を穿いて出て行きました。つづいて陳根頑も。残された僕野呂も自発的に道具を西室へ移し始めたのです。これはお ら二人は茫体となり、ポカンと顔を見合わせていると、陳互いが共通の被害者であり、被害者同士の気持の寄り合い さんがあたふたと戻って来た。何か忘れ物でもしたのかとが、お互いの心を和めたためでしよう。僕も野呂の荷物の 思ったら、そうではなかった。靴を脱いでどしんと坐り、 整頓に力をかしてやり、そしてタ方になりました。二人は 僕の肩をぼんと叩きました。なにしろ二十数貫もあろうとますます団結的な気持になり、うちそろって銭湯に行き、 いう陳さんのことですから、床板がめりめりつと鳴ったほ野呂は僕の背中を、僕は野呂の背中を流してやりました。 うる どです。 げに美わしきは友情です。人間同士の和解だの団結だの、 だま 「なあ。くよくよしなさんな。騙されたのは僕たちの不運案外かんたんに成立するものですねえ。風呂から戻って来 だが、刑事の方にその方はお任せしてあるから、どうにかると、僕の提案で簡略な引越し祝いをすることにしまし なるだろう」 た。先日同様ザルソ・ハと合成酒です。野呂もケチケチせ 「そうでしようか。僕らはここに住んでてもいいでしよう ず、こころよく割前を出しました。後日の野呂の言動から か」 考えると、よくも文句なく割前を出したものだと、うたた 「うん。それについて、被害者同士として、いろいろ対策感慨にたえません。 を立てる必要があると思うんだよ。だから明晩、あんたた ところがこの祝宴は、飲むほどに食うほどに、段々しめ ち二人で、わたしの店に来て呉れませんか。晩飯でも食べっぽくなって来た。話題が不破のことになり、僕も愚痴っ ながら相談をしましよう」 。ほいたちですが野呂も同様らしく、自然に会話がじめじめ 陳さんは手帳を一頁破って、店の地図を書き、それを僕して来るのです。今思えば、両者とも四万円ずつ出し、当 に手渡しました。そしてまたあたふたと帰って行きまし分ここに居住できそうな調子だから、別に愚痴をこ・ほすこ はす 春た。 とはない筈ですが、当時の僕らの気分としては、四万円を の 残された僕ら一一人も、何時までも茫然としているわけにタダ取りされた感じで、腹が立って腹が立ってたまらなか 家 ロも行かず、もそもそと立ち上ってあたりを片付け始めましった。あんな福耳を持ってるからつい信用してしくじっ おもしろ た。とりあえずここに住むだけは住めそうですから、面白た、と僕が嘆くと、 的くない気持の半面、ほっとした気分もありました。論争中「そうだ。そうだ。僕もあのキクラゲ耳にはすっかりだま であった八畳の板の間の件も、そのままうやむやとなり、 された」 かん せいとん なご
198 栄介は気分を変えるために、海岸に出た。白い砂浜には は考える。 にわ いろんな仕事があった。人が一人死ぬと、周囲の人は俄漁舟が並び、網が干されている。波打際には名も知れぬ海 かに忙しくなる。生れた時は、ほとんど誰も騒いで呉れな藻が打ち上げられ、子供たちが石を投げたりして遊んでい 。忙しがることで、気を紛れさすという人間の智慧なのた。静かな内海である。福次郎は釣りが好きであった。栄 介も城介も釣りが好きなのは、父親の感化でもある。栄介 カ は波打際まで行き、貝殻を五、六箇拾い、ポケットに収め 幸太郎は栄介が戻っても、一切の采配をふるっていた。 きしず 栄介は幸太郎の指図で、役所に行き、用紙をもらって、医た。 おとず 師を訪れた。死亡診断書をつくってもらうためだ。 「そんな差出口はよしてもらいましよう」 「敗血症ですな。死因は」 はげ 若い町医は彼に説明した。床ずれから化膿菌が入ったの栄介は怒りをこめて言った。彼は酔っていた。疲労は烈 まっしよう しかったのに、神経の末梢がびりびりしていて、酔いがヘ 「動脈硬化で心臓も弱り、皮膚まで栄養が廻らない。そこんにこじれていたのだ。 「ここは僕たちの家だ。僕たちの家のことは、僕たちがや で床ずれになってしまうのです。看護が足りないせいじゃ る」 少しこちらも言過ぎだったし、短慮だったと、今にして 「意識はあったのですか ? 」 おうへい こんすい 栄介は思う。しかし幸太郎も横柄過ぎた。と言うより、世 「いや。ずっと昏睡状態でしたね」 診断書をもらって外に出て、栄介はせかせかと歩いた。話を焼き過ぎた。幸太郎にとっては、葬儀の手続きひとっ 悲しみよりも、ほっとした気分があった。看護の手落ちでも出来ない遺家族を、見るに見かねたのだろうし、自分は ないこと、死の苦痛がなかったらしいことが、栄介の気持本家だから世話をするのは当然だとの気持もあったのだろ う。しかし栄介たちの無能さを通夜の話題にして、城介を をすくった。 「親の死に目に会えないなんてーー」 引合いに出したのはまずかった。幸太郎は育ちが育ちで、 こいしけ 彼はいまいましけに礫を蹴った。 他人の感情を重んじる習慣がほとんどなかったのだ。 。こちらが会っても、おや「第一城介の名を出すなんて、不謹慎じゃないですか」 「昏睡状態だから、仕方がない 「城介の名を出して、何が悪い」 じはおれに会えないのだ」 かのう ぎわ
万回も離縁を決意させるような人間であるとしても、最初「婦人部長がなくなるさかい ? 」 の一回を百万回繰り返させたのは私なのであり、その私克枝はそれに答えずに云った。 は、彼女の決意をほんとうのものとは考えていなかったか「ああ、あ、ほんまにうちいやになってしもた」 らである。だから彼女は、よく私を曖昧だと云って非難し「地球がなくなるとでもいうようなこといいなはんな」と た。だが私は、その非難を少しも恥じていなかったのであ私は云った。 すると克枝は、くるりと振り向いて怒った声で云った。 「うち、ほんまに真剣なんでっせ」 私は、ひとりで食事をした。だが、克枝の母親は、、 私は、不思議なおかしさを感じてだまった。曙会の婦人 までたっても帰って来なかった。 「おかあはん、どこへ行ったんや、ほんまに、心配ゃない部長ぐらいなことでそんなに深刻になれる彼女の気持が全 か」 くわからなかったからである。だが彼女はつづけて云って すると克枝は、蒲団にもぐったままでやっと云った。 「おばはんとこへ行ってもろたんや」 「うち、ほんまにもう生甲斐ないようになってしもた」 「おばはん ? どしてや」 私は云った。 だが、克枝はだまっていた。私は、彼女の顔の上の蒲団「首になったんやないし、明日からちゃんちゃんといまま をふいに大きく引きはいだ。彼女は、あわててその私に抵でと同じように会社へ出ればええやないか」 抗しようとしたが、もう間に合わなかった。 すると彼女は、腹立たしそうな声で云った。 「何や、泣いとるんか ! 」と私はびつくりした声を出し「うち、あんたみたいな無気力とちがいまんねん」 私も思わず激して云った。 すると克枝は、ぐるりと向うをむいて云った。 「気力のおきどころがちがうだけや ! え、七年間もや 「曙会解散になりまんねんやー な、気力のない人間が、ちゃんちゃんと一日も遅刻せずに 「曙会が ? 」と私は拍子抜けした声を出した。「そりやえ働いて来られると思うとんのか。休んだのは、警察にやら えこっちゃ」 れた四日だけやないか」 「ええことやあらへん」と彼女はむっとして云った。「う「そやさかいに、あんたは無気力やというんやわ。働くだ あり ち、会社へ行くの、いやになってしもた」 けやったら蟻やって働いてまっしやおまへんか。阿呆らし あけほの ふとん あいまい
て、精力を持て余しているように見えた。 「おやじの背中も、その頃からそろそろ丸くなり始めてい 「昔からおれはそうなんだ。学校の水泳で、立入禁止区域た」 で泳いでいると、足がつって溺れかかるのはいつもおれだ ギブスは床に置かれていた。横眼でそれをちらちら見な とうも気にな し、運動場で雪合戦をやっていると、おれの雪玉はいつも がら、栄介は私に言った。見たくはないが、・ ムゼい 先生の頭にぶつつかるしさ。要領がてんで悪いんだ」 ると言った風情である。 もち 「しかし今度のことはーー」 「自分で餅をついたりしていた頃は、まだしゃんと伸びて 「それだって婆さんが飛び出して来なきやよかったんだ。 いた。齢のせいじゃなく、もしかすると、気分的な理由か 要領というより、運だね。いつも悪い運がおれに廻って来らだろう」 「気分的 ? 」 る」 「気分的というより、職業の問題があったのかも知れない 「お前は自分でそう思っているだけだよ」 栄介は彼にそう言った。しかし言っても、もう追いつくな」 かんこっ ぶゼん 栄介は憮然として顴骨のあたりを押えた。城介も顴骨が ことではなかった。 ( おれに相談しなかったのは、おれからとめられることを出ていたが、栄介もそうだ。近頃痩せたと見え、ことにそ れが目立つ。 心配したのか ? ) 「おやじは実は県庁をやめたのだ」 後年になって、栄介は時々考えた。 ( とめられると、学校をやめる決意がぐらっく。それをお「そのためにかね ? 」 「いや。ずっと前だ。おれに竜介という兄があることを、 それたのかな ? ) しかし栄介は、その時城介が学校をやめたい気持が、判君に話したかな。その兄ももう死んでしまったけれども」 凧らぬでもなかった。栄介自身もこの固苦しい学校のよどん竜介は彼よりも八つ上であった。写真があるから思い出 せるけれど、現実の竜介の印象はほとんど彼には残ってい いだ空気に飽き飽きしていたからだ。 狂福次郎は息子の告白を聞いて、早速学校をやめさせる決ない。顔の青白い、髪が額に垂れ下 0 て、む 0 つりした男 であった。弟を可愛がることを、いや、話し合うことをほ 心をした。そして一人で校長に面会した。 とんどしなかったのは、年齢が隔たっていたせいもあるだ うつくっ 四 ろう。弟たちを相手にするには、欝屈したものに充ちあふ とし
博多にて ( 昭和 31 年 ) 藤 きあう気持は年一年とうすれてゆく 伊年 それでも、伯父から学費を出してやろうと言われれ よ和ば、旧制の五高に入学するために、死に物狂いで勉強 左昭 するだけの気持は残っていた。しかし、一度、五高に て生 春入ってしま、つと、も、っそこには小言を一言、つ両親はいな 正助翁につきあう気持は消え、成績は最低のクラ 樽茂スになる。そのかわり、中学時代には日の目を見なか 辺 った内面の文学青年の世界がひろがり、雑誌部委員に の田 なり、校友会誌に詩をのせはしめる。一方、二年から 新整 三年になる際に平均点不足で落第する。 昔の高校はよく落第があって、それ自体ははすかし いことでも、不名誉でもない。大体、入学した時から、 浪人が半分以上を占めているのだ。しかし落第生の多 年 文科生ならドイツ語とか、特定の苦手の課目を おとすためである。六十点以下が三科目あると、落第、 和 昭 四十点以下が一科目で落第、といったシステムであっ る た。しかし落第点が三科目くらいあった所で、全部で れ 十科目くらいあるから平均点としては落第生といえど 訪 を も、七十点近くあるのが普通である。それなのに、平 鉱 炭均点が落第点というのは、勉強したとかしないという ことではなく、 全く学校へ行かなかったのではないだ ろうか。彼は三年から卒業する時、彼を卒業させるか 4 福落とすかで教授会が二十分以上も揉めたという。普通、
私はロごもった。 わか 「そ、そんな立場に置かれたことがないから、よく判らな 「これがあいつの見おさめかも知れない」 切ない思いで、彼は汽車を見送っていた。だんだん遠ざい 。すると君はやはり城介君を可哀そうだと思ったわけだ かり、しだいに小さくなる。すっかり姿を消した瞬間、彼ね」 は前のめりになりそうになって、かろうじて足を踏みしめ「それとも違う」 た。汗がびっしよりと額にふき出して来た。 栄介はもじゃもじゃ髪を両手でかきながら、しばらく考 えていた。 「この前君はくたびれて、うとうとしていたから、僕はそ「おれはふた児として生れた。ひとりで生れた経験がない っと帰った」 んで、断言は出来ないけれど、ふた児同士には特別の感情 私は言った。 の交流があるんじゃないかな。たとえば僕には竜介という 「その時聞こうと思ったんだが、城介君がうどんの事件を兄と、他に弟と妹が一人ずついる。それらに対する感情 起した時、喜びの気持が君の胸のどこかに動いていなかつは、やはり城介に対するのと違うものね」 「年齢の差からかな」 たかね ? 」 「なぜ ? 」 「そうだろうね。同じ胎内に育って、同じ日に生れた。何 「城介君が退校となれば、君は大学までの学資を確保出来かを分け合った、つまり分身、自分の分身だというよう たわけだろう。幸太郎氏が一一人の中の一人に学資を出してなーー」 はす やる、という約東だった筈だね」 「初めからかい。その感じは」 「約束はそうだった」 「いや。初めはそうじゃない。これが自然であたりまえと 栄介はゆるゆると背を起した。 思っていた。いや、思いもしなかった。ずいぶんフケが出 るな。久しく頭を洗わないもんだから」 「しかし喜ぶ気持は全然なかった。君に兄弟あるかね」 「いるよ」 彼は膝の上のフケをはらった。 「兄弟で何か競争して、相手が失脚すると、うれしいよう「小学校に入って見ると、友達はみんな別々の顔をして、 な気持になるか」 同じような顔のは一組もいない。そのへんからだろうな。 「さあ」 実感として出て来たのは」 ひざ
び、遊戯施設も一応ととのっている。売店ではおでんやキていた経緯からして、ほぼ見当がついていた。その若者た せつかく ャラメル類を並べ、拡声器が〈東京ラブソディ〉や〈ユモちも、折角遊園地にやって来たのに、何も面白いことがな レスク〉などのメロディを園内に流している。いつだった くて、気分的にやり切れなくなったのであろう。 か私は城介といっしょに、そこに遊びに行った。多分その「殴ってやろうか」 時も栄介を訪ねて不在だったので、私のところにやって来城介は私に言った。冗談だと初め私は受取った。冗談め たのだろう。 かしたような口調だったからだ。 東京の人口が少かったから、日曜日だというのに、入園「なぜ殴るんだね ? 」 者は多くはなかった。まばらというほどではないが、駁々 「女をいじめてるからですよ」 しいという感じはほとんどなかった。でも遊園地というや城介は答えた。 * うつ つは、老人や子供、あるいは女連れならたのしめるが、欝「あ。あんなにゆすぶると、おっこちるかも知れない」 屈した若者一一人でのそのそ歩いても、くたびれるだけで決私たちは吊橋から谷に降りる中腹の、・ヘンチに腰をかけ たばこ して面白いものではない。 て、莨をふかしていた。そこは女たちを斜め上に見上げる つりばし 城介が見ている方向に、小さな谷があった。谷には吊橋位置になる。橋が揺れるので、女たちのスカート が動い たの がかかっていた。その橋の中ほどで、若い女が一一人、悲鳴て、白い下着や足が見えるのだ。私の眼を愉しませるため ようせい とも嬌声ともっかぬ声を上げていた。橋のたもとに学生姿に、女たちは立ちすくんで騒いでいるように見えたくらい の男が三人いて、女たちが渡りかけたのを見すまして、急 ・こ。だから私はその時城介の気持をはかりかねた。 にゆすぶり始めたのだ。どこの学生かは知らないが、彼等「大丈夫だ。切れやしないよ」 はあきらかに酒気を帯びていた。いや、酒気を帯びている 吊橋は鉄線で編み、その上に板を敷いてあるので、たと というほどでなく、三人でビールの一本か二本か飲み、酔え手を離してもおっこちる心配はない。 女たちもそれを知 ったつもりになって気勢を上げている。その方に近かっ っているのたろう。悲鳴がむしろ嬌声に聞えるのは、その とし た。齢はおそらく私たちよりも若かっただろう。上着の上せいでもあった。 はず の方のボタンをわざと外して、気障というより、にやけた「甘えて騒いでるだけだよ。僕たちとは関係ない」 「関係ありますよ」 気分をぶんぶんと発散させている。 橋上の女たちとその学生たちと知合いでないことは、見今度は押し殺したような声で、城介は言った。 くっ たず 、ざ
りかいていた。身体中が重苦しくて、夢の感覚がまだ身体にして生きて来たのだろう。妓の淋しげな横顔が、急に私 のそこここに残っていた。うつつの私も、夢の中と同じよの眼底によみがえって来た。侘びしい感慨を伴って、妓の うに涙を流していた。何物に対してか、つかみかかりたい貧しい肉体の記憶がそれに続いた。 ような気持で、べとっく肌の気味悪さに堪えながら、じっ ( 此の感傷によりかかり、そして気持を周囲から孤立させ とあおむけに横たわっていた。 る、此の方法以外に、私の此のいら立ちをなだめる手があ ろうか ? ) ( これでいいのか。これでーーー ) すで はんばっ もはや、私の青春は終った。桜島の生活は、既に余生に 不当に取扱われているという反撥が、寝覚めのなまなま しい気持を荒々しくゆすっていた。私はひとりで腹を立て過ぎぬ。自然に手に力が入り、揃えた毛布を乱暴に積み重 どうくっ ていた。誰に、ということはなかった。掌暗号長にではなねると、私は服を着け、洞窟を出て行った。午後の烈しい 。私を此のような礙目に追いこんだ何物かに、私は烈し光線が、したたか瞼に滲みわたった。丘の上に登ってみよ うと思った。 い怒りを感じた。突然するどい哀感が、胸に湧き上った。 いしころみら 何もかも、徒労ではないか。此のような虚しい感情を、私石塊道を登り、林を抜けると、見張所であった。栗の木 の下には、此の前と同じ見張の男が立っていた。私を認め は何度積み重ねてはこわして来たのだろう。 たた 私は身体を起し、寝台から飛び下りた。乱れた毛布を畳ると、かすかに笑ったようであった。何となく元気が無い そろ つぶや むために、毛布の耳をひとつひとっ揃えながら、ふと呟いように見えた。 「また来ましたね」 まわり うなずきながら、私は見張台に立ち、四周を見渡した。 「毛布でさえも、耳を持っーー」 いなかまちおんな 耳たぶがないばかりに、あの田舎町の妓は、どのような心の底まで明るくなるような、炎天の風景であった。 暗い厭な思いを味わって来たことであろう。あの夜、あの積乱雲が立っていた。白金色に輝きながら、数百丈の高 島妓は、私の胸に顔を埋めたまま、とぎれとぎれ身の上話をさに介騰する、重量ある柱であった。その下に、鹿児島西 語った。耳なしと言われた小学校のときのこと。身売りの郊の鹿児島航空隊の敷地が見え、こわれた格納庫や赤く焼 桜 時でも、耳たぶがないばかりに、あのような田舎町の貧しけた鉄柱が小さく見えた。黒く焼け焦れた市街が、東にず あざや い料亭に来なければならなかったこと。そのような不当なっと続いていた。市街をめぐる山々は美しく、鮮かな緑に さじん 目にあいつづけて、あの妓はどのようなものを気持の支え燃え、谷山方面は白く砂塵がかかり、赤土の切立地がぼん はだ むな ささ
たであろう。もう歩くのが困難なくらいだった。それに胃そして驚いたようにいうのだった。 のあたりが急に気持が悪くなって来て、遂に堪えることが「青いですよ ! お顔が ! 」 出来ず、焼けた電柱につかまりながら吐いたのだった。し「ええ、その」と僕は急に重い気分になって答えた。「メ かし粘液質の水ばかりで何も出て来なかった。僕は幾度もチル、そう、メチルの入っているらしい酒を飲まされたの ぶんびつ 。あなたは何か用事で ? 」 吐いた。だが僕のこの必死の分泌物は地上に影さえもとめで : ないのだった。雨のはげしい流れが、吐くそばからその水戸田はそれに答えず曖昧な泣くような笑いをうかべた。 を持ち去ってしまうのだ。僕が胃のなかからこみ上げて来そのとき。フラッカードを押し立てた四、五十人のデモ行進 かくしゅ る苦悩を吐いても、僕はそれを地上に見ることが出来ない が雨のなかを歩いて来た。馘首絶対反対と墨で紙に書いた ひゅて、 のだ。僕は冷汗を手で拭いながら、僕は譬喩的でなく本当その字は、雨に濡れて黒い涙を流していた。それらの種々 の幽霊なのかも知れないと考えた。そして今度は意識的に雑多な服装をした労働者たちは、自由と肉体を持て余して つば 出ない唾を吐き散らした。そして唾の泡をやっと地上に確いた。彼等はいらだたしそうにメーデー歌を叫びはじめた あんど めると、僕は限りない安堵を覚えて、その場にしやがみ込かと思うと後がつづかず、また黙り込んで、雨に打たれな くらやみ んだ。突然僕の眼は暗くなり、周囲の一切が暗闇のなかへがら疲れ切った身体をのろのろ運んでいるのだった。その こうしん 沈んで行った。僕はその苦痛と不安のなかで、異様に昻進彼等はまるで何かの恐怖に打ちひしがれているようだっ している心臓の音だけをいつまでもじっと聞いていた。 僕は一時間近くもそうしていただろうか。次第に気分が「どこへ行くんでしよう ? 」と戸田は不安そうにいった。 納まって来て自分を取り戻すと、生の愉悦に酔った・ハッカ「家へ帰って寝るんですよ」と僕は投げやりに答えた。 スのように、よろよろアパートの方へ帰りはじめたのだっ僕たちは歩き出した。戸田は僕へ何かえらい人のように 宴た。だがしばらくして僕は自分の名を呼ばれているのに気気をつかいながら、こうもり傘をさしかけて呉れるのだっ おけや のが付いた。振返ると戸田だった。戸田は路地の角の、桶屋た。僕は、 深の前に積み重ねてあるこわれた鉄砲風呂のかげに、隠れる「どうせ濡れているんですから」 ようにして立っているのだった。彼は臆病な愛想笑いをう とその配慮をことわると、戸田は冴えぬ声でいうのだっ ていねい かべながら丁寧な言葉でいった。 「お帰りになるんでしよ。傘にお入りになりませんか ? 」 「僕はレインコートを着ていますから。 ゆえっ あわ あいまい
「そうでもなかった。もっと不安定な気持でしたよ」 だ。私はその情景を・ほんやりと想像しながら言った。 加納は答えた。 「しかしそれが、自殺するほどのことかなあー 「内地に帰れるということは、帰還要員に指名されて以「そうだね。帰還のために部隊を離れると、もう薬は入手 きんき 来、そう嬉しいものじゃなくなった。何年も生死を共にし出来ない。途中で禁忌症状が出れば、自分だけ途中下車し た連中と一応別れてしまわねばならぬ気持、それから忘れて、病院に強制入院させられるでしよう。 万一家に帰りつ られた家庭に戻って行く不安。そりゃうちから手紙は来ま いても、内地じや薬は自由にならないからね。いや、あの すよ。紋切型のね。こちらは元気でやっているから、後顧年頃の考え方というのは、今の齢になっては理解出来ない なく国のために働いて呉れ、というふうなのばかりで、具ようなところがあるね」 めんどう 体的に内地はどうなっているのか、どんな生活をしている「面倒くさくなったのかな」 のか、帰還してそれにおれたちが直ぐ適応出来るのか、の 「まあそんなこともあるでしような」 け者扱いにされるんじゃないのか。そんな不安というか虚 加納はゆっくりとうなずいた。 しぶつ しかばね 無的な気持というか、私物の整理をしていても、それが心「矢木君の屍を火葬にした時、焼け方が早かったね。骨 の底に引っかかって、酒でも飲まなきややり切れなかった が・ほろ・ほろになった。戦後何かの雑誌で、たとえばヒロポ もろ な。それで毎晩ーー」 ン中毒者の骨は脆くて、直ぐに砕けるという話を読んだ。 「城介君がべロナールをのんだ夜ね、彼の態度や顔色に変彼の場合もおそらくそうだったんでしような。麻薬が骨ま ったことはありませんでしたか ? ー で食い入っていたんだね。 「態度 ? 態度は同じだった。ただ顔色は一「三日前か 十三 ら、白っぽくむくんでいるような感じだったね。眼の下が つば 凧ぼったりふくらんで、頬なんかたるんでいるような気がし 名古屋から受領して来た骨壺の骨のことは、栄介はほと からだ くろ ましたよ。粉を口に放り込む瞬間、どうせぶつこわれた体んど覚えていない。やや黝ずんだ破片が少量入っているだ けで、脆いか脆くないか、手に触れることはしなかった。 狂だとーー」 加納は言いかけて、あと口をつぐんだ。黒い陶器の瓶を母親はしかしそれを自分の頬に当て、うつむいてく忍び 幻ことことと振った。その振り具合では、ほとんど残り少な泣いた。それを見ているのがつらくて、彼は裏庭に行き、 になっているらしい。加納はそれを自分の湯呑みに注い菜園にしやがんで、しばらく無意味に草むしりをしてい うれ ほお びん こうこ