408 帰宅していなかった。 と、母の声は、はしゃいでいるようにきこえた。 よく考えてみると、結局、あの騒ぎの中を、無理して帰域教の本部には、どこかの筋で、情報が速く入るらし 宅して下さらなかった方が、よかったのだと思う。 「わたしの予言した、とおりでしよう。お父さまが殺せる 父と母から、電話の連絡があったとき、 え、今すぐお帰りになる必要は、ございません。氷ものですか。だって、お父さまが居なくなったら、日本は 減亡ですもの」 見子が、居りますから」 と言う、母のおそるべき自信にも、私は反感がもてなか と、どちらへも答えたのは、負け惜しみばかりではなか ったのだ。 った。 母は母で、一生懸命なのだ。その一召懸命さを、どうし もちろん、ひとり・ほっちの不安で、ろくな善後策など、 私に講ぜられるはずはなかった。たとえば、赤玉と白玉のて私が厭がることができよう。もし厭がるとすれば、私を 無数に並んだ玉突台で、自信のないャュウを、一突き突きとりまいて持続している「全存在」と言うことになってし 出したような状態だった。今までは、整然と場所を定めてまう。「全存在」を厭がる ? それは、あまりにおそろし 停止していた、玉と玉とが、ツウ・クッション、スリイ・ ぞうげ クッションで、ぶつかりあいをはじめる。その象牙玉が、 「おとうさまも御無事。おじいさまも御無事。これで西の いっか鉛玉やゴム玉になって、かちあい、はじきあい、そ丸家は、・ハ ン・ハンザイよ」 の目まぐるしさのなかで、緑色のフェルトまでが、七色に : ええ」 変化して盛りあがってくる。 「どうしたの。氷見子、元気がないようね。そうね。大へ その堪えがたい、複雑な人間関係の中へ、父と母が帰宅んだったろうからね。でも、わたしは氷見子が家に居てく してくるのは、もう二本、別のキュウが突き出されるようれるからこそ、こうやって安心して、本部に詰めていられ なもので、息苦しさが数倍になるのは、わかりきって、 るのよ。それとも、帰りましようか。あなた一人で、むず る。第一、こんなことのあった後で、私はおとうさまと、 かしいようだったら」 どんな顔つきで向いあったら、 いいのだろうか。 ししえ、それには及びませんーーー」 母からの電話は、応対が、らくだった。 : ああ、やつばりね。あ 「大山巡査はどうしましたか。 じゅんし 「よかった 0 よカ一ー 、 ) こ。まんとに、よかった」 のひとは、いざと言うとき、かならず殉死すると思ってい 、 0
332 本屋街をぬけて、お茶の水のギリシャ正教の聖堂の方へ散すりはじめた。やつばり相当のショックのあとだから、多 むち 歩しながら、「さくら会」として何かやるべきことはない少とも無恥になっているのだ。 おとな ふろ か、二人きりで話しあってみたかったのである。大人の政「兵隊は風呂場ですっ裸になっても、上官には敬礼するん ちゅう 治さわぎにロばしを入れると言うわけではなく、政治の中だって。ほんとかしら」 すう 枢部にいる家庭の娘たちとして、父や兄の身の上を気づか「まさか、そんなこと」 い、それに私たち自身の日常の反応として、たがいに語り「裸どうしで敬礼したり、敬礼されたり。こんなこと義人 あいたい気持にせかされていた。 兄さまもやっているのかしら。あの恥かしがりが、丸出し しかし考えようによっては、この種の危険で、おしせまのまんま。よくそんなことができるわね」 : ええ」 った難問と向いあうには、猛田節子を腹心の輩下、いや血「 : と興奮と恥かしさのあまり節子は、私の手首にキュウッ 盟の仲間にひき入れた方が正しいやり方なのではないか。 もし根源地が猛田大将あるいは同系列の陸軍上層部に在ると爪あとをつけた。 「それはそうとして、節子さん」 としたら、節子を遠ざけておくのは、失策もはなはだしい にちがいない。 もう一つ、兄の悲恋を悲恋におわらせたく 言略があるから私は、私の方から彼女の指をもみしだい まよかっこし : : : 0 てやった。 うちの旧式な英国車が走り出すと、節子は次第に、身体「あなたほんとに、私のこと、おねえさまと思っている をもたせかけてきた。 猛田家へは一年に約一回、まだ三回しか行ったことがな「ええ、そうです。そうだと言っているでしよ」 かった。同級生のどなたの家とくらべても、経済的にも文「言ってはいるけど。でも、ロで言うだけじや信用してあ さび 化的にも、貧弱で淋しい家だったから、行きたくもなかっげられません」 こ 0 「では、どうしたらいいの」 「さあ、どうしたらいいでしよう」 「今日の見学て、炊事場は見せたのに、浴場を見せなかっ たのはなぜかしら。節子さん、なぜだかわかる ? 」 「ねえ、おねえさま、教えて。節子はおねえさまのためな 「わかりません」 ら、何でもしますから」 と、節子はもう私の片掌を両掌でかかえこんで、もみさ「では、うちのお兄さまと結婚しなさいー大丈夫よ。そ かたて
162 きは、あんなにハッキリ話し合うから、と言ってたのに、 から一緒に暮して見ろって言うのよ。わたし絶対にイヤだ 何故かねえ」 って言ったんだけど。そしたら、離婚はしないぞ、って言 「 : : : 男って、やつばり今まで側にいて世話してくれた者うのよ。だからわたし、離婚なんかされなくても勝手に別 が急にいなくなったりしたら、炊事でも掃除でも、自分でれますって、言ってやったわ」 やるたんびにシャクにさわるしね。つらいでしよう。その 町子は一気に喋ると、男の感情の激変をおそれながら、 点、女より困ると思うの」 おずおずと 女はあきらめと疲れと怒りと執念のいりまじった表情「あのひと五時に渋谷の駅でわたしを待ってるのよ、どう で、別れたあとの夫との感情問題にまで言及した。それはしようかしら」とつけ加えた。 きまじめな、家庭的な、しめっぽい調子で言われた。そう「僕が行っていいなら、僕これから行って先生に会ってみ かと思うと急にはしゃいで、クスクス笑いと共に、自分たる。どうもあの時の約束と話がちがうもの」と光雄は少し ち夫婦のこまかい会話を、男に告げた。 気色ばんだ。「君はどうする。君も行って話を聴いてた方 「あなたいっか、女の身体の一部分だけが好きなんなら、 ・、、いだろう。もともと三人で話しあう約束なんだから」 そんな男、女郎屋へ行って自分の身体に合った女を探すの「そうね、わたしは」と町子はしばらく決心がっかないで が一番良いって、言ったでしよう。わたし昨日の晩、それしナ 、こ。「 : : : わたし、あなたたち二人が、わたしの前でわ をあのひとに言ってやったのよ。そしたら先生カンカンに たしのこと話しあうの聴くのつらいのよ。そうでしよう ? 怒ってね」女はこともなげに言うと、又もとの陰気な淋し : だけどあなただけ行かせるのも妙だし、どうしようか げな面もちにもどった。 しら、心配だわ」 それから二日目の午後、あわただしくまた二人は会っ 町子は何度も打ち沈んでとまどったが、もう五時は迫っ た。夕暮に近く、雨はまだかすかに降りつづいていた。町ているので、二人は折から混雑する人の群をわけて、山の しようそう がいとう 子の焦躁と疲労はますます加わっていた。それをかくす気手線に乗った。通勤の男たちの外套の肩や腕や荷物の間で 力もなく、底まで洗い出した顔つきをしていた。「今日銀荒々しく押しひしがれながら、放心したように揺られて、 座で先生に会ったらね。偶然なのよ。わたしは会うつもり町子は「何だか怕いわ」と、眼をすえてつぶやいた。光雄 なかったんだけど。そしたら、どうしてももう一度、代々にはその時になっても、別に強い決意や衝動がなかった。 木の家へもどれって言うのよ。ともかく一箇月だけ、これただ満員電車のどぎつい光線の中に、自分と少しはなれ シーサン さび こわ しやペ クーサン
ろう」 「それなら、よろしいんですけど」 「やがて、はるか未来においては、憎みあったり殺しあっ 「結局、・ほくは親不孝かもしれないよ、いや、かもしれな たりしないですむように、なるかもしれないよ。しかし、 いじゃなくて、たしかに親不孝、最悪の親不孝なんだ」 今の今、現実にどうしても、そうなっているんだよ」 と、兄は、胸につまった苦しみのかたまりを吐き出すよ「どうしても、そうなっているんですか」 「そうだ。どうしてもだ」 うに、一一 = ロった 0 「・ほくには、おとうさまの苦しみが、よくわかっている。 「ほんとうに、どうしてもですか」 同様に、おとうさまにも・ほくの苦しみが、よくわかってい 「そうだ。ほんとうに、どうしてもだ」 るはずなんだ」 「では、人間はみじめなものですね」 「どんな苦しみだか、私、知りませんけど。そんなに、お「いや、ちがう。人間の状態はみじめかもしれない。しか 兄さまとお父さまは、心が通じあっているんでしようか。 し、状態がみじめだからこそ、人間はそれに抵抗して立派 私などには、お兄さまは、お兄さま。お父さまは、お父さになれるんだ」 まで、まるでちがった道を歩いているようにしか見えませ「でも、抵抗できないものは、立派にはなれませんわ」 んけど」 「決心一つで、人間は誰でも、自分のおかれた状態に抵抗 : つまり、・ほくが氷見子に言いたいことは、こう言うできるものなんだ」 ことなんだ。男と言う者は、たとえ死ぬほど憎みあって「でも、決心でぎない者もいるわ」 も、理解しあえる者は、理解しあうことができるものなん「氷見子は一体、どこへ話をもって行ぎたいのかね」 しゅん だ。運命に殉ずる覚悟さえあれば、たとえどんなに立場が と、兄は困惑したように、言った。 段ちがっていても。めいめいの立場を守って、めいめいが立「もしも人間がみじめだとすれば、みんなそろって、みじ の派に生きたり死んだりできると言うことなんだ。もし、そめなはずです。もしも人間が立派だとすれば、みんなそろ 貴うでなかったら、人間と言う奴は、あまりにみじめじゃなって、立派なはずです」 いだろうか」 「なアんだ。そんな意見か。それは氷見子が行動していな 四「でも、そんなに理解しあえるもんだったら、どうして憎い人間だから、そう考えるだけなんだ。目標をしつかり定 みあったり、殺しあったりしなきゃならないんでしようめて、行動を開始すれば、いやでも何がみじめで、何が立 やっ か」
機密書類までおきざりにして、ほうほうのていで退却して 母「また、体面にこだわっていらっしやる」 父「おれの体面の問題じゃない。義人の将来の問題だ。 いらっしやる。なるほど、おじいさまは・ハリの平和会議で げんすー・ いいか。猛田は、陸軍の最上層部の最強力者だ。末は元帥も先進諸国の評判がよかったほどの、世界的外交官だ。政 げんろう か元老になる男だ。義人が節子さんと結婚することは、つ治家としても一流だ。おつむは人なみすぐれている。学問 かいどう らぼう まり一青年将校が絶対安全な出世街道の娘さんに、手をひもありすぎるほど、おもちだ。だが智謀にたけた人物が、 かれることになるんだ。エスカレエタアにのせられて、手かならずしも戦場の指揮者としてまちがいがないと言うこ をひかれて生きて行くことになるんだ。それでも、義人はとにはならない。おじいさまはともかくとして、おれなど 平気でいられるかね。義人は、そう言う男かね」 はまず敵を殺す商売では落第だ。家柄にものを言わせれ むすこ 母「でも、うちの息子は、皇室の娘さんと結婚したつば、死ぬまでに閣下の下っぱぐらいにはいけるだろう。し て、一向に恥かしくない家柄でございますから。なにも大かし自分のカで、軍関係にのし上ることは、とうてい不可 将ふ・せいにひけ目を感ずることは、ないのじゃありません能だ。義人だって、男だもの、自分の力がためしたいん だ。感心なことに、この男は小さいときから、平民的で気 父「おだまりなさい。うちが猛田家とくらべて、対等以がやさしい。親の威光をかさにきたり、家柄におんぶする 上の家柄だと言うことを、お前さんに教えてもらう必要はのを何よりきらう潔べきな奴だ。それだけに、おれは節子 ありません。義人は西の丸家の跡とりであるばかりじゃなさんを嫁にしない方が、彼の身のためだと思っている」 。世間に出れば、義人個人だ。海のものとも山のものと私「でも、もしお兄さまが猛田の節子さんを、お好きだ も先の知れない、一介の軍人、かけ出しの見習将校にすぎったら、どうなんでしようか。それでもおとうさまは、反 ないんだ。まして西の丸公爵の血統から、武勇すぐれた軍対なさいます ? 」 段人が出たためしは、一回もありやしない。おじいさまは御父「うん、まあ、それだったら仕方なかろうな。ねらっ せんばう の維新のさい、十代で江戸城攻撃の先鋒をうけたまわって手た女はかならず手に入れるのが、西の丸の男のくせなんだ 貴柄をたてなさった。それは、たまたま部下に優秀な下級武から。だがとにかく、今おれがした忠告だけは、忘れない ごえいさんぼう 士が、護衛や参謀としてつきそっていてくれたからだ。越ようにしてもらいたいな」 兄「ハイ。わかりました。決して忘れません」 後の陣では幕府方の武士に夜討ちをかけられて、命からが ら逃げ出したことだって、おありになる。旗ざしものからその夜の家族会議は、お兄さまの内心の秘密を、ますま がら
父はグラビアに眺め入ったまま、気楽そうにうなずいて いる 「そんなことは有りえないと、信じています。また、たと え、おとうさまに第一悪魔がとりついていたとしても、・ほ「感心なさらないの ? 」 くはあくまで、おとうさまを尊敬していますから大丈夫で「え ? もちろん、感心してますよ」 「感心なさるだけで、反省はなさらないの」 すよ」 父「反省って、何を」 「まあ、ほんとに、この子は : : : 」 さら 母はもう、涙ぐみはじめていた。しかし、私が皿のヘり母「御自分にはもったいないぐらい、立派な御子息だと でフォークの音をさせると、きつい目でおにらみになつお思いになりませんか」 こ 0 父「いや、思ってるよ。たしかに、もったいないよ。御 「わかってますとも。義人さん。あなたのこころは、お母立派だよ」 母「どうしてこういう息子が、あなたからお生まれにな さんがすっかりわかっているからね。お母さまだけは、ど そば んなときでも、あなたの心の傍についていてあげるからったでしよう」 ね。どんな苦しいことがあっても、絶望しちゃいけません父「どうしてかね。おれにもわからんよ。たぶん、あな たが生んだから、こうなったんでしよう」 かきわ 母「どうせおとうさまは、御自分の心の外へ垣根をこし 「いや、・ほくはちっとも、苦しくなんかありませんよ」 らえて、私たちを内へ入れようとはなさらないんですか 「そう、そんならいいけど、でも : : : 」 「それは・ほくだって、多少の煩悶はありますよ。現代の青ら。垣根の外で、ほめたり感服したり、いいかげんにあし 年ですから。しかし、今が一ばん、・ほくは生きがいを感じらっておきたいのでございましようけど」 父「そう言う垣根が、つくれたら、つくりたいもんで てますし、緊張もしてますからね。煩悶と言ったところ で、そんなものは、軍人精神でふきとばしちまいますかす」 ( 古い講談本では、誰々がこう言ったと書かないで、会話 「まあ、お父さま、おききになっていらっしやる、義人ののアタマに「雲助」とか「宿の亭主」とだけ発言者を書き 示してある。速記のくせのついてしまった私は、ついつい 言うこと」 講談本のやり方を真似することになる ) 「ああ、聴いてるよ。聴いてますとも」 はんもん なが まね むすこ
用しようとしたり、父に信用されようとする相手がわるい 出す覚悟でいるらしいことは、出入りの魚屋までみんな知 っている。武士が好きか、公家が好きか、そこが趣味のわ のである。 父は、食卓の料理も花も、手あたりしだいにほめた。 かれるところである。 細ロの鉄の弸に、一本だけズイとさされた白い大ぶり 別荘へ行くにも、わざわざ満員の三等車に乗ったりする の花は、、 から、おかあさまの評判は婦人雑誌でもよろしいようだ。 / ワイから海軍の飛行機で運ばれたものだそう だ。黄白の花弁の、しどけないほどのそりくりかえり、濃お兄さまは、お母さまが発言しかかると、下を向いてし こう かっしよく まう。それは、またもや例によって新興宗教の「神さま」 厚な香気、赤褐色のなまなましい斑点、どれもが植物とい にゆう うより、動物的に訴えてくる。いかにも、いきなりチン入や「悪魔」の話をされやしないかと、あらかじめ恐縮して ちんか いるのだ。 した外国の珍花と言う花姿だった。 「うちで悪魔がついていないのは、義人だけです」 兄はおそらく「無意味だ、何という無意味な、大げさな 花だ」と、胸のうちでつぶやいていたにちがいない。では はたして母は、まじめに、とりすまして言いはじめた。 兄にとって、無意味でない花とは、どんな花だろうか。 「何回でも申し上げますが、おとうさまには第一悪魔がと りついていらっしやる。氷見子には、第三悪魔がとりつい 「義人さんは、何かお父さまに申し上げることがないの。 たまにしかお会いすることが、できないんだから、何かあていますね。そうでしよう」 ったらこういうときに、お話しといた方がいいわよ」 「元気でやっておりますから、御心配なく」 と、私は答える。 れいぎ と、兄は礼儀正しく母に答えている。 「恥かしながら、かく言う私にも、第四悪魔がとりついて 「元気は元気でしようけど、それだけでもないでしよう」 います」 えり 黒っ。ほい和服に、白っぽい襟をかけると、おかあさまは 「しかし、・ほくだけ悪魔がついていないのは、どうも少 こう・こう 「神々しく」なる。この形容は、大山巡査が発明してから、 じようだん 女中たちも冗談まじりに使用する。おかあさまは財政ゆた と、兄は困ったように言う。 かでない、九州の小藩の血統で、それだけ玉のコシにのら「とんでもない、あなたまでつかれたら、西の丸家はおし れた気苦労と意地つばりがっきまとっている。九州出身のまいです」 大山巡査は、ものすごい奥様びいきで、いつでも命を投け父は、英国製巻をくゆらしながら、おとなしくうなず はんてん のう
もったいなくて、それでも、どう考えても」 私は両脚の内側をスカアトの下で、こすりあわせるよう 「もったいないなんてことは、よして下さい。兄だって、 にして、ルで地面を踏みつけずにはいられなか 0 た。 ただの男なんですから」 「では節子さんは、私のパンツをお穿きになるの ? 」 「どうして、こんなことに。私、生まれてからこのかた、 : ええ、それはもうパンツでも、なんでも、おねえさ お兄さまのような方に好かれようなどとは、夢にも考えてまの物なら」 いませんでした」 こう言った会話だけ記すと、節子もけっこうはなやいで ちんつう 「お気の毒ね。西の丸義人に好かれて」 いるように見えるが、実は彼女の沈痛な表情は、そうとう 「おねえさまは、きっと私をきらいになったでしようね」氏ぶかくて、一瞬も消えはしなかったのである。 「私、あなたのおねえさまでも何でもありません。それ涵徳亭では、みなさんが句会のごときものを始めてい に、これはあなたと兄のことじゃありませんか。そうから みつかれるように言われても、私にはどうしようもないこ徳川さんが「・フランコはトコロテンよりよく揺れる」と 言う迷句を発表して、座を騒がせている。 とですもの」 「・フランコは季語でしようか、どうでしよう」 「すみません。勝手にからみついたりして」 しゅうせん 「いいのよ。からみつきたければ、ついても。でも、そう「支那語では、鞦韆ですね。春の季に入りますかね」 へり下ったみたいにしないで下さい」 これは、満鉄夫人だった。 「トコロテンは春の季かしら」 「ほら、またハイだなんて。皆さんが聴いたら、どう思っ「夏でしようが」 て。私が「制服の処女』の女子舎監みたいに思われるわ「やはり春じゃないの」 「これは無季俳句じゃない ? 」 よ。そして、あなたが、あの可哀そうな少女フォン・マヌ 「そうよ。ムキになった句ですもの」 エラになったみたいに、見えるわ」 「節子は、フォン・マヌエラなんかじゃありません。おね「コンニヤクはトコロテンよりよく揺れる、ではどうでし えさまだって、知ってるくせして。でも氷見子さんは、節ようか」 「ダメです、ダメです。コンニヤクとトコロテンでは付き 子にとってベルンプルグ先生です」 すぎてます。工ヘン」 「ヒャアーたまらん、たまらん」 こ 0 カントク
い男と女なんだから」 「大体は、わかるよ。むろん、わからないところもある」 「もちろん、節子さんと少尉が結婚するかどうか、私、 「西の丸秀彦というは、一体どういう人物なんでしよう しりません。でも結婚するとして、お兄さまより少尉のか。私、ときどき悪人の一種じゃないかと、思うことがあ 方が、よい相手だとは思えないわ」 るの」 「ともかく、・ほくは失格者だからな。せめて、・ほくのこと「つまらないことを、ロにするな」 で節子さんに、迷惑をかけるようなまねはしたくない」 「でも、ほんとうにわからないんです。お兄さまがたが、 「お兄さまと結婚したら、節子さんが迷惑することでもあどう思っていらっしやるのか、教えて下さい」 るの」 「教えれば、氷見子がなやむだけの話だ。おまえはただ、 「・ほくが、そう言う話をしたくないのは、君だってよくわおとうさまは立派な男性だと、信じていればいいんだ」 かってるだろ。それをどうして、そんな話をもちだすのか「でも、少尉などに言わせれば、おとうさまは、悪人中 な」 の悪人と言うことになるんでしよう」 子供のときから、足袋のこはぜをはめるのが下手だった兄はなやましげに、ロをつぐんだ。 兄は、今日も白足袋で手こずっていた。 「あの方などに言わせれば、西の丸秀彦が最悪の敵にあた 「ハイ。やめにします」 るんじゃないんですか」 「大体、おまえは好ききらいが、ひどすぎるんだ。氷見子「 : : : 男が男を敵にするばあい、相手が悪人だから敵とす の好きな人間が、不正な人間で、氷見子のきらいな人間るとは、かぎっていないんだよ」 が、正しい人間だってことも、ありうるんだからな。それ「でも、敵とはきめているのね」 に、おまえは何と言っても、女だからね。少尉や・ほくた 「男どうしが敵になることは、恥かしいことじゃないから 段ちの気持は、わかるはずがない」 な。問題は、敵どうしになってからの、態度なんだ」 「どういう態度が、いい態度なんでしようか」 の「ええ、わかりません」 「 : : : さあ、それは。それは、一口に言えないよ」 貴「そうだろう。それでいいんだ」 「少尉やお兄さまの気持が、わからないだけじゃありま「敵ときめたからには、どんな手段ででも、ほろぼさなく ちゃならないんでしよう。ほろ・ほすのが目的なんですか せん。お父さまの気持も、わかりません。お兄さまには、 わかりますか」 ら、いい手段、わるい手段と、えらんでいるわけにはいか
296 ど、あるわけもない。しかしやはり、乃木将軍が、かって「兄だって、なみなみと美酒をたたえる大杯じゃないわ 若かりしとき、自分の倫理を裏切ったことは、事実なのよ」 「それは、知ってるけど。でも、乃木さんとはちがうし。 ・こ。弱さを克服できなかったのは、事実なのだ。 彼は、名誉ある死をとげる前に、あらかじめ、屈辱の生乃木さんになりたがってるようには見えないし」 「あなたなら、ほんとにいいんだけど」 を生きながらえていなければならなかったわけだ。 と、お世辞でなしに私は言った。 してみると、「名誉ある死」と「屈辱の生」との関係は、 徳川さんなら、うまく兄を守りあしらって、大きな人間 一体どうなっているのだろうか。 に育てあける「良妻」になれる、と思う。 徳川さんに言わせれば、結局、「固定観念」とか言うこ 「どなたか、これはと決めた、好きな女がいるの ? 」 とになるようだ。 「まだ今のところ、そんな様子はないけど」 「乃木さんは、大きな人物だったかどうか」 その頃まだ、兄は猛田節子に意志表示をしていなかった と、徳川さんは好きでないように、言う。 「固定観念にとらわれてたんじゃないの。男と申すもののだ。 は、こうやって生き、こうやって死ぬと言う、こりかたま「徳川さんは、軍人の奥さんになれる自信あるの」 「ええ、それはあるよ。好きな人だったら」 った石板にしがみついていたんじゃないかしら。それほ 「うちの兄なんかと結婚したら、すぐ未亡人になるかも知 ど、たつぶりと酒をみたした一升入りの大杯とは、言えな れない。それでもいいの ? 」 いんじゃないの」 ばひょう でも、いろいろ下馬評をやってみたところで、どうもが「未亡人には、なりたくないな。でも、お嫁さんにはなっ いても美しき乃木さんになれないで、急死、暴死してしまて見たいの」 しいわね。お嫁さんでいつまで う軍人が大部分だ、と言うのが、私と徳川さんの、あきら「お嫁さんになるのは、 も、いられたら」 めたような結論だった。 私は、私の父母のことを想いうかべながら、そう言った 「あなたは、義人兄さまを好きなのね」 のだ。 「ええ」 おとうさまは、女学生のお母さまを電車の中で見染め 私たちの一メートルあとから随行してくる、おっきの老 て、大騒ぎして結婚なさった。そのくせ今では、他の女た 女をふりかえってから、徳川さんは言った。 ひと