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検索対象: 現代日本の文学 37 武田泰淳集
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1. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

ている。 られるが、人肉食いの方はほとんど地球上から消減しつつ 大岡昇平氏の「野火」に於ても、主人公たる飢えた一兵あるからです。朝鮮半島に於ける大量殺人は、ついこのあ 士は、仲間から与えられた人肉 ( 日本兵の肉 ) を口までは いだの犯罪である。それのみならず、今後も地球上のどこ かで同様の殺人犯罪が、大規模に発生するであろうという 入れますが、ついに咽喉より下へは呑み下すことをしない のです。この一兵士は、無意味に土人の女を射ち殺したり予感にさえ、我々はなれつこになってしまっている。その している男ですが、「僕は殺したが、食べなかった」とか予感に恐怖はするが、嘔気まではもよおさない。反感は抱 くが、それを珍奇な事件とは思いません。 なり倫理的に反省しています。 そうごう しかるにもし、人肉食いとなれば、たとえどんな条件の ベキン事件、「海神丸」、「野火」を綜合して整理すると、 けんお 飢餓の極に達して、しかも絶対にそこから脱れられなくな下で発生しようと、身ぶるいがするほど嫌悪の念をもよお やばん った男たちの犯す罪悪は、次のようになります。 す。何という未開野蕃な、何という乱暴な、神を怖れぬ行 一、たんなる殺人。一「人肉を食う目的でやる殺人。為であるか、自分はそんな行為とは無関係だし、とても想 三、食う目的でやった殺人のあと、人肉は食べない。四、像さえ出来ない、と考えます。まるで殺人は、罪としては 食う目的でやった殺人のあと、人肉を食べる。五、殺人は一般なみであり高級であり、人肉食いはごく特殊で下等で あると、相場が決まっているかのようです。 やらないで、自然死の人肉を食べる。 この五つを比較すると、Üはよりも重罪らしいし、四殺人は「文明人」も行い得るが、人肉食いは「文明人」 はよりも重罪らしい。ただしつまり、たんなる殺人の体面にかかわる。わが民族、わが人種は殺人こそすれ、 と、国つまり、殺人はやらないで自然死の人肉を食べるの人肉食いはやらないと主張するだけで、神の恵みを享ける と、どちらがより重い罪かとなると、そんな比較が馬鹿馬に足る優秀民族、先進人種と錯覚してはばかりません。 け鹿しくなるほどむずかしい問題になってしまいます。 「野火」の主人公が、「俺は殺したが食べなかった」など 人間を殺すことと、人間の肉を食べること。この一一つのと反省して、文明人ぶっているのは、明かにこの種の錯覚 か行為が、どこかおのおの異った臭気を発散することだけのあらわれでありましよう。 は、感覚的にわかります。 殺人の利器は堂々とその大量生産の実情を、ニュース映 何故異るのかと考えつめると、理由はごく簡単である。 画にまで公開して文明の威力を誇ります。人肉料理の道具 の食器部にも、博物館の特別室にももはや 殺人の方は二十世紀の今日、ぎわめて平凡で、よく見うけの方はデパート おそ

2. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

「ちがいます。兄は、正しい人です。親に孝、君に忠な立て、噴出する石油のように突きあげてきた。 派な人です」 兵士の腕の輪を、ぎはなして、おかみさんは、死体と そば 「では、あなたは、我々が正しくないと言いたいのか」 なった巡査の傍へ寄った。すぐさま、夫にとりすがった 「よせ、よせ。女と議論しても、はじまらん」 り、抱きよせたりはしなかった。死顔をのぞきこんで、大 将校はそう言ってから、下士官に「湯河原へ行った部隊山氏の死を、しずかに確認している様子だった。 に、至急連絡しろ」と、命令した。 夫を殺害された妻の、胸も張り裂けんばかりの苦しみ 「西の丸見習士官が、そちらへ立ち廻ったら、すぐ逮捕すが、銃剣を突ぎ出している兵士たちを、一人一人毒ガスの るように。重大な犯罪人だから、決して取り逃がさんようように押しつつんで行くのが、私にも感じとれた。 に、そう言ってやれ」 「よって、たかって、殺しおった」 「ハイツ。西の丸見習士官が、そちらへ立ち廻ったら、すおかみさんは、そうつぶやいて起ち上った。 ぐ逮捕するように。重大な犯罪人だから、決して取り逃が電流のショッ クでもうけたように、急に起ち上ったの さんように、伝令します」 で、兵士の一人は、突き出していた銃剣を、あわてて引っ 直立不動の姿勢で、敬礼すると、下士官は身をひるがえこめなければならなかった。 して、走って行く。 起ち上ったおかみさんが、ゆっくりと眺めまわすにつ 伝令とすれちがいに、大山のおかみさんが、あらわれれ、その視線の筋どおりに、白金の線が描かれて行くよう た。髪ふりみだして、彼女があらわれた ( 廊下をやって来だった。 たと言うより、地下から出現したと言った感じだった ) の 男たちの厚ぼったい軍装は、その白金の視線の冷たさ を見ると、将校たちも、ギョッとした様子だった。彼女は に、浸み透され、たじろいだのかもしれない。みんな、息 段さんざん、兵士たちを手こずらせ、あばれるだけあばれてをひそめていた。 のから、出現したのだから、足もともよろめき、息も切らせ 「なんの罪もないお父ちゃんを、よくもよくも殺しおっ た。むごたらしく、殺しおった」 貴ていた。 松がまず悲鳴をあげて、泣き伏した。 彼女が一歩、押してゆくと、下士官は気味わるがって、 兄の頭上にふりかかった悲連の火の粉で、目がくらみそ一歩しりぞいた。 うになった私の胸に、大山氏の死を悲しむ想いが、はじめ「この女はあばれまくって、手に負えません。女に乱暴し たいほ なカ

3. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

と彼は声を殺して命令しました。兵士たちはあわてて自分した。もう一人は片膝ついて倒れましたが、ヒエーツとい あいいろ おろ 勝手に銃をかまえました。二人は着ぶくれた藍色の服の背う悲鳴をあげ、私たちの方をふり向きました。愚かな顔が をこちらに向け、日の丸の紙旗を風に吹かせながら、何も悲しげにゆがんで見えましたが、すぐ上半身をふせてしま 知らぬげに歩いて行きます。「あたるかな」などと、兵士 いました。・ハラ・ハラと兵士たちはかけて行きました。私は たちは苦笑したり顔をゆがめたりしながら射的でもやるよ自分の弾丸がたしかに一人の肉体を貫ぬいていると感じま うにして発射命令を待っています。私も銃ロのねらいをつした。一人はまだ手足をビクビク動かしています。弾丸の けました。まだ二、三百メエトルですから、いくら補充兵はいったロは小さくす・ほまり、出たロの方は大きく開いて の弾丸でも、誰かのがあたるのはわかり切っています。私います。胸や脚にあたった弾丸は横ざまに肉に食い入り は銃口をそらそうかとも考えました。射たないでおこうか銃ロの数倍もある裂け目がうす赤く見えました。倒れた身 とも考えました。しかしその次の瞬間、突然「人を殺すこ体に銃口をつけたまま、なお二、三発とどめが発射されま とがな・せいけないのか」という恐しい思想がサッと私の頭した。あとで聴くと、兵士のうち四、五名は発射しないか、 脳をかすめ去りました。自分でも思いがけないことでし発射してもわざと的をはずしていました。私と同じ小屋に た。今すぐ殺される二人の百姓男の身体が少しずつ遠ざか寝る兵は「俺にはあんなまねできないよ。イヤだイヤだ」 ねむ って行くのをジリジリしながら見つめ、発射の音をシーンと告白しました。睡るまえに彼は私に「君は射ったか」 とした空気の中で耳に予感している間に、その異常な思想とたずねました。「射った」と答えると意外だという表情 がひらめきました。それが消え去ったあとに、もう人情もで驚きました。「射ったよ。人を殺すことがなぜいけない 道徳も何もない、真空の状態のような、鉛のように無神経のかね」と私はなおも言いました。彼は顔色をちょっとか なものが残りました。人情は甘い、そんなものは役にたたえて、不快な面持で毛布にもぐりこみました。私はランプ ぬという想いも、何万人が殺されているなかのホンのちょ の明りの中で自分が暗い、むずかしい、誇張して言えば恐 っとした殺人だという考えも、およそ思考らしいものはすしい顔つきになっているのに気づきました。だが私は自分 べて消えました。そしてただ百姓男の肉の厚み、やわらかを残忍な男とはみとめませんでした。部隊の移動、連日連 ひざ さ、黒々と光る銃ロの色、それから膝の下の泥の冷たさな夜の仕事の疲れなどで、私は自分の殺した男の顔はおろ どが感ぜられるだけでした。命令の声、数発つづく銃声、 か、殺したことそのものまで忘れてしまいました。そして それから私も発射しました。一人は棒を倒すように倒れままもなく、もう一つの、集団的でない、私一人の殺人を行

4. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

ご いる。手は手首から、足は足首から、それぞれ左右とも切しかし、飢えと疲れと寒さのため、一月十六日の朝、死亡 ろっこっ 断されたもの。骨はみな純白と化していて、ただ肋骨のみした。彼は、西川の死体にすがりつき、複雑な感情に支配 が、煮しめた如く色づいていた。箱の底には剥ぎとられたされ、大声あげて泣き叫んだ。 皮が二枚、一枚は胸から下腹部まで、一枚は肩から腰ま「しかし私とても食物は一切ありません。結局は西川君と で。なおそのほかに船長のネエム入りの背広上衣一着が発同様、死を以て終らなければならぬのだと考えた時、むら むらと野獣の様な気持が燃え上がり、狂人の様に、そして 見されました。 トッカリの皮を剥ぐ時と同じ気持で、西川君の死体の肉を 検事の一行が現場に急行したのは、申すまでもない。そ のさい ( 地点はどことも君は明記してないが ) 、船員吉切り取ってしまいました」 田某 ( 三十五歳 ) の死体も発見された。吉田は、顔を海側一月末になると、人肉も食べつくした。海面には依然と がいとう へ向け、外套を着用、両腕を投げ出し、あたかもここちよして、流氷が打ち騒いでいる。海鳥、海獣、人間の死体が 入手できない以上、彼の死は必然である。どうせ死ぬな く寝人りたる格好で倒れていました。 ら、行けるところまで行ってと決心して、小屋を出た。 船長の自白は、要約すると次の如くなります。 小屋にたどりついたのは、船長と西川の二人だけであっ ( ただし、その次に「残りの肉を焼いて全部持ち、云云」 た。翌朝、西川が海辺から、かもめを一羽拾い取って持参の言葉がつづいているのを見ると、船長は食用人肉の尽き し、小屋に貯えてあった味噌で煮て食した。飢えに苦しめる前に出発したわけで、かなり計画的な人物と判断されま られた二人は、海岸へ出ては食物をあさった。流氷のあいす。 ) きそん この船長は、死体毀損、及び死体遺棄の罪名で刑に服し だに浮んだ、とっかりを一頭、小屋に運び、それをできる だけ節約して食べた。 ( 北海道郷土研究会発行の「北方研ました。 さら * さらしな さて更に興味ふかいのは、記述の最後に付け加えた、 け究」第一集の更科源蔵氏の説によると、アイヌ人は、アザ りラシのことを、陸ではトッカリと呼び、沖ではチラマンテ君の推理小説的な想像であります。 ここで筆者は恐るべき想像を作り出す事が出来るの か。フと呼ぶそうです。 ) 一月に入ると、それも尽きた。一面 かい - てろ・ の流氷のため、海藻も採取できない。死んだかもめもとつである」と、君は書いています。 引かりも、見出せない。「流氷が沖に出るまでの我慢だ」と彼の「想像」は、まず西川と船長は、ついに発見されな かった三名の船員の死体を食用に供したこと。これは、難 励ましあい、味噌と湯で十数日、露命をつないだ。西川は もっ

5. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

ちょう す。蝶よ花よと歌われているわけにはいか 。血走ったら、私も徳川さんも腕の見せどころだった。 無数の眼が、みなさんを見つめている。 三八式歩兵銃は、重くて反動がひどい。五発だけ練習す ると、すぐ要領がわかった。 「まあ、おっかない」 「こわいわね」 一発うったびに、長方形の白い看板のような板がくるり 「どうしたら、 いいの」 と回転して、下が上になる。あらかじめ壕の中に入ってい る兵士が、標的の十重丸のどこに命中したか、すぐ調・ヘ 「大丈夫よ」 「そう言われたって、ねえ」 る。手旗信号で、点数を知らせる。 まゆ 私たちは首をすくめ、眉にしわよせ、顔の半面がひん曲節子ひとりが二回目にまわり、私と徳川さんは二人と りそうになってくる。 も、一回目の射手だった。 「では、時間ですから、講話はこれまで」 「どうせ私が一番よ」 と、兄はまたあたりまえの、指導官の態度にもどった。 と言う合図に、徳川さんはとして、片眼をつぶって 午後にのびた「化学資料の見学」と言うのは、要する見せた。 に、毒ガスの煙を見物すればよろしいのだ。花火の筒に似「そうかな。また、節子にしてやられるんじゃないかな」 どろ たものを、泥にさして、火をつける。臭い臭い紫色の煙が そう予想しながら、厚みのある銃尾を肩の肉に押しつけ ゆらぎの・ほって来て、近くのひとは「眼が痛い」と涙をこる。標的に向って、黒くとがった照星を、少し高めから ・ほしている。「演習用のごく弱いもの」と説明されたが、 ゆっくり下げて行く。並んだ二人が、ほとんど同時に発 最新式の本物については兵士たちにも秘密らしい。秘密で射。 なくても、見たがる人はいないだろう。扉のしまる地下壕「発射が少し早すぎないか。二人とも、よくねらっていま 段があって、ガスを充満したその中へ、完全武装の兵士たちすか」 のが入る。命令一下、三十分でも一時間でも、マスクをつけ と、兄に注意されたって、二人とも自信まんまんだっ 族 てガス室にうずくまっているのだそうだ。 た。はるか遠くの壕の中から、四本の手が出て、二組の手 次の小銃射撃こそ、私と徳川さんが待ちかねていたもの旗が、第一発の成績を知らせた。 どのう たく 四だった。節子と三人だけは、銃を土嚢に委託しないで、腕私、 8 点。徳川さん、 7 点。 に支える寝うちをやった。兄が手をとって教える射撃だか つづいて、 7 点と 9 点。 8 点と点。点と 9 点。一一人 ・こう

6. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

252 破当日から西川死亡 ( もっとも、救助された当時、船長はは、わずか十分間で、この事件について語りあうことなど 西川が行方不明にな 0 たと申立てていたそうですが ) の日できませんでした。君と校長は、・ ( スの窓ぎわまで見送 って、永いこと残り惜しけに手を振ってくれました。 までの四十四 . 日間、二人が三個の人体を食べたとすれば、 しべっ ・ハスが標津に近づくころ、東方海上のあくまで青い天空 十五日間に一個のわりとなって、契肉速度と時間経過のー くなしり 算が符合するからだそうです。次の想像は、船長が西川をには、国後島によく似た形の白雲が見うけられました。底 殺害したこと。これは、人肉の味を知った二人が、人肉が辺が水平線のように一直線で、上方には、国後島の山々の おうとっ 欠乏したさい、いずれか一人を殺すか殺されるかの立場に起伏そっくりの凹凸のある、まるで長々とのびた島の形を たちいたり、一月十六日に船長が西川を、食べる目的で殺白紙に剪りとったような、雲でありました。遠望したとこ ろ、海上の島影と、空中の白雲は、大きさまでが一致して したという考え方であります。 じよじよう いました。三十三日間の北海道旅行が完ってから、すでに cn 君が如上の「恐るべき想像」を作り出した根拠として は、一、七名の乗組員のうち、三名の死体がしまいまで発二カ月になる私には、この事件をどのような形式の小説の さら 皿に盛り上げたらよいのか、迷うばかりです。この事件に 見できなかった点。一「船長が西川の人肉を食・ヘたのち、 はきけ は、私たちに、サルトルの嘔気とはちがった意味の、嘔気 その人骨をわざわざ箱詰めにして海へ流した点。三、西川 けっこん むしろ をもよおさせる何物かがあります。あまりにも重苦しい象 が寝ていたという数枚重ねた莚に、大量の血痕が付着し、 徴、あまりにも色彩鮮明な危険信号、あまりにもコントラ それが床板まで浸み通っていた点が挙げてあります。 ・ハスの効いた低音部の重圧があります。 判決が付記されてないので、検察側の判定が紹介できな いのは残念であります。 ( ただ判決が、昭和二十年八月十野上弥生子女史の「海神丸」も、飢餓に迫られた海上 五日以前、すなわち殺敵を唯。一の願いとした戦時中であつで、死を眼前にひかえた船員たちの演ずる殺人劇を精密に たとすれば、「民主主義」をモットウとする敗戦後の今日描写しています。「海神丸」では、船員の一人が肉を食う より、刑は軽かったのではないでしようか。もし食べられ目的で、他の船員を殺害しますが、ついに食うことはしな いのです。それは「海神丸」の船長が、ベキン事件の船長 た相手が、米英人、それも当時のしぎたりどおりケモ / へ ンの付けられた米英白人種であったなら、たとえその肉をとちがい、他の船員たちを倫理的に支配して、人肉食いを 禁じたからです。殺人の罪は犯したが、人肉食いの罪は犯 食べてもに無罪とな 0 たかも知れません。 ) 私が r-o 君の生家たる雑貨店の炉辺で、君と面談したのさなかったという点が、この小説のいわば「救い」になっ 一三ロ

7. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

ではありませんか。その答をきくと、鈴子の父上は微笑さ % れました。そして「君のような告白を私にした日本人はこ れで三人目だ」と言われました。「方法はちがうが、みん な自覚を守りつづけようとしていなさる」そう言って父上 は帰られました。私は自分が一人でないことを喜びまし た。どんな愚かな、まずいやり方でも、ともかく自分を裁 こうとしている仲間のいること、それに今まで気づかなか ったことを私は不思議に思います。いっかあなたは最後の 審判の話をされましたね。日本の現状を私は知りません。 ′カ吹きならされ、 しかし私の現状は、まさに第一のラツ。、・、 わざわい 第一の天使の禍は降下したようです。いずれ第一「第三 も降下するでしよう。そして私はこれを報告できる相手と してあなたを友人として持っていたことを無限に感謝致し ます。多くの仲間は報告す・ヘき相手を持たず、今なお闇黒 の裡に沈黙しているでしようから。』 うち

8. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

最後に、弁護人が自己の主張の拠り所とした、被告の 知的に感得していることを示す。 うんぬん 愛国心云々に至っては、笑うべきこじつけである。のみ ーうとく はなは ( 幕ひらくと、白昼の光まばゆき法廷。ただしその法廷の構 ならず、愛国心を讎漬するも甚だしきものである。もし ど , くっ 造は、第一幕の洞窟と、どことなく似通っている ) も弁護人の主張するがごとく、愛国的行為をなしとげる ( 騒然たる傍聴人の怒号を制止する裁判長の槌の音 ) ため、あくまで生きんとの目的によって人肉を食するこ ただ とが許されるならば、何故、わが忠勇なる兵士は、かの 検事・ : ・ : 只今、弁護人は、被告がやむを得ざる事情のも とに、人肉を食べたと主張されたが、本官はこれに反対数百数千の食糧に欠乏せる兵士諸君は、遠く海を〈だて た戦線に在って餓死しなければならなかったのである するものである。その同じやむを得ざる事情のもとに在 か。 ( 拍手 ) 御国のために、奮戦力闘して餓死したる忠 っても、五助ならびに八蔵は、敢て人肉を食べることな 霊と、この憎むべき被告の利己心とを、同日に語ること くして死亡したではないか。また西川は、船長と同様、 は断じて許さるべきことではない。 ( 拍手 ) 人肉を食べはしたが、それを恥じて、海中に身を投ぜん 被告はしかも、大切な船員の生命をあずかる船長の身 として、船長に殺害されたのである。この三名の被害者 は、それそれ程度の差こそあれ、人間的反省、人間的苦である。船の沈没と共にすすんで海中に沈んだ船長 悩を示して死亡したのに反し、只一人被告のみは、最後の実例は、枚挙にいとまなきほどであるにもかかわら まで、何ら反省も苦悩もすることなく生き残 0 た。あまず、被告は戦友たる船員の肉を食い、最後まで共に生存 っさえ、犯罪発覚後も、平然としてその罪を後悔する様した一名の船員の生命を奪 0 たのである。 被告は、我々の手きびしき追及によって、ようやくそ 子が見えない。法廷における被告の、この異常にして傲 の犯行の一ぶしじゅうを自白したのであるが、この恐る 慢な態度は、被告の犯罪的性格を立証してあまりあるも いまだ一語 べき犯行を敢てした自己の心情に関しては、 けのである。 ごと ききん ご ももらしていない。弁護人の申立ての如く、これはたし また弁護人は、江戸時代の農民が、饑饉にさいして、 かに奇怪なことにはちがいない。だが、これはすなわ 互いに自分の子を他人の子と交換して、その肉を食べた ち、被告が自己の卑劣なる心情を口にするのに堪えない 例を挙げられたが、これは二百年以前の事実である。目 こうかっ ためであるか、または持前の狡猾さによって、沈黙を守 撃者も証人も生存していない古記録にすぎない。したが たくら りつづけて判決を有利にみちびかんとする企みにすぎな って、本事件の判定の参考に資するに足りない。 まん あえ

9. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

248 学にいそしんでいる。それをよく承知しながらも、氏は すると、すぐ宿屋まで来てくれたのです。 あえ 部屋に入るなりさんは「今度の学会は、いかに日本の敢て、猛り狂うほどの怒りを、全研究者を前にして、示さ アイヌ研究者がだらしないかを、さらけ出したようなもんずにはいられなかったのでした。 あるい ある民族のある一員が ( 或は数人または数十人が ) 、か です」と、すさまじい皮肉と攻撃の連発でした。病弱の青 まっげ くぼ 黒い顔面にうかぶ苦笑も、かなり凹んだ睫の長い大きな目って人肉を食べたという発表が、どうしてそれほど氏を も、疫せたため目立っ頬の高さも、すべては執念の陰火激怒させたのか、その時の私には、うまく理解できません ほのお でした。それよりもむしろ「アイヌであることを隠して、 と、反抗の焔で熱し切っているように見うけられました。 殊にさんを怒らせたのは、一研究者の研究発表のうち暮さなくちゃならない、アイヌの知識人もいるんですから ね」と語ったさいの、このアイヌ出身の最高知識人の、軽 にふくまれた、一事項であります。 べっ アイヌ族のうちの或る部族は、かって古い昔、人肉を食蔑と孤独と悲痛の入れまじった、息苦しい表情だけが胸に べたこともあったという話が、もちろん論文の主要テーマ灼きつけられたのです。もしも、氏がベキン岬の惨劇を ・」うよう ちしつ としてではなく、やや不用意に、枝わかれした話として、知悉していたら、「戦意昻揚」した「聖代の民草」のなか に、アイヌ族ではなくて、まごうかたなき、和人であり、 その研究者によって語られた。氏はさっそく食ってかか シャモである、純粋 ( ? ) の日本人の中にも、人肉を食べ り、その出典はどこか、どの地方の伝承を根拠にしたか と、猛烈に食ってかかったのです。アイヌの血をうけた研た男がいるではないかと、正面から反撃できるはずだった 究者も多い学会の席上としては、たしかにさしひかえるべのです。あてにならぬ遠い過去の、あいまいなアイヌ人で はなくて、その男、その船長こそ、その日の学会で、民俗 き発言であったので、司会者があわてて氏をなだめるな 学、人種学、医学、心理学、経済学、政治学のあらゆる学 どの一幕もあり、その問題はもみ消されました。 しった そじよう アイヌを研究する日本人学者諸氏は、私の会ったかぎり徒を総動員して、爼上にのせるべきだと、大声叱咤できた では、みな人道主義的な、まじめな人たちで、滅びようとはずなのです。 宿へもどってからも、校長との歓談は一時間ほどっづき するアイヌ文化を敬愛し保存しようとする立場を守り、一 般庶民にくら・ヘ、はるかに同情も理解もある人々です。失ましたが、この事件の全貌はかなり糢糊としていました。 ひょうひょう すご 言をした発表者に、悪意のなかったのは、言うまでもな「凄い奴がいますよ」の調子で、校長の談話は飄々然と 。氏自身も、これらの研究者たちを親友として、共にしすぎていたからです。それ故、校長の紹介で青年に面 たけ

10. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

声が起った。 大山巡査は、ビストルの弾丸を射ちつくした。 ひとり生き残った、大山巡査が、書斎の階段の下で、最彼は、物陰からとび出すとき「天皇陛下・ ( ンザイ」と叫 後の抵抗をこころみているのだ。 んだ。 なだれ カーキ色の雪崩に、ひきずられるようにして、私たちも そして、階段を駈けの・ほろうとする、少尉に組みつい そちらへ行く。 た。巡査は、少尉を投げとばした。仁王立ちになった大山 鉄格子のシャッタアを破壊する、軽機関銃の乱射。 氏の背なかから、銃剣が突き刺された。まだ倒れないでし 「ここだ。今度こそ、まちがいない」 ると、今度は、おなかの方から、別の銃剣が突き刺され 「負傷者は、後退しろ。邪魔になる」 た。前うしろから、突き刺された二本の銃剣のうち、背な 「何をグズグズしとるのか」 かの方はすぐ引き抜かれた。だが、おなかの方は足を掛け がんじよう 庭に散兵線を敷いていた兵士たちも、頑丈な戸板を踏みて、引き抜いたのである。 たおして、一せいに乱入していた。 銃剣は両側とも、とても深く突き刺され、突ぎぬけたか そのため、荒々しい男たちの姿は、ものしずかな夜明けら、先に突き刺した兵士の手は、あとから突き刺された銃 の光線にうかびあがる。 剣で傷がっき、血が流れ出したほどである。 「階段をのぼれ、階段を : ・ : こ 「天皇陛下・ハンザイだと。こいつ」 音たかく記けのぼ 0 た兵士が、一人、二人と階段をこ と、立っていた兵士の一人が、あきれたように言った。 くちき こうすい ろげおちる。 カーキ色の洪水は、朽木でも一本根こそぎにしたよう 姿をひそめた大山巡査の、拳が射ちおとしているのに、大山さんの身体一つをのこして、階上〈押し上 0 て行 段「お父さまは、いません。お父さまは、いません」 脚を射たれた兵士が、へたりこんで、戦友にゲエトルを のと、私はもう少しで、叫び出しそうだった。だが、叫ぶほどいてもらっていた。彼は、うつろな目で、倒れ伏した ことができなかった。 巡査の方を見ていた。もう一人、肩を射たれた下士官が、 殺すべき「主人」は、もぬけの殻で、居ないのだ。それ荒い息を叱いて、やっと柱にとりすがっていた。 だのに、殺す方と守る方が、むごたらしい殺し合いをしな 血まみれの人間は、善人、悪人にかかわらず、ほんとに ければならないのだ。 気味のわるいものだ。 じゃま