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検索対象: 現代日本の文学 35 三島由紀夫集
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1. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

ことわり のお午をたべていた。「あら、初ではなくって」振返った持が惹かれるのも理だった。私はその拒否の言い訳にせ 母が綺麗な声でそう云った。オコタンは「はい初です、初い一杯の嫌悪を顔に示しながら、「いや、僕、あのお城をつ わがまま でございます」とサンドウィッチに口をもごもごさせなが くってから帰るの」ーー母は熟練によって私の我儘に、母 わきま ら答えた。鄙びた日傘を傾けて留守番の初が橋を渡ってく が抑える必要のある種類とない種類との区別を弁えていた るのだった。 のであるが、今は「そう」と軽くうべない「じゃあとでお 初はやっと探し当てて私たちの傘まで来ると、妹をみてかえり。なるたけ早くね。 : 伯母様はお泊りになると思 「まあお嬢さま、おいしそうでございますわねえ」と大声うけれど」母はそれからオコタンにくどくど私の番を頼み で云ったが、母は笑わないで「何の用なの」と問いかえし乍ら妹や初をつれてかえって行った。私は母の日傘が時々 こ 0 「ま ・ : あの高樹町の大奥様がお見えになりまして母の肩に軽い音を立ててまわされるのを知っていた。考え ・ : 只今おやすみになっていらっしゃいますが : : : 」「あ事をしながら歩く時、母は傘の柄を少女のように両手でま あそう」と母はふと雲のかがやく空を見上げて思案した。 わす癖があった。五六歩行って美しい傘がひらりと一つま 別にこれという表情もあらわれない刹那の母の美しさであわるのを見た。もう一度まわれ ! 私は砂に腹這いになっ てんらい ったが、その耳隠しのあたりの頬や襟元の天徠の白さは、私て祈った。しかしまわらぬままに傘は橋を渡って紛れて了 まば の目には眩ゆくも嬉しくみえた。微妙に色をかえている青った。「何をしてらっしやるんです」とオコタンが呆れて あじさ い海の反映が、母に紫陽花の精の幻影を与えるのである。大声で言った。「お友達が呼んでますよ」 : : : 成程きこえ あぎ 彼女は私へ向って云った。「晃ちゃん、伯母さまがいらしるその声の方へ、私は子供らしい義務のためにだけ駈け とっさ たんですって、お家へかえらない ? 」私は咄嗟に思い浮べた。やがて傘にひとりオコタンを残したまま、私は砂の城 た。訪問好きの年老いた肥った未亡人。自分に孫がなく私の構築に余念がなかった。海は中天の陽の下で藍壺のよう 物を姉である祖母と張り合って溺愛しその愛で私を困らせるに濃厚にかがやきゅれていた。波の崩れるあたりの前後 な、んずく に、人々は祭のように入り乱れ遊び笑い叫んでいた。それ て気のよい老婦人。中相手の話をとって了い自分の話をと おびただ られぬためにひ 0 きりなしに用いるあの夥しい感嘆詞は波の響きにまぎれて、ともすると、悲痛な叫びが入り交 あの、まあねえ、ヘーえ、ははあ、ふん、ええええ、おやるようにきこえた。私は何度となく城作る頭を上げて、あ 等々ーーを。彼女に当然随伴している沢山のお菓子や果物の悲鳴は人の溺れる声ではないかと色とりどりな波のあた かかわらす 泳ぎたさに傘の下でうずうずし 類の魅惑にも不拘、築きかけの城塞の方へより多く私の気りを見回すのだった。 ひな なが

2. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

評伝的解説 三島由紀夫文学アルバ ' ム 三島由紀夫氏は『危険な芸術家』という小文の なかで、次のように書いている たとえばエレキは有害で、青少年に対して危 険であり、べー ーヴェンは有益で、何らの危 険がないのみか人間陸を高めるという考えは、 近代的な文化主義の影響を受けた考えであって、 べ ートーヴェンのべの字もわからぬ俗物でも、 うの こういう議論は鵜呑みにするし、現代の政府の 文化政策もこの線を基本的に離れえないことは 明白である。 しかし毒であり危険なのは音楽自体であって、 高尚なものほど毒も危険度も高いという考えは、 ほとんど理解されなくなっている。政治と芸術芻 の真の対立状况は実はそこにしかないのである 磯田光一

3. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

てるもんよ、と怒りながら言った。こんな愚かな言草が、 昇を一ペんに快活にした。彼は、横を向いて、ぶつきら・ほ 二人は初夏の晩の浜離宮公園へ散歩に出た。汐入りの池 うに・フローチの包みを差出した。 は月に光り、水門のむこうには、月島港に泊わている汽船 しようとう びんしよう 少女の顔には憫笑はうかばなかった。彼女はプローチをの赤い檣燈がぼつりと見えた。かれらは海のほとりへ行っ と見こう見してうっとりしているので、昇は当てが外れて、堤防の石垣に足をぶらぶらさせながら話した。少女が あんまり疑うことを知らず、あんまり映画的なものの考え 「あんた、船乗りにしちゃ、案外趣味がいいのね」 方をするので、昇は興ざめた。彼はしばらく黙っていてく 彼女は自分の鑑識眼を誇るようにそう言った。 れとたのんだ。小娘の背中へまわした昇の手は、短かい袖 なぎ 昇が殊の外金使いが荒いので、と云っても、中どころのの、凪に汗ばんでいる腋に触れて、彼を少しばかり幸福に レストランへ連れて行っただけだったが、そんなにパッパ したが、 と使っていいの、と小娘は難詰した。昇は船乗りは気前の 「ねえ、今度シンガポールへ着いたら、あそこの切手を貼 しいものだと説明したが、ほかの少女がサーカスの危険なった手紙を頂戴ね」 軽業を見て目をつぶるように、彼女は人がむだ使いをする と言い出したので、この感興も台無しになった。 たち のを、とても正視していられない性質であった。 昇にしては随分珍らしいことだが、少女の体には手 そうそう まずいチキンライスを喰べながら、昇は思いつくままにをつけずに、次の架空の約束をしたまま、匆々に別れてホ 寄航地の名を列挙した。アモイ、香港、マカオ、シンガポテルへかえった。東京の最後の晩は、こんな結末のおかげ : シンガポールのライスカレーの旨かったこと。 で、ぐっすり一人で眠った。 食事がすんで店を出ると、昇は世にもたのしい気持でロ から出まかせを言い、しばらく日本を離れていたから今の 流行歌を知らないと言った。 顕子は昇の選んだ汽車が急行ではないことにおどろい た。昇は二人連れをカって、越冬の同僚と乗り合わす惧れ 小娘は急にぞんざいな口調でこう言った。 「教えたげようか」 のある急行を避けたのである。車体は汚なく、旅は永かっ そして彼と小指をからめて歩きながら、何度も最初の節た。数冊の下らない雑誌が、一一人の膝の上をあっちへ往き こっちへ往きした。 を唇の尖でためしてから、小さい声で歌いだした。

4. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

残りのように間が抜けてみえる。誠はむしろすっからかんラスになったのは人間というものが前よりもよくわかった の廃墟の展望のほうを美しいと思った。それは欧羅巴の都ということだけだよ。東条が昭和十八年の十一月二十日 市の廃墟などとはちがって、せいぜい焚火のあとほどにしに、神宮競技場の出陣学徒壮行式で『諸君は今や、左手に ちょうかん か見えない。平坦である。清潔である。ここから鳥瞰する・〈ンをとり、右手に銃をもって』と演説したのが、入営一 がれぎくすてつ と、まるで収穫のあとの田のようで、一面の瓦礫と屑鉄の週間後の訓示では『諸君は今こそべンを捨てて戦場へ馳せ ときじくまだ きらめきは、非時の斑ら雪のきらめきのように思われる。参じろ』という風に変っていた。あれなんか見事だった 自然が永らく奪われていた本来の質料をとり戻して、のびね。僕はあのときからどんな人間悪を見てもおどろかない のびと大の字なりに久々の惰眠をむさ・ほっているかのようように腹を据えていたからね、おかげで何の事新らしい影 響も戦争からは受けていないさ」 である。 二人は天皇陛下がマッカーサー元帥を訪問した今朝の新「どうも君の考えには一種の何というか、わざとらしさが 聞の報道と写真を見て、偉丈夫の米国人のそばに並んだ矮あるような気がするな」と愛宕は言った。「幹候のとき、四 くら 小な君主の憐れさを、復員者としてどう感じたかという議五人が冬の最中の水槽へとびこまされる懲罰を喰ったが、 論をやったが、二人ともこの点については甚だ無感動であ隊長が、『俺につづけ』と言っていちばん先に飛び込んだ っこ 0 もんだ。鑞範、部下の責任はまた自分の責任というわ 「戦争というやつが好んでやる残酷な遊戯の一つにすぎんけで、こいつは一種のプロバガンダさ。だから君はやつば よ」と愛宕は言った。「マッカーサーと列んで見映えのすり悪だというだろう。ところが僕はこの単純な隊長の善意 る日本人は一人もいま い。だからもし日本が勝っていたをみとめてやるよ。戦争も平和もいろんな悪意と善意のこ ら、陛下を脚踏にお乗せして上半身だけ写したろう。さもんぐらかった状態で、善悪どっちが勝ったということもあ りはしない。悪意がうまく使われれば平和になるし、下手 なけりや、日本代表に出羽ケ嶽を連れて来たろうね」 「全くね」と誠は何気なく徴笑した。こういう時の彼の徴に使われれば戦争になるだけだ」 笑は美しいと謂ってもよかったが、それには彼にとってき「それじゃあ僕の考えとおんなじだよ」 わめて珍らしい「何気なさ」があったからだ。「戦争という「ノオ / オ。人間の善意を信じるというのが僕の主義なん 奴は、人間の背丈を伸ばしもしなけりゃあ縮めもしないか だ。理由はそのほうが得だからさ。善意を信じてもらった らね。僕もずいぶん軍隊でいろんな目に会ったけれど、ブ人間がどんなにとろりとした嬉しそうな顔をするか、知ら だみん

5. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

假面の告白 由紀書き下ろし長第小 「仮面の告白」初版本 ( 昭和一十四年刊 ) 早稲田ョットクラブ ーと ( 横浜 ) のメンノヾ 後列右が由紀夫 ( 昭和 22 年 ) と三島氏との距離、いいかえれば、氏の孤独の象 徴である。しかし、ここで注目すべきことは、作 者自身がこの小説について、「この抽象化された 官能的生活は、私が自ら、精神生活と呼んでいた ものの戯画なのであった。」と述べている点である。 すてに世にい、つ〃月 籵神生活みは、戯画化の対象で しかありえない。孤独は人間の美徳ではなく悪徳 ス年である。人生が仮面劇として見えてしま「た人間 にとって、どうして真情流露の心をもった告白な 内昭どが可能であろうか。 " 内面みよりも ' 外面。を、 という三島氏の思想は、この時期にすでに確立し 皇 ていたのである。 むて 人はこういう三島氏の態度を奇異なものと考え るかもしれない。 しかし、戦後という時代のゆく 馬クえに目を注ぐとき、時代の空白感を最初に予感し 乗馬 ていた戦後作家が、ほかでもない三島由紀夫氏だ ったのである。たとえば、世に姦通小説や犯罪ト そな 年 説は数多い。しかし悪が悪としての魅力を具えて いるためには、少なくともその前提として善の基 準がなければならぬ。しかし現在、法律的な規制 会 カ以外に、絶対的な善悪の基準があるであろうか ニ一口 殺人か悪てあるという糸文白オ + 色寸勺よ艮拠もまた存在し 『愛の渇き』の女主人公が下男を殺したあ かんつう

6. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

「それには稽古だよ。稽古のほかには何もないんだ」 「国分さん、子供をほしいと思いますか」 ときいたことがある。 と次郎は言った。 「俺か。まだそこまでは考えていないな。どうかな、自分 その五 の子をやつばり可愛いと思うだろうか」 「でもいっかは国分さんも子供を持ちますよ」 剣道部の夏の合宿は、夏休みの終りごろ、八月の二十三 「そう。そりや愉快だろうな」 日から十一泊、西伊豆の田子という漁村で行われることに べんぎ 「遠い未来かな。近い未来かな」 なった。田子の町長が同学の先輩で、いろいろと便宜を計 そのとき国分の顔からは、銀箔が風に剥がれ落ちるようってくれる。 に、何かが剥がれ落ちた。壬生はそれと知らずに、彼の禁 合宿の場所は円隆寺という禅寺だ。二十一日の田子の祭 句を言ったのだ。 がすむと、近在からの泊りがけの見物も散り、小笠原や遠 かつおぶね 「人間ってくりかえして、生れては死に、死んでは生れるくサイ・ハンへまで出漁する鰹船の出漁もはじまって、町は と思うと、退屈ですね」 みるみる閑静になる。 「それは君の考えか。それとも何か本で読んだのか」 田子音頭に、 ちょっと 「いや、漠然と、一寸そんなことを考えたんです」 「伊豆に港は数々あるが 「それだったらよせよ。先のことは考えるな。まだ若いん 田子に来て見な魚の山 じゃないか」 北の今山南をうけて 「若いから希望を持っているんです」 段々畠に花が咲く」 はざち ねっこ 「俺だって希望を持ってるよ。しかし、下らないことを考とあるが、猫越火山系の二つの支脈にはさまれた狭地が える暇はないんだ」 田子村をなしていて、平地は五パーセントにすぎない。村 だき 次郎はあたかも唾棄するようにそう言った。 の戸数は千世帯を上回るぐらいである。 しやくねっ それを見ていると壬生には、次郎の眼前に現在が灼熱伊豆半島の屈指の良港で、港ロの水深も五十五米に及 まぐろ し、その真赤に煮凝った玉を、次郎が目を放たずに見つめび、鰹鮪釣りのディーゼル漁船を二十四隻持ち、港口に つづけているのが感じられて、息苦しくなった。 は、田子島と、尊の島と、弁天島の三つの嶮しい小島があ って、眺めにおもしろい変化を与える。 「僕も早く国分さんみたいに強くなりたいと思いますよ」 にこご メートル

7. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

286 いう感想はなかった。『僕だってとてもおでこだ。おでこ ゃないんだ。だって恋愛なんかするんだもの』 の恋はたしかに本当の恋であった。天才の決してしては美しいというのとはちがう』 はならない恋であった。は藤壺と源氏の恋、ペレアスと そのとき少年は何かに目ざめたのである。恋愛とか きようざっぷっ メリザンドの恋、トリスタンとイゾルデの恋、クレエヴの人生とかの認識のうちに必ず入ってくる滑稽な夾雑物、そ 奥方とヌムウル公の恋、その他さまざまの道ならぬ恋を例れなしには人生や恋のさなかを生きられないような滑稽な 証にあげて自分の苦悩を飾った。 夾雑物を見たのである。すなわち自分のおでこを美しいと 思い込むこと。 少年はききながら、彼の告白に何一つ未知の要素のない おどろ ことに愕いた。すべては書かれ、すべては予感され、すべもっと観念的にではあるが、少年も亦、似たような思い いきしき ては復習されていた。書かれた恋のほうがずっと生々して込みを抱いて、人生を生きつつあるのかもしれない。ひょ いる。詩に歌われた恋のほうがずっと美しい。がそれ以っとすると、僕も生きているのかもしれない。この考えに 上の夢を見るために、現実の中へ出て行ったことは解せなはそっとするようなものがあった。 かった。凡庸への欲求がどうして生れるのかわからなかつ「何を考えているの ? 」 たのである。 とがいつものやさしい口調できいた。 は話すうちに、心がほぐれて来たと見え、今度は永々少年は、下唇を噛んで笑っていた。戸外は少しずつ暮れ 、・、ツトこ当っ と自分の恋人の美しさを語ってきかせた。すばらしい美人かけていた。野球部の練習の喚声がきこえ せつな のようでもあったが、何一つ目にうかぶ形はなかった。今た球が天空へ単ける刹那の乾いた明快な音がひびいた。 度のとき写真を見せてあげる、とが言った。それから『僕もいっか詩を書かないようになるかもしれない』と少 ちょっと は一寸照れながら、効果的な結語を言った。 年は生れてはじめて思った。しかし自分が詩人ではなかっ 「彼女が僕の額をとっても美しいって言ってくれるんだ」たことに彼が気が付くまでにはまだ距離があった。 少年はかき上げられた髪の下にあらわれているの額を 見た。秀でた額は、わずかな戸外の光りのために、うすく 皮膚の表面をかがやかせ、二つの大きな見えない拳をつき 合せたような形をはっきりと描いていた。 『ずいぶんおでこだな』と少年は思った。少しも美しいと こぶし

8. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

若い主人のこれほど活々とした顔つきを見たことがなかっ た。『きっといよいよ気に入った婦人をお見つけになった 第二章 んだろう。家にも、どこの馬の骨だかわからない若奥様が できるわけだな』ーー・昇が部屋に落ちついて考えたことは 別のことだった。祖父から譲られただだっぴろい家を処分昇の出発は瀬山よりも十日遅れた。彼は見送りを断わっ て一人で夜行で発った。あまたの広告燈のために赤く染ま して、あの召使に退職金をどれだけやるべきかを考えてい った都会の空が遠ざかると、この自由な孤児は、自分がど たのである。 朝の来るのは待遠しかった。出社すると、すぐ上役の机んな生活の中でも物に動じないだろうという確信に心が浮 き立った。酒場リュショールや、女たちゃ、放浪や、数し へ行った。 れぬホテルの夜や、そういうものへの訣別も、その訣別ま 「僕を奥野川ダムに行かして下さい」 上役は目を丸くし、この今まで特別扱いをされていた青でには紆余こそあれ、決して自分にとって大袈裟なセンチ メンタルな変革ではないという考えが彼の気に入った。 年が、技術者の良心にめざめたことを大いにもちあげて、 こうして十月下旬のある朝、新潟県の駅に、祖父の外 賛同した。人事課長はそれをきいて首をひねったが、直接 呼んだ昇の口から決心の固さを知ると、本社にいて周囲か遊先のさまざまなホテルのラベルを貼った形見のトランク しわ ら目ざわりな存在と思われなくなるだけでも、昇のためだを提げ、皺くちゃなレインコートを着た昇が下りた。 ほうさ 粗い箒の掃目ののこったホームに、改札口がはっきりし と考えた。 異動があって、辞令が下りた。暗い廊下で昇は浮かぬ顔た影を落している。さしこむ朝陽には秋らしい麦いろの埃 が舞っている。出迎えの瀬山は帽を振った。 の瀬山に会った。 「ようこそ。私はもう倦き倦きしているんです。一週間で 「やあ向う三年間一緒だね。僕も奥野川ダムだ」 と彼の肩を叩いて昇が言った。瀬山はびつくりして、物結構です、こんなところ」 も言えずに、昇の顔をつくづく眺めた。青年はひどく朗と挨拶もそこそこに瀬山が言った。 らかな顔をしていたが、瀬山はこの冷たい流竄に、彼お「城所さんみたいな贅沢な坊ちゃんが、どれだけ辛抱でき よび昇を支えていた城所九造の権威の瓦解を見たのであますかねえ」 「僕だって軍隊生活をしているんですよ」 るざん

9. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

242 誠は走り寄って、うやうやしいお辞儀をした。さっきのですわ。あなただったらお友達だからお手助けしたいと思 かおう 威勢のよい歩きつぶりのあとに、このお辞儀で見事な花押っただけだわ」 を書き添えたようなものだ。耀子は大そうきまりのわるい 「みんなに僕のことを何と言いました」 思いをした。 「お友達と他人の丁度真中へんだって言ったのよ」 「負けたな。それではもう一つ訊きますが、太陽カンパニ 「おくれて本当に済みません」 「あらいやだ。会長さんがそんなに頭をお下げになったらイへいらして以来、僕にあんなに冷淡な素振を見せたのは どうしてです」 変だわ」 誠がこうきいたのは、逸子のことを感づかれたせいでは 「皮肉を仰言らないで下さい。さあ入りましよう」 ないかという危惧を試したのである。 誠は手を彼女の背中へまわすようにして映画館へ入った が、あと一一十分ほどで一回がおわるので、二階の廊下の椅「あらあたくし誰にだって冷淡だわ。あなたに特別冷淡に 子でおわるのを待っことになった。彼が何か言いたそうにしたわけじやございませんわ」 この否定の無邪気な明るさにおどろいて、何事にも平等 しているのを察した耀子は、膝にのせた楽譜鞄のはじのほ うを。ヒアノの鍵のつもりですずろに叩きながら、何のおに扱われるのがきらいな誠は、逆に彼女の不安をそそり立 ててみたいと思った。そこで不利もかえりみずにこう言っ 話、ときいた。 「それはね」と誠はロごもって、すこし抒情的な口調で言た。 った。「きこうきこうと思っていたんですが、忙しくって「田山逸子を、君どう思う」 「あら別に。とてもいい方だわ」 ね、とうとうきけなかった。あなたが研究会からカンパニ イへ来て下さったのは、どういう動機ですか。あなたが進一向に疑われない誠は気をくさらした。 んで来て下さる気持になったんですか」 それから二人は埒もない映画や小説の話をしたが、誠は 深く考えもせずに、彼女は正直にずけずけと答えたが、燿子の博識に一驚を契した。耀子はこの世の小説をのこら このあけすけな返事にも人にいやな気持を与えない率直さず鵜呑みにし、そして憶えるのは題名だけなので、幸いに あた があり、誠の好意的な眼は率直さのなかに優雅をすら見出して小説の毒に中ることから免かれている。こういう読者 ・ヘダンチズム ・こ 1 レこ 0 十ー十ー のおかげで、小説も古典になりうるのである。およそ衒学 「別にどうってことないわ。ただ面白そうだから来ただけには不感症の誠が、これら泰西群小作家の名前のかたわら

10. 現代日本の文学 35 三島由紀夫集

は南寮である。ぎのうまでは各部の所属がまだ確定してい 「いや、思わず吹き出しちゃっ . たんです。僕はいつもわる なかったので、一応の部屋割が決められるにとどまった。 い癖で後先の考えなしにやっちまうんです」 きようは各部ごとに確定的な部屋割が決められる。南寮八誠は嘘をついた。軽率になりたさに笑ったなどと言って 番室の弓道部の部屋が誠の住所になった。 も、わかってもらえそうもないと思ったからである。 芸術的なことには一向に興味がなかったので、それなら このとき彼の中には奇妙な心理が働いた。自分がまった いっそ、ポート部やラグビー部のような羽振りのいい運動く軽率に、後先を考えずに笑ったと思わせたかったのであ 部へ入ればよかったが、彼は連動のエネルギーをできるだる。決して後悔はしていないが、自分と同じような感情の け節約して、知識欲の満足に充てたかったので、あんまり動かし方をするこの新らしい友への警戒心から、彼はおの くたびれないですみそうな弓道部を選んだのであった。 れの鋭鋒を隠さねばならぬと考えた。 荷物を片付けていると、小肥りした快活な新入生が、行 ひとつには、愛宕の発音があまりにも流暢な東京弁だっ 李を肩にかついで入ってきた。先輩の勝見がその顔を見るたので、この市出身者は、田舎者のとんちきを露骨に出 と、誠に紹介した。 しておもねりたい気持もあった。 おたぎ 「愛宕だ。同室だよ」 「大丈夫でしようか」と誠は心配そうにたずねた。「僕す 誠は立上って埃の手を叩いて挨拶すると、相手の耳がか つかり不安になっちゃったんです。あとで呼び出されてひ すかに動いた。 どい目にあうんじゃないでしようか」 「やあ、さっき僕の隣りにいたでしよう」 「そんな心配は要りませんよ。この学校には鉄拳制裁なん と誠が言った。 かない筈です。あんなに怒鳴るのは、あれはエネルギーを そのとき勝見が用ありげに出て行ったので、二人の新入発散させたにすぎないんですよ」 代生はすこし気が大きくなって、べッドに腰かけて足をぶら 二人の新入生が偉ぶった意見を交換している最中に、勝 時ぶらさせながら話した。 見と一緒にのっそりとさっきの風紀点検委員が入って来た 青「さっき君が吹き出したでしよう」と愛宕は言った。「あのにはおどろかされた。二人はペッドから飛び下りて、直 のとき僕は偉いなと思いましたよ。まったく可笑しいもの立不動の姿勢で委員を迎えた。 を笑わないでいるなんて、真理に忠実じゃありませんから委員は巻いたノートを手に持っていて、それで頸筋を叩 ね」 きながら、部屋のなかを刑事のように見回した。それが照 かつみ