256 僕は雨のなかを歩き出した。そして間もなく屋根だけの僕は何とはなしにその包みを受取った。そして何か話の とまど むね たど 大きな建物がコの字形に三棟ならんでいる青物市場に辿り行き違っている戸惑いを感じながら歩き出したのだった。 だがやがて、とにかく僕が無心をしたものらしいというこ ついたのだった。だが雨つづきのために入荷がないのか、 その広い構内は洗われたように片付いていて、僕の目的ととに気付いて、再び老人のところへ引返すと、その老人の あしもと するものは何一つ見えないのだ。ただ手前の一棟の、僕に足許へだまってその包を置いた。すると老人はびつくりし あきだわら 近い柱のところに、雨を避けて六十ぐらいの浮浪者が空俵たように再び身体を起してやはり不明瞭な声でいうのだっ からだ の上に身体を丸くして転っていた。死んでいるのかとも思た。 われる節があるので近付くと、浮浪人はおずおず半身を起「わ、わしは決して盗んだのではないので」 ひげおお 僕はそれに答えずにぼんやり立っていた。そしてこの老 して僕を見たのだった。その顔は長い白い鬚に蔽われてい つらろう て、百年間土牢に入れられていた老人のようだった。彼は人のように今寝ころぶことが出来たらどんなに幸福だろう いれば 口をひらこうとするたびにゆるんだ入歯が抜そうになると漠然として考えていた。そのあいだ、老人は僕を確める もっ ふめいりよう ので、聞きとりにくい不明瞭な声でいった。 ように眺めていたが、ふいにロの端に泡を出しながら、勿 ちょっと 「わしは、一寸、雨やどりしているだけなんで」 体ぶったロを利いた。 僕にはそんなことはどうでもいいことなのだ。だから僕「ああ、ああ、お前さんはわしの仲間か ? 」 は率直に自分の状態を説明した。 だが彼は尚も僕が・ほんやり立っているのに威厳を損じた 「僕は腹が減って仕方がないんだ」 らしく、次のように聞きとれる言葉を叫んだのだった。 だんな 「旦那、 「おい ! わしは眠るのだ。そんなところへ幽霊みたいに そして続いて老人は何かいったのだが、僕には少しも聴立っていないで、どっかへ行って呉れ ! ほんとにお前は おくびよう きとれなかった。ただ赤いうるんだ眼が臆病そうにひるむ幽霊みたいだぞ ! 」 のが見えた。その老人はもう、中風のようにふるえる手を幽霊という言葉が僕を打った。僕は自分の本質に対する こうぎ 的確な批評に敬意を表しながら、厚誼をこめた一礼をする 柱の根元へ伸ばしながら、汚れた布包みをとり出してい た。そして彼は聞きとりにくい声でいうのだった。 と、再び雨のなかへ大儀な足を運んで行った。幽霊、たし ゅうしゅう 「わしは盗んだのではないので。この俵を借りたら、えんかに僕は実体のない存在なのである。僕は憂愁という観念 どうが残っていたんで」 なのである。その僕にはこの自分の肉体がどんなに重かっ ころが たい く
365 美しい女 やったのだ。そしてこの孤独なおかしな男は、海のそばを 通るとき、三度も自殺をはかったひろ子のことを思い出し ながら、あの男岩へ云ってやっていたのである。 うそ 「三度目の正直というけど、あれ、嘘ゃな」 だが、男岩は、むっといかったようにだまったまま、高 あび らかに打ちあげられる波の白いしぶきを、全身に浴せられ るままになっていたのである。 私は、敗戦後、一度だけだが、労働組合の執行委員にえ らばれたことがある。たしかにそれは一部の人々のいうよ こつけい うに滑稽な出来事だった。組合の事務所へ入って行ったと き、そこにいる委員長や書記たちが私を見て笑ったからで もちろん ある。勿論私も笑った。そして笑いながら云った。 じようだん 「戯談も、ええ加減にしてもらいたいもんや」 そして私は、委員の辞退届を出した。勿論それはすぐ受 理された。私へ投票した人々は、勤読一一十年という古い人 せんえい 人であり、敗戦後入社して来た尖鋭な人々から反動と目さ れていた人々であったからである。私が、委員を辞退した のは勿論それらの私を支持してくれた人々を拒絶するため であった。 私は、自分を反動だ、とは思っていない。私は、ただ相 も変らず単純で無邪気なだけなのだ。ときには、その無邪 気さが残酷に見えようとそうなのである。だから私を時代 や社会へ結びつけているのは、あのイデオロギイとかいう 難しいものではない。労働なのだ。物へじかに手をふれ、 物を動かしたり変えたりすることだ。だから私が、電車に 第四章
「ハーだなんて、人聞きが悪い。誰がそんなことを言ったろう。つかまるすべがなくて、がくんがくんがくんと三度 んだね。学校あたりに聞えると、具合が良くないじゃないずつこけ、歩道と車道の角にしたたか腰を打ちつけた。腰 わか か」 がぎくっとなるのが判ったよ」 矢木は私といっしょに学校を卒業して、今はある大学の ていねいに葡萄の皮を剥いて、彼はロにり込んだ。 講師を勤めている。講師だから収入は少いが、夫人が美容「どうして人間の背中なんて、あんなに無防備につくって けりあ 院を経営しているので、生活には困っていない。もっともあるんだろうな。手は前に突く口く 。卩。足は前方に蹴上げ ふんそり返っているのは、そのせいでなく、背の痛みのたる。眼やロや耳などの感覚器も、おおむね前方の敵を対象 めだとのことであった。 としてついているね。背中だけは、皆から見離されて、置 「こうしている方が、ラクなんでねー きざりにされている。どういうわけかな」 まくら 矢木は背中をずり起し、。 ( ンヤの枕によりかかる姿勢に 「ヒジ鉄というのがあるよ」 なった。光線の変化で、矢木の表情はかなり病み老けて見え「うん。それはある。でもそれは消極的なものだ。敵には とし た。それはある感じがあった。 / を 彼ま私と同じ齢だったから。それほど響かない」 「すまないが、お茶をいれて呉れないか。テー・フルの下の葡萄を含んだまま、しばらく矢木は考えていた。こうい 扉に、茶器が入っている」 う時、早く呑み込んでしまえばいいのにと、私はいつもい 「酔っていたのかね、その時」 らいらする。そうさせるようなものが、昔から矢木という 男にはあった。 電熱器に薬罐を乗せながら訊ねた。 「昔子供の頃、おやじから恐い話を聞かせられると、おれ 「ハスの階段から落ちるなんて、だらしない話だね」 「酔ってはいなかった。酔うとかえって体が無抵抗になったち兄弟はひしひしと、背中をおやじにすりつけて行った て、怪我などしないものだ。しらふだと、どうしてもじたものだ。抱きついたりは決してしなかった。背中の方がぞ ばたとする」 くぞくと恐くなるからだ。今の子供もそうかね ? 」 ぶどう 枕もとの葡萄の実を一粒つまんだ。 「今でもそうだろう」 「大型の・ハスで、三つ階段がある。その一番上から足をす「すると人間という動物は、もともと攻撃的に出来ている べらせ、つまりずつこけてしまったんだ。鞄を持っていたのかな。背中をさらして歩く動物、しかも守勢的な動物 こうら し、ずつこけになる以外はなかった。背中には手がないだ は、たいてい甲羅だのトゲだのを持っていらあね。たとえ けが やかん かばん
った。紅茶を運んで来た家政婦に、医者を呼んで呉れるよ やはり矢木栄介はその時、すこし酔っていた。講義が済うに頼んだ。家政婦は、どうかなさいましたか、と聞くこ んで、同僚と安パーに行き、 ( イボールを三杯飲んだのともせず、電話口に取りついた。もっとも彼女は、さっき だ。同僚と別れて、 ' ハスに乗った。 栄介が猫のように這っていた時も、遠くから無表情に黙っ 夕刻近くで、・ ( スは次第に混んで来た。車内の温度の高て眺めていた。電話をかける声を聞きながら、栄介はペッ ドの中で、 昇と酔いのために、栄介はねむ気をもよおして来た。頭を もたせてうつらうつらしている時に、車掌が停留所の名を「まるでロポットみたいな女だな。感情を全然あらわさな 呼んだ。 / 。を 彼よよっとして立ち上り、乗客を押し分けなが ら、入口に突進した。 と考えていた。しかし、・ハスの停留所で誰からもかまわ つら 停車時間が長引くので、若い女車掌は露骨なふくれつ面れなかった時、彼は自分に惨めさを感じたが、この家政婦 をしていた。そこであわてたのがいけなかった。がくん の場合はそうでなかった。むしろその冷淡さはさつばりし かどしりもち がくん、がくん、と三度ずつこけ、最後に歩道の角に尻餅て、気に入った。くどくどと。 門いただされるのは、惨めさ をつくのに、二秒もかからなかった。しかし誰も笑わなかを復習するようなものだったからだ。 った。笑いもしなかったかわりに、誰も手を貸しては呉れ やがてかかりつけの医師が来た。頭の禿げた、酒好きの なかった。そのきっかけが、誰にもっかめなかったのだろ好人物で、病気にかかってもきびしい戒律を課さないか う。それほど調子良く、きわめて自然に、栄介はずつこけら、栄介はこの医師が好きであった。 たのだ。 「どうしました ? 」 栄介が街路樹の支え木にすがるようにして立ち上った栄介は事の次第をかんたんに説明した。最後につけ加え 凧時、・ ( スは大きな尻を振りながら発車した後であった。彼た。 よご かばん は惨めな気持になって、汚れた鞄を拾い上げようとした 「ギックリ腰というやつではないかと思うんですがね」 狂が、腰のあたりがぎくぎくと痛んで、なかなか拾えなかっ 医師はその言葉に、別に反応は示さなかった。うつむけ た。家まで歩いて帰れそうにもない。彼は支え木につかまにさせて、腰部のあちこちを押したり動かしたりして、診 四つたまま、タクシ 1 を呼んだ。 察はそれで済んだ。 家に戻ると彼は靴を苦労して脱ぎ、・〈ッドまで這って行「腰痛と言 0 ても、いろいろありましてね、原因がっかめ くっ ささ
ところが、森山の自殺から一一月もたたないある夜だつには、彼女と別れるに必要な、何かの心がかけていた。誇 た。私が終電車から降りて来ると、消防自動車が一一三台駈りをもっていうのだが、そんな彼女の姿が、ほんとうの彼 けつけていて、車庫のあたりは大騒ぎなのだった。そして女の姿であるとする心がかけていたのである。 車庫の外においてあった・ 0 が、その窓から勢よく火を 噴き出しているので、他の車を待避させようとしてうろう ろ走りまわっている車庫の人々の影が、異様なほど黒く見放火事件の真犯人は、遂にあがらず、謎となって今日に わ・よう えた。結局燃えたのは、その一輛だけだったが、放火だと及んでいる。だが、私ゃあのときの検挙グループの五人 は、当然なもののように、それそれ一日警察へとめられて いう話だった。私は、しばらくの間、幾分の悲哀を感じな がらも、面白そうにその車の焼け落ちるのを眺めていた。調べられているのである。警察から帰って来ると、滑稽に も私は、人々にとって「無気力」さが危険の証明であるよ それから、家へとんで帰って、克枝へ思わず云った。 うな人間になっていた。だが、私は、無智で単純な無邪気 「車庫の火事、知ってるか ! 」 克枝は、ぎくっとして蒲団から半身を起した。そのときな男であったに過ぎないのである。 私は、その半身を支えている彼女の片手が、かすかにぶる そのころ私の仲間の菊川に、結婚式があった。結婚式と ぶるふるえているのを見たのである。私は、情ない気がし云っても婿に行ったのである。眼のおどおどして暗い、や おおげさ りらぎ て、思わず大袈裟に云った。 さしげな口を利く男だった。私は、その男の律義さが好き もちろん 「車庫は勿論、会社もまる焼けや , だった。その日、私は、午後早く仕事が終ったので、家に 克枝は、だまって起き上った。そして制服に着更えはじ寝ころんでいたが、私たちの結婚式のとき、彼だけがワイ めたのである。その彼女は、全く度を失っているようだっ シャツを祝物にもって来てくれたことを思い出したのであ 女 - こ 0 る。克枝へは、山ほど祝物があったのに、私への祝物は、 うそ 「というのは、嘘ゃ。安心しな。 A«・ o 一輛燃えただけ兄や姉たちのそれを除けば、その菊川だけだったのだ。彼 し ていねい は、それを詰所で呉れたのだが、そのとき丁寧に頭を下げ 美や」と私はなぐさめるように云った。 こつけい あらたま すると克枝は、滑稽にも、今度はべったり正座した。そながら改った口調でこう云ったのである。 たび れからふいに泣き出したのだった。私は、その泣き声を聞「この度は、おめでとうございますー そば きながら、なんとなく彼女と別れようと思った。だが、私傍にいた人々は、その彼にてれたようだった。だが菊川 ふとん きが なぞ
312 かばん るとき、後から彼女の腕をつかんで冗談に云った。 私は、鞄を精算場にあずけて、すぐ高倉の家へ急いだ。 「切符を拝見しますー 私に、出勤係の意図がよくわかったからである。何故なら だが彼女は、私の手を振りはらった。それからゆっくり高倉も、私たちと一緒に検挙されたひとりであり、出勤係 振り向くと、にこりともしないで教師風な口調で云った。 は、私たちを一つのグルー。フとしてとり扱っていたからで 「冗談しはったら、いきまへんがな」 ある。だが、私たち当人たちは、めいめいおたがいに敬遠 そして彼女は、駅の構内から出て行ったのだった。私のし合って、あまり行き来もしていなかったのである。他人 からグループとして一括されればされるほど、そうなって ようなおかしな人間は、そのような彼女に全く歯のたたな い感じだったのである。やがて、第二期の女の出札が七八行かずにはおれないものがあったのだ。 ぶしよう 人入社して来た。克枝は、自然に女の出札の長のような位雑貨屋の離れを借りていた高倉は、不精たらしく蒲団か つぶや 置になり、その克枝と部下の関係は、まるで親分と子分とら起き上ると、眠そうな声で・ほんやり呟いた。 云ったようなものになった。出札の女たちは、彼女を度外「おれ、死にたくなったなあ」 うわぎ それから制服の上衣を肩に引っかけて、・ほそ・ほそ庭へ降 視しては、自分たちのビクニック一つ考えられなかった。 写真をとるときは、彼女は女たちの前列の真中に据えられりて来た。 私が、克枝の家をはじめて見たのは、その途中である。 ていて、彼女もそれを当然としている風があった。会社も むねわり 高倉が教えてくれたのだ。それは汚ならしい棟割長屋の一 彼女を信頼しているようだった。 だが、私は、そのような彼女は、きらいだった。私の好軒だった。もう秋だというのに、その入口にすだれをつる きな克枝は一心に働いている彼女だった。全く夢中で引きしていて、そのすだれ越しに、狭い部屋が、裏に落ちてい 継ぎの切符を計算しているときは、疲れたちょっとした動る外光に黒くうかんでいた。家のなかはどこか乱雑で、あ の物事に正確な克枝の家とは思われなかった。その裏縁に 作や、むっといかったような顔に上らせている血の色が、 めがね 近いところに、何か縫っている、眼鏡をかけた老婆がい 思いがけない新鮮なエロチシズムを感じさせた。 だが、ある日だった。乗務をおえた私は、ふいに出勤係た。私は、その老婆の姿を見たとき、はじめて克枝が身近 いものに感じられたのである。どこか私の母に似ている気 につかまったのである。 なこうど 「木村 ! また高倉、寝すごしたらしいんや。呼んで来てがしたせいかも知れない。私は、ちゃんと仲人を立てて、 ある くれや」 結婚を申込んだら、或いはあの克枝も、という気がした。 ふとん
ついで、喜んでいたからね」 っているのだという結論が出た。その他支那茶を円型に乾 みやげ 「そうかねー し固めたのを持って歩いていたし、日本茶を土産に持って 加納はさりげなく答えた。揚がった ( ゼを皿に移しなが行くと、たいへん喜んで、おかえしに転をくれたりし ら、話題を変えた。 た。総じて素朴にして純情な民族である。 「でも、城介君は怒っていたね。教育終了と共に帰す約束「あんな生活も悪くはないな」 もうこ なのに、蒙古くんだりまで追いやるとは、ひでえべてんだ城介は時折加納に感想を洩らした。 ってね。彼も白紙答案の組なんですよ。白紙で合格とは、 「おれみたいな不器用な男は、あんなぶらぶらした生活が ぜんそく わたしも無茶だと思う。城介君は喘息のせいもあって、早似合う。生存競争はイヤだ」 く帰還したがっていたよ」 「厚和の生活は、つらかったのかね ? 」 「いや。楽だった。もう初年兵じゃなくて下士官だから「そうか。城介は身の上話をあまりしなかったか」 なが ね。大同から汽車に乗 0 て、万里の長城を出る。長城を出栄介は波を眺めながら、ひとりごとのように言 0 た。午 たからって、そう風物が一変するわけじゃない。遊牧民族後になって、すこし風が立ち始めていた。 のパオなんかがあって、それが珍しかったくらいなもんで「子供の話はしなかったかね ? 」 「子供 ? 」 勤務は暇であった。暇というより、仕事はほとんど後輩「うん。人妻に生ませた城介の子供のことさ」 の衛生兵に押しつけて、もつばら休養をとる。時々遊牧民加納はしばらく黙っていた。艪を動かして、舳を風上に 族のパオなどにも遊びに行った。彼等は冬の間は土でかた立てた。 凧めたパオに定着するが、気候がよくなると羊群を連れて、 「したね。あれはオルドス作戦に出発する時だった。城介 軽装で湿原帯や草地を転々とわたり歩く。彼等は、野菜を君はわたしに、おれに万一のことがあったら、どこそこの 狂栽培しないし、また食べない 家に行って、自分の最後のことを伝えて呉れ。そして子供 「あいつらは、ビタミン 0 はどうしているのだろう」 の顔がおれに似ているかどうか確めて呉れと、地図と名前 加納も城介も衛生下士官なので、いっかそんな疑問を起を書いてわたしに手渡したよ」 したことがある。結局羊の乳 ( 乳は完全食だから ) から摂加納は伏目になったが、すぐに頭を反らした。
うな声で云った。 「おきみさん、ほんまにひどいやないの ! あんたのくれすると彼女は、小ちんまりとした鼻を鳴らした。 たお金、わてら、つこてしもたんやのに、どうしまんの 「ふん」 ゃ。着物やって、買え買えゅうてやさかい冫 こ、買うて、お私は、そのきみを見ながら、彼女が死んだ人間のような まけに買うた反物みんな縫いに出してしもたんやろ。返す気がしたのである。彼女とは、後にまた会う羽目になるこ ゅうたって、どうしようもおまへんやないの。おかみさとを知らずにだ。そして私は、山本らへ云ったと同じ情な ん、つこただけかえせと、 ししはるし : : : 」 いせりふをそのときもきみに繰り返していたのだった。 するときみは、ふいにくつくつくっとたまらなさそうに 「きみさん ! ちがうんや、こんな風やなかったんや。も 笑い出したのだった。おかみは、呆れたように腹を立ててっとちがった風に生きてもらいたかったんや」 けいべっ 叫んだ。 だが、きみは軽蔑したようにだまっていただけだった。 「裏切りもん ! 前科が二犯もあるのに、前科より人間や私は、仕方なく、しょんぼり下宿へかえって来た。その私 ゅうて、特別にやさしゅうしてあげて来たつもりやのに ! 」はまだ、ちがうんや、あんな風になってもらいたくなかっ 「ほんまにひどいわ、おきみはん ! ーとひとりの女が云っ たんや、とひとりで繰返していたのである。 た。「友達同士やのに、こんな仕打ってあらへんわ ! 」 その翌朝だった。眠っていた私は、突然呼び起されたの まくら 「ほんまに呆れた女や」とおかみは云った。「わて、いま だった。びつくりして起き上ると、見知らぬ男が三人も枕 から警察へ電話するさかいな、覚悟してなはれー 元へ立っていたのである。 おくびよう そしておかみは、荒々しく出て行った。二人の女は、当「どなたでつか ? 」と私は臆病な声を出した。 ささや 惑したように急いで小さく囁き合いはじめた。 「警察のもんや」とひとりの男が親切な声で云った。「ち 女「あの宝石、どないしまひょ」 よっと聞きたいことがあるさかいに、本署まで来とおくん だがきみは知らない顔をしていた。やがて電話をかけるなはれ。すぐ帰すよってにな」 し 私は、何のことかわからなかった。ひょっとしたら、き 美ベルの音がした。すると二人の女は、びつくりしたよう に、そろって部屋からとび出して行った。私は、立上りなみが何か云ったのかも知れない気もした。私は、会社の制 がら云った。 服に着更えた。するとひとりの男が、待ち構えていたよう てじよう 「今度、市のお城へつれて行ってやろと思うてたんやに、カチンと私の右手首へ手錠をはめたのだった。 たんもの
「葬儀屋のことさ。おれ、葬儀屋って、どんな手順でやる「これ、何の花か、知っているか」 か知らないが、とにかくカ仕事じゃないだろう。その点栄介は言った。 「ケシの花だ」 で、おれは気に入ってるんだ」 「知っているよ」 「そりやそうだがーー」 と言いかけて、栄介はロをつぐんだ。二人の間で葬儀屋「これから阿片がとれるんだ」 あやふやな気持で、栄介は説明をした。 の話が出たのは、これが始めてである。あの複雑な思いが 「阿片というのは、麻薬だよ。のんでいる中に、中毒にな 栄介の胸をよぎった。 る」 「さあ。そろそろ出るか」 ケシにもいろいろ種類はあるだろうし、またそのどの部 栄介の気持を察したように、城介が言った。 分をどうすれば阿片がとれるのか、栄介は知らなかった。 「食逃げするわけにも行かないと」 かせ もったいぶって説明したのは、ただ汽車到着までの時間稼 「おれが払うよ」 ぎに過ぎなかった。とかく別離のための汽車を待つのは、 「今のは冗談だよ」 さいふ 間が持てないものだ。 城介は財布を引っぱり出した。 せんべっ 「そうかい」 「餞別もらったから、たつぶりある」 なが 勘定を済ませて、一一人は外に出た。いきなり明るいとこ城介はあまり興味を示さず、他の景色の方ばかりを眺め ろに出たので、眼がちかちかして、地面が揺れているようていた。彼方から汽笛の音が聞えて来た。 「兄貴。もし大学まで行けるようになったら、東京の大学 な気がした。栄介は初めて酔いというものを意識した。 東京行きの切符と入場券を買い、プラットホームに出にして呉れよな。おれも話し相手が欲しいから」 凧た。プラットホームの彼方は一面の麦畑で、麦穂が黄色く「うん」 熟れている。子供たちがそこらで草笛を吹きながら遊んで栄介はうなずいた。 やがて汽車が到着した。小さい駅なので、停車時間も短 狂いる。空気はよどんで動かないが、風景はことのほか鮮烈 。城介は彼から顔をそむけるようにして、すたすたと乗 に栄介の眼に迫って来た。プラットホームの端に、駅長か り込んだ。城介が座席を確保するのを見届けた時、汽車は 駅員が育てたのだろう、ケシの花が群をなして咲いてい ごとんと動き出した。城介はとうとう彼の顔を見なかっ た。一一人は歩いてその前に立った。 かなた
「じや病院に着いてすぐ気を取り戻したことや、負傷の箇「美人なら見舞いに行ってやればよかったのに」 「しかし僕は証人になりたくて電話をかけたんじゃない。 所を、どうして知ってるんだい ? 」 「病院に電話をかけたのさ、その翌々日。病院の名は、救っながりを知りたかっただけだ」 私は電熱器のスイッチをとめた。 急車の男が言ったのを、メモして置いた」 「何故そんなことをするんだね」 「それから一一十日ほどして、また電話をしてみた。すると 「僕は見たことの続きやつながりを知りたかったんだ。た彼女は退院したあとだった。その後のことは知らない。知 ろうと思えば知る事が出来る。女の住所もメモして置いた だそれだけさ」 から」 「猿みたいな好奇心だね」 「すると看護婦か女医か知らないが、女の声が出て来た。 「君というのは、実に因果な性分だね。君は齢をとると、 そして症状を教えて呉れた」 きっと意地悪爺さんになるよ。おれが保証してもいい」 矢木の言葉を黙殺して、私は続けた。 私は返事をしなかった。電熱器の薬罐から、二杯目の茶 「そのあと、あなたは誰だと聞くから、僕は正直に、偶然をいれて飲んだ。 「それで 現場に居合わせた者だと答えたんだ」 受話器の声は言った。すこしあわてた声で。病院まで御ゆっくり飲み干して、私は訊ねた。彼は疲れたようにか 足労願えないか。病院としてその状況を知りたいし、当人るく眼を閉じていた。臉の色がうすぐろかった。 側もいろんな事情で目撃者を探している。おそらく自動車「君の場合、ずつこけた時、弥次馬は集まらなかったか のことや、災害保険などについて、証言が欲しかったのだね ? ー ろう。 「集まらなかった。集まるもんかね」 「で、病院に行ったのか ? 」 彼はけだるく瞼をあけた。 「いや。行かなかった」 「状況が違うよ。それに僕は美人じゃないし、中年男がず 私は答えた。 っこけただけの話だからね」 「車のナン・ハ ーも覚えてないし、僕の印象に残っているの 「腰、痛むかい ? 」 だこ はたけ は、狂い凧のような標識の動きと、畠に倒れた女の姿だけ痛そうに体を動かしたので、私は聞いた。 とし 「いや。腰じゃない。痛みは別に移ったんだ」 だからね。齢は三十前後で、かなり美人だった」 さる まぶた やじうま やかん