実自分の誠実さがどんどん利得を生客に待ち遠しい思いをさせるために、そこにしやがんで南 ずるのに気味のわるい思いをすることがあった。そんなと京豆をポケットから出して一粒ずつ三十粒ほど食べた。 きにはこういう言わでもの独り言を言った。 やっとのことで会計課長は、三和銀行株七三〇〇株、藤 かえ 「人間、正道を歩むのは却って不安なものだ」 代機械新株二八〇〇株、旧株九二〇〇株を担保に、日歩七 らつわん 彼は自分が辣腕家だと言われるたびに、他人のことを言十銭、利息天引六十五万円を借りてかえった。藤代機械の われているような気がした。あんまり与太ばかり飛ばして社長藤代十一は日経連に勢力をもっており、財界に名のあ いると、自分の与太の効果について信じにくくなるものだ。 る人である。こういう借手の報告は誠を大そう喜ばせ、誠 一方、猫山の机には、こちらとちがった御大層な雰囲気は有名人の借手の名簿を作って、この夏には暑中見舞の葉 があって、彼はいつのまにか尊敬する悪党の大貫泰三をそ書を送る計画を立てていた。 つくり模写していた。相手の話をきいているあいだじゅう、 電話は立てつづけに鳴り、すでに十七人にふえた事務員 世にもつまらなそうな悲しげな顔をして、尻のあたりをもは机と机のあいだのせまい間隔を縫うようにゆききしてい ぞもそ動かしていたが、猫山は決して痔持ちではない。そた。黒い上っぱりを着た女事務員が、帳簿をとりあげるは れからまた、相手の話の途中で牛の舌打ちはこうもあろうずみに机上の花瓶をくつがえし、黄水仙は横たおしになっ

2. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

いて入ったが、哀れな母親は、鬼のような髭男にこき使わ業だという確信は、このごろの彼には動かしがたいものに れてうろうろしている学生服の息子の姿を探し求めた。曲なり、こんなに悲しいお話をたくさんきくことのできる職 かどわ 馬団に拐かされた子供をさがしもとめる半狂乱の母親のよ業を選んだことが、一種の幸福感を以て心に反芻された。 せま まさ うなこの取乱し方は、場内窄しとばかりに詰めかけている彼は困っている人間に金を恵んでやるーーーというのは正し お客の雑沓のなかで目立たずにすんだ。 く誤解だがーー よろこび以上のよろこびはないような気が 愛宕と猫山は一番奥の椅子に坐っていた。二人の椅子だした。従って取立はまことに辛いが、さきに味わった喜び けは緑いろの天鵞絨を張った回転椅子で、専務取締役の愛の報いと考えて自分を鼓舞し、相手を容赦せぬことは自分 宕のデスクの前には某ネーム・プレート会社の重役が、取を容赦せぬことだと考えて、その結果みちたりた悟達の心 締役の猫山の前には藤代機械株式会社の会計課長が頭を下は、いつものどかで寧らかであった。 げていた。愛宕は椅子に斜めに掛けて、片手の鉛筆で机上「もうこれはまちがいなしと思っていた売上代金がだめに ガラス の板硝子にときどき数字らしいものをいたずら書きした なりまして、それを見合いに振り出した手形は不渡りにな り、その鉛筆で耳をほじくったりしながら相手の話をきい りそうなのです。不渡りになって取引銀行の信用を失うの ラシャ た。彼の視線はいくたびか自分の新調の英国羅紗の背広のは何より怖うございます。十日で一割五分の高利は高いよ 袖へ満足げに落ちた。胸の釦穴には純金の太陽の・ハッジが うですが、何とかして拝借した金で手形だけは落しておき かがやき、馬鹿にされない用心に生やしたロ髭のさきが、 。どうかこの手形を担保に、百五十万拝借したいので その血色のよい頬をくすぐると、愛宕はうるさそうに耳をすが : : : 」 うごかすので、相手はわれを忘れてこの耳にみとれては、 「よございます」ーー愛宕は熟考のすえ頼もしげに言っ 話のつづきを催促された。 た。「お話をうかがって、信用できる方だという、このカ そろばん 代愛宕はこうした商談のあいだにも、しばしば算盤をわすンですな、これが働きました。手形一本を担保という例は ほかにございませんけれども、よろしゅうございます。お れて相手の窮状に感動したが、 ; 誠とちがうところはそんな 青ときの愛宕が、冷静であれと自分に言いきかせる必要のな貸ししましよう」 かったことで、小口の借手にもまめに面接して、相手の訴こう言われた瞬間の借手の顔にひろがる明るいものを、 えるみじめな窮境に時にはほんものの涙を流した。自分の愛宕は朝空へひらかれた窓のようにすがすがしく感じた。 やっていることが一種の社会事業であり、人道的な救済事相手に金をわたす瀬戸際など、むしろこちらの手が喜びで ビ 0 はんすう

3. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

316 彼の疲労を見てとって、賀川は、 「さあ、勝負三本ー」 木内が事あるごとに「手の内」「手の内」とやかましく と一一 = ロう。 言うからである。 すき その声をかけた瞬間、賀川の心には隙があった。ほんの木内は五十歳で、この剣道部の on の内での大御所だ。 かゆ に対する享楽的な関心。自分の強さについての痒いようなて、監督を引受けている 喜び。 進み出る次郎の足取にさわやかな覇気のあふれている ひとりのときには十分に味わえず、相手を前にしたときのを木内は読みとる。次郎の紺の襷は風を孕み、擦り足の にはゆっくり味わう暇のない、がつがっした野獣的な喜正しい波動を伝えて、まっすぐに動いてくる。 び。記憶にも希望にも縁のない、現在だけの、丁度両手を木内はこうして自分に立ち向ってくる若さを愛する。若 きようぼう 離して自転車に乗るときのような危険な喜びだ。 さは礼儀正しく、しかも兇暴に撃ちかかって来て、老年は 賀川の眼前に影が走った。 こちらにいて、徴笑しながら、じっと自信を以て身を衛 走ったと知るときには、しまったと思っていた。 る。青年の、暴力を伴わない礼儀正しさはいやらしい。そ 「めーんー」 れは礼儀を伴わない暴力よりももっと悪い 高らかな踏み込みの音と共に、壬生の竹刀は、正しく刀若さは彼に突き刺って来て、突き刺って折れねばなら ものうち の物打で、捨身の面を打っていた。 ぬ。二人とも同じ稽古着、同じ防具、同じ汗。・ : ・ : 道場で 「参った。勝負二本目ー」 は、木内にとって、永遠に停った美しい時間がある。黒胸 と賀川はものぐさそうに言った。 の照りと、乱舞する紫の面紐と、とびちる汗の時間。これ は彼が、母校のこの道場で三十年前にすごしたのと正確に 同じ時間だ。 きうち それまでずっと本に立っていた国分次郎は、監督の木内 この同じ時間の枠のなかで、白髪を面に隠した老いと、 ぐうわ に稽古をつけてもらうために、はじめて本を下りて、木内赤い頬を面に隠した若さとが、寓話的な簡素のうちに、は の前へ進み出る。 つきりと相手を敵とみとめる。それはまるで、こんぐらか きようざっ しようぎかんじよう この部で、誰も蔭では、木内のことを木内と呼ばず、った、余計な夾雑物にみちた人生を、将棋の簡浄な盤面に 「手の内さん」と呼ぶ。

4. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

あしうら 道場とちがって、弾みが利かず、踏み込む蹠に重い痛みを押された。 あえ ひびかせる。 一年生たちはわずかな休みのあいだに、喘ぎながら囁く 国分次郎は合宿の最初の稽古を主宰するために、体育館のだ。 の中央へ進み出る。 「見ろよ。見ろよーあの上段。あれで来られたら脳天を 割られるぜ」 彼の朗らかな声が稽古の開始を告げる。 かく もとだち 彼は柔軟体操の号令を下し、それがすむと、本太刀に立彼が正上段に構えるとき、剣は彼の頭上に大きな安嚇す つべき上級生たちを選んで、一同に面をつけさせ、切返しる角のようにそそり立ち、夏空の入道雲のような曜んな気 ごうまん ちゅう から稽古に入る。打込みを主にした烈しい二時間にわたるが天に冲して見える。それは晴れやかな傲慢に充ちてい めんがね 稽古である。 る。面金がかがやいて、剣はそうしてゆったりと天を指し 次郎は部員の一人一人の長所と欠点、癖のことごとくをたまま、相手を見下ろして休んでいる。それが撃ち下ろさ 呑み込んでいる。面と防具をつけていても、遠くからでれるとき、空は二つに裂け、こちらの頭上を襲うのは、空 も、誰とわかる。彼は間合をとって自分も十分動いてやりのその一瞬の黒い裂け目だ。 ながら、相手も十分に動かせる。疲れてきた相手の剣尖が しかし今日の打込みの稽古では、次郎のその目ざましい 落ちてくるのを見ると、ますます叱咤して、ぎりぎりのと正上段は見られない。 ばりぞうごん つむ ころまで絞り上げる。そしてあらゆる罵詈雑言で、相手の彼は嘲笑する旋じ風のように、相手をへとへとに疲らせ 反発力を養うのだ。 る。その動きのどの瞬間も、しかし賀川のようには乱れ 道場の次郎は、荒れ狂う神のような存在で、すべての稽ず、ちゃんと規矩にはまっている。あらゆる瞬間に、正し 古の熱と力が彼から周囲に放たれて、周囲に伝播してゆくく、のびやかで、自然な形の彼が現れる。未熟な部員は、 かのようだ。その熱と力を、おそらく彼は、少年時代に見彼に稽古をつけてもらっているあいだ、国分次郎が何人も いるような気がした。 つめたあの太陽から得たのである。 又それは確信だった。誰が道場における次郎のような確け声、汗、踏み込む足音、その雑然とした轟きのなか 信の美しい塊りになることができただろう。 に、竹刀は爆竹のような音を立ててはじける。 次郎が上段に構えて、飛込み面を撃ち込んで来るとぎに大きな不規則な波が、部員たちの乱れた呼吸を取り巻い は、その確信が高く輝いて聳え立ち、相手ははじめから気て起伏する。 そび めん しゆさい でんば とどろ ささや

5. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

0 「花 説「花ざかりの森」を出版しているとわかった ざかりの森」は、昭和二十五年に入手し、後に売って 所 しまって手もとにないけれど、この頃、「花ざかりの っ 森」というのは、一時、ばくにとっては幻の恋人、ま か 6 た見ぬ恋の相手の如くだった。 「岬にての物語」「夜 を の仕度」と、いすれも美しい名前の小説を、三島由紀 観夫が発表していると人に聞き、これも手に入らなかっ た。昭和二十二年の夏というと、こっちはまさに飢死 習 寸前の状態だったから、この美しい題名をきくだけで、 撃 射ある満足感があって、これと似たような経験は、占領 軍宿舎のロビーに、青く点滅する豆電球飾っただけの す クリスマストリ ーがあり、この姿を、腹べこでねぐら 出 ち もないままかいまみた時にも味わった。美というもの は、いや、誤解されるといけないから、つけ加えれば、 、ら 「夜の仕度」という言葉が、クリスマストリーの女 に、俗悪だというのではない、 まったく別物ではあっ 尹ても、自分との距離のあまりなへだたりが、かえって 、カ 救いとなったのだ。荒凉たる風景の中で、ばくを支え 陸てくれたといってもいし そして「仮面の告白」である。この時は新潟にいた。 跡二十四年の夏の盛りに、古町七番町の本屋の店頭に、 ならんでいたその有様をはっきり覚えている。二十三 , 観年から、またふつうの生活にもどり、高校文科へ入っ

6. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

床には汗が飛び散り、盟いろの刺子は蒸れて、道場全体と賀川は、他人へむけられた尊敬が、多少とも自分へむ きよぎ が、煮え立っ力を籠詰めにしたように息苦しい。 けられる形をとるのを見ると、そこに虚偽をみつけること キャプテン 主将の次郎にあしらわれた壬生の疲れはまだ抜けず、早にばかり熱中する。 どうき い動悸がまだ納まっていない。稽古のはじめには、田舎のそれよりむしろ相手の敵意を見るほうが気が楽なのだ。 真昼の一本道のように、自分のスタミナが坦々と目路の限賀川はやっと切返しをやめ、相手の烈しい息づかいに満足 りつづいているのが感じられるのに、主将に稽古をつけてする。 にわ もらったあとでは、俄かにその一本道も日が暮れて、しば撃込みだ。壬生は、 らく行けば突然道が尽きて、渓谷へ落ちでもしそうな予感「籠手 ! 面ー」 わざ しりぞ がするのだ。 と連続技をかけながら、退いて間合をとり、休みなくか まして相手は賀川である。 かってゆく。 賀川も強いが、ともすると威を衒い、力を恃むところが賀川はなかなか撃たれてくれない。引立て稽古をしてく ある。 れる気がないのである。 サプ・キャプテン 彼が副将にさえ選ばれなかったのには、理由がある。 壬生のない力に充ちた剣尖が宙に泳ぐ。また外され ざんし 彼の稽古、彼の剣には、どこかに感情や心理の残滓がある。 た。賀川が一回りして、その面金に当る西日が赫と光る。 国分次郎のような純一な烈しさが欠けている。 賀川の面はあちらへ出る。こちらへ出る。あるときは日を ただ 「さあ、切返しー」 負うて暗み、あるときは又光りに爛れている。たしかに撃 と賀川はじけるように怒鳴った。 ち込んだところに、しかしそれは消えている。 からう 壬生はかかってゆく。賀川はいつまでたっても切返しを壬生は空撃ちの疲労に、掛け声も細く嗄れてくる。振り やめようとしない。 下ろされて宙に止った剣は、そこに熱烈に求めていたもの 賀川は面の中で汗に蒸れている壬生の若い真剣な顔を見を外されて、一点の空虚に粘りつく。そうした崩れた均衡 る。その目はみひらかれ、その頬は紅く燃え、顔自体が窮を一瞬のうちに取り戻し、空虚に粘りついてしまった剣を 屈な面金の檻のなかで怒り猛っている若い囚人のように見引き剥がすには、何という力が要ることだ。 さぎ える。 壬生はのめり込んだ体を立て直し、藍いろの鷺のように 『こいつは国分を世界中で一番えらい奴だと思っている』まっすぐに立った。 めんがねおり たの

7. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

ら、彼の採らぬところであった。 くあるが、顕子は言わない。 顕子はどこから見ても難攻不落ではなかった。最も初歩顕子はつまらなそうな話をした。喫茶店に坐っていて 的でしかも必ず成功する手は、時間をかけて十分じらしも、いつまでもそこにいても一向構わないが、又すぐ出て 懸いたく て、相手が進んでとびこんで来るのを待っことだが、彼はも構わない、という風に見えた。贅沢で、御機嫌のとりよ 時として、期間をすこしずつずらして知り合った三人の女うがなく、昇と同様に、ひどく退屈していることがわかる と同時に付合いながら、まずじれて来た女から順々に、平らのである。急に笑って、莫迦な話をした。「うちの旦那が、 あだな げることもあった。しかし顕子は難攻不落でないどころか、私のことを丹下左膳って渾名をつけていたのよ」 最初から焦躁をほのかに見せ、この疑いようのない成功の 「な・せ」 きざし しゅんじゅん 兆が、顕子に限って、ふしぎと昇の逡巡のたねになった。 「だって朝、旦那が会社へ行くとき、私、起ぎていたため しがないの。旦那が出がけに寝室へ来て、『でかけるよ』 ちょっと ・ : ッドの上で、一寸、片目だけあ なるほど彼はためらっていた。死んだ祖父と張り合う気って声をかけると、私力へ 持から、彼はこのためらっていることを以て、顕子に対しけるからだわ。・ ・ : その渾名も今はなくなったの。去年か て「夢中になっている」自分を証明しようとした。しかもら、あたくし、片目もあけなくなったんですもの」 依然、ためらいと熱中とは別物であった。夢中になってい 「それにしては、午前中に大をつれて散歩に出かけたりす る人間と、不決断とが、どうして折れ合うことができるだるじゃありませんか」 ろう。ところがこの蕩児が決断力に富んでいるときは、必「だって旦那が出かけた途端に、飛び起きて、シャワーを ず彼が何ものからも醒めているときに限っていた。彼は熱浴びて、お化粧をして、朝御飯もたべないで、すぐボギイ 中のない賭しか知らなかった。 を散歩につれて行くのが日課なんですもの」 「生活全部が自分の意志で動いているわけだな」 「自分の意志だってどうにもならないことがあるわ」 ・女はわけもなく伏せていた目を、あたたかい湯のに じみ出るような徐々たるひらきかたをして、潤んだその目顕子はそう言うと、すこし隙間風の吹くような笑い方をし で昇をまともに見た。女のじれて来るとき、酒や踊りの最た。「だから私、決して自分の意志のために、自分をこう いう風に見せると謂ったお芝居をしたことがないの。私く 中に、「ねえ、どうなるの ? 」とか、「ねえ、どうするの ? 」 とか、実体のなさそうな質問をさりげなく投げることがよらいお芝居の下手な女はないでしよう」

8. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

る。どうして、かりにも酒場にいた女が、こんな男と一緒ときは、お客のスタイルのためを思って、わざと注文に逆 になったのかわからない。 らった、という顔をしてみせるのよ。洋裁店と美容院のお 昇が名刺を出す。男は読んで、愛想よくこう言った。 客は、頭ごなしに限るのよ」 「御祖父様には、うちの銀行の恥が、若い時分、大〈 んお世話になったことがあるそうで : : : 」 町の宿でのその晩の酒宴はたのしかった。 昇は、どういたしまして、と言おうとしたが、やめてお酔うほどに、房江と良人は文学論をはじめ、良人が勤務 の余暇に書いている小説の出来栄えについて、房江が堂々 かねてリショールで出世頭の噂が高い景子は、黒レ = と論難したので、可哀想な銀行員は泣き出した。この二人 スづくめの服を着て、沢山の赤い羽根毛をこねて固めたよ は、取引先の招待で二三度良人がリュショールへ来てから うな小さい帽子をかぶって、最後にタラップを下りて来懇意になり、良人と房江はときどき抒情的なことや深刻な た。少女歌劇で芽が出ないでリュショールにつとめていた ことを、。ほっり。ほっりと話し合った末、夫婦になった。ど しようしゃ 景子は、好し 、。 ( トロンがついた今では、銀座に瀟洒な洋裁ちらも相手の、それそれの社会における稀少価値をみとめ 店をもち、今年中にパリへ箔をつけに行くことになってい あい、鋭敏な感受性や、汚れない心や、文学的才能や、静 るのである。 寂を愛する趣味などにおける犠牲者としてのお互い自身を 昇はわざと気取った手つきで、景子の手をうけとってタ発見したのである。この夫婦は大そう仲が好く、良人が泣 りゅういん ラップを下ろしてやったので、溜飲を下げた女たちは無遠 いたのは泣き上戸だからにすぎず、房江が流産ばかりして 慮に笑った。 いて子供をもたない不幸を除いては、まことに幸福につま 「昔は君は空想家だったが : : : 」 しく暮していた。良人は或る小説の大家に傾倒していて、 滝と昇が景子に言った。 昇にしきりに同意を求めたが、昇の目から見ても、この男 る 「今はそう見えないでしよ。空想家でなくなった代りに、 は作家たるには、芸術に対して切手蒐集家のような幸福な 夢を見すぎていた。 沈たつぶり小皺がふえたわ」 「編物の目をまちがえてばかりいた君が、デザイナアとは景子は一種の酒乱であったが、昇をつかまえて、どうし てもアメリカへ行ったかえりに、 リへ寄れ、と言ってき ね」 「今でも寸法をまちがえるのはしよっちゅうだわ。そんなかなかった。そのころには景子はパリにいて、昇の案内役

9. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

314 切返しがおわる。相中段につけて二人は構える。 と思う。きっとその先があるにちがいない。白光を放った 壬生はこのごろよくなってきた、と次郎は隸う。しかし空白の広野のようなものが。 次郎の目には、どんなに激しく動き回る後輩の速度も、ス 「どうした。だらしがないぞー」 しった はじ ローモーション撮影のようにのんびりと映る。 と次郎の叱咤する声が、遠いところでしらじらと爆けて 一つ一つの動き、動作の起る具合、それはゆったりと分きこえる。 わざ 析的に継起する。あたかも潜水者が海底に足をつけ、そこ 壬生は自分の技とカのどうしても及ばぬ、高い藍いろの を蹴って浮び上るときに、身のまわりにゆるやかに砂を湧断崖のような次郎の存在を感じる。間断のないその感じの き立たせる姿を見るように、壬生が撒き散らすその見えな持続が、壬生を疲れさせる。この息苦しさと、横腹の痛み い砂は、水の中に舞い立って、又緩慢に静まる。 と、汗のむこうに、自分を待っているものは何だろうかと 次郎は自分の充実と落着いた自由とを、間断なく目にし一瞬疑う。 み入る汗のなかに感じている。相手の動きはますます的確「よし。切返しー」 にゆっくりと目に映る。 とようよう次郎が言った。その声はのびやかで、少しの 壬生はそんなに息を切らし、そんなに激しく動きまわっ疲れもなかった。 ているにもかかわらず、彼の面や籠手や胴に、まるでそれ と明記したビラをぶら下げたように、明白な隙をぶら下げ サ・キャプテン ている。 壬生は、一休みすると、副将の村田のところへ行く折 それは・ほっかりと空中にあいた、時間の停止してしまつを失って、賀川に稽古をつけてもらうために進み出た。 ていとう そんきょ た白い窓だ。その白い窓が壬生の頭上にありありと見え提刀の礼をする。進み出て蹲踞する。刀を抜いて、切先 る。気張った右手の籠手にありありと見える。そこへ次郎を合わせて、立上る。 たけなわ の剣はらくらくと入ってゆくことができる。 今や稽古は酣で、道の内は、竹刀の打撃音と、掛け 壬生は足もとが乱れてくる。喘いでいるロの白い泡が、声と、踏み込む足音とで動している。古いながら、弾み つば娶りあい しない 面金ごしに見える。鍔糶合のときの竹刀の柄が、波立っ のよく利いた道場の床は、四十人に及ぶ部員の足につれて ふる て、慄えているのがわかる。 躍動している。そこに五月の西日が、窓の幅なりに、金し こり 壬生はカの極限を感じていた。まだその先があるだろうろの埃にみちた三本の光りの帯を投げかけている。 めんがね あえ かんまん

10. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

うにしか見えなかった。 「私はあんたに慰められても嬉しくないんだ。独身者にこ 素朴な感情には本来素朴な表現形式がそなわっているもの気持はわかりつこないんだから」 のである。しかし瀬山のこれは無形式としか言いようがな その返事は一週間たってようやく来た。搬送電話が瀬山 かった。本社づとめのころの瀬山は、その物言いも、勤めの名を呼んだのである。 人特有の常套的な表現を墨守していて、「この問題はです彼のまわりでは、若者たちが聴耳を立てていた。瀬山は ね、よく検討してみませんとですね」とか、「課長もなか交換手のよみ上げる葉書を、一行一行大声で復誦した。 なか隅に置けませんなあ」とか、「ええ、そんなら御の字「何ですって ? 『坊やも元気、私も元気、うちのことは』 : うん、うん。 でしよう」とか、誰でも使う言葉ばかり喋っていたが、突え ? 『うちのことはむ配はありません』・ 然山奥に置きざりにされたこの境涯には、常套句は用をな『あなたも』 ? 『あなたも、丁度いい機会だから、雪どけ さなかった。はては瀬山は、昼間から蒲団をかぶってしままでゆっくり体をお休めになって』・ のぞきに行った田代の報告によると蒲団の中で泣いて これをきいて皆が吹き出したので、瀬山は、 いたのである。 「おい、うるさい」 一日一日瀬山は落着いた。何も仕事がなかったので、夜と呶鳴って、皆の笑い声を制した。 マージャンわいだん : え、それから ? 『体をお休めになって、会社の大 は麻雀や猥談のお相手をつとめ、昼は技師たちが不在のと「 : ・ ねぎ : うんうん、 きなど、台所へ行って炊事夫を相手に話し、手つだって葱事な若い方々のお世話をなすって下さい』・ 『留守は引受けましたから、決して御心配なく』 : : : それ を刻んだりした。 が、彼がまだ落着ききれない別の理由があった。妻子かから ? えツ、それだけ ? 」 これでまた皆は大笑いをした。 らの返事がなかったのである。何だってすぐ電報ぐらいよ 滝こさないんだろう。ひとりで黙っているということができ「それだけ ? そんなわけはないがな。それだけですか。 うった る それじやどうも仕様がない。さよなら」 ないので、昇にもしばしばこう愬えた。 沈「一体何か、知らせられない事情ができたんじゃないかし瀬山は受話器を乱暴に置いて、怒りながら、部屋へかえ ってしまった。 : 。もしそうだったら、 ら。もしか坊主が大病でもして : 似どうしよう」 これを堺にやや正気に戻った瀬山は、いっかの晩の 「大丈夫だよ。そのうち便りがあるよ」 ようなダム論争をやるまでになったのである。