栄介 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集
102件見つかりました。

1. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

いんせい 「では、庭の縁側の方に廻りましよう 加えてある。商売はやめて現在は田舎の町に隠栖している わび 「縁側に ? 」 こと、自分ももう齢をとったこと、侘しいから東京に出た 幸太郎はとがめ立てるような声を出した。戦前幸太郎は いがその節はよろしく頼むこと、そんな内容のものであっ たず 栄介の家を訪ねるのに、玄関をあけて、案内も乞わず、ぬた。巻紙の長さに比べて内容はかんたんで、あとは昔はど っと座敷に通ったものだ。本家の家長だからである。 うこうだったとか、今生きている感懐がくどくどとはさま 「そうですよ。縁側です」 っている。老いて来ると、人間はとかく長い手紙を書きた がる。というより、書き始めると、何か書き忘れた気がし 幸太郎の気持は判っていたが、彼は何か押しつぶすよう な姿勢で、幸太郎に背を向けて、庭に足を踏み入れた。狭て、つい止め処がなくなるのであろう。栄介は指折り数え て幸太郎の年齢を考えたが、うまく計算出来なかった。手 い庭にはツッジだけが貧しい花をつけ、幹の細い樹が五、 六本立っている。日の当らぬ部分にはゼニ苔がべったりと紙には齢をとったとあったが、何歳になったとは書いてな はびこっていた。幸太郎は彼に続いて、すり減った靴を沓かった。 脱石に脱ぎ、渋々という態度で上って来た。妻の美加子は「もう七十何歳かになったんだろう」 留守で、仮面のように表情に動きがない家政婦が、紅茶を そう思いながら栄介はその手紙を、机の引出しに放り込 運んで来た。 んだ。かすかな不安と脅威が彼の胸に揺れ動いたが、返事 紅茶を飲む間、一一人は黙っていた。すすり終ると、幸太を書こうという意欲は全然湧かなかった。書こうにも書く ことがなかった。で、返事は出さなかった。 郎がおもむろに口を開いた。 やっかい 「当分ここに厄介にならせてもらうよ」 それから新年になって年賀状が来た。今年は上京の予定 おうへい 昔ながらの彼の横柄さではなく、取ってつけたような押だから貴君ら御兄弟に会えるのをたのしみにしています、 凧しつけがましさがあった。 とつけ加えてあった。それも黙殺することにした。前の手 紙の返事を出さないのに、賀状の返礼をするのはおかし 、と栄介は考えたのだが、その自分の考えもおかしい 狂その前の年の秋、幸太郎から手紙がやって来た。どこで 栄介の住所を調べたのか判らない。巻紙に書いた筆の字と、彼は同時に気付いていた。満腹している時にザルソ・ハ で、達筆過ぎて判読出来ない部分すらある。最後に『矢木を出されたようなもので、要するに手を動かすのが面倒く 幸太郎拝』と署名したあとにも、一一伸があり、三拝もつけさかったのだ。 ぬぎいし わか くっ

2. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

めて会う幸太郎は、私の描いていた映像とは、いちじるし「背骨の具合、その後どうだね ? 」 だえ、せん く、違っていた。小柄でしなびていて、眼が不安そうにび「うん。毎週唾液腺ホルモンの注射を受けてるがね」 栄介は浮かぬ表情で答えた。 くびく動いていた。コ・フも巨大なものと思っていたのに、 あいさっ 首のつけ根にちんまりとくつついているだけだ。私が挨拶「根をつめたりすると、やはり痛む。痛むというより、重 すると、ロをもごもごさせて、意味不明な声を出した。そ苦しくなって来るよ。でも一生この重苦しさを背負って行 かなきゃならないらしい」 れは猫の声に似ていた。 「医者がそう言うのか」 車の運転手は若い男で、栄介を先生と呼ぶところを見る 栄介はうなずいた。 と、学校での教え子らしい にくしゅ 「れいの肉腫のようなものはーーー」 「伯父さん」 ふきげん 栄介は不機嫌な表情で、ぐふんとせきばらいをした。あ 栄介は幸太郎に呼びかけた。 けんせい 「伯父さんは助手席に乗りなさい。その方が景色がよく見きらかに牽制である。 「あれはもういいんだ。心配して呉れなくてもいい」 える」 栄介は早ロで言った。そこで私は話題を変えた。 栄介は幸太郎と体を接して乗るのは、イヤなのだろう。 とびら 自分で扉をあけて、老人の手助けするというやり方ではな 「ここはどこだ ? 」 く、押し込むようにして、乗車させた。幸太郎は無表情に 多磨墓地の門の前に車が停った時、幸太郎はいぶかしげ それに従った。後部座席に栄介と私は並んで腰をおろし た。車は動き出した。幸太郎の後頭部と肩が、私の眼の前 に窓外を眺めながら言った。栄介は扉をあけて答えた。 にあった。肩をおおう洋服の布地は、アイロンをかけ過ぎ「多磨霊園ですよ」 たのか、けばが磨減しててらてらと光っている。それはま「多磨霊園 ? では墓地じゃないか」 いつらようら 幸太郎はぐいと上半身をうしろにねじ向けた。不安そう さしく一帳羅という感じがした。 『こんなに齢をとって、若くして死んだ肉親の墓を訪れるに動いていた眼が、急に定まって、きらりと光った。 「誰がこんなところに案内せよと言った ? 」 のは、どんな気分のものだろうな』 オいか。伯父さん」 「言ったじゃよ 私はそう考えたが、もちろん口には出さない。私は栄介 栄介はうんざりしたように答えた。 に別のことをささやいた。 こん

3. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

がない。それが門に掲げられているのよ、、、 。し力にもそらぞ幸太郎が葬式を出したがっていることは、栄介も知って らしかった。 いた。どうして彼はそんなに葬式をやりたがるのだろう 「英霊の家だなんて、死んだ者に家なんかあるものか。役と、栄介は思う。本家の威武を示したいからなのか。それ とも葬式そのものに興味があるのか。 にも立たないものを掲げやがって ! 」 どう話をつけたのか知らないが、とにかくそれは取止め しかし実際には、この看板は大いに役に立った。栄介が かれつ 召集されたあと、戦局が苛烈になり、隣組の共同作業や防になり、一週間後に栄介は母親といっしょに、遺骨をたず ほだいじ 火訓練や当番などの時、あそこは女子供だけで人手が足りさえて汽車に乗り、菩提寺に行った。遺骨は本堂で読経を ないということで、面倒な協力を免除される場合が、しば受け、戒名がつけられた。 むす 「たいへんですな、奥さんも。福次郎君だけじゃなく、息 しばあったからだ。でもそれも長くは続かなかった。その うら 中軒並みに『出征兵士の家』や『英霊の家』が出来て、看子さんを二人も亡くされてーー」 まゆ 板の価値や威力は、暴落の一途をたどったからである。 眉の太い住職は茶をすすめながら、そう言った。そして 「ねえ。お母さん」 栄介に、 「何か相談ごとがあれば、いつでも言って来て下さい。も 母親に並んで縁側に腰をかけながら、栄介は言った。 っとも寺に相談なんて、あまり縁起のいいことではあるま 「もう葬式はやめようよ。合同慰霊祭で済んだことだか いが」 「そうだね」 そう言って住職は笑った。 そう ふくらんだ眼で母親はうなずいた。 丘の中腹にある墓は、寺男の爺さんの手で、すっかり掃 まか つば * 「お前がいいようにおし。お前に委せるよ。 除されていた。骨壺はカラトに収められ、住職は墓前で四 凧城介の戦病死通告の頃から、母親の中にある転機が来てを誦んだ。城介に関する浮世の行事は、これで一応片 いるようであった。強くなったのか、弱くなったのか。強がついた。 いというのは幸太郎に対してであり、 弓いというのは栄介 三箇月ほど経って、栄介は上京した。勤め先の関係もあ 狂 り、いつまでもぶらぶらしているわけには行かなかったの に対してという意味である。母親は続けて言った。 「やめるのなら、幸兄さんには、あたしが話をつけるだ。勤めに戻って一年余り過ぎ、今度は栄介に召集令状が 来た。海軍からである。しかし栄介は別に衝撃は感じなか らー とりや

4. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

「葬儀屋のことさ。おれ、葬儀屋って、どんな手順でやる「これ、何の花か、知っているか」 か知らないが、とにかくカ仕事じゃないだろう。その点栄介は言った。 「ケシの花だ」 で、おれは気に入ってるんだ」 「知っているよ」 「そりやそうだがーー」 と言いかけて、栄介はロをつぐんだ。二人の間で葬儀屋「これから阿片がとれるんだ」 あやふやな気持で、栄介は説明をした。 の話が出たのは、これが始めてである。あの複雑な思いが 「阿片というのは、麻薬だよ。のんでいる中に、中毒にな 栄介の胸をよぎった。 る」 「さあ。そろそろ出るか」 ケシにもいろいろ種類はあるだろうし、またそのどの部 栄介の気持を察したように、城介が言った。 分をどうすれば阿片がとれるのか、栄介は知らなかった。 「食逃げするわけにも行かないと」 かせ もったいぶって説明したのは、ただ汽車到着までの時間稼 「おれが払うよ」 ぎに過ぎなかった。とかく別離のための汽車を待つのは、 「今のは冗談だよ」 さいふ 間が持てないものだ。 城介は財布を引っぱり出した。 せんべっ 「そうかい」 「餞別もらったから、たつぶりある」 なが 勘定を済ませて、一一人は外に出た。いきなり明るいとこ城介はあまり興味を示さず、他の景色の方ばかりを眺め ろに出たので、眼がちかちかして、地面が揺れているようていた。彼方から汽笛の音が聞えて来た。 「兄貴。もし大学まで行けるようになったら、東京の大学 な気がした。栄介は初めて酔いというものを意識した。 東京行きの切符と入場券を買い、プラットホームに出にして呉れよな。おれも話し相手が欲しいから」 凧た。プラットホームの彼方は一面の麦畑で、麦穂が黄色く「うん」 熟れている。子供たちがそこらで草笛を吹きながら遊んで栄介はうなずいた。 やがて汽車が到着した。小さい駅なので、停車時間も短 狂いる。空気はよどんで動かないが、風景はことのほか鮮烈 。城介は彼から顔をそむけるようにして、すたすたと乗 に栄介の眼に迫って来た。プラットホームの端に、駅長か り込んだ。城介が座席を確保するのを見届けた時、汽車は 駅員が育てたのだろう、ケシの花が群をなして咲いてい ごとんと動き出した。城介はとうとう彼の顔を見なかっ た。一一人は歩いてその前に立った。 かなた

5. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

せりム かな 今の栄介には、別のやり切れない疑問が、その情景に重な という台辞には、暗さや哀しさはほとんど感じられなか ゆえ せんきん って来るのである。 った。それ故にこそその言葉は、今の栄介にとって、千鈞 その竜介は中学校を卒業して、上級学校の受験に再度失の重みを持ってのしかかって来る。 敗した。・ ふらぶらしている中に、思想的に赤化した。福次 郎は生涯それを口に触れたがらなかったし、栄介もはばか「葬式の時、お母さんは泣いたかね ? 」 って聞こうとしなかったので、詳細なことは判らない。今私は・フランデーを舐めながら、栄介に訊ねた。幾分残酷 更調べる由もない。 な質問とは思ったけれども。 竜介についての最後の記億は、肺病院である。竜介は留「きっとお母さんは美人だっただろうね」 置場で発病、というより病気を悪化させ、出て来て病院に 「うん。美人だった。写真を見ても判る。うちのとは比較 あんうつびようとう 入り、間もなく死んだ。栄介はその暗欝な病棟の光景は思にならん」 しにがお ほお い浮べるが、竜介の死貌に対面した記憶はない。おそらく 彼もグラスを三杯ほどあけ、頬を染めていたので、ロの 病室に入らせてもらえなかったのだろう。病院の門を入るすべりがややなめらかになっていた。 時、福次郎は、 「でも、人間の記憶って、へんなもんだな。線としてはっ 「さあ。これからお前が長男だぞ」 ながっていない。ところどころがぼつりぼつりと残ってい と栄介に一 = ロった。 るんだな。強烈なとこだけが残って、あとは消え失せてし 「しつかりやらなきゃあ」 まうんだ」 栄介にと言うより、自分に言い聞かせるような口調であ「誰だってそうだよ」 った。しかし栄介には、自分が長男になった、という実感「葬式はやった筈だ。ところがどこでやったのか、どんな 凧は全然湧いて来なかった。 具合に行われたか、おれは覚えてない。だからお母さんが 福次郎はこの時すでに県庁に辞表を出していた。それを泣いたか、泣かなかったかと言うことも・ーーー」 むすこ 狂栄介が知ったのは、まだ後のことである。息子が赤化した後年栄介は東京の居酒屋で、城介と酒を酌み交わしなが げんか とあっては、役人の職にとどまることは出来ない。詰め腹ら、何かの調子であの夫婦喧嘩のことを話題にした。する を切らされたのだ。しかし福次郎の、 と城介はそれを覚えていなかった。 「しつかりやらなきゃあ」 「へえ。そんなことがあったのかい ? 」

6. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

いたようである。事あるごとに幸太郎は子供の頭を撫でて ( しかしそんな打算が、おやじゃおふくろにあっただろう 言った。 か ? ) せつこう 栄介は考える。その栄介の背中の石膏帯はかすかなぬく「大学を出て、早くえらいやつになれよ。それにや勉強が もりを残しながら、しだいに固まって来る気配があった。第一だ」 頭を撫でられる回数は、栄介よりも城介の方がずっと多 身じろぎすると、ごっごっとした圧迫感があった。 かった。 「固まって来たようですな」 「そろそろ固まったようですな」 彼は誰にともなく呟いた。 もち と医師は言った。 「餅よりも固まり方が早いようだ」 「もう大丈夫でしよう。剥がして見ましよう」 「ええ。もう直ぐーー」 かつばこうら ぎしぎしときしみながら、ギブスが背中から剥がされ 「何だか河童の甲羅みたいな気がしますね」 こ。ほっとした解放感が来た。彼はぎくしやくと調子をと 栄介は冗談を言った。 「これに色を染めて、背中にかついで歩いたら、そっくりとのえながら、起き直った。 「これ、一「三日陰干しにして下さい。すっかり固くなる 河童に見えませんかね」 「べッドをかついで歩くという話は、あまり聞きませんな」まで」 剥がされたギブスを栄介は見た。背に当る部分が、思っ 医師は手を動かすのに忙しいので、冗談に応ずる余裕は ないらしかった。背をそらし放しなので、栄介もやや疲労たよりも深くえぐれ、ぐっと凹んでいた。背骨の型が点々 せんりつ を感じ始めていた。 としるされている。それを見た瞬間、かすかな衝動と戦慄 が、彼の全身を通り抜けた。彼は思わずうめいた。 栄介城介に関する約束をはっきり知らされたのは、しか しそれからずっと後のことである。その約束を教えること は、無用の競争心を植えつけることであり、つまり幼な心約東の日に、私は矢木栄介の家に行った。れいの無愛想 を傷つけるものだ、と両親は考えたのであろう。それにもな家政婦が招じ入れた。私は訊ねた。 かかわ 拘らず、栄介も城介も何となく、何かがあることを感じ取「今、治療中かね ? 」 たび っていた。幸太郎がやって来る度に、それをほのめかした彼女は黙って首を振った。栄介は一昨日と同じ姿勢でペ まくら からである。幸太郎は栄介よりも、城介の活発さを愛してッドに横たわっていた。私は見舞いの花束を枕もとに置い つぶや

7. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

おそ 子供の頃感じていた幸太郎への畏れが、今反抗に変りつなぎる。 つあることを、栄介は自覚した。彼は東京に戻り、一箇月「これがおやじのにおいなのだ」 ほど経って、福次郎の病状を城介に書き送った。 彼は用心深く手を動かしながら思う。栄介たちが幼ない からだ 福次郎は体を動かせないまま、ずっと寝たきりであっ時、壁にかかった福次郎の着物や外套に顔を押しつけ、 た。夏休みに栄介が帰省した時も、頭の機能は回復してい 「やあ。お父さんのにおいがする」 ぶしようひげ なかった。あおむけに寝て、不精鬚を生やし、いくらか痩その頃の父親の体臭は、衣類にしみついたタ・ ( コのにお せて、眼玉ばかりがぎよろぎよろ光っていた。栄介のこと いであった。それが今は膿と汗のにおいに変っている。 すわ を間違えて、 ある日のタ凪ぎの時のことであった。栄介は病室に坐っ 「おお、城介か。除隊になったのか」 ていた。すると福次郎が何かしやべり出した。意味がよく それも発音がはっきりしないので、三度四度聞き返し 判らない。何度も聞き返して、やっと理解出来た。 て、やっと判った。彼は父親を哀れに思った。哀れに感じ「女はまだか。早く階下から連れて来い」 るそのことが、彼にはつらかった。 ここはどこだと、栄介は反問した。すると福次郎は隣県 ゅうかく しようか 「そうだ。そうだよ。お父さん」 の市の遊廓の名を言った。福次郎はその娼家の一軒の二階 栄介はうなずいて見せた。 にいるつもりらしい。県庁時代か会社勤めの時、出張を命 「元気で帰って来たよ」 じられて、その経験がよみがえって来たのだろう。栄介は 病室は前庭が見える部屋である。そこが一番風通しがよ答えた。 かった。しかしタ凪ぎの時刻になると、風はびたりと止ん「ここはそんなとこじゃない。 うちなんだよ」 なっとく しかし福次郎は納得しなかった。早く連れて来いとじれ 凧寝たきりなので、福次郎の背は床ずれを起している。暑て、栄介が動かないと見るや、動かせる方の足をにゆっと い時節なので汗が出て、ひどくなる傾向があった。その治伸ばして、足指でいきなり栄介のふくら脛を、蟹のように 狂療を栄介は自分に課すことにした。福次郎の背は丸まっギ = ッとはさんだ。それはおそろしいほどのカで、栄介は せきつい て、脊椎の一筒一筒が突出している。不時の客に見られる思わず悲鳴を立てた。病人にどうしてこんな力があるのだ のうぬぐ ろう。 と困るので、障子を全部しめ切って、膿を拭ったり、ガー うんき ゼを取り換えたりする。温気と膿のにおいが、部屋中にみ「参った。参った。お父さん」 わか かに

8. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

198 栄介は気分を変えるために、海岸に出た。白い砂浜には は考える。 にわ いろんな仕事があった。人が一人死ぬと、周囲の人は俄漁舟が並び、網が干されている。波打際には名も知れぬ海 かに忙しくなる。生れた時は、ほとんど誰も騒いで呉れな藻が打ち上げられ、子供たちが石を投げたりして遊んでい 。忙しがることで、気を紛れさすという人間の智慧なのた。静かな内海である。福次郎は釣りが好きであった。栄 介も城介も釣りが好きなのは、父親の感化でもある。栄介 カ は波打際まで行き、貝殻を五、六箇拾い、ポケットに収め 幸太郎は栄介が戻っても、一切の采配をふるっていた。 きしず 栄介は幸太郎の指図で、役所に行き、用紙をもらって、医た。 おとず 師を訪れた。死亡診断書をつくってもらうためだ。 「そんな差出口はよしてもらいましよう」 「敗血症ですな。死因は」 はげ 若い町医は彼に説明した。床ずれから化膿菌が入ったの栄介は怒りをこめて言った。彼は酔っていた。疲労は烈 まっしよう しかったのに、神経の末梢がびりびりしていて、酔いがヘ 「動脈硬化で心臓も弱り、皮膚まで栄養が廻らない。そこんにこじれていたのだ。 「ここは僕たちの家だ。僕たちの家のことは、僕たちがや で床ずれになってしまうのです。看護が足りないせいじゃ る」 少しこちらも言過ぎだったし、短慮だったと、今にして 「意識はあったのですか ? 」 おうへい こんすい 栄介は思う。しかし幸太郎も横柄過ぎた。と言うより、世 「いや。ずっと昏睡状態でしたね」 診断書をもらって外に出て、栄介はせかせかと歩いた。話を焼き過ぎた。幸太郎にとっては、葬儀の手続きひとっ 悲しみよりも、ほっとした気分があった。看護の手落ちでも出来ない遺家族を、見るに見かねたのだろうし、自分は ないこと、死の苦痛がなかったらしいことが、栄介の気持本家だから世話をするのは当然だとの気持もあったのだろ う。しかし栄介たちの無能さを通夜の話題にして、城介を をすくった。 「親の死に目に会えないなんてーー」 引合いに出したのはまずかった。幸太郎は育ちが育ちで、 こいしけ 彼はいまいましけに礫を蹴った。 他人の感情を重んじる習慣がほとんどなかったのだ。 。こちらが会っても、おや「第一城介の名を出すなんて、不謹慎じゃないですか」 「昏睡状態だから、仕方がない 「城介の名を出して、何が悪い」 じはおれに会えないのだ」 かのう ぎわ

9. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

程度の年月は生気を保っているが、衰え始めると急速に衰 くりとした。 えてしまうものらしい。徐々にではなく、がたんと古びて「生きて帰って来ないと、承知しないよ ! 」 しまうのだ。 「お母さん。何故そんなことを言うんだい ? 縁起でもな 「壮行会なんかやることはないよ」 栄介は母親に言った。 母親の語気の荒さに当惑しながら、栄介は言い返した。 かっこう 「盛大に送られてさ、それで即日帰郷になったら、恰好が「きっと、いや、たいてい即日帰郷になるよ。この前と同 つかないじゃないか」 じでね」 「そうかい」 「それならいいけれどーー」 ためいー 母親は溜息をついた。 母親は心細そうに言った。 あいさっ 「でもお墓参りだけはして行く方がいいよ」 「幸さんにはやはり挨拶しといた方がいい。すぐ行って来 なさい」 「それも済まして来たよ」 住職との会談の内容を、栄介は母親に説明した。いずれ栄介ほ命令通り幸太郎の店を訪ねた。店の戸は半分閉じ 敵機が飛んで来るような事態になりそうだから、その時はられていた。民需に廻す品物がなくなったからだろう。幸 っ 幸太郎に頼らずに、寺に相談するようにと、栄介は言を重太郎は留守であった。応召のことは告げず、彼は家に戻っ しゆったっ ねて説いた。母親は黙って聞いていた。肯定も否定もしなて来た。翌日指定の海兵団に向って出立した。 かった。 「それで即日帰郷にならなかったと言うわけか」 「おれは幸伯父を憎んでるんじゃないんだ。好きでも嫌い 「うん」 でもない」 凧少しはウソを言っているなと自分でも感じながら、栄介私の質問に、栄介はうすら笑いをもって応じた。 なぐ は言った。 「既往症がある者は申し出よと言うからさ、申し出たら殴 狂「幸伯父はね、まさかの時になると、自分のことしか考えられてね、それつきりさ。そしてその入団した人間の半分 ない人なんだ。だから信用が出来ないんだよ」 が、その翌日サイ。ハンに行った。選ばれた半分じゃなく、 「お前、まさか死んで来るつもりじゃないだろうね」 任意の半分だよ。兵籍番号の何号から何号まで集まれとい 母親は思い詰めた表情で、別のことを言った。栄介はぎう具合で、それらがそっくりサイバンに連れて行かれたん たよ みんじゅ

10. 現代日本の文学 38 梅崎春生 椎名麟三集

「下宿に置いて来ました」 「ウソだろう」 その私服の説によると、危篤だの死亡の報せがあると、 危篤という電報は、やはり本当であった。あの時福次郎 人間は無意識裡 ( ? ) にその電報をポケットに入れて、帰はまだ危篤状態にあったのだ。栄介が家に到着する十時間 前に、福次郎は呼吸を引き取っていた。 郷するものだとのことであった。 「でも、持たないものは仕様がないじゃないですか」 「何でこんなに遅れたのだ ! 」 栄介はいらいらしながら言った。 玄関で靴を脱ごうとした時、奥から幸太郎が出て来て、 「おやじが死んだのは事実だから、ウソと思うなら、家にりつけた。 でも下宿にでも問い合わせて下さい」 「電報は一昨日打ったんだぞ」 「死んだ ? 」 帰ったとたんに怒鳴られて、栄介は少々むっとした。し 私服は栄介をにらみつけた。 かし弁解の余地はないので、黙っていた。前庭に面した部 からだ 「さっきは危篤と言ったじゃないか」 屋で、福次郎の体はあおむけにされ、顔には白布がかけら 栄介はぐっと詰った。それから私服はいろいろと、交友れていた。眼を泣きはらした母親から、いろいろ事情を聞 関係や経歴など、下関につくまでの一時間ばかり、根掘り じんもん しにがお 葉掘り 問いただした。下関でやっと彼は不快な訊問から解白布の下には、福次郎の死貌があった。鑑も剃られ、皮 放された。 膚の色も若干修正され、眠っているように見えた。おれは 「いやしげな顔をしてたな。あいつ」 泣くだろうか。栄介は汽車の中でしばしばそう思ったが、 連絡船の上から、遠ざかって行く下関市を眺めながら、現実の場にのぞむと涙は出なかった。彼は白布を元に戻し 凧栄介はあちこち視線を動かしていた。城介と別れて、道をた。 間違えて出た暗い海岸は、どのあたりだろう。ほとんど見「栄介。親の死に目に会えないなんてーーー」 幸太郎は言った。 狂当がっかなかった。 「お前は親不孝者だぞ ! 」 「おやじのこと、城介に知らせるのはつらいな」 こうムん 彼はふっとそんなことを考えながら、下関から眼を離幸太郎も亢奮し、悲嘆していたのだろう。当り散らすこ し、船室に入って行った。疲労が重く肩にのしかかって来とで、ごまかしていたのかも知れない、と後になって栄介 くっ