ぐんそう 少しして谷の下のほう、ちょうどさっき二人の軍曹が隊私はあらためて水を得る場所と手段について思いめぐら しんぎ 長の戦死の真偽を論じあったあたりで銃声がおこりすぐ止した。 しゆりめうだんおば さくれつおん んだ。一発、手榴弾と覚しき炸裂音がした。これが私の聞前に書いたように、この付近で水のあるのは、まず私の いた銃声の全部てある。 分隊小屋のあった谷である。がそこへ行くには、今は米軍 ムりよ ( 「逃がしてやる」といった伍長も軍曹の一人も後で俘虜の占拠する中隊本部の山を越えねばならない。第二はやや そそ そうりん 遠いが、この谷川についてどこまでもくだり、その注ぐ別 収容所へ来た。彼らは叢林にもぐって無事に脱出したが、 ーこ達することである。しかしそれにはさっき一一 二カ月山中を彷徨したあげくゲリラにとらえられた。私はの大きな月冫、 彼らは全部戦って死んだと信じていたが、事実は私が最初人の軍曹の語らった地点を通らねばならず、そこはこの谷 こら・さん にのぼりかけた尾根で休んでいたあいだに、歩ける者は全を横切る主要道路の一つであるから、なお米軍のいる公算 部脱出していたのである。したがって私が陣地正面に聞い大である。少なくとも日暮れまで彼らはそこを去らないで た銃声は、撃ちあいの音ではなく、二基の米軍の機銃の交あろう。 その夜はおそく出る月があるはずであった。私は月の出 このとき脱出に成功した 互発射の音だったかもしれない。 らくご 兵はおよそ五十人であるが、大部分山の中で落伍もしくはを待ってこの第二のコースをこころみ、米軍が夜までそこ いっさい にとどまるかとどまらないかに一切を賭けることにした。 病死し、収容所に来た者は四人である ) 。 あたりはふたたび静かになり、私はまたひとりになっ私はじりじりして日の暮れるのを待ち、さらに月の出を 、やはん た。私は装具をはずし、脚絆をといて、ゆっくり身を横た待った。私は全身これ渇えであった。私はその大きな川の えた。すると渇きがまたはげしくなって来た。 岸に伏して、顔を水につけ、思うぞんぶん水を飲む自分を くさむら 私はもし今すぐ自分を殺すならば、同時にこの渇きも殺想像した。私は昼に水筒を抱いて付近の叢に隠れ、夜は 記すことがでぎると自分に説得しようとしたが、渇きは承知そうして水ぎわに横たわって、なお一一三日心ゆくまで水を のど 虜しなかった。私の喉はまずそのこげつくような渇きをおさ飲むはずであった。それから気のむいたときに自殺するは めてから、存在を止めることを欲した。 ずであった。私はむしろ最初に水のある分隊小屋を出たこ この要求はもっともと思われた。「一杯の水を飲んでかとを後悔した。 それでもついに月が出た。 ら死にたがる自殺者ーこのテ 1 マは私の気に入った。私は たいけん ばんのうぜにん 私は銃と帯剣をすてた。米軍に会っても私に戦う気はな むしろ私の煩悩を是認したのである。 かわ かっ
求を充たすに足る一つの精密な言葉であった。 彼等は文学から出発したのではない 彼等は、各自 一人すつの、どうしようもない裸の生存の動機から出 しんそっ 発したのである。彼等は、自己を深く、真率に生きょ うとすれば、どうしても彼等の眼には偽りめいたもの としてあらわれる現実の動きに対して、彼等の心を対 置し、反」仇するはかはなかったろ、つ。しかしそこには まだ、形がなかった。それを表現する言葉がなかった。 彼等はどんな現実の背景のなかから出てきたのか それをポードレールの『日記』のこんな言葉で代用し ′、んト・く ておく 「ーーーその時、息子は貪欲な早熟さで一人前 となり、十八歳とは言わす、十二歳で家庭をとびだす だろう。しかも息子が家庭をとびだすのは英雄的な冒 険を求めるためでもなく、 塔の中におしこめられた美 人を助け出すためでもなく、崇高な思想を抱いて屋根 裏部屋を不朽たらしめるためでもなく、たた 、商売を 始めるため、金持になるため、そして ( 略 ) 恥すべき父 親とはり合うためなのである」「ー - ・ーーそうなった時に は、徳行に似通うもの、金銭に対する熱意以外のすべ てのものは、一切、甚だしく馬鹿馬鹿しいものとみな されるよ、つになってしま、つだろ、つ裁判一所は、もしこの ような結構な時代になお裁判所が存在しうるならば、 9 かね•D ・フ 金儲けをすることのできないような市民の生存を禁止 ふきゅう
か、どこにも見当らぬということである。いや、正直 なところ、先に数えたスタンダールでさえ、本当の第 二の事件というものではないかも知れない。事実、彼 おびただ は、その夥しい研究の努力にもかかわらす、唯一の 真のスタンダール論も、年来のロぐせであるスタンダ ルの云記も、描いていないばかりでなく、描く試み さえあまりしていないのである 代りにあらわれた労役は、延々二十年の努力による 『朝の歌』『在りし日の歌』などの中原中也の評伝で あるそれはことによると、 ト林や中原に出合ったこ とが「自分にとっての事件であった」という体験の実 証であるかも知れないが、それでは、あの内的混乱の 昭和一十八年十一月、グランド・キャ = オンで。上から二人目直接さや鮮明さが欠けてしまう。事態はもっと巨大で 昭和二十九年夏、ミラノのドウオモ寺院前の広場で深刻なはすである。中原に出合って「私は生れて初め て私より卓れた人に話したのである」 ( 『中原中也の思 / 言的な言い方では覆い日寸ぬ い出』 ) というような、ト ものかある。要するに、事件といわれているものは、 しんかん 彼の生を震撼するに足る、或る根本的な内的革命の経 験にあったのだから。 彼は、長いド 三十五歳くらいまで、ただスタンダ ールの研究家であり翻訳家であった。ランポオのよう に「場所と定式を求めようとしてあせりながらさまよ にしては、これはほとんど何もしていないことに すぐ おお 432
イ第 大正 4 年、小学校入学 ( 6 歳 ) 明治 43 年、姉の文子と昇平 ( 2 歳 ) な妄想のなかに、額に徴しをも「た者同士の毎日の な交友、そのにしくも甲高い議論のなかに、時に出 現しては消えていった。 彼等の秘密の感情とは、日本の文学に改変をもたら し、そこに新しい一条の血路を切り開くことであった。 しかし、ただそういったのでは、彼等の意図を誤解す ることになる・及 ( 寺は、こ・、 : オ単に文学的野心のために 文学に新しい局面を求めたのではない。 彼等の試みた のは、 たとえば今日において三島由紀夫がもっともよ くそのエネルギーを実証しているような、眼 ( 則に総体 つぎき としてある文学に一つの新しい可能を接木するという 行為ではない。 彼等にとってはすでにある日本の文学 など何ものでもない という一種の反文学的な行為に もさく かけての、とりとめもない苦しい模索であった。彼等 ひそ がそれぞれ秘かに求めていたものは、もはや自分の生 の状態を解き明かすにはいたらぬ日本の文学の言葉を はなれて、何か異質で新しく感ぜられる、自身の生の 深部を照明するもの、生き生きと動き、未知の予感に 一杯に満たされながら、しかし現にそこで生きている ことは疑いようのない、おのれの精神の機構を可見に するもの、 すなわち新しい一つの言葉であった。 あるいは、自己の生の状態を解明し、それを深化し、 それを変え、それを新しく出発させるための、この要
かしいだろう。「水もまた母性的象徴であるから ( 中 略 ) このような夢想にとってーー水のなかの死は死者 ても にとって最も母性的なそれであろう。ュンクが他の所 で言うように、人間の願望とは、『死の暗い水が生の 水となること、死の冷たい抱擁が母のそれであること、 ) ~ ~ ~ を一一一 ( 貯と野さらに海は太陽を沈めるけれども再びその深みにおい 」耋、 0 山た蔵 かっては生は死を信ずる 村っ武て生誕させることなのだー るあげ . ことができなかったのだー で 出のて 、 ( ( ( ( ~ 突遠歩 にのて 中ろれ が手を 塔て時 水つを 取とり 持文の を座湖 根銀が 屋のち 円期た な初人 様和恋 異昭む , 好 しかしここで、水は母性的なものだというバシュラ ールの命題を譴さなければならぬ。逆がもし真なら ば、母性的なものは水であろうか ? さいわい大岡に は『母』という感動的な私小説があって、探索の手つ つきが非常に簡単になるのだが、その冒頭を読むとき、 話があまりうまく運ことに驚かないわけにはゆかな いのである。 さかのば 母について、私の記憶は三歳に遡る。そのころ家 は高樹町の赤十字病院の前にあった。横手の原で姉 か・らか、 と遊んでいたら、雨が降り出し、母が唐傘を持って 来た。それをひろげて地面におき、蔭で遊び続ける
デをを等を 0 いーを である。しかし、ただ呼んだだけでは、ほとんど異な った原理の上に立っこれらの諸観念は、互いに衝突し 女合い この精神の「象徴」と、現実の「社会」との、 二つの糸を結んで、その交錯点に立って小説を書くと い、つことか、不・一円肥に沂一し 彼等が「象徴」として擱んだ知性の形式から直接出 発して、日本的な小説を描くのは、はとんど困難とい しい。なぜなら、彼等はそれを、或る異常な、 その力を徹底すれば、人間の生存や現実の存在も、形 もなく不安な動揺の中に票、つはかはない、 兇暴な思考 、一妻の力として擱んだからである 「ナチュラ こんな小林秀雄の言葉を引用しておく リスム文学は、実証派哲学の波に乗って、繁栄の極に で達しましたが、これらの小説家に対抗して、サンポリ いささ スムの詩人達が聊かも後退しなかった、 いや文学制作 せんたん 邸理論の上では、いつも尖端を切っていられたのは、彼 の等の精神が、小説家達の精神にも増して知的であった が為なのです。 ( 略 ) 大切なのは、ボオドレエルやラン ポオやマラルメの心底に存した痛烈な知性の発見は、 年極く最近に属するという事ーーー」 ( 『フランス文学とわ が国の新文学』 ) 象徴主義の「この運動は、絶望的に精密な理智達に よって戦われた最も知的な、言わば言語上の唯物主義 へ工
3 朝の歌 黒き浜辺にマルガレーテは歩み寄する ヴェールを風に千々にされながら。 皺女の肉は飛び込まねばならぬ、 厳しき神の父なる海に ! 崖の上の彼女の上に すち 精霊が怪しげな条を描く。 彼女の思ひ出は悲しい書斎の取片付け 彼女は直きに死なねばならぬ。 ( 「深夜の思ひ」 ) 定型詩「臨終」は死女を一篇のテーマとしている。 にびいろ 秋空は鈍色にして ひとみ 黒馬の瞳のひかり 水涸れて落つる百合花 ああこころうつろなるかな 神もなくしるべもなくて をみなゅ 窓近く婦の逝きぬ めし 白き空盲ひてありて 白き風冷たくありぬ まどぎは 窓際に髪を洗へば はまべ その腕の優しくありぬ 朝の日は澪れてありぬ 水の音したたりてゐぬ 町々はさやぎてありぬ 子等の声もつれてありぬ しかはあれこの魂はいかにとなるかー うすらぎて空となるか ? 詩は中原の初期の傑作の一つで、諸井三郎の作曲によっ て、昭和三年五月三日の「スルャ , 発表会で歌われた。 いんばい 中原はこの詩を横浜の淫売を歌ったものだといってい ある ころなじみししよう た。或いはしからん。この頃馴染の私娼が死んだというこ とはあったかも知れない。しかし今こうして「死んだ女」 の詩を三つを並べてみれば、女が長谷川泰子以外の誰でも ないのは、明白であると思われる。 女が自分を棄てて他の男のところにいるのはどうするこ とも出来ない。だから彼女が死ぬことを願ったという解釈 は、流行の精神分析学にかぶれたようで見つともないが、 仮定は昭和三年五月小林が泰子を棄てて奈良へ逃げた時、 中原が直ちに彼女に愛を求め、拒絶されると、かって「男 めぐ に何の夢想もさせないたち」と呼んだ泰子を廻って、「妹 よー「みちこ」など十数篇の恋の歌を結晶させたことと一 致する。 こぼ もろい
た、と葉子は思う。 恋人から親切にされるのは、葉子にはいつもいい気持だっ いわなければよかったんだわと、彼女は思った。自分がた。それが亜矢子の男であれば、なおさらである。彼女は からだ お嫁に行こうと行くまいと、この人達にとってどっちでも体を延ばして、わざと清水の身体に、よりかかるようにし いいことなのだ。休みの日曜は、マージャンで時間をつぶた。 すことしか、考えていない人達に、まともに聞いてもらえ タクシーに乗ってから、清水は、 ると思うのが、どうかしていた。 「畑さんは見かけほど景気はよくありませんから、気をつ そもそもこの結婚の話にまともなところがあるだろうけなさい」 たたみ か。畑が畳に手を突いたのだって、酒の上の話である。高と、なん度もいっていた。葉子は清水にもたれて眠った あかさか 島が黙っているのも無理もないかも知れない。これまでにらしい。赤坂のアパートの前でゆり起こされ、車を降りて も何度もあったことだった。またその一つとして、過ぎ去も、清水がまだ随いて来るのに、葉子は満足した。 おびと ってしまうのかも知れないのだ。 部屋へ入ると、葉子はすぐ帯を解き出した。足を投げ出 たび 葉子はただ酒を飲んだ。自分の笑い声が自分の耳に聞こし、足袋を脱ごうとして、眼の前の鏡を見ると、外套のま えた。潤子がこっちを向いて、 まの清水の姿が、近づいて来るところだった。 うしろから抱きしめられて、あとはいつものことになっ 「葉ちゃん、少しうるさいわよ」といったようだった。 それから少しわからなくなって、次はいつの間にか、玄た。 関のたたきへ降りかけていた。下駄の片方がなかなか穿け わき ささ まわ なかった。腋の下へ手を廻して支えているのは、清水らし ぬまづ ひらっか かった。 次の日、葉子は沼津行の湘南電車に乗っていた。平塚を 影高島の見下ろした顔があり、 すぎて、窓の外にたつぶり雪をかぶった富士山が輝いてい おおかみ 「御苦労様ね。送り狼にならないでよ」 るのを見ると、やつばり今日は出て来てよかったと思っ という声は亜矢子だった。 花 「これから稽古でスタジオへ行かなきゃならない。ついで眠ってしまったらしく、清水がいっ帰ったか、知らなか ながじゅばん 9 ですから、送りますー った。目を覚ますと、長襦袢のまま寝ている。窓に日が当 と、清水は高島に向かっていうらしかった。ほかの女のナ こり、いつものように、隣の小学校からあがる子供の声 こ 0 しようなん
恋は京都時代の詩にも隠されていたのだが、ダダイスト 中原は女を蔑するふりをしなければならなかった。抒情 ( 「悲しき朝」 ) われかにかくに手を拍く : 詩人中原は二度目の恋を大っぴらに抒情することが出来 J みノせい た。恋は泰子が小林と同棲している三年の間にだんだん育 の如き、断続の工夫にそれを認むべきかも知れない。し って来ていたと考えるのが、自然である。 「さあれゆかしき諦めよ腕拱みながら歩み去る」 ( 「タ照」 ) かしとにかく「臨終」の調和は、一日にして出来たもので の名調子も、 「しるべもなくて」の句は小林を泰子のしるべと認めない やかた という意地から、即座に出て来そうであるが、「窓際に髪 古き代の富みし館の を洗へばその腕の優しくありぬーのミスティフイケーシ カドリールゆらゆるスカーツ うすらぎてうつろとな ン、「この魂はいかにとなるか ! カドリールゆらゆるスカーツ るか ? 」と疑問を残したのは、泰子が他の男の持物だから 何時の日か絶えんとはするカドリール ! ささ である。ここには領主の妻に恋歌を捧げる危険が、ソネッ もうろうたい トの発明者トル・ハドールの詩人達に、朦朧体を強いたと同 のくるめきも、この情愛の上に「労働ーされたのだ。 この種の詩句は案外自然に出たのかも知れない。「彼女じ事情が働いていたかも知れない。 の思ひ出は悲しい書斎の取片付け」は泰子の去った日とあ 五 まりにも私小説的に密接しているし、「いかに、お婆さん、 人うみが たの 怒りを愉しむことは好ましい」は馴れ馴れしすぎる。中原「朝の歌。以後の中原のこういう風に磨かれた詩の特色 かかわ は、文語詩であるにも拘らず、むずかしい漢字が使われて の苦心は、 いないことである。 富永、中原の文語詩は、大正のロ語詩に対する反動とし 知れざる炎、空にゆきー はる て作られたもので、遙かに有明、敏の象徴主義の復活とも 考えられる。そして「海潮音」「牧羊神ーに遺稿を合せた 響の雨は、濡れ冠る ! 「上田敏詩集、が大正十一一年に出版され、ランポオの「酔 かむ くふう たた
351 朝の歌 ほんそう 後始末に中原は奔走したのだが、結局は便利な使い走りぐ に愛し合っていた中原と泰子の間を、「理智的」で「皮肉」 くせつ らいにしか考えていなかったであろう。 な口説でさいたのが小林であったというのが、中原の固定 かって一年一緒に暮した男に対しての自然の親愛の情は観念である。 あったであろう。そのため却って勝手な頼みごとも出来る従 0 て小林がいなくなった現在、泰子が中原の許へ帰る という関係にあったのかもしれない。それを中原が侮蔑とのが、当然の帰結であるはずであるが、事件がそう進行しな 取 0 たのは、中原の側に求めるものがあったからと見て大いのは、泰子にも女の誇りと意地があったからであろう。 過あるまい。 「元の男」の何ともいえない不潔さが自分にあることを、 かんじよう 中原は勘定に入れていなかった。 げつこう ころ ひんばんっきあ 「月汞はなし この頃は私が中原と一番頻繁に付合った時期だが、あん こごゑ 低声誇りし男は死せり。 なに何でも話した中原が泰子のことだけは話さなかった けが 皮肉によりて漬されたりし、 し、恋愛詩も見せなかった。 はくちぐん 生の歓喜よ ! 」かの女はうたふ。 我々は翌年四月「白痴群」という同人雑誌を出し、第一 号に中原は「詩友に」「寒い夜の自我像ーの二篇を発表し うついム 鬱悒のほか祈れるなき、 ているが、「詩文ーが泰子を対象とした連作「無題ーの第 おな 翁よいましかの女を抱け。 三篇にすぎないことは単行本「山羊の歌」が出るまで知ら 自覚なかりしことによりて、 なかった。 「寒い夜の自我像」の中、 いたましかりし純美の心よ。 ひ、まは はなうた かの女よ憔らせ狂ひ、踊れ、 憧れに引廻される女等の鼻唄を、 なれ 汝こそはげに、太陽となる ! ( 「かの女」 ) 我が瑣細なる罰と感じ とつ この詩の書かれた日付ははっきりしていないが、昭和一一一 の詩句は少し突飛であるが、昭和四年一月二十日付の原 かく 年五月以降であることは確実。多分「女よ」よりは前であ稿て、次のような続篇が隠されてあ 0 たのを知れば理解出 ろう。「低声誇りし男ーは無論小林であって、かって自然来る。 かえ よべっ あこが