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検索対象: 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集
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1. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

・フとなり、全協 ( 日本労働組合全国協議会 ) 神戸支部を組織した・ この頃、マルクス、エンゲルス、レーニン、ブハーリン、べ どの著作をむさ・ほり読んだ。ふたたび母の自殺未遂事件がおこった。 昭和六年 ( 一九三一 ) 一一十歳 この年、共産党の一斉検挙があり、その直前に東京へ逃亡したが、 東京で逮捕されて神戸へ護送された。 昭和七年 ( 一九三一 l) 二十一歳 明治四十四年 ( 一九一一 ) 十月一日、兵庫県飾磨郡曾佐村 ( 現、姫路市書写 ) に生まれた。戸第一審で徴 ~ 役四年の判決をうけたが、控訴した。未決拘留中にニー 籍名は大坪昇。大坪熊次、日方みすの長男。生後三日目に母の自殺チ = の「この人を見よ」などを読み、思想的に新たな感化を受けた。 一一十一一歳 未遂事件があった。父は小作人の息子で、警官となり、やがて大阪昭和八年 ( 一九三一一 l) 第一一審で懲役三年執行猶予五年の判決をうけ、刑務所を出て上京。 の鉱業会社の庶務課長となる。 この頃より、ニーチェ、キルケゴール、ベルグソン、ヤスパ 大正八年 ( 一九一九 ) 八歳 ハイデッガーなどを耽読。また、聖書も読みはじめた。 尋常小学校三年のとき、父と別れた母に連れられて曾佐村へ帰り、 昭和九年 ( 一九三四 ) 一一十三歳 幼女である妹の和子、乳児の弟の実とともに暮らす。 大正十ニ年 ( 一九二 = l) 十一一歳祖谷寿美子と結婚し、本所区 ( 現、墨田区 ) に新居を構えた。 昭和十年 ( 一九三五 ) 一一十四歳 兵庫県立姫路中学校 ( 現在の姫路西高校 ) に入学。 大正十五年・昭和元年 ( 一九一一六 ) 十五歳十月、長男一裕生まれる。 昭和十三年 ( 一九三八 ) 一一十七歳 中学三年の時、父の約束不履行のために一家は生活難に陥り、この 東京丸ノ内の新潟鉄工所営業第一課の社員となる。この頃、ドスト 経済的苦境を打破しようとして大阪の父のもとへ出向いた。が、問 題は解決せず、また継母と同棲している父のところにいるわけにもエフスキーに深く傾倒するようになり、文学への興味が深まった。 一一十八歳 いかず、姫路の母のもとへももどれず、思案にあまって家出をした。 昭和十四年 ( 一九三九 ) 譜以後、果物屋の小僧、マッチ工場の雑役夫、飲食店の出前持ち、見同人雑誌「新創作」の同人となり、習作「家」を発表。 三十歳 習いコックなどの職を転々としながら、独学で専門学校入学者資格昭和十六年 ( 一九四一 ) 年検定試験に合格した。この間、姫路の母に異父妹保子が生まれた。新潟鉄工所をやめて、文学に専心する。四月、「或る生の記録」を 昭和三年 ( 一九二八 ) 十七歳「新創作」に発表。五月、「霊水」を「新創作ーに連載 ( 翌年完結 ) 宇治川電気電鉄部 ( 現在の山陽電気鉄道 ) に入社し、乗務員となっ昭和十七年 ( 一九四一 l) 三十一歳 た。間もなく労働運動に身を投じ、日本共産党宇治電細胞のキャッ七月、長女真美子が生まれる。 椎名麟三年譜 しかま

2. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

長野・蓼科山荘にて , ビー ルを飲む春生 ( 昭和 35 年 ) 上「狂い凧」執筆のため八王 子市の多摩丘陵を取材。後方 は恵津夫人 ( 昭和年 ) 左昭和年・講談社刊 ・の 1 を 上東京・練馬の自宅付近を散策 する春生 ( 昭和 33 年 ) 左「狂い凧」により , 芸術選奨 文部大臣賞を受賞 ( 昭和 39 年 2 月 )

3. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

を発表しはじめる。 昭和九年 ( 一九三四 ) 十九歳 三年になる際に、平均点不足で落第し、木下順一一と同級になる。伯 父からの学資供給の停止を危惧して、病気だったということにす る。前年に引きつづき「龍南ーに詩を発表するかたわら、同人誌 「ロべリスク」に参加し、習作「明日」および「喪失」の二編を発 表する。 大正四年 ( 一九一五 ) すのこ 二十一歳 一一月十五日、福岡市簀子町に誕生。父の梅崎建吉郎は陸軍士官学校昭和十一年 ( 一九三六 ) 十六期出身で、歩兵少佐。母貞子。兄弟は男ばかりの六人。家庭内三月、五高を卒業。四月、東京帝国大学文学部国文科に入学。入学 はしつけのぎびしい典型的な中産階級の雰囲気であった。すぐ下の早々「東大新聞」編集部に応募したが、不採用となる。六月、同人 弟の忠生は、「狂い凧」のモデルで、その内容通り、応召中に蒙古誌「寄港地 . を発行し、習作「地図」を発表。以後、自分で勝手に 留年延長した一年を含めて大学での四年間は、何となく教室に出そ で睡眠薬自殺をとげた。 大正十年 ( 一九二一 ) 六歳びれて、試験のほかは講義に一日も出席しなかった。 二十三歳 福岡市立簀子小学校に入学。低学年時代はいつもクラスで首席を占昭和十三年 ( 一九三八 ) めていた。 二月、脳溢血のため病臥していた父が死去。享年五十九歳。十二 大正十ニ年 (一九 lllll) 八歳月、一一週間かかって「風宴」を書きあげる。 父が病気で少佐のまま退役。以後、父は会社勤めをしたり小事業を昭和十四年 ( 一九三九 ) 一一十四歳 手がけたが、家族が多人数なので、生活は楽ではなかった。 霜多正次に「風宴」を見せたが、左翼づいていた彼は問題にしてく 昭和ニ年 ( 一九二七 ) 十二歳れず、井上達 ( 靖の弟 ) が「改造」に交渉してくれたが、ここでも しゅうゆうかん 四月、福岡県立修獄館中学校に入学。中学時代は、改造社の円本全謝絶された。三月、自分で浅見淵のところに持ちこむ。八月、「早 集や春陽堂の大衆文学全集を耽読した。この頃は、長崎高商か大分稲田文学」新人創作特輯号に「風宴」が掲載される。 譜高商にでも入って、平凡なサラリーマンになるつもりであった。 昭和十五年 ( 一九四〇 ) 一一十五歳 昭和七年 ( 一九三一 l) 十七歳三月、東大を卒業。卒業論文は「森鷦外論」であった。就職は朝日 年一月、台湾在住の伯父より、学資の援助を申しでられ、猛烈に勉強新聞、毎日新聞、等を志望したが、みな不合格。やむなく霜 多正次の紹介で東京市教育局教育研究所に雇員として勤務する。 に取り組む。四月、熊本の第五高等学校文科甲類に入学。 十八歳 昭和十六年 ( 一九四一 ) 一一十六歳 昭和八年 ( 一九三 = l) 二年に進級すると同時に雑誌部委員となり、校友会誌「龍南ーに詩森村茂樹、下平賢司らと同人雑誌「炎ーをつくり、「微生」を発表。 梅崎春生年譜

4. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

博多にて ( 昭和 31 年 ) 藤 きあう気持は年一年とうすれてゆく 伊年 それでも、伯父から学費を出してやろうと言われれ よ和ば、旧制の五高に入学するために、死に物狂いで勉強 左昭 するだけの気持は残っていた。しかし、一度、五高に て生 春入ってしま、つと、も、っそこには小言を一言、つ両親はいな 正助翁につきあう気持は消え、成績は最低のクラ 樽茂スになる。そのかわり、中学時代には日の目を見なか 辺 った内面の文学青年の世界がひろがり、雑誌部委員に の田 なり、校友会誌に詩をのせはしめる。一方、二年から 新整 三年になる際に平均点不足で落第する。 昔の高校はよく落第があって、それ自体ははすかし いことでも、不名誉でもない。大体、入学した時から、 浪人が半分以上を占めているのだ。しかし落第生の多 年 文科生ならドイツ語とか、特定の苦手の課目を おとすためである。六十点以下が三科目あると、落第、 和 昭 四十点以下が一科目で落第、といったシステムであっ る た。しかし落第点が三科目くらいあった所で、全部で れ 十科目くらいあるから平均点としては落第生といえど 訪 を も、七十点近くあるのが普通である。それなのに、平 鉱 炭均点が落第点というのは、勉強したとかしないという ことではなく、 全く学校へ行かなかったのではないだ ろうか。彼は三年から卒業する時、彼を卒業させるか 4 福落とすかで教授会が二十分以上も揉めたという。普通、

5. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

院 昭蔵 埴 、和野 雄 39 日 40 高 年赤 年 氏 新 小“梅崎春生 潮 当い雑い静報のまま、、第をな工 滝第第の名保幻化 , . ′社 0 かみ 社 ー再製々たも第を・て久間れみ第に 第たち、戦ド - に年のを間い小ける一 られ広強物まのにしス学をある / 「幻化」の取材で坊の津へ行く 途中の大分飛行場で ( 昭和 38 年 ) 誰公卒見つ 人 のの所誤 でを を っ な を 日 を っ でがあ得飲記 . 手 . てを、ロ 大 中 夜こ 畛七 か務 業 、せ・・た は し ん事元 2 休さ年学 君 念 あ 酒員 から な し と って けの愛 る 彳皮 頭 んれ を を を い でが でて ′つ し、 持 国 て月出 かの文 。は は 昭 か し と は い た い で ク ) ら鎧学の 二帰 ( 昭 と和 つな ら は る た て た い か ど 和 、が青精 っ 時 。ん十 さ 召 の た か い り と ん つ東破年神 十なこ代飲 れ集は ど八、 れ た のむを年トる を昭 冫酉 九時 示 れに な よ が た に と だ占しの 。市 年 い 、な 燃 っ を 力、 と だせ で で飲 し 教 け十 い け 日 そ る め つ カゞ つ え か 育 、ででて記 た あ ん文 都 し た 五 と て て が 庁思時鬱 が年 い が て 。り書 あ 1 彼 そ不に た い代屈豸な 、だ を る 逞 く い勿 ! は 気力 ば一 隸勤 つ少 山奇 や 屈 。る がし く つ た年光な論映読 い を議め し . 悪た め て カ { 、で養支 は . 生 . し ) 離 、週 かも な の た て て れが 。創 カ年 で数 を の必間そ 昭 と だ つ し】 作見 あ年春 タ近 な覚、 芝 不日 が す のれ い る た の生 こ所せあ酩ま中 ル く かが決 を る た つ り友 を後 後 移 読八 の っ酊 の カ { し、 外に手 って と 糸吉 む年 の た る あ も た せ 日 。で核昭 側は紙 と そ と と てよ つ あ か ざは と る ん街 る酒酒私役 と和 の ぐ は し ろ ら た 430

6. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

梅崎舂生文学碑建立のため児島・ 坊の津を訪れる。左より中崎坊の津 教育長、檀一雄、麟三、長井坊の津町 長、前田純敬、埴谷雄高 ( 昭和 41 年 ) 上梅崎春生文学碑除幕式の日 に。梅崎恵津夫人と ( 昭和 41 年 ) ーストエスキ第 0 悪震椎名三 昭和年・冬樹社刊 昭和年・新潮社刊 左書下ろし長編「懲役人の告 発」の取材をする麟三。墨田区 押上の工場にて ( 昭和昭年 ) 純文学書下 懲役 椎名 ( 撮影票原達夫氏 )

7. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

まぎわ 卒業間際の学生は、よほどのことがなければ落第しなひかれていたのは太宰治であり、最も私淑していたの は井伏鱒二であった。春生がいつ、どういう形で太宰 いもので、それがこれだけ問題になったとい、つことは、 最上級生でなければ、落第していたということであろを知ったかは、私は知らないが、このころの太宰は後 あ・み に文学青年の憧れの的になった太宰ではない。 女給との心中に生き残り、郷里から出てきた芸者と 「この時代に、彼がひそかに 松本文雄氏によると、 どうせ、 同棲し、共産党の非合法活動をしていた太宰がやっと 創作活動をはじめたころである。春生が五高を出て東 大に入学した年の五月、太宰は処女創作集「晩年」を 出版した。しかしその前年、彼は自殺をはかって失敗 している ポロポロの生活を続け、しかも海の物とも山の物と もっかない新人作家であった太宰にひかれた春生は、 太宰の作品の中に、自己の内心に通するものを発見し よ、。そして大学にはいったものの、は ていたに違いオし とんど教室に出なかったのも、太宰とよく似ている。 「春生は昭和十一年四月、東大国文科に入学した。同 やまなし し月私は山梨県の腓の中学に赴任した。私はときど き上京し、春生の下宿を訪ねることもあった。あると おもしろ き春生に、大学は面白いか、ときくと、まだ一度も授 業に出ない、と答えた。二年目に、学校は面白いか ときくと、まだいつべんも、と答えた。三年目に学校 は、ときくと、百一一十円の講義を聞いたと言った。授 業料が年に百二十円だったのである。では彼は毎日何 東京・練馬の自宅書 斎にて ( 昭和 33 年 ) 長野・蓼科にて遠藤周 作 ( 右 ) と ( 昭和 31 年 ) 428

8. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

412 昭和三十三年 ( 一九五八 ) 四十三歳して難渋する。十一月、「雨女 , を「小説新潮」に、「朝顔市」を 一月、「寝ぐせ」を「オール読物」に発表。五月、「高原悲話」を「オール読物」に発表。長編「てんしるちしる」を講談社より刊行。 「小説新潮」に発表。また、「人も歩けば」を「北海道新聞 . 「中部昭和三十八年 ( 一九六一一 l) 四十八歳 日本新聞ーに連載 ( 三十四年六月完結 ) 。六月、「葬式饅頭」を「新一月、「雨男」を「小説新潮、に、「狂い凧、を「群像、に連載 ( 五 潮」に発表。八月、「伊之吉抄」を「別冊文藝春秋。に発表。九月、月完結 ) 。三月、「雨男 ( 続 ) 」を「小説新潮ーに発表。六月、「私の 長編「逆転息子」を講談社より刊行。この頃から心身不調となり、 ノイローゼ闘病記」を「主婦の友」に発表。八月、「熊本弁ーを「新 鬱状態 ( 不安神経症状 ) と診断される。 潮」に発表。同月、蓼科高原の山荘で軽い吐血をする。九月、長編 昭和三十四年 ( 一九五九 ) 四十四歳「狂い凧」を講談社より刊行。十一一月、「仮象」を「群像ーに発表。 四月、短編集「拐帯者」を光書房より刊行。五月、台東区下谷の近同月、夏の吐血後の療養が足らず、武蔵野日赤病院に入院する。 喰病院に入院し、持続睡眠療法をうける。八月、長編「人も歩けば」昭和三十九年 ( 一九六四 ) 四十九歳 を中央公論社より刊行。十一一月、「文学自伝ーー・憂鬱な青春」を「群一月、「希望、を「新潮」に発表。同月、肝臓ガンの疑いで東大病 像」に発表。 院に転院し、三月まで治療につとめる。一一月、「狂い凧」により芸 昭和三十五年 ( 一九六〇 ) 四十五歳術選奨文部大臣賞を受賞する。十月、「留守番綺談ーを「小説新潮」 一月、「ある失踪」を「新潮」に発表。一一月、「モデルーを「群像」に発表。十二月、「やぶれ饅頭」を「小説新潮」に発表。 に発表。四月、随筆「うんとかすんとか」を「週刊現代」に連載昭和四十年 ( 一九六五 ) 五十歳 ( 三十六年八月完結 ) 。九月、「遠足」を「新潮。に発表。十月、「益一月、「矢水の花火」を「小説新潮、に発表。二月、「朱色の天」を 友」を「小説新潮」に発表。 「群像」に発表。三月、「ふしぎな患者」を「小説新潮」に発表。五 昭和三十六年 ( 一九六一 ) 四十六歳月、「年齢」を「小説新潮」に発表。六月、「幻化」を「新潮」に発 一月、「小さい眼」を「新潮」に発表。随筆「南風北風」を「西日表。七月、肝硬変により十九日午後四時五分、東大病院上田内科で 本新聞。に連載 ( 四月完結 ) 。三月、「演習旅行」を「世界ーに発表。急逝。八月、「火ーが「新潮」に、「青春 , が「小説新潮 , に掲載さ 六月、「てんしるちしる」を「中国新聞」ほか数紙に連載 ( 三十七年れる。同月、遺作小説「幻化」が新潮社より刊行。十一月、「幻化」 四月完結 ) 。七月、「駅」を「群像」に発表。十月、「編集者の頃」で第十九回毎日出版文化賞をうける。 を「群像ーに発表。十一月、「男兄弟」を「新潮」に発表。 没後、四十一年十月、「梅崎春生全集」全七巻が新潮社より刊行 昭和三十七年 ( 一九六一 l) 四十七歳された ( 四十二年十一月完結 ) 一月、「狸の夢」を「高校コース」に発表。七月、「記憶」を「群 この年譜は、古林尚氏編のものに基づき編集 像」に発表。八月、自宅二階でふざけて子供を蹴とばそうとして転 部で作成し、同氏の校閲を得たものである。 倒し、第十一一胸椎圧迫骨折となり、加えてギックリ腰の症状を併発 こん

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416 を講談社より刊行。七月、「半端者の反抗」を「新潮」に発表。十献身」を「新潮」に発表。十二月、戯曲「鳥たちは空をとぶ」を「新 月、「猿の檻」を「群像」に、戯曲「夜の祭典」を「新劇」に発表。劇」に発表。随筆集「地底での散歩」を創文社より刊行。 十一月、中村光夫、武田泰淳、堀田善衛とともに文学代表団として昭和四十ニ年 ( 一九六七 ) 五十六歳 中国を訪れ、約一カ月滞在した。 一月、「両面作戦」を「文芸」に発表。随筆集「人・生活・読書」 昭和三十七年 ( 一九六一 l) 五十一歳を一一見書房より刊行。五月、「凡愚伝」を日本基督教団出版局より、 三月、「媒妁人」を「文学界ーに発表。四月、「新しい人間ー中国紀「私のドストエフスキー体験」を教文館より刊行。九月、「失踪宣 行ー」を「文芸」に発表。五月、「我等は死者と共に」を「群像ー告」を「展望」に発表。十二月、「不安な女 , を「小説新潮」に発 に発表。短編集「媒妁人」を新潮社より刊行。六月、「キリスト教表。 と文学」を「文学」に発表。九月、「幻想の果て」を「文学界」に 昭和四十三年 ( 一九六八 ) 五十七歳 発表。十月、「群衆のなかの顔」を「群像」に、「私生児」を「文藝一月、「四人の仲間」を「群像」に発表。「椎名一一一人生論集」全五 春秋」に発表。 巻を一一見書房より刊行 ( 十一一月完結 ) 。三月、「私の一族」を「文芸」 昭和三十八年 ( 一九六 = D 五十一一歳に発表。七月、短編集「勤人の休日」を新潮社より刊行。 一月、「事件の根拠」を「文芸」に、「牧師の娘」を「小説中央公昭和四十四年 ( 一九六九 ) 五十八歳 論 . に発表。四月、「カラチの女」を「小説新潮」に発表。五月、 八月、書き下ろし長編「懲役人の告発」を新潮社より刊行。 「請願書」を「群像ーに発表。九月、短編集「カラチの女」を講談社昭和四十五年 ( 一九七〇 ) 五十九歳 より刊行。秋ごろより心臓病悪化のため医師に執筆をとめられる。 一月、「変装 , を「新潮」に、「仮面の下に」を「群像」に発表。六 昭和三十九年 ( 一九六四 ) 五十三歳月、「椎名麟三全集」全一一十巻を冬樹社より刊行しはじめる ( 四十 十一一月、随想集「信仰というもの」を教文館より刊行。 八年三月完結予定 ) 。八月、戯曲「悪霊」を「早稲田文学」に発表。 昭和四十年 ( 一九六五 ) 五十四歳九月、短編集「変装」を新潮社より刊行。十一月、戯曲「悪霊」を 七月、「文学における救いの意味」を「展望ーに発表。八月、「変冬樹社より刊行。 節 . を「文学界」に発表。九月、「梅崎さんの思い出」を「群像」 昭和四十八年 ( 一九七 = l) に発表。 三月一一十八日、自宅にて、脳出血のため逝去。享年六十一歳。 昭和四十一年 ( 一九六六 ) 五十五歳 この年譜は、古林尚氏編のものに基づき編集 一月、「凡愚伝」を「心の友」に連載 ( 翌年一月完結 ) 。一一月、「私の 部で作成し、同氏の校閲を得たものである。 ドストエフスキー体験」を「月刊キリスト」に連載 ( 四十二年一月 完結 ) 。三月、「勤人の休日」を「新潮」に発表。四月、「復縁ーを 「群像」に発表。七月、「善魔ーを「文学界」に発表。八月、「ある

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414 三十三歳 昭和ニ十五年 ( 一九五 0 ) 三十九歳 昭和十九年 ( 一九四四 ) 四月、「流れの上に」を「新創作ーに発表。世田谷区松原町に移転。一月、「真実」を「新潮」に、「文学的告白」を「文学界」に発表。 昭和ニ十年 ( 一九四五 ) 三十四歳三月、「病院裏の人々」を月曜書房より刊行。五月、「火と天ーを 五月、河出書房より刊行予定の長編「胎動」が、空襲にあい原稿の「文芸」に、六月、「小市民ーを「文学界」に発表。八月、「賢札」を ままで焼失。八月十五日、敗戦をむかえる。 「小説新潮」に発表。九月、「無花果の樹 , を「中央公論」に発表。 昭和ニ十一年 ( 一九四六 ) 三十五歳十二月、「裸体の地獄」を「別冊文藝春秋」に発表。この年、日本基 督教団上原教会で赤岩栄牧師により洗礼を受ける。 新日本文学会に参加。「深夜の酒宴」を書き始める。 昭和ニ十ニ年 ( 一九四七 ) 三十六歳 昭和ニ十六年 ( 一九五一 ) 四十歳 一一月、「深夜の酒宴」を「展望」に発表、その重厚な実存的内容が一月、「豪雨の後に」を「群像 , に、「嫉妬ーを「文学界」に発表。 大きな反響を呼んだ。六月、「重き流れのなかに」を「展望ーに発三月、「誘惑ーを「別冊文藝春秋」に発表。四月、書き下ろし長編 表。八月、「黄昏の回想」を「諷刺文学」に発表。十月、「季節外れ「赤い孤独者」を河出書房より、短編集「嫉妬」を早川書房より刊 の告白」を「文芸」に発表。 行。五月、「死人の家」を「中央公論ーに発表。十月、「姦淫」を 昭和ニ十三年 ( 一九四八 ) 三十七歳「新潮」に、「約束」を「小説新潮」に発表。 一月、「深尾正治の手記」を「個性ー創刊号に、「人間」を「文芸時昭和ニ十七年 ( 一九五一 l) 四十一歳 代」創刊号に、「星もない夜に」を「文芸」に発表。短編集「深尾一月、「誘惑者」を「別冊小説新潮」に発表。一一月、「歳末」を「新 正治の手記」を銀座出版社より刊行。同月、「夜の会。に参加。二潮」に、「「異邦人」について」を「群像 , に発表。四月、「邂逅」 月、「喪失のなかに」を「光」に発表。三月、「戦後文学の意味」をを「群像」に連載 ( 十月完結 ) 。七月、「無邪気な人々 , を「文学界」 「人間」に発表。短編集「重き流れのなかに」を筑第冖房より刊行。に発表。十月、「帰省」を「新潮ーに、「隣人ーを「小説新潮ーに発 六月、書き下ろし長編「永遠なる序章」を河出書房より刊行。七表。十二月、長編「邂逅」を講談社より刊行。 月、「夜の家」を「次元」に発表。八月、「狂女」を「小説新潮」昭和ニ十八年 ( 一九五一一 l) 四十一一歳 に発表。九月、「スタヴローギンの現代性」を「世界文学」に発表。一月、「誤解ーを「改造。に、「私の小説体験」を「文芸首都」に発 表。一一月、「哀れな情熱」を「群像」に発表。四月、戯曲「家主の 十二月、「序曲」創刊に際し、同人として参加。 昭和ニ十四年 ( 一九四九 ) 三十八歳上京」を「指」に発表。五月、「自由の彼方で」 ( 第一部 ) 、九月、 一一月、評論集「自由を索めて」を近代文庫社より刊行。六月、「そ第一一部をそれそれ「新潮」に、「愛と死の谷間」を「小説新潮」に の日まで」を「展望」に連載 ( 七月完結 ) 。十一月、中編「その日まで」発表。短編集「愛と死の谷間」を筑摩書房より刊行。 を筑摩書房より、短編集「深尾正治の手記」を月曜書房より刊行。 昭和ニ十九年 ( 一九五四 ) 四十三歳 一月、「冬の日に」を「群像ーに発表。二月、「自由の彼方で」 ( 第 十二月、「希望」を「別冊文藝春秋」に発表。