でねえか。船長。大丈夫だべか。 八蔵そうかも知んねえ。 船長 ( ひとりだけ五助から離れて立っ ) まんだ、死ぬもんじ五助うんだら、誰が一番先に死ぬだ。 ( 一同沈黙 ) おめえ ゃねえわさ。 ら、黙ってるだな。喋らなくても、わかってるだ。おら 五助 ( 腹をおさえたまま、かろうじて起き上がる ) 船長、おら が一番先になるだ。 まだ死なねえぞ。 西川と八蔵 ( 叫ぶ五助から顔をそむける ) 船長だから俺がそ言ってるでねえか。おめえはまんだ死船長 ( ひとり五助を正視する ) にやしねえよ。 五助おら、一番先には死にたくねえど。 ( 苦痛にえかね、 五助そんだら、おらいっ死ぬだ。 再び倒れる ) おらが一番先に死にたくねえわけ、おめえ 船長いっ死ぬかわかんねえが、今日はまだ死なねえよ。 らにわかるか。あ ? そのわけ、聴かしてやっか。 五助今日でねえなら、明日死ぬだか。 船長 ( 命令的に ) 五助、黙れや。黙って寝てるだ。西川 西川五助よ。死ぬときはみんな一緒だあ。苦しくても、 浜さ降りて見よう。何かあるかも知れねえから。早く来 がまんするだ。 八蔵うんだ。西川の言うとおりだ。何も五助ばっかが死西川 ( 船長に従って、上手へ去る ) ぬわけじゃねえだよ、な。 五助 ( 次第に力なにて ) 八蔵、八蔵いるか。 ねむ 五助おら死にたくねえ。 八蔵えい、しずかに寝るだよ。睡れば、気分よくなるだ 西川うんだよ。こったらとこで死んだら、犬死だあ。お から、よ 0 はなばな らたちにや、まだ任務つうもんがあっからな。華々しく五助八蔵。おらが死にたくねえわけはな。おら、おめえ 戦死するまじゃあ、どうでも死んじゃならねえだ。 たちに食われたくねえからだ。 財五助おら、戦死もしたくねえ。 八蔵何こくだ、こいつ。食うだと。おめえを、おらが食 きしよく くまおおかみ り八蔵安心しるだよ、な。こったらとこじゃ、戦死もでき う ? 畜生ー熊や狼じゃあるめいし。気色がわるいこ ねえわ。なにせ、敵が一人もいねえだからな。 と、言うもんでねえてば。 ひ 五助おら、一緒に死にたくもねえ。 五助おめえ、食わねえか。 八蔵うんだら、一緒に死ななくてもええわさ。 八蔵人の肉食う奴あ、めった、いるもんでねえさ。 五助別々に死ぬだぞ。順番におっ死ぬだぞ。 五助八蔵よ。おめえ、おらが死んでも食わねえな。
256 だったか、おら新聞で見たど。 西川おらっちは部隊長の軍属ではねえど。天皇陛下の軍 五助そうけ。 属だど。天皇陛下のな。 こんだて 五助ああ、いいともよ。何出して来ようが、おっかなく八蔵知らねえのか、おめえ。宮中の正月の献立が出てた つけえど の、おめえ見なかったか。北海道のアザラシの肉のビフ はねえわさ。天皇さまがどうしただ。天皇さまなら腹が へっても、ひもじくねえだか。何ならこのほら穴の中 テキとな。南洋の椰子の実のナマとな。そったらもの食 さ、天皇さま連れて来てみるがいいだ べて、前線の兵士の労苦を想いやっただと。 八蔵五助よ。むごいこと言うもんでねえだ。来てもらっ五助そうけ。 八蔵トッカリの肉は、誰が食ってもうめえもんよ、な。 てどうなるだ。 五助来てもらったらいいだ。連れて来てトッカリの骨さ煮ても焼いても、うめえもんよ、な。アイヌのこさえる トッカリの 料理で、フィ・ヘつうもん食・ヘたことあっか。 かじらせて、十日でも二十日でも置いてみれま はらわたをな。腸だの肺だの肝臓だのこまかに刻んで 西川畜生ー ( 五助に躍りかからんとする。船長おしとどめ よ。トッカリのひげも、トッカリの脳みそもみんな入れ る ) たきび ( 吹雪の音たかまり、粉雪少しく吹き入る。一同、焚火に近 て掻きま・せてや、海の水で味さつけて、こせえるのよ。 あの味だったら、まずあんなうめえものはねえべさ。 づきて、ヒシとよりつどう ) 八蔵おらも五助も何もはあ、西川に怒られるようなこ五助そうけ。 ( 我慢していた腹痛にたえかね、横ざまに倒れ る ) た、していねえつもりだがなあ。食いものがないでは、 しやペ 八蔵ゃあ ? 五助、どうしただ。腹さ痛えだか。しつか 腹がすくつうことさ喋っていただけでねえか。 りしるだ。 ( 起ち上がって、五助を介抱する ) 五助それがいけねえだべさ。 西川 ( 起ち上がり、五助の傍による ) 五助よ、どうしただ。 八蔵そんだら、どう喋れ・よ よっぱどせつねえか。 五助食いものなんざ無くとも、腹もすかなきや死にもし 船長 ( ひとり黙然として、徴動だもせず ) いいだべさ。 ねって喋ってれば、 うそ 八蔵おら、嘘言うな好かねえよ。嘘ばっか言ってるの八蔵五助、おめえまさか、おっ死ぬんでねえだ・ヘな。や は、せつねえよ。そんだら。何を喋るべえ。うんだ、天あ ? あわ 皇さまは、トッカリの肉を食ったそうだな。や ? いっ西川様子がへんだど。蟹みてえに、ロから泡を噴いてる 、、よ」 0 かに
えわな。 八蔵おらたちばっか、こったら目に遭ったとしると、あ んまり痛ましいでねえか。や ? 他の奴らみんな小樽さ五助何せあのポロ船だかな。ムリははんずまりから、知 れてるだかな。 無事について、おらたちばっか、こったら : 西川止めねえか、そんな話。 五助船長さ聴いてみれや。 八蔵おらたちばっかかも知んねえな。やつば、おらたち八蔵や ? 西川グチさこ・ほして何になるだ。船長を見習えや。船長 ばっかだな。そうだとしると、うまくねえな。 あかっき はグチ一つこぼしやしねえど。おめえら、暁船団の任 五助そうだとしねえでも、うまくねえわさ。 務さ忘れてるんでねえのか。 八蔵うんだ。そうだとしねえでも、うまくねえわな。 八蔵や ? 五助どっちみち、ひもじいにかわりはねえだ。 西川おらたちはこれでも軍属だど。 八蔵うんだ。どっちみち、ひもじいにかわりはねえだ。 八蔵うんだ。軍属だ。 五助西川よ。西川、おめえ精出るな。 西川 ( 無言にて、トッカリの骨をマキリにて削る作業に従事す ) 西川軍属なら軍属らしく、まちっとしつ腰持ったらどう もり ちょうろうビと でえ。そんなこんじゃ、聖戦の遂行も何も、できやしね 五助 ( 嘲弄する如く ) ま、しつかり精出せや。早く銛さこ えど。 さえて、鯨っコを突いて食わせてくれや。 五助西川よ。おめえ景気のいいことぬかすが、足もとは 八蔵トッカリの骨で銛さこさえるた、うめえ事思いつい フラついてるでねえか、よ。 たもんよな。うんだが一てい、それで何を捕る気だ。 八蔵おらだって、セイセンさスイコウするだよ。スイコ や ? 浜にやトッカリも魚も寄りつくあてはないによ。 コン・フ一本落ちていねえわや。おら何もしねえでも、腹ウできるなら。いつだってしるだよ。スイコウしるの、 おらきれえじゃねえだかな。 けさすいて眼がクラつくだに。よくま、むだ骨折って、そ 五助うんだ。西川は暁船団の部隊長にでも、なったつも ったらこまけえ仕事やれたもんよ、な。 りだべさ、んだがよう、西川。部隊長さ、ここさ連れて 五助ま、若えもんはほっとけや、な。もうへえ何をやら 来てみれや。ここさしよっぴいて来られて、部隊長さ何 かそうと、助かる見こみはねえだからな。 やるだ。あ ? 大佐あ連れて来うが、大将さま連れて来 八蔵うんだ、食うものがなければ、人間死ぬものと昔か らきまってるだからな。どう頭ひねくっても、うまくねうが、こったらとこで何がやれるだ。 おたる
258 八蔵食わねえてば、食わねえでねえか。同じ村の同じ船西川食うのは、よくねえこった。 に乗ってるもんをよ。誰が食うだ。 船長な・せよくねえだ。 五助同じ村の同じ船に乗ってるもんでねえば、食うか。西川 ・ : 人の肉を食うなあ、恥ずかしいこった。 八蔵くそったれ。止めてけれ。そんな話あ。聴きたくも船長なぜ恥ずかしいだ。 ねえ。 ( 起ち上がり、上手へむかう ) 待ってれや。おらも浜西川仲間のもんの肉を食うのが、恥ずかしいこってねえ へ行ってくつからな。あ ? 短気おこすでねえど。や あ ? ( 去る ) 船長おめえの考えは、まだ浅えだよ。イヤなら、イヤで 五助 ( よろめきながら起っ。四五歩すすみて、また倒る。よう もええだ。俺あ何も命令するわけじゃねえからな。ただ やくにして起ち上がり、同じく上手へ去る ) 俺あ、おめえを死なせたくねえから言うだけよ。 西川おら、死ぬのは苦にしてねえさ。 ( 舞台、暗くなる ) 船長おめえのその気持あ、俺あよく知ってる。おめえは ( 舞台、ふたたび明るくなるまでに、三日間を経過す ) ( 五助すでに死亡し、生存の三名も衰弱はなはだし、五助の しい若え衆だ。船が難破したときに、ロープう持って海 どう 死体は洞の奥に置かれあるも、観客には見えず ) へ飛び込んだのも、おめえだ。な、おめえは、五助や八 ( 洞内には、船長と西川のみ ) 蔵たあ、人間のできがちがってる。身を粉にして、文句 たきび 西川 ( 焚火のかたわらに、うずくまる ) おら。イヤだ。 は言わずによく働く。忠義のためとなりや、命も惜しが 船長 ( 焚火より離れて立っ ) イヤか。イヤなら、イヤでも らねえ。仲間にや親切をつくす。そのおめえが、死んだ ひきよう ええだ。うんだが西川よ。それだと、おめえは卑怯者っ 五助の肉を食いたがらねえのは、むりもねえわさ。 うことになるな。 西川なんだら、な・せ食えッつうだか。 西川おら、卑怯者ではねえさ。うんだが、人の肉は食わ船長おめえ、このまま犬死しても、いいのか。 ねえ。 西川 ( 沈黙する ) きんしくんしよう 船長な・せ食わねえだ。食わねえじゃなくて、食えねえだ船長おめえ、華々しく戦死して金鵄勲章さ、もらいたく はねえのか。おめえ、俺たち船員の任務を忘れたんでは 西川うんだ、食えねえ。 ねえべな。俺たちが、どれくれえ日本陸軍に必要な人間 船長なぜ食えねえだ。 だか、そんなこと忘れたんでは、ねえべな。
260 んだ。な。おらたちは、人食人種じゃねえ。まっとうな西川 ( すすり泣く ) 日本人だ。仲間の肉を食いたくねえのは、人情だ。うん八蔵むりもねえだよ。人の肉さ食うのは、つれえこった からな。 だから、その人情さ、どこまで守れるか、やってみたら 西川おら、恥ずかしいだ。 いいだ。どこまで守れるか、待ってみたらいいだ 八蔵恥ずかしがるのは、おめえが悪い人間でねえ証拠だ 八蔵待ったら、うまくねえだ。待つのはよくねえだ。 船長俺あ何も、こうなってまで船長ぶるつもりじゃね 、ことやろうってんじゃねえ。三西川お、おめえは食わなかった。 え。てめえ勝手に、しし すんべえ 人が三人とも、生きのびねばならねえから、心配してる八蔵おらは、五助が死ぬまえに、約束しただよ。約束さ えしなきや、おらだって食っただよ。 だ。な、二日待てや。二日待ってから、五助の葬式さや 西川おら、どうして食ったべか。 る・ヘ。 八蔵忠義のためだよ。な、忠義をつくすために食っただ 八蔵二日たったら、もうはあ誰も動けなくなるさ。 船長うんだら、一日待っ・ヘ。明日の夜までだ、な。それ まき よか、小屋をぶつこわして、薪にした奴を、すっかり運西川そんでねえ。そんでねえだ。 ばにゃならねえ。いくらせつなくても、薪だきや運んど八蔵おめえの罪じゃねえだ。食わなぎやひもじいだから よ。ひもじいから食ったのが、罪になるはずはねえ。 かなぎゃならねえ。さ、行くべ。もうすぐみんな、一あ しも動けなくなるだ。さ、行く・ヘ。 西川船長は、こう言っただ。天皇陛下が、五助を食えっ しぐさ つうたら、おめえ食うかと。おら、だまってただ。そし ( 一同、のろき仕種にて上手より退場 ) たら、またこう言うだ。おめえの身体は、おめえの物じ ( 舞台、暗くなる ) ゃねえ。天皇陛下のものだ。天皇陛下がアメリカをやっ ( 舞台、明るくなるまでに、三日間を経過す ) 、よ・が ( 八蔵、すでに衰弱の極に達して、仰臥す。西川、そのかた つけろと言えば、やつつけるだ。アメリカ人さ殺せとい わらにうずくまる。船長、不在 ) えば、殺すだ。西川、おめえはまだ生きてなきゃならね えと、言われれば、生きてなきゃならねえ。生ぎるため 八蔵 ( きわめて低き声にて ) 何も苦にするこたねえだよ。 に、五助さ食えって言われたら、食わなきゃならねえ。 な、おめえがいい人間だつつうことは、おらがよく知っ ているだからよ。 そう言っただ。
が死んでくれなんだら、俺もおめえも、今日あたり死ぬ船長俺はよく睡る。こうなってまで、何も気いっかうこ とこなんだぞ。ええか。誰も五助に、死んでくれと頼ん たいらねえ、おめえ、妙にビクビクしてるな。睡るぐら だお・ほえはねえそ。五助は死んだだ。そんで俺とおめえ 、睡れや。 は、その肉を食っただ。どう転んだって、それだけの話四川おら、睡っても睡れねえだ。 よ。八蔵の肉さ食うか食わねえか、死にもしねえうちか船長そんな風だな。 ら、騒ぐこたなかろ。おら何も、言いわけはしねえだ。西川起きてても、睡ってるみたいだしよ。 八蔵が死ねば、おら多分、その肉を食うべえよ。西川 船長寝ても起きても、せつねえだペ。 おめえも多分食うべえよ。 西川せつねえだ。せつねえとえると、なおのことせつ 西川おらイヤだ。おらイヤだ。 ねえだ・ヘ。 船長俺もイヤだ。俺もおめえも、イヤだけど食うべえ船長睡ってから、目さあけたときが、一番せつねえだ 西川おらイヤだ。おらイヤだ。 ( すすり泣く ) 西川うんだ。おめえはそうでねえのか。 ( 舞台、暗くなる ) 船長俺だって、せつねえよ。身体も心もせつねえよ。お ( 舞台、明るくなるまでに、十日間を経過す ) めえとかわりねえわさ。 ( 八蔵の肉すでに尽きて、寒気ますます加わる。船長の生き西川おめえは、心はせつなくねえだペ。 しゅうねん んとする執念、いささかも衰えず。西川はすでに、なかば生船長せつねえともさ。ただ俺の心はな、せつねえだけ の拠りどころを喪失す ) で、迷うこたねえだ。俺は、俺がしようと考えたこと 船長 ( 焚火のほとりに立ちて、眠中の西川を見下ろす ) を、しるようにしてるだ。うんだから、迷ったり気に病 け西川 ( 夢よりさめて、ガ・ハと起き上がる。自分を見下ろす船長 んだりはしねえ。クョクョするぐれえなら、はじまりか に気づきて、恐怖の叫びをあぐ ) らしねえがいしオ カ ひ ( 気むずかしき沈黙のうちに、西川は船長を睨み、船長は顔西川おらもう、生きてるのも死ぬのも、おそろしくてな をそむける ) んねえ。 わむ 船長おめえ、この二三日、あんまり睡らねえな。 船長おそろしいと考えるもんは、おそろしいだべさ。 西川おめえは、よく睡るさな。 西川おめえ、おそろしくねえだか。
421 注解 一ひかりごけ蘚類の一種。洞穴などの薄暗い所に生育する。 タンの日記の形をとる。彼は、海辺の小石とか、扇の把手など 高さ約二センチメートル、葉は一一列。糸状体は毬形の細胞から を見て嘔気を感じる。そして、外界の事物や人間によってもた 成り、無色透明の液体を含み、日光を集めて放射し、黄金色の らされる嘔吐感を日記に克明に記し、その理由を追求オる。彼 光輝を放つ。長野県岩村田及び埼玉県吉見百穴のものは天然記 は、すべての存在には、存在する理由がないと考え、深い絶望 念物。 にとらわれるが、小説を書いていくことが一つの救いをもたら 一一当庭石を五つ六つったって行くと : : : 多の海水であり、海風 すかもしれぬというかすかな希望の表明によって小説は終わ る。 でありました。現実に露呈されるべき悪の素地は、この夜の 海の兇暴なイメージとなって結実しているのである。 一茸一「海神丸」船長は甥の三吉と一一人の船員五郎助、八蔵とをの 一一当出面日雇労働者などの日給。 せて九州の港を出る。難破、漂流から、八蔵は五郎助にそその 一一哭シャモアイヌ人が日本人を指していう称。 かされて食うために三吉を殺す。恐価と戦慄に食えず、五十九日 ニ咒晩部隊太平洋戦争中、海上補給に難渋した日本陸軍が、兵 間の漂流の末に貨物船に救われる。入港前日に五郎助は狂死、 員・物資の運搬のため急造した小型船舶による沿岸輸送部隊の 船長は三吉を病死といし 、八蔵は感激した。限界状況に立った 通称名。 人間の恐ろしさと、それにもかかわらず、人間の赦しの暖かさ 一を漁民は・ヘンキでまず : : : 背広上衣一着が発見されましたこ とを描いた野上弥生子の作品。大正十一年九月発表。 の即物的描写、特に〈頭髪が二寸ばかり伸びている〉という科を = 「野火」戦場で結核を発病し、本隊から追放された孤独な兵 学的明蜥さをそなえた叙述は、〈人肉喰い〉という戦慄すべき 士〈私〉の手記の体裁をとって、彼がなぜ人肉嗜食に踏み切れ 事が事実起ったということを疑う余地のない形で、読者を小説 なかったかをたどった大岡昇平の作品。昭和一一十七年創元社刊。 にひきずり込ませるのに有効に働いている。 一呑一誰も五助に、死んでくれと頼んだお・ほえはねえぞこの部分 一一五一更科源蔵 ( 一九〇四 ~ ) 詩人。北海道生まれ。詩集に『種 は、後の〈死ぬのを待ってるわけじゃねえべさ。ただ待ってる 薯』、「無明』、「更科源蔵詩集」がある。高村光太郎、尾崎喜八 だけだわさ。待ってると、おめえが死ぬだよ。〉 ^ 何もそったら、 の影響を受ける。北海道の自然、郷土史、アイヌなどに関心を ムダなことしるこたねえだ。どうせおっ死ぬなら、ここで死ね もち、それそれの分野の著書は三十数冊に及ぶ。 ゃ。な、後に残るもんの身になってみろや。〉という叙述とと 一基サルトルの嘔気〈サルトル〉 ( 一九〇五 ~ ) フランスの文 もに、船長の思考法として注意したい。〈善い方へも、悪い方 学者・哲学者。第一一次世界大戦中、レジスタンス運動に従う。 へも、眼はしのきく男〉と八蔵がいっているのは、船長のこの ような生き方を指したものであろう。 戦後、無神論的実存士、叢を主張。作品「嘔吐」「存在と無」「自 由への道」など。〈嘔気〉は作品「嘔吐」をふまえている。プー 一一奕ポッシュ Hieronymus Bosch ( 一四五 9 ・ー一五一六 ? ) ヴィルという架空の町に住む歴史研究家アントワーヌ・戸カン オランダの代表的宗教画家。幻想と怪奇と写実の結びついた細 ゆる
とか、悪かったとか、人間らしいことは考えていないの いのである。 、カ 弁護人は、しきりに被告の心情を気にして居られるよ うだが、それよりも弁護人はまず、被害者たる五助、八船長 ( 悲しげなる口調にて ) 答えなくてはいけませんか。 蔵、四川の三君の家族の方々の心情を想いやってしかる検事答えなさい。何ももったいをつけることはない。 べきである。 ( 拍手 ) わが父、わが子、わが夫の肉を食わ船長私は我慢しています。 めいりよう れた方々の御気持を察することが、何よりも簡単明瞭な検事何を我慢しているのか。 判断の基礎ではないか。悲しみと怒りの涙にむせぶ遺族船長いろいろのことを我慢しています。 たと の人々の心情を想いやるならば、劣等な被告の卑しき心検事いろいろじやわからんよ。例えば何を我慢している のか、遠慮なく言ったらいいじゃないか。 情の如きは、聴き正す必要があるであろうか。 船長 ・ : 例えば裁判を我慢しています。 弁護人裁判長、被告の発言をお許し下さい ( 場内、然となる ) 裁判長被告には今まで何回となく発言の機会をあたえた しやペ 検事 ( 怒りをおさえて ) 裁判されるのが不服だというの が、何も喋らんようだが。 弁護人もう一度、機会をあたえて下さい。 検事もしも被告が自己の心情を正直に告白するなら、本船長そうではありません。 検事不服でないなら、何も我慢することはないじゃない 官もそれをとっくり聴きたいと思います。 裁判長では被告は、何か言いたいことがあったら、申立 てなさい。 船長不服ではありませんが、我慢しています。 検事被告が何を申立てようと、罪状はすでに明白であっ検事もう少し、まっとうな言い方はできないのか。お前 の言い方は、我々を混乱させようとして、いたずらに言 て、判決に変りはない。だが、世にも珍しい犯罪者であ を左右にしているようにしか見えんぞ。 るから、参考までにその心理状態がハッキリ知りたいの だ。弁護人の申出もあるのだから、起立して答えなさ船長私は裁判に不服ではありませんが、裁判というもの が、私とは無関係のものに思われるんです。 検事無関係 ? お前は重大な罪を犯しているんだそ。自 船長 ( 起立する ) 検事被告は現在、どんな気持でいるのか。すまなかった分でそうは思わないのか。 、カ
264 船長俺は早いとこ助かりてえさ。ほかのこた何も考えち西川殺すよりなお悪いだ。 ゃいねえ。 船長そうけ。 西川それがほんとの悪人だぞ。 四川おらたちは、助かりつこねえ。助かったところで、 ダメだ。 船長そうけ。 ( 横になる ) 俺が悪人け。 船長四川よ。おめえは、俺を怨んでるな。食いたくねえ西川そうだわさ。 もんを食わしたことで、怨んでるな。怨んでるばかりじ船長悪人がこったらとこで、人の肉さ食ったりして、せ ゃねえ。おっかながってるな。俺がおめえを、殺して食っながっているべえかな。悪人なら、もうちっとマシな もの食って、楽に暮すべさ。 いでもしねえかと、おっかながってるな。 西川船長。おめえは、五助や八蔵のこと考えたことある 四川うんだ。 カ 船長それでるにも、睡れねえんだな。 西川それもあるさ。うんだが、睡れねえのは、それ・はっ船長考えねえわけにはいかねえさ。おらたちが食った人 間のこんだからな。 かりじゃねえ。 四川そんで、自分がおそろしくねえだか 0 船長殺しやしねえよ。俺はおめえを殺すこたしねえよ。 ーいいだ。誰にもわ船長おめえ、俺がおそろしいと言えば気がすむんか。 西川殺せばし 、、だ。殺して肉を食え・ま かるこっちゃねえからな。 西川おらのこっちゃねえ。おめえがどんな気持かつつう こった 0 船長まだ殺すつもりはねえ。 四川おらさえ死んじまえば、おめえが何をやったか、知船長俺は我慢してるさ。我慢できねえこっても、我慢し てるさ。これだけ我慢するな、容易なこってねえさ。 ってるもんは無くなるだ。おめえの思ったとおりになる 西川我慢してるだけか。 べさ。 船長おめえを殺す必要はねえ。おめえは、俺が何をしね船長誰も何もしてくれるわけじゃねえ。なあもかんも、 えでも、死ぬたからな。 自分ひとりで我慢しなきゃなんねえさ。我慢ということ の中にや、なあもかんも入ってるさ。我慢てこた、スッ ・ただジッとして、俺の死ぬの待ってるだな。 船長死ぬのを待ってるわけじゃねえべさ。ただ待ってる ハリと西瓜わったように、わかりやすいもんでねえさ。 だけだわさ。待ってると、おめえが死ぬだよ。 西川おら、我慢がならねえだ。 おれ へえ
ず ) 船長我慢しねえとなったら、簡単だわさ。我慢するの は、簡単なこっちゃねえ。他人の我慢は、自分の我慢に船長 ( 気配を察して上半身を起す ) おめえ、俺を殺すつもり か、おめえにそのつもりがあれば、俺だって殺すぞ。 ならねえだからな。何をどのくれえ我慢したらいいカ ( 船長の首のうしろにも、光の輪を生ず ) きまりってもんはねえだからな。何のために我慢しる 西川おら、おめえには食われねえぞ。 か、わかんねえでもしるのが、我慢だからな。 西川何のためにしるかわかんねえ我慢なんど、できるも船長死ねばどうでも食われるでねえかよ。食われねえで は、いられねえよ。 んでねえさ。 船長うんだがよ。おめえは自分で、何が一体せつねえだ西川おら、死んでもおめえには食われねえように、して かわかったか、寒いのがせつねえだか、腹がヘるのがせ見せるだ。 つねえだか、それとも仲間の肉を食ったのがせつねえだ船長何しるつもりだ。逃げるんか。 か、助かるあてのねえのがせつねえだか、わかっか。わ西川うんだ。 かるめい。わかるはずはねえだ。なあもかんも入れまぜ船長何もそったら、ムダなことしるこたねえだ。どうせ おっ死ぬなら、ここで死ねゃ。な、後に残るもんの身に でせつねえだ・ヘ。何がせつねえのか、わかんねえくれえ なってみろや。 せつねえだべ。俺だってそうよ俺だって、何を我慢し てんのかわからねえくれえ、我慢してんのよ。 西川おら、海にはまって死ぬだ。おめえの手のとどかね 西川おめえは、ちゃんとわかってて我慢してるだ。五助えところで、死ぬだ。 の次には八蔵、八蔵の次にはおらと、ねらいさつけて我船長何でそったら意地わるいことするだ。おめえはもっ と、素直な男でねえのかよ。 慢してるだ。順番さつけて我慢してるだ。 け船長そんな順番なら誰でもわかるさ。誰の次に誰が死ぬ西川おめえに食わせるくれえなら、フカに食わせるだ。 ( よろめきつつ、銛を手にして上手より退場 ) とわかったからって、何を我慢しるか、わかったことに はならねえさ。ま、我慢しろや。我慢して睡れや。睡れ船長西川よ。待てや。そったらもってえねえこと、する ひ もんでねえだ。西川よ、待たねえか。俺をひ・ほしにして ねえようでは、我慢はできねえだからよ。 何になるだ。 ( 西川を追いて退場 ) 西川おら睡らねえそ。 ( 殺意を生じて自製の銛を手にとる。 ( 西川が殺意を生じたる頃より、祈疇音楽、かすかに洞内に それと同時に彼の首のうしろに、ふたたび緑金色の光の輪を生 ねむ てえ どう