大山 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 37 武田泰淳集
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1. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

314 その夜の記録に、警官の動揺の話があったので、ほんとる。大山の方はいつでも礼儀正しく敬礼するが、彼女はお あいさっ にそんなものかしらと、大山巡査の長屋に、次の日行ってとうさまにもろくに挨拶しない。 みた。 私が行くといつも、人類全体を呪っているような、濁っ 大山巡査は発明狂で、木工が好きなので、彼の家庭では た白眼で私をにらむ。 = スや = カワの年いが漂っている。発明品は、病人が寝た「人間なんてどうせ、たいしたしろものじゃありませんか どろ しかけ まま本を読める仕掛。どんな泥んこ路でも泥をはねかえさらね」 ない自動車の泥よけ。いずれも、特許をとりそこなったも だらしなく着た、色あせた和服の太い胴まわりのあたり のばかりだ。 に、世間はばかばかしい、つまらない、めんどうくさいと こあな 孑があいてし 言った気分がまといついている。 大山家のガラス戸の板張りの部分には、 へび 「右翼の連中は天皇天皇と、自分だけが陛下をかついでい る。そこから「大山のかみさん」の可愛がっている蛇が、 出入りするためだ。おかみさんは冬など懐中で、蛇をあたるつもりになっちよりますが、陛下は何も奴らばかりの陛 ためたりするので、女中たちに恐れられている。滅魔教でドじゃありまっせん。国民全体の天皇ですたい」 は、おかあさまの先輩だし、今までつれそったお亭主は彼憲兵と警官の対立について質問すると、大山は・ヒッチリ ひざ 女のエネルギイに負けたのか、三人とも死んでいるので、膝を折って答えてくれる。 何となく取り扱いにくい実力者めいた中年婦人だ。五・一 「右翼の連中は、巡査と言えばすぐ犬のごと言いよります せいがん 五事件で、重臣の家を守る請願巡査が射殺されたりしてか が、巡査も国民の一人ですたい。奴らと何のちがいもなか ら、四人目の大山巡査もながもちしそうもないと、うわさと思っとります」 されている。 おかみさんは、渋うちわにことさら音をたてて、七輪の 「討入りがあれば、まっさきに死ぬのは、うちのひとです炭火を煽いでいる。 から」 「五・一五の海軍士官や血盟団の水戸農民が、護衛巡査を と、おかみさん自身が不吉な予想を、平気でしやべってビストルで射っとき、どんな気持ばしたとでしようか。ま ねすみ アるで、大猫か鼠でも射ち殺す気持だったでしようが。名 彼女が軽蔑しているのは、自分の夫ばかりではない。西誉ば暗殺団の連中のみ取って、殺される方には、名誉も大 の丸の長屋に住みながら、西の丸家・せんぶを軽蔑してい義もなか。こぎゃん馬鹿らしかこと、あるとですか」 けいべっ あお のろ しちりん

2. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

仙 大山氏の死体は、ねむらされたとは、義理にも言えな赤ん坊より、もっと厄介な物体となって、私の下半身に、 ししゅう 、文字どおり「・ハラされた」感じだった。 重くもたれかかっていた。まだ屍臭など発するはずはない にお 握った刃を引かれたため、指二本が、わずかに皮でつなのに、例の絶望的な匂いが、ただよいはじめたように思わ がっていた。 れた。面積、体積、容積と、数学の教科書には、大へん明 血だらけの気味のわるい物には、ふだんなら近寄りもし快で、つごうのよい単語が利用されている。けれども、 ない私が、松と二人で大山さんを、とびつくようにして抱ざ死んだとなると、人体には、これがあるから困ってしま くや き起したのは、今まで何一つ抵抗のできなかった、口惜しうのだ。 そうさく さからだったのか。いや、ちがう。私には、抵抗する気持階上では、破壊と捜索が、つづけられている。その熱心 ぎきょ など、とても起きなかった。松のかいがいしさに、引っぱ な「義挙」とは、まるで無関係なように、肩を射たれた下 られて、手つだったにすぎない。 士官は、フラフラと歩きはじめて、また別の柱にとりすが 「大山さアん。大山さアん」 った。脚を射たれた兵士は、戦友にたすけられ、起き上ろ しり と、松は大声で叫んだ。私には、気恥かしいのか、おつうとして、「痛い。痛い」と、また尻もちをついていた。 くうなのか、叫・ヘなかった。 いくら荒れまわっても、父を探し出せないで、私たちの 生の躍動から死のこわばりへ、移りゆく最中で、呼吸も所へ降りてきた、将校一一人の顔つきは、みじめなものであ みやくはく 脈搏も、かすかながら在ったはずだ。死にかかった顔、死った。勝利者の誇りを失ったため、討ち入って来たてのと んで行く肉は、人生無常を感じさせるよりは、むしろ、人きより、はるかに険悪な態度だった。 生醜悪をお・ほえさせるから、冊らしいのだ。意識のある「こいつ、敵ながら、あつばれだった」 しかまね 顔、まだ動ける肉なら、さほど場所ふさぎの感じがしない 少尉は、ことさらおちつきを見せ、大山氏の見に向 のに、意識のなくなった顔、動きの止まった肉という物って、片掌拝みに拝んでいる。 は、まったく場所ふさぎのために、がん張っているように「報告にまちがいは、ないはずだ。秀彦の居ないわけはな 見えて仕方ない。死ぬと、固い死骸になって残るから、 けないのだ。影も形もない、気体となって消え去れば、し 「もう一回、探すんだ」 いのに。 「猫の子一びき、逃げ出せるはずはないんだから」 きらこうずけ ・ハラされた大山さんの身体は、泣くよりほかに能のない 「吉良上野が、どこにいるか。徹底的に、しらペろ」 かたておが やっかい

3. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

声が起った。 大山巡査は、ビストルの弾丸を射ちつくした。 ひとり生き残った、大山巡査が、書斎の階段の下で、最彼は、物陰からとび出すとき「天皇陛下・ ( ンザイ」と叫 後の抵抗をこころみているのだ。 んだ。 なだれ カーキ色の雪崩に、ひきずられるようにして、私たちも そして、階段を駈けの・ほろうとする、少尉に組みつい そちらへ行く。 た。巡査は、少尉を投げとばした。仁王立ちになった大山 鉄格子のシャッタアを破壊する、軽機関銃の乱射。 氏の背なかから、銃剣が突き刺された。まだ倒れないでし 「ここだ。今度こそ、まちがいない」 ると、今度は、おなかの方から、別の銃剣が突き刺され 「負傷者は、後退しろ。邪魔になる」 た。前うしろから、突き刺された二本の銃剣のうち、背な 「何をグズグズしとるのか」 かの方はすぐ引き抜かれた。だが、おなかの方は足を掛け がんじよう 庭に散兵線を敷いていた兵士たちも、頑丈な戸板を踏みて、引き抜いたのである。 たおして、一せいに乱入していた。 銃剣は両側とも、とても深く突き刺され、突ぎぬけたか そのため、荒々しい男たちの姿は、ものしずかな夜明けら、先に突き刺した兵士の手は、あとから突き刺された銃 の光線にうかびあがる。 剣で傷がっき、血が流れ出したほどである。 「階段をのぼれ、階段を : ・ : こ 「天皇陛下・ハンザイだと。こいつ」 音たかく記けのぼ 0 た兵士が、一人、二人と階段をこ と、立っていた兵士の一人が、あきれたように言った。 くちき こうすい ろげおちる。 カーキ色の洪水は、朽木でも一本根こそぎにしたよう 姿をひそめた大山巡査の、拳が射ちおとしているのに、大山さんの身体一つをのこして、階上〈押し上 0 て行 段「お父さまは、いません。お父さまは、いません」 脚を射たれた兵士が、へたりこんで、戦友にゲエトルを のと、私はもう少しで、叫び出しそうだった。だが、叫ぶほどいてもらっていた。彼は、うつろな目で、倒れ伏した ことができなかった。 巡査の方を見ていた。もう一人、肩を射たれた下士官が、 殺すべき「主人」は、もぬけの殻で、居ないのだ。それ荒い息を叱いて、やっと柱にとりすがっていた。 だのに、殺す方と守る方が、むごたらしい殺し合いをしな 血まみれの人間は、善人、悪人にかかわらず、ほんとに ければならないのだ。 気味のわるいものだ。 じゃま

4. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

め、皇道派と統制派の別なく、軍部はますます硬化すると「早く、火をつけて下さいよ。寒くて仕方ありやしない」 きゅう、、、 ぎようぎ 言う話だ。 お灸のもぐさが九つ、おかみさんの背なかに行義よく並 天皇機関説が禁止された。 んでいた。 ・・ 0 ラインとかいう一本の線が、日本列島の周囲大山巡査は、めんどうくさげに、線香に火をつける。 にはりめぐらされ、日本商品の輸出が、ビタリととまって漢方薬や、お灸のもぐさは、妙にしんみりと、いじらし しまったそうだ。 い匂いがする。大山家の軒先には、薬草ゲンノショウコが ひばち 「もうこうなったら」 吊るさげてあり、ふちのかけた火鉢には、毒ダミをせんじ どびん と、大山巡査は、興奮して言う。 る土瓶が煮たっていた。 「もうこうなったら、日本は全力をあげて州国を守り育「そうすると、大山さんの考えは、青年将校たちの考え てるよりほか、生きる路はなかとです」 と、おおよそ同じなんですね」 うれ 「でもこのあいだ、一 = 調査にきたリットン卿に、叱られたば 「そうですたい。国事を憂える者の気持に、ちがいはなか かりじゃないの」 とです」 「リットン卿とやらが、なんですかい。あんなイギリス人と、大山さんは嬉しそうに、肩をそびやかす。 やアメリカ人なんかの言うことをきいていたら、日本帝国「兄もきっと、そういう思いで、思いつめているんです ひん はジリ貧になって、あげくのはては野たれ死にするよりほね」 かは、なかとですそ。東北の貧農をば、どしどし満蒙の天「義人さまも、同じ考えをもってるとですか。ああ、うれ おうりト - っこら・ - 」 ~ 、りゆにノ - 一ら・ 地に移住させる。鴨緑江や黒竜江に、大発電所ば、ぶったしか。たのもしか。あんひとは、まッことよか人ですけ てる。三井、三菱などはほったらかして、国家の資本、国ん、今に偉ら者になられます」 「アチチチチイ : 民の労働力で、あの大陸に新しい工業地帯を建設する。こ あおじろ げな狭い島ん中に、蒼白きインテリばかり育てておったの お灸の熱をがまんして、おかみさんは海老のように上半 あか では、アカも出るわ、垢も出るわ。だんだんと国じゅう腐身を曲げていた。 「アッ、 って行くばかりですたい」 アッ、アチチイ。義人さまは、なにをまちがって 「あなたア」 軍人になんか、なったんですか。あのひとは、どう考えて と、油ぎった背なかを肌ぬいで、おかみさんが叫ぶ。 も軍人には、アチチ、向かないでしようが」 せま みち しか こ、′か っ にお うれ せんこう

5. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

じゅんし 「殺されないように、自分が気いつけたらよかったのさ」て、大山さんが殉死したとして、それで名誉のために死ん 炭いじりしたおかみさんの掌は、悪魔の手のように真っだとお思いになる ? 」 黒だった。その黒い掌をこちら向けに開きながら、おかみ「職務に殉ずるのは、男子の本懐ですたい。思いのこすこ さんは毒づいている。彼女は浅草の特殊部落生まれだが、 とはなかとです」 かく′」 九州弁もまじっていた。 「それはお偉いお覚悟ですし、大いに感謝してますけれ 「何も殺されるために、傭われたんじゃあるまいし。そぎど。でも、やつばり男のひとの気持は、女とはちがうの ゃん馬鹿らしかこと厭だったらとっとと逃げたらよか。死ね」 ぬものに名誉も大義も、あるもんかい」 え。ちがうもんですか」 おなご 「女子は、それでよか。男はそうはいかんばい」 と、おかみさんは無遠慮に黒い掌をふりうごかした。 「女子の腹から生まれたくせして、何のちがいがあるもん「このひとは要するに、大奥様にほれちまってるから、頭 か」 に血がの・ほってカアーツとなってるんです」 大山巡査は私の前で夫婦嘩を演じたくないので、膝頭「シッ、失礼なことをば申し上げるな」 ににぎりこぶしを置いて我まんしている。 「大山さんがおかあさまをお好きなことは、氷見子も知っ ててよ」 「総理大臣や華族や貴族は、殺される前に、それだけいい 思いをしてきてるんだろ。わたしたちみたいに、一生陽の私にそう言われると、巡査にしておくのはもったいない あたらないジメジメした想いをしてぎたのとは、わけがちくらい立派な彼の顔は、みるみる紅潮した。 がうんだよ。だから殺されるには、それだけの理由があっ 「お嬢さまともあろうものが、不良少女のようなことをお て殺されてるんだ。あんたみたいな下ッば巡査が、そんなっしやる」 「氷見子さまは、不良よ。わかってます」 段巻きそいを喰ってたまるもんかね」 と、おかみさんは、亭主の恐縮ぶりを冷笑するように言 の「死ぬとき死ぬのを、おれは少しも怖れてはおらん。どう 貴せ死ぬなら、国のため名誉のため死にたいと言っちよるのった。 「義人さまは、まあまああれで、どんな家に生まれようと 「でも、大山さん」と、私は言った。 まっとうに成人するお坊っちゃんですよ。氷見子さまとな ると、そうはいかない。もしもこんなお屋敷に生まれてい 「おとうさまが暴漢に襲われて、おとうさまの身をかばっ

6. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

内の線へ急速に接近したのは、やはり父の心のどこかに急内した ) 進派、維新派に対する反発が在ったからであろうか。感覚東京府、東京市の教育家、ならびに学校職員の父母、配 的にイヤなものはイヤだと言う、ノンシャランなわがまま偶者、学生幼児の父母保証人のかたがたは、南体操教室 がはたらいたかも知れないし、もっと利己的な保身の術かへ。本校出身のおねえさま、おばさまがたは、西体操教室 ら、皇道派の没落を見越して、変心したのかもしれない。 「おれは暗殺団などに、おそれをなして、動いているわけ天井にひるがえる万国旗は、世界中の色どりをあつめた じゃないぞ」と言う、妙なみえを張って、強がった結果かように、鮮やかだった。その下の来賓は、黒い髪、黒い もしれないし、「チンの許可なくして、つまらぬ騒ぎをや眼、白いおひげ、白いカラアで、白布をかけた立食のテ工 るのは、 いいかげんに止めにせよ」と言う宮中の意向を、 ・フルにすし詰めになっていた。 あえおんけん かしこみ守るために、敢て穏健派に味方したものか。 窓の外には、たのしげな小鳥のさえずり。なめらかなマ しゅうたい 政治の中心にひきずり出されて、醜態をさらすのがでイクの声、せい一ばいのレコオドのヘロ唱。うららかにはれ つの・い たまらないので、できるだけ、たぐりよせる釣糸に反抗した冬の陽のひかり。すべて、申しぶんがなかった。 て、釣師の予想のつかぬ撥ねかたをしたがったものかもし「今日もまた、おとうさまをねらっている奴でもいるの」 れない。 「シィッ。そげなこと、こんな場所で、ロにされるもので 祝賀式の当日、学校の玄関には、花嫁のつのかくしそっ はなかとです」 くりに、紫の幕が垂れていた。それはふたり並ばされた陰大山巡査は、紙コップのビールにも手を出さず、警戒厳 気な花嫁の、二つのつのかくしだった。ありきたりの木造重だった。 校舎のまんなかに突き出した、礙風づくりの玄関は、ふだ「あら、これじやすぐ、巡査とわかってしまうじゃな、 らいひん 段んの日でも仏殿をおもわせる。早くから詰めかける来賓やの」 の父兄は、告別式に招かれたように、きまじめな顔つきで集と、徳川さんは、大山氏のツンツルテンの背びろの袖ロ きようえん 貴まってきた。なにしろ千二百のお客さんだから、饗宴の常をひつばって、なおしてやった。 は、三つに分けなければならなかった。 「ほんとに、大山さん、しつかりしなきやダメよ。氷見子 北体操教室には、内閣、宮内省、有爵者のかたがた。 さんのおとうさま、これからがあぶないんだから」 ( 大山巡査につきそわれた父を、連絡係の私は、ここへ案「わかっとります」

7. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

316 なかったら、今ごろ芸者かなんかになって、中年男の客を「ああ、悪魔のことですか。それだったら、気にするこた ないよ」 手だまにとっていたか知れやしない」 と、おかみさんは自信ありげに言う。 「そうね。そうかもしれない」 長屋のはずれには、井戸型の汚水だめがあって、石鹸の「氷見子さまに付いているのは、たいした悪魔じゃない あわ ほんのこれつばかりの、小さな悪魔だ」 泡の浮いた灰色の水が、いつも匂っていた。ほそいほそい 糸みみずが、汚水の流れに流されかかって、髪の毛のよう「おとうさまのは、第一悪魔でしよ」 だんな 「ああ、旦那さまのは、名前こそ第一だけど、やつばりた になびいている。糸みみずの群は、目ざめるばかり美しい なが 桃色をしているので、子供のころはしやがみこんで眺めるいした悪魔じゃないよ。日本人には昔つから、でつかい悪 みぞ のが楽しみだった。オケラという面白い虫も、ここの溝の魔はつかないことになってるからね」 どろ 「どうしてなのかしら。やつばり、国が小さいからかし 泥から掘り出したものだ。 「賤 1 い女子は賤しいことしか、言わんですたい。気にせら」 「そう、そう、なにしろ国が小さいから」 んとよかです」 イうちょう 「今はまだ小さい。しかしこれから、いくらでも膨脹する 「賤しい女子でも、天下一品の宝げを持 0 てるですけに。 んだ」 大山巡査は別れとうもなかですたい」 綺麗好きの大山巡査は、起ち上ると黒ヘルの制服に、プ と、おかみさんは腰を振りながら言う。 ラシをかけはじめた。 「宝物」とは、女性の生殖器のことにちがいない。アレが 宝物、おかみさんのアレが天下一品の宝物だと言われて「満州も取る。シベリヤも北カ・ ( フトも取る。南洋もと も、私の未熟な性感覚では、実感としてビンと来なかつる。そういつまでもちぢかまって、白色人種の言うことを た。しかしおとうさまは「大山のかみさんは、お前らよりきいてばかりおられんですたい」 うそ 嘘は言わんよ」と、おっしやっているから、きっと事実な「夢みたいなこったよ」 さんぼう のだろう。 「夢のごとあるが、夢ではなか。義人さまが陸軍の参謀長 になられるころには、日本は大発展、大飛躍をやらかすけ 「おかあさまは、おとうさまにも私にも、悪魔がついてい ると断言なさってるけど、あれ、おかみさんから教わったん、見ちよれよ」 「そんなものしてもらいたか、ないよ。それより、長屋の んじゃない ? 」 にお おそ せつけん

8. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

396 巡査たちが、急には父の書斎の方へ駈けつけなかったの しずまるものだ。 次にけつけたのは、意外にも、大山のおかみさんだっは、父の所在地点を知られたくないためだったか。それと た。彼攵は長屋の寒さに閉ロして、松の部屋に泊っていたも、射撃することが手一ばいで、やってこれなかったの ・カ のだ。 正門を突破した部隊が、四方に散って、建物の周囲に乱 彼女が松よりおくれたのは、来るまでに通りすぎる電燈 入したばかりでなく、塀外のグルリも包囲していた。あと のスイッチを、一つ一つひねってきたからだった。ひらい た蓮の花を、にす・ほめるようにして、彼女が光の路を消で調べると、仕度部屋の洋服ダンスにしまった、父の大礼 だんこん してきたあと、兵士たちは、闇の蕾をこじあけるようにし服にも弾痕をとどめているくらいだから、興奮した兵士た て、また点燈してこなければならなかったのだ。そればかちは、不必要な弾丸もめたらと発射したのだ。 りではない。大山のおかみさんは、部屋から部屋へくぐり大山氏をのそいて、三名の警官が射殺されるまでに、五 ぬけ、通過する侵人者のうしろにまわり、兵士たちのつけ分とはかからなかった。それでも、防備側は、市街戦の射 まちかど 手が街角や・ハリケードを楯にとるようにして、後退しなが た電燈を、また消して歩いたのだ。 ら応戦したのだ。 「来たって、誰がどのくらい、来たんですか」 「本ものの兵隊が、百人か二百人。どうにもなりません私たちの耳には、あらゆる方角で銃声が起り、四方八方 から、怒号と弾丸が私たち目がけて集中してくるようにき よ、こうなっちゃ」 のど こえた。 咽喉もとをつまらせた松に代って、おかみさんが言っ こ 0 消した電燈のともされる方角が、カーキ色服の男たちの ひ」きよう やってくる方角だった。 「卑怯者め。数で来やがった。負けてたまるか」 松は、私の身をかばうようにして、私に抱きついてし しかがしますか」 「殿様の方は、 た。松の身体のうごきで、彼女が、カーキ色服の男たちの と、松がすがりつくように言うのは、もっともだった。 もともと、チン入者たちの殺害すべき目標は、父ひとりな方へ駈け出そうか、それとも父の書斎の方へ駈けつけよう か、とまどっているのがわかった。 のだから。 「おとうさまは、するべきことは御自分でなさるから、大「畜生め、どうしてくれようか。負けてたまるか」 おかみさんは、闇の中で、うなるように言った。 丈夫よ」 みち たて

9. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

た。大悪魔なら、小悪魔に利用されるような、ヘマはしな 隅にも、階段の足ざわりにも、暗い緊張がただよってい いだろう。 「あんたが・ほくに目をつけたのは、実に目がたかいよ。父 タぐれどき、 0 博士が来訪された。 そのまえに電話の連絡があって、父は、博士の来訪を予上のことは、まかしときなさい」 と、彼は不器用な手つきで、私の肩をかるくおさえた。 知していた様子だった。 ちゅうざん 長身に、黒いダ・フダブの中山服 ( 孫文のまねをして、支「どんなことがあっても、おどろいてはいかん。悪いよう には、しないつもりだから」 那浪人が愛用する、黒ボタンの服 ) 、血の気のうすい顔に、 父とは、ほんの十五分の会見だった。 黒眼鏡。 書斎へうつるとき、父は、私が二人の会談のメモをとる 「ほんとに気味がわるい方で、ゾッとしますね」 ことを許さなかった。 と、松が批評するのも当然なのだ。 書斎のある別館へは、湯茶をはこぶことも禁止されたく だが私は、「怪物」と称される 0 博士が、女性関係で は、カラ意気地がないのを、よく知っている。彼はおそららいだから、よほど厳秘の会談であったにちがいない。 く、八百屋や魚屋の小僧さんより、はるかに生の喜びを知「今日、 0 さんが見えたことは、誰にも言うなよ」 らない男なのだ。 と、父はめずらしく、私に注意した。 「御安心なさい。・ほくはあくまで、、西の丸さんの味方です「氷見子だから、うちのお客さんについて、他人にしやペ そ」 る気づかいはないだろうが」 応接間へ案内する私の首すじに、博士は、そうささやき 0 氏は、裏の小門から入り、また裏口から帰って行った。 「今晩から明日の朝へかけて、どんな客がきても会わない かけた。 段「しん・ほうしなさいよ。もうしばらくの、しん・ほうですからね。取次は、絶対にしないように」 「宮内大臣とか、総理とか、内閣の方のお使いでも、通し のそ」 彼は、催眠術師のように、のみこみ顔になれなれしく言てはいけないんでしようか」 っこ 0 「そうだよ。病気で寝ていると言えば、それでいいんだ」 もしもおんなじ悪魔だとしたら、父が第一悪魔で、彼が「非常のことで、大山さんや警視庁の方が、お話があると 十番目以下の小悪魔であることを、ひそかに、私はねがっ申し出ても、お会いにならないんですか」 せみ こ 0

10. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

* けつめ、 「うちの亭主のしゃべること聴いと 0 たら、神兵隊か血盟「青年貴族の指導者に、失望す、 団のごとある」 「右とも左ともっかぬ、ヌエの如き存在」 かたき おくびよう 大山夫妻は、まるで絶対にあい容れない仇どうしのよう「国士の皮をかぶった、臆病者か」 に、やりあう。しかしもしかしたら、仇どうしのようにな「沼津の大じいさまより、はるかに劣る、東京の小せが れることが、実はもっとも親密な人間関係かも知れないのれ」 ュワンチャア など、など。 だ。現代支那語では、愛するひとを「怨家」と呼ぶそう 」 0 「陸軍のお金が、ずいぶん、新聞社に流れているらしい 私は、誰と仇どうしになったら、よろしいのだろうか。 よ。それでなきや、あんなひどいこと、書くはずないわ 節子とだろうか。父とだろうか。それとも、少尉や、 0 よ」 博士とだろうか。 と、徳川さんが私を、なぐさめてくれた。 「 Z 公爵は男より、女が好きか」 一一月一一十五日。 と、出ていたとき、私はドキリとした。節子のことが、 水道管が、寒さのため破裂した。電話線が故障して、なもれたのかと勘ちがいしたからである。しかし、それは芸 かなか通じなかった。 者とか女将とか、未亡人とか言った婦人との関係を、にお 密封したガラスの容器の中で、おまもりのオシャリ様わせているに過ぎなかった。 が、いつのまにか溶けてなくなっているのを発見。お母さ うちの者どうしで、父に関する風評をとりさたすること まには、心配させたくないので、話さないことにした。 は、遠慮されていた。それに、父の政治的立場が、命をね しているシ蛇が重病なので、大山のおかみさんらわれるほど危険なものかどうか、政情を判断する能力な が、気ちがいみたいになっている。 どあるわけがなかった。 ムきげん 女たちも、いらいらと不機嫌そうだ。 母は、 警視庁から、念のため二名の巡査をさしまわしてきたの 「おとうさまにケチをつける奴は、天子様に刃むかう奴 ばく娶ん で、漠然と不安なのだ。 二月に入ってから、新聞では、おとうさまに対する攻撃と、きめてかかっているので、たかをくくっていた。だ がきびしくなった。 が、応接間のシャンデリアの輝きにも、長廊下や倉二階の