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検索対象: 現代日本の文学 37 武田泰淳集
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1. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

きイん もせず、湯にも入らず、一つ場所に坐りこんでいた。光雄機嫌でもなく、湯のほてりと、こたつのあたたかみで顔を はそんな彼女には近づきがたくて、接吻もせず、手一つか赤らめながら元気よく喋った。 けなかった。自分一人、家族風呂に入った。いつもは一人「あの時、あそこにいるお婆さんが、わたしが出て行った 先に入っていると町子が来て声をかけたが、その日は姿を後で、とても心配してね。あなたのこと先生だと思ったの 見せなかった。 よ。『もとの旦那さん ? 』なんてきいていたわ」と、まだ ・せん 女中が晩飯の膳を二つ運んで来て並べおわると「わたし昨日の興奮をわすれずに話した。上海での楽しかったこと 風呂へ行って来る」と立ち上った。町子のいなくなったあなど他愛なく話し、やがて顔を紅地の蒲団の上に伏せた。 とに茶を連んで来た女中は「アレ、あの方どうしたのかし湯あがりの黒髪が、弱々しげな首すじから横に流れてい ら。御食事が出たのに風呂へ行くって、おかしいですわる、そこへ光雄は一寸指をふれた。いじるというほどまで わず ね」光雄にめくばせして、低い声で言った。光雄は一人で いかない、ホンの僅かな接触であった。だが町子はグイと 徳利の酒を飲み、食事にかかった。「疲れているんだし、 首をあげて「いけない ! そんなこと」と叫んだ。光雄は 昨夜のこともあるからしずかにしておいてやらなくちゃ」すぐ手をひっこめ、町子と同じに顔を伏せていた。しばら と彼自身もおだやかな、おちついた気がまえが出来てい くして便所に立って、もどると又窓の外を眺めていたが た。風呂から上った町子は宿のどてらに着かえ、キチンと「いいよ、外は。夜の火がチカチカ光って。立って見ろよ」 わき 膳の前に坐り、モグモグロを動かして食事をはじめた。固と町子の後から脇の下に両手をかけて起そうとした。する いビフテキを噛みかけてやめ、のろのろとまずそうに箸をと町子は「ああ、ダメダメ。さわらないで。自分で起るか はこんだ。光雄は窓をなかばあけ、か下の渓の清流や、 らさわらないで。よしなさいったら」と手ひどく言って、 山の樹々や、水ぎわの小さな旅館が暮れて行くのを眺めてもがくようにして自分でこたっから脱け出した。それはか いた。灯のともった旅館の部屋のあけはなたれた障子の中なり神経のいらだった口調であった。二つ並べた蒲団の中 に、老人夫婦が仲良さそうに食事しているのも、小さく人へ入るとすぐ「ねむいわ。電燈消して」と言った。そんな 形のように眺められた。 こともはじめてだった。「もう少しつけとく」「何故 ? ね こたつに入ると町子は、くせになっているきまりわるそむいのに」「君の顔をもっと見ていたいんだ」「そう」と向 うな笑顔で「何故そんなにわたしの顔見るの」とたずねうむきになっていた顔をこちらに向けて、しずかに眼をつ た。「見たいからさ」「 : : : ああ、疲れたわ」町子は別に不ぶっていた。いつもなら、光雄がいつまでも身動きせずに せつぶん たに しゃべ シャンハイ ふとん

2. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

392 大型のダ・フルペッドに、横たえられた兄は、死人の顔のに勤務してからの兄に、はたして一夜として、今夜 ほどやすらかな睡りが、あたえられたことがあったか。 黄色っぽい蒼白さまではいかないにしろ、そうなる直前 くす 埃を吸った子供部屋のじゅうたんに、軍服の兄が崩れる の、黒っ。ほい、つやを失った顔をあおむけていた。 それは、死ぬために、ただいさぎよく死ぬためにのみ訓ように倒れたとき、ちろん私だって、睡らせることと、 練をされている青年の顔だった。そのつらい訓練を、ごま殺すことの相似を感じないではいられなかった。 薬の量をあと二錠、ふやすだけで、この優秀な見習士官 かしなしに、まっ正直になしとげている若者の顔だった。 ねがお は殺されたとは全く知らずに、殺されて行ったはずなので その、蒼じろい睡顔をみつめていると、もう少しで、 「このまま、死へ移行してもさしつかえないのかな。そうある。甁らされたとは知らずに、睡りこけることは、一人 前の男として恥かしいだろう。だが、殺されると知らずに かも、しれないな」 殺されることが、殺されると知りつつ殺されることより、 と、思いそうになるのであった。 でも、兄にとっては ( 私とちがって ) 自分の意志、自分だらしない、男らしくないと、誰が保証できるだろうか。 ギャング仲間が、ねらった相手の知らぬまに殺す計画 の決断がなにより大切なものなのである。自分の意志、自 ねむ の、相談をするとき、 分の決断とかかわりなしに、睡らされてしまったことは、 それだけでも痛憤ものなのだ。まして、せつかく大切に守「奴をねむらすか」 り育ててきた「死の瞬間」を、他人の思いっきで勝手にき「ねむらすとしよう」 などと、大衆小説では書く。同じ種類の隠語にしても、 められることは、堪えられないことにちがいないのだ。 とんでもない事をしてしまった、と私は今さら考えたく「・ハラす」と「ねむらす」では、語感も語意もちがってい よ、つこ 0 る。死なすこと、死人にすることを、一方は、・ハラ ' ハラに / 力ー 「決して、死なせたわけではない。ただ、腫らせただけで解体する外面的方法として表現し、一方は、目をさまして いた人間が、意識を失うという内面的な変化として表現し ( ないか。それも、あしかれと思って、睡らせたわけでも 心配のあまり、良かれと祈って、しばし睡っていたている。「・ハラす」も、殺人の本質を突いた、おそろしい ことばだが、「ねむらす」は外部からの暴力ばかりでなく、 だいたのだ。こうやって、立派に、寝息をたてて生ぎてい へんぼう るのたもの。私はなにも、とんでもないことを、しでかし殺される者の内部に発生する、精神的な変貌まで暗示して いるから、一そうおそろしい。 てしまったはずはない」 ほこり

3. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

の男が、ねむるようにできているから、それで睡っているを、まだ手ばなしてやらないからである : : : 」 だけなのだ。人間は生きつづけ、活動しつづける。けなげ私は決して、厳然として見下ろすようにして、彼らの寝 にも、生きつづけ、活動しつづけるけれども、彼の一生顔を見守っていたわけではない。そのような、老いたる魔 は、悠久の自然の、はかり知れない懐ろの中の一瞬にすぎ女のようなおちつきが、私に在ったはずはない。今まで何 ないのだ。生きているあいだだけ、瞬間的に、彼はめざめらかの意味で、私にはたらきかけ、のしかかっていた男 すべ は、今は為す術もなく横たわっている。死顔に似かよって ている。巨大なの、うねりにうねる沈黙のはざまで、ほ んの一瞬、彼の眼にひかりが宿り、彼の口から声がもれはいても、まだ死んでいない寝顔を、まったく無防備に、 る。彼アダム、彼スサノオノミコトは、肉の力をみなぎら私の眼の下にさらして。そう思うと、私は、得意になるど ころか、そらおそろしくなったものだ。 せ、心の糸を張りに張って「生の代表者』「命の保持者』 として、自分の両脚をしつかりと踏まえる。しかし、毎たとえ一一人きりの寝室や隠れ場所に入ってからでも、活 夜、「睡り』が襲ってくる。その『睡り』は、どこからや躍ずぎの男は、自分のまわりに誇りや気苦労や、ひめたる ってくるのか。それは、うねりにうねる巨大な闇の沈黙の計画や、自分が整理できない衝動群の垣根をめぐらしてい なかから、やってくるのだ。はかり知れない、悠久のふとるものだ。したがって、寝顏こそ、もっとも率直で、親密 ころが、自分の生みだした生物たちに、誕生の地を告げ知な「顔」なのだった。 らせるために、やってくるのだ。もうすぐ呼びもどしてあ睡っている肉親の顔、それも男、父や兄の顔だったら、 かえって気恥かしくて、見つめていられなかったであろ げますからねと、声なき通信を送る暗号シラ・フルとして、 しやペ やってくるのだ。人間は、自分の寝顔を見ることを許されう。手ごろな関係にある男たちの場合、今まで彼らが喋り ふんいぎ はうぞう ない。それは、なぜか。睡りの包蔵している、天地の秘密ちらしていた言葉、ただよわせていた雰囲気とくら・ヘなが か・ルカい ら、眺め入っていると、妙な感慨に包まれるものであった。 段のおそろしさと直面するのは、あまりに 1 そうだから、 右翼理論家の 0 博士は、たとえば次のような自説を主張 のそう命令され、そうでぎあがっているのだ。 族 こうやって静かに寝入っているように見えても、まだましたあとで、不意打ちの「睡り」に、見まわれたのだっ こ 0 だ完全な睡りに入ることを許されてはいない。ほら、うな あなた 「貴女が私の敵だろうと、味方だろうと、そんなことは一 びきをかいている。意地ぎた されている。あさましい、い ない「生」が、大いなる母のふところへ帰ろうとする彼向にかまいやしないよ」 ふとこ ねむ なが

4. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

できまるのです。もとの私でなくなってみること、それがす。終戦後、戦争裁判の記事を、私は毎日のように読んで 私を誘いました。発射すると老夫はビクリと首を動かし、 います。その裁判にひき出された罪者は、まさか自分が裁 すぐ頭をガクリと垂れました。老婦はやはり・ヒクッと肩と かれる日が来るとは思っていなかったにちがいありませ 顔を動かしたきりでした。それは睡っていた牛が急に枝かん。自分の上に裁きの手がのびること、否、裁き、どんな ら落ちた木の実で額を叩かれたような鈍い反射的な動きで形ででも裁きというものを思いうかべたことすらなかった した。「とうとうやったな」いつのまにか伍長が私から五のでしよう。それでなければあれほど大量に残虐な殺人行 やっ 歩ばかりの所へ来ていました。「若い奴にはかなわん」彼為はできるはずはないからです。罰のない人なら人間は平 は里い いかつい顔に善良そうな弱々しい微笑を浮かべて気で犯すものです。しかし罰は下りました。殺人者の罰せ いました。私はそのまま後をも見ずに、その小屋の立ってられる日が来たのです。私は考えました。自分は少くとも いる丘の傾斜を降り ( 行きました。ある定理を実験したよ二回は全く不必要な殺人を行った。第一回は集団に組して うな疲労、とうとうやってしまったという重量のある感覚命令を受けたのだとしても、第二回は完全に自分の意志 が私の四肢を包みました。その時も私は自分を残忍な人間で、一人対一人で行ったものだ。しかも無抵抗な老人を殺 だとは思いませんでした。ただ何か自分がそれを敢えてしした。自分は犯罪者だ、裁かるべき人間だ。と、しかし私 た特別な人間だという気持だけがしました。隊に帰ってもは平然としている自分に驚かねばなりませんでした。私は 誰にも話しませんでした。伍長もそのことにはふれませ自分の罪が絶対に発覚するはずのないことを知っていたか ん。それから色々な土地へ行き、何度も死にそうな目に遭らです。伍長は半年ほどまえ戦病死しました。地球上で、 いましたから、終戦まで一年半ばかり、私はほとんどそのあの殺人行為を知っているのは私だけなのです。その私で 行為を真剣に思い出すひまはありませんでした。ただ時すら、被害者も名も身元も知らず、顔すらおぼえていない 時、夜など淋しい場所に一人いる時、その老夫の顔をお・ほのです。今では何もかも模糊たるものです。池に投じた石 判えているかどうか試していることがあります。全然お・ほえは沈み、波紋も消え、池の表面は何事もなかったように平 がないのです。小さな顔だったような気がします。死んだらかです。私は自分が如何なる精密な戦犯名簿にも漏れる こんせき 時の表情も苦しさが見えなかったことだけお・ほえていま自信がありました。この行為のただ一つの痕跡、手がか り、この行為から犯罪事件を構成す・ヘき唯一の条件は、私 す。自分が恐怖を感じないのはなぜかとも考えます。わか りません。今度の場合も、不安や恐怖は残らなかったのでが生きているということだけです。問題は私の中にだけあ

5. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

熱の薬 る。それを金にする。いつも本気にならない。事件は他人婦は顔を出した。「お薬買って来て下さらない ? のものだ。私は主人公ではない。わぎ役の又わき役なのなら何でもいいの」彼女は財布から紙幣を出した。「今日 だ。それを想うと私は私がこれから為そうとする仕事が、 もお酒 ? 早くおかえんなさいよ」と言い、部屋の中へ入 れんたん たちまち自分から遠くはなれ去り、それをつかもうとするり、戸をしめた。私は煉炭の箱の上にある斧をすばやく手 がいとう 自分の目がくらみ、足もとが揺れ動き、カがなえるのを感に取り、外套のポケットに入れた。台所の戸をあけ、外へ 出た。 私は本のわきに転がっている小刀を手にとった。刃わた斧は重かった。そしてかさばった。その固い形はつつば ひも り四寸ほどしかなく、割れた木の柄には、グルグル紐が巻って、厚い外套の上からでも気づくにちがいなかった。辛 きつけてあった。刃だけはよく光っていたが、武器として島がそれに注意すれば警戒したり、殺意を増すことは想像 ひそう は小さすぎた。冷い刃の面に顔をうっして見ても、悲壮のされた。それに、それを使用しないで終ったら、実にぶざ 感より、むしろ滑稽の感が多かった。「斧 ! 」斧は、主婦まであるであろう。私は自分の不用意、自分の無力が腹立 が七輪でもやす薪をつくるのに使うのがあった。手頃の大たしかった。だが頼みにするのはその手斧一丁であった。 きさであった。下へ降りた時、主婦がその場にいなかった夜の街を歩く男、たたずむ男、その一人一人が私に意識さ がいとろ・ ら、それを外套のポケットへしのばせることにした。まずれた。その一人一人について、私は自分が斧をふりあげる 小刀は上衣のポケットに入れた。その時、私はその名が菊瞬間を想像した。その一人の肉を割り、骨を打ち、血をほ 一文字と呼ぶものであることを想い出した。すると、それとばしらせること、それはジットリ 油汗がにじんで来るほ を買って呉れたのが妹であることに気づいた。そして妹のど困難なことであった。私は自分が「神経」にすぎない気 のうり 顔が大写しの写真のように脳裡に浮んだ。妹の顔は徴笑しがした。殺されるために歩いている気がした。 シャンハイ え 約束の場所は商店街をはずれ、中国人の住宅区を過ぎ、 たままで固定していた。しかし私は、上海へ来てはじめ す て、その顔を想い浮べたのであった。「妹は俺を守るつも楊樹浦行きの電車道路に近い場所であった。私は片側の家 の 複りかもしれない」と、私は思った。「妹なら守れるな」との影の中を歩いていた。二階の窓や、下の戸口から射す明 も思った。 りは黄色く、私の全身を照らし出す。すぐ又私は闇の中へ 台所には誰もいなかった。主婦と主人の部屋には電燈が入る。辛島に会うこと、会って闘うこと、それらの激しい ただ ともっていたが静かだった。しかし、ガラス戸をあけて主状態を忘れ果てたように、只私は目的地へ急いだ。 しちりん こつけい おの ャンジッポ

6. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

が、皮膚の色がヘンに脂ぎっており、それが変に印象の人間に喰われることも、また喰うこともあり得る、 にのこったということ。それに番小屋まで実地に検証 そんなことがらが一度に私の胸につきあがってき 6 たのである。〃食人″問題は、けっして〃私″の外側にあ したおり、死体を処理したと思われる部屋の片隅から、 ぞうふ 臓腑を入れたと推定される桶がみつかり、それをかき るものではなく、内側にある問題だということを : まわすと、何ともいえないいやなにおいかしたとい、つ 私はその翌日、知床半島を船で一巡し、ウトロへ向 ことだ。その話をするとき住職は顔をしかめるという った。その途中ベキンの鼻 ( 文中ではベキンノ鼻 ) を まわったが、 より、変にイキイキした表情をしめし、かきまわすあ 自然は変らない緑の色をあらわし、人間 たりで身振りまで加えたが、私は、フト異臭をかいた のあれやこれやの苦しみや、歓びとは無関係に、オホ 気持に襲われたものだ。 ーック海の海中に突き出していた。 空にはほとんど雲 そして武田泰淳が劇中劇の船長の顔が、第二幕では 一つなく、知床岳をはじめとする知床の山々が眺めら 案内してマッカウシ洞窟へおもむいた、あの中学校れたが、その姿は「生きていくことは案外むすかしく 長の顔に酷似している」と書き、ことさらそこに傍点 ないのかも知れない」し と、う武田泰淳の「蝮のすえ」 を打ったことの意味を明暸に読みとったのである。何の冒頭の一句を絵に描いているように思えて、山の緑、 あお 故作者はその箇所を強調する心要があったか。案内に 空の青、海の碧い深まりが、改めて意味をもちはじめ 立った平凡な中学校長も、そして人間を喰ったとされ たよ、つに私には感じられたのである る船長も、同し人間であり、同じ人間である限り、そ

7. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

になった洋風建物などのある、閑静な住宅区であった。枯をたかぶらせた表情で、濁った眼の光も、平常と異り強か ちょっと 木や枯芝がまだ春の風に鳴ったり、なびいたりしている庭った。「一寸、あなたに話があったもんで」と光雄が、や に面した、大組のしつかりした家の二階に、夫は下宿してやあらたまって言うと、客の来意を悟った色をサッと顔の いた。門からすぐっづく、かなり急な石段を登り、とつつき全面に示し「ああそうですか、どうぞ。一一階散らかってる の入口のガラス戸をあけ、案内を乞うたが誰も姿を見せなけど」と、なめらかさの全くない、カサカサした東北なま 。何度も大声で呼ぶと、十二三の女の子が ' ( タ・ ( タ板のりで、割に愛想よく言って、二階へ上って行く。 間をふみ鳴してかけ出して来た。「野口さんいる ? 」「野口 一一人は荷物を置いた小部屋を通り、二面が明るいガラス さんの誰」「野口さんのおじさん、いる ? 」「 : : : おじさん窓になった八畳間に入った。そこのわびしい光景は、光雄 ね」女の子は玄関からすぐっづく階段を、ものぐさく上っを少しおどろかした。いっかこの部屋で、野口の留守に二 て行った。そして大声で二階の部屋へ来客のむねをどなる十分ばかり町子と共にすごしたことがあったが、整頓され と、またのろくさ降りて来て姿を消した。しかし野口はな たその時とくらべると、今日はす・ヘてが埃をかぶり、衣類 かなか降りて来なかった。それはかなり永い時間だった。 や新聞紙がだらしなく散らばり、男一人、掃除もしない日 「客が自分であることに気づいているかな。それで会わぬ常をむき出しにしていた。その・ほやけた、とりとめもない つもりかな」と光雄はゴテゴテルなどぬぎ散した土間に立部屋の有様は、油けのうせた野口の顔の疲れ、光雄とよく って考えていた。会った時の自分の表情、言うべき言葉、似て小づくりの顔のくすぶりと共に、その内心の苦痛をよ その何一つとして光雄は考えめぐらしてはいなかった。むく示していた。 ぎふとん しろこの瞬間だけは、茫とした計略のない状態に自分を保「一枚しかなくて」と差し出された座蒲団にあぐらをかく ちっておきたかった。そしてそれが自然にそう出来ていた。 と、光雄はすぐさま畳を見つめたまま「今日は、あなたに 野口は茶色のジャン・ハーに、色のあせたズボンをはき、 カ あやまりに来たんで」と言った。「もっと早く来なくちゃ のポサ・ホサの髪の毛をかきあげながら、玄関に出て来た。階いけなかったんだけれど」 段を降り切る前に「ア , 」と低く叫んだから、光雄を予期「いや、こちらにも悪いところが有るんだから」と野口も していないのであった。肉の少い顔は血色が悪く、上歯の下を向いたまま、指先で煙草の箱をつまみ、肩や胸を少し 出ている鼻の下や、うす黒い頬のわきには、むさくるしい も動かさずにそれをいじりながら、苦笑した。しかしその ひげそ 髭が剃らずにあった。気まずさをこらえている、少し神経苦笑はごく短い瞬間で、すぐ緊張した表情にもどると、多 ぼう はお ほこり

8. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

わたしだって、好きなんだから、あなたもわたしが好きだる鉛の層をはぎとり、はぎとることが不可能なら、せめて からこうやってるだけですものね。だけど、やつばり、こそこに小さい穴でもあけ、自分本来の人間みのある肌にふ れて見るためには、外部から何かの力が加えられなければ れは悪いことなのよ」 ならない。そのようなカから光雄ははなれている。それが 二人は温泉のぬくみのある鼻と鼻をこすりつけるように して、語りあった。清流で名高い温泉は、桜の花が満開の見えず、それが聴えない。その光雄の状態は、先生に見つ ころで、間かずの少い宿屋で、寝ながら話す二人の枕もとけられたわよ、と町子から告げられた時浮べた、あの仕方 まで、隣でさわぐ近在の若者の声がうるさくきこえて来なさそうな苦笑がよく示していた。光雄は、町子が時たま 、よけいな心配、瞬間的なおびえ た。その言葉のなまりは、彼女の里の調子なので「きつ見せる、細い気づかい と、あの男たち、わたしの町のものよ。顔見られたらうるが、自分の見失われた肌にヒャリとさわってくれたよう さいわ。みんなたちがわるいんだもの」などと、町子は眉で、好きであった。それらは衝動的な、つまらないもので すうすう をしかめて気にした。夫のこと、世間のこと、図々しく腹はあるが、それを眺めるたび、町子はたしかに生きてい る、自分よりむしろ生きている、と感じさせられた。 をすえているようでいて、彼女には、そんな細い気づか よけいな心配をするところがあった。それを光雄は好町子は町子で、時々、光雄という男は、一体これは何と いう人間かな、と考えることがあった。どんな話をもちか きであった。自分たちのしていることを、悪い、と語る町 けても「どう俺は利己主義だから」とか「どうしてもこ 子が、人間の倫理をそれほど深く考えているわけでなし、 きわだって道徳的であるはずもない。やはり顔を見られたういう人間なんだからな」と、無表情に、ものうげに言 らうるさい程度の気づかいがもとになっているたけの話だう。そんな時は、実にたよりない。きっととても図々しい ちった。しかしそれにしても、あばずれて高笑いされるよ か、無神経か、悟りすました人間なんだわ、と思う。冷い かり、悪いことなのよと陰気そうにつぶやかれることが、光な、と思う。しかしこういう人物が、そのありのままで、 の雄をしみじみと、又新鮮にした。 自分の肉体を愛してくれるのは、かえってまちがいなく愛 みにく 愛戦争中も、終戦後も、人間の醜さ、たよりなさを沢山見されている気もし、そのような男が側にいることに、妙な せられ、ことに自分の醜さとたよりなさに対する自覚が、安心をお・ほえた。「あなたのようになれたらいいと思うわ」 鉛のように厚く全身をおおってしまっている光雄は、たしと、町子はその安心の中で、光雄の顔を仰ぎ見ながら言う ことがあった。そう簡単に言い棄てる町子を、光雄は好き かに倫理を失っているのかもしれない。その全身にかぶさ こ シーサン

9. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

急に血の気が失せた。その肉体の変化が自分のあたえたもほどの動かしがたさ、地球の表面に空気が層をなして、ど のであることは、何事にも無感動になっている光雄を、さんよりたまっている、まるでそのような、ありのままの何 すがにグキリとさせた。ゆたかに実のってはいるが、もろでもなさが、鈍く、重く全身をしめつけるのを感じた。 い欠陥のある女の身体が、自分の肉の分身のため、くずれそれから二三週間は、光雄は緊張した日を送った。町子 弱 0 ている、そして自分の懈に、はじめて自分の部屋をは、自分の妊娠を夫に打ち明けた方がいいか、打ち明けた 訪ねてきた時とすっかり同じ洋装につつまれてたたずんで場合、夫がそれを自分の子と考えてくれるかどうか、打ち いる、それは彼に、人情とでも言った、一種のこみあげて明けないとしたら、どこの医者にかかるべきか、手術の際 くるものを感じさせた。 は誰について来てもらうか、手術のあと家まですぐ帰れる : あなた、・ とうする」とか、などと光雄に相談した。医者に見せれば、胸の病気と 「あの二回目の時だったのね。 彼女はひとりごとのようにたずねた。それから弱々しくひきくらべ、どの医者でも手術をすすめる、と彼女は言っ 「こんなになって、あなたに心配かけて御免ね」とも言っ た。「手術って言ったって、ごく簡単なものなのよ。まだ こ 0 一箇月ぐらいなんだから」と、上海で経験のあった彼女 は、光雄を元気づけるように言った。割におちついて、万 「生んで、そして僕の子として育てたらどうかね」 「育てるって、そんなこと出来るかしら」と彼女は不安げ事に頭をはたらかせ、自分の肉体の事務的とりあっかい に、闇の中で彼の顔に自分の顔を近づけた。それは、あなを、彼女は計画した。 たの言葉はあなたの本心ではない、今のような場合男の言結局、町子は自分の妊娠を夫に打ち明け、知人の娘につ うことは、何もかも自分は承知していると言いたげな様子きそわれて、病院に入った。その病院へ、手術後見まいに であった。それを見すかされていることは、光雄にもよく行った光雄は、案外に元気よく笑い興じている町子にあき れた。彼女は一ペんに元気をとりもどしたように見えた。 わかった。重苦しい不安におおいかくされた彼の内心に、 自分の肉体が女に最後の結果をあたえ得たという、充実し肉体の事務的とりあっかいを完了し、健康をとりもどした つや うんき た感覚、ごくわずかであるが、勇気に似たものが湧きあが自信が、ひるさがりの温気の中で赤い艶をおびた顔に浮ん った。それと同時に、一つの生命が生れいづることの簡単でいた。 ツーサン さ、たとえ男と女とが、どのような感覚、どのような感情「先生はわたしが入院するとき、ついて来てもくれなかっ たのよ」と平気で言った。夫が自分の妊娠や手術を、あま に在っても、それと関係なく生れいづることのやるせない

10. 現代日本の文学 37 武田泰淳集

せま いのよ」と、彼を圧倒するような体力で迫って来た。それその上その場かぎりの無責任と、一種のがどうしても は一種、まじめな体操の試験に似た連動であり、それだけ抜けきれぬのをよく承知しており、一番充実した瞬間でさ に彼女の真実さ、女らしさを無技巧に示すものであった。 え、あいまいなうすら笑いが底に残るたちであるから、町 しさく 「やつばり最後まで、ついて行けないわ」とあえぎながら子の肉体の悲しみについても、深く情愛をこめて思索した 言われても、それで光雄は落胆もせず、彼女の可愛らしさことはなかった。思いもかけず、何の手数もなく、相手の えんれい を見失うこともない。それは、胸が悪くて血液検査されれ方からさし出されたこの艷麗な生物に、自分には充分すぎ ば、医師に注意されるという町子が、まだ数回しか機会のる快楽をお・ほえ、それによって自分勝手に、自分の世界に ない彼の目から見て、ほとんど自分の理想に近い身体をし生きがいある色彩をそえているにすぎなかった。美しい町 ているためであった。胸はばは広いが、どこか痩せている子が、そのような特殊の女体でなかったら、夫もあり、光 自分にくらべ、白くやわらかい肩から胸にかけ、注意すれ雄とは別にという恋人もありながら、光雄の腕に身を投 ば弱さがほの見えるのだろうが、腕や背や下半身には、たじてくるわけがない、その重苦しい意味をさとるようにな くましいほど豊かな肉づきがつづいているので、力強い肉ったのは、はるか後のことであった。光雄がこの特殊な女 体と想われるのであった。 である町子の相手として選ばれたことには、光雄自身が肉 光雄は眼も口も小さい、こちんまりとまとまった、見ば体において、性格において、特殊な男であることが原因し えのせぬ自分の顔をこころよい物とは思えないので、男にていた。だが、終戦後の光雄には、ただその特殊な連命に したら立派だと想像される町子の、大まかな顔だちにひか したがっているというだけの、無感動な状態があったので れ、その肉の丸みの多い顔だけでも、それが自分のためにあった。男と女のまじわりを信じがたい物と考えるように ち様々に表情を変えるのが楽しいのであるが、普通たったらなったのは、町子とのまじわりの特殊さにあるのである こ が、それを特殊として怪しむには、光雄は人間の肉体や精 荒々しくなるか、押しつけがましくなるであろう町子ほど のの立派な身体が、やはり病弱のためと、女としての欠陥か神の動きについて、何かす・ヘての判断の手がかりを失って 愛ら、どこかけだるく、物さびしげなところがあり、それにしまっていた。 彼らしい安心と満足をお・ほえた。 光雄は町子たち夫婦より一足さきに上海を引揚げ、それ 光雄は自分でも、他人の心、ことに女の心の秘密を察しから三箇月ほどして、福島の田舎から町子の手紙をうけと とれる、こまやかな想いやりはないのだと考えていたし、 った。手紙には、上海のフランス租界での生活の楽しかっ そかい シャンハイ