当時 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 36 大岡昇平集
112件見つかりました。

1. 現代日本の文学 36 大岡昇平集

の寝棺を作らせたが、三分という厚さでは重くてしようがが派手であった。たとえばその庭にしても、宮地の家のよ ない、と秋山は変な取り越し苦労をした。 うにやたらに樹を植えず、斜面を切って道まで張り出した しば 宮地老人の物置や樹の買主は赤の他人ではなかった。す地壇にはただ一面に芝が敷いてあるばかりであった。もと くりばやしへだ かやばらよう なわち一年前から「はけ」の長作の家の向う栗林を隔てた茅場町の証券屋の別宅であったが、持主がこんな舎でも おいおおのえいじ おそ 地続きに移って来ていた、甥の大野英治に売ったのであ空襲を怖れて、青梅の方へ引っ込むところを安く手に入れ る。 たのである。 大野は老人の亡妻民子の妹の子で、やはり静岡へ移住し英治は少年時代をしばらく道子と一緒にすごしていた。 おさななじみ た徳川の臣の出である。ただし宮地兄弟が主に官吏や軍人しかし二人の間にはいわゆる幼馴染の愛情の芽生えさせる くったく の道を選んだのに反し、大野の家は士族の商法が一時意外余地はなかった。明るく屈託のない英治の性分には道子は たいせきて に当たったものである。英治の父は横浜で生糸に手をつ少し陰気であった。だから彼が道子とおよそ対蹠的な型の け、相当派手にやっていたが、大正末期の財界の変動で一富子のような女を貰ったのも、なんの不思議はない。 ひっそく かしら 挙に産を失って郷里に逼塞した。当時九歳の英治を頭に一一一富子はある古い大会社の高級社員の娘である。生まれは 人の子があり、英治はしばらく宮地の家から東京の中学へ東京であるが、父の転任に従って各地を転々として、その 通っていたことがあったが、やがてもと父の店の者で、奇土地土地の風を幾分ずつ身につけていた。たとえば彼女の おおさか 妙な偶然から大正九年の暴落以来、とんとん調子で株で儲明るいコケットリイは大阪風であり、家計における慎重は けた男の世話で、慶応の経済学部を出ると、やはりその男名古屋風という風に。しかしどこの女学校でも彼女はかな した が買収した化学工場の社員となった。工場は戦争中軍の下らず浮名を流した。 ちよとっ 請工場として発展した。そして英治のお坊ちゃん風の猪突大野が富子を識ったのは、彼女が最後に東京のあるあま まんしゅうかほく 人主義は戦時下の散漫な営業政策と調子が合い、満洲や華北り良俗をもっては鳴らない女学校の専修科を卒業して、同 まわ あと ーティ 夫に子会社を二つ三つ作って廻った後で、府中付近のかなり窓の悪友達と男を交えて開いた一種のワイルド・ 重要な工場を任せられるまでになった。終戦とともに魚油の席上であった。当時若手の社員で陽気なことの好きな大 せつけん 仲介業者と組んで、彼はそれを素速く石驗工場に切り替え野は友達に誘われて出席、大いに踊って富子を別室へ連れ こ 0 込んだ。その時は平手打ちを喰っただけであったが、後彼 らよとっ 「はけ」の古風な地味な暮しに比べて、大野の家では万事一流の猪突主義で八方を説き廻り、とうとう親と当人に結 ねかん かんり どみこ おうめ のら

2. 現代日本の文学 36 大岡昇平集

316 「私は中原との関係を一種の悪縁であったと思ってい ( 庸男 ) 、小山 ( 忠雄 ) 、次郎さん起きている。 のうかん る。大学時代、初めて中原に会った当時、私は何もかも 昼。納棺。 夕方、ダダさん、蒼い顔して来る、二晩寝なかった予感していた様な気がしてならぬ。尤も、誰も、青年期 ムう の心に堪えた経験は、後になってから、そんな風に思い 由。遺稿など眺めて徹夜。 出したがるものだ。中原に会って間もなく、私は彼の情 十四日。西沢来る。二時出棺。代々木火葬場へ。 もと たず 四時辞去。泉橋病院に小林を訪ぬ。長谷川泰子嬢が来人にれ、三人の協力の下に ( 人間は憎み合うことによ てした。 っても協力する ) 奇怪な三角関係が出来上り、やがて彼 どうせい 女と私は同棲した。このわしい出来事が、私と中原の 間を目茶目茶にした。言うまでもなく、中原に関する思 小林は当時盲腸炎手術のため、入院中であった。富永が ところ 「きたない」といって、酸素吸入管を取り去った話を聞い い出は、この処を中心としなければならないのだが、悔 て、「富永らしい」といったそうである。 恨の穴はあんまり深くて暗いので、私は告白という才能 この病室に長谷川泰子がいたことから、新しい物語が始 も思い出という創作も信ずる気にならない。驚くほど筆 まるのである。 まめだった中原も、この出来事に関しては何も書き遺し ていない。ただ死後、雑然たるノ 1 トや原稿の中に、私 くや は、『ロ惜しい男』という数枚の断片を見付けただけて 友情 あった。夢の多すぎる男が情人を持っとは、首根っこに たくあんいし 沢庵石でもぶら下げて歩く様なものだ。そんな言葉では ないが、中原はそんな意味のことを言い、そう固く信じ もと とつじよ かかわ 大正十四年十一月、長谷川泰子は中原中也の許を去り、 ていたにも拘らず、女が盗まれた時、突如として僕は ド」′ - い しよう力、 小林秀雄と同棲した。中原の生涯はこの事件を抜いては語 「口惜しい男』と変った、と書いている。が、先はな れないのだが、当事者の一方が生きていては、これは微妙 。『ロ惜しい男』の穴も、あんまり深くて暗かったに な問題である。 相違ない」 昭和一一十四年の「中原中也の思い出ーで、小林は初めて ここで小林が「口惜しい男」と憶えている断片は、「我 事件について書いた。 が生活ーに当る。欄外の記事から昭和三、四年に書かれた あお こん もっと のこ

3. 現代日本の文学 36 大岡昇平集

おもむ かんつう 仙台に赴いて母は、太郎に姦通の事実がないのを確めた は勝手としても、二十三になっては身を立てる方法を考え もら シャンハイ て貰わねばならぬ。前年よりの上海旅行も、向うで生計をから、もし女にその気があれば、示談を押し進めて、太郎 立てるのが約東であったが、太郎に出来るのはフランス語の嫁に貰い受けるつもりであったが、会合の席上、女は夫 たちま づま に従うと明言した。このことを伝えると、太郎は、 の個人教授ぐらいなもので、忽ち行き詰って帰って来る。 とんそう 京都への、富永の表現によれば「遁走」も同じ約東であ「ほんとうかなあ」 つぶや と呟いて、室へ引き上げたということである。一方正岡 る。さし当り正岡氏は夏休みで帰郷するから、室はまるま かせ る空いているが、食費と飲代は稼がねばならぬ。正岡日記氏宛、地方新聞で女の自殺者の記事に気をつけるよう頼ん 七月二十一日に、「家庭教師のロ出来、京都定住の見込なでいる。 かつけっ るーの記事がある。実に永遠の家庭教師である。喀血の結 ありがたい静かなこのタベ 果下宿住いに不安を感じ、十一一月東京に帰る時は、母親は 何とて我がこころは波うつ 九十円の借金を片付けねばならぬ。これは当時の若い月給 こよひひとよ いざ今宵一夜は 取の一カ月の月給に当っている。 あわれ われととり出でた 父親は結局子を哀んで、すべてを許していたのである。 この心の臓を 「失恋というものは、ひどいものてすなあーと謙治氏は生 窓ぎはの白き皿にのせ 目に、つくづく私に述懐されたことがある。太郎の不眠も なが しようそう 心静かに眺めあかさう 文学的焦躁も、父親には根強い失恋の悩みとしか映らなか 月も間もなく出るだらう った。そして父親は実際正しかったのである。 東京の一中の秀才であった太郎も、ショベンハウエルを こうのすけ 読み恥り、大正十年仙台の二高理乙一一年で、正岡氏と共に半年前に日夏耿之介調「黒暗の潮、今満ちて、晦冥の夜 かいせ、 解析不出来、仲よく落第した。八月の最初の詩作、フランともなれば」に始まる宇宙的な「夜の讃歌ーを書いた詩人 てんらく きぐう ス語の個人教授を受けに通った退役将校の寄寓する家の妻が、ここまで顯落したのは失恋のためである。 と九月より恋をする。二カ月後夫の会社員は告訴をもって十一年三月「半欠けの日本の月の下を、一寸法師の夫婦 じだん おびや 脅かし、太郎が仙台を去るを条件として、示談を承知すが急ぐー十二年四月「立ち去った私のマリアの記念にと、 る。 友人と一一人ア。フサントを飲んで帰るさーそして十三年七月 かよ かいめいよる

4. 現代日本の文学 36 大岡昇平集

に代表されていると思われる。 そうになったことを思うと、下り切ってからでさえ胸が ワクッとした。 門司の親類に祝い事があって、長男である彼が弟と共に 派遣された時の記録である。大人の混雑の中に巻き込まれ た中原は孤独を感じる。広い家の方々に、人々が集ったり 長々と引用したのは、これが一生を通じて中原の対人関 散ったりしている。中原は一室に一人残される。 係の見本のように思われるからである。叙述は彼の話術の おのずか うまさを示しているし妥協の願望も語るに落ちて自ら現 次の間の声が気になり出した。何だか今の婦人は、自われている。何よりも全体の奇妙な感じが、中原の人格の だらよう 分の前を立ち去ると直ぐ先刻の駝鳥 ( これは女客の一人魅力と、切って切り離せない関係にある。この感じは少年 に彼がつけた綽名である ) と鼻合せに、自分のことを兎中原が、我々の世界に入って来る時期を語るに当って、伝 かく や角言っているのが、それ等の声のようであった。 記作者は念頭におかねばなるまいと思われる。 間もなく隣室の婦人がこそってその部屋を出て行く気 もはや 配がした。と最早何の声もしなくなった。弟はまだ湯か とみくら・ ただ ら上って来なかった。彼は心細くなって今は唯、何かに冨倉徳次郎氏は、当時京都帝大の国文科に在学し、大正 十三年の一月から三月まで、立命館中学で国語を教えた。 対して素直になりたくって仕方がなかった。 すいきよう 立って縁側まで出ると、余程長いものに彼の心には想答案のかわりに詩を書いて出した生徒を家へ呼ぶ酔興を持 けん われていたその縁側は、つい三四間向うで其処から階っていたのは、当時氏が若く小説家が志望だったからであ 段になっていた。「何だ」という気が思わず彼を歩ませる。 * とみなが た。「不可ない」と思ったが、もう半分以上来ていた。 冨倉氏は一一高で、富永太郎の一一級上であった。富永太郎 誰も見ているものがないと、彼は幼児が甘えるような気は既に学を廃し、上海に放浪中であったが、三月末、神戸 おどりば しんきようごく 持で、階段を上り始めた。所が頭がヒョッと踊場の高さ着、京都へ途中下車し、冨倉氏と新京極で酒を飲んだ。そ まじめ に達したと思うと、一一階の直ぐそこの部屋に真面目臭つの時中原が同席したのが、富永と中原が会った初めであ すわ て坐っている三人を見た。三人は階段を上る彼の足音のる。その夜富永はそのまま東京へ帰ったが、七月再び京都 こちら あわ ために一に此方を向いて眼を見張っていた。彼は慌てへ来て、十二月まで滞在した。 はす 「夏富永太郎京都へ来て、彼より仏国詩人等の存在を学 て頭を引ッ込め、それから急いで下りた。途中足が外れ はけん ま あだな

5. 現代日本の文学 36 大岡昇平集

かんてい 理屈通りに作品が生れるものではないが、制作より理論「たしかに男がある」という鑑定だった。 酔って村井と阿部と一緒に富ヶ谷の下宿へ帰る途中、沿 が先に出る時期に当っていたのである。 道の家の軒燈に石をぶつつけて、渋谷署へ留置されたの 昭和三年五月から翌年一月まで、中原は下高井戸で関口は、創元社版全集の年譜では四月にしたが、六月だったら じすい 隆克と自炊している。関口は後に文部省に入ったが、スルしい たす ヤの諸井三郎、仏文の佐藤正彰の義兄である。文学をやっ 四月、私は京都へ行ってるが、五月、中原に訪ねて来ら ていたわけではないが、何についても一言理屈のある男れてみると、すぐ東京が恋しくなり、追っかけるように戻 で、中原を愛していた。愛情は文学と関係がないから、決って来た。 さかえ けんか して喧嘩にならない。 事件の晩も中原達と同行したのだが、私の家は栄通にあ おおむかい 中原はミツ・ハのおしたしばかり作っていたという話であったので、大向小学校の裏で分れた。それから二、三丁富 ところ しじゅう しよう る。「ああ、始終故郷が恋しくっちゃ、仕様がない」と関ヶ谷の方へ行った処で、中原が石を投げた。 ロは当時の中原を回想している。中原は色んな人に、色ん町会議員の家であった。陰険なるその家の主人は、ひそ かいかん な面を見せていたのである。 かに三人の怪漢の跡をつけ、交番の前で不意に追いつい 四年一月越して来た富ヶ谷の家は、阿部六郎の下宿の近て、告発したのである。 所である。新しい友達が出来ると、近くへ越して来るの阿部、村井は教師であったのですぐ許されたが、中原は が、中原の流儀である。学校へ通うわけじゃなく、当時の万事不審な点ばかりだったので留置された。調べてくれれ 中原ぐらい自由な生活をしていた人間は、そういない。 ばわかると主張したのだが、 ; 調べずに一一十日あまりひやさ 長谷川泰子に変らざる思慕の情を抱きながら、渋谷駅付れた。この時の恐怖は後まで残った。 歌近の西洋料理屋 ( 地下室にあったので通称「地下食」 ) の 留置されているかどうか、一緒に連行された友人にもわ しら まわ の女給に惚れて、村井庸男、阿部六郎、私も動員されて、通からなかった。報せを受けて、私の父の知人から手を廻し っ い詰めたのもこの頃である。 て警察に訊いて貰ったが、やはりそんな人間はいないとい 、ようこう、た 女が出て来ると全然口が利けなくなる中原の顔は観物だう返事だった。下宿へも帰ってないし、恐慌を来して、郷 かんぜん った。郷里から為替が届いた日、敢然一人で行って、一緒里へでも帰ってしまったのだろうということになって、私 ことわ はまた京都へ発ったのだが、この時私はもうあんまり真剣 に旅行しないかといって断られ、恋愛ははかなく終った。 かわせ ころ みもの けんとう いんけん

6. 現代日本の文学 36 大岡昇平集

た。やがて法科や医科を出た弟達が、家を出始めたのを機この年か或いは、前年何か計画だけでつぶれた雑誌があっ しようだく たと仮定して、「やれやれと思いましたものの . という心 に、中原は郷里に帰ることを承諾する。 ごう、 0 う 別れを告げに訪れた中原が、亡父を語って号泣するのを境にだけ注意して先へ進むことにする。「白痴群ーが出た 阿部六郎は見ている。結局中原は東京に敗れて帰ると考え昭和四年四月には、我々成城ポーイは古谷を除いて、京都 たど いっと ていたのである。芸術は衰弱の一途を辿るのみで、それを大学に移っている。東京に家を持っ我々が京都を選んだの は、幾分富永、中原の放浪癖にかぶれたからであるが、同 救うのは自分だけだと中原は信じていた。その自分を東京 時に中原の影響から逃げだしたい気持もあった。 に押しつけることに、彼は失敗したのである。 けんらん こころぎし 当時中原は絢爛たる話し手であって、その詩と共に、議 中原が詩冫 こ志を立てたのは、島田清次郎が「地上ーで げんわく 東京を征服した時期に当っている。大正の成金景気でジャ論で我々を眩惑したのであるが、中原は崇拝者に対しても はなはしっと ーナリズムも読者は増えていた。文学の志を遂げながら、甚だ嫉妬深く、我々が彼の教えるところ以外を考えること こし、 一家を養い、郷里に錦を飾ることが出来そうな形勢になつを許さなかったので、中原との交際がだんだん息苦しくな ていた。一種の天才時代である。それでなければ両親も彼って来たのである。 かんたん を東京へ離さなかったろうと思う。京都でダダの詩を書く中原は大正十四年の上京以来四年目である。我々が感歎 を素直に表白すると、「中也さんがこんなに評判がいしの 一方、中原は小説も書いているのである。 は、珍らしい。と喜んだことがあるから、それまでにもう 第二の点は昭和三年の春、彼が「か赤い気持を持って けんか いる」雑誌創刊に招かれ、断ったという記述である。昭和沢山喧嘩をした後である。 三年一一月は私は中原に会っているが、これは全く初耳であ「サーカス」「少年時ー「失せし希望」など詩集「山羊の おさ の たいてい る。この年創刊の詩を載せる雑誌は、「前衛」「戦旗ー「パ歌」の前半に収められた詩を我々は大抵原稿を貰ったのだ ンテオン」「詩と詩論ーを知るだけであるが、前の二者は が、中原の談話は作品よりずっと高級で幅が広かった。 「気持」どころではなく、最も戦闘的なプロレタリアの雑当時名の出た或る哲学的批評家がカフェーで中原の詩論 誌であり、後の二者に「赤ーの要素があったとは思われなを聞いて感服し、是非詩を見せてくれと頼んで帰って行っ そして、このどっちからも中原に招きがあったこと た。中原は無論数篇の詩を送りつけた。四、五日して会う きつね を、少くとも私には語っていないのである。 と、哲学者は狐につままれたような顔で、「どうもあの方 うそ しかし中原が嘘を書くということも考えられないから、 の理論はちっとも出ていませんね」といった。 と ある

7. 現代日本の文学 36 大岡昇平集

彼は自殺した弟を馬鹿だ、といっていた。彼によれば今は古代人のもので、ここが人の住むに適するという証拠 ようせつ * あしがる ちよとっ 度の敗戦は明治の足軽政府の猪突主義の当然の帰結であだ」と彼はいった。しかし妻はやはり男一一人が夭折したの ひと たた じゅん り、それに殉ずるなそもってのほかなのであった。彼は勝は偏えに墓の祟りだ、いずれ宮地家は死に絶えると固く信 力いしゅう 海舟の愛読者であり、好んで徳川末期、中央の才人によっじながら彼女自身も昭和二十年空襲の最中に死んで行っ こちょう けむ て起草された大名会議案の進歩性を誇張して、訪問客を煙た。 しんくん に巻いた。日本はやっと神君以来の合理主義に帰るのだ、 そのころは娘の道子夫婦もこの家に同居していた。夫の あきやまただお と彼はいっていた。 秋山忠雄は東京のある私立大学のフランス語の教師で、道 へんくつもの 在官当時から彼は一種の偏屈者として通っていたが、自子を愛して求婚したのであったが、彼女を貰ったころ宮地 つか りしよく 分の仕える政府を侮っていただけに、利殖の道はうまかっ の家が羽振りがよく、彼が何となく養子のように人に見ら た。大正の末停年で官を退くまでに、すでに相当の産を作れたことを、快よからず思っていた。で、空襲が始まると たど っていたが、退職後も縁故を辿って静岡県のある私鉄の重幾度か養父に一緒に暮らすようにすすめられながら、何と おさ しぶ しぶや 役に収まり、一一年の間にさらに産を殖やすと、あらかじめかかんとかいって渋っていたが、五月渋谷の家が焼けるに 別荘として建ててあった「はけ」の家に引っ込んでしまっ及んで、やっと「はけ」の家へ来ることに同意した。 しようあい 道子は父に鍾愛されていた。男の兄弟と一緒に育って、 しよう力い ごうじよう こうして彼の生涯はある程度の幸福に達していた。ただ幼時はむしろ強情ではねつかえりの方であったが、物心っ でこあご 子供運はよくなかった。同じ静岡県の士族から貰った妻のくころから急におとなしくなった。少しお凸で顎が張り、 そうせい うりざねがお 民子との間に、二男一女が生まれたが、男はいずれも早逝折角の瓜実顔はなんとなく空豆に似ていたので、家でいっ みらこ し、末娘の道子だけしか残らなかった。それも次男の死ぬも「そらまめさん」と呼ばれていたが、当人はむしろそれ あとと 前に片付き子供がなかったので、結局宮地家には跡取りがが得意であった。遠い四国の高等学校に入った長兄に出す 人 冫冫しつも署名のかわりに空豆の絵を描いた。 夫絶えることになったが、一種の冒険的立身の生涯を送って手紙こよ、、 しかしちょうど彼女がおとなしくなった十四五のころか 来た彼は、それをあまり苦に病まなか 0 た。 「はけ」の家を建てるために崖を崩した時、横穴が現われら、だんだん形のいい鼻がせり出して来て、どうして「そ ゆず 人骨があった。民子はそれを不吉とし、工事を中止して他らまめさん」どころではなく、母親譲りの白い皮膚と相俟 びぼう に土地を探すことを主張したが、彼はきかなかった。「墓って、なかなかの美貌を表わすようになった。女学校の上 たみこ こ 0 かっ

8. 現代日本の文学 36 大岡昇平集

や批評家の場合と比較にならぬ意味があるのは、遺稿「詩ようなところがあるから、どう取られても仕方がなかった りれ込しょ しふく 的履歴書」中、「白痴群」廃刊の記事の次に、「以後雌伏」かもしれぬ。 とあるので知られる。 結局「白痴群」六号を通じて、見るべぎものは「寒い夜 しゆらがいばんか 三好達治は中原より七つ年上で、「青空」「亜」など今日の自我像ー「修羅街挽歌ー等中原の中期の重要な詩篇と、 も名の残った雑誌に関係して、詩歴は中原よりずっと古い河上の「ヴェルレ 1 ヌの愛国詩」、阿部六郎の小説「放た のであるが、何となく中原が先輩のような気がしていた、れた・ハラ・ハーそれから河上が訳載したヴァレリイ「レオナ 後年中原を再刊「四季」同人に迎えた時も、そのつもりで ルド序説」ぐらいなものてあったといっても、当時の同人 扱ったといっている。 から不服は出ないと思う。 ころ ちょうど すで これは三好が東京の帝大へ入った頃、中原は既に小林秀古谷綱武以下の四人は丁度成城高校を出たばかりの坊ち 雄等の交友範囲にあり、方々でよく聞く名であったためのやんで、何を書くべきかどころか、何を書いたらいいのか 錯覚と思われるが、とにかく詩壇というものはそういう狭もわからなかった。同人費を出すために狩り出されたよう いものであり、詩の発表機関を持っということ、或いは詩なものであった。 みつ 集を出すということが、詩人にとってどんなに重大事であみんな例外なく中原のファンで、随分酒や小遣いを貢い しよう力い よんりよ るかを考えないと、同人雑誌「白痴群、が中原の生涯で占だのだが、終生の伴侶となった安原喜弘を除き、中原の天 めた位置は理解しにくくなる。後年「山羊の歌」の出版に才に圧倒されて、逃げ腰になるのが気に入らず、次々と破 しようりよ 門されて行くことになる。 どうして中原があれほど焦慮したかもわからなくなる。 中原の残したもので「白痴群ーに触れているのは、「詩 そして当時の「白痴群ーの同人は、中原がそんなに雑誌 を大事にしているとは知らなかったのである。中原は文壇的履歴書」のほかに、「千葉寺雑記」がある。昭和十二年 歌も詩壇も馬鹿にし切ったようなことをいっていた。「白痴一月初めから一一月十四日まで、神経衰弱で千葉の精神病院 の群ーという名は中原がつけたもので、野心を持ちたくてもに入院していた時の雑記帳だが、治療の記録のほかに、 持てない「馬鹿の集り」というほどの意味である。当時奈詩、短歌、感想、手紙の下書き等を含み、当時の中原の精 朝 りこうやっ 良にいた小林秀雄が「人一倍利巧な奴が寄りやがって、白神状態を知るのに貴重な文献である。 えつらん tO 痴群とかなんとか、い ノートは医師によって閲覧されたらしく、中原は院長に ってやがんだ」といったとか、伝え 聞いて河上徹太郎がこぼしていたが、題名には幾分すねた宛ててこれまでの経歴を述べ、どうして自分が現在の神経 ある ( づか

9. 現代日本の文学 36 大岡昇平集

「ひどいことをいう。僕は君のためにこれだけのことをし「そうね。でも、あたし退屈だから映画でも見て来るわ」 たんじゃないか」 「じゃ、四時ごろ銀座のどこかで会おうか」 「それはあたしと関係ないことよ : ・ : どうでもいいわ。そ秋山が前から見当をつけていた神田の不動産会社は新築 うね、あたしもただくたびれただけか知れない」 の・ ( ラックで、衝立で仕切った室に粗末な卓子と子がお 彼女も実は三時ごろ家を出ると真直ぐにここへ来て、た いてあるだけであった。応対に出た若い社員は、彼よりは だ秋山を待っていた。 数等ましななりをしていた。職業や年齢を聞いた後、社員 「本屋から大して集まらなかったから、明日の朝から運動はいった。 「失礼ですが、どういう御事情で御処分なさるんでござい するつもりだ」 ましよう」 「誰か弁護士か経理士にでも頼んだ方がいいんじゃない 「場所が不便だからです。小さくても、もう少し便利なと 「面倒なこというんじゃないかと思うんだ、彼奴ら。それこと買い換えようと思いましてね」 かた 「つまりあなたは私方へお売りになるとおっしやるんです より今時の闇不動産会社に渡した方がいいと思うんだ。な か」 にすぐ片づくさ」 こわ 秋山は実は家を処分するのが何となく怖かったのであ「むろんそうです」 あいにく る。彼のつもりは、道子が想像しているほど悪いものでは「それは生憎でした。私どもはいただくのではありませ なかった。彼はたとえば家が四十万に売れたら、十万で富ん。担保として御融通申し上げるんですが」 子と二人で住む小さな家でも借り、あとは道子に渡すつも「貸す ? 買うんじゃないんですか」 あわ りであった。道子も一人になったら、あの家は広すぎる。 社員は憐れむように笑った。 土地も抵当に入っているし、どうせ「はけーの家はこわれ「家屋は当今動きそうで実はそう簡単にはけませんので つごう てしまっているのだ、と自分に都合よく考えながらも、彼ね」 はとにかく一日家を売りに行くのを延期した。 「担保でもいいですが : : : ふむ、その方がいいかも知れな 、よう 「さてと、今日は朝から出掛けるかな」 さし当り金さえ出来ればいい。借りるだけなら道子はま といいながら、二人は十時すぎまでぐずぐずしていた。 「君はここで遊んでいてもいいんだよ」 だあの家にいられる・ まっす ついたて

10. 現代日本の文学 36 大岡昇平集

下「作品」 昭和 7 年 ■に大岡は河上徹太郎の紹介 でこの雑誌の「文芸時評」 を担当。以後ときおり、 評論を寄稿した 月刊 ン、 0 昭和 19 年、神戸時代。左から妻春枝、長男貞一、長女鞆絵 畄を手術されるような思いに耐えてそれを生きたのだ。 このような行為にかけてのみ、一つの知性の形式が、 初めてこの場所に存在し、この場所で生き、新しい言 葉を獲得するに至るのである 彼が、この知性の形式を、輸入された新式の思考の 「私は私自身を救 創 , ~ 機械として触れているのではなく、 助しよ、つ」とい、つ生の動機によって擱んでいることを、 、林秀雄も「僕の専念していた もう一度注意しよう月 事も亦恐らく自分自身の救助であった」 ( 『富永太郎の 思い出』 ) といっている。いわば、一つの知性の形式を 呑込み、生きて、自己において血肉化すること、そし て、そこに新しい言葉を求めて、この知性を人間化す ること、 それが彼等のグループにかけられた一様 の宿命であった。 富永が「私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は よみがヘ 去った。道路のあらゆる直線が甦る」 ( 『秋の悲歌』Ⅱ 大正十三年 ) と書き出すとき、新しく何かが始まった のである。大岡昇平はいう。彼は「当時の日本におい て、恐らく象徴を実生活の必要と感じた唯一の人であ この「象徴」というものに出合うことか、当時の彼 等にどんなに「事件」であることか そして、その頃の彼等が一様に、実に日本の文学か せんりつ 425