「そう言うなぐさめ方は、ダメだよ。一人のことしか、考 て、偉い奴は女ッ気ぬきでやってきたんだ」 「ええ、昔はそうだったでしようけど。でも、ヤセ我慢をえられないもんなんだから」 しばふ かげろう 庭の芝生は、梅雨まえの陽炎でゆらめいていた。夏で することないと、思う」 あり 「ヤセ我慢しゃないよ。大きな目的を達成するためには、 も、冬でも、蟻の多い芝生だった。 寒いあいだは、肥料まじりの土がうすくかぶせてある。 小っ・ほけな感情は無視しなきゃならない。現に・ほくの仲間 でも、そうやって不言実行してる、偉い男がいるんだ」 芝はその土粒のすきまから、今、新しく鋭い芽を突き出し じゃまもの 「では、女は大きな目的を達成するためには、邪魔物の害ている。芝の繁茂をいいことにして、蟻たちは好き勝手 に、私の素足を昇り降りしている。 悪ですか」 「一般論じゃないんだ。邪魔物の害悪もいるという話だ。 ( 兄も私も、真冬でも足袋がきらいだった ) 氷見子や節子さんみたいな女ばっかりだったら、問題はな「君はあいかわらず、水を撒くのが好きだな」 じよろ いさ。まア、しかし、・ほくは女のことには全く無知なんだ 気をとりなおすようにして、兄は、如露を手にした私に から、大ぎなことは言わない」 話しかけてくれる。 「女のことに無知だと言うけど、女には好かれるタチね」 庭の草木、畠の作物など、植物に水をやるのは、もちろ 「好かれてないじゃないか」 ん楽しい。だがやはり私は、色かたちのちがう庭石に水を 「節子さんだ 0 て、好きなのよ。何か特別のがあ 0 かけるのが好ぎであった。 ようがんそしゅう て、好きだけどためらってるのよ」 火成岩、水成岩。海の底の石や、山上の熔岩。蘇州から 「そんなら、 いいんだが。しかし、そうではないだろう。連んできたという、枯木のからみあったようにして立っ支 もし、ほんとに好きだったら、どんな都合があろうと、難那の石。すべすべして青いもの ( その青さも実にとりどり で、分類などできはしない ) 、怒ったように赤黒いの。 段関を突破してくれるはずだ」 の「お兄さんが死んだりしたら、大声あげて悲しがる女が、踏みやすいように、平に敷かれた幅ひろい石。水草や歯朶 しわ をからみつかせて、牙をむくような皺だらけの老石。鉱石 貴たくさん居るのよ。そのことを、忘れないでね」 「死ねば、それは節子さんだって、悲しがってくれるだろの分子がきらめく石。白や黄のまだらの花弁のように浮き あがる石。 岩にも石にも、年齢がある。気むすかしくなった、もろ 「節子さんばっかりが、女じゃないわ」 がまん はんも たび
としても、これではサア・ヘルに寄りかかって、しばし休息るのではなかろうか。 している姿勢か、サアベル階級の権威の上にあぐらをかい 「中間階級の思想的退敗 ( ー ) を論ず」になると、もうこ ごあんたい れは、酔っぱらってエネルギッシュになった、ある種の日 た御安泰のかっこうか、よくわからない。 しよみん 「官僚論」となると、もっと無茶な語法の連続で、おそれ本庶民のクダそのものであった。 いるほかはない。 智 ( 知ではない ) 識階級はいたずらに、卑屈なる功 「ーー右に平等、左にマルクスをかざし、しかもレニンの利主義にかくれ、すすんで自己の信念を徹するの勇なく、 ただ ふくいん 情熱を有せず、自由獲得のために血をそそぐの勇気を有せしかも只これマルクスの福音に終始し、またいわゆる。フチ きようらく あやま ず、皇土に生まれ、しかも皇土の何たるやを知らず。言論プルは享楽的、桃色的に終始す。国を誤るの大、思うべ こうとう しゅうしんひきよう 抑圧の暴政に叩頭し、秋唇の卑怯に屈す。無用の長物、こし」 そろく のくらい素禄を食むもの、それは官僚なり。吾人はこれを義人兄さまを魅惑する男だから、きっと実力に富む、勇 気のある男なのだ。 断乎破壊せざるべからず」 それにしても彼ほどの「国士」が、桃色的などと、なん 右手にコーラン、左手に剣を、もじった迷文句ではあろ うが、「平等」は普遍的な概念であり、「マルクス」は人名と日本帝国の伝統を無視した、桃色的な新語を平気で持ち きら 出したものか。「的」などという語法は、あなたの嫌う気 なのだから、それを並べるのが第一、おかしな話である。 ごと けいべっ まして私の顔見知りのお役人たちは、別に何もかざしてはぜわしい西洋人か、あなたの軽蔑する「撒かれた砂の如 ちょうう いない。かざすどころか、ひっこめている。お役人が「言き」中華民国人の、重宝がる語法ではありませんか。 論抑圧の暴政に叩頭し」と言うのも、うなずけないこと 少尉よ。あなたの主張は、正しいのかもしれない。あ で、むしろ「言論抑圧の暴政」をやっている方ではないのなたがたは、あなたがたの「壮」を衍し、日本の歴史 かしら。「秋唇の卑怯」というのは「もの言えばくちびるを動かすかもしれない。しかし私は、私の愛する義人兄さ 寒し秋の風」の意味だろうが、こうもそんざいに日本語をまを、あなたがたの仲間に、したくありません。どうして 漢語化してよろしいのだろうか。 も、そうしたくありません。 しっせき 言っていることの内容が、良いか悪いか、それは私の独おとうさまぐらいの年輩の男性が、おじいさまに叱責さ 断ではぎめられない。しかし、こう言う文章を書く男だつれたからと言って、すぐ政治上の立場を変えることはあり うがき たら、何をしでかすかわからないと言うことは、判定できえないであろう。父が猛田派を拒否して、宇垣・岡田・米 だんこ ふへん ま よ
おかなくちゃいけない」 ら、問題にも何にもなりません。わずかに彼らに対抗でき 兄は女生徒を、みんな、自分のまわりに輪をつくらせるるのは、皇室の財産ぐらいのものだ。ところで日本の軍隊 ように号令した。 は、もとより、陛下の軍隊です。日本国民が、なぜ日本の 「少尉殿の訓示が突然だ 0 たので、られたように思 0 軍隊に注目し熱心にな 0 ているか。それは陛下の軍隊であ ひと て、心配している女がいるかも知れない」 るからではあるが、そればかりじゃない。地方の農民の希 と、兄は低い声で言った。 望が、これにかかっているからだ。百姓の子弟は、百姓で 「あれは決して皆さんを、叱っているのじゃない。ですか一生を終るのか。そうではありません。都会へ出て、大工 ら、あの訓示をよくよく自分の胸で考えて下さい。あれは場に入る者もある。流れの土方になる。たまには高級学校 ただ、事実を伝えただけなので、おどかしたんじゃない へ入学する。帝国大学だって、ごくたまには農村の秀才が みなさんはまだ若い女性だし、ことに世間の荒波にもまれ パスできる。立身出世の可能性は、あらゆる面にひらけて たことのない令嬢ですから、社会の事実がわからない。 いるかのようだ。しかし、事実はちがう。大工場は、不景 れは、もちろん、あなた方の罪じゃない。・ほくだって軍隊気である。ほとんどの農家には、子供を中学へやるゆとり 生活をして、やっと少しわかりかけてきたところです」 はない。帝国大学からお役人と言うコオスも、ふさがれて 妹の私だけと話すときより、大ぜいにしやべる方がうま いる。商人になって、店をひらこうか。それには、もとで いんだわ、と私は思った。 がない。では、何が残っていると思いますか。ハイ、あな 「みなさんも御承知のように、日本は有名な貧乏国です。た。貧乏な百姓のむすこが、生きて行く、少しでもマシな いくら発展した、さかんになったと言っても、まだまだ日 目にあうには、どんな路が残されていると、思う ? 」 本の貧乏はひどい。新聞でも、よく見るでしよう。東北の 「ハイ、百姓です」 段百姓が、冷害や旱ばつで困って自分の娘を売りに出す話。 と、指さされた一人が答えたので、みなさんがっかりし こ 0 のあれは、みんなほんとのことです。・ほくの隊でも上等兵に 族なるような優秀な兵が、いつも心配してるのは出身地のこ 「ハイ、軍隊です」 と、故郷のことです。また・ほくらにしたところで、世間か と、徳川さんが言う。 しな ぐんばっ らはたいした物持のように言われてるが、支那の軍閥、ア 「そうだ。もうこうなれば、好ぎきらいを言ってる場合じ きんゅう メリカの金融資本家、イギリスの大貴族などにくらべた ゃない。どこへ行っても、八方ふさがり、ただ一つ軍隊と かん こ
節子は、まるで自分のうわさでもされたように、他の方た。 の背後でちちかまっている。 第一中隊の内務班を見学。ペッドのまわり、・ヘッドの上 そうじ たなろうか 「ハイツ ? 本日、見習士官殿は在営されております」 の棚、廊下や床板など、被服、毛布、掃除用の器具、実に せいとん 「でもお見かけしませんが、何をなさっているのですか」綺麗に整頓されていて、おそろしくなる。病気休暇をとっ そうちょう へいそっ と、徳川さんは骨ぶとの曹長の顔を、真正面から見上げている一兵卒が、じゅはん袴下 ( つまり、男性用ももひき ていた。 である ) のつくろいを実演して見せてくれた。針のはこび ただ じんそく 「ハイツ。只今、初年兵に銃剣術の指導をされています」の迅速で巧妙なこと、みなさん息をひそめて見守った。 「この方は、西の丸義人さまの妹さんの氷見子さんです。 十一時〇分より十一時十五分まで、武道訓練の参観。 お兄さまにお会いできるのを、楽しみにしてきたんです兄の指導する班は、訓練がすんでいたので、徳川さんは ・かっ、かり・ 0 「ハイツ。そうでありますか」 銃剣の代用をする木銃で、教官に胸あてを一突きされる 「銃剣術の方の見学は、まだですか」 と、一等兵も二等兵も道場のすみまで、すっとんでしま きゅうしゃ かけごえ ィッ。これから、兵器庫と厩舎の方へ廻ることになつう。しまいにはイヤアッという掛声がかすれて、悲鳴のよ とりますから : ・ : こ うになる。腰くだけでヘたりこんで、こづき起される青年 曹長は、腕時計のはまった方の腕を、眼の高さで正しくもあった。厚い床板も折れよとばかり踏みこんで行く、男 ひざ 折り曲げて、一歩さがったりしている。 たちの膝がしら、足首、かかとの力と言ったら、たいした 「徳川さん。軍隊ではす・ヘて、規則で時間割どおりにやつものだった。体あたりで突進して、見事にすかされてぶつ めん ていらっしやるから、勝手なことはできませんよ。案内の倒れる者。面がとれかかったまま、足がらみをかけられて 段方に、おまかせしなさい」 押しころはされる者。弱い男はどうにも抵抗できずに、醜 と渡部先生が気がねして、言う。 の 態をさらしてしまう。「男って、つらいもんだなア。男に かんがい 「いや、面会を希望なさるんでしたら、自分から隊長殿に生まれたら、おっかなかったろうなア」という感慨がしみ 貴 連絡をとって、ナニしますから。自分は、本日の午前中のわたってくる。 見学予定を指示されただけで、順序どおり実行します」 このあと、ならびにの教練ならびに体験、化学 まゆ まぶしそうにした曹長の眉の上には、汗がにじんでい 資料の見学というのが、のこっている。十一時一一十分か あせ しゅう
えいへ、つめしょ 衛兵詰所には、舎のおばさんらしき女が一人、不安げ据えられていて、工場のようだった。野菜や食器の消毒、 むすこ に腰をおろしていた。入隊した息子が悪いことでもして、 一人あたり一食の分量とカロリイ。一週間に消費する米、 しようゆ 呼びつけられたのだろうか。衛兵司令が「女子学芸院生塩、味噌、醤油、肉の量など、説明をきかされても、一家 徒、四十名、ただ今到着しました。ハイツ、職員は二名付庭とはケタがちがっているので、みなさん「ハアー」「ホ いとります。ハイツ、男子一名、女子一名であります」オー」と感心はするものの、炊事というものとは縁のない りつしよう と、電話で通報する。ひかえ衛兵も、立哨の兵も、参観者話をきかされている様子だった。 くさ かくば を観察するゆとりのないほど緊張して、角張っているの被服庫は、空気の流通がわるくって、ムウーツとむれ臭 で、かえってこちらの緊張は、、 しくらかゆるむ。 くなっていた。銭湯 ( 社会見学のため、乳母につれられて あいさっ ざしきろう 聯隊長の場なれした挨拶がすむと、若き少尉の講話「現一度行ったことがある ) 脱衣場のようでもあり、座敷牢の 代戦に於ける歩兵」。 ようでもあった。 飛行機や戦車がいかに進歩しようと、現代戦において勝 tn 宮殿下が在営当時、着用された軍服と下着を拝見す こんかん 利を占めるための、根幹をなす部隊は、永久に「歩兵」でる。 ろんし あらねばならぬと言う論旨。 「猛田さんはお父さまが陸軍大臣でいらっしやるから、こ 十時五分から十一時〇分まで、営内見学。兄の出場を待ういう場所はなれていらっしやるでしよう」 そうちょうきこ って、徳川さんはしきりに四囲を見まわすが、兄の姿はあ と、渡部先生が言う。案内の曹長に聴えるように言うの らわれない で、節子は「いし 、え、はじめてです」と、困ったように答 見学の第一は将校集会所。そこには、かっての聯隊長のえている。 写真が額入りで掛けならべてある。写真はどれも、これで曹長はソレと察して、あらためて節子を見なおしてか まなむすめ は、外国人が日本軍人をこわがるのも無理がないと思わせら、あわてて別の説明にとりかかる。陸相の愛娘と知らな る、特別の顔つきばかりだった。 いでも、兵士、下士、将校のこらずがそれとなく目をつけ 女子が興味をもつだろうという想定のもとに、次は炊事ているのは、節子なのだ。それから、私。 場と被服庫だった。 「見習士官の西の丸義人さまは、今日はおるすですか」 炊事場の外側には、石炭とコークス、それからその燃え と、徳川さんが負けずに質問したのには、渡部先生もギ じよう・きがま かすなど山とつまれ、蒸気釜が整然と、黒い肩をならべてクリとされた。 れんたい
いなんでしよう。特権階級のお嬢さま方を軽蔑してる。だ自然の一部と化しつつある人工の極で、青みどろに色づい けど、やつばり好きなのよ、理くつはどうでも。さわってた堀の水に、腰を浸した姿は、実に堂々としている。特 に、聯隊の正門は丘の高みにせり出したかたちで、石垣の みたくてしようがないのよ」 かど 電話ロで、彼女の背後で、徳川家の女中さんが笑う声が鋭い角が長い線となって、吹きさらしの風と向いあってい どろ る。普通の低い石垣が、泥で埋まりそうになって、単調な ったわってくる。うちでは、私が電話に出ているとぎは、 いんうつ 直線につづいているのは陰鬱な感じがするものだが、あれ 電話のある廊下には誰も近寄らない。徳川家はうちより、 あるー . よほど開放的なのだ。 だけ高々とそそり立ち、或は深く深く堀に向ってなだれこ むじゅん くっせっせんたん 「死ナセナイ団の指導者が、軍隊が好きなんて、矛盾してんで、しかも大まかな屈折の尖端として、さまざまの角度 からの風と光線を自由にうけ、立体的な風景の中心になっ る」 「シィッ、軍隊が好きなんじゃないわよ。あなたのお兄さているところは、石垣と言えども、こちらの停滞した心情 ほんきょ まが好きなのよ。敵の本拠を探りに行くのよ。忍者だわをすがすがしく吹き払う力をもっている。 もすそ まつなっ たいせし 乙女の裳裾にたわむるる初夏の風になりたや、と泰西の 「私、何回も行ってるけど、興味ないわ。すごいばっかり詩人が詠じている。その風には少し季節的に早いけれど あいさっ で、うまみがないんだもの。帝政時代のロシャやフランスも、聯隊長の御挨拶が九時三十分の予定であるから、朝風 の、ああいう風流な軍人はいないわよ、一人も」 に紺サアジのジムドレスのスカアトの裾をなびかせて、一 じゃり 私や徳川さんは、別だんのことはなくとも、明日もし兄同は正門への砂利道をいそぐ。 と猛田節子が接触すれば、一一人はそれぞれちがった想いで砂利道をの・ほりつめ、一たん徳川時代風の門をくぐり、 緊張することはうけあいだった。 厚い石垣の内側に入ったら、まるつきりちがった光景が展 きん 段近歩二の兵舎の外まわりは、東京では宮城前につづく閑開される。男を煮しめて、ニコゴリにしたような世界。男 やすくに おり の静で、清潔な一角ではなかろうか。英国大使館から靖国神がいやが上にも男になりたがって、真似しつこする檻。ま 族社まで。神社から営門の前を通って、神田の古本屋街へ降だまだ男の匂いが足らんそと、男臭の発散竸争をやる所 せいそく りて行く坂。はばひろい堀の水面までの、高い高い石垣。 だ。男同士ばかりで棲息している時の男たちほど、人間が はそう よく舗装された街路に、間隔正しく植えられた街路樹。 格を下げている場合は少いだろう。 ( と思うのは、女のひ ことに、あの末ひろがりにそりを見せた見事な石垣は、 ・か目か ) けいべっ にんじゃ かん こん ひた すそ ていたい
3 ー 女々しい、怨みがましい態度を見せるのが恥かしいから「帝国軍人でもね」 「そうさ。帝国軍人だって、愛する者が必要だよ」 「じかにお会いになったら ? 手紙なんか、手ぬるいわ「どういう風に愛するの ? 可愛がって、大切にする よ。手紙の文句なんて、あてにならないでしよう」 「手紙を出したあとで、返事もないのに、そういう用件で「まア、そうだろうな」 「それから、可愛がってもらって、大切にしてもらって」 会ったりするのは、押しつけがましいだろう」 「うん」 「だって、去年は夏も秋も、みんな箱根で仲よく会ってた じゃない。私の見たところでは、あの時分、節子さんは義「そうして、幸福になる」 人さんを慕っていたみたいだけど。お兄さんの方が、むし「うん、今よりは幸福になるだろう。今はひとり・ほっちで 苦しいからな」 ろ彼女に無関心だったようよ」 「あの時分は、たしかにそうだった。だが今は、ちがうん「軍務にはげんでいるだけじゃ、不満なの ? 」 「軍務は、不満じゃない。軍務は苦しいときもあるが、結 局楽しいんだ。軍務もなくて、ひとり・ほっちだったら、と 「どうして急に、そうなったの」 ても苦しくてやり切れない」 「あのころはまだ、女性の価値がわからなかったんだ」 「それで、どうなさる」 私は、もう少しで噴き出しそうになった。 「でも今は、どうしてそんなに、おわかりになってしまつ「手紙を何本も出すのも、おびやかすようだし、面会を強 要するのは、なおさらよくないことだ」 たのかしら」 「でも、このままじゃ苦しいんでしよ」 「それは、どうしても女性が・ほくに必要になったからだ。 「ああ、苦しい。しかし、苦しむのは無意味なことじゃな タンカン ( 簡単の軍隊用語 ) に言えばな」 「どうしても、必要なのね」 い」 「お覚悟は、お偉いけど。でも、ただひとりで苦しんでい 「そうなんだ。どうしても必要なんだ」 兄もさすがに、自分のしやべっている言葉のおかしさにるだけじゃ、損みたいだけど」 「・ほくは、偉くなんかない。偉ければ、女性のことで苦し 気がついて、かすかにロもとだけ笑った。 むような、つまらない真似はせん。坊主だって革命家だっ 「愛するものが必要になったんだ」
「封建時代の女は、死んでやるじゃなくて、死なせていたわね」 だぎます : : : 」 上野の山は、春から夏にかけて、埃がひどい。蒼ぐろい 「そうかしら。ともかく・ハンザイは叫ばないとして、それ銅像の肌はどれも、白くまぶされている。徳川さんは、汗 でも何かあったかしら」 や埃にまみれても、むさくるしい感じがしない。生まれた いくら女だって」 「何かないはずはありませんよ。 ときから、いくら大切にされようと、自然と何かにまみれ 「何かあった。それでも・ハンザイと叫ぶことできなかって暮らしたひとなのだ。彼女が話すと、どんな想いつめた た。それでいいのかしら」 話でも、わざとらしくない。だから徳川さんとなら、他の 「短刀で突いてしまえば、咽喉が破れて、呻びたくても叫どの男より女より、あけすけに話してしまう。 べないだろうし」 「ほんとに、死にたがっているのかしら」 「ねえ、氷見子さん。私たちも胸の中では・ハンザイと叫び と、私が言う。 たくても、 ( 叫びたくないとしても、たとえばの話で ) う「それは人間だもの、死にたくはないでしよう。でも、死 まく叫ぶわけにはいかないようね」 にたがらないで生きのびようとするのは、男として恥かし 「ええ、うまくいくようには思われないわね」 いと信じてはいるでしよう」 「そうすると、・ハンザイは男にまかせておいていいわけ「そう言う男もいるし、そうでない男もいるわ」 ね」 と私が答えたのは、西の丸の男たちの決心と関係づけ 「それは女だって、死ぬときは死ななきゃならないでしよ。 て、そう答えたのだった。 男だけに、死んでもらうわけにはいきません。ただ、・ハ ン義人兄さまには、どうも死にたがっているようなフシが ザイは、女の死ぬこととは別じゃないの」 あった。 段「女の・ハンザイは、・ハンザイじゃなくてマンザイでしよう おじいさまも、おとうさまも、まだ、死にたがってはい ない。死にたがっているゾと、見せつけたり誇張したりす のかね」 族 私と徳川さんでは、ついつい本物の漫ネ合にな 0 てしるのは、中年、老年の男として恥かしいのだ。死ぬ覚悟が まうのだ。しかし話が「死ぬとき」だったので、應川さん年長のお二人にないはずはない。みずから求めないでも、 ほうきようあおじろ 3 の豊頬も蒼白くきびしくなっていた。 他人に死なされるチャンスはいくらもおありなのだから、 「男が死にたがっているとしたら、女はどうしようもない死にたがる必要もさらさらないわけだ。まだまだ死んでは こり
346 しくなる」 「そこが我まんのしどころよ」 と、私は節子のソフアの方へ、勢いよく席をうっす。か「いいわよ。ね、あとで一緒にお風呂に入ってあげるか しこまった節子の下半身が、滑稽なほどクッションではずら」 む。 「いいえ、もう今日はほんとに、そんなつもりで来たわけ ならしの 「猛田閣下も陛下のお供で、習志野へ行ってるんでしよじゃないの」 そうはく 彼女の頬は赤らむことなく、蒼白になるばかりだった。 事実、離れへもどってからの彼女は、私がいくら勧めても 「ええ」 たしなみの良い節子は、誕生日にうちのおかあさまから入浴をことわりつづけた。 贈られた、フランス香水を匂わせている。母はまだ、節子「おじいさまがわざわざ、沼津からいらっしてるんですか ら、何か重要なお話があったんでしようね」 を兄の嫁にと言う下ごころを、棄ててはいないのだった。 「おねえさまから箱根へさそわれたとぎ、よっ。ほど御遠慮そう聴かれると、今度は私の方が老成ぶって、言葉を濁 す番だった。 しようと思ったんですけど」 「そうよ。天下の重大事よ。教えてあげようか」 「おとうさまの留守番をするつもりだったの ? 」 しいえ、よろしいですわ」 「そうじゃないけど。なんだか箱根へ来るのが : : : 」 「なんだか、おそろしかったの。おかしなひと、義人さん「教えてあげたいけど、秘密なんだ。教えると節子さん が、ますます恐ろしがるから止めとこう」 が、来るわけじゃあるまいし」 「では、聴かせないで下さい」 と、言ってからあわてて私は、ロをおさえた。 ま、西の丸 私よりはるかに子供じみていたはずの節子が、春以来と「ただ、これだけは教えてあげる。今日の会談を みに老成してしまって、口一文字にむすんで動揺を隠され秀彦が一生を決する、ものすごい会談だと言うこと」 そう言われると、彼女はハアッと息を飲むようにして、 ると、彼女の胸中が量りがたくなる。 眼を伏せてしまう。 「でも、どうしても来たくなって、来てしまった」 翌朝、目をさますと、枕をならべた彼女は、すでに蒲団 「そうよ、私に誘われて、断われるあなたじゃないでし を脱け出していた。 「でも来て見て、やつばりだんだん恐ろしくなって、恥か彼女の早起きは、修学旅行などで経験ずみだから、私は にお こつけい お ふとん にご
ましたよ。 : でも、生命保険も、たんと掛けておいてあ「第一悪魔が、お助けしたなんて、どうして、そんなこ げたし。おかみさんの今後の生活のことも、すっかり用意と」 「ええ、ただ、第一悪魔がついていなければ、とても助か しておいたからね」 母が進呈した銀の懐中時計は、大山氏の胸の内ポケットらなかったように、思われたものですから」 で、赤黒く血に染まっていた。 「あぶない、あぶない。悪魔のことは、お母さまにまかせ 「氷見子、しつかりしなくては、いけませんよ。おとうさておけば、よろしいのよ。こういう非常のさいには、あな たのようなまぎらわしい性格の娘は、どんなちっ・ほけな下 まが御無事だったのが、あなた、うれしくないの ? 」 等の悪魔にも、まどわされやすいものですから。よく気を 「ハイ。それは、うれしいのですが : : : 」 「だったら、おとうさまの御無事を祝って、元気をおだしつけてね。おねがいしますよ。そのうち、義人さんも、か なさい」 けつけてくれるでしようからね」 「おとうさまが助かったのは、おとうさまに第一悪魔が、 「ハイ。よく気をつけて、留守番をいたします」 ついていたからではないかと思って : : : 」 私には、昨夜来の兄の動静を、電話ロの母に報告するこ 「とんでもないことを言う。なんて、ばかばかしいことをとができなかった。 言うのですかツ」 父からの電話は、代理の氏の声であった。父は転々 あな と、母は私の耳の孔に、電線を通して、つばでも吐きっと、居所を変えているという話だった。おじいさまが、襲 けるように言った。 撃目標にならなかったので、沼津に行く必要のない氏 「お助けしたのは、第一悪魔じゃありません。私です。第は、父に付ききりで、逃げたり、探ったり、はたらきかけ さんだ、 一悪魔がついていたから、危い目にお遭いになったんでたりしているのだった。宮中に参内することも、さえぎら 段す。私が、減魔教に入って、お祈りしていなかったら、おれている父は、各方面との話し合いがつくまで、帰宅する のとうさまは今ごろ、御命をなくしていなさるはずです。大あてがなかった。 族 山巡査が身代りになるように、その方もあらかじめ、お祈「秘書役は、お互いさまに大へんですな。しかし、やりが いもありますから」 りしていたんですよ。きこえますか。大切なことですよ。 氏の声は、 いかにもなっかしげで、かっ張り切ってい 8 なぜ、たまっているの」 「ハイ。きこえました」