戸田 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集
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1. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

た。そればかりでなく戸田は僕には殺してしまいたいほど との出来る学者が世界に居たら、お目にかかりたいと思い き、り ますよ。それだのに日本には自由主義者の政治家や自由の重いのだった。そしてその自分がまた重く、世界が更に重 思想をとなえている哲学者や人民の自由を目的としているいのだった。 すいじば へ着いたとき、炊事場からおぎん だが僕たちがアパート 労働連動家が居るのです。だから日本は神国なんですよ。 もらろん そして : : : ああ、こんなことは勿論どうでもいいことなんと松本の妻の話声が聞えて来たのだった。松本の妻は、感 です ! 自由の思想があっていいんだし、デモクラシイがに堪えたような声でこういっていた。 だんな 民主主義であっていいんだし、まあ、そんなものです。全「 : : : ほんとにあなたの旦那さんはおとなしいですわね。 わか くどうでもいいことだ いらっしやるのかいらっしやらないのか、判らないくらい ですよ」 すると戸田は、 するとおぎんは男のような強い声でこう答えていた。 「そうですね」 じようぜっ あいづら おくびよう と合槌を打って臆病な愛想笑いをうかべたが、僕の饒舌「そうですよ ! 宝物みたいにちゃんと床の間へ飾ってあ たず るんですからねー に気を許したか、またおずおず訊ねるのだった。 そのとき僕にさよならをいおうとしていた戸田は、強い 「しかし自由とはどういうことなんでしようね」 しようどう おお 僕はそれには答えなかった。全くだまっているより仕方衝動を受けたようだった。彼は急に耳を覆いたいような絶 ぜんばうず がないではないか ! 僕が禅坊主でもあれば、僕は戸田を望的な顔になって、うろうろ僕の顔を盗み見るのだった。 なぐり飛ばしたであろう。だが僕は自分に堪え戸田に堪えそしてやっと僕にさよならをいいながら靴を脱ぎはじめた 力さ ていた。気分がまたひどく悪くなって来た。僕は戸田の傘のだった。だが僕はその戸田へおぎんに続いて更に一撃を からふいに脱けだすと、道傍に行って吐いた。戸田が後か 加えたのだった。 ら心配そうにやって来た。 「なかなかいい靴をはいていますねえ」 あお 「ほんとに顔が蒼いですよ」 「いや、これは、その : : : 」と戸田はますますうろたえな がら、「では、さよなら」 「そうでしよう」と僕は自分の心臓の音に息苦しくなりな とびら そっけ がら素気なくいった。「毒の入った、メチルの入った酒をと急いで扉の向うへかくれてしまったのだった。その靴 は妻のおぎんが買って与えたものなのである。僕はそれを 飲まされたんですよ」 そして僕はそれ以上戸田と口を利こうとは思わなかっ知っていた。だから僕は戸田へ一撃を加えたのだ。戸田と

2. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

258 僕たちはそれなり黙ってしまった。すると戸田は僕の顔どんなに幸せだろうと思うのです。自分からも他人からも 色をうかがうようにして、ふいに訊ねるのだった。 要求されないで毎日義務のように働いているあのお爺さん なま ちょうえ、 「共産主義になれば、怠け者は重い懲役にやられるのでしを見ていると、桶屋のお爺さんなんですよ、僕もああなり ようねえ ? 」 たいと思うのです。僕の理想なのです。僕もあのように年 「いや、僕は共産主義なんか忘れてしまいましたよ。ええをとって、自分で磨いだいろんな刃物を自分の後にならべ すみ もうすっかり。思想と名のつくものは、すべて愚にもっか ながら店の隅でとんとんたがをはめている自分の姿を想像 ぬものですね。 ・ : 忘れた、それでおしまいです。そしてすると、涙さえ出て来るんですよ」 なぜあのときあの思想に自分はあのように夢中になってい そして戸田は本当に涙をにじませているのだった。僕は たのだろうと不思議がるのがせいぜい関の山ですよ」 戸田の告白を聞いているうちにひどく大儀になっていた。 「でも共産主義の世の中にならないとは限りません。その僕は出来るならだまっていたいと思ったが、その大儀さに とき怠け者は : ・・ : 」 堪えながらいった。 「ただ死ぬだけでしよう」 「僕がその桶屋のお爺さんを見たのなら、戸田さんと違っ と僕は戸田の言葉を引取るようにして答えた。戸田はふて、きっとこう、そのお爺さんの苦しみを見つけ出すでし いに打ちひしがれたように黙り込んでしまった。だがそのようね。そしてとんとんという槌の音を聞いたら、きっと ために僕へ僕の冷酷さを暗黙に抗議するようなことはなかお爺さんのどうにもならない絶望の響に感じられて、僕は つら った。むしろ自分の沈黙をそのようにとられるのを恐れたきっと急に生きるのが辛くなって来るでしようよ。それで らしく、自分から冴えぬ声でまたいい出したのだった。 なくても働くということは辛い。しかし、それだからとい きっき 「僕は、先刻、年をとったら桶屋になろうと考えていたのって怠けているということも辛い : : : 」 です。僕は先刻も桶屋の前に立っていたんですが、あのと「ええ、そうですよ ! 」と戸田は勢い込んで僕の言葉を引 んとんたがをはめる音を聞いていると、たまらなくなって取るようこ、つこ。 冫しナ「なまけているということは実につら みち 来るんです。僕は普通の人のように働きたいのです。働く いものです。筆耕屋へ仕事をもらいに行っての帰り途、今 ことが当然の義務のように毎日仕事をして、夜になれば休もそうなんですが、僕はいつもあのお爺さんを見て元気づ んで、そして朝になれば別に苦痛もなく自分の義務に帰っけられるのです。よし、自分もあのようになろうと決心し て行くというような、普通の人のような生活が出来たら、 て帰って来るのですが、さて、帰って仕事にかかると、も おけや っち

3. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

たであろう。もう歩くのが困難なくらいだった。それに胃そして驚いたようにいうのだった。 のあたりが急に気持が悪くなって来て、遂に堪えることが「青いですよ ! お顔が ! 」 出来ず、焼けた電柱につかまりながら吐いたのだった。し「ええ、その」と僕は急に重い気分になって答えた。「メ かし粘液質の水ばかりで何も出て来なかった。僕は幾度もチル、そう、メチルの入っているらしい酒を飲まされたの ぶんびつ 。あなたは何か用事で ? 」 吐いた。だが僕のこの必死の分泌物は地上に影さえもとめで : ないのだった。雨のはげしい流れが、吐くそばからその水戸田はそれに答えず曖昧な泣くような笑いをうかべた。 を持ち去ってしまうのだ。僕が胃のなかからこみ上げて来そのとき。フラッカードを押し立てた四、五十人のデモ行進 かくしゅ る苦悩を吐いても、僕はそれを地上に見ることが出来ない が雨のなかを歩いて来た。馘首絶対反対と墨で紙に書いた ひゅて、 のだ。僕は冷汗を手で拭いながら、僕は譬喩的でなく本当その字は、雨に濡れて黒い涙を流していた。それらの種々 の幽霊なのかも知れないと考えた。そして今度は意識的に雑多な服装をした労働者たちは、自由と肉体を持て余して つば 出ない唾を吐き散らした。そして唾の泡をやっと地上に確いた。彼等はいらだたしそうにメーデー歌を叫びはじめた あんど めると、僕は限りない安堵を覚えて、その場にしやがみ込かと思うと後がつづかず、また黙り込んで、雨に打たれな くらやみ んだ。突然僕の眼は暗くなり、周囲の一切が暗闇のなかへがら疲れ切った身体をのろのろ運んでいるのだった。その こうしん 沈んで行った。僕はその苦痛と不安のなかで、異様に昻進彼等はまるで何かの恐怖に打ちひしがれているようだっ している心臓の音だけをいつまでもじっと聞いていた。 僕は一時間近くもそうしていただろうか。次第に気分が「どこへ行くんでしよう ? 」と戸田は不安そうにいった。 納まって来て自分を取り戻すと、生の愉悦に酔った・ハッカ「家へ帰って寝るんですよ」と僕は投げやりに答えた。 スのように、よろよろアパートの方へ帰りはじめたのだっ僕たちは歩き出した。戸田は僕へ何かえらい人のように 宴た。だがしばらくして僕は自分の名を呼ばれているのに気気をつかいながら、こうもり傘をさしかけて呉れるのだっ おけや のが付いた。振返ると戸田だった。戸田は路地の角の、桶屋た。僕は、 深の前に積み重ねてあるこわれた鉄砲風呂のかげに、隠れる「どうせ濡れているんですから」 ようにして立っているのだった。彼は臆病な愛想笑いをう とその配慮をことわると、戸田は冴えぬ声でいうのだっ ていねい かべながら丁寧な言葉でいった。 「お帰りになるんでしよ。傘にお入りになりませんか ? 」 「僕はレインコートを着ていますから。 ゆえっ あわ あいまい

4. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

のの一「三時間もたっと、もうだめなんです。どうしてもんよ。思想である限り必ず対立と抗争を予言している。ど 仕事をする気になれないのです。だからといって、他に何んな偉大な思想だって、人類の平和と幸福を目的としてい をしたいということもないのです。僕自身がもうだめなんる思想だって、ちゃんと人類を戦争と破減に導くという悲 ですね。僕はまあ一種の廃人なのでしようねえ」 劇性を自然にふくんでいるんですよ。人間が思想を持つの 僕はだまっていた。僕に告白したからといって救われるは、ただそれが便利だからですよ。・ : : ・全く思想なんか豚 ものでもないであろう。だが戸田は僕に慰めて貰いたかっ にくわれてしまえだ。思想なんかせいぜい便所の落し紙に たのだ。そして僕が戸田に一言でもやさしい言葉をかけてなるくらいなもんだー きさや いたら、戸田は僕からもう離れることが出来ないように始「それでは」と戸田はおびえたらしく囁くようにいった。 終僕の部屋へやって来るのに違いないのだった。しかし僕「あなたはデモクラシイに反対なので ? 」 はだまっていた。それより他にどんなことが僕に出来るだ「反対 ? 僕はいっ反対しました ? あなたは先刻、デモ ろう。それに僕はもうロを利くのも大儀になっていたのだ クラシイが好きだといったけれど、あなたがデモクラシイ った。すると戸田はその僕を不安そうに見ながら、話とい が好きなのは、共産主義的に好きなのか、自由主義的に好 うものの持っている和解的な親しさのあふれた気分を僕たきなのか、それとも社会主義的に好きなのですか ? : ・ ちの間につくろうと努めているらしく、また僕に訊ねかけもデモクラシイは好きですよ。だが僕がデモクラシイが好 て来るのだった。 きなのは、デモクラシイには定義がないということなので しば モクラシイへですか ? : : : 僕はデモクラシイが大好きなの つまり歴史的必然という奴がない。だから好きなので ですが」 すまたデモクラシイではいつも個人の選択の機会が与え じやけん どろほう 宴僕はもう椹えられなかった。僕はいらいらしながら邪慳られている。僕が大臣を志願しようと大泥棒を志願しよう のにいい出した。 と自由だから、僕は好きなんだ。そしてやはりデモクラシ 深「僕は思想というものは愚にもっかぬものだといったじやイはあらゆる定義を持っことを許されているということが ありませんか ! あなたはどうして僕を何かの主義者に決好きなんです。 : : : 僕はあなたを混乱させようと思ってい めたいんです ! あなたの好きなデモクラシイだって、思るんじゃない。デモクラシイは辞書にはどうあろうと、そ 想である限り思想としての運命から免れることは出来ませれは自由ということなんだ。自由に定義や思想を与えるこ まぬか もら やっ

5. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

り、夫や夫の兄弟のために自分はいかに肩身のせまい思いをする機会があるのだ。いろんな品物を手に入れたり売り さば をしているかということを何時間も話しつづけるのだっ 捌いたりする機会があるのだ。だからこのアパートでは彼 た。しまいには苦情に来た相手は自分の目的などはどうで女が一番裕福であるかも知れない。アパートの人々は、彼 なぐさ もよくなり、彼女を慰める自分の言葉に疲れ果てながら引女が余りえらそうにしているといって好感を持っていなか 下って来るのだった。彼女には自分の苦痛が大切なのであったが、面と向うと彼女には頭が上らないのだった。 って、他人のそれは少しも感じないのだ。だがそのように だが夫の戸田も自分の妻のおぎんには全く頭が上らない まで 愚痴る彼女自身も、今迄に幾度となく、炊事堺に置き忘れのである。戸田はおぎんより五つも年下であるせいか、お とうしやばん てあるようなものをだまって持って帰って来ているのだつぎんには奴隷のように服従していた。彼は謄写版原紙に製 やすり 版する仕事をしていたが、一「三日机の前で鑪の音をさせ けんたい 僕の左隣りにいる人々も僕にはやはり重い。書くのも大ていたかと思うと、すぐ倦怠を感じるらしく、映画を見に 儀なくらいだ。戸田という夫婦が住んでいるのだ。その妻行くのだった。だから一月を通ずると、割のいい仕事なの のおぎんは僕の伯父の仙三を助けて、管理人と女中の役目にその収入は家計費の半ばにも達しないのである。おぎん を果しているのだ。彼女は三十を半ば過ぎていたが、左のはアパート の人々の人に知られたくない秘密にも通じてい ようしゃ 眼のあたりが何か脹れている感じで、そのためにふと顔がて、人々の弱点に少しの容赦もないのだが、おぎんの一番 歪んで見えるのである。彼女は勝気で働き者だ。廊下を掃我慢のならないのは、男の生活的な無能力だった。それで むじゅん いたり、やもめの仙三の身の廻りの世話をしたり、アパ いながら戸田に対する態度はそれと矛盾して、かえって戸 トの配給から菜園の手入まで引受けながら、その上夫の面田の責任のない非実際的な性格を愛しているようなのだっ おく 倒まで引構えているのだ。彼女がアパート の人々を無作法た。若しこれが他の男であったら、それが誰であろうと臆 めん に呼びつけるのは、このような疲労も原因しているのであ面もなく、「あんたはだらしがないのね。それではお神さ かわい る。 んが可哀そうだ」とやつつけずにはいられなかったであろ だがこのように忙しいおぎんでありながら、隣組の配給 う。また彼女にはたしかにそれだけの資格があった。彼女 ささ やアトの用事で部屋部屋を訪れるたびに、大抵一部屋は立派に家計を支えていたばかりでなく、将来のために貯 で十分も一一十分も話し込んでいるのだ。それにはそれ相当金までしていた。彼女は・ハラックでもいい店を建てて昔の やみとりひ、 の利益があるのだ。つまりいろんな話を聞き込んで闇取引 ミルクホールのようなものがやりたいのだった。戸田がこ ゆが どれい

6. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

「いや、なぐられたところが痛いんです。もう全く素晴らそっくりそのままの絶望的な自分が繰り返されているだけ なのである。すべてが僕に決定的であり、すべてが僕に運 しく痛いんですよ」 まゆ 仙三はその僕を不安げに見つめた。そしてふいに眉をし命的なのだった。そこにみじんの偶然も進化もありはしな いのだ。絶望と死、これが僕の運命なのだ。世の中がかわ かめながら暗い声でいった。 「もう行け ! 全くお前はたまらない奴だ ! 」 って、僕がタキシイドを着込み、美しい恋人と踊っていて ふろしき 僕はその仙三へ丁寧に頭を下げると、風呂敷を背負っても、僕は自分の運命から免れることは出来ないであろう。 ア′ート を出た。身体に力がないためか、背の荷物は堪えたしかに僕は何かによって、すべて決定的に予定されてい がたいほど重かった。ときどき足が定まらず、どうしようるのである。何かにつて、何だーーーと僕は自分に訊ねた。 すみ かと思い惑うときがあった。でも歩きつづけていた。駅がそのとき自分の心の隅から、それは神だという誘惑的な甘 いつもより非常に遠いように思われるのだった。焼け跡にい囁きを聞いたのだった。だが僕はその誘惑に繕えなが まばら は明るい日が落ちていた。そして疎なパラックには黙劇のら、それは自分の認識だと答えたのだった。 だがタ方、僕がアパート へ帰って、事務所へ品物を置き ように人々が動いていた。僕の心は暗く沈んでいた。そし したく あえ いらだ てただ背の重荷に喘いでいるだけなのだった。 に入ると、帰る支度をしていた仙三は、僕を見るなり焦立 そうしつ そのとき、突然僕は時間の観念を喪失していた。僕は生たしげにいうのだった。 さっき 「加代は実際悪い女だ ! ・ : あいつは先刻まで、若い者と れてからずっとこのように歩きつづけているような気分に 襲われていた。そして僕の未来もやはりこのようであるこヴァイオリン見たいな琴をひいて騒いでいるのだ。戸田に とがはっきりと予感されるのだった。僕はその気分に椹え家出をさして置きながら。しかし、全く人間てなかなか死 るために、背の荷物を揺り上げながら立ち止った。そしてなないものだね。あんなに早くよくなると思わなかった。 うむ、全く不思議だ」 何となくあたりを見廻したのだった。すると瞬間、僕は、 おお 以前この道をこのような想いに蔽われながら、ここで立ち「戸田さん、家出したのですか ? 」 止って何となくあたりを見廻したことがあるような気がし「ああ、戸田か : 。昨夜出たきり帰って来ないのだ。付 ぶみ た。僕は再び喘ぐように歩き出しながら、その真実さを確文をするつもりで書いてあったのをおぎんに見つけられた 認した。この瞬間の僕は、自分の人生の象徴的な姿なのだつのだ。加代がそんな素振りを見せたに違いない。それでな た。しかもその姿は、なんの変化もなんの新鮮さもなく、 くて戸田のような気の弱い男が、そんな大胆なことを考え あえ ていねい からだ やっ ささや まぬか つけ

7. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

の妻に対して頭の上らないのは当然だった。事実戸田のその鼻にかかる甘えるようなそれでいてどこか遠い声を聞い おうと の妻に対する態度は、罪人が裁判官に対するようだった。 ていると、いつも重苦しい嘔吐のような気分を感ずるので のろ 彼は始終自分の非実際的な性格を呪っていた。しかしどうある。 することも出来ないのだった。 おぎんは加代に愛想を尽かしていた。女学校を出ている のに配給の当番のときは必ずといっていいぐらいに計算を 永らくこのアパートにいる人でも、戸田の顔を知ってい 間違えておぎんや皆に迷惑をかけるのだった。そして若い る人は少かった。彼はいつも部屋の隅にひきこもって かま て、机の前で鑪に鉄筆の軋る鋭い音を立てながら仕事して男がいつも入りびたっていてあたり構わない笑声が聞えて いたし、配給物を受取る金さえないときが多いのに、いっ いるか、寝ころんで・ほんやり空想しているのだった。彼は アパートの人々に会うのを極度に恐れていた。便所へ行くも牛肉を煮る匂いをさせているのだった。加代がこのア・ハ ートに来たのは仙三の関係からだった。加代の母は仙三の にも廊下の人の気配をうかがっている有様だった。だがた めかけ おくびよう まに人に会うと、うろたえた挨拶をどもり、臆病そうに眼妾をしていたことがあるのである。 はたち 加代はまだ二十なのだが、 / 彼女は十八で最初の男を知っ を伏せてそそくさとその人から離れるのである。その戸田 * ていしんたい は全く自分を生きて行く価値のある人間だとは少しも思っ たのだ。それは戦時中、女学校の挺身隊で城東の皮革工場 ていないようだった。それはまるで全世界の人々の非難をに行っているとき、そこの工員と出来合ったのだ。間もな へんこう くその関係を先生に知られて軍需省へ勤務を変更させら 一身に負うているようだった。 疲れたつつけんどんな声で人々の名を呼びながら、配給れ、敗戦までそこにいた。空襲のために仙三が焼け出され を事務所へとりに来るように伝えているおぎんの声を聞い たので、彼女の母は石川へ疎譛することになった。そのと き加代は辞職を申出たが、 ; 課長は自分の家から通うがいし ていると、僕はいつも深い絶望的な気分に襲われるのだ。 どろ ! う せき 宴また隣から聞える那珂の妻の鋭い連続的な咳や、泥のよといって辞職を許さなかったのだ。課長は家族を疎開させ のうに緊張した顔で廊下を便所へ急いでいる戸田に接するて、かなり大きな家にただひとり住んでいた。 えいごう ゅうしゅうおちい 加代は敗戦後もその課長の家にいた。だがある日課長 深と、僕はまるで永劫の前に立たされたような憂愁に陥るの わず である。だが僕の部屋と向き合っている部屋にいる深尾加は、家族が疎開先から帰って来るからといって、僅かの手 代という若い女だけは全く堪え難いのだ。どんな不幸でさ切金で石川の母のところへ行けというのだっ加代はそのと しんせき うなす えも彼女に印をつけることは不可能であろう。僕はその女き素直に肯いたが、田舎へ疎開した母は親戚の強制的な勧 きし あいさっ すみ にお ぐんじゅ

8. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

だんな 「あんた、いい の ? 寝ていなくてもいいの ? 旦那さんっていた。父親は酒を飲んでいるらしく赤い顔をして落着 したく にタ御飯の支度ぐらいさせなさいよ。あんたがだらしがな なく部屋へ入って来る人々を眺めたり腕組みをしたりして くったく いから、旦那さんもだらしがなくなるのよ」 いるのだった。そして母親は屈託げな顔で七人目をんで ずもう すわ すると女角力のようにふくらんでいる荷扱夫の妻は、も いる大きな腹を出してどっしり坐っていた。僕は女のよう う涙をうかべながらいうのだった。 に白い手をした坊主の読経を聞きながら、ふとリアカーの 「戸田さん ! 昨夜、うちの人、わたしを足げりにして早音を思い浮べていた。そのリアカーはアパートのもので、 ごと く死んでしまえというんでしよ。わたし悲しくて。 ・ : 御空気が減っているために一回転する毎に手荒にごとんごと 飯の支度をして呉れるどころじゃありませんよ」 んと揺れるのである。リアカーの上には一番安い棺が載っ こもおお 「あんたの家も困ったものね。それにまたむくんだようじていて、菰で蔽いかくしてあるのだった。父親は大工の仕 ゃないの ? ー 事を休んで遠い火葬場までリアカーを引張って行かなけれ ふきげん 「ええ、戸田さん、見てお呉んなさい。またこんなにふくばならないのでひどく不機嫌なのだ。だから少し酒を都合 れたんですよ」 して飲んだのが酔えないので、一層不機嫌になってむつか そして僕がいるのに荷扱夫の妻は、恥もなく前をまくりしい顔をしているのだ。ごとんごとんと単調な音を立てて ぼう ながら腹部を見せるのだった。その腹部は異様に大きく膨リアカーが揺れるたびに、棺のなかの少年は考えるのだ。 まん やっかい 満していて、そのために局部さえ見えなくなっているのだ なんて死とは大儀な厄介なものであろうと。僕はいつの間 にか読経のゆるやかなリズムに調子を合せながら、ごとん ゅううつ 僕は最後の食事をすませた。明日はもう米もないのだ。 ごとんと憂鬱にロの中で呟いていた。 かたわら しかしそれが何であろう。僕は読経が聞えはじめたので少ふと気が付くと、傍に加代が坐っているのだ。僕はその 宴年の部屋へ行った。葬式らしい飾りつけもなく、棺さえな彼女が何か気になる謎のような徴笑をうかべながら、じっ のいのだった。少年は薄い蒲団のなかに低くなって居り、そと前を眺めているのを知った。僕のひとり言が聞えたのか てぬぐ 深の顔には洗いざらしの配給の手拭いが載せてあった。そのも知れなかった。僕は彼女の肉体をじかに感じた。白い皮 前に小さなちゃぶ台が置いてあり、その上に、花や線香が膚がはち切れそうに太っていて、足の指先まで輝かしいほ ならんでいるだけなのだった。六畳の狭い部屋に人々が混ど丸味を帯びているのである。彼女の身体には、皮膚のゆ み合っていて、その隅に彼の兄弟が四、五人神妙にかたまるんでいるところは一箇所もないであろう。やがてふいに すみ ふとん つぶや

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はず つく筈はない。それに加代がいい女というなら兎に角、たったおぎんを思いうかべた。それだけだった。全くそれで だ太っているだけじゃないか。加代が誘惑したのだ」 いいのだ。一つの古・ほけた昔話が、飽き飽きする昔話が繰 にお 「深尾さんは戸田さんの家出を知っているんですか ? 」 り返されただけなのだ。そのときふとすき焼の匂いが僕の 「知っているだろう。誰が原因で家出したかも知っている部屋へ流れ込んで来たのだった。飢えて弱っている僕の胃 たらま おうと だろう。それでいながら、さわいでいるんだから、先刻怒は、忽ち反作用を起して嘔吐を催して来たのだった。僕は 鳴りつけてやったのだ。わしは加代にこのアパートから出それに出来るだけ堪えた。しかし遂に堪えることが出来な もら て貰おうと考えている。全く加代はわしを気違いにしてし いで、僕は急いで便所へ走って行ったのだった。 まうよ。あいつはいわば社会の毒虫だ。若い青年を病気と だが僕が嘔吐の苦しさに涙を拭きながら、酔ったように 堕落につき落す毒虫だ。うむ、あの女を殺したらどれほどよろよろ帰って来ると、ふと加代が自分の部屋から出て来 世の中を益するかも知れん」 たのだった。一層強いすき焼の匂いが僕に襲いかかり、僕 まゆ そういいながら、仙三は眉をしかめたままじっとあらぬは再び便所へ駆け込んだ。何も出ないのを無理にはくと、 方へ眼を向けていたが、そのまま僕にさよならもいわないもう便所から一寸も動くことが出来そうにもなかった。脚 を - ら′は′、 で帰って行ったのだった。僕は何となくア・ハ 1 ト の入口ま全体がしびれたようになって、その脚の皮膚まで蒼白にひ で出て、その仙三を見送っていた。彼はあのぎごちない運きしまっているのがはっきり感じられた。だが僕はいつま 命的な足どりで次第にたそがれのなかを、誰も待っていなでも便所にいるわけには行かなかった、僕はまるで重病人 い家の方へ消えて行くのだった。実際、仙三に加代をどうのように壁をつたわりながら、やっと便所を出たのだっ することが出来るであろう。 もた 僕は今日も一日中何も食べてはいなかった。壁に凭れて「どうなさいましたの ? 」 宴いると、もう少しも動きたくないのだった。隣の部屋から とふいに加代の声がした。しかし僕の視力はかすんでし せき 」ら・ ~ い は、荷扱夫の妻の息もたえだえな咳が相変らずつづいてまって、加代の首にまいてある白い繃帯が・ほんやり見える の 深いるのである。それは凭れている板壁を通して、僕の皮膚だけだった。僕は加代へやっといった。 ようしゃ へ容赦なくひびいて来るのだ。だがやはり僕はじっとして「僕の胃がすっかり駄目になってしまったんです。つまり しいかけて、僕は何をいおうとしているのか いた。その僕には、眼の前の向うにある戸田の部屋の空虚胃が : : : 」と、 わか さがしみじみ感じられるのだった。今朝仙三のところで会自分でも判らなくなっていった。「ねえ、判るでしよう ?

10. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

かぜ いう男がほんとに気が小さいのなら、彼はこの僕の一撃だる。ただ風邪をひいただけなのだ。そして彼女が病気になっ けでも十分自殺することが出来るであろう。そして : : : ま たと聞いて、仙三は急に彼女へ深い関心を示しはじめてい あ、ただそれだけの話なのだ。 るのである。といって見舞ってやったことさえないのだが。 さるまた 自分の部屋へ入って服を脱ぐと、猿股まで濡れていた。昨日の朝、僕がア・ハート の事務所へ品物を受取りに行くと、 僕はた 0 た一枚の着換である衣の寝巻に着換えると、し彼は加代とは何の関係もない僕をとらえて力説するのだ。 もた ばらく壁に凭れていた。熱があるらしく、ときどきふるえ 「お前はどう思うかね ? 加代の咳はたしかに肺炎のそれ が来た。しかしそれが何事であろう。隣の那珂の部屋から だと思うんだが。全く加代のようなだらしのない女は、一 けいれんてきせ、 がんじよう は、相変らず苦しそうな痙攣的な咳が聞えていた。それは見頑丈そうに見えても、病気に対する抵抗力というものは 僕の凭れている板壁にひびいて僕の寒けだったへじかに殪んどないものだ。わしはあのような意志のない女をほか 沁むのだった。 にも一人知っていたが、その女は指先に針を突き刺した傷 「明日かも知れない」 だけで死んだのだよ。うむ、破傷風になってだ。加代もき おかん と僕は考えた。そして僕は自分の飢えと悪寒に堪えてい っとそうなるよ。わしは加代の咳を聞いたことはないが、 たのだった。そのときふと、僕の向い合っている壁の向うおぎんの話を聞いてみんな知っているんだ。加代の病気は ためいき から、戸田の呻くような泣くような溜息がかすかに洩れて熱の高いことと思い合せて立派に肺炎の徴候をもってい 来た。僕はそれにじっと椹えた。堪えるということは、僕る。それにあいつは、何一つ手当を知らないんだ。部屋に にとって生きるということなのだ。堪えることによって僕湯気も立てず湿布もしていないというじゃないか。あいっ は一切の重いものから解放されるのだ。そしてまたえるはもう完全な肺炎なのだ」 ことによって、あの無関心という陶酔的な気分を許されるその仙三の陰険な澄み切った眼には、異様な熱心さが輝 ほか 宴のだ。全くそれでなくても、この世の中は、堪えるより外いていた。老人のこのような熱心さというものは、いっか のに仕方がないではないか。思想にさえ、僕はどれほど堪え炊事場で見た勲章のように何か醜悪で重かった。僕はその 重さに堪えながらいった。 深て来なければならなかったであろう ! 「でもただの風邪らしいですよ。今朝はもう咳なんかして いなかったようです。 : : : 嘘だと思うなら深尾さんの部屋 わか 僕の前の部屋にいる加代は、この一「三日病気で寝てい の前へ行ってごらんなさい。すぐ判りますよ」 うそ