くのか。」林中尉はじっと木谷をみた。木谷はもはや後をうことを、彼はかたくした身体でなげかえしていた。准尉 如みなかった。 は、全くそれには知らぬ顔をして、義姉の方に話しかけて 義姉は准尉がはいってくるやたち上ってかたくなったま 木谷は曾田と一緒に中隊にいそいだ。彼は黙りこんでしま何回となく腰を折りまげた。彼女は木谷の方をぬすみ見 まった。彼は、昨夜自分のなぐったあとが曾田の額の横のたが、准尉がでて行くとすぐに木谷のそばににじりよるよ ところに青くついているのをみつけたが、それについてもうによってきた。 口をひらかなかった。彼は曾田が自分をいたましそうにみ「利一ちゃん、あんた、あした、出発やてなーーー」 ているのを見て足をいそがせた。彼はただ曾田に中堀大尉「そやよって、お父ちゃんに、どないそして知らそおもて、 が師団の経理部にいまいるかどうかしらべてみてくれない電報うっといたんやけど、今日はこれへんのや。」 かとたのんだだけだった。すると曾田はあの中堀大尉が師父ちゃんは会社がえらいきびしいてな、この頃は寮へつめ 団にいるのですか、 : : : 林中尉がそういっているのですかこまれたままでかえってもこられへんねんぜ。そやけど、 と顔を緊張させて承知したが、それ以上きこうとはしなか明日はなん・ほなんでも、ほかのことやないねんよって、休 みとれるとおもうわ。お父ちゃんも明日は一ペんきてもろ 木谷は中隊につくとすぐ曾田と共に准尉のところへ行っとかんと、ほんまに、もう会えるや、会えんやわからへん 「利一ちゃん、もう一一年会うてえ て面会の許可をうけ、事務室の隣りの室に待っている義姉のやよってなーー」 のところに行った。准尉は彼と一緒に同じようにはいってへんのやろ。」「お前あしたは、出るのは何時や ? 」義姉は きたが、いかにも柔らかく、あいそがよかった。時間は十時々隣室をうかがいながら矢つぎばやにきいた。 分あるから、ゆっくり面会してよいぞ、もう昼食ゃない 「明日の時間はまだわからへんが。」木谷は姉から身体を か、飯はなんならここへはこばせて、一緒にしたらどうか はなして言った。 といったりした。 「え ? まだ、わからへんの ? きっと朝やろな。でも朝 木谷はいよいよかたく口をとざしていた。彼は准尉の側やったらお父ちゃん、とても間に合わへんやろな : にあって身体がふるえてくるのを感じていた。まるで親切うから南海電車の一番にのってぎたかて : : : 三時間はかか るやろしな : : : 」 な思いやりのある人間かなんそのようにふるまう准尉のい からだ じゅんい
どではなかったので、林中尉をときふせるという自信をも長は准尉の前でおろおろしていたが、誰もいなくなると木 たなかった。彼は中隊の兵隊が衛兵勤務中にそのような事谷をこづいた。林中尉は隊長と准尉の前で再び金入れをひ 件を起こしたことをきいてただ激怒した。彼はすぐに木谷ろったとまだ言うつもりかと追求した。しかし木谷は事実 じゅうえいそう じゅんい を重営倉処分にするよう主張したが、それは准尉に注意さをのべるほかにはなかった。木谷は曹長室の壁ぎわに不動 の姿勢をして何時間もたっていた。 れて、この事件はそれほど簡単に決定することはできない ことをようやくなっとくした。准尉は山脇といったが、林「こいつは、経理室にいたときは、もうちょっとよい兵隊 中尉から報告をうけると、中隊の兵隊のおかした罪をあややったと思っとったが、な、おい木谷。」と林中尉は曹長 まってすぐに木谷を他の兵隊からきりはなして、林中尉殿室の真中につったったまま言った。「貴様うそっくぞ。」 いただ に取調べて頂くことにしてはどうかと提案し、隊長と林中「はあ、自分もそう考えて、わざわざ経理室に要求して、 尉の両方に賛成させたのである。「木谷、行け、お前は、 ええ兵隊にしようと考えていたところ、なあ、こんなこと このおっとなしそうな顔をして、 : かっしこそうな顔をやりくさって。貴様この俺の眼からかくしてたな : ・ : ・この して、につくたらしそうな顔をして、この顔でやりおった貴様の心をな。」准尉は言った。 のか、この顔で。」准尉は大きな声をあげて木谷を突然ど傍から曹長は言った。「木谷、お前はおっそろしい人門 なりつけ、胸のところをついた。「ぬすっとにまでなりおそな。はやく准尉殿におわびして本当のことを申し上げ ったな、こいつは、こいつは。」准尉は木谷を再びつきとろ。准尉殿が貴様のことをこれほど考えて下さってるのが ばしたが、彼は木谷の罪を軍刑法や軍隊内務書などにてらわからんのか。准尉殿、相当てこずらせよりますな。」 して、できるだけかるくしようという手続きを研究するこ隊長は曹長室にはいってくるたびに「林さん手をとらせ とはおこたらなかった。彼は体が大きくその割に頭が小さるな。」といし 、「准尉、なんとかはやく始末できんか。」と 帯く、うしろからみると頭の右側がいかにも固い石ころのよ部屋をぐるぐるまわった。彼は林中尉に「なあ、中隊長と 地うにみえていかにも愚かな感じがし、その言動も粗で兵して責任をもつなどというのはあたり前のことだが、中隊 真隊たちをいつもののしっていたが、このような際にむやみ長が自分でこの兵隊をあずかるから、君、中隊にもどして と木谷をつきおとすようなことはしなかった。木谷は准尉みてくれんか。」とたのみこんだ、しかし林中尉はそれにた そうちょう のこの動じない態度におされた。そして曹長もこの准尉のいして自分は巡察将校の立場にあるのだから、もっと取し 意を体して木谷のために動いてくれたのである。木谷の班らべをすすめてからでないとそう簡単に取あっかうという
み、しばらくたってからである。彼は体が丈夫で気転がきに送られることになってしまったのだ。そればかりではな しゅぎん びんしよう らんじゅっ 0 き、敏捷で、その上珠算がうまく能筆であったので、少しく林中尉のいつわりの陳述によって重い罪におとされる破 陰気でかげがあるといわれていたけれども、中隊では彼を目におちいったのだ。 経理室にだすのをおしがった。しかし中隊から行った他の木谷が事件を起こしたのは経理室勤務からはなれてから 兵隊が経理室勤務に適しないというのでかえされてきたとのことであった。 ( 経理室勤務から中隊にかえるや彼はた だちに金に窮してきた ) それ故その監督の責任は別に経理 き、ついに彼はその代りに経理室にやられることになった のである。木谷は最初一一カ月間ほどは経理室の使役兵であ室にはなく全部中隊にあった。 : : : 木谷の中隊が彼が衛兵 った。このときの彼の仕事は主として運搬が中心でトラッ勤務中に起したこの事件をできるだけ中隊内でそれも内輪 クにのることだった。しかしついで正式の勤務兵となるにに処理して公けになることをふせごうとしたのは当然のこ つれてその仕事は室内事務が中心となっていった。 / 冫 彼よことだった。それは中隊の成績に関係してくるからである。 こんせい の経理室勤務を一年近くつづけた。そして勤務交代のとき人事係准尉は心配して巡察将校の林中尉のもとに懇請に行 になって中隊にかえってきた。その間彼は老練で部隊の事った。しかし彼の事件が憲兵の手をへて軍法会議の手にう じゅんい 務に精通した准尉上りの国本少尉と、若い学生風の金子伍つることを同じようにおそれたのは部隊経理室であって、 らよ ) 長の下で勤務したが筆写や師団への報告書をかく場合などことにその中心である中堀中尉だった。以前そこに一年近 にはとくべつに引きだされて、筆をとらされたり、複写をくも勤務していて、特に金子伍長の下にいた木谷が取調べ つごう さされたりした。しかし彼は互いに対立していた林中尉とをうけるということになれば、経理室に都合のわるい秘密 中堀中尉のいずれの側にもそれほど深い関心をもちはしなが検察官にもれるおそれがあるからである。木谷はなかな かこのことに気づくことができなかった。それ故に彼は中 かった。またこのいずれからもはげしく憎みとおされると いうようなことはなかった。しかしいまから考えてみるな堀中尉が金子伍長をつかってじつに彼のためにほん走して らば経理委員を追われた林中尉から、たしかに彼もまた中くれたときには意外にも思ったがまた感謝した。木谷は金 堀中尉の一派に属するものと思われていたにちがいなか「子伍長、国本少尉の下働きとして事務的には中堀中尉に間 た。中堀中尉があれほど木谷のためにほん走するようなこ接に接するだけで、それほど特別な関係はなかったから。 とになってからは、それはなおのことたった。そのためにしかし中堀中尉は自分の身の安全をはかるために一生懸命 彼は林中尉に憎まれてついに送られなくともよい軍法会議だったのだろうが、最後まで根気よく木谷のために師団の
ごらよう わけにはいかないと言った。金子伍長がかけつけてきたのっていると説明したが、このことについては絶対に林中尉 は、その翌日の夕方のことだった。 にさとられないようにしないといけないと注意した。彼は 曹長室にとじこめられている木谷のために甘味品をもって きてくれ、熱いお茶をとってきてはのませてくれた。それ かくり 木谷は最初は金子伍長が自分のことで中隊にやってきたは隔離されてひとりになっていた木谷の胸にしみとおっ りしたのが意外だった。それは予想することのできないこた。金子伍長はいつも木谷のところにきている間、林中尉 がやってきはしまいかとびくびくしていたが、そのなかで とだった。しかし伍長が心配してわざわざきてくれたとい もちろん じゅん、 うことは勿論うれしいことだった。金子伍長は准尉に案内林中尉が一体何をいったかをしきりにききたがった。木谷 そうらよう は金子伍長がかえってから准尉の口からも中堀中尉が特に されて曹長室の木谷のところにやってきたが、事件につい てくわしくききとると言った。「木谷、お前、ほんまに厄彼のためにほん走してくれていること、しかし中堀中尉は 介なことをやったな。あんな林中尉にかかわったりしてか主計将校であるから実際にはこのような他中隊の兵隊のこ とにロ出しすることはひかえなければならない立場にある らに、どないするのや。」彼はうつむいたまま黙っている のだから、絶対にだれにももらしてはならないという注意 木谷の肩をにぎって声をひそめていいつづけた。「なんで、 あんな林中尉みたいなやつにちょっかい、だしたりしたんをきいた。 おれ 中堀中尉はその翌日金子伍長をともなってやってきた ゃ。金がほしかったら、なんで俺のとこにいうてこん ? ー 准尉はその言葉をきいてきかない風をしていた。伍長が、このときには中隊長がさきにたって案内した。彼はし は、中堀中尉殿もお前のことを心配しておられるぞと木谷つものように冷たい眼でみて特別に木谷に感情を動かすと いうことはなかった。「わるいことをしたやつだが、計画 にったえたが、林中尉は一体木谷をどうしようといってい るのかくわしくきいた。そして彼は中堀中尉にお前のこと的にやったのでもないのだから、よほどよく考えてやって やらんと、かわいそうだそ。」彼は木谷の前で准尉に言っ をよくはなして、中堀中尉のカでうまくうちわですむよう にしてもらってやるというのだ。彼はやがて准尉に耳打ちた。「そうむやみに罪人をつくってみてもしようがないや してでて行ったが翌朝はやくふたたびやってきて、中堀中ないですか。それより一一度とそうならんようにして、一生 尉も自分のいうことをきいてくれて、お前の隊長にも説懸命にはたらかした方が軍にとってもなん・ほええことかわ き、隊長から林中尉によくはなしてもらうということにな からんと自分などは思うな。」勿論隊長も大いにこれに賛
とらえるということができなかった。もちろん彼は、いま野戦行きの人選のなかに入れてくれという要求が准尉に対 ではこの木谷という男が自分と同じようにはっきりした反して出されていて、それを准尉が大体承諾させられている 戦的な社会主義的な思想をもっているなどということは考ような形だった。 ・ : そら准尉さんの えることができなくなってはいたが、しかしやはりただ彼「准尉さん、骨折ってもらえまんな。・ せっとうはん を窃盗犯として考えるなどということもできなかった。 ことやから念をおすまでもないことでつしやろが : : : 」太 : しかしもしいま木谷がその前歴が班のものにもれたこい声が少し高くなっていったが、男はわらっているようだ とについて自分を疑っているとすれば、できるだけはやくっこ。 その疑いをはらさなければならないと曾田は考えたが、そ「そんな勝手なことをいまごろもちこんできたって俺は知 のためにも部隊にかえってきた二中隊にいる林中尉がはたらんそ : ・ 。そんなもんが、こっちの自由にならへんやな して木谷のさがしているあの林中尉であるかどうかをしら 。どんな話かおもたら、また、そんな話もってき べたうえ、それを木谷にったえてやりたいと思うのだ。曾やがる : : : 」准尉はどこまでも声をおさえて冷静だった。 からだ 田は中隊当番に熱い茶をもらって身体をあたためながら考「そんな准尉さんの自由にならへんもんが、中隊のなかに えていたが、もう一度犯罪情報のなかにでていた林中尉のありまっかな : 。そうじらさんとやな、やったんなはれ ことをしらべてみようと思ってこっそり陣営具倉庫のなかよ。」 にはいって行ったが、静かな空気のなかにったわってくる「うちのおやじを、金子さん、あんたもしってるやろ : 隣りの隊長室からもれてくる声のなかに木谷という言葉がよその中隊とはわけがちがうからな。この頃じゃ、こっち あるのでぎくっとした。すでに隊長の馬は隊長をのせてかのやることに一つ一つ注文をだしてきよらんことがないが よ : こんな苦労は俺が軍隊にはいってからはじめてや えって行ったのにと思って耳をすますと、それはたしかに じゅんい 帯准尉とたれかの声だ。木谷をどうとかこうとかいっているな : : : 」 地のだ。そして二人の口調が全くへだてのない、兵隊同士の「そらようわかってますがな : ・ あの隊長のことはな。 やりとりのようなところからみれば、准尉の相手は准尉かしかしそやからいうて、准尉さんにできんということもな 真 そうらよう 曹長か、そのような階級のものとみなければならなかっ いでつしやろ。兵隊の一人や一一人 : : : 」 た。曾田はしばらく身をかたくして壁ぎわによっていった「そら、こっちゃ、どんな隊長がこようが、そんなこと、 が、ようやくききとった話の内容は、木谷一等兵を今度のこたえるわけやないけどな : : : 木谷利一郎を動かすのは、
要員になったというのも別に彼の方で望んでなったもので外泊をあたえて家へかえらせるといっているところもある もない。それは命令だった。・ : しかしそのような理由づのに、なぜうちでは発表しないのかときいたが、曾田は発 けがあるにしろ、彼は准尉の決定が実現されるように規定表は明日准尉さんがやるでしよう、自分らにはほとんど何 で定められた書類を作成するために自分の時間をささげてもわからないと答えるほかはなかった。曾田は吉田班長が いるのだ。もちろん彼がやらなければいずれ誰か他のもの兵器を渡す準備の都合があるから、はやく自分にも連絡を がやるのだといったとしても、いま彼は自分でそれをやっとってもらわんとこまるというので、それは大体昨日か今 ている ! 日かに班長会議をひらいて准尉さんが各班長に相談する予 定になっていたのだが准尉さんが休んだので明日になるの ではないかとったえたが、吉田班長が知りたいことという ・ : 曾田はようやく立ち上ったが机の横にひろげた日々のはそんな兵隊の移動のことではなく、むしろ下士官の移 命令の綴のなかに、林中尉という文字をみつけてびつくり動のことなのだった。そして彼は曾田が下士官は別に野戦 した。林中尉 : : : 林信一一。たしかに木谷が話した林中尉と行きはないといってもなかなかそれを信じようとはしない いうのも名前は信二だった。曾田が注意してよもうとおものだった。 ってそのところをたどっていると不意に事務室の戸があい 「曾田よ、そんな、かくさんでもええやないか : : : ちょっ おれ てひょいと顔をつきだしたのは吉田班長だった。しかし曾と位この俺にいうてくれたってええやないか : : : え : 田はそれにかまわすに命令の林中尉のところをよんだが、 また新品の帯皮がきたらまわすがな。」吉田班長は言った。 それは陸軍中尉林信一一が金岡陸軍病院から退院してきて、 「いえ、別にかくしているわけではありませんです。」 一一中隊付になるという内容たった。曾田は准尉がいないの 「いくらかくしていないいうたって : : : もう、他の隊では まで 帯をたしかめた吉田班長が自分のところにやってくる迄に机下士官の分の人選もおわってやな、 ・ : やはり外泊で家へ 地の上を片付けてしま 0 たが、彼の予想したとおり吉田班長かえ 0 てるもんもいよるんやぜ : ・ : ・それをお前、この俺に も兵隊と同じように彼のところに野戦行きの人選をさぐり かくそういうたって : : : な。」 真 にきたのだった。吉田班長は准尉があらわれはしないだろ曾田は下士官の野戦行きがあるのは小銃中隊だけで、機 うかとびくびくしていたが、一体今度の野戦行きの兵隊の関銃中隊と歩兵砲中隊とには下士官を差出すようにはいっ かししゅう 人選はどうなったのか、もうすでに他の中隊では発表しててきていないといったが、それでも吉田班長はいま下士集 つづり いったい
ばかりではなく、ただの短い注意さえ与えようとはしなか「何だよ : : : ちょっと、待てんか ? 」本部勤務者達のぜい せんばう った。さらに腰掛けていた木谷が立ち上ってした室内の敬沢と誇りであり、各中隊の羨望をそそる副官室のお喋りと だんろ 礼に対するまともな答礼さえしなかった。「ううーん」と暖炉とを恋しがって集ってきた勤務者たちに取りまかれて 彼は鼻のところで言った。しかし木谷は准尉を固い人間だ いた連隊副官は長い間二人をまたせておいて、時々振り返 こうかっ あた と思った。木谷の大きな眼は狡猾そうに准尉の頸筋の辺りった。彼は他のもののもっていないビロード張りの回転椅 をちらちらながめた。 子に体をくずして腰掛けていた。彼は副官勤務にいかにも 「ケー。」衛兵所の控えの兵は一斉に起立しながら、ロをふさわしく世谷的で柔和だった。 あけた。准尉は直立している衛兵司令の方をちらとみて、 「ホ隊ですが、木谷利一郎をつれてかえって来ました。」 そちらへ近よって行った。「ホ隊だが、つれて行く : ・ にちにちめいれい 准尉は声をおさえて繰返した。 日々命令廻ってきてるだろう : : : あいつ。木谷利一郎。」 副官の前の黒いスト 1 ・フには火がもえていた。副官は、 「直レ : はあ : : : きています : : : 通「て下さい : : : 休顔だけそちらに向けて、何も言わなからた。彼の顔の上に へんじようか メ。」衛兵司令は向き直って言った。 すで は笑いの跡がのこっていた。准尉の後に編上靴を右手にも 既に経理室の建物はすぐ右手のところにあ 0 た。そこにち頭をたれて姿勢をつく 0 ていた木谷は火をみながら、帰 は木谷の憎しみの交った思い出がこめられているのだ。 ってきたと思っていた。ここは二年前彼が逮捕されて憲兵 衛門をはいった引率者と木谷は准尉のうしろにつったっ隊に留置される前につれてこられたところだった。そのと て手続きが終るのを待っていた。 き彼が申告した副官は大尉だったが、いま副官は中尉だっ す、ま 「よし、通れ。」衛兵司令は改めて、一一人に向かって強い た。ストー・フの火口の隙間からもれる火をみる木谷のうち 言葉をかけた。准尉は一一人の方に顔を振った。「よし、俺には、もはや一一年前とちがって別に恐怖はないのに、警戒 帯といこう : : : 内村、御苦労 : : : 先にかえってくれ : : : 木谷心のために肉体的なおびえが生れていた。・ : : ・左横の事務 地は俺がつれて行く。」二人は左手の連隊本部の一一階〈上 0 机の列には曹長たちが体を机の上にのり出して、複写紙を ていった。一一人は曲りくねった事務室の一番奥のところま重ね合せては、大きな・フリキの下敷を動かした。彼等は兵 真 まかくゆ ではいって行った。 隊用の靴下を何枚も重ねてはき、当番兵の革油で十分手 じようか 入れをした皮の薄い上靴 ( スリッパ ) を机の下ではいてい くび くっした
ていくら隊長の言葉でもうけられんいうてつつばねてやっ金子軍曹という男が、あの木谷のいう金子軍曹かどうかを たんやが : : この隊長の方を受けておいて、その代りに木たしかめなければならないと考えて、彼はなおしばらく倉 あざけ 谷の方を出してみるか。」と准尉がいくらか嘲りのまじっ庫のなかでたちつくしていた。彼はその間に音をたてない た調子でいっているのがきこえた。 ように書類をくって林中尉のことをしらべてみたが、前に 「そないして頂けたら、これにこしたことおまへんが : みたときにも林中尉のことは余りかいてなかったという記 准尉さん。」金子軍曹が言った。 憶の通り、やはりそれによって二中隊にかえっている林中 「面倒なこともってきてからが、一体この代りになにがあ尉が木谷のめざす中尉かどうかをたしかめることはできな るというんや : 。また砂糖位じやすませんそ・ : : ・」准尉かった は言った。 しばらくすると隣室の二人の話は次第に声高くなって、 寒さのためにちちんでいる曾田の体はいよいよかたくな二人がたちあがり出て行く音がしたが、曾田がすぐに後を って行った。木谷は野戦行きのなかに入れられることにな追うて行こうと思って出ようとすると、やがて金子軍曹を るのだ。曾田は先日からこのようなことになりはしないかおくりだした准尉の足音だけが引き返してきた。 すで とおそれていたのである。既に決定していた野戦行きの人「おい、だれかいるのか、倉庫の戸があいてるが : : : 」准 選が、その間ぎわになって変更されるということはいまま尉は言ったが、大きな声で中隊当番をよんだ。・ でにもよくあったし、その本人が輸送指揮官の手に移って 、中隊当番、中隊当番 : : : 、陣営具係に倉庫の戸をしめ からでさえも、取消しや交代のでることがときにはあったさせておけ、おれはもうかえるそ : もらろん のである。勿論これは部隊本部、医務室、隊長の指示によ 十二 ることが多かったが、しかしそこに疑惑をさしはさまずに 帯はいられぬようなものをこれまでにもよく曾田は感じとら准尉が帰るとすぐ曾田は陣営具倉庫からとびでて二階へ 地されたのである。彼は今日午後准尉の家で内村の父親に出あが 0 て行 0 たが、考えてみるともはや木谷を救う道はな 会ったとき、木谷に危険がおとずれたことを知ったのであ いのである。明日曾田は朝はやく准尉から転属者名簿の一 真 るが、それはいまや金子軍曹の申し出によって実現される部変史を申し渡されるだろう。すれば曾田たちは一日がか のだ。曾田はすぐにもここをでてこのことを木谷にったえりで、また書類のつくりかえをやらなければならないので てやらなければならないと思ったが、やはりもう一度このある。曾田はこれまで何度かこの書類のつくりかえのため
じゅんい は班長にむかって言った。「大住班長、お前はこれからこ 「准尉殿、すみませんです。」二人は声をそろえて言った。 の二人を十分みてやらなければいけないそよ。」 「隊長殿をおよびしてくれ。」准尉は言った。彼は隊長が はいってくると隊長の前に一一人をならばせておいて、これ「はつ。」班長は言った。 から処罰をいいわたすと静かな声で言った。彼は染一等兵「すぐに営倉の衛兵を中隊から準備し、衛兵所に営倉入り えいそう の営倉入りと安西一一等兵の外出止めをつたえたが、彼は突が一名あると通知してくれ。」准尉は曾田に言った。曾田 然声を大きくした。 は染の態度が立派なのに安心した。 , 彼の衛兵所に連絡に行 「染一等兵、お前のしたことはこれ位の処罰ではすまんく足もそれほどおもくはならなかった。曾田は衛兵所に行 おれ ぞ。染、ふたたびこのようなことがあっては俺は絶対に許ったついでに、かえりに二中隊まで行ってちょうど外にで さん。」「安西一一等兵、お前の外出止めの処分はこれがお前 てきた古い兵隊を三人ばかりつかまえて、林中尉というの のしたことにたいする相応の処分だと思ってはちがうぞ、 が最近病院からかえって中隊づきになっているかどうかを お前がまだ一人前の兵隊にな 0 ていないが故に一応の処分きいてみると、たしかに病院からかえ 0 てきた林中尉とい ですませるが、染とお前の行動はどちらも同じ処罰にすべ うのがいるが、なんでも近いうちに満州の方へ転属になっ きものなのだそ。」 て一人で出発するという話だった。しかし彼らもその林中 准尉の荒々しい声は二人の身体をすくませたが、隊長も尉が以前経理委員であったかどうかということは全然しる またその声によってどぎもをぬかれたようだった。いやそところがなかった。曾田はそこでできれば将校室をのそい の准尉の声は隊長をおどしつけるのが目的であったのかもてみようと、近よって行ったが、将校が出入りするたびに しれないのだ。 少しばかり部屋のおくがみえるきりで、はたしてそこに彼 「染、敬礼しないか、隊長殿に。」准尉は言った。染は敬のめざしている林中尉がいるかどうかということは全然し 礼の号令をかけた。 らべるなどということはできなかった。 隊長は一一人の敬礼をうけたが、身体をうしろにそらせ 九 て、一一人の処分、准尉の申しわたしたことをもう一度くり しよう かえした。 染と安西の処罰は中隊内にたちまちひろがって大きな衝 げき コ一人とも、今後、よく注意するのじゃぞ : : : 」隊長は撃をあたえたが、処罰をうけた一一人を迎えた班内は異様な : ・兵隊たちには染の方に重い処 「じゃそーという芝居のような言葉をつかった。そして彼空気につつまれていた。・
班内だけでなく中隊内にひろくひろがってしまっているこはないと考えるのではないかと考えられた。しかしまた木 とを考えて、ねむれなかった。彼の胸には地野上等兵にた谷がこのような想定を打ち消そうとする根拠も一つだけは いするはげしいいかりがたぎっていた。しかしそれを力をあった。それは彼が現在仮釈放の身であるということだっ 加えておさえていると、再び自分が野戦行きの一員に加えた。それ故に彼がこのような身である以上、彼を転属させ られるのではないかといううたがいが、もちあがってくるたり、他部隊へ動かしたりするということはただたんに准 じゅんい のだ。彼の頭にちらと通りすぎる一つの考えは、准尉が或尉の一存によってできることではなく、師団司令部の許可 いは自分が夜逃亡することをおそれて、それをふせぐためがあってはじめてできることである。しかも彼の仮釈放の に手配しているのではないかということだった。たしかに期限はまだあとかなりの日数がある故、一、一一週間できれ るなどということはないのだ。木谷はこのことを考えて自 そうかもしれない : 。実際、俺はいまではこの班の、 やっかい やこの班ばかりではなく、この中隊の厄介者ではないだろ分は決して野戦行きの人員のなかに加えられることはない と考え込もうとしたが、しかしやはりそれで安心するなど うか : : : と木谷は考えて行ったが、もしそうだとすれば、 彼の野戦行きは、しし 、よ、よ可能性がふえてくるように思えということはできなかった。すると彼の乱れた心のなかに ちらとひらめくようにして浮んでくることは、もっと野戦 るのだ。 たしかに准尉が彼を野戦行きの要員のなかにえらぶ可能行きのことについてただ曾田にきくだけではなく、他のと ころでさぐってみなければならないということと、いまの 性は大きいのである。野戦行きのなかに組込まれるのも、 それはいつも中隊にも 0 とも役立たないものであ 0 て、人うちにあの林中尉をはやくさがしだしてしまわなければな らないということだった。もしも彼が野戦行きのなかに加 事係准尉はそれによってやっかいばらいをするのである えられてしまったなら、彼が刑務所で考えていたことはす が、いま准尉が一番のそんでいるやっかいばらいといえ べてなにもかも消えてしまうのだ。もはや林中尉に会うこ ば、自分のほかにはないと木谷は考えなければならなかっ とはできないし、花枝をつかまえることもできなくなる。 た。彼は中隊人事係がもっともあっかいにくい刑務所がえ それではすべてはおしまいだ。あの林中尉の野郎が軍法会 りである。それに彼はすでに帰隊してから二週間に近い そして今度の野戦行きの出発が或いは一週間先とするなら議で一体どんなことをしたかをといつめてやることは夢の ば、彼が刑務所内でいためつけられた身体と心は、もう回復ようなことになってしまう。やつが検察官をうまくまるめ したものとみられ、准尉は野戦行きが木谷にとって無理でこんで、どんなことをしやがったかを白状させてやること