さまっ は喜んでこれを迎えた。彼は部員に対しては全く一視同仁木内に喋るわけには行かない。それはあんまり些末な事柄 である。 で、人に理解してもらうのはむずかしい。 木内は肥っていて、色が白くて、顔の造作も大まかに出昨日の稽古のあとの風呂場でこんなことがあった。先輩 来ている。あれだけ強いのに、その顔には険しいところが係りの一年生が、国分次郎の背中を流そうとした。いつも なら気楽に流させるところだ。次郎はちらとこちらを見 少しもないのである。 「アル・ ( イトの話はもうすっかりつけてある」と木内はビて、賀川の背中を流そうとする奴がいないことに気づいた ールをすすめながら言った。「重役連も厚意的で、気持よらしい。もちろん忠実な一年生としては、主将の背中を流 してから、賀川の背中にかかるつもりだったのであろう。 く働けるだろう」 へ働それは古い暗い風呂場で、次郎の背は湯気に包まれて、 剣道部は合宿費の捻出のために、総出で t-') デパート うつん こんぼう きにゆき、中元大売り出しの梱包を手つだうことになって濡れた鬱然とした肉を畳んでいる。賀川は彼が、一年生に 命じて、背中を流す順番を、さりげなく賀川に譲りはしな いかと怖れた。しかし次郎はそうしなかった。彼は二度と 「単調な仕事ですがね」 と賀川は言ったが、木内はそんなことでは怒らなかっ賀川のほうを見ず、ひろい背中をこっちへ向けて、一年生 がそこへ石鹸の泡を、荒っぽく塗りたくるのに任せてい こ 0 「そうさ。単調なくらいでいいんだ。学生のアル・ハイト おも ・こうまん は、下手に頭を使う仕事はいかんよ。勉強にも運動にも差 この小さな傲慢は、賀川にとっては、半ば意外、半ば思 わく 支える」 惑どおりで、とにかくやりきれなかった。自分で気づかな 「また国分が張り切るでしよう」 い素朴な傲慢ならまだ可愛いところがある。だが、それは 「あいつは何にでも張り切る。それがあいつのいいところ明らかに、考えられ選ばれた傲慢だった。次郎は明らかに 賀川に気づいていて、その上順番を賀川に譲ることで却っ て矜りを傷つけるのを怖れて、むしろ傲慢に「見える」ほ 「型ですからね」 うを選んだのだ。あいつはその場合の自分が、人からどう 「結構じゃないか」 思われようと、「そうすべきだ」ということを知っていた。 それで二人はちょっと黙った。 もとは一個の明るい決心から出たものが、次郎をそうい 賀川は今夜ここへ来る気になった心理的なきっかけを、 せつけん
324 う風に、瞬間にうかぶ暗い知恵に委ねるのを、賀川は実に「僕も同い年です」 「君のほうがまあ大人なんだよ」 不透明な気持で見た。 『あいつはもとそんな奴じゃなかった。あいつは俺をさえ木内はいくらでも苦情をきいてやり、その苦情について 警戒し、俺の自然な感じ方を、「誤解」と思うようになっ批評は加えない。 たんだ。それで手前は、「誤解に囲まれて生きるのは仕方彼は賀川がこういう気持になった直接の理由を知ってい がない」と思い込んでやがる。そういう傲慢は許さんそ。る。それは賀川が五月の校内合宿のとき、禁酒禁煙の規則 を破って、道場の裏手で煙草を吸い、制裁を加えられたか 友達は「誤解」なんかしないのだ』 らにちがいない。 と賀川は怒りにかられて思った。 賀川も四段なら、次郎も四段である。しかしそこには徴次郎は規則違反に対しては、同級生といえども、決して 妙なちがいがある。賀川は、監督と先生の認定によって与目こ・ほしをすることがない。その同級生に罰を課するとき えられる学校の段位では三段だったのが、この早春、剣道の次郎の心の裡が、しかし木内にはありありとわかる。 連盟の査定に出て、四段をとったのだ。この大学の段位「無断欠席、喫煙飲酒、その他合宿中の規則に違背したる は、連盟の段位よりきびしかった。次郎はすでに学校の四者は、四十分間の正座を課す」 段であるから、彼の実力なら、連盟では軽く五段がとれた という札が道場の控室の壁に貯 0 てある。これが現在ふ にちがいない。しかし次郎は、決して連盟の査定に出ようつうに行われている制裁の限度であって、板の間の正座が としなかった。そしてこのことが、賀川の感じる重苦しさ いかに辛くても、むかしの制裁とは比べ物にならない。し こよっこ 0 かしその正座でも、三十分に及ぶころ、脂汗を流して脳貧 賀川はこれだけ物事を折り曲げて見ることができるの血を起した新入生がある。 木内はどうしてもこの話題に触れないわけには行か に、一方では、「友情」を信じていた。 「全く夏の合宿が思いやられますよ。あの勢いで締められない。 るんじゃ」 「いっかのタ・ハコ事件だな、君の」 「それはもう言わんで下さい」 「全日本の優勝を目ざして火の玉になってるんたろう」 と賀川は頭を掻いた。 「何というか、あいつには全然余裕がないんですからね」 「いや、俺がききたいのは、そのあとの国分の態度なんだ 「若いんだから仕方がないよ」
床には汗が飛び散り、盟いろの刺子は蒸れて、道場全体と賀川は、他人へむけられた尊敬が、多少とも自分へむ きよぎ が、煮え立っ力を籠詰めにしたように息苦しい。 けられる形をとるのを見ると、そこに虚偽をみつけること キャプテン 主将の次郎にあしらわれた壬生の疲れはまだ抜けず、早にばかり熱中する。 どうき い動悸がまだ納まっていない。稽古のはじめには、田舎のそれよりむしろ相手の敵意を見るほうが気が楽なのだ。 真昼の一本道のように、自分のスタミナが坦々と目路の限賀川はやっと切返しをやめ、相手の烈しい息づかいに満足 りつづいているのが感じられるのに、主将に稽古をつけてする。 にわ もらったあとでは、俄かにその一本道も日が暮れて、しば撃込みだ。壬生は、 らく行けば突然道が尽きて、渓谷へ落ちでもしそうな予感「籠手 ! 面ー」 わざ しりぞ がするのだ。 と連続技をかけながら、退いて間合をとり、休みなくか まして相手は賀川である。 かってゆく。 賀川も強いが、ともすると威を衒い、力を恃むところが賀川はなかなか撃たれてくれない。引立て稽古をしてく ある。 れる気がないのである。 サプ・キャプテン 彼が副将にさえ選ばれなかったのには、理由がある。 壬生のない力に充ちた剣尖が宙に泳ぐ。また外され ざんし 彼の稽古、彼の剣には、どこかに感情や心理の残滓がある。 た。賀川が一回りして、その面金に当る西日が赫と光る。 国分次郎のような純一な烈しさが欠けている。 賀川の面はあちらへ出る。こちらへ出る。あるときは日を ただ 「さあ、切返しー」 負うて暗み、あるときは又光りに爛れている。たしかに撃 と賀川はじけるように怒鳴った。 ち込んだところに、しかしそれは消えている。 からう 壬生はかかってゆく。賀川はいつまでたっても切返しを壬生は空撃ちの疲労に、掛け声も細く嗄れてくる。振り やめようとしない。 下ろされて宙に止った剣は、そこに熱烈に求めていたもの 賀川は面の中で汗に蒸れている壬生の若い真剣な顔を見を外されて、一点の空虚に粘りつく。そうした崩れた均衡 る。その目はみひらかれ、その頬は紅く燃え、顔自体が窮を一瞬のうちに取り戻し、空虚に粘りついてしまった剣を 屈な面金の檻のなかで怒り猛っている若い囚人のように見引き剥がすには、何という力が要ることだ。 さぎ える。 壬生はのめり込んだ体を立て直し、藍いろの鷺のように 『こいつは国分を世界中で一番えらい奴だと思っている』まっすぐに立った。 めんがねおり たの
「いや、許可していません。私の責任です。申訳ありません」気をとろうとして早まったのだと噂した。彼に対する同情 まなざし 壬生は濡れた仲間にまじって、次郎のはりつめた眼差は少かった。午後の船は、稽古の時間に当っていたので、 と、紅潮した頬を遠くから眺め、自分の意志が次郎に決し誰も賀川を港まで送る者はなかった。 そかく て届かず、かくも正しい疎隔を保っているのに満足した。 夕食のあと、寺の庭の暗がりへ壬生が涼みに出ると、山 「私が連れて行きました」 門の石段のところに、次郎が立っている。 おびただ くさむら と賀川が半ば吃るようにして言った。 星の夥しい夜で、風は死に、そこらの木立や叢には昼 っ・ま、・こ 0 「何故か」 間の暑熱がなおこもっているが、虫の音がい 壬生がそちらへ近づこうか近づくまいかと迷っている 「暑くて : : : みんな水に入りたいだろうと思ったので」 「そうか」と木内は永いこと黙って扇を使っていた。「そと、 ・ : 賀川は、今日、東京へかえりなさい。私が命令「おい、壬生」 する。あと二日は、国分たちと私が引受けるから、む配は とむこうから声をかけられた。 要らない。・ : しかし合宿と試合は別だ。君も選手だとい 次郎の顔は暗くてよく見えなかった。 うことを忘れないように。家へかえって、素振りを毎日千「はい」 本も振っていれば、君ならコンディションが保てるたろ次郎は何か言おうとした。そして永いこと思い迷ってい こ 0 う。とにかく、今日、帰りなさい」 「はい。帰ります」 「なあ、壬生」ともう一度名を呼んでこう言った。 そのとき賀川は次郎の顔を烈しく見つめた。それが壬生「お前もみんなと一緒に海へ行ったのか」 からも遠く明瞭にわかった。次郎はうなだれ、目を伏せ、 壬生はこのとき、いっかは迫って来ると思われた決断に しゅうち 彼自身が羞恥のために身の置き処をなくしたように、むし迫られた。彼は次郎の前で、壬生が壬生自身であるかどう ろ、なよやかに見えた。壬生は次郎の強い目が、そのときかを求められていた。そしてこれは実に難問で、壬生が壬 賀川に乗り移ったと思った。 生自身であろうとすれば、嘘をつかなければならなかっ た。壬生は切なく次郎を見つめた。しかし暗がりのその凝 罰は賀川に加えられるだけでおわり、部員たちには何の視は甲なく、壬生は稽古のあいだ、撃ち込みを外される 沙汰もなかった。下級生は、ふだん人気のない賀川が、人ときの剣尖の切ない泳ぎを心に感じた。 ども うわさ
もったい ねずみ むんだ。海が目の前にありながら、勿体ないじゃないか。欲望は、彼らのあいだを鼠花火のように駈けめぐった。そ 一寸水浴びしたって、練習に障るなんてことはないよ。俺れに足を焼かれそうになって飛上る。逃げ出して又近づい が保証するよ。さあ、行こう、チャンスをのがすな。みんてくる な内心は泳ぎたいんだろう。俺はちゃんと知っているんだ」 これを賀川は、たくさんの鯉を放った池を見るように眺 「海水・ハンツがないんです」 めている。彼が餌を投げた。鯉たちはどんなに争い合って 「ふつうのパンツでいいじゃよ、 オしか。ここは由比ケ浜じゃも、目的は要するに餌だ。 ないんだ」 「行くんだな」 賀川はみんなの反応を見守って、ぞくぞくする喜びを感とすでに念を押す必要のないことをたしかめて、賀川が じた。それは次郎の命令とはちがって、まず混乱を与え、軽く言ったとき、立ちかかる部員のうしろに、一人だけ寝 かしやく しゅんじゅん 甘いしびれるような良心の呵責を与え、怖れと逡巡を与そべっている壬生をみとめた。 え、それからそれをふりきる勇気をそそのかし、一気に目「どうした。腹でも痛いのか」 的へ持ってゆく行動だった。 「いや。僕は残ります」 「さあ、急げ。何をもたもたしているんだ」 と壬生は急に身を起して、膝をそろえて言った。その目 彼は裸の胸を平手で軽く叩きながら立上り、同時に次郎は怒りに燃えていた。その目の中に賀川は次郎の姿を見た。 への燃えるような「友情」を感じていた。それは全く次郎「そうか。じゃ勝手に残れ」 おおげさ 一人のための行為だった。ほかの連中なんかどうだってよ賀川はそこで、自分でも大袈裟だと思える身振をした。 かった。彼の心は、ほとんど次郎の名を呼んでいた。 応援団のように、身を斜めに片手を大ぎく振ると、先に立 『誤解するな。これが俺の友情のあかしだぞ。人がみんな って戸口のほうへ駈け出した。すぐ眼下には大田子の浜が かなた 貴様を誤解すると思っているが、貴様だって、どうしてもぎらぎらとひろがり、拒絶的な水平線は彼方に重々しい夏 誤解しなければならない局面に立たされることがあるんだ雲を載せていた。 おどろ ぞ。とにかく貴様は、何ものかに愕かされ、おびやかされ賀川につづいて、裸の青年たちは、飛び跳ねながら、寺 る必要があるんだ。貴様に今一等必要な教育はそれなんだ』の石段を下り、喚声をあげて白い閑散な県道を横切り、人 部員たちは賀川を憚って、ごたごたと小声で論争し、立影ひとつない浜の熱砂の上へ散らばった。 ち上ったり坐ったりしていた。海へ行ぎたいという烈しい
汽船の発着所は地頭田のトンネルの手前、田子港の南端加わったのか、自分の心がっかめなくなった。 にあって、そこまでは歩いてかなり時間がかかる。 それはもちろん全日本に出るためである。レギュラーと わざ 一同は円隆寺のむしあつい本堂に残された。 しての技をみがくためである。しかし、何事にも黙って、 あたり そよとの風もない。蝉の声が四周を圧している。 何事も認めるという役割は、本当は彼の役割ではなかっ 三十五人の部員たちは、あらかた裸で、ひろい本堂に思こ。 ナここにいるあいだ、彼はしらずしらず、次郎のあのは い思いの姿勢でくつろいでいる。多くは寝ころがり、或るりつめた目にのめり込み、彼の美しい微笑に搏たれた。そ くるまざ 者は窓に腰かけ、数人は車座をつくってトラン。フをしてい うしてすでに八日が経った。 る。一つの窓には青桐の葉が、強い光りを透かして覆いか 賀川は怒りにかられて、何か歌をうたおうと思った。し どうまごえ ぶさっている。 かし彼は歌らしい歌を知らなかった。そこで突然、胴間声 裸の背には汗がにじみ、そこかしこで団扇がものうげにでこう叫んだ。 動いている。若い肌は光りの微妙な差によって、いたると「おい、みんな、泳ぎに行こう」 ころに光沢のある肉の起伏を示し、それが一つながりの、 寝ころんでいた若者たちは、のろのろとをもたげた。 わだかま あら にう 蟠った大樹の露わな根のようだ。 しばらくこの賀川の提案は、みんなの暑さに呆けた頭に しゆみだん 奥の須弥壇は昼の闇に埋もれ、仏具や幡がかすかにきらはしみ込んで行かなかった。一人が急に目がさめたよう めいているが、みんなは木魚を叩いてみる悪戯にも飽きた。 に、反逆の勇気にかられて叫んだ。 それでいて、合宿のはじめのころの、ロをきく気力もな「賛成 ! おい、みんな行こう」 いほどの疲労に打ちひしがれているのではない。ただこう「キャ。フテンがいかんと言ったよ」 うつくっ して寝ころがって力を貯えながら、カの余った鬱屈したも「知ってるよ」 よど はす のが淀んでいる。 「知ってたら、行けない筈じゃないか」 賀川はその一隅で、板壁にもたれて、部員たちを眺めて 賀川はにやにやして言葉を挾んだ。 「今がチャンスだよ。俺に任せておけ。・ハレるようなへマ ちょっと 彼はこの合宿をここまで引きずってきた次郎の力を認めはしないよ。どうせ船は遅れるんだ。一寸でも水に入れ た。次郎の統率力と、細心な注意との、みごとな組合せをば、気が済むじゃないか。この浜じゃ誰も見ていやしな 重苦しい気持で認めた。賀川は何のためにこうして合宿に 、。帰ってきて、体を洗って、ケロリとしてりやそれです せみ うちわ おお
ろうれつ ひれき 受けて気を回せば、あいつはますます自分のまわりはみん賀川がどんなに、自分で陋劣だと思っている心情を披瀝 3 な卑劣な敵ばかりだ、と己惚れるようになるでしよう。あしても、木内の目には美しく見えるだろうと考えると、絶 いつは少しでも自然のままのほうがいいんです」 望的だ。木内は世間を見て来ているから、運動部の人間関 ふんきゅう 「君の言うことは矛盾してるじゃないか。国分は君の力に係なんか、どんなに紛糾したところで、世間よりは美しい よって、反省して、もっとむかしの自然な姿に還ろうと努と決めているのだ。 力することだってできる筈だ」 それに賀川の若さ。若さに対する木内の夢と、きびしい 木内は言葉のはしばしにも、賀川の自尊心をうまくいた訓練は課しても、とどのつまりは若さに対する彼の無際限 わることも忘れていなかった。敏感な賀川はすぐそれを察の寛大さ。 : そういうものが、こうして話していても、 した。そして今夜ここへ来なければよかった、と思った。 二人のあいだに霧のように立ちこめるのを賀川は感じる。 ひじかけいす 運動部の監督としての、木内の実力、年功、人柄は、誰「又かというだろうが」と木内は、肱掛椅子に身を埋めた 一人、非難する者がないほどだった。この五十歳の男にまま、両手で手拭を絞るような所作をしながら、「剣は結 は、経験と子供らしさとが、うまい具合にまざり合ってい局、手の内にはじまって手の内に終るな。俺が三十五年、 る。 剣道から学んだことはそれだけだった。人間が本当に学ん 彼の愛校心、彼の郷愁、彼の名利に恬淡な態度、 : : : そで会得することというのは、一生にたった一つ、どんな小 こには何か、世俗的なものに対する彼の永い不適応と不満さいことでも、 しい。たった一つあればいいんだ。 の思い出が煮立っていた。 この手の内一つで、あんな竹細工のヤワな刀が、本当に なぜ外部の社会はスポーツのように透明でなく、スポー生ぎもし、死にもする。これは実にふしぎな面白いこと ツのように美しくないのだろうー なぜそこでは誰の目に だ・しかし一面から見れば、地球を回転させる秘法を会得 も明らかな勝負だけで片がっかないのだろう。スポーツマしたのも同じことだ、と俺は思うんだよ。 えんこん ンのすべてが持っこの怨恨を、彼は一種の詩に育てるまで むかしから、左手の握り具合は唐傘をさしたときと同 に、年月をかけたのだ。 じ、右手は丁度難卵を握った気持、というんだが、いかな な・せ、 ・ : なぜ、この無益な問を重ねるたびに、ますまるときも左手に唐傘をさして右手に卵を握っていられるか す美しくなるスポーツと青春。世間の汚泥と対比されるたね。まあ実際にそうしてみてごらん。三十分もたてば、傘 びごとに、ますます美しくなるスポーツの神聖な泥。 は放り出す、卵は握り潰す、というのがオチだろうから うぬほ おでい てんたん
よ。あれからもずっと自然な態度で君と付合っているかないものだ。 次郎のロはむしろ小さめだった。唇は美しい形をしてい ね」 「そりゃあ自然です。あの前も後も別に変りはありませた。徴笑するときれいな歯並びがあらわれ、清らかさが とばし 迸るようだった。 ん」 「それはしし 、、。しかし国分は、君が下級生の目の前で四十ああいう徴笑ですべてを解決し、自分の立場の辛さをわ 分の正座をちゃんと仕了せたあと、君に何かねぎらいの言かってもらおうとする次郎の寡黙が、賀川の気にさわる。 いたわりの言葉を避けようとして、あらゆる政治的な言動 葉をかけたかね」 「いや」 を避けようとして、次郎は自分だけの純粋さの透明な城に 「たとえば、君と二人きりになったとき、『すまなかった閉じこもり、他人の現実的な痛みから急に遠ざかるのだ。 な。規則を保っためには仕方がなかった。悪く思わないで同級生に自分の権限で四十分の正座を強いたあと、彼がう くれ』とでもいう挨拶があったかね」 かべる微笑は嘲笑ととられても仕方がないのに、次郎は自 分の微笑が決して嘲笑に見えぬことを知っている。それは 「いや、何もありません」 「国分は何も言わなかったのだね」 傲慢なことだと賀川は考えた。 「ええ。 ・ : それはわかるんです。国分はそういう男他人の現実的な痛み、と云っても、心の痛みでなく、体 の痛みであれば、次郎は微笑をうかべるどころか、本気で 「しかし、彼はそう言うべきだったんじゃなかろうか」 心配する。下級生が足の指に刺した小さな棘ですら、丹 「いや、彼はそう思わなかったでしよう。何も言わずに、念に抜いてやり、マーキュロを塗ってやる。体の傷ならば ・ : そうですね、ただ徴笑していました」 よく面倒を見るのだ。丁度騎兵が馬の面倒を見るように。 「徴笑だと」 「そうか、何も言わなかったか」と木内はしばらく考えて その徴笑は美しかった。次郎が「くだらないこと」に耐いて、「微妙な問題だが、部を統率するにはそれではいけ はんざっ ない。今度俺から忠告しといてやろう」 え、煩雑で無意味なことに耐えるときの表情は、決って、 「それは言わんでおいて下さい」 その徴笑、ただ黙って浮べる微笑なのだ。 賀川は国分次郎の微笑が実に美しく見えるのに嫉妬し「君の名は出さないよ」 た。それは清潔な若者の微笑で、賀川の真似ることのでき「そんな問題じゃないんです。あいつが木内さんの忠告を しおわ
316 彼の疲労を見てとって、賀川は、 「さあ、勝負三本ー」 木内が事あるごとに「手の内」「手の内」とやかましく と一一 = ロう。 言うからである。 すき その声をかけた瞬間、賀川の心には隙があった。ほんの木内は五十歳で、この剣道部の on の内での大御所だ。 かゆ に対する享楽的な関心。自分の強さについての痒いようなて、監督を引受けている 喜び。 進み出る次郎の足取にさわやかな覇気のあふれている ひとりのときには十分に味わえず、相手を前にしたときのを木内は読みとる。次郎の紺の襷は風を孕み、擦り足の にはゆっくり味わう暇のない、がつがっした野獣的な喜正しい波動を伝えて、まっすぐに動いてくる。 び。記憶にも希望にも縁のない、現在だけの、丁度両手を木内はこうして自分に立ち向ってくる若さを愛する。若 きようぼう 離して自転車に乗るときのような危険な喜びだ。 さは礼儀正しく、しかも兇暴に撃ちかかって来て、老年は 賀川の眼前に影が走った。 こちらにいて、徴笑しながら、じっと自信を以て身を衛 走ったと知るときには、しまったと思っていた。 る。青年の、暴力を伴わない礼儀正しさはいやらしい。そ 「めーんー」 れは礼儀を伴わない暴力よりももっと悪い 高らかな踏み込みの音と共に、壬生の竹刀は、正しく刀若さは彼に突き刺って来て、突き刺って折れねばなら ものうち の物打で、捨身の面を打っていた。 ぬ。二人とも同じ稽古着、同じ防具、同じ汗。・ : ・ : 道場で 「参った。勝負二本目ー」 は、木内にとって、永遠に停った美しい時間がある。黒胸 と賀川はものぐさそうに言った。 の照りと、乱舞する紫の面紐と、とびちる汗の時間。これ は彼が、母校のこの道場で三十年前にすごしたのと正確に 同じ時間だ。 きうち それまでずっと本に立っていた国分次郎は、監督の木内 この同じ時間の枠のなかで、白髪を面に隠した老いと、 ぐうわ に稽古をつけてもらうために、はじめて本を下りて、木内赤い頬を面に隠した若さとが、寓話的な簡素のうちに、は の前へ進み出る。 つきりと相手を敵とみとめる。それはまるで、こんぐらか きようざっ しようぎかんじよう この部で、誰も蔭では、木内のことを木内と呼ばず、った、余計な夾雑物にみちた人生を、将棋の簡浄な盤面に 「手の内さん」と呼ぶ。
「ああ、さっきの国分の話だがな。君は国分の家庭の事情 これは何十ペんもきいた話で、木内は酒を呑むと、必ずは知ってるのか」 「いや。あいつは全然自分の家へ友だちを寄せつけないん 色白な穏かな顔に似合わぬ無骨な手で、見えない刀を宙に 握ってみせながら、そう言った。そのとき木内は、自分のです。それもあいつの不可解なところだと思うんです」 握っている見えない剣の焼刃の綾を、いとしげに見上げ見「無理もないよ。彼の家は、お父さんは立派な胃腸病院を 持っている金持の医者だが、彼の中学のころから、お父さ 下ろすような、情のこもった目つきをしていた。 剣道の話になると、木内と賀川の間には、言葉や気持のんが妾狂いをはじめて、家庭が暗いんだ。お父さんは子供 通じ合う通じ合わぬという問題の余地はなくなった。ただの教育には一向身を入れないし、お母さんはヒステリーは 話が空を飛び、独り言も孤独にならず、言葉がひとつひと起す、ヤケ酒は呑む、夜の十時から友達の家へ麻雀に出か ・ : 彼が家のことを話したがらない けて朝まで帰らない、 っ試合や稽古の興奮の記憶と照応していた。 木内はそうして喋りながら、ときどき青年の喜びそうなのも当然だよ」 面白い事も言った。 「そんなひどい家とは知りませんでした」 おど 「君は面の皮を剥ぐにはどうやったらうまく剥げるか知っ と賀川は愕いて言ったが、別にそれで国分に同情すべき てるかね」 筋合はないとすぐ考えた。国分は国分で、男らしく自分の ひら 「知りません」 道を拓いたのだ。 「剣士のたしなみとして憶えておきたまえ。『葉隠』の巻「ま、それだけ君も含んでいたまえ。このことは人には言 の十にちゃんと出ている。まず顔を縦横に切り裁ち、そこわないでくれよ。俺は多少あいつの家を昔から知ってい わらじ へ小便を引っかけ、それから草鞋で踏みにじると、するりて、だからそんな事情もよくわかっているんだ」 と剥がれるそうだ。行寂和尚が関東できいてきた秘伝だそと木内は言った。 うだ」 その四 「そりや愉快ですね。今度やって見ましよう」 ひげ 「あんまり面の皮の厚い奴じゃ、うまく行かんかもしれな 壬生は髭が濃くなるように毎朝髭を剃って学校へ出かけ かみそり いよ」 たが、家人はみんな剃刀の刃が無駄だと言っていた。電気 それから木内は、急に他のことを言った。 剃刀を買ってほしいと言って、はねつけられた。彼は抵抗 めかけ