深見進介は木山省吾と羽山純一の間にやはり膝を組んった。 たばこはさ で、煙草を挾んだ右手を、右足の膝帽子の上に置き、永杉「東山の方に静かな家があるらしいんで、そこにするつも 英作の肩越しに、彼の後の白木の本棚の緑地の蔽い幕の花りでいるがね。」永杉英作は右足をかかえていた両手を放 くっした し、薄茶の毛編の靴下をつけた両足を深見進介の前につき 模様に眼を据えながらこの一座の集りの姿を考えていた。 そしてじっとその緑の幕の中の小さい黄の花模様に眼を据出しなおも食卓にもたれこんだ姿勢で言った。 「いいところかい。」 えていると、彼の視界の下端のところに本棚の下の右隅の 一つの白いものの形が見えて来るのである。彼は何故かそ「いいとこらしいね。佐々木がみつけてくれたんだよ。俺 はまだ行って見んのだが。」 れを見まいとしている自分の心を感じた。それは・フリュー ゲルのあの画集であると自分で知りながら、それを何故か「東山じゃ、不便じゃあないかなあ。」 ちょっと 今日は見まいとしている自分を感じるのである。白い部厚「その点が一寸困ると思うんだが、しかしもう俺の部屋で い大きな本の背に黒い活字が・フリ = ーゲルと浮き出てい集りを持っということはどうせ出来んのだからかまわん る。そしてその本の白い形がどうしてか、彼の心を衝き上よ。今度は俺の方から出かけて行くよ。赤松じゃあないけ げて来るようである。彼にはその本の中の多くの絵が、自れどね、いよいよ、俺も足で稼ぐ癖をつけなくちゃあいか 分の苦悩をさらに烈しく照らし出し、彼の心をあばき立てんからな。」 「ふん、せいぜい頼むよ。」羽山純一が言った。この言葉 るように思えるのである。 るつぼ 「いやに静かになりやがったな。」「憎しみの坩堝」を終えには普段の彼の言葉の中にはない冷たい響きがあった。そ のぞ た羽山純一が右手の・ ( ットを口に銜え、体を前へ乗り出すしてそこに彼の永杉英作に対する批判が覗いているのであ ようにしながら言った。「皆が集りやがらんと、たよりねる。 えな。」 「この部屋開けるのか。」深見進介は、永杉英作の後の本 「まあいいよ、たまには休息も必要だよ。今日はひとっ御棚から永杉英作の顔の上に眼を移しようやく彼の心の内部 ちそう から離れながら言った。 馳走するからね。」永杉英作が後の食卓にもたれ、眼をコ ローの絵に据えたまま言った。「しかし、この部屋ももう「うん、一「三日中に引き上げるつもりにしているよ。」 永杉英作は羽山純一の言葉に一瞬曇った顔を隠そうとする しばらくだね。」 かのように深見進介の方に顔を向けながら言った。 「今度はどこにした ? ー羽山純一が落ち着かない調子で言 ひざ すみ かせ おれ
張らなきや、俺はだめだよ。」木山省吾が言った。そして、処、俺の居るべき処はこの他にはないという風な感じをも のぞ つのである。もちろん、彼は永杉英作や羽山純一や木山省 8 深見進介の顔をまたじっと覗き込むようにした。 吾の思想、生活、意見に全く一致するものを持っているので 深見進介は、先程から、この部屋に足を入れる時、また はなかった。そして彼には自己の完成を追究するという、 部屋に入りながらじっとつっ立っている時、彼の全身を下 から上まで見つめていた木山省吾の視線を感じたが、こう未だ思想の形をとるほど定かではないが、あるいはむしろ たびたび 自己に執着した、そして如何にしてもその執着を断ち切り して度々彼の顔を覗き込むようにする木山の眼を受けて、 木山の鋭敏な神経が彼の姿の中から、彼が心に持っている得ない歩みがあるのである。これはエゴイズムに基づく自 苦しみの動きを見抜いているのを感じた。病的な何処かに己保存と我執の臭いのする道であり、冷たい自我の肌がそ 腐敗したものの感じを抱かせるにかかわらず、また何処かこにむき出ているものである。しかしながら自己完成の追 のんびりした所のある表情、軽快な機智などの全くない知究の道をこの日本に打ち立てるということ、これ以外に彼 性、言語反応の遅鈍な頭脳、極めて鈍い挙動、木山省吾はの生きる道はないと思えるのである。それはあるいは日本 きわ こうした外貎を持ちながら、しかし対人関係に於いて極めに於いては未だ個人の確立がなく個人の確立という問題は て鋭敏な神経を持っているのである。彼自身、肉体的の欠一つの大きな問題であり、どうしても解決せねばならない 陥を持ち、常に苦悩の連続の生活をして来ている故に、特ものであるという考えから、そしてそれは・フルジョア・デ に他の者の心の苦しみをじっと見抜く眼を持っている。そモクラシーの完遂の必要という考えから発生しているので して彼は他人の苦しみを見抜いた時、それに対してこの上はあるが、深見進介はむしろ自己完成の追究の跡とその不 たいせき こころづか なく細心な深い心遣いをするのである。深見進介には、こ断の努力の堆積を自分の肉体に刻みつけるというような言 れらの会話が彼の心を引き立てようとしている木山の心に葉で考えているのである。「科学的な操作による自己完成 導かれていることを感じたが、彼は顔に静かな微笑をつけの追究の努力の堆積」と彼は自分の道を呼・ほうとしてい たままなおも黙っていた。とは言え、それは心に持っ苦しる。そして彼はこの最後の堆積という点に重点を置いてい しゅうち みの故でもなくまた羞恥の故でもなく心理的対抗などの故るのである。 でもなかった。またいつものように、 こうした対話で時間 沈黙が一座に訪れ、皆は煙草をふかし、眼を各人の眼か しようそう むだ を無駄に過しそうだという焦躁の心からでもなかった。彼らそらせるように、部屋の高みに向けている。永杉英作は は永杉や羽山や木山の顔を眺めながらやはり俺の来るべき輪郭の正しい少しく冷たい卵形の顔をそらせるようにし、 おれ 、わ にお
しりぬぐやく いからね。」と言いながら深見進介の顔をじっと下から覗木山省吾、深見進介の尻拭い役、羽山純一という所かな。」 き込んだ。木山省吾の眼は深見進介の眼の中をじっと見つ「深見が来ると俺の攻撃が一一分されると思ってやがるんだ めて動かない、そしてその眼の中にも暗い不断の苦しみがよ、木山の奴。」羽山純一が怒ったように言った。 もれ出ているようである。木山省吾は北住由起のことを言「俺一人だと、いじめられ通しだからな。」木山省吾が、 っているのである。 自分の右手に膝を組み黙って煙草の火を付けている深見進 「違うよ、あれはもうずっと前に片づけたよ。」深見進介介の顔を見ながら言った。 はなおも立ったまま言った。 「いじめられ通しだからねえじゃないよ、君等二人おいと 「信じんね、俺は。」木山省吾が強く言った。そして胸幅 くと、危つかしくて仕方がないよ、深見の方はまだいいが の狭い栄養のよくない虚弱そうな上半身を右に向け、ようね。とにかくひとりで事が運べるんだからね。」 めんどりしつば やく伸び出した髪の毛が羽毛の伸び始めた牝鶏の尻尾のよ「ふん ? 深見の方がかい。」 こつけい あわれ うに滑稽に見える頭を左右に振った。彼の眼の中には憐み「もちろんだよ。」 の色があった。 「君じゃあないけど、定時定刻の精神の・フラブラ歩きの深 「まあいいや、そいつはおいとこう。永杉や羽山のような見がかい。」 そろ 品行方正の方々がお揃いだからね。」木山省吾が続けて言「何が不服なんだ、いったい。お前のは定時定刻じゃあ収 すわ やっかい まらんで、不定時不定刻の・フラ・フラ歩きだ。終点だなん った。「深見、坐れよ。世話のかかる厄介な奴ゃな。一々、 て、変なこと言って喜んでやがっても俺にだって解るんだ 言うてやらんならんねんからな。」 「おいおい、いつもお前が言われつけてるようなことを言よ。お前のはそれに終点なんてありやしやせん。このあい だも、学生委員会の臨時打合会の時、いくら探してもいや うなよ。」羽山純一が言った。 絵「誰が一体世話がかかるんだい。そりやむしろ自分に言 0 がら〈ん。西陣かど 0 かの織の音を聞きに行 0 と 0 たと か、水洗いを加茂川で眺めとったとか、何とか言やがっ た方がいい・せ、深見が来ると、急に元気づくというのも、 そこら辺りに原因があるんだろう。味方がふえたと思って。」 暗 「ありゃあ、なんら重要性ないじゃあないか。」 て、ほっとしてやがるんやないか」 「オルガナイザ 1 羽山純一、木山省吾と深見進介の育成に「重要性の問題じゃあないよ、訓練だよ。」 手を焼くという所だね。」永杉英作が言った。「それとも、 「深見、何とか言えよ、黙ってじっと見てんと。共同戦線 あた のぞ
たちあい リッチモンド・・ ( アの五十銭のエロ・サーヴィスでも要求止を宣します。」小泉清が、政談演説会の立会警官の口調 らようしよう ころあい しろ。それぐらいが君なんかには頃合だよ。」 を真似て言った。嘲笑するような眼つきをしながら、顔だ ・ : 」こうした強い言葉の調子は深見進介の日常にけは柔和な笑いをつけて谷口順次の後からその顔を向けな はないものであり、谷口順次は明らかにその言葉に衝撃をがら。 うけた。深見進介の真向いの将棋盤の左側の谷口順次の顔「え。お互い様とは一体なんだい。我々純情なる学生たる こと が静かに盤を離れた。自分の急所を衝かれた人間がよくすや、殊に深見進介君の如き純情一徹なる学生をも含めて、 るように彼は平然とした態度を持続しようと努力しなが我々、小泉、赤松、江後の純真無垢の学生に、谷口順次の ろうば、 まっ ら、細い女のような輪郭の顔の表を狼狽の色が走った。睫リッチモンド・・ハアの恵美子のエロ・サーヴィスとお互い 毛の長い大きく見開いた眼が俯し眼になった。そして強い様とは、こりゃあ、何だね。弁士失言取消しを願います」 力を眼にこめて打ち倒された精神を、深見進介の前に突っ小泉清はようやく険悪になって来たこの場の空気を他に導 立てようとするかのように、じっと深見進介の方を見据えこうと努めながら自分が立会警官の口調を真似て、そこに あざけ ながらロを開いた。 警官達に対する嘲りの意味を含めていることに満足しなが 「ふん、エロ・サーヴィス。お互い様じゃないか。まさから、「失言取消しを願います。」という言葉をあの立会警官 君はエロティクを解さないとは言うまい。」 達がよくやるような幾分慌て気味の調子を用いて言った。 「失言じゃあないかも知れんよ。」縁側寄りの障子のとこ ひぎ 「坊主主義はよして貰おう。俺あ、だんまり助平じゃねえろに寝転んでいた江後保が突然起き上って来た。そして膝 まじめ よ。取り澄ましたお方のエロ談議ということもあるんだを組み皆の方に向き直り真面目くさった顔をしながら、大 ゅうらよう ぜ。君なんかむしろェロティクを崇拝する方じゃないのかきな体に似つかわしい悠長な調子で言った。その調子が一 絵い。恋人のエロティクという問題は、むしろ君の領域じゃ座の笑いを誘った。 おとしい ないかい。」この言葉が深見進介を混乱に陥れた。 / 彼の心「おいおい、へんにぶち壊すなよ。変なところで谷口に同 は明らかに平衡を失っていた。彼は黙って上り口に垂れて感を示しやがってさ。」小泉清がにやと笑いながら言った。 暗 いる靴をつけた両足をぶらぶらさせながら無意識に食べ物「そう慌てるなよ、小泉。」江後保はなお真面目くさった を口に運んでいた。 調子で言った。「純情とエロティクがどうして反対概念に 「おい。失言取消し。失言取消し。でなければ弁士発言中なるんや。え。」この「そう慌てるなよ。」という言葉が皆 くっ おれ あわ こわ
げんそく まるで液体のように、舷側に体をもたせた木谷の顔にあたくらい電燈の向うで誰れかが言った。 かきゅうひん る。しかしやがてそれがすぎるとまた温かい船底のなかで「今夜は、下給品あがらへんのか。」また誰れかが言った。 彼の体はすこぶるつめたく冷えてくるのだ。相もかわらぬ「今夜の下給品は煙草だけらしいな。」 エンジンのひびきで耳はふるえる。木谷は眼をあけて、い 「羊かん位だしたれや、なあーーー まは班内の古年兵たちから解放されて、のんびりと足をな「四年兵殿、四年兵殿、そこの窓の暗幕大丈夫でつしやろ げだしている補充兵たちをみた。 な。ほら。お茶け、一ばい。 補充兵たちは、三日前から一日中口を動かしているが、 うわーん、ぐる、ぐるぐるぐる、うわーん、ぐるぐるぐ いまもまた、するめの足をわけ合って口を動かしている。 るぐる、どこか甲板の方でチェーンの音がする。 出発のとき大阪駅で家族から受取ったそれそれの荷物は、 「対潜監視三番立ち、でよー、対潜監視次のものでよー。」 たべものばかりだった。彼らはそれを次から次へとあけて階段の向うから、ロメガホンの声がはいってきた。 腹一ばいつめこんだ。彼らは揺れる船にただゆられてうす「おい、でえよ。でえよ。はよう出えよ。」 くねむそうに眼をあけていた。彼らの勤務はただ飯準備と「はよう、でんかい。でんかい。船を沈めてもええのか、 せんすいかん お前ら。」 不寝番と潜水艦監視だけにすぎなかった。 「四年兵殿、四年兵殿、お茶くんできました。お茶け一ば「お前ら、古い兵隊がいやヘんおもて、なまけてけつかる いどないでつしやろ。」横の小さなくぐり戸をあけて、薬か。」 かん 罐をさげてはいってきた東出一等兵が言った。 「おー、でるそーーー」 「おう、一ばいくれよ。」木谷は言った。 「よーし、でるなあーー」 「もう、外は真くらでっせ : また湯気のこもった空気が天井に当って木谷の顔にまと 。どっち向いたって、何一 てんじよう 帯つみえしまへんがな : : : 潜水艦いうたって、なかなか、で いついた。木谷はお茶けをのみおわって、上の低い天井の 地やしま〈んな。」東出一等兵は頭をさげて、兵隊たちの体隅に白く浮ぶようにみえる救命袋をしばらくみていた。し かし眼をとざすと、そこに浮んでくるのは、あの夜、二時 真の上をまたいでくると、白い眼をつきつけるようにして、 とうふや 木谷をみた。 間余りのちに、豆腐屋の物置のなかにかくれていたのを、 捜査隊にみつけだされて、部隊につれもどされたときのこ 「そやろ、くらいやろ。」木谷は言った。 「あほんだら、そうそう、潜水艦にでられてたまるかい。」とである。 めし たばこ
曾田は木谷の方にすすんだ。 曾田は、その樹の根元をほりかえしている自分の姿を、こ 「曾田はん、わかりはりましたやろか。」木谷は曾田が言の窓から木谷が見付けるところを想像してぞっとした。そ ある さっ 葉をかけないうちに彼の方からふりかえった。彼の眼は大れはたしかに起こりうることだった。いや或いは、彼が先 きく開いていた。彼のロはさらにささやいた。「曾田は刻、あの下士官室をでて、すぐにあのポ。フラの樹の下へ行 っていたならば、木谷はきっとここから彼の姿をそこにみ ん。」 曾田は相手のはげしさに圧倒された。そこにつき出た顔たにちがいないのだ。しかしたしかに以前はこの窓のとこ ろからあのポプラの樹など見えはしなかった。そしてそれ は、どこか別のところからでている顔だ : : : どこかくらい 深いところから。曾田は相手の手首のところに眼をやつは便所とポプラの樹との間に教育隊の建物があったからな た。相手は笑った。曾田にはその笑いが理解できなかつのだ。いまはその建物は土台とともにさらに左方の柵の近 くにうっされていた。 た。彼はその顔をみつめながら言った。 ( どうしてあんな樹の根元を木谷はほっていたのだろうか 「ああ、伝票のこと ? 炊事の給与伝票は別になんでもな ) 樹はいまや全く裸でたかくつったっていた、月が皮 いですよ。」 「なんでもない ? 」 をはいだ白い幹の片側にさしていた。 「ええ。」 つばっ 突然木谷は曾田の右腕をつかんで : : : 手元に引 「どない書いてました ? 」 「いや、別に : : : そうですね : : : 師団ョリ受入レという風「日報もそうやろか ? ほんまに伝票、そうなってるの か ? 曾田はん、それほんまか ? 」 にかいてありましたよ : : : 」 「ほんとですよ。」 「ふん、師団ョリ受入レ : : : 」木谷は顔の緊張をゆるめた 帯が、不審を解かなかった。「それだけだしたか ? 」 「日報も ? 」 地 「そうでしよう。」 まどガラス 真曾田は窓硝子の向うの例のポプラの樹に眼を向けた。そ「日報も。」木谷の声は次第にゆるくのんびりしたものに れはそのすぐ下の便所の屋根のはるか向うに、ほとんど、 なって行った。 そうちょう その樹の根元までのそきこむことができるではないか : 「日報は俺あまだみてないけどね : ・ : いま曹長が使ってる ここからあの樹が見えるということさえ考えられなかったし、曹長の助手が手から離さへんからね : : : しかし伝票は
てゆすぶるが、それを超えることのできない曾田には消燈けはいがあった。彼女の手は動かなかった。曾田は彼女が ラツ・、・、自 2 る・ 自分にたいして言いたいものをもっているのを感じるのだ が、彼はそれをきいている余裕をもたなかった。彼はかま ヘイタイサンハ、カーワイソウダネ わずつかっかとすすんで両手で彼女のつき出た肩をおさえ マタネテナクノカョ た。以前は彼女は母親に気をくばって身を引いたが、いま ヘイタイサンハ、カーワイソウダネ は何もいわず、くらいような抗議する眼で彼をみた。彼女 マタネテナクノカョ は体をかたくしてちょっと自分自身に抵抗したが、半ば兵 隊に奉仕する感じもあった。また熱がでているのだろう、 曾田が求めているのはただ女だけなのだろうか。しかしこめかみのところが汗がたまっているようにぬれていて、 たと 例えば時子と同じものを遊女に求めることができるだろうそこが白粉がとくに濃いようにみえた。 かと考えると、やはりそのようなことはできはしない。彼時子は野戦からかえってきた曾田をどういう風に取扱っ のような余り遊びを求めることのなかった人間も、外地にていいのかわからないでいるのだ。彼女は曾田がわからな いのだろう。彼女は自分の前にいるものがいままでの曾田 一年ばかりいる間に、女との接触に対する反省はルーズに なり、病気をおそれる心はなくなっていたので、このようとちがうということに気づいて、ときどきぎよっとして身 な比較も思いつけるのだが、彼はここで少しばかりわからを引くようにする。 : この頃の曾田は全くぞんざいにな なくなる。しかし兵隊である限りは、こうなのであると彼った、ひとのことを少しもかまわない、とくにひとの心を は思うのだ。 かまわない。持っていた神経をやすりですりおとしたかの やがて玄関の戸があく音がする。母親がでて行ったようようだ。彼女のことは全く一ミリメートルさえ考えること : ないのかもしれない。わがまま勝手な : いやわがまま 帯だ。するとしばらくして時子が階下からあがってきたが、 地部屋の真中につったって本をみあげている曾田をみて、感勝手という点はそれは以前から曾田の持物の一つである じ取るのだろう。ちょっと声をつまらせて近づいてきた。 が、しかしいま曾田はわがまま勝手ともいうことのできな 真 「ほんをみてたの ? よみたいでしようね。」少し眼が近い いような勢いをもって彼女のところにかけつけてきて、彼 あた せいもあるが彼女の顔は眼の辺りがへんであ 0 た。彼女は女をおさえてむしりとって行 0 てしまうかのようだ。愛な 顔をさけるわけではなかったが、そこには体全体をさけるどというものはそこにはない。そのようなものは勿論なく おしろい
つく放任の態度を取り、永杉英作がかって広島の高等学校に 立てた右足を両手で組み後の食卓にぐっともたれかか て、彼の前、深見進介の後の壁にはりつけてあるコローの在学中学生運動に関係して検挙された時にも、それに対し 「ポ。フラのある風景」の色刷り版に眼をやっている。形のて注意を与えるということもなく自らの道を選ぶに委せた 、しかし鼻先の開いた獅子鼻、少し白すぎるが光沢ののである。 ほお この失意の父は、永杉英作が警察から帰ってきた時彼に ある頬、長い、付け根になるほど太くなっている眉、この ひらめ 一言も言わず、憐むようなまたさげすむような眼で彼を見 上品な感じの漂うている顔の表情の中には憂いの影が閃い あら あご ている。出張った顎は意志力を表し、それが高等学校時代彼の姿が眼に触れるのを厭う様子を露わに見せた。父はむ の適度の運動に充ちた均斉のとれた肩、胸、腹、腰、上半しろ自分の惨めな立場を思い出さしめられるということを 、ら 身の軽快な感覚を保持しているようである。そして沈着嫌ったのである。これが彼と父との関係である。彼は早く らえ ゅううつ な、憂鬱の輝く智慧が表情や挙動に感じられる。彼は広島母を失い、叔母に育てられたが後に迎えた若い継母と父と の資産家の長男として生れている。父はもと、農林省の技の生活は、彼の生活と別個のものとして過されて来たので 師であったが、早く職を退き関西地方の綿業に関係し、現ある。彼と継母との関係は冷たい友人の如きものであっ 在では役を退いてはいるが各会社の株主としてかなりの発た。そしてまた、この継母も彼の父にとっては、家庭の一 ぜんじごうまん 言権を持っている。技師生活を退く頃から漸次傲慢な性格の装飾にすぎなかった。彼は法学部に籍を置いているが、 ふんいき が現われ、綿業界の雰囲気がそれを助長し、すべてを見下講義には顔を出さなかった。京大事件以後消え去ろうとし しているような眼つきが人を圧えた。早く妻を失ったが涙ていた大学内の左翼勢力の中心人物の一人として動いて来 ひとっこ・ほさず、かえってそれが彼の活動力を倍加させた。産業組合研究会を通じての啓蒙活動、学生消費組合の た。しかし活動力の頂点にあった時、彼は疑獄事件に関係再建、学友会問題に於ける文化部予算の増額をめぐっての れんけい 絵し部下に裏切られ彼が第一級の活動と言う活動から退かさ同志の獲得、学生祭の開催による各大学学生の横の連繋の れたのである。最近四年間広島県の県会、広島市会に動い強化等、学生運動の中心にあり、最近人民戦線の結成の動 ていたが、彼は自分でそうした地方政界で動く自分を軽蔑きと共に大阪、神戸の全国評議会の青年分子と結び付こう をもって見るという状態にいるのである。そして自分のこという考えを持っている。包容力と理解力とかなりの忍耐 とは自分以外には解らない。自分で何事も解決する外に道力とこれに比べて少し劣るとは言え、意志力によって、当 はないというのが、彼の持論であり、子供達に対しては全時日本の大学に於ける唯一の左翼勢力を築き上げて来たの おさ ゆいいっ
152 「三年兵殿、自分あした、不寝番つきまっしやろか : ・ 木谷は何も言わずにその自分の寝台の上に上って坐りこね、三年兵殿。」 んだ。そして彼がそこから瀬戸上等兵の方をみると、向う「さあ、つくやろな。」一等兵は立上って手箱のなかから もこちらを怒ったような顔付をもてながめていた。彼が眼煙草を取出そうとしていたがふり返って言った。彼は何だ を移して、銃手入れをしている初年兵の頭ごしに向う側のか・ほんやりしていた。 寝台をみると、そこに立ってこちらをみていたあの事務室「ああ、またあれや。」若い現役兵は大きい横にはったそ の一等兵が眼をそらせたようだった。そのとき銃手入れをの肩を体と一緒に左に倒したが、それが彼の上級者に対す おあいそう していた顔のごっい現役兵の一人がふりかえって一等兵に る御愛想だった。 向かって一 = ロった。 「三年兵殿にかかったら、いつでもこれやから、かなわし まへんなあ。なあ、曾田三年兵殿、三年兵殿に不寝番いっ あく ⑧ あたるかきいたら、たいてい、その日か、その翌る日には ⑦ 不寝番につかされまんがな。」 ① 「そんなことないやろ。不寝番は不寝番ゃ。」 ② 三年兵は次第に彼が行っていた遠いところから、呼び出 されてきたようだった。彼ははじめて下にいる現役兵をみ おれ た。「岡下。そんなこと俺あ知らんそ。」彼は笑いかけた が、彼は笑うと眼がこの上なく柔らかくなった。「不寝番 の順番はちゃんと計算して表で割出すんやからな : : : そう なるはずはないな。」 ついしよう 木谷は岡下一等兵の「え、ヘ : ・ ・ : 」という追従笑いをき いた。彼が自分の後をふりかえってみると寝台の上の整頓 棚のところは、 いままで置いてあった手箱を左、右によせ て片付けたため、がらんと空間ができているのに気づい た。彼は、寝台の上に放り出されている、昼間もらってき ①軍帽②背嚢③外套④襦袢⑤略衣⑥一一装 内務班と整頓棚⑦手箱⑧飯盒の鉄帽・帯剣⑧被甲 ( 防毒面 ) ⑥手入道具⑩雑嚢・水筒煙管 ( 吸殻入れ ) ③ ④⑤⑥ ムしんばん せいとん
「安西、どうした。」 「三年兵殿 : ・ : ・、安西一一等兵は言ったが、顔中涙でぬらし「辛抱するよりほかに仕方はないぜ。」 「はい。辛抱しますです。」 ているということが、くらいにかかわらずその声でわかっ 「染がお前をなぐったといって、染がわるいんやないぜ。」 「はい、わかっておりますです。」 「おい、安西、かえろう。」曾田はその涙の声に言った。 ま頃、なきや明るいところでみると安西の顔は涙のために眼のうちか 「おい、たたんか、たてんのか : : : おい、い がるのなら、なにもひとさわがせなことするな。」染の声ら、までが赤かったが、彼はその顔をつよく前にふるの ひぎ はきびしい怒りにみちていた。彼は安西の膝の上においた 「染、心配したやろ。」曾田はうしろからくる染に言った。 手を荒々しくつかんで、ひったてた。 「三年兵殿が、お前のことを心配してわざわざ、きてくれ「へえー、別に。もう、覚悟してまんがな。」染の女のよう お礼をいわんかな眼はまたたかなかった。 : おいわかるか : てはんのやそ、 ああ、曾田は忘れていたのだ、たしかにこの二人は班へ しいま頃、お前のその 。これがほかのひとやってみ、 かえってから正式の処罰をうけるにちがいないのだ。「そ 頭は、大きくふくれあがってるのやそ : : : 」 すで うか。」と曾田は言った。彼の体はつめたかった。彼は既に 「はいつ。」 うまや 「安西、行こう。染、はなせ。」曾田は染の言葉に恥ずか安西がみつかったということを厩週番上等兵の報告によっ しくなって先にたってそこを出た。ようやく彼について歩て知り、二階の窓から首をつきだして、自分たちの方をみ きだした安西は、「三年兵殿、申しわけありませんですているものたちに手をふってみせたが、その窓のところに ・ : 」と寒さと恐怖のためにふるえがとまらず、歯ががち地野上等兵の皮の厚そうな顔がぬっとっきでてきたとき、 がちとかみ合うのだった。そして彼は曾田がなぜ染が一緒はっきりとそっ・ほを向いてもう再び上の方をみなかった。 みんなは階段をどたどたとおりてきて、乾草が一ばいく に行こうといっても行こうとしなかったかとおこっても、 つついている安西のおびえて眼をむきだした姿をみた。 それにはだまってこたえなかった。 「おお、いたカたか、ようかえってきた。」「あほう、 「つらいか。」 え、一体、どこにどんな気持でいやがったんや。」「おい 「はい。」 そう無茶いうな : 。またにげるそ : : : 」みなは一息つい 「軍隊がつらいのか。」 しんばう