撃で抹殺するにせよ、捕虜にして利用するにせよ、決行時お兄様が結婚して、男児誕生となったら、はっ係に子供 ちんざ に「第一悪魔」が、どこに鎮座ましましているか。クウデ部屋を使わせようと、お母さまが仕度してある。 タアの成功、不成功にかかわりある、このキイボイントを「氷見子、・ほくは親不孝かね。どう思う」 した 握りたくないわけが、ないではないか。とすれば、兄の意兄は、木綿判下の両脚をひらいて、肉のおちた背をかた むけ、かがみこんでいた。 志とは無関係に、組織の命令によって、兄を西の丸邸へ、 むすこ 「とんでもない。お兄さまぐらい、親孝行の息子がいるも よこしたのかもしれなかった。 んですか」 私は、兄が幼年時代に使っていた部屋に、兄をみちびい だんろ 「そう思うかね。そんなら、ありがたいが : : : 」 た。そして煖炉の薪をもやした。 「お兄さまこそ、親に孝、君に忠よ。氷見子が、保証しま 「私、お兄さまが今夜、おいでになる予感がしていました 「親に孝、君に忠。・ほくはたしかに、そう心がけている。 「おとうさまも、義人が来そうだなと、おっしやっていましかし、何が孝行で、何が忠義か。この複雑をきわめた社 会では、見きわめがむずかしいんだよ」 したよ」 これ 「そうね。だからめいめいが、これが孝行だと思い 「 : : : それは、おどろいた」 しら・てのお 白の焔がゆらめくので、蒼ざめた兄の横顔も、男らしが忠義だと思うことを、やるより仕方ないのね。人によっ く赤らんで見えた。 て、判断がちがうんですもの」 「そうなんだ。その通りなんだ」 「では、おとうさまは、家にいらっしやるんだな」 「そうよ。今夜は、誰にも会わずに書斎にとじこもって仕「誰が見ても孝行、誰が見ても忠義なんてものは、めった 事するから、義人が来たら、そう言っておけと、おっしゃ にないんじゃないの」 っていました」 「氷見子と話してると、気がらくになる。らくにはなる が、それで解決はつかんからな」 兄も私も、子供用の椅子に腰をおろしていた。 「ずいぶん、疲れているようね。お酒でも、めしあがった 「この部屋が、なっかしいでしよう」 ら」 「ああ。なっかしいね」 と、兄にすすめたとき、私にはまだ、・おとうさまの秘薬 と、兄はものうげに、言う。 まっさっ ほりよ
も私も、何も誓いなど立てるまでもなく、不可能な、だが ために身命をなげうつ覚悟をしているわけだ。たしかに、 手ばなせぬ願いにとりつかれていたのだ。 清潔にはちがいない。だが、お気の毒になるのだ。 「お気の毒」ということばは、兄には禁句だった。これ以 一かじよ′、 階段異変の次の日、兄が久しぶりで帰宅した。 上ひどい、侮辱はないからだ。 一週間でも十日でも、会わないでいるうちに、兄の眼光私は、兄に何と言われても、ロ第をする気になれな は鋭くなるばかりだ。 猛田節子が私に、手紙の話をうちあけた日から、すでに私は、兄が好きなのだ。徳川さんよりも、節子よりも、 一カ月以上、経過している。それとなく節子の意中を知らきっともっと好ぎなのだ。 せるような手紙、なぐさめとも、はげましともっかぬ手紙お化け大会の胆だめしの夜、泣ぎ出した兄を眺めて、私 ま、 を二本、兄は私からうけとっているはずだ。 「庭を歩いていたんですってね」 「義人兄さまのお嫁さんになってあげる。お兄さまの、お 「ああ、三味線の音がうるさくてかなわんから」 嫁さんになりたいー」 父も母も、外出していた。私の長唄のおけいこがすむま と痛感したものだった。 で、兄は庭を散歩して待っていたのである。 今でも、その気持は変っていない。 「三味線はむずかしいわ。だけど、お琴よりおもしろい 義人さんになら、どんな厭らしいことをされたって、叫 わ。きらいなのね、三味線が」 び声などあげはしない。ぎっと私の方から先に、厭らしい 「ああ、何だか、無意味なことに精力を浪費してるみたい ことを仕掛けるだろう。 だな。それに、音がひびきすぎる。うるさいよ。近所迷惑「節子さんからは、今だに御返事がないの ? 」 「うん」 の兄は、ますます気むずかしくなっている。訓練が、はげ「なければ、苦しいでしよう」 貴しいのだ。若々しい油ッ気をへぎ落すほど、はげしいの「苦しいね」 だ。軍人色に陽やけした兄の顔は、青春の色というより、 「節子さんて、もともとはっきりしない所あるからな」 職業的殺人者の色に見える。それが痛々しい。女体のこと「そんなことはないー」 も、金銭のことも、何一つ知らないうちから、天下国家の と、兄は苦しげに言った。 なか
ぐあいのわるい地点しかなく かくす樹木や岩やのない、 丈夫な官給品のシャツの胸をはだけ、兄は弱々しげにう ねあせ なされている。盗汁が額や胸もとを、ぬらしている。兄のなってしまうのだそうだ。 ロつきは、女の私より、小さくて可愛らしい。よく効くね・ほけまなこで、レインコートを・ハジャマの上に着た。 眠薬を服用すると、夢も見ないで熟甁すると言うが、はた上下の歯のかちあうほど、私はふるえていた。 してそうだろうか。見た夢を忘れさせる作用があって、そ 息をこらして家の奥にひそんでいたのでは、そのふるえ う考えるだけではないのか。生の疲労をむき出した兄の寝を消し去ることができないのだ。 ねな 顔は、死にちかい睡りにおちても、なお夢の裏路を通って、 最前線の現場に、やみくもに駈けつける方がいいのだ。 生の歩みを歩みつづけている証拠のように思われる。ねむか»--1(..54 、機関銃の音が遠くきこえた。ビストルか っている兄の夢はおそらく、めざめているときの兄の理想小銃か、守る側の銃声は、その前からきこえていたはず の夢と、おそろしいほど喰いちがったものなのだ。さめてだ。 あとで考えて見れば、輜重隊のトラックに分乗して、完 いるときの夢と、ねむっているときの夢が、どっちが本と 全武装の歩兵部隊が攻撃をかけてきたのだから、屋敷うち うの夢なのか。それは、兄自身もわかるはずがないのだ。 くちびる せつぶん 私の接吻した兄の唇は、熱のため乾いていた。おそらのどこで、どう防ぐ手段もあるわけがなかった。 の袖を片方だけ通すと、一度はいた く私が、兄のロに自分のロをおしづけた、最初の女なのだ私は、レインコ 1 ト ・ハを、また脱ぎすてて走り出した。 ろう。あるいは、最後の女になるかもしれない。兄は、手スリッ 非常ベルも、そのボタンも、邸内いたる所にあるから、 にヒビの切れるたちで、私は、霜やけでふくらむたちだっ た。その夜の兄の唇も、支那産の棗の実の、かわいた皮の鳴りひびくその音はけたたましい。兄もおそらく、私と同 ように、もぎとられたあと烈しい日光や風で急激にいじめ時に目ざめていたにちがいない。だが、私には、兄をかえ り見ているひまがなかった。 段つけられた、果実の感じがした。 の鳴りわたる非常ベルで、とび起ぎるまでに、一時間も睡廊下を折れ曲ったとたんに、ぶつかったのは、巡査では なくて松だった。 貴っていたのだろうか。 弾丸雨飛の戦場では、散兵線の進撃のさい、グズグズせ「き、きました。とうとう、やって来ました」 と言う、松のふるえ声を聴くと、私のふるえは止まっ ずになるべく早く前進した方が、安全で有利な地点にたど りつけるそうだ。少しでもためらっていると、結局、身をた。誰かが先にあわててくれると、こちらのあわて方が、 なつめ しちょうたい
をしいところで、せりあった。私が三十三点。徳川さんが全身がけいれんしているのだ。照星は心理の暴風で、大ゅ れに揺れて、定まるあてもないのだ。乳房の下で、呼吸が 三十五点。あと一発。 これは私が 7 点。徳川さんはついに下って、 5 点。結みだれてくる。歯と歯とかちあう音が、自分の耳にきこ える。「どうして、こんなことに。西の丸のお兄さまに愛 局、二人とも四十点なりの同点である。四十点なら、専門 されるなんて、そんなこと夢にも思っていませんでした の歩兵でも上々の成績だと、兄がほめてくれた。 いよいよ、節子の出番だった。受持ちの生徒のすばらし ・ : 」猛田家では、感情を露出することは ( ことに女性に い腕前に気をよくした先生は、私たちを後へ退げて、一列は ) 厳禁されているはずだった。義人さまと節子とのあい だにはさまった、むのわだかまりが、この射撃でみなさん にならばせた。 どのう 土嚢の斜面には、義人兄さまと猛田節子だけがとりのこの目にさらされるようにでもなったら、節子は申しわけな くて、死にたいほどだ。そう思って見つめる標的は、七色 された。 節子は腹ばいに、身体をのばし、兄は片ひざ立てて、その虹が一点をめぐるように、かすんでくる : ひきがね そば の傍によりそった。節子の引金は、なかなか引かれなかっ最後の一発。とうとう、それも。点だった。しかもそれ だんこんさが は、壕内の兵がやっと弾痕を探し出せたくらい、的をはず た。銃ロも、小きざみにふるえていた。 れていた。 「おちついて。おちついて。そう、それでよろしい」 第一発の発射音。 0 点だった。私たちの列に、ざわめき起ち上ろうとする節子に、兄は思わず両腕をさし出し が流れる。徳川さんの舌なめずりして、うれしそうなこた。使用ずみの歩兵銃だけは正しく、指定の位置にもどし と。第二発、 1 点。第三発が、またも 0 点。第四発になって、節子はのろのろと起ち上る。額に手をあてがって、は て、ようやく 4 点。合計 5 点にしかならない。私は安心をすかいに上半身をよじるようにして、やっと立った。そし 通り越し、不安になってきた。兄の手紙にお返事を出せなて次の瞬間、精も根も尽きはてたように倒れた。兄の腕の いことが、節子にとってはとても堪えがたい負担になって中に、しめしあわせて抱かれるようにして、のめりこん いるのだ。わざと、私たちに勝を譲ろうとするのか。い みくだ や、いや、そうではない。そのような礼を失した、見下し先生が駈けよるまで、せいぜい三秒か五秒、そのあいだ たような行為をする節子ではない。彼女はおそらく、兄の貧血して目のくらんだ彼女が、はたしてどの程度まで兄に けんしん まごころ、兄の愛情、兄の献身に対して申しわけなくて、抱きかかえられていると、意識していたろうか。・せん・せん からだ 」 0
: ええ、それは」 は、あるはずがありません」 「返事はお出しになっていないのね」 「そうね。きらいと言うこともないでしようけど。でも こればかりは好きずきですから、そう好きでもないという 「そうなんです」 いいんでしようか」 「で、私が何か兄におったえしたら、 ことは、あるでしよう」 「どうしても、御返事があげられないもんで」 「 : : : お手紙をいただいただけでも、とてもうれしかった 「で、どんな御返事でしようか」 くらいですから」 「ええ、はっきりしたことが申し上げられないので : : : 」 「そう兄におったえして、よろしいの ? 」 「私にですか」 しいえ、それは困ります」 「いいえ、その御返に」 「な・せ、お困りなの」 ( 「よろしい、よろしい、答えられないことは答えないで「ええ、それは、もしも私がそう言う返事をさしあげれ よろしい」という、学芸院の老教授のロぐせを、私は想いば、お様の心を、ことさらひくようにしむけるようです 出した ) 「兄が節子さんを好きだという、そういう手紙だったんで「でも兄は喜びますわ、きっと。返事ももらえないで、ほ うっておかれるよりは」 すね」 節子は、男だ 0 たら誰だ 0 てホロリとしそうな、える節子はそれこそ、自分自身が死人にな 0 てしま 0 たみた いに、コチコチに固まって身動きできないように見うけら ような眼つきをした。 「節子さんが兄をきらいだと言う、まさかそんなことでれた。 「節子は」と、低くつぶやいただけで、声が切れたりす ししえ、きらいだなんて、そう言うことでは : : : 」 の兄弟びいきをするわけではないけれども、義人兄さまな「節子は、義人さまを喜ばせることができるような、そん 族 ら大がいの少女、ことに「さくら会」の会員には、まちがな女ではございません」 しいが、第一「こころ」 いなく好かれる男性なのだ。顔も、 私は、わざと発言しないで、いがらっぽい落葉の匂いの する、あたたかい空気を思うぞんぶん呼吸してやった。 が良いと私は信じていた。 「氷見子さんのお兄さまを、私がきらいだなどと言うこと「お手紙をいただいて、眠られないぐらい、うれしくて、 にお
ないんでしよう」 おそらく私が問いつめるまでもなく、兄はこの難問で、 恥をおもえや、つわものよ。 肉も骨も痩せほそっていたにちがいない。殺気をはらんだ 死すべきときは、今なるぞ」 仲間どうしの、斬りつけるような討論で、きたえられてし その歌にまじって、大山のおかみさんが「いやでごわ まった兄の耳が、私の、あいまいで、その場かぎりのことす。死ぬのは、いやでごわすぞ。生きたいですたい。死な ばをうけつけようとしないのは、当然なのだった。 んですたい」と、さわぐ声がきこえる。 からた 私と兄の足もとに、猫が一匹ずつ、身体をこすりつけて母は、減魔教の幹部会で、るす。父は、沼津から帰った いる。兄は幼年時代、猫の気持を察してやるのが、うまか氏と、どこかの料亭で秘密の相談をしているはずだっ っこ 0 た。 ( まさか、節子と密会しているのではあるまい ) 「こいつは、徳川家康の子供かな」 胴上げの儀式で、汗まみれにされた兄に、から電話 「ちがうわよ。子供はもう死んじまったの。これは、お孫がかかった こしひ、 さんよ」 仕度部屋にもどった兄は、緊張をかくすため、腰紐で猫 私たちは、三匹の猫に、それそれ英雄の名前をつけていをじゃらしていた。 ねむ た。いつも睡たがって、何をされても怒らないのが「徳川 「すぐ、おかえりになるのね。運転手に、言いつけておき 家康」。利ロで、すばしこいのが「豊臣秀吉」。一ばん怒りました」 っ・ほくて、すぐひっかいたり咬みついたりするのが「織田「いや、車はいらない」 信長」だった。わたし、家康がいいわ。それじやボクは、 と、行先を知られたくない兄は、いそいで言った。 信長でいいや。と、私たちは毎晩かわりばんこに、好みの「今度は、いつおいでになりますか」 猫を抱いて寝床に入ったものだ。「秀吉」は誰にでも可愛「さあ、わからないね」 がられ、「信長」はみんなのぎらわれ者だったので、兄は「おとうさまに、おあいになる必要はないの」 気むずかしい「信長」を、ことさら大切にしてやったのだ。 「そうだな。おとうさまがお呼びになれば、すぐとんで来 味方は、おおかた、討たれたり。 るが。さもなければ、御遠慮しておく」 しばらくここを、と諫むれど」 「おとうさまと会われちゃ、具合のわるいことでも : : : 」 と、広間の女たちは、勇ましくも悲しい歌を合唱してい いや。親と子が会って、具合のわるいことはないだ る。 したく
正門の通路の雪を、かきのけた方がよろしいか、そのま武装して、待ちかまえていると言った好は、気づまり だった。お酒でものんで、前後不覚になろうか。いや、そ まにしておいた方がよろしいか、ききに、来たのだ。 のくらいなら、いっそのこと、例の睡りぐすりで、てっと 松も、警官たちも、今夜はねむらない覚悟なのだった。 り早く睡りに入った方が、よくはないか。兄に薬をのませ くせ者のチン入を防ぐには、雪があった方がつごうがい しんじゅう たからには、自分ものむ。そして心中者のように、兄妹ふ い、と言うのが大山巡査の意見なのだそうだ。 「この雪では、 いくら掻いても、むだですよ。何もみなさたり肩をならべて、ダブルべッドに横になる。そうすれ んで、不寝番する必要もないのよ。早く、おやすみなさば、兄に対する加害者めいた心ぐるしさが、いくらかうす らぐだろうか。 しっそう それともパッチリと、両眼を見ひらいたまま、刻々にち いかないのだ。 父の失踪を、彼らに知らせるわけには、 家のものには、守護したてまつるべき御主人は、在宅なのかづいてくる「異変」を待ちうけようか。その方が、いか だと、あくまで信じこませておかなければならないのであにもリリしく、けなげな、大和撫子らしいだろうか。 兄が寝台で目をさまして、妻のようによりそっている妹 雪の重みで、家屋の木組がひきしめられてくるようだ。を発見したら、肉感的な恥かしさで身ぶるいすることだろ しろいばけ う。お風呂のあとに「湯上り」を織った母、お白粉刷毛 げたんばけ と牡丹刷毛を使いわける母を、見てさえ、顔をそむけて、 終章節子と義人と氷見子 逃げて行く兄なのだから。 徳川さんから聴いた話だが、徳川さんのお兄さまは、中 ねむっている兄と、会話するわけにはいかなかった。 外出してしまった父とも、会話することはできなかっ 学一年のとき、異性の肉体を研究するため、妹の並をま くって、しげしげと観察なさったそうだ。かしこい徳川さ んは、お兄さまの研究心をさまたげないように、下半身を このさい、他の誰との会話に、意味があるというのか。 意味がある、ないと言うよりは、どだい口でしゃ・ヘり、耳裸にされたまま、睡ったふりをしてあげたそうだ。 義人兄さまには、とてもそんな真似はできない。たとえ でききとっても、それが「会話」になりそうになかった。 私は、スキイの服装を脱ぎすてて、一ばん派手な、うす私が、お兄さまの奥さんだとしても、よりそった私に、そ んなぶしつけな観察のできるひとではないのだ。 物の・ハジャマに着かえた。 ふしんばん やまとなでしこ
兄をねむらした私は、ひとりでに、父の書斎へ上る階段隠し通路は、一度利用すれば、その存在を嗅ぎつけられ の下まで行った。 るものであるから、めったなことで使用するはずはなかっ しよく 兄が来たと父に知らせることは、節子との約束を破るこた。いずれにせよ、百燭電燈のあかあかとともされた、あ とにはならない。 の主人なしの書斎に、とりのこされた空虚こそ、いよいよ 父はおそらく、自発的な睡りにしろ、不本意な睡りにしまちがいなく充実した危機を、ものがたるものではなかろ ろ、明日の朝まで自分をねむらすことはできないであろうか。 う。私にもし絶好のチャンスがあたえられたにしろ、西の十二時に、ちかかった。 またもや、兄の寝顔のそばにもどる。 丸秀彦なる男をねむらすことは、永久にできないように思 そうだ。兄はまだ、永久に睡りつづけるわけには、 われる。 ないのだ。もう三、四時間もすれば、めざめるのだ。 「氷見子でございます」 けつき もしも兄たちの蹶起が、ほんとうに明朝だとすれば、め ・ヘルには、応答がなかった。三回以上も鳴らすことは、 はばかられた。呼吸をとめて、室内の気配をうかがってかざめたときの兄の狂乱状態は、すさまじいものだろう。 やかた ら、階段をひきかえす。 討入りのめんめんが、「吉良の館」に乱入するのは、何 父は、居ないのだった。とじこもったはずの密室から、時ときめられているのか。兄は、はたして、その定めの刻 脱け出しているのだ。 限より早くめざめるだろうか。それとも、討入り開始にま ねむっているのでも、死んでいるのでもない。家人の誰にあわなくなってから、めざめるだろうか。その二つの場 にも察知されぬうちに、計画的に、私でさえ目撃したこと合の、どちらが、兄にとって幸運だと言うのか。すべてを みそなわす神の眼から見て、ねむりつづけて参加しない兄 のない隠し通路から、安全な場所に避難したのだ。 が、正しき人間なのか。それとも、身を殺して仁をなすた 段とすると、 0 博士の来訪の目的は、襲撃の日時をあらか のじめ父に急報することだ 0 たのか。よほど前から、 0 博士めに、大義、を滅する決死行に、参加する方が、正しき 族 と父とのあいだに、何か特別の密約があって、博士は極秘行為なのだろうか。 の情報を「売りに」ぎたのか。それとも、父には別の情報宇宙一ばいにひろがる神の心臓の、ひと打ち、ひと打ち 網があって、そこからの急報で、身をかくしたのだろうのように、時がきざまれて行く。 、 0 松が、忍び足で寝室に来た。
326 とっくり話しあいたい下ごころがあった。さもないと妙な 「猛田さん。髪がこげますよ。熱くないの」 きれつ と、先生が注意しなければならない こじれ方をして、亀裂が入る。たとえ外界の大変動がなく 「さっき、と»-2()5 の射撃をやったんですが、猛田さんても、この二人および私が、らでもの不幸を自分たちの が一ばんでした」 手で招きそうな予想がする。 と言う先生の報告を、兄は気恥かしそうに、しかし嬉し「軍隊は平等だと言うことが、つくづくわかりました」 と、兄に聴かせるため、先生は勝手にうなずいている。 そうに聴きとっている。 「そうでしたか。妹も川さんも、射撃はうまいはずです「それだけに、西の丸さんのお兄さまなど、ひと一倍、御 苦労がおありでしようね」 が」 「徳川さんは、何かほかのことに気がまぎれて、精神が散「いや、そう言うことは別に : 「子供のときから肉体労働できたえたひとたちと、かわり 漫だったそうよ」 と、私ははじめて兄に、ロをきいた。すると、気分が楽ない勤務をおやりになることだし」 「軍隊には、もちろん、差別や不平等があっちゃいけませ になった。 しんく 、らしづけ 茄子の煢子漬、 ( ゼの佃煮、こまぎれ豚肉と馬鈴薯の煮んから。閣下から一兵卒まで、辛苦を共にする。これが陸 つけなど、配給されたオカズはどれもおいしかった。辛子軍の理想です。しかし実際にはやはり、全然えこひいきな 漬は、気分をしつかりさせて、難行軍のときなど効き目がしとは言えません。・ほくなんかは西の丸と言う家柄のおか げで、ずいぶん恵まれてるんですよ」 あるそうだ。 「でも、さきほどの少尉さんのお話じやア、そうでもない 「猛田さん、いらっしゃいよ。なにしてるの」 兄をとりかこんだグルウブの方へ、徳川さんが節子を迎ようでございますわ」 「・ほくがもし、百姓の次男坊だったら、この歳で見習士官 え入れた。 めずら 。ハンディキャップがついてます 御飯の出来を批評しあったり、珍しい食器をかかえこんになれつこありませんよ だり、お湯を注ぎこ・ほしたりして騒いでいるから、節子だからね」 って兄だって、内心の苦痛をおしかくすのはやさしいはず「しかし、恵まれているだけに、憎まれたり、そねまれた り、色々あるんじゃありませんの」 だった。特に、兄には、先ほど少尉から指示された大切な 「待って下さい。そう、そう。少尉殿の演説の説明をして 使命があった。私には、できたら兄、節子、私の三人で、 つくだに はれいしょ
い男と女なんだから」 「大体は、わかるよ。むろん、わからないところもある」 「もちろん、節子さんと少尉が結婚するかどうか、私、 「西の丸秀彦というは、一体どういう人物なんでしよう しりません。でも結婚するとして、お兄さまより少尉のか。私、ときどき悪人の一種じゃないかと、思うことがあ 方が、よい相手だとは思えないわ」 るの」 「ともかく、・ほくは失格者だからな。せめて、・ほくのこと「つまらないことを、ロにするな」 で節子さんに、迷惑をかけるようなまねはしたくない」 「でも、ほんとうにわからないんです。お兄さまがたが、 「お兄さまと結婚したら、節子さんが迷惑することでもあどう思っていらっしやるのか、教えて下さい」 るの」 「教えれば、氷見子がなやむだけの話だ。おまえはただ、 「・ほくが、そう言う話をしたくないのは、君だってよくわおとうさまは立派な男性だと、信じていればいいんだ」 かってるだろ。それをどうして、そんな話をもちだすのか「でも、少尉などに言わせれば、おとうさまは、悪人中 な」 の悪人と言うことになるんでしよう」 子供のときから、足袋のこはぜをはめるのが下手だった兄はなやましげに、ロをつぐんだ。 兄は、今日も白足袋で手こずっていた。 「あの方などに言わせれば、西の丸秀彦が最悪の敵にあた 「ハイ。やめにします」 るんじゃないんですか」 「大体、おまえは好ききらいが、ひどすぎるんだ。氷見子「 : : : 男が男を敵にするばあい、相手が悪人だから敵とす の好きな人間が、不正な人間で、氷見子のきらいな人間るとは、かぎっていないんだよ」 が、正しい人間だってことも、ありうるんだからな。それ「でも、敵とはきめているのね」 に、おまえは何と言っても、女だからね。少尉や・ほくた 「男どうしが敵になることは、恥かしいことじゃないから 段ちの気持は、わかるはずがない」 な。問題は、敵どうしになってからの、態度なんだ」 「どういう態度が、いい態度なんでしようか」 の「ええ、わかりません」 「 : : : さあ、それは。それは、一口に言えないよ」 貴「そうだろう。それでいいんだ」 「少尉やお兄さまの気持が、わからないだけじゃありま「敵ときめたからには、どんな手段ででも、ほろぼさなく ちゃならないんでしよう。ほろ・ほすのが目的なんですか せん。お父さまの気持も、わかりません。お兄さまには、 わかりますか」 ら、いい手段、わるい手段と、えらんでいるわけにはいか