秋山 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 36 大岡昇平集
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1. 現代日本の文学 36 大岡昇平集

おそ とになるでしよう。二つ揃えば売買が成立しますからね」 遺言状は秋山の手に入って破棄される懼れがあったの 「家内が死んだ場合も委任状は有効でしようか」と秋山がで、道子はようやく雨のあがった朝の道を歩いて、大野の 家まで預けに行った。 訊いた。 あなた 「それは無効になります。でもその時貴方は相続なさるん大野は出勤をおくらせてただ大阪からの電報を待ってい た。富子が大阪へ行っていないのは、今では道子にはわか ですよ」 しげき 秋山が「死んだ場合」といったのは道子を刺戟した。彼っていたが、彼女はそれをいうのをよそう、と思った。自 ゆいごん 女は新民法の摘要を解説書で調べて、自分が遺言すれば一一一分が自殺すれば、秋山は世間の手前まさか富子と一緒には なれまい。そうすれば彼女はいずれ戻るであろう。自分が 分の二を好む者に与え得ることを知った。 秋山が委任状と一緒に権利書を持ち出したのは、この弁死にさえすれば万事まるくおさまる、と彼女はますます自 護士の言葉によったものであった。道子は彼が家を売るの分が死の方に押されて行くのを感じた。 さまた ママが帰るまで学校へ行かないとむずかる雪子を「留守 を妨げるには、自分が死にさえすればいいのだと思った。 たま の間にきっと帰るわよ」と欺して送り出した後、道子は遺 しかも秋山がそれを売ってしまう前に死なねばならぬ。 不動産の売買がそう右から左へ片づくものだと考える点言書を大野の前においた。 「前からあんたに預けとこうと思ってたんだけど、これあ で、二人はともに世間にうとかったわけである。 たしが死んだら開けてもらうものよ」 今すぐにも死んでしまおうカ 、、はたして死ねるだろうか と、家を包んで遠く近くなる雨の音を聞きながら、一晩考「何だい、藪から棒に。それは秋山さんに渡しとけばいし ガラス んじゃないかな」 え通した後、遅い十一月の朝がやっと廊下の硝子を明るく するころ、道子はとにかく遺言状を書いておこうと思っ「誰か他の人に預けるもんですって、こんなものは」 人た。文面は簡単であった。ただ法律によって秋山に与えら「そうかな。でも、なんだか変だな」 ぎようそう いりゅうぶん 野れる遺留分を除き、あとの半分を勉に、半分を大野に与え大野は最初から一夜眠らなかった道子の変わった形相に る、ということだけであった。これであたしが死んでも大驚いていた。 武 野が担保に入れた土地のことで、秋山に責められずにす「どうかしたんじゃないかい。顔色が悪いよ」 「あんたこそよくないわ : : : 富子さん心配ね」 む、ともうすっかり死の方へ頭が向いていた道子は考え た。 「しようがない奴さ。いったい大阪が甘やかしすぎるん そろ

2. 現代日本の文学 36 大岡昇平集

ままこ た微笑を賛意を示すものと取っていた秋山は、語り終わる似ていたわけではない。継子の不幸しか知らない勉にはエ と彼女が抗弁したのに驚いた。 ネルギーがなかった。彼がこれら快男子に似ている点は結 「だってそれみんな昔のことで、文明は進歩したんでし局若いということたけで、秋山はよく考えてみれば、自分 よ。あたし達女はやつばり夫婦は一人ずつじゃないと、頼が普段ほとんどあらゆる青年にそういう反感を感じている ことに気がついたであろう。勉だけに特に反感を自覚した りないわ」 彼女がこういったのは、男のいうことに一応反対してみのは、結局彼が妻の従弟だからである。 るコケットの習慣にすぎなかったが、秋山は例によって彼秋山はその晩も勉との同席を喜ばなかったが、共産主義 女のいうことをなんでも真面目にとったから、その場で論者が来るということは、彼にとって富子の前でエンゲルス を論する一つの機会であった。彼の読んだところではエン 破できなかったのを残念に思っていた。 勉が久しぶりで「はけ」の家を訪れて、折から来合わせゲルスが未来の理想的共産社会では男女の自由意志に基づ く一夫一婦制が保たれると結論していた。その結論と彼が た富子に会った日、富子はもう一つ用事を持っていた。そ ほうしよう の晩富子の家では、もとの大野の会社の社員で、今は退社聞きかじっていたソヴィエトの性的放縦とを対照させるこ っ ZJ う してある組合の書記局に入っている貝塚という共産党員をとによって、彼は自分に都合のいい方向に議論を導くこと 晩飯に招んでいた。大野はその席を秋山のインテリ的談話ができると思った。 にぎ で賑わしたいと思い、秋山を招んでみるようにいし 、つけて富子はむろん道子も誘ったが、「お前の出る幕じゃない」 あった。 と秋山が止めた。 四時ごろ秋山が学校から帰ると、富子は初めてその用を会食は七時から芝生に臨んだ茶の間で始まった。大野は 客が好きであった。ことさら座敷を避けて、茶の間へ通す 思い出し、改めて招待の辞を述べた。 「時局の裏の話を訊くんですって。ちょうどいいわ、勉さのが自慢であった。そのかわり料理はうまいものを豊富に んもいらっしゃい」 出すというのが、戦後ではなかなか通用した科白である。 あぐら ゆかた 秋山は勉を好いていなかった。彼の眼には勉があまりス浴衣に着替えて上座に胡坐をかき、酒を飲まない三人の客 てじゃく を前に、手酌でぐいぐいやった。そしてすぐ酔っ払って、 タンダールの若い主人公に似すぎて映ったからである。 しかしいかにも勉は上品な顔立ちと坊ちゃんらしい鷹揚「とにかく貧乏はよくないですな、貧乏からは何も生まれ さを持ってはいたが、それほどジュリアンやフアプリスにんです」 かいづか おうよう しばふ せりふ

3. 現代日本の文学 36 大岡昇平集

た。むろん女の媚態の意味なぞ、男にいちいちわかるはずで、しばしば二人の会話に上ったが、実は会話に一種の危 はなく、恋する男は結局自分の情熱より指針はないわけで険な味わいを持たすというだけで、あまり問題を進展さす あるが、秋山はなまじ情熱なくして、ただ相手を誘惑しょ力がなかった。雑誌の解説者はいつも刑罰の廃止は道徳的 うと思っているだけに、いちいち彼女の媚態の意味を確か制約を除くものではない、と力説していたからである。秋 山はさすがに罰せられずという功利的動機を、恋の口説に めねばならなかったのである。 たとえば彼らはあらゆる既婚の恋人候補者の場合と同じ織り込む不利を知っていた。 く、まず互いにその配偶者の不満を述べ合うことから始め秋山は一夫一婦制が元来人間の性情から見て不合理であ 姦通が少しも罪悪ではないことを証明しようとした。 たが、富子が大野の無理解を仄めかすのと、秋山が道子のり、 彼がこの思想の応援に求めたのは、読者は随分奇妙に思わ 冷たさを既くのには、少し別の意味があった。 大野と道子は従兄妹であり、いわば「はけ」の家付きのれるかも知れないが、エンゲルスの「家族私有財産及び国 者であった。だから彼らとそれそれ夫婦関係にある二人の家の起源」である。 外来者秋山と富子が、彼らに対する不満をいうことには一 この共産主義の古典的名著の根本的思想は、むろん財の 種の家庭的な意味があるわけである。 蓄積が氏族共同体を破壊し、国家的支配形態を作り出すと いうことである。一夫一婦制が私有財産とともに生まれる 女性の封建的な習慣から富子はそれを理解していたが、 自分の空想に目が眩んだ秋山はそうは取らなかった。彼はというのはその準備のために提示された観念にすぎない。 んれん 富子が夫としての大野に対する不満に関聯して無限に細かしかし四十をすぎ、国家や社会について小市民的エゴイズ のら 、・らし , っ ムの習慣を固めた後初めてこの本を読んだ秋山は、折しも い家庭的細目に入るのを焦々して聞いていた。 つごう しし、この しかし自分の男性的魅力について自信のなかった秋山彼自身と富子の家庭生活を否定するのに都合の、 ふくじて、 人が、文学的談話によって富子の気を惹こうとした点だけ副次的思想の方だけに共鳴した。 夫は、彼も誤まっていなかった。夫の交際範囲の・フローカー 秋山のくどくどと述べる太古の血縁家族や対偶婚の合理 ほう . 込ゆら・ 蔵や俸給生活者の金と物資の話に倦きていた富子にとって、性に関する議論を、富子は興味ありげに聞いていたが、そ 秋山の話にはとにかく新しさがあったからである。 れはもともと夫を金を家へ持って来る人間としてしか愛さ 姦通罪廃止の問題は、五月の夕方大野が近所の工場からず、また他に愛人を持ったことがある彼女が身をもって知 帰るまで、多摩の流域と富士を見晴らす富子の家の地壇っていたことであった。会話の間彼女の顔から消えなかっ ほの くぜっ

4. 現代日本の文学 36 大岡昇平集

「どれくらい貸してもらえましようか。家の値段は五十万 うございましようか。受取はさしあげますが」 かと思いますが。少し古い家だが」 秋山はよく聞いていなかった。すぐ金にならないなら 社員は権利書についた図面を調べていた。 ば、こんなこと意味がない。 「そうですね。ちょっと実際に拝見しないとわかりません秋山は不意に立ち上がった。社員は坐ったままじっと彼 うなず が、五十万はどうも。いずれにしても、お貸しするのは半を見上げていたが、何か諾いて立ち上がった。 額ぐらいと思います。はっきりしたところは部長が申し上秋山は詐欺や拐帯と思われないうちに早くここを出なく げます」 てはならない、 と考えるだけの余裕は持っていた。 「いくらでもいいです : しかしやつばり見なくちゃい 「そうですね、もう一度家内と相談してみましよう。つま けませんか」 り金額のことですが」 社員はいぶかるように秋山の顔を見詰めた。 「ごもっともでございます。ではまた、お手紙でもいただ 「むろんそれは拝見しないと、それから登記所の方も調査ければこちらから参上いたします」 したり、奥様にもお目にかかって」 「わかりました」 くったく 秋山は椅子の上で腰を上げ、それからまた下ろした。 外には澄んだ秋の日が鋪道に当たり、何の屈託もなさそ 「家内に会うんですか」 うな通行人が動いていた。秋山はふと泣き出したいような 「それは奥様の御名義でございますから。担保とすること衝動を感じた。彼らはすべてあるべきところに存在し、習 を同意するという同意書もいただかなくてはなりません」慣に従って楽々と動いている。自分一人面倒なことにかか 「同意書 ? 」 ずらわって、あんな若造にまで馬鹿にされねばならぬ。 がんこ 「さようでございます。ほんの形だけでございますが」 これもみんな道子が頑固で、合理的に処置しようとしな 人秋山は眼の前が昏くなったような気がした。道子が同意 いからだ、となおも富子への感情の傾斜の上にいた彼は考 せけんてい 野するはずがない。この手は駄目かな。えい、世間体など考えた。あれだけ口を酸つばくしていって聞かせたのに、ど うしても離婚に同意しようとしない。そして自分だけいい 武えないで、あの時すぐ名義を書き替えておけばよかった。 つもりでいやがる。 ぼんやり黙っている秋山を、社員はまじまじ見めてい 彼は事態のうまく行かない原因が、富子と彼自身の間に 「では、この委任状と権利書は一応お預かりしてよろしゅあるにもかかわらず、それを道子と夫との関係におきかえ すわ

5. 現代日本の文学 36 大岡昇平集

170 くらやみ 暗闇の中で大野の眼が光った。 「じゃ、僕はいったん帰るぜ、君一人で看病したまえ。こ 、のう 「君こそ考えなきゃいけなかったんだ。富子も昨日からいれから罰を受けるんだよ、君は」 のど 大分経って、秋山は道子の喉の奥から呻くような、笑う ないんだ」 ような音が上って来るのを聞いた。何かの生理的な原因に 秋山は黙っていた。大野は彼と「はけ」の家の前で別 れ、ひとりかかりつけの医者の家へ急ぎながら、秋山が最基づくその声を、秋山は道子の心の声と聞いた。「鬼哭」 初から富子のいないことに何の疑問も起こさなかったことというものがあれば、これがそれだろうと彼は思った。 に気がついた。そうだ、これはあとで確かめてみなくちゃ声はそれきり途絶え、室はふたたび夜の静寂に帰った。 いけない。しかし医師を連れて帰ってからは、なかなかそ時々道子が発作的に手を動かして敷布を打っ音がまじっ ひま の暇はなかった。 あわ 明け方に近く、人間の声が道子の口から出た。泣く声で 医者は慌てなかった。眠っている道子を見ながら、 「いや、よくあるケースです。そう、もう吐かしても駄目あった。 「トムちゃん」と彼女は呼んだ。「トムーとは勉の幼名で だろうな。しかしたいてい大丈夫ですよ」といった。 にしじん 西陣の帯を大野は切ってしまおうといったが、秋山は体ある。 どうこう を返して丁寧にほどいた。医者は瞳孔を懐中電燈で調べ医者の言葉によれば、これは彼女の蘇生の最初の徴候で みやくはく かんまん どうこう て、首をかしげた。 あった。秋山は脈搏を調べた。緩慢であった、瞳孔はまだ あふ 「相当深いですな。よほどの覚悟と見なくてはいけませ 小さかった。その見えない眼から、涙だけ溢れて来た。 だんなさま ん。もっとも万一のことがあっても、旦那様の罪にはなり「トムちゃん。あたし残しといてあげたわよ。あたし貧乏 さまた ません。人間が自由意志で薬を飲むのを妨げることは誰にになっちゃったけど、あたしの持ってるものはみんなあん もできませんからな」と変なことを保証した。 たのものよ。だからもうそんなに無茶しちゃいけないわ」 なんのことだろう。秋山はそこに投げ放しになっている 両腿にリンゲルを打ち、強心剤を注射すると、医者は、 「これで一通りの手当はすみました。四五時間したら、う委任状と権利書に気がっき、急いでもとの手文庫にしまっ わ言をいうかも知れませんが、そしたら大丈夫です。朝また。 あとも た来てみます」といって帰って行った。リンゲルの跡を揉「トムちゃん、馬鹿ね、そんな復員服なんか着て、偉そう みほぐしながら、大野は秋山にいった。 に、威張ってるわね。馬鹿よ、あんた、戦争に行って来た ていねい だめ こ 0 ほっさて、 うめ

6. 現代日本の文学 36 大岡昇平集

倍加した。沈黙を脱却するために彼は写真を撮ることを提 議した。 勉は絶望して道子との間のことはす・ヘて終わったと考え 並んだ秋山と富子に勉は正確に道子がこの二人の後姿かた。 あぎけ ら感じたものを感じた。彼は一一人に嘲られたように田 5 っ 写真はしかし彼が予想していたのとは別の効果を挙げ た。富子の肩に手を掛けた、勉の瞬間のカメラの真実は道 まおとこみにく 秋山も少し写真術を知っていたので、寛大にも勉と富子子には単に間男の醜さしか表わしていないと思われた。 を撮ろうといい出した。シャッターが切られる瞬間、勉は秋山と富子の写真に彼女は勉とは全然別のものを感じ 囎の衝動で富子の肩へ手を掛けた。不意打ちされた富子た。二人の姿に彼女は一種の悲哀を見た。 の顔が歪んだ。秋山はそのままシャッターを切った。 よく撮れている、いないの論議を初め、一つの写真から フィルムは残り少なかった。秋山は、 人の読み取るものはまちまちである。自分の写真は当人に はたいてい似ていないと思われるものだ。そしてそれはか 「このフィルム、記念に僕が現像さしとこう」 というと、やたらにそこらを鉄砲を打つように撮してしならずしも実際に似ていないからではなく、ただ当人がこ うありたいと望んでいるものに似ていないにすぎないこと まうと、フィルムを抜いた。 勉は富子と一緒に映 0 た写真が道子の眼に入る場合を考が多い。 らか 道子が二枚の写真から見て取ったものは、秋山がその夜 えてそっとした。二人の「誓い」にとって何という濆で あろう。秋山も何かそういう効果を覗って、フィルムを奪それらをさりげなく卓子において書斎に入る前にした一つ の重要な提案と関聯があった。 ったものらしい。しいて取り返せないこともないだろう たもと が、フィルムはすでに彼の袂の中にあり、かなり面倒なシ 第十一一章離婚の理由 人ーンを演じなければならなさそうだ。ままよ、自分が富子 たわむ 野と戯れることによって事実上「誓い」を破ってしまってい 提案とはつまり離婚の申し出にほかならなかった。 いつわ 「僕達別れる時が来たと思うんだ」と秋山は仮面の顔をし 武る以上、いまさら偽ってみても仕方がない。誓ってから一 時間も経たないうちにこの状態では、どうせ自分はいっかていった。「一夫一婦制というのが元来不合理な制度でね。 道子を裏切るにきまっている。自分が道子にふさわしくな僕達もずっと前から、ただ法律上の夫婦だというだけの理 いことを彼女が知ってくれるのは早い方がいいかも知れな由で一緒に暮らして来たろう。そこでお前には勉君という うつ テーイル

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ごうかん 返された。たまに大野が成功する時はほとんど強姦の形を「あたり前です。大野が駄目なのはわかり切ってる」 取った。 「でも可哀そうですもの。困った時はお互い様でしよ」 あいび、 こうした情況は秋山に有利であった。彼は富子との媾曳「お互い様も程度があります。そんな大金を貸して、抵当 を再現するために、かならずしも道子を棄てることを持ち流れにしないために、利子はこっちで立て替えなければな 出す必要はなかったのである。ある日富子の方から学校へらないかも知れないんですよ」 電話が掛かって来たのに彼は驚いたが、媾曳はやはり彼の これは秋山が怒りながら発見したことであった。彼は本 予期したような情感を伴わなかった。富子は休息を求めた気に怒って来た。道子も初めて事態の重大さを悟った。 にすぎなかったのである。 「あたし利子は貰ってるから、それを出しますわー 最近の大野の家の乱脈は秋山夫婦の注意を惹き、道子は「そんなものまで隠していたんですか。いっ貰ったんで 大野の絶えざる愚痴の聞き役にならねばならなかったが、す」 新宿の旅館では秋山が富子の愚痴を聞いた。 「先月三千円。もっとくれるはずだったんだけど」 ばうぜん 秋山は呆然とした。 「あたし雪子さえいなかったら、大野と別れたいと思うく らいだわ」と彼女はいった。 「それは僕が貸した金だ」 愚痴は秋山にとって富子の恋人としての値打を少し落と それから道子は、かって夫の口から聞いたことのない罵 はん したが、彼女に大野と別れる意志があることは、生活の伴りの言葉を聞かねばならなかった。最後に涙の中で彼女は 侶として新しい可能性を付与するものであった。そして多抗議した。 弁な彼女が語る大野の経済の詳細に混じって、大野が道子「どんなことになっても、あの時は貸してあげるより仕方 の土地を抵当に入れ、それがすでに流れようとしているこがなかったと思います。大野はあたしの従兄ですもの。駄 人とが洩れた時、彼は怒りよりむしろ希望を感じた。 目だったら、あたしどうなってもかまいませんわ」 きつもん ひとよ 野家へ帰って道子を詰問した時はしかし夫の習性から怒り「鹿な、何てお人好しだ」 が表現された。富子が目の前にいないと、やはり失 0 た財「でも、誰からこれをお聞きにな 0 たの」 あわ 産が惜しくなったのである。 秋山は少し慌てたが、 四「どうして僕に黙ってそんなことをしたんですか」 「誰でもいい。そんなことよりお前のしたことの方が、大 「御免なさい。いえば許してくれないと思ったから」 変なことだ」 めん だめ ののし

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は、今は勉のしに安心することができたからにほかならな 。秋山との夫婦の形を尊重しながら、彼女は少しも勉と恋人の詐は前に書いた心の状態にあった勉にも自然で 離れるとは感じなかった。彼女は勉の心に一緒になれたのあった。彼はさりげなく笑って入ったが、ヴェランダに向 をうれしく思っただけで、これからどうしようかなどと かい合った二人の間に何かあったのを感・せずにいられなか ふきげん は、考えたこともなかった。 った。わざと彼の方を見ないらしい秋山の不機嫌な顏に、 とっさ おび 2 がツ」が 「そうかね」と秋山はしばらく黙ってからいった。「そん咄嗟の怯えを感じたのを、勉は後まで苦々しく思い出し ならそうとして、とにかく勉君には出て行ってもらわなけた。 おれ ればならないだろう。あの人がいるので、俺がどんなに不道子は「お帰りなさい」といって眼で迎えたが、その眼 愉快な思いを我慢しているか、お前も知ってるだろう」 にははたして彼の期待していたものは何もなかった。 「でも、それはできないわ。勉さんに何の罪もないじゃな気づまりなその日の残り、ことに夜の孤独の時間の勉の 40 第ノのみ′ いの。大野がどう思うと思うの」 懊悩について詳しくは書くまい。道子は今は夫と勉と両方 いらだ 「そりや、わかってる」と秋山はまた焦立った。「まった に心を見透かされてはならなかったから、その眼は死んで く親類という奴はやり切れない。お前はなんといっても いた。恋人の眼がいつも恋をたたえていないと気がすまな じゃ、しばらくでもい 彼奴を家へおきたいんだ。まあいい、 、恋する男は不幸だ。 どっかへ行ってもらおうじゃないか。夏休みだし、誰か友勉の不幸はしかし翌日秋山がわざと家を留守にし、道子 達んとこへでも」 がさりげなく次のようにいった時、慰められた。 この提案にはいろいろな棘が含まれていた。彼はまだ道「ねえ、あなた、雪ちゃんの学校も休みになったし、どこ 子を信じていなかった。彼が表面それを信じるふりをしよかお友達と遊びに行くとこないの」 うと思ったのは、彼もやはり妻と同じく形を尊重する習慣道子は勉の眼を長く見た。その落ち着いた満ち足りた表 を養っていたからである。ただ彼は妻に愛人をしばらく手情に、勉はまた愛のしるしを見たと思った。彼は、 放させたいと思った。 「秋山が何かいったんですか」 道子は反対することができなかった。 と訊かずにいられなかった。道子は単に、 「しいえ」 「そうね、それがいいでしよう」 まゆ といった時、彼女の眉をかすめた苦悩の影が秋山には快と答えたが、眼は「ええ」といっていた。そしてそれき やっ っこ 0 なぐさ

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ゆがわら かざんれ、さびいろいただ 乗った。秋山は女連れの旅は、道子と結婚当時湯河原へ行火山礫の錆色を戴いた厳めしい姿で、窓一面にかぶさって って以来である。彼はとうとう目的の女と旅に出る喜びに来た。秋山は息苦しさを感じた。 ようがん かわぐち 鼻をふくらませていたが、担ぎ屋や買出しのあんちゃん達河口湖畔には富士の基底をなす熔岩の一部が露出して、 こうりよう うず と一緒の箱で揉まれているうちに、だんだん惨めな気持に荒涼たる岩塊が宿の庭を埋め、または柱状に割れて湖面に どぶ なって来た。いかにうまく説得したとはいえ、彼が富子の傾いていた。その先に拡がる浅い水は濁り、溝の色に似て 心で第二の位置しか占めていないことは明らかである。 しら へやすわ 宿の女中はしばらく室に坐って、二人の姿を検べてい 富子の気持も浮いてはいなかった。勉に拒まれた不満に 加えて、うかうかと秋山と旅になそ出てしまったことを後た。 よせ 悔し始めていたのである。与瀬をすぎてようやく席を得た内気な秋山は「お風呂を御一緒にどうぞ」という女中の かつらドわ そうがい ものの、二人は黙って窓外に移って行く桂川の狭い溪谷の言葉に乗って、気軽に富子を誘うことができなかった。タ か・ら ~ けしき イル敷きのがらんとした風呂場で、ひとりそそくさと身体 景色を眺めていた。 おおっき 大月で乗り代えた電気鉄道も混んでいた。まだ日本人がを洗いながら、彼はまた惨めさを味わった。 避暑の習慣を取り返していないころで、夏の終りの遊覧電富子は遅れて風呂に入り、どてら姿になると、しかし彼 あわ を見て、につと笑った。彼女はようやく彼を哀れと思い始 車もやはりさまざまの食糧を持つ人たちで一杯であった。 四十歳と三十歳の恋人達はここでも変に気押されて黙ってめていたのである。 夕食の時秋山は飲めない・ヒールを無理して飲んた。富子 さかのぼ 電車はころころと音を立てて、なおも桂川を遡り続けは男が飲まないと飲めるたちではないが、それでも秋山よ みさきちん た。秋山の眼は窓外に富士を探していた。彼は風景を愛しりは酔っ払ってしまった。付近の岬の亭で鳴らすレコード かくせい、 人てはいなかったが、彼がここを選んだのは、実は「はけ」 の流行歌が拡声機に乗って、喚ましい音をいつまでも湖面 野から見える富士を眺めながら、「はけーの人々に不実を働に響かせていた。二人はやはり何の話もなかった。 蔵 くという奇妙な悖徳趣味からであった。 その夜秋山は初めて妻でない女の体を知った。しかしそ 武 ひそ 富士は川を縁取る低山にかくれてなかなか姿を現わさなれは彼の秘かに考えていた快楽ではなかった。彼が妻の体 すき 四かったが、秋山がもうそれを待つのに飽きたころ不意に見との間にいつも感じていた隙は、やはりそこにあった。 えた。「はけーから見るこちんまりした形ではなく、頭に 別々の寝床に背を向け合って寝ながら、彼はまだ自分の かっ みじ ひろ かし にご

10. 現代日本の文学 36 大岡昇平集

126 導くものである。 て替えるといいながら、彼が道子にこっそりそういうこと 事件がそれを要求するまで、財産について語らなかったをいうのは、どうも腹黒いやり方のように思われる。近く あざむ 改正される民法では財産は当然道子のものになるのである からといって、読者を欺いたことになるだろうか。 宮地家の相続は複雑に行なわれていた。次兄は道子が秋から、何も遠慮することはない、金は自分が立て替えても いいから、財産は自分で守らねばならぬ、及ばずながら自 山に片付いた後死んだため、宮地家には法定相続人が絶え た。この場合道子夫婦の間の子供が選定されるのが例であ分が相談にあずかろうといった。この提案はこんどは道子 るが、その子供がないため面倒になった。秋山はそれとなに大野を警戒させた。 少しばかりの財産を男達がそう管理したがるのが不思議 く自分がその位置に就くことを暗示したが、宮地老人は 「そのうち生まれるだろう」と言を左右して親族会の招集である。家と宅地だけであるからただ持っていて、必要が がえ を肯んじなかった。しかし一一十一年の暮に老人が死んでみあれば売るだけの話ではないか。学校教師である秋山に別 に管理なその才があるとは思われない。ただ古風な彼女は ると、ちゃんと道子を相続人に指定してあったことがわか いらもん あす っこ 0 夫が一文も相続の分け前に預からなかったのを気の毒に思 っている。それに毎月の暮しは夫の現金の収入によってい 財産は主として土地と建物から成っていた。半分に近い 相続税を支払う必要があった。道子はの上の土地を手離ることではあるし、税金を立て替えてくれるならば、時価 へんび そうといったが、秋山はこんな辺鄙なところがそう急に売でそれに相当する分だけ夫の名義に書き替えてもよい、と れるものではないし、急いで売っては損をする、自分の翻意見を述べると、これも大野に笑われた。 ひとよ 「あなたはほんとにお人好しだ。あなたは両親も兄弟もな 訳の印税で立て替えておくと主張して、相談にあずかった 一人・ほっちだ。秋山にいつまでもあなたを大事にさすた 大野を感服させたが、後で道子にそのかわり財産の管理をい めには、あなたが財産を握っていなくてはならないのがわ 委せてもらいたいといった。 からないのかな」 道子はどうせ財産なぞ夫に属するものだと思っていたか しかし道子はそういう打算を夫婦生活の間に持ち込むの ら、どうでもいいと答えたが、何気なく大野にそれをいう と、彼はむきになって反対した。宮地老人が相続人の指定がいやであった。結局のところ大野はよその人だ、夫婦の という特殊な方法によって道子に全部を残したのは、つまことは夫婦の間だけで定めようと、独断で秋山に彼に払っ むこ り婿の秋山を信用していないからである。自分の前では立てもらう分だけの名義書換えを申し出たが、こんどは秋山