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検索対象: 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集
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1. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

わいざっ わなかった。ただわいわいと猥雑に人が動くだけで、栄介「栄介城介の双子の中、勉強の出来る子の大学までの学資 かたすみすわ たちは付録のように片隅に坐らされ、ひっそりと眺めてい を出してやろう。そのかわりに自分に子供が生れなかった るだけで、手伝いすらさせてもらえない。そこへ行くと自ら、その子を養子として幸太郎のあとを嗣がせたい』 分の家の餅つきは、主役とまでは行かないが準主役で、餅幸太郎は子種に恵まれなかった。それがそんな申し入れ を丸めるという重要な仕事を与えられている。その点でこ になったのである。これはしきたりから言えば、不自然な びより の方がはるかに楽しかった。小春日和の前庭の餅つきは、 ことではなかった。血のつながりのない他人よりも、甥を どんなに貧しくとも、愉しい記憶として彼に残っている。子供に迎えたいというのは当然なことである。しかし栄介 ギブス・ヘッドをつくらせながら、彼の胸によみがえって来の父母はそれに対して、若干のこだわりを感じたらしい たのは、本家の餅つきでなく、もちろん自宅の餅つきであ子供の学資にかこつけて、間接的にわが家の家計をたすけ っこ 0 ようと言うのではないか。福次郎は割にそんなことには潔 「どうです。疲れませんか」 癖であり、また頑固なところがあった。財産をひとり占め 眼を閉じている栄介に、医師は言った。 にして、今さら何を、という気分もあったのだろう。それ 「いや。いい気分ですよ」 に、学資を二人に出すというのなら筋が通るが、良い方に 彼は答えた。少しは重いが、ぬくもりが背中全体にひろだけ学資を投資して、養子として持って行こうとは、少し がるので、その言葉は誇張ではなかった。 虫が良過ぎるのではないか。残った成績の悪い方の子は、 「もう済むのですか ? 」 一体どうなるのか。 「いや。もうちょっと厚くしましよう。薄いと折れ曲った しかし、家計が裕福でないことが、結局福次郎夫婦を屈 りする心配がある。厚い分には、あとでれますからね」服させた。三流の専門学校を出て役所入りをした福次郎 凧その幸太郎に対して、兄の竜介や弟の城介がどんな感情は、出身校がどんなに出世に作用するものであるか、身に を抱いていたか、栄介は知らない。二人とも死んでしまっしみて知らされていた。子供を大学までやらせたい。その はず 狂たから、知る由もない。聞いて置けばよかったという気願いは現在の父母より、昔の父母の方がずっと強かった筈 持、いや、・ほんやりした気分が、今の彼にはある。 だ。大学を卒業することは、そのまま出世を約束されたよ やはりその頃だったと推定される。ある日幸太郎は福次うなものであった。それにもし幸太郎に男児が生れたりす 郎に、次のような申し入れをした。 ると、大学を出ただけただ儲けになる。 たの なが

2. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

僕はやはり何かいいたい自分に堪えていた。仙三はその誰かが通ると、救われたように賑やかにはやし立てた。 「おいしいお団子ですよ ! おいしいお団子いかがです 僕へたたみかけた。 か ! 安いですよ ! 十円ですよ ! 「思っているのか ? 思っていないのか ? 」 ためい 僕は溜息を洩らした。一体僕が何だというのだろう ! たしかに彼等は、大人を目当にしているのだった。だが だが仙三の語気には何か決定的なものが強くあらわれてい大人は忙しいのだ。辟鹿な真似をやめなさい、とたしなめ た。答えても答えなくても結果は悪いのだ。そしてまた罪たり、闇ごっこ ? というだけで忙しげに通り過ぎてしま があるといっても罪がないといっても仙三には同じことな うのだ。買い手がない以上この遊びはなり立たないのだ。 のだ。僕はひそかに心を決めた。答えない方へ。仙三はそやがて幼い子供たちの間に議論が起り、四つの子が皆から の僕を鋭い透き通った眼でじっと見ていたが、やがて、よ指名されたようだった。その幼女はすぐに百円札をもって ひとりごと し、と独言をいって事務所の方へ去って行ったのだった。 買いに来た。ただひとりの店へ。全く同時に皆の店へ行く 僕は部屋に帰ってぼんやり板壁に凭れていた。ある不吉 ことは不可能なのだ。だが他の店の者たちは不満だった。 な多労な予感が、暗く僕を圧しつけていた。しかし僕はそその一人がその幼いお客を突きとばすか何かしたらしかっ た。幼女は大きな声で泣き叫びはじめた。それは火のつく れに堪えていた。全く何が来ようと構わないじゃないか。 にぎ 廊下では雨に降り込められた幼い子供たちが賑やかに遊びような泣声だった。どうしたのだろうと儺は思わず立ち上 とびら って扉をあけた。すると他の子供たちは叱られると思った たわむれていた。子供たちは口々に叫んでいるのだった。 「おいしいお団子ですよ。いかがですか。おいしいお団子のか、めいめいの部屋へ逃げ込んで行った。幼い女の子に ですよ。いかがですか。安いですよ。十円ですよ。いかがは何事もないのだった。ただ泣いているだけなのだった。 ですか」 僕は扉をしめてまた壁にかえった。すると誰かがその幼女 おさな 宴そして子供たちはこの売り声を歌のように繰り返して飽に近づいて、ごめんね、と稚い声であやまっていた。そし さつ、 のきるときがないのだった。しかもその売り声には、不思議て再び子供たちは、先刻の遊びをつづけはじめた。彼等は 夜なほど憂鬱な調子がふくまれているのだ 0 た。しかしそれ歌うような憂鬱な調子で繰り返しはじめるのだった。 は子供たちのせいではないのだ。子供たちはただ真似をし「おいしいお団子ですよ、いかがですか。おいしいお団子 8 ているだけなのである。だが誰も買いに来ないのだ。だかですよ。いかがですか。安いですよ。十円ですよ。い力が ら子供たちはいつまでも繰り返しているのだった。そしてですか」 やみ おとな

3. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

右椎名麟三氏勤務当時のバ ッテラ下当時の a.4 ・ O と 詰所左 z 駅として登場す る西代駅構内 ( 「美しい女」 ) ( 西尾克三郎氏提供 ) 蓄第”丁ー ~ 近いところから順に高等学校を廻ってもらって、遂に 或る学校の門のところに、ヴァイオリンのケースを えた男女の群を発見した。 そうして、私は作者、椎名麟三と並んで、正面の席 しろやま から、彼の作「城山物語』の初演を観るという光栄に 浴したのである。 ( 私の友人の誰ひとりとして、また演 劇関係の批評家やジャーナリストも、この姫路でだけ 上演されたミュ ジカルは観ていない。私が唯ひとり の見物人であったことに、私は子供らしい自慢をいっ も感じているのである。 ) しかし、このミュ ジカルの上演は、姫路市にとっ ても椎名さんにとっても、大変な仕事だった。はじめ は単なる思い付きで出発したのかも知れないが、計画 は次第に拡大して行き、作曲から出演者から演奏に至 るまで、全部、姫路人でやるということになり、市は 臨時に楽団まで組織することにな「た。そうして だいほん 作者の椎名さんは、東京にいて台本を送ればよかった 筈の予定が、数ヶ月間に新って郷里に滞在し、そして演 出の実際に当ると云うことになってしまった。 ) うと 素人の集りであるスタソフ一同を、同し時間に毎日、 練習に狩り出すというような雑務から、衣裳や装置や照 明やの裏あの仕事に至るまでの一切が、唯一の専門家 である椎名さんの腕のなかへ飛びこんで来たのである。 はず いっさ、

4. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

ついで、喜んでいたからね」 っているのだという結論が出た。その他支那茶を円型に乾 みやげ 「そうかねー し固めたのを持って歩いていたし、日本茶を土産に持って 加納はさりげなく答えた。揚がった ( ゼを皿に移しなが行くと、たいへん喜んで、おかえしに転をくれたりし ら、話題を変えた。 た。総じて素朴にして純情な民族である。 「でも、城介君は怒っていたね。教育終了と共に帰す約束「あんな生活も悪くはないな」 もうこ なのに、蒙古くんだりまで追いやるとは、ひでえべてんだ城介は時折加納に感想を洩らした。 ってね。彼も白紙答案の組なんですよ。白紙で合格とは、 「おれみたいな不器用な男は、あんなぶらぶらした生活が ぜんそく わたしも無茶だと思う。城介君は喘息のせいもあって、早似合う。生存競争はイヤだ」 く帰還したがっていたよ」 「厚和の生活は、つらかったのかね ? 」 「いや。楽だった。もう初年兵じゃなくて下士官だから「そうか。城介は身の上話をあまりしなかったか」 なが ね。大同から汽車に乗 0 て、万里の長城を出る。長城を出栄介は波を眺めながら、ひとりごとのように言 0 た。午 たからって、そう風物が一変するわけじゃない。遊牧民族後になって、すこし風が立ち始めていた。 のパオなんかがあって、それが珍しかったくらいなもんで「子供の話はしなかったかね ? 」 「子供 ? 」 勤務は暇であった。暇というより、仕事はほとんど後輩「うん。人妻に生ませた城介の子供のことさ」 の衛生兵に押しつけて、もつばら休養をとる。時々遊牧民加納はしばらく黙っていた。艪を動かして、舳を風上に 族のパオなどにも遊びに行った。彼等は冬の間は土でかた立てた。 凧めたパオに定着するが、気候がよくなると羊群を連れて、 「したね。あれはオルドス作戦に出発する時だった。城介 軽装で湿原帯や草地を転々とわたり歩く。彼等は、野菜を君はわたしに、おれに万一のことがあったら、どこそこの 狂栽培しないし、また食べない 家に行って、自分の最後のことを伝えて呉れ。そして子供 「あいつらは、ビタミン 0 はどうしているのだろう」 の顔がおれに似ているかどうか確めて呉れと、地図と名前 加納も城介も衛生下士官なので、いっかそんな疑問を起を書いてわたしに手渡したよ」 したことがある。結局羊の乳 ( 乳は完全食だから ) から摂加納は伏目になったが、すぐに頭を反らした。

5. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

「とうとう出してしまうんだ」 か、城介が戻って来ない以上、もう判るすべもない。今は 「東京で伯父さんの身寄りというのは、君だけなんだろ生き残った栄介と幸太郎のみに持ち越されている。 う ? 」 沈黙が来た。海沿い道のところどころに、貝類を売る店 「おれの弟も妹も東京にいる。しかしその代表として、おがあった。 れだけだろうな」 ( あるいはあの女が、それであったかも知れないな ) なが 「妹さんは結婚しているのかい ? 」 窓外の景色を眺めながら、栄介はまたそんなことを考え 「うん。亭主は税務事務所に勤めている」 ていた。しかしそれはあり得ないことであった。 タクシーは今京葉国道を走っていた。右手に海が陽にか ( またウソを考えている ) がやいて見えた。 城介が自分に子供がいると言ったのは、あれは冗談でな 「つまり伯父さんは、今独りなんだろう。だから君にコネ い。秘密を打ちあける時の切ない響きがあった。その人妻 うしゃ をつけたいんじゃないのか ? 」 とは誰たろう。終戦後の壕舎にいた女を、栄介は時々思い 「何で ? 」 出すのである。 「金を送らせないで、自分で取りに来ることや、また金を栄介があの時あそこに行ったのは、それを調べに行った せびりに来ることさ」 わけではない。でも、葬儀屋の主人に会ったら、それとな 私は言った。 く聞いてみるつもりであった。しかしそんな情事は秘密裡 に行われるものだから、主人が生きていても聞き出せなか 「困らせたり、いやがらせをしたりして、それでコネをつ っただろう。 けとこうと言うようなーー」 「コネか ? 」 ( もしあの女だったとしたら、葬儀屋で働いていた人、と は呼ばず、いきなり本名で話しかけて来る筈だ ) 凧栄介はわらった。 城介の子供のことを考える度に、栄介はあの女のことを 「そりやずいぶん高等戦術だな」 ゅううつかげ 狂しかし栄介の胸の底には、かぐろい憂欝の翳が、かすか思い出す。もちろん妄想としてである。焼野原の一軒だけ に揺れていた。あの下関の飲み屋で城介が、おやじのタネの壕舎の女が、よほど印象的であったに違いない。 だとはっきり言い切れない、と言ったのは、自分の子供に その後栄介はそちらの方に足を向けたことがない。別に かこつけて冗談を言ったのか、あるいは本気で言ったの用事もないし、また焼野原の復興ぶりを見るほどの興味も ひと たび

6. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

4 眼鏡で見ていたんですよ。昼間でね、日がかんかん当ってっとしていて、手を貸そうともしない。地面を這うように くっ いる。爺さんが縁側に這い出して来たんですよ。そして庭して縁側までたどりつくと、爺さんは沓ぬぎにうつ伏せに に下りて、納屋の方に歩いて行く。便所に行くのかな、となって、肩の動き具合から見ると、虫のようにしくしく、 思って見ていたら、そうでもないらしい。納屋の奥から苦長いこと泣いていましたよ。ほんとに長い間」 なわ 男は上半身を起した。 労して、踏台と繩を一本持ち出して来たんです。何をする さっ のかと思っていると、入口の所に踏台をおいて、それに登「先刻見えたでしよう。あれが、その繩なんですー けんお ろうというのです。処が身体が利かないもんだから、二三私は、ふっと此の男に嫌悪を感じていた。はっきりした たす ころ 度転げ落ちて地面にたおれたりしましてね。何とも言えず理由はなかった。少し意地悪いような口調で、私は訊ね あぶらあせ 不安になって、私は思わず双眼鏡持っている掌から、脂汗た。 「で、いやな気持がしたんだね」 がにじみ出て来ましたよ。そして終に踏台に登った。梁に 取りついて、繩をそれに結びつけ、あとの垂れた部分を輪「ー、ー残酷な、という気がしたんです。何が残酷か。爺さ にして、二三度ちょっと引張ってみて、その強さをためしんがそんな事をしなくてはならないのが残酷か。見ていた 子供が残酷か。そんな秘密の情景を、私がそっと双眼鏡で てみる風なんです」 見ているということが残酷なのか、よく判らないんです。 「ーーー首を吊る」 「いよいよこれで大丈夫だと思ったんでしようね。あたり私は、何だか歯ぎしりしながら見ていたような気がするん まうしろ をぐるっと見廻した。するとすぐ真後の六尺ばかり離れたです」 処に、影のように、あの男の子が立っているのです。黙り男は、首を上げて空を眺めた。太陽は、ぎらぎらと光り こくって、じっと爺さんがする事を眺めているんです。爺ながら、中空にあった。 さんがぎくっとしたのが、此処まではっきり判った位で「そうですかねえ。人間は、人が見ていると死ねないもの す。爺さんは、繩をしつかり握って、その振り返った姿勢ですかねえ。独りじゃないと、死んで行けないものですか のまま、じっと子供を眺めている。子供も、石のように動ねえ」 男は光をさえぎるために、片手をあげた。強い光線に射 かず、熱心に爺さんを見つめている。十分間位、睨み合っ たまま、じっとしているのです。その中、が「くりと爺さられて、男の顔は、まるで泣き笑いをしているように見え んは、踏台から地面にくずれ落ちた。男の子は、やはりじ ところからだ なが わか

7. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

で、それだからその人々の生活を考えただけで陶酔的ない り、それを子供相手に繰り返しているのだった。彼女はい い気分になることが出来る。たとえば僕の右隣りの部屋につでも自分の言葉に涙を流すことの出来る他愛のない感傷 は那珂という荷扱夫の一家が住んでいる。その妻は四十性を夥しくもっていた。彼女はその夫故にその息子故 かま ぜんそく 五、六の身なりを構わない女だが、十年も喘息をわずらっ に、世界中で一番不幸な人間だった。そのためにまた人々 もら・ ていて、最近余り堪えがたいので医者に見て貰ったら、胃から軽蔑されるのだった。そして彼女はこういっては涙を も悪く心臓も悪く肺も悪いということだった。しかし彼女流すのだった。全くこのような感傷性は我慢がならないも は寝ても居られず一日中ごそごそ立働いているのだ。彼女のだ。 ろっこっ さこっ のいつもはだけている胸には鎖骨がとび出していて、肋骨彼女はアパートの人々に対しても同じ調子だった。彼女 の数えられる青黄色い薄い胸板には、しなびた袋が醜くぶは会う人毎に愚痴るので、彼女の家庭の内情はすっかりア せっとう ら下っているのである。そして彼女はそのはだけた胸へ手 ハート中に知れ渡っていた。彼女の夫は窃盗の前科が一一犯 ぞうすい を入れて始終・ほり・ほり掻いているのだが、それが何かの虫もあった。そして彼は家族に菜っ葉だけの雑炊を食べさせ こと せき がいるようでひどく不潔な感じがするのだ。その上咳をしても自分は米の飯を食わないと承知しないのだった。殊に たん たいら ては、ところきらわず痰をはくので、肺患かも知れないし三人家族一日分の配給のパンを一度に平げて、そのために 第一何だかきたならしいからというので、このア。ハート の自分たちは一日何も食べることが出来なかったというの 隣組の人々は配給物に手を触れられるのを防ぐために、彼が、このごろ一番多く繰り返される彼女の愚痴なのだっ 女の病身をいい立て気の毒を理由として配給の当番を免除た。しかもその子には子供らしい盗癖があって、絵本を持 しているのである。 って行ったと誰かが苦情をいいに来ると、いつもの困った 那珂の妻は、いつも困ったような泣くような声でゆっくような泣くような声で、 あき 宴り話すのだった。その話は大抵自分の夫と十四になるひと「全くあの子には呆れているんですよ。わたしのいうこと 一旧むすこ のり息子に対する愚痴に尽きていた。その言葉の調子は、まなんか一つもきかないし、ねえ、お神さん、うちの子はど ゆいん ひんし うしてああなんでしよう ? それに何しろうちの人の兄弟 深るで瀕死の病人が遺言でもするような大儀な哀れつぼさに 満ちていて、それが息子へのロ小言となると、文字通り一は、みんな手癖が悪いんで、あの子もうちの人の方の血に 日中続いているのだった。子供がロ返答するとぎはその声似たんですよ。 ものう は高まり、そうでないときはいつの間にか夫への愚痴にな と物憂さそうに訴えるのだった。そして愚痴がはじま けいべっ おびただ と ゆえ

8. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

問さえ許す何かがあったのだ。そしてひろ子は、その私 が注文のビールや料理をとりに行っている間に、女がひろ 子という名であり、以前・ ( スガールだったが、組合活動をに、無邪気な何の秘密もない声で答えた。 していたために首になり、こんな商売に入って来たのだと「ええ、十一一三人ありましてん」 説明した。その彼の話し振りは、不幸な身内の者のことを私は、情なくも絶句した。十一一三人という男の量に圧倒 されただけではなく、そう云ったときの彼女のわだかまり 話しているような身の入ったものだった。 ひろ子は、服装にも構わない風なところがあったが、そのなさにも驚いたのである。船越は、その彼女に魅せられ の心の動きにも構わない風なところがあった。公休で家へているように云った。 かえったときのことを話すときでも、彼女は、無関心な調「よく来ていた昔の組合関係の何とかいう男、まだ来てん 子で話した。 けんか 「お父さんとお母さん、相変らず喧嘩してはったわ、姉さ「ええ、お金にとても困ってはるわ」 そしてひろ子は、淡々とその男の最近の様子を話しはじ んは婚期に遅れたと云って愚痴ばかり云ってはるし、弟は めた。私は、その彼女に圧倒されて、・ほんやりその彼女を 伸ばした髪の手入ればかりしてはった」 だが、彼女は、だからどうなのだということは決してい見ていただけであった。その太り気味の丸顔や豊かにふく からだ わなかった。その事実を述べるだけで十分なようだった。れた胸やそしてその身体全体からある過剰が感じられた。 船越は、その彼女の話を、鼻のつまっている声でふんふんそれは生命力の過剰というべきものだった。彼女は、すぐ うなず 肯きながら、しかしどこか・ほんやりした風で聞いていた。顏が赤くなったが、しかし酒に強かった。やがて彼女は、 明らかにその二人の間には、肉体関係のあるものの特殊なまるで自分の子供にいうように船越へ云った。 親しさが感じられた。私は、その二人の話に、彼女と関係「今日、うち、うた、歌うてあげる」 のあったらしい男の名がよく出るので、彼女の何気ない態そして彼女は、私たちがてれているのに恥かしくもな こもりうた く、無邪気な声で、子守唄をうたいはじめたのだ。 度に誘われて思わず聞いた。 「ひろ子さん、男のひと、いままで何人位あったんでつ私は、店から出るなり思わず船越へ云った。 「ひろ子さんというひと、何かおどろいたひとやなあ」 もらろん 勿論、こんな質問は、彼女が船越の女である以上、はなすると船越は、神妙な声で答えた。 をだ礼を失していた。しかしたしかに彼女には、こんな質「何の欲もないんや、あの女は」 かま

9. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

奥の間で座布団を二つ折りにして、栄介はあおむけに寝「もう二十年も前だからね。若いのは当り前だよ」 加納は答えた。 た。背骨がぎしぎしと鳴るような気がした。眼を閉じる まぶた にじ わか と、臉のうらにうっすらと涙が滲んで来るのが判る。舟の「用意が出来上るまで、しばらくこれを見てなさいよ。ほ 中と違って、家の中にはさまざまなにおいが、生活のにおら、これが大同の山西銀行の建物だ。この中で自分らは下 士官教育を受けたんです」 いがただよい揺れていた。長い絵巻物を見終ったあとの、 その建物を背景にして、三人の兵隊が立って写ってい ・ほっんとした空虚な感じがあった。 た。右端の兵隊が城介であることは、一目で判った。栄介 「そうか。相手は葬儀屋の女房だったのか」 つぶや は眼を凝らせて、しばらくそれに見入っていた。 彼は眼を閉じたまま呟いた。まだ疑念は残っていたが、 彼にはもうどちらでもいいことであった。 十二 「もしそうだとしても、あの娘は葬儀屋の子として育った ぎよたく ちげき のだろう。そして子供を生む。その子供は、祖父が地隙を舟宿の奥の間は八畳の部屋で、壁面には魚拓が何枚かか 越えて進軍したことも知るまいし、・ヘロナールで自殺した かげられていた。すべて尺余のばかりで、獲った場所と日 だざお ことも知らないだろう。人間のやったことは、歳月ととも時が記されている。縁側にはふりの釣人用の駄竿が、束ね に順々に忘れ去られてしまうんだ」 てある。押入れが広く取ってあって、宿泊の設備も出来る 足音が近づいて来た。栄介は眼をあけた。加納がそこにらしい。床柱はつるつるしているのに、縁はざらざらと木 目が出ている。おそらく舟を解体してつけ足したものだろ 「これ、アル・ハムなんだがね。これはわたしだよ」 けんしよう アル・ハムの一頁目に、上等兵の肩章をつけた若い男の写「どうだい。疲れたかねー 凧真があった。栄介は頭を起して、思わずうなった。 私は栄介に訊ねた。 「背中の具合はどうだ ? 」 「なるほど。これがあんたかねー 狂栄介は加納の顔を見て、また視線を写真に戻した。写真「ああ。少しラクになった」 の像は若々しく、とりすまして、希望の色を眉宇に滲ませ栄介は背を起した。 すわ ている。 「やはり坐りづめは、まだムリだな」 「なるほど。若いねえ」 その時加納が店の方から、黒い陶器の瓶をぶら下げて、 よとん びん

10. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

しかし城介が酔っていることは、彼にも判っていた。城介 「じゃ断れよ」 は奉公をしている関係で、酔いを殺して飲む術に長けてい 城介は使者に言った。 「即日帰郷になったりしたら、面目がないから、壮行会はたからだ。彼は言った。 お断りします。うちでかんたんにやりますからーーー」 「もうそろそろ出かけた方がいいんじゃないか」 窮屈で酒がうまくなかったというのは、その夜の小宴の城介は素直に盃を伏せ、一一人は店を出た。暗い道を宿 ことだが、結構城介は飲み且っ食って、やはりうちはいし 舎に歩く途中、うらぶれたような飲み屋があって、入口に 、ん らようちん なあ、と好機であった。身内だけの宴で、幸太郎はつい赤い提燈がぶら下っていた。城介は足を停めて、腕時計を に姿を現わさなかった。若干自尊心を傷つけられたのであのぞいた。 ろう。酒が一本、届けられただけである。 「まだ一時間ぐらいある。もう一、一一本飲んで行こうや」 しる 関東煮は汁がすこし甘過ぎた。 「お互いに酒だけは強くなったな」 二十四、五の白粉をべっとりつけた酌婦が、卓によりか 彼は城介に言った。 かるようにして、同じ文句のどどいつを、何度も繰り返し 「おれが初めて酒を飲んだのは、お前を東京に送りに行ってうたっていた。 「朝顔の花はばかだよ根のない垣に た駅前のうどん屋でだ」 ちょうし 命がけしてからみつく 「そうだったな。お銚子半分で、兄貴は真赤になってい た」 酒はさっきの店よりも、水つぼかった。あるいは二階で 「そうだ。足がふらふらした。駅の向うは麦畑で、ゴッホ売春させて、酒やつまみものは二の次という店なのかも知 れない。そう思いながら、彼は盃を傾けていた。突然城介 が使うような黄色で、熟れてむんむんしていた」 が話を変えた。 「そうだったかな」 「プラットホームにきれいな花が咲いていた。あれは六月「ねえ。兄貴。おれには子供がいるんだよ」 「子供 ? 」 何日頃か」 何か話したいことがたくさんある。そんな気がするの城介は血走った眼で、ゆっくりとうなずいた。 同じ東京にいて、時々会っていたけれども、城介は今ま に、実際には何もなかった。一一人で六本あけて、彼は少々 うそ めいてい でそんなことを、一口も洩らさなかった。しかしそれが嘘 酩酊して来た。城介はほとんど顔色は変っていなかった。 おしろい しやくふ わか