草すべ 煙 あろう。繃帯をし手袋をして、自分では隠し了せたつもりかわって行くらしかったから。もし彼等が、「何だい長崎 でいても、電車のなかで自分の周囲の人たちがはやくもそはえらそうな歌 ( 彼らは詩という言葉を知らないので詩で れを嚊ぎつけ、私を罪人をでも見るような目付でじろじろも俳句でも何でも歌だと云っていた ) を書いてるけど、煙 見るので、その匂いが身体中を犯していてかくしても隠せ草のんだことがあるかい」と言ったら、もう今までみたい ないほど強烈になっていると気が付くときの辛さはどうだに気まずそうに黙ってしまわないで、「煙草ぐらいのんだ しかしそれに ろう。その日の夕食の折、私は父の顔をまともに見ることことがありますよだ」と云ってやろう。 が出来なかった。「そら啓ちゃんお汁がこ・ほれますよ」としてもゆうべの怖ろしい罪の思いも、こうした気の強さと いう祖母が食事毎にくりかえす注意も、私ははっとして聞矛盾しないで、ますます裏からそれを強めてゆくように思 いた。少女のころ召使の盗癖を見抜いたという祖母は、きえるのはどうしたことであろう。私は何とはなしに快活に このなっていた。理科教室の席のとりあい ( これは最前列の席 っと私が煙草を喫んだのを知っているにちがいない。 考えはとても自分一人で持っていられないほど怖ろしいものとりあいでなく最後列のそれなのだが ) でも、いつもな あと のだったから、私は祖母にどうか父に告げ口をしないでくら後からゆっくり行って空いている席に坐る私が、きよう れるように頼むために、食事が済むと祖母の部屋をたずねは朝礼が済んで真先に駈けだすを見るや、彼を追って誰 た。「おや啓ちゃん、めずらしいお出だね」と祖母は私によりもはやく駈け出していた。いつも二番目によい席 ( 居 話す隙もあたえず、森八のお菓子を出したりお茶をいれた眠りをしてもわからない席 ) に坐るは、もうそこに坐っ りしはじめた。そしてとうとう「橋弁慶」の「タ波の色気ている私を見て、「あれ、長崎ひでえ、ーー、そこの席は一番 はそれか夜嵐の」というところを習わされてしまった。私当る席なんだよ、きようはよっ。ほど勉強してきやがったな、 ちえつ、ガチな奴はちがうよ」と口惜しがった。そして皆 にはますます祖母が疑わしく思えてならなかった。 明る日、学校へ出て見ると、私は今までとちがった目でに「何とか言ってら、ガスマスク」と上級生につけられた 凡てを見ているような気がした。何が齎した変化であろあだ名を言いはやされて、は怒って、最前列の先生と真 う。どうもあの一本の煙草しか私には思い当らない。上級向いの席にすわってしまった。その時間にはが散々先生 生の仲間入りをして女の話をしている運動家の同級生たちからし・ほられたので、皆は大喜びをした。 すぎ への私の日頃の軽蔑が負け惜しみに過なかったことがわか私は昼休みにもついぞやったことのない・ハスケット・ポ 1 ルにはいってみたりした。しかしあまり下手なので、忽 って来た。なぜなら、彼らへの無関心がだんだん対抗心に 淺うたい たちま
ぶっそう は、こんな子供らしい陶酔には目もくれない。 「カシアス行電車」というのがあって、機関銃や物な武 とこうするうちに、庭の椰子のかげの一つの卓で喧嘩が器を携えた男たちの乗っている電車の山車があるが、これ しそう たちま おこり、物見高い人たちが忽ちそのまわりに人垣をつくつは暴力団を養っており、時折これを使嗾して政敵を暗殺す た。見ると金髪の女と栗毛の女が髪をつかみあって組んずるので有名な代議士カシアスを皮肉ったものである。これ ほぐれっしている。喧嘩の原因をなしているらしい浮気なほどその非道が周知であり、その悪名が高いのにもかかわ ひげ 色男は、髭を生やした好い年配の大男であるが、。ヒェロのらず、彼はいつもうまく立ち回って、今まで法廷に引き出 仮装で心配そうにおろおろしている。そこへ肥った黒衣のされたことは一度もない。 中年婦人が仲裁役を買って出て、男たちに命じて女二人を山車の寄進者にはほ・ほ三種類がある。一つは市当局であ それそれ控室へ退かしめると、自分の役割の成功に満足しる。一つは大会社が宣伝をかねて寄進したものである。一 ゅう た彼女は、みんなの注目を浴びながら胸に十字を切って悠つはいくつかの著名な謝肉祭倶楽部である。これらの倶楽 娶ん 然と引上げてゆくのである。この土地の人には、それは本部は毎年の謝肉祭のために存立している伝統的な著名な倶 当の喧嘩を見る喜びに他ならないが、私にとっては、むし楽部で、会員たちの会費の大半は、維持費を除いて謝肉祭 ひとこま の舞踏会と、山車の寄進に充てられるのである。 ろ伊太利喜劇の一齣をみるたのしみであった。 こういう倶楽部の寄進にかかるもので、きわめて美しい 謝肉祭の最後の夜は、こんな風にいつまでも名残惜しく山車がいくつかあり、贅を凝らした古代埃及の巨船や、子 にわとり 踊られるが、その最後の舞踏会のはじまる前に、民衆の待供たちが雛に扮した大きな雛の山車があった。 ちかねていた山車の行列が街を練ってゆくのが見られる。 テアトロ・ムニシ・ハ ールの前は見物で埋っており、街路 ート・ハイの先駆 それは主としてアヴェニーダ・プレジデント・ヴァルガスも人で一杯なので、山車の前には騎馬やオ から、リオプランコの大通りを通って、リオプランコの尽が立たなければ、人ごみを分けることが容易でない。群衆 みちゅき せんど きるところで引返す道行であるが、こういうものにこそ由は山車に乗った女王役や侍女役の美人に、ここを先途とば 緒がほしいのに、どの山車も半裸の女を乗せたアメリカ風かりコンフェッチやテー。フを投げかけ、時を同じゅうして おうか の見世物や、・フラジルの産業的繁栄を謳歌したものや、教広場のゴンドラの造り物の中では、黒人の楽隊が演奏に気 合をかけ、反対側の街路をサン・ハの一団がつぎつぎととお 訓的なものや、さもなければ、諷刺的なものに尽きてい る。 りすぎ、いたずらな子供たちは、インディアンやツイガーヌ だし クラブ エジプト
のか。だがそれも訝かしい。百かぞえる内に駈けられる範がすべき処がどこにあろう。しずかな叢、露わな岩床、見 引囲を知っている青年が、なぜそのように遠くを志す筈があえるものは、空がその夥しい部分を占め、今し浮き雲のふ ろう。私は考えながらいっか芒の丘へ登る小径を辿ってい えた空には、それらの雲が優雅な唐草模様を組んだりほぐ た。そして丘の頂きに立って長い散歩に経て来た道をながしたりしていた。湾をへだてる彼方の岬はうっとりと日に めた。すぐ下方に糶鴉な華頂家の屋根がみえた。山羊の鳴 かがやいていた。岬のまわりの海はその端までゆかねばみ 音がしびれるような静寂のなかを震えて来た。私はふと幻えず仄かな海光が反映して来るばかりであったから、ここ を見た。丘の麓の方を黒い影が通ったのである。外ならぬにいる身は天上にあるかのようであった。私は呆んやり立 先刻の丈高い浮浪人の影ではなかったか。恐怖が、ともす上って最後の試みの目をあたりへ投げた。私には自分の目 もた れば私の中に頭を擡けようとしていた強く鋭い悲哀の念にが大人のさびしい目のように感ぜられた。 火を点じたので、私は激しく泣き出さずにはいられなかっ私はむしろ嘗てないほど烈しく愛した人に叛かれた悲し たが、それには心細さや不安や故しれぬ同情が入りまじみのために何も考えない目差を岬の先端へと移した。断崖 り、母に甘えて泣くときのわがままな胸のすく泣き方とは ははるかに水平線を超えて空を限り、今去りゆく雲のため ちがって、自分で自分をもてあます切なさであった。もはに白い岩床を眩しく刃のように輝やかせていた。私は疲れ や遠い一本松を私は望んだ。泣き濡れた目のなかに、雨にた足をひきずってやがてその先端に立った。沖は続く紺青 せつん 濡れそ・ほったようにその松がみえた。母や父や妹や、誰にがそこへ近づくに従って色濃く、そこから截然と明るい雲 ていきゅう まれ家人が一人も加担していない涕泣は、私にとっておその峯が立ち昇る美しい境界をみせて、やがて没せんとして らくはじめてのものであろう。常のごとく無意味な子供の傾きかけた太陽の、雲の間から目じらせする赫奕たる瞳に 涙でありながら、その一部分にはある真面目な事実に際会えていた。沖に帆影はみられなかったが、一艘あたかも またこほ して成人も亦滾すであろう涙が、混ってるように思われ私を指して進んでくる帆舟は、どこへ還るのかとゆかしく た。それが又しても私を、この隠れんぼという遊戯が促すて、私は思わず目を下へやった。すると体全体がぐらぐら きびしい義務へと鞭打ったのである。 おいおい泣き乍し、足がとめどもなく慄えた。その深淵へその奈落の美し ら私はとってかえした。自分でもどう駈けたかわからずい海へ、いきなり磁力に似たカが私を引き寄せるようであ に、はや松の近くへ来ていた。松の根方に坐って見まわすった。私は努めて後ずさりすると身を伏せ胸のときめきを なでしこ と私はずいぶん撫子を踏み躪っていたのであった。今はさ抑えながら、深淵の底をのそき込んだ。再び覗いたそこに なが まぶ
は ~ 、らく みんな皮膚の表面へ出て来てしまって、そのために顔は重 の幾月をくぐって、少しも剥落した跡がなかった。 昇は足下の楓の葉むらを縫い、昇ってくる白いものの曲たい感じを与えた。目ばかりが冴えて、病的にいきいきと きら りくねった列をみとめた。それは人夫たちが一人一人コンして、感情の動揺につれてすぐ裸かに煌めいた。こんな環 クリートの袋を担って、山道を来るのであった。 境をわきまえない都会風の念入りな化粧は、自然らしさを 狙いながら、実は自然さを全く欠いていた。顕子が今も自 分を美しいと思っていなかったら、こんな美しさはとっく 昇は毎夜、奥野荘の顕子のもとへ通った。暗い電燈の下に崩れ果てていた筈だ。 の夜毎の数時間は、細君が大そうなおめかしをして、仕事約束の手前、昇は、東京へ帰れ、とは言わなかったが、 に疲れて帰る良人を迎える、わざとらしい陰気な家庭の模心は敏活に、一人きりの昼間の顕子の姿をえがいた。 写であった。若い昇は、青年たちの活気にあふれた宿舎の発破がひびく。じっと待つ。もう一つ鳴る。しばらく間 せま 夜のほうへ惹かれた。あまっさえ、数日のうちに窄い土地をおいて、また鳴りひびく。もうおしまいだと思う。しか の噂が宿舎へ届かない筈はなく、それと知りながら同僚たし安堵はやって来ない。代りに今度は孤独感に身を包まれ ちが見て見ぬふりをしているという印象が、昇の心を傷つる。顕子は窓をすっかりあける。又すっかりしめる。又あ けた。 ける。時計を見る。時間は少しも進まないのである。 わがまま ある夜、顕子は大そう顔いろが悪かった。昇がわけをき昇はいかにも我儘だったが、こういう顕子を見て、彼女 いたが、答えなかった。答えれば、早く東京へ帰れと言わの自業自得だと考えて済ませるわけではなかった。彼には れるに決っているから、答えない、というのである。彼が冷たさを程のよいものにするあの性格上の単純さが欠けて そう言わないと約束したので、顕子は言った。 いた。それだけに、こんなみじめな想像によって心を傷つ 滝「昼間のあのダイナマイトの音がたまらないの。あっちかけられることが、いかにも不当な気がした。もし女が彼の、 る らもこっちからもきこえるんですもの。耳をふさいでも頭さほど難解でもない心の動きに協力してくれたら、女も悲 沈にひびくわ。散歩をしろと仰言るけれど、怖くて散歩もで劇を避けうるし、彼も傷つかないですむ筈だった。すべて きないの。一日この部屋にこもっているのよ。食事は進まを顕子の無理解のせいにしたがる昇は、やがて女の理解の 仕方におもねるまでになっていた。とうとうこう言った。 。あたくし、すこしむくんで来やしない ? 」 6 / 一し いんえい 顕子の顔には、心なしか陰翳が消えていた。心の訴えが「俺を冷たいと思う ? 」 かえで
ひとけ 頭では知っていたけれど、何かそのためには、自分自身によりも早く教室を出ることができたとき、午前の人気ない もっと興味をもち、自分に何らかの問題を課する必要があグラウンドを校門のほうへよぎりながら、国旗掲揚台の旗 ったであろう。自分を天才だと思い込んでいながら、ふし竿のいただきに、金の珠がきらきらと光っているのを見る。 ぎに少年は自分自身に大した興味を抱いてはいなかった。すると、えもいわれぬ幸福感に襲われる。旗は掲げられて 外界のほうがずっと彼を魅した。というよりも、彼が理由 いないから、今日は祭日ではない。しかし今日は自分の心 もなく幸福な瞬間には、外界がやすやすと彼の好むがままの祭日であって、あの珠のきらめきが自分を祝福してくれ の形をとったというほうが適当であろう。 るのだと思う。少年の心はやすやすと肉体を脱け出して詩 詩というものが、彼の時折の幸福を保証するために現わについて考える。この瞬間の恍惚感。充実した孤独。非常 めいせきめいてい れるのか、それとも、詩が生れるから、彼が幸福になれるな軽やかさ。すみずみまで明晰な酩酊。外界と内面との親 のか、そのへんははっきりわからなかった。ただその幸福和。 は、久しくほしいと思っていたものを買ってもらったり、 彼はそういう状態が自然に訪れて来ないときには、何か 親につれられて旅行に出かけたりする幸福とは明らかにち身のまわりの物を利用して、無理にも同じ酩酊を呼び出そ がっていて、多分誰にも彼にもあるという幸福ではなく、 うと試みた。たとえば虎斑の鼈甲のシガレット・ケースを おしろい 彼だけの知っているものだということは確かであった。 透かして部屋のなかをのぞいてみること。母の水白粉の罎 外界をでも、自分をでも、とにかく少年はじっと永いこをはげしくゆすぶり、粉がやがて重々しい乱舞のはてに、 と見つめているのは好きではなかった。注意を惹いた何ら上澄の水を残して、徐々に罎の底へ沈澱してゆくさまを眺 めること。 かの対象が即時何らかの影像に早変りするのでなければ、 はむら きとろ・ 年たとえば若葉の葉叢のかがやきが、その光っている白い部彼はまた何の感動もなしに、「祈疇」とか、「呪詛」とか、 少分が変貌して、五月の真昼に、まるで盛りの夜桜のように「侮蔑」とかいう言葉を使った。 書見えるのでなければ、すぐ飽きて見るのをやめた。確乎と少年は文芸部にはいっていた。委員が鍵を貸してくれた 詩した、少しも変貌しない無愛想な物象については、『あれので、行ぎたいときにはいつでも部屋へ行って、一人で好 は詩にならないんだ』と思い、冷淡に構えた。 きな辞書類に読みふけることができた。彼は世界文学大辞 試験に思いどおりの問題が出て、いそいで書いた答案典の浪漫派の詩人たちの項が好きだった。かれらの肖像 ひげ を、ろくに読みかえしもせずに教壇へもってゆき、級の誰は、決してもじゃもじゃな髭などを生やしていず、みんな ぶべっ とらふ べっこう びん
ひょうせつ 誠の思惑にはこんな点で世間しらずなところが歴然としあからさまな剽窃を恥じて少しでも独創らしいものを加味 ていたが、彼はまだ自分が憎んでいるのは父親の人格的欠しようとした画家の作品の、気まぐれな恩寵のような輝や 点だと信じていて、世間の少年と同じように、愛情そのもかしい添加の一筆と、それをもぶちこわしにしてしまうよ ふた のを憎んでいるのだとは気がっかない。 うな拙劣な一筆とを、両つながら示しているように思われ 世間並の可憐な父親の感情から、実現しなかった自分の た。この偶然の感興と当然の拙劣は、作者をしておのれの 希望を息子の一人に充たしてもらいたいという考えを夙に独創に酔わせるに足るものである。 持っていた毅は、妻にさえまだ打明けずにいる目論見だっ毅はいつも誠の性格に男らしい果断だとか粗野な明朗だ たが、三人のうち最も適任と思える誠を、ゆくゆくは大学とかいう要素が欠けていることを気に病んでいた。もちろ 教授に仕立てるつもりでいた。 んこうした要素は、毅の中にも十全に備わったものではな きようきんひら この臆病な互いに胸襟を披かぬ親子の憎しみは、やがてく、高等学校時代に凝った柔道の如きは、むしろ衛生上の おもんばか 同じ目的地で紹介される運命にあるとも知らない二人の乗慮りから、永生きをするための準備運動のようなつもり ばんそうこう 客が電車のなかで些細なことから喧嘩をはじめている情景だったので、ちょっとした怪我にも消毒と絆創膏を欠かさ によく似ていた。 ない用心深さは、医者の息子だということで笑われるに止 がんじよう まったが、仔細に見ると、この用心深さには、岩乗なくせ われわれは、なかなかそれと気がっかないが、自分といにむやみやたらと自分の体に気をつかう男の或るいやらし ちばん良く似ている人間なるがゆえに、父親を憎たらしくさの印象があった。 きゅうこじ 思うのである。誠の場合も例外ではなかった。第一、父親誠は杞憂居士という仇名で母や兄弟から呼ばれるほど と顔まで似ているとは不愉快そのものだ。 に、不吉な、と言って言いすぎなら、何か不幸な想像力の てんぶ 代事実このころから彼の容貌には、父親の影響が顕著にあ天賦を持っていた。彼はただ単に、父親より少し正直だっ 時らわれていた。体格の点では背丈も厚みも正反対に近いの たにすぎぬのではあるまいか ? に、やや薄い眉、すこし突き出た顴、見ようによ 0 ては ところで、こうした取越苦労の気質には、設計の細部に 青 けいちょうそ たいしょ 軽佻な反りを示した唇、これと対蹠的な、意志的に固まっ凝りすぎて二階へ上る階段をつけるのを忘れてしまった設 田た顎 : : : 何もかもが父親譲りである。わずかにその稀に見計図のような、間抜けな楽天家の一面があることも事実 る澄明な瞳と、神経質な筋張った肉体とが、丁度、名画ので、誠はいずれ兵隊にとられて永く生きてはいまいという ふで
誠はおどろいて愛宕に顔を倚せて小声できいた。瞬時に ないかね。まだ了見が、若え若え」 こういう応答が取り交わされた。 「妥協はいやだね」と誠はロをとがらせた。 「知ってるのかい」 「妥協じゃないよ。生活だよ。まず生きなくちゃならない。 ・ : 生きなければならぬ」 「一寸ね」 愛宕が気取って空へ両手をあげた。そのとき雲が頭上を「名前は ? 」 ( 誠の一高時代の挿話を思い出されたい ) かげ 通ったので、彼の顔は翳った。 「知らねえな」 それにひきかえ誠は割り切れない表情を泛べている。そ女はそう言っている間にもう一人の手を引いて、誠たち そうそう こで愛宕は御機嫌をとって、こう言った。 のすぐ近くの手摺にもたれた。復員匆々の誠の目には、彼 「兵隊へ行く前に君がしきりに言ってた数量刑法学はどう女の穿いているスカートが世にも優美なものにみえた。何 の変哲もないスカートであるし、格別凝った布地が使って なったの ? 」 「研究をつづけるよ。経理学校にいたあいだも研究してたあるわけではない。ただ風にふくらむその紺無地を、まる で生き物をとり押えるようにおさえている柔軟な指さき んだ。僕は真理に忠実だったと自分でみとめているね」 こま女そのものという風に感じられ、その白い・フラ この言草は『又はじまった』と愛宕に思わせるようなもが、誠冫を きゅうかっ せんこう のがあったが、久闊の二人はまだ何か喋りたくて、それかウスの上体も、繊巧なわりにしゃんとした姿のよさが、針 ら自分でも下らないと気のついている下らない議論を山ほ金に支えられた白い石竹のような人工的な美しさだと思わ どした。 れた。彼の視線を感じて、彼女はこちらをつとめて見ずに、 モンペ姿の醜い同年輩の友達とばかり話した。 そのとき螺旋階を上ってくる金属的な靴音の反響がきこ さすがの愛宕も取りつく島がなくて黙っているのが誠に えて来て、それにまじって若い女の笑い声がした。二人が は大へん愉快だったが、やがて愛宕は聞えよがしにこんな 代ふりかえると、屋上への出口にあらわれた女が、先客のい たたす 時 るのを見てたじろいだ様子をして佇んでいる。あとから現ことを言った。 「彼女は戦争中から徴用のがれに図書館につとめているん 青われた女も、彼女の背から胡乱げにこちらをさしのそい た。図書貸出係だよ」 それまで焼跡の展望についてあれこれと友達と話してい 愛宕が手を振ってこう叫んだ。 た彼女は、これを小耳に挾むと、神経的なすばしこさでこち 「何してるんです。こっちへいらっしゃい」 うろん ちょっと
床には汗が飛び散り、盟いろの刺子は蒸れて、道場全体と賀川は、他人へむけられた尊敬が、多少とも自分へむ きよぎ が、煮え立っ力を籠詰めにしたように息苦しい。 けられる形をとるのを見ると、そこに虚偽をみつけること キャプテン 主将の次郎にあしらわれた壬生の疲れはまだ抜けず、早にばかり熱中する。 どうき い動悸がまだ納まっていない。稽古のはじめには、田舎のそれよりむしろ相手の敵意を見るほうが気が楽なのだ。 真昼の一本道のように、自分のスタミナが坦々と目路の限賀川はやっと切返しをやめ、相手の烈しい息づかいに満足 りつづいているのが感じられるのに、主将に稽古をつけてする。 にわ もらったあとでは、俄かにその一本道も日が暮れて、しば撃込みだ。壬生は、 らく行けば突然道が尽きて、渓谷へ落ちでもしそうな予感「籠手 ! 面ー」 わざ しりぞ がするのだ。 と連続技をかけながら、退いて間合をとり、休みなくか まして相手は賀川である。 かってゆく。 賀川も強いが、ともすると威を衒い、力を恃むところが賀川はなかなか撃たれてくれない。引立て稽古をしてく ある。 れる気がないのである。 サプ・キャプテン 彼が副将にさえ選ばれなかったのには、理由がある。 壬生のない力に充ちた剣尖が宙に泳ぐ。また外され ざんし 彼の稽古、彼の剣には、どこかに感情や心理の残滓がある。 た。賀川が一回りして、その面金に当る西日が赫と光る。 国分次郎のような純一な烈しさが欠けている。 賀川の面はあちらへ出る。こちらへ出る。あるときは日を ただ 「さあ、切返しー」 負うて暗み、あるときは又光りに爛れている。たしかに撃 と賀川はじけるように怒鳴った。 ち込んだところに、しかしそれは消えている。 からう 壬生はかかってゆく。賀川はいつまでたっても切返しを壬生は空撃ちの疲労に、掛け声も細く嗄れてくる。振り やめようとしない。 下ろされて宙に止った剣は、そこに熱烈に求めていたもの 賀川は面の中で汗に蒸れている壬生の若い真剣な顔を見を外されて、一点の空虚に粘りつく。そうした崩れた均衡 る。その目はみひらかれ、その頬は紅く燃え、顔自体が窮を一瞬のうちに取り戻し、空虚に粘りついてしまった剣を 屈な面金の檻のなかで怒り猛っている若い囚人のように見引き剥がすには、何という力が要ることだ。 さぎ える。 壬生はのめり込んだ体を立て直し、藍いろの鷺のように 『こいつは国分を世界中で一番えらい奴だと思っている』まっすぐに立った。 めんがねおり たの
山沿いの別墅の夜々の枕をもゆるがすのみか、夢の中でい る白薔薇が垣越しにちらちらとみえるように ) 、私たち かもめ 四は、知らぬ間に音もなく溢れ出した海が縁先まで寄せてい は瞥見した。橋を渡り、汚れた河口に鵐たちがむらがるの て、水に侵された庭の松葉牡丹の上をちいさな赤い鯛の群を見た。私は渚へ駈け寄った。「ああ危ない危ない」と母 たちまさんん がすぎてゆくさまなどがえがき出された。家からは浜はみが風のなかから連呼した。波濤は忽ち燦然と崩れかかっ えず沖と空と岬がはるばるのそまれ、湾ロの上ではいつもた。そして奇妙に素速い忍び足で、蟹や藻の虫などを追い ひ 幾片かのちぎれ雲がそのあてもない旅路のひとときをしずまわしながらひろがった。 ・ : 水はさて私のまわりに退い やす かに光りながら憩んでいた。岬の平凡な緑でさえ時司のロ 尸カている。茫然とその水をみつめていると快い虚脱が心に来 につちゅう 減で微妙に色を変えた。日中の緑は却って沈静な藍色を凝た。 らしていたが、日が傾きかけて、湾全体に露わな寂しい光波をみていない時は私は傘の下で書物をよんでいた。 みなぎ 輝が漲る時、その緑は若々しく冱えた。ーー私はここへ来石質のよく光る砂が紙面に飛び散り、石で翻る頁をおさえ かたく てすでに一と月、意外な私の頑なさにオコタンが水泳教授て読みあかす「宝島」の物語は、えもいわれず面白かっ つもり た。母はそういう私を憂えてしずかに手をのばして本を伏 をあきらめ埋合せの心算か私の夏休の課業に専念するよう になって来たのに気をよくしながら、その日も母や妹や傘せる。私は食物をとられた大のように恨めしそうに母を見 負うたオコタン共々、朝早くから浜へ出た。残暑は今をさ上げる。母の目が海辺へと教えている。私は仕方なしに立 かりであった。一旦町へ下りるためには、草いきれのはげ上った。苺のようなあの海水帽は妹だ。小さい妹は浮袋を しい小径を下りてゆかねばならなかった。しとどな朝の露オコタンに引張って貰って、波の間をげんごろうむしのよ かかわらずきお にも不拘、勢い立った夏草の茂みは、そこに咲く鬼百合のうに辷ってゆく。こちらをみて機嫌よく笑ったが、眩しい 虹のような毒気と共に、私たちの背にはや汗をにじませ海風のために、みえるのは笑いばかりだ。私は臆病そうに た。今日も亦赫奕たる日照りが土用波の高鳴る海に訪れる波を避け、年下の子供たちと砂のお城を作るのに没頭して じようさい のである。 いた。構築された物見の塔が乾きかけ、沙漠地方の城塞の ひな 鄙びた漁師町ーーその一角には「たばこ」と三字を白くように見え出すと、私は頭を地につけ目を細めて、その背 うろう 抜いた赤い琺瑯引の小石板が低く暗い軒にかかって彼方の景に沖合なる雲の峯を透視した。その時城塞の天辺からは こんべき りゅうりよう らつばね 海の紺碧を区切っていたが , ーー・そのあたりから磯の香は胸劉喨たる喇叭の音が響きそめるようであった。 を打ち、砕けなんとする波濤の白い花を、 ( 風にゆられて お昼ごろだった。傘の下で私たち四人はサンドウィッチ べっしょ いったん こ べつけん いちご
らである。 ポリスを見たー パルテノンを見た ! ゼウスの宮居を見 た ! 巴里で経済的窮境に置かれ、希臘行を断念しかかっ アテネ及びデルフィ て居たころのこと、それらは私の夢にしばしば現われた。 こういう事情に免じて、しばらくの間、私の筆が躍るのを 恕してもらいたい。 四月二十四日ーーー二十六日 ギリシャ けんれん 空の絶妙の青さは廃墟にとって必須のものである。もし 希臘は私の眷恋の地である。 ( ルテノンの円柱のあいだにこの空の代りに北欧のどんよ 飛行機がイオニヤ海からコリント運河の上空に達したと き、日没は希臘の山々に映え、西空に黄金にかがやく希臘りした空を置いてみれば、効果はおそらく半減するだろ かふと の胄のようなタ雲を見た。私は希臘の名を呼んだ。その名う。あまりその効果が著しいので、こうした青空は、廃墟 せいひっ あらかじ はかって女出入りにあがきのとれなくなっていた・ハイロンのために予め用意され、その残酷な青い静謐は、トルコの 軍隊によって破壊された神殿の運命を、予見していたかの 卿を戦場にみちびき、希臘のミザントロー。フ、ヘルデルリ ーンの詩想をはぐくみ、スタンダールの小説「アルマンス」ようにさえ思われる。こういう空想は理由のないことでは 中の人物、いまはのきわのオクターヴに勇気を与えたのでない。たとえば、ディオニューソス劇場を見るがいい ある。 こではソフォクレースやエウリ。ヒデースの悲劇がしばしば 飛行場から都心〈むかう・ ( スの窓に、私は夜間照明に照演・せられ、その悲劇の尽争 ()e 「 nichtete 「 Kampf) を同 らし出されたアクロポリスを見た。 じ青空が黙然と見戍っていたのである。 今、私は希臘にいる。私は無上の幸に酔っている。よし廃墟として見れば、むしろ美しいのは、アクロポリスよ ホテルの予約を怠ったためにうす汚ない三流ホテルに放り りもゼウスの宮居である。これはわずか十五基の柱を残 杯込まれている身の上であろうとも。インフレーションのたし、その二本はかたわらに孤立している。中心部とこの一一 ロめに一流の店の食事が七万ドラグマを要しようとも。今こ本との距離はほ・ほ五十米である。二本はただの孤立した円 アの町におそらく只一人の日本人として暮す孤独に置かれよ柱である。のこりの十三本は残された屋根の枠を支えてい うとも。希臘語は一語も解せず商店の看板でさえ読み兼ねる。この二つの部分の対比が、非左右相称の美の限りを尽 りようあんじ 3 ようとも 0 しており、私ははからずも龍安寺の石庭の配置を思い起し 私は自分の筆が躍るに任せよう。私は今日ついにアクロ こ 0