一人 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集
407件見つかりました。

1. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

110 がくぜん ぼうぜん そして僕の所属する絵画団体の展覧会がだんだんと近付う、以上のようなことです。僕は愕然とし、また茫然とし あげく さいやく いて来た。僕はあれこれと題材に迷った揚句、ついに野呂て部屋中をぐるぐる歩き廻った。また新しい災厄がふりか の顔をテーマにして制作を開始したのです。しかしやはり かって来たわけです。手紙の末尾には、家の買い手は僕ら ぞうお 芸術というものは、憎悪を基調としては成立出来にくいよ二人でもいいし、どちらかの一人でもいいと書いてある。 うですな。それでも根気よく塗り直し塗り直ししているう ぐるぐる歩き廻りながら僕は考えました。野呂の奴もこれ ちに、画面の野呂の顔がしだいにふやけて、妙な抽象体みにはビックリするだろう。また今夜あたりあいつは、神も たいな面白い形になってきたのです。そうすればもうしめ仏もないものかと泣きわめくだろうな。 たものですから、僕も大いに張り切って制作をつづけて行ところがタ方、戻って来た野呂に速達を見せたのです ちょうど きました。陳根頑から重大な速達が来たのは、丁度その頃 が、期待に反して別にわめきもせず、髪をかきむしること のことです。 もしない。割に平然とそれを読み終って言いました。 「そうか。そんなことか。じゃあ僕が買うことにしよう」 ある土曜日の午後、僕は画布を前にして、レモンイエロ その一言がぐっと僕のカンにさわった。 さんたん ーの効果に苦心惨憺していますと、速達、という声がし「買うことにしようって、何もこの手紙は君一人宛てに来 て、一通の手紙がヒラリと舞い込みました。裏を返すと、 たんじゃないんだぜ」 あてな 渋谷・陳根頑と記してある。宛名は僕と野呂の連名です。 「そりやそうだよ。でも君は初めから間借人なんだから、 そうろう 急いで開封して見ますと、これが達筆の候文です。候文家を買う気持はないんだろ ? 」 が書けるなんて、器用な台湾人もあればあったものです「間借人は不破数馬に対してだ。僕は君から部屋を借りて が、その内容がまた僕を驚かせた。この家を売却したいとる覚えはない。第一手紙を読んだとたんに、僕が買いまし いうのです。 ようなんて、身勝手もはなはだしいじゃな、、。、、、。 候文ですから感情が露骨でなく、紋切型の文体ですが、手紙は一一人宛てに来たんだぜ。一一人で相談し合うのが当然 その要旨は、この家を売却したい意向を陳は持っている、 売価は事情が事情であるから十万円とする、向う三十日以「相談するって、何を ? 」 たちの 内に支払って貰いたい、もし支払い能力がなければ立退き「先ず手紙の内容だよ。ずいぶんこちらをなめた話じゃな ただ を要求する、但し立退き費として一人宛一万円程度を支払いか。一方的に売却を宣言するなんてさ」 あて やっ

2. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

鹿児島・枕崎の漁港 ( 「幻化」 ) ようとしても、そこに共通の郷土陸というものが、な かなか浮びあがってこない 私などの大変、大ざっぱな予備概念からすれば、彼 等は「九州男子」であり、豪放さをその特色とするべ はず き筈であるが、およそそうした概念から、三人とも遠 いので、強いて共通要素を求めようとすると、それは 三人とも、実に神経質で繊細な感覚の所有者であり その度合いは普通の社会生活には耐えられないはどの ものである。 と云うわけで福岡は梅崎の文学を理解するには素通 りするより仕方ない。普通の作家にとっては「幼時体 験」というものは決定的である筈なのに、彼の文学に はそうしたものかよく見秀一せない この彼の故郷との関係のむすかしさがあるのかも知れ 、 0 もちろん ( 勿論、同じ故郷に育った他の人には、福岡と彼の文 学との照応する点を見抜く人もいるだろう。しかし、 あずまおとこ 一介の旅人ーーしかも遙かな東男 には、結局、ラ ンドセルを背負った梅崎小学生の姿は、この街角から は幻として、現れなかった。 ) しかし梅崎の文学には、地理上の照応すべきもの かへ王くないかと一ム、つと、そんなことはない せんさ、 A 」い、つ A. : フつに 9 つ、

3. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

左春生の描いた油絵「はっ だろう。丹尾を見ているのか、自分を見ているのか、 けの干物」 ( 昭和年頃の作 ) 自分でも判らないような状態になって、五郎は胸の中 で叫んでいる。 「しつかり歩け。元気出して歩け ! 」 また立ちどまる。 もちろん丹尾の耳には届かない 汗を拭いて、深呼吸をする。そして火口をのぞき込む。 : また歩き出す。・・ : : 立ちどまる。火口をのぞく。の ぞく時間が、だんだん長くなって行くようだ。そして ふらふらと歩き出す。 梅崎春生という人はよそめにはのんびりした日を送 右銀座 " 長谷川。で ( 昭和年 ) 第 りながら、自分の内面が一歩一歩、死に向ってためら いながら歩いてゆくのを見ていたのである。人を類型 によって分類するのは、あまりよい趣味ではないが、 だざいお巻し 長 7 梅崎春生は、太宰治とは違ったタイプではあるが一種 和の破滅型の作家である。 時恵 ひ妻 中学の初年級までの春生はともかくも、常識的な優 ん生 ら春等生であった。 遠藤周作の調査によると、彼は昭和三 しさフ 0 ーうゆうかん 二年生の梅崎春生が「正 族五年の修猷館の学友会雑誌に、 すけおう 家 1 史助翁についての感」という一文を発表している。梅崎 わか

4. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

うでなかった。つまり城介を事件以前に退学させれば、う学課があるので、校長はむしろ城介をかばう立場に立った どんの食逃げの主犯はここの生徒ではなかったということに違いない。しかし福次郎は不幸にして職を追われ、今は になる。学校の名誉は傷つかない。福次郎は内心憤激した 小会社の庶務係に勤めている。無論校長はそれを知ってい が、言葉はおだやかに断った。 「そういうことは出来ません。在学中にや 0 たことですかそれで最初の会談は、こうして物別れにな 0 た。 ら、それに対して責任を取ろうと言うのですー そういう状況を栄介は、後年福次郎のときどきの述懐で 「それは判りますがね」 知っただけで、その時は何も知らされなかった。しかし大 めがねはず 校長は金ぶちの眼鏡を外し、布でレンズを拭きながら言体のカンで判っていた。 教頭や何人かの洋服男が、暮夜しきりに矢木家にやって 「あの事件のために退学処分をさせられるのと、家庭の事来た。座敷でひそひそ話をして、そ 0 と帰って行 0 た。 情で自発的に退学を願い出られるのとでは、大きな違いが城介といっしょに食逃げをした三人の父親は、一人は裁 あるんですよ。城介君の将来のためにね」 判官、一人は電鉄重役、一人は医師である。それを城介は 「家庭の事情って、たとえばーー」 知っていたし、栄介も知っていた。来訪する洋服男たち 「学費が足りないとか、あるいは転校するためにとかーー」は、その父親か、それに関係した男たちであることを、栄 ろうかい 校長は老獪な言いくるめにかかった。福次郎は再度拒絶介たちは本能的に察知していた。来客があると、栄介たち した。竜介の死以後の不遇が、かなり福次郎の気持を頑固は纒戸に追いやられたので、具体的に話がどんなに進行し にしていた。 ているかは判らなかったけれども。 「それは出来ません」 「あいつら、事件のもみ消しにやって来るんだよ」 あぎ 凧福次郎の言葉はやや荒くなった。 薄暗い納戸の、長持に背をもたせかけて、城介は嘲ける むすこ 「食逃げをしたのは、わたしの息子だけじゃない。あと一一一ように言った。 狂人いる筈だ。その生徒たちの処分は、どうなさるつもりで「おれだけを犠牲にして、自分たちの息子をたすけようと すか ? 」 してんだからねえ。うんざりするよ」 もしも福次郎がまだ県庁の役人だったら、校長もこんな栄介はそんな城介の言葉に、調子のいい相槌を打っこと 態度に出ることはなかったであろう。県庁なら学務課や視は出来なかった。城介はもう退学の腹をきめ、追いつめら がんこ あいづら

5. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

して簡略な祝宴を開きました。不破夫人もその祝宴に参加 「そうですか。じゃあ、そうお願いします」 ふら・」ら′ それで話がきまってしまいました。スリが取り持っ縁して来ましたが、おどろいたことには夫人はその風貌に似 しよう で、家主と間借人の仲になるなんて、まことに面白く浪曼ず、亭主を上廻る酒豪で、一一升用意したのが足りなくて、 的なことで、小説のタネにでもなりそうな話ですな。で、 もう一升買い足したほどでした。典型的なウワ・ハミ夫婦と その日は不破家をおいとまして八王子に帰り、親爺を口説でも言うべきでしようねえ。 もら いて四万円出して貰いました。親爺も四万という金には少 し渋ったようですが、僕だって何時までも親がかりでは困ところがこのウワ・ハミ夫婦との同居生活は、わずか一週 るし、以後経済的にも独立するという条件で、やっと出し間をもってはかなく終りを告げました。一週間目に夫妻も しっそう て貰ったのです。もちろん不破家に引越したとて、すぐにろとも、夜逃げというか昼逃げというか、どこかに失踪し もくろ 画が売れ出すというわけはない。でも僕にはひとつの目論てしまったのです。これはまったく予想外な出来ごとでし 見があったのです。あの不破家の八畳の板の間、あるいは 好天気の折は庭先を利用して、毎日曜毎に小学生相手の画失踪の前の晩、不破数馬はすこし酔って僕の部屋にやっ の講習実習をやったらどうだろう。さいわい不破家近辺はてきて、壁にかかっている僕の画を批評したり、あやしげ 住宅地域ですから、一一十人や三十人は集まるだろうというな画論をはいたりしていましたが、やがてもじもじしなが のが僕の目算でした。一人から月謝を三百円取れば、三十ら、部屋代の前納という形でもいいから、一一千円ばかり貸 あこう 人で九千円になります。間代は五百円だし、八千五百円あして欲しいと切り出した。夫婦で赤穂に行き、先祖の墓参 れば一人口はらくらく養えるでしよう。そういう我ながらりをして来たいというのです。一週間前四万円という金を 渡したのに、もう一一千円貸して呉れとはすこし妙だとは思 抜け目のない計算でした。 不破と知合いになって三日目に、僕は世帯道具や画の道ったのですが、僕が知らない事情があるのかも知れない 具一式をオート三輪に積みこんで、はるばる八王子から代し、まさか失踪するとは思わないから、間代前納の形式な 田橋に・ ( タ・ ( タ・ ( タと引越して来ました。世帯道具の方はらそれでもいいと思った。しかし念のために訊ねてみまし 不破にならって、ギリギリの必需品だけにしたのです。そた。 せんがくじ しゅこう 「先祖のお墓って、なにも赤穂まで帰らずとも、泉岳寺に の夜不破とかんたんな契約書を作成し、四万円を手交し、 さかな それから近所のソ・ ( 屋から引越しソ・ ( を取り、ソ・ ( を肴にあるじゃありませんか」 ごと おやじ

6. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

椎名麟三集注解 ということばが頻出する。苦渋に満ちた深刻さとかかわりあう ことばであり、椎名文学のひとつのキーワード。 「堪える」こ とによって、いっさいの「重い」ものから解放される、という ことばからもわかるように、このふたつのことばは、この作品 の重要語である。 一一四九国民服戦時下、色も軍服に似せ、背広に代って常用服とし 深夜の酒宴 て制定したもの。 = 四三陰気この作品は冒頭よりまことにうっとうしい陰気ぎわま = 五 0 外食券戦時下は、配給制度の故に、外食の際は、「外食券」 を必要とした。 る状況と心情がないあわさって提出されていく。 ( ラックこの・ ( ラ , クの風景は、戦後風景のっとも特徴 = 冥浮浪人敗戦直後、家を焼かれ、家族と離別した人々が、「浮 浪人」となって地下道などに住んでいたことがあり、当時の風 的なもの。こういう状況のなかでも人は生きていく。 俗現象になっていた。 一一四四臆病椎名文学の主人公には、この種のうじうじとした臆病 一惑メチルメチルアルコール。敗戦後、酒類が著しく欠乏、そ な、決して指導者層には入りこまぬ人間がしきりと登場する。 のため、代用としてこの「メチルアルコール」が使われたこと 一一四四金融措置令正しくは「金融緊急措置令」。インフレ対策と があった。量を過ごすと、失明したり、死亡したりもした。 してうち出された戦後の新円と旧円の切りかえをいう。 = 自然主義リアリズム頃末で単調な日常生活の次一兀をこと細 = 〈 = 満洲事変昭和六年九月に勃発、日本の東洋侵略の第一歩と なり、以降、日支事変、大東亜戦争へと突入していく。昭和の かに再現していく手法。平常は男女の日常の生態が描かれる。 十五年戦争の発端。国内では、これが契機となって、ファッシ 一一四六重いこの作品には、幾度も幾度も「重い」ということばが ョ化の傾向があらわになっていく。 出てくる。ありきたりの修飾語以上の力を持っている。 ミルクホール大正末から昭和にかけてよくはやった飲食店 = 穴懲役人社会のも 0 とも底部に位置する地点からの問いかけ とみてよい。最近の「懲役人の告発」にまでことは及んでいく。 で、牛乳を飲ませ、。ハンなども売る。 一石 0 幼児のように この「加代。の形象は、のちの「美しい女」 一一岩全世界の人々の非難こうした誇張がユーモアに通ずる。 へとつながってゆく。 一に挺身隊戦争末期においては、女学校の生徒も軍需工場など に動員され、さらに女子挺身隊などもっくられたりした。 美しい女 一一哭省線現在の国電の旧称。鉄道省の管理下にあったのでこの 一石五一私鉄瀬戸内海に沿って神戸・姫路間を走っている宇治川 ように呼ばれたもの。 一一哭堪えている「重い」ということばとともに、「堪えている」 電鉄 ( 現在の山陽電鉄 ) をさす。 一一四六

7. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

囲 息を吹き込んだりしてやることもあった。またときには、 た。青柳は私と同じように焼酎を注文したが、倉林は仕方 こう叫び出してもいた。 なさそうにラムネを注文した。倉林は、貧しい四人家族の ささ むだ 「おれは、人ぐらい何百人も殺して来たんや。三人や五人生活を長い間支えて来ているので、ほとんど無駄づかいの ぐらい自慢にならへん」 出来ない男になっているらしかった。またも花柳病をやん また かっこうしようぎ だが、いずれの場合でも、きみは急にヒステリックに怒でいるらしい青柳は、窮屈そうな股をひらいた恰好で床儿 ささや り出した。怒ると、彼女は自分を無感動な物体のようにしへ腰を下しながら、私へふいに囁くように云った。 た。するとその彼女は、あの人を殺すか自分が死ぬかとい 「お前、このごろどうしたんや。会社に何か不平あるんと うような恐ろしげな気配をただよわせはじめるのだった。 ちがうか ? 」 だから私は、さらにそのようなきみをやわらげるために大「会社のえらい人ら、どうもおれを誤解してるらしいん 儀な努力をしなければならなかったのだった。私にそのよや」 うな努力が出来たのは、あの笑い合った、そこにあのほん「そうやで」と青柳はしわがれた声をひくめた。「お前を とうの美しい女の感じられるような一瞬をとり戻したかっ赤やないかとゆうてるらしいで」 とん、よう たからだ。 「赤 ? 」と私は思わず頓狂な声を出した。 そしてありがたいことには、その瞬間は、たまにはやつ「何も心配あらへん」と青柳は神妙な顔をして云った。 て来てくれたのである。その笑いのなかで、私は会社で失「おれらは、大丈夫やさかいに」 っている自分をとり戻し、人間らしさをとり戻した感じ私は、何が大丈夫なのか、さつばりわからなかった。だ で、あわれにも涙ぐんでいたのである。 が青柳はひとり心得た顔で云った。 「今度、おれら雑誌を出そうと思うんやけど、会員になっ てくれへんか。一カ月五十銭や」 しようらゆう あるタ方だった。私は、いつもの飲食店で焼酎を飲ん「そりや、なってもええけど、何の雑誌や」 で少し酔っぱらっていた。そのころの私は、以前とちがっ 「前に、軌道という雑誌、二三人のもん出しとったやろ。 てとめ度がなくなってしまっていたのである。そのとき青あんな雑誌や」 柳と倉林が入って来たのだった。暇な小さな店で、その一一一「ああ、俳句なんかをのせとった ? 」 人がテー・フルへ腰を下すと、ほとんど一杯になってしまっ 「そや、そや」と青柳は簡単に云ってのけた。

8. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

404 に、何が出てくるかと思って読むと、この「疣」にぶつかる。 たことばである。全体は、偶然をてこにして静かに回転してい 文の進行上に、えもいわれぬおかしみが漂っている。 く。つじつまの合わぬこと。充分に納得つきかねることがしき 九 0 喪家の狗やどなしの犬。「孔子家語」より出たことばで、 りと出てくる。 元気なく衰えきっている人のたとえ。 一三六餅つき突っぴょうしもないものに連想が飛躍するが、感じ 九一オセッカイこの作品には、あえて片仮名を用いて、意のあ としては、的確につながっているのである。 るところを示そうとした部分がかなりにみられる。 llll< 社会鍋慈善鍋ともいう。歳末に救世軍の人々が街に出て、 九一福耳「疣」に対応して、反対のよきイメージと結びつく「福 義援金をつのる。いかにも押しつまった歳末らしい雰囲気のう 耳」が出てくる。このあたりの呼吸はまことに巧妙である。 かがえるものである。 九一一不破数右衛門赤穂浪士の一人。浪人をしていたが、主家の 一四一一オ・フジェ objet ( フランス語 ) 石や木などを材料にしてそれ 変を聞き、かけつけて、大石に請い、仲間に加わる。 をまったく無関係に組みあわせ、リアリズムではなくて象徴 九五大八車一一、三人でひく大きな荷車のこと。 的、幻想的雰囲気を出すべく努力する。 究陳根頑野呂と同じくューモラスな姓名に仕立ている。戦後一四四鬱屈心にうつうっとした悩みがあり、解放的になれぬ心情 ラジオで「鐘が鳴りますキンコンカン」という歌がはやった。 をいう。思い屈したさま。 一 8 孫伍風「孫悟空」がもとになっている名前である。 一四六落花狼藉この種のことばは、講談本によくとりいれてある。 もちごめあわ込び 一 0 一老酒糯米・粟・黍などを原料とする中国の酒。 一哭ダンディズム dandism おしゃれを装うさま。 一 0 一一鳩の街東京都墨田区寺島町の私娼街のこと。小さな窓から一五七三方一両損三者とも平等に一両の損になるが、話はうまく 顔を出して客を呼ぶところからきた。 まとまる、という大岡政談にちなんだ話。 一 0 五枸杞なす科の落葉小灌木。卵形の赤い果実は食用となり、 一会記憶この作品は、さまざまの「記憶」が、いつのまにか偶 強壮の効がある。葉は乾して解熱剤に用いる。 然に結びつき、話がつくりあげられていくところにえもいえぬ 一一一蒙昧きわめて愚かで物ごとに暗いさまをいう。 おかしみがある。 ll< デフレデフレーション ( 通貨収縮 ) の略。物価は下落する一奕杜氏冬の間、酒をつくるために蔵にやってきた職人をいう。 が、企業は倒産、失業者が増大する。インフレの反対。 一套関東煮「おでん」のこと。 一究磅としてぐっとまじりあって一つになるさまをいう。 狂い凧 一七一一即日帰郷梅崎自身、昭和十七年に召集されて対馬重砲隊に きわた 一一天・ハンヤ panha ( ポルトガル語 ) 熱帯に産する木棉の樹から 向ったが、気管支カタルを肺疾患と誤診され、即日帰郷、とい とった毛をいう。 う経験をもっている。 = 宍けだるそうに・ : この作品の底辺にある雰囲気をいいあて石一釣糸梅崎自身、釣りが好きであった。また、「突堤にて」

9. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

407 注解 毛五名もない椎名の作品の主人公は、主として、この種の平凡一一公一浜の松須磨・舞子・明石・高砂の海岸をイメージすればよ はくさせいしよう な、日常性のなかでまごまごしている「名もない」人物が多い。 。瀬戸内海の「白砂青松」の海岸である。 これらの人たちは、異常なこと、過度のさまを強く嫌う。 六五倉林きみ最下層の環境で育ち、頽廃の要素を持ちつつも、 一石五喜劇的な位置主人公の「名もない労働者」に対して与えら 素朴で健康な生命力、雑草のような・ハイタリティに満ちている れた位置。それは「左翼ーからも、「右翼」からも、組合の「意 女性。主人公と交渉を持っ三人の女性のうちの重要な女性。こ 識的ーな人々からも、ややずれた地点にいる奇妙な人物として の女性との接触は、ともに被害者という場を設定することによ 設定されている。 って、連帯の意識がたかまってくる。 一石七大正の・ ( ニック第一次世界大戦中の好景気を背景にして一一条仕舞屋店を出していない、住宅だけの町屋。商売を仕舞っ 「成金」が多く出たが、その直後、。 ( ニック ( 恐慌 ) が訪れる。 た ( やめた ) 家、というところからきた語。 一一尺仕方のない男として椎名の作品を押えていくための重要な三 8 滑稽にもこの作品には幾度も「滑稽ーということばが使わ キーワードのひとつ。先頭に立って進む指導者の発想とは逆の れている。主人公の行動、主人公の心情を語ろうとする際、く 地点からの考えがここに出ている。 りかえし執拗に「滑稽」という修飾語を使い、客観視しようと 一一尺本当の自分「本当の自分」を喪失していることに気づき、 する。 それをとりもどすために大きな努力を払う人物が椎名の作品に 三 0 四国民精神総動員日支事変の進展に伴って、銃後の意識が強 はよく出てくる。 調され、戦争目的完遂のために、心を一にする努力が上から説 一穴 0 美しい女この作品には、実在するとは思えぬこの「美しい かれた。 女」のイメージが底辺に漂っていて、何かの折につねに思い浮三一一曖昧屋正式の遊廓ではなく、ひそかに売春をやらせるいか んでくる。 がわしい家のこと。 一穴 0 おかしな真面目さ「おかしい」ということと「真面目ーと三 = 飯塚克枝会社や組織に対して、その演じている役割を歴史 いうこととは、本来は結びつかぬものなのだが、椎名の作品に 的に眺める目はいっさい持たず、ただ盲目的に忠実に従うこと おいては、みすからの位置を「おかしい」とみ、「滑稽」と眺 に生きがいを見いだしている女性。このこわばった女性もかな めるところがしばしばある。 しき庶民の典型といってよい 丞一電車が好き電車への愛着は、勤労に対する素朴な愛着であ一 = 一六ごうやさかい「ごう」は「ごうはら」。腹が立っていまいま しいこ -SJO る。それはいかに困難な状況に陥っても、電車への愛着は変ら ぬ。それは人からの強制の故にではない。 この考えは、絶望と三一セ死んでもこういった誇張したいいかたを主人公はことのほ は無縁の庶民的発想、平凡な日常性への固執、というところか か嫌う。「異常ーとか「過度」について嫌悪しつづける、とい らきたものといえる。 うのがこの作品のキ ートーンである。

10. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

私はロごもった。 わか 「そ、そんな立場に置かれたことがないから、よく判らな 「これがあいつの見おさめかも知れない」 切ない思いで、彼は汽車を見送っていた。だんだん遠ざい 。すると君はやはり城介君を可哀そうだと思ったわけだ かり、しだいに小さくなる。すっかり姿を消した瞬間、彼ね」 は前のめりになりそうになって、かろうじて足を踏みしめ「それとも違う」 た。汗がびっしよりと額にふき出して来た。 栄介はもじゃもじゃ髪を両手でかきながら、しばらく考 えていた。 「この前君はくたびれて、うとうとしていたから、僕はそ「おれはふた児として生れた。ひとりで生れた経験がない っと帰った」 んで、断言は出来ないけれど、ふた児同士には特別の感情 私は言った。 の交流があるんじゃないかな。たとえば僕には竜介という 「その時聞こうと思ったんだが、城介君がうどんの事件を兄と、他に弟と妹が一人ずついる。それらに対する感情 起した時、喜びの気持が君の胸のどこかに動いていなかつは、やはり城介に対するのと違うものね」 「年齢の差からかな」 たかね ? 」 「なぜ ? 」 「そうだろうね。同じ胎内に育って、同じ日に生れた。何 「城介君が退校となれば、君は大学までの学資を確保出来かを分け合った、つまり分身、自分の分身だというよう たわけだろう。幸太郎氏が一一人の中の一人に学資を出してなーー」 はす やる、という約東だった筈だね」 「初めからかい。その感じは」 「約束はそうだった」 「いや。初めはそうじゃない。これが自然であたりまえと 栄介はゆるゆると背を起した。 思っていた。いや、思いもしなかった。ずいぶんフケが出 るな。久しく頭を洗わないもんだから」 「しかし喜ぶ気持は全然なかった。君に兄弟あるかね」 「いるよ」 彼は膝の上のフケをはらった。 「兄弟で何か競争して、相手が失脚すると、うれしいよう「小学校に入って見ると、友達はみんな別々の顔をして、 な気持になるか」 同じような顔のは一組もいない。そのへんからだろうな。 「さあ」 実感として出て来たのは」 ひざ