弓山 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 39 野間宏集
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1. 現代日本の文学 39 野間宏集

り危いか ? 」 れもただ自分がなぐられるということが恐ろしかったがた 「さあ、そんな危いいうことはないと思いますけど めなのだ。曾田の頭にそのような過去のことがちらと通り 弓山は言ったが、それは少し前に機関銃中隊に所属した学すぎたが、「安西の家はなにしているんやったかしら ? 」 徒兵が便所のなかで首をくくって死んでいた事件をさすのと彼はきいた。 だった。「不寝番の方は自分が安西と交代してもよろしいけ「さあ、はっきりはしませんですが、どこかの会社の部長 ど。」弓山は言った。彼の顔はそれを言ってしまって赤くとか、課長とかいうことです。」 なったが、曾田はそれには全然気がっかない顔をした。曾「会社の重役なの ? 」 田はしばらくの間だまったままでいたが、実際軍隊でひと「さあ、それはどうかしりませんが。」 「そうか。しかし安西は毎晩、残飯すてばのところにつき の勤務を自分から代ってかってでてやるということは、ほ きりで残飯をかきわけているという話やな。」 んとうにできがたいことだったので、彼はつよく胸をつか 「はあーー」 れたのである。曾田自身ならばそのようなことはできない 「ほんとうか。」 ことだと彼は考えた。曾田はようやく弓山はどこの学校だ 「はあーーー」 ったのかとたずねようとしたが、それと同じ問を以前した ときに弓山が xx 大学ですと、たしか私立大学の出身をは「お腹すくか。」 じていたのを思い出してやめにした。しかしどうして弓山「はあ、すきますけど、辛抱できんということはありませ はそのようなことをここにきてまで恥したりするのだろうんです。」 くちびる か。曾田はもしも学徒兵のなかにこの弓山のような人間が「そうかー・ーー」曾田は言ったが安西があの厚い唇をとが 一人もいないとすれば、大学生たちに絶望するほかなかつらせて残飯すてばのところをうろついているのを想像する 帯たろう。いやしかし絶望という言葉をこのようなところにと彼の身の内は冷たくなった。ああ、しかし木谷は刑務所 地 使うとすれば、彼はこれまで軍隊内の自分自身に幾度絶望のなかで、小石と紙とのりを食ったと話したし、彼自身も 真してきたかしれないのだ。彼自身、兵器手入具を失「たと大陸の戦場で、まるで残飯あさりどころか拾い屋とかわる き、それを隣りの班の兵隊からぬすみだしただけではなところはなかったではないか。 く、自分の班のものからぬすみだし、そのためにそいつは「安西は、学校では秀才だったそうです。二班に安西と同 っ 0 顔がはれあがるほどなぐられたではないか : 。そしてそ級のものがはいっていて、いうてましたですが : : : 」弓山 なか

2. 現代日本の文学 39 野間宏集

410 「はあ ? 」 ひふく 呼後、転属者は転属の被服を支給するから取りにくるよう「やめとけいうてるんや。」 にという被服係班長の指示があったにかかわらず、その方「四年兵殿、自分いま、手があいておりますですから。」 。弓山、それより俺に話さんか。え、 はってただちに班をぬけだして、射てき場の後の土をほ「やめとけ。な : ・ りに行った。彼はかくしてあった金を全部とりだして身にお前もすきな女がいるのか。」 つけると、すぐまた経理室と炊事にかけて行ったが、やは「好きな女というて ? 」 え、いるやろ・ : : ・な・ : ・ : 」 りまだ金子班長はそのどちらにもいないのだった。彼は重「いるやろ : : : な : ・ い足どりでしかも後から追われるもののように、班にかえ 「はあ : : : 」 ってきた。すると彼の寝台の上には、誰かが彼の代りに倉「いくつや ? ー じゅばんこしたくっした 庫から受取ってきてくれた新しい軍服、襦袢、袴下、靴下「十八でありますです。」 がつまれてあった。しかもその襦袢にはすでに黒糸でキタ木谷は弓山の眼をふせた顔をじっとみたままだまってし ニと名前がぬいこんであり、軍服の裏地には墨汁で彼の名まった。 : : : 彼はまた急にたち上ると弓山にそんなもん、 前がかきこんであった。自分のためにやってくれるものなもうせんでもええぞといいのこしたまま、また炊事と経理 ど一人もないだろうと思っていたのに、一体誰が ? と思室へ行ったが、もちろん今度も金子班長をつかまえること せおいぶくろまき、やはん っていると、弓山一一等兵が今度は新しい背負袋と巻脚絆、はできなかった。彼がかえってみると、初年兵たちは、補 ざっのう みやげ 雑嚢をかかえてかえってくると彼のところへやってくるで充兵のもってかえってきた土産物をもうたべてしまってそ はないか。木谷は涙をうかべた。弓山はそれを置いて、つろそろ荒れはじめてきた三年兵たちにねらわれていた。三 けいたいこうりよう えいそう づいて携帯ロ糧、塩、携帯燃料、帽子、靴などをはこんで年兵たちは、「お前ら、今日染が営倉からかえってきたの あいさっ きた。ああ、時間はせまるのだ。 に挨拶をしたか、だれか挨拶したやつが一人でもいるか、 せんたく 「お前か ! 弓山か。」 染が、営倉で、着てる服どろどろにしてきてんのに、洗濯 「はあ、自分、手があいておりますですから、四年兵殿、しようと申しでるものが一人もおらんのか。」というので 他にすることがありましたらその方をやって下さい。これある。 しゃぜん は自分がやっておきますから。」 舎前の地野上等兵のところに集った初年兵たちは一人一 「弓山、そんなもん、ほっとけ、な。」 人染一等兵の前にたたされ、わびを言わされた。

3. 現代日本の文学 39 野間宏集

「ばかやろツ、また、うそっくか。 : : : 部隊本部にお前の 「弓山、イタリアのこと知ってるか。」曾田は弓山の方に 面会人は、今日は誰もきとりはせんぞ : ・ 身をよせながら声をひくくしていった。しかし彼のいおう 「はいつ。」安西は言ったが、彼の身体のふるえは異様にとするところは相手にはなかなか通じないようだった。 「イタリアでえらいことが起こってるの知っているか。」 はげしく、彼の腰はくねった。 「おい、弓山、つれて行け、つれて行って小便さしてやれ「はあー。」 曾田は弓山と自分との間に、三年兵と初年兵という軍隊 ・ : 」大住班長はどなった。すると安西は、「はいし のへだたりがおかれていることがもどかしくてならなかっ ・ : 」といいながら、前を両手でおさえて、幾度か 腰をくねらせながら出て行ったが、曾田は、みていて、どた。 ある うしてもそのあとについて行かないではおれなかった。或「イタリアのファシズムが動揺している : : : 」 いは安西がふたたび便所のなかで、異常なことを起こしは「はあー。イタリアで : : : ? 自分たち新聞よんでいる時 しないだろうかとおそれたからである。それ故に彼は途中間が全然ないので、外のことがどうなったかも、なにもわ 階段のところで安西が倒れて、ああ、出るう、出るうと前かりませんです。」 「そうか。軍隊はえらいところやろ。」 をおさえたときよりも、便所のなかへきえていったときの 方がはるかに心配だった。しかし安西がそこからでてき「はあー、こんなところとは考えていませんでしたです。」 て、はじめてゆるんだ顔をみせたとき、彼もまたようやく 「三年兵殿、自分はどうかされますでしようか : : : 三年兵 心のゆるむのを感じて笑いがうかんできた。彼は傍にたっ殿。」横から安西一一等兵が顔をよせるようにして言ったが、 て安西を待っている弓山をふりかえって、ほほえんだが、そのふるえている声は曾田に対する甘えをふくんでいた。 れいこく ほお 「そらされるやろう。」曾田は冷酷に言った。 寒そうな紫色の頬をした弓山の顔が、安西の事件をわがこ 帯とのようにはずかしがっていることを示す奇妙な笑いを笑安西の体はぎくっと衝撃をうけてとまったようだった。 地 うのをみた。安西は手をかじかませて、それに息をふきか「そしたら、やはり処罰をうけますんでしようか。」 真けながらでてきたが、こうしてひとのいないところでは彼「うけるかもしれんな。」 はいたって元気なのだ。三人はだまったまま二階に上って「処罰をうけるとすれば、どんな処罰をうけることになり 9 行ったが、ああ、この安西、軍隊のなかにとらえられた安ますでしようか、三年兵殿。」 西は可哀そうだった。 「そうやな : : : それはどうなるか、俺にはわからへんけれ

4. 現代日本の文学 39 野間宏集

は言った。 「ほんとのこと言うてもええやろう。」 「そうか。そうかもしれんなあ。 : : : 」曾田はいいながら「はあ 向うの三年兵のかたまっている辺りをうかがったが、三年「俺にも言えんか : : : ー曾田は首をのばして相手の胸元に 兵たちは、はなはだしく気勢をそがれてしまって、熱い湯額をおしつけるようにして、ちょっとその顔をのそきこん やかんまた のはいった薬罐を股にだいたり、互いにくらいっきあった だが、相手のととのった顔はまぶしそうに眼をしばたたく りして、寝台の上にちちまっていた。弓山も同じようにそだけで、相手がほんとうのことを言わずにいるのか、それ の方をみたが、彼はこうして曾田と話などしていたらあととも別にいうべきものをもたないのかはわからない。 で三年兵の・ハッチがとんでくるにちがいないとおそれてい 「将校になってしまえば、君らは、またらくになるけどな るのだ。 ・ : 」曾田は君という言葉をつかって言った。 「弓山とこはお父さんがないんやろ。」 「別に自分は将校になりたいなど、思いませんです。」弓 「はあ、おやじがはやく死んだもんで、母がはたらいてく山は言ったが、その言葉のなかには、つよいものがあっ れてますです。」 た。「でも、家の事情で : : : 」 「何してられるの ? ー 「そうか。」曾田は言った。彼は改めてかたい声で相手の 「はあ、ひとを置いて、下宿屋のようなことをして、やっ名をよんだ。「弓山。今日、昼、ちょっと、話したけど、 てるんですけど : イタリアのことな、あれのでてる新聞あるよって、貸す 「それで、やって行けるか。」 「ああ、そら、いつまでそれでいけるかわからしませんけ曾田は後の手箱の横からとっておいた新聞を取りだし て、あとでよんでみるようにと言って渡したが、彼は班の しよくぜん 「そうか : かえりたいやろ。」 入口に補充兵の内村が、班長室からさげた班長の食膳をも 「はあ、でも、自分ら、まだはいって二カ月にしかならしってはいってきたのをみつけて、たちあがった。内村は曾 ませんのですよって : : : 」 田の方をみて、につこりとわらうではないか : 。あいっ 「弓山。 : そんなこと言わんと、ほんとのこと言えよ はまた何か自分に持ってきたのだ、菓子か、大福か。その じゅんい 内村の顔のあの昼間准尉の家でみた父親の顔とにているこ 「え ? はあ と ! 内村はたすかったのだ。たしかに内村は、うまいこ おれ

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174 されようとしていた。曾田は、学徒入隊兵の班内に於けるして行った。彼が便所の窓ごしに見たのは、斜め左の高い すがたを、じっとみているということができなかった。そ射てき台の裏側にたちならんだ杭のところにかがみこん れは彼の心をこまかくふるわせた。彼等は軍隊の生活のなでじっとしている木谷の姿だった。 , 。。 彼よよっとして眼をみ ちょうど かで、余りにもはやくほとんど自分自身を失ってしまつはったが、注意してみるとそこは丁度一方は射てき台の土 た。彼等はみるみる自分のなかにもっている弱点をあらわ砂くずれをふせぐために板と木で頑丈な壁が組み上げてあ り、そのうしろにさらにポ。フラの大きい木が三、四本植え にした。すると、曾田の心には、このようにして人間のな かから無残にもあらゆるものをあばきたてる軍隊に対するてあり、その木の根っこにしやがめば、射てき台の斜め右 けんお にたっているこの便所の辺りから眺めなければその人間を 憎しみと共に、彼ら大学生に対する嫌悪感が湧き上ってく ほとんどみつけることができないにちがいない。そしてな るのをふせぐことができなかった。そして弓山は彼らのう ちで、そのような自己を失うことのない非常に少ない兵隊おもよくみていると、木谷はたしかに両手をうごかしてポ のうちの一人だった。 。フラの根元を掘り返しているように思えるのだ。 ま、きやはん 弓山はようやくとりはずした巻脚絆をまきにかかオ っこ曾田一等兵は小便をすませて、彼から帽子と靴とを受け とろうと待っている染に向かってこえをかけた。 が、返事はしなかった。想像してきたところとは全然ちが うという感想は、この弓山がすでに半月ほど前に曾田にも「おーい、染、もうしばらく、帽子貸してくれ、それか じようか らしたところだった。しかし弓山はそれから先に出ようとら、そこにぬいだ俺の上靴を事務室の中隊当番のところへ おいといてくれ。」 はしなかった。曾田はそれ以上弓山を追跡はしなかった。 せっしよう 彼は、「軍隊というところは真空管だぜ」とひょいと自分染一等兵は、「三年兵殿、殺生な : : : 」といいながら、 の口から出しそうな気がしたが、やめにした。彼はそこへ最後には「よろしま。」といって、上靴をとりあげて姿をけ 馬手入れの袋をぶらぶらさげてもってかえってきた染一等した。 兵に声をかけて、靴と帽子をかりた。 五 「染 ! おい、ちょっと、帽子と靴とかしてくれよ : : : 」 「よろしま。」染一等兵は言った。 曾田一等兵はすぐに射てき台の裏のところにかけつけよ さぎんか 「三年兵殿、これでよければ。」弓山一一等兵は言ったが、 うとしたが、途中の山茶花の木の下をくぐって向う側にぬ 曾田はもう染一等兵の帽子と靴をはいて便所の方へかけだけでてしまおうとしたとき考えを変えた。彼のすぐ斜め前 くっ

6. 現代日本の文学 39 野間宏集

曾田は自分の机の引出しのなかにまずそのあずかり物を 十五 かくしておいてから木谷をさがしに行こうと思って事務室 におりて行ったが、木谷がはたしてどこにいるかその見当 曾田はもう一度酒保の辺りをみてみたが木谷をみつける がっかないままに二人の便箋、手帳をあけるともなくあけ ことはできなかった。そこで彼は班内にかえってみたが、 あて そこにも木谷はいなかった。彼は弓山に木谷がどこへ行ってよんでみると、弓山の手紙も安西の手紙もともに母親宛 たかきいてみたが、木谷は一度かえってきて、しばらくすのものであった。そしてそのいずれもおかあさんというよ びかけではじまっていて、曾田に自分の初年兵のときのこ るとまたでていったとのことだった。 「三年兵殿、新聞、ありがとうございました。もうよませとを思い出させた。 おかあさん。前の週にかえったとき、次の日曜日にも外 て頂きました。」弓山は先程の新聞を毛布の間から取りだ しながら言った。 出が許され家へかえれるように言いましたが、今度急に次 の日曜日には外出ができないことになりました。それは班 「よんだか、そうか。どうやった : 「はあ 、自分などにはわかりませんです : : : もう一一カの補充兵に野戦行きの命令がでて、そのために機密がもれ ないようにと部隊全員の外出が禁止されたからです。それ 月もゆっくり新聞もよまずにいると、ものを考える力とい でこの前かえったとき、相談をうけた家財の売却のこと、 うものがなくなって、自信がもてなくなりますです。」 そちらでよろしくお願いします。一度くれるといったお金 「そうかなあ : : : 」 「はあ、三年兵殿は、どう考えられますですか : : : 」弓山でありながら、いま頃になってまた返せといってくるな の眼はすでにおちつかなかった。彼はもう三年兵たちの気ど、いくらもののわからない伯父とはいえ、余りにもひど いやり方だと思います。それに伯父にはいま、家がどんな 配に気をくばらなければならなかった。「三年兵殿、すみ てんこ 帯ませんですが、点呼のときだけ、自分のかきかけの手紙あ状態だかはっきりわかっているはずなのですから。先日の 地 お話では、いま道具類をうりはらうことは、非常に損で先 ずかって頂けませんでしようか : びんせん 真曾田が弓山が手箱のうしろから出してきた便箋綴をあず祖様にも申しわけないことだからできることならなるべく かっていると、かけよってきたのは安西で、同じように彼そうせずに、もう一度伯父にお願いしに行くとの話でした 四もまた手紙を点呼の時間だけ事務室にもって行ってくれなが、しかし僕はもう、おかあさんに伯父のところへ行くな しかというのだ。 どという考えはすてて頂きたいと思います。なにもかもお あた

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しいかけたが、急に口をとじると、向うの方で「染、染」に服そうとはしなかった。彼は三年兵の前ではあらわに眼 、んしん としきりによんでいる用水兵長の声の方へとんでいった。をしょ・ほしょ・ほさせて謹慎の様をしてみせていたが、弓山 らくてつ 「染、群福が落蹄鉄したて ? おい、染、あしたあさ、すの言葉に対しては全く黙りこんで返事をしなかった。 ぐたのむぜ : : : 群福はうちの班の馬ゃないか : ・ 、お前す曾田は夕食後事務室へ週番士官が安西一一等兵の処分をど ぐ蹄鉄をうったれよーーおい、染。」 うするだろうかをうかがいにおりて行ったが、週番士官は いたす 安西の事件は班内にいつまでも尾をひいて残っているよむしろ安西を徒らに刺戟して逃亡させるようなことになっ うだった。初年兵たちに対する古い兵隊の反感はいまやばては、最初の学徒出陣に傷をつけることになるのでただそ くはっしそうだった。古い兵隊たちは外出後のだらだらしれをおそれているようだった。週番士官は週番下士官に安 た身体と心をひきずって一つ一つの動作にわざとのろのろ西二等兵に注意しているようにという命令をあたえた。曾 した調子をつけていた。三年兵たちはごろんごろんと寝台田はそれで安心してまた二階にあがってきたが、彼は弓山 くちびる の上にねころんで、互いにだき合いくすぐり合いうめき合とぐずぐず言い合って厚い唇をむき出している安西をみ った。初年兵はみな、いまにも自分たちの上にふりおちてた。曾田は安西のその姿にいかりを感じたが、それを本人 さっき きそうなはげしい罵声を予感して、おどおどと身体を動か にいう気にはなれなかった。彼は先刻染が木谷のことにつ せいとん し、班内の整頓をした。弓山一一等兵はいつものようにはか いて何か言いかけていて言い残したのは、或にひょっとす どらない初年兵のはたらきぶりに気をもんで、おい佐藤おると直接山海楼へでかけて行ってきたのではないだろう 前食器あらいに行け、おい、田川、お前、下士官室の掃除か、とそのことがずっと気になっていた。しかし夕食後か に行けとさしずしながら、自分は先頭にたって、兵器の手ら点呼までに染にはいろんな仕事があった。馬具の手入 入れをした。いつの入隊兵にも、いつも一人だけこうしたれ、手入れ道具の修理、ひきづなの修理など外出後の仕事 帯指揮をする兵隊がでてきて、同年兵を統率して自分たちをは多かった。そして染は曾田のところにやってはこなかっ 地 まもり、そのうける打撃を少なくする役割をはたすものでた。 らようど 真あるが、弓山は丁度いまその位置にあった。しかし彼はそ染に時間の余裕ができたのは点呼後のことであった。点 もちろん のためには自分が全身の力をし・ほって、みなが息をぬいて呼のときには週番士官の注意があった。勿論安西のことに いるときでも、たえず気をくばり動いていなければならなついてであった。・ : ・ : 安西二等兵の帰隊時刻がおそく、ほ いので、やせ細っていた。ところが安西はこの弓山の指図とんどおくれそうになったこと、そしてそれは本人が外出 からだ てんこ ある、

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糸のさぎに木谷の顔があるのにぶつかった。 た。彼はつかれて顔色がわるかったが、曾田の顔をみてひ 木谷が彼の班にやってくるまでは、彼の関心は主としてびくような笑いを笑った。 初年兵ーーー学徒入隊をした初年兵たちのところにあったの 「どうしたんや : : : ー曾田一等兵は言った。 だが、それがいまでは、木谷の方に移って行こうとしてい 「はあ : ・ 弓山は言った。「ちょっと、教練中に眼ま、 がしてきたもので : : : 。教官殿がかえって休んでおれとい 曾田一等兵は木谷が或いは便所に行ったのではないかとわれたんで、かえってきたんです : : : 」彼は曾田の方は放 田 5 ってしばらくまっていた。しかし木谷はなかなかかえっ って、前にかがんで巻脚絆をときにかかった。 てこなかった。班内ではまだ練兵休をとっている今井上等 「えらいやろう : : : ー曾田は弓山の両手の甲がひびわれと しもや うみ 兵がのこっていたが、曾田はその方へさきに行くという気霜焼けとが混合して、じくじくと膿汁をだしているのを見 もちろん がしなかった。彼は下士官室をのそいてみようと思った ながら言った。「大丈夫かーー」勿論それは、今後、軍隊 が、下士官室にはいるためには、やはり「はいります」と生活にもちこたえることができるかどうかといういみだっ いって礼をしてはいらなければならないと思うと、それもた。 じようか やめにした。彼はぶらぶらと上靴をならしながら階段を下「はあーー、大丈夫やろうと思います : : : 」 りて行ったが、ここまできたついでに、便所に行っておこ「軍隊て、こんなところや : : : 」 「ええ、わかってきました : : : 」 うと思って考えてみると、自分が帽子をもってくるのを忘 れたことに気づいた。しかし帽子をとりに事務室の机のと「どう解ってきた ? ころまでかえれば、一応、准尉に報告をしなければならな 「はあーー」弓山の体は元来大きくなかったが、それがや あた い。そうすれば、きっと准尉はもう木谷をさがしに行かなせて、肩の辺りが細々としていた。その顔は美しいとはい 帯くともよいというにちがいなかった。そこで彼はたれか初えなかったが、しつかりした鼻と、細いの線と、血色の 年兵がとおりかかればそれのもっている帽子を借りようとよい顔色をもっていたので、入隊した当時は生々した感じ 真思って、石廊下の裏手の便所へ出る通りのところでまってをあたえたのだが、いまはいつもほこりをかぶっているか いると、一番最初にそこを通りかかったのは、初年兵の弓のように、すすけてみえた。彼は初年兵のうちでもっとも 山だった。彼は裏の営庭の方から便所の横の葉のおちた桜しつかりした考え方と、そして自分に対する統制をもって ま、、やはん の木をくぐって、巻脚絆の足を引きずり引きずりやってき いる人間だった。そしてそれは最近いよいよはっきり証明 ある

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376 えいそう 営倉へ入れられてしもてまんねんやないか。 : : : 部隊でことはいってきた。 「あんなやっ、あのままにしといたら、ためにならしまへ : ここへはい れ以上のとこどこにもあらしまへんやろ。 ん : : : 、ずるうて、ただ自分のことしか、考えてしまへん ってしもてこれ以上いうたら刑務所だっしやろな : : : 」 「うん : : : そらまあ、そうだけど。注意した方がいいぜ。ねん : : : 」 : だれが飯もってきた ? 「うん、しかしな、あいつも、かわいそうやぞ、学校の中 つれてこられて、毎日のようにみん 「飯だっか ? 飯は弓山がもってきてくれよりました。あ途で、こんなとこい、 れのほかに、そんなことできる初年兵はいやしまへん : : : 」 なからなぐりまわされて : : : 」 「はあ、そらそうだす。しかしそう思うて、こっちも、あ 「そうか : : : 弓山がきたか : : : 」 いつらにいろいろしてやってたら、あいつら、大学生そん 「へえーーー大学兵でようできてるのは弓山だけだんがな。 なことぜんぜん感じんと、ただもう、ひとをだしぬいて自 ああ、うまいコーヒーでんな : : : 三年兵殿、 : うまいかーーー、体がぬくもるやろ ? もうひ分が楽しようばかり考えてまんのや。」 「そうか : えてしまったかな。」 曾田はくらい建物のなかからでてくる声だけに向かって いるのがもどかしかったが、その染にたいしてこれ以上こ 「いやーーー、体がほんまにぬくもりまんな : : : 」 染の語調にはたしかに、気勢を自分でつけているというのようなところで説明をつづけるということはできなかっ はんごう ところはあったが、彼が営倉に入れられて元気をおとしてた。横にたっていた衛兵がなかにはいって行って飯盒をと ってくるともうかえれと合図したからである。 しまっているなどということは全く感じられはしなかっ 曾田はかえろうとして言った。「染、どうしてるんや た。「三年兵殿、安西は、どうしてまー ? 」 「うん、班内にいるよ : : : 」 「三年兵殿、わるいけど、体がひえますよって、またねさ 「おとなしゅうしてまっか ? してもろうてまんねん。」 「ああ、おとなしゅうしてるな : : : 」 「あの野郎、ほんまに、ここ出たら、こんどこそ、足腰たすると向うで、ごそごそと靴が床をける音がした。 : それでな、染、ちょっ 「そうか。気をつけてくれ。 たんようにしてこましたろおもてまんねん。」 「うん。しかしな : : : 安西にしても : : : ー曾田は言ったと、ききたいことがあるんやけど、お前、木谷のことを班 が、染の安西に対するはげしい怒りは、曾田のなかにぐっ内のものにだれかしゃべりはしなかったか ? 」

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242 ていて、それには重い返事をした。 正しく取った姿勢をくずすことなく言った。曾田は弓山の 班内にはつつみ紙や紙くず類が散乱した。外出からかえ霜焼けでふくれ上った両手に新しい繃帯がまかれ、指ぐす あぶら せいとん りの脂がぬられているのをみた。彼はそれ以上弓山ともの った兵隊たちは外出着をぬいでおりたたみ整頓し、声高に 今日の収穫をはなしつづけた。勿論収穫というのは女のこを言いつづけることができなかった。彼は彼らが、同類を となのだ。初年兵が衛門の眼をかすめてもってかえってき彼のなかに求めようとしているのを感じた。「家で心配し こねんへい た菓子や煮ぬき卵、キャラメル、アメ玉などは古年兵たちたやろ。」彼は佐藤に向かって言った。佐藤の顔はくずれ の寝台の上にひろがっていた。初年兵たちは一時間前、あた。「はあ。」佐藤は甘えるような声をだして答えた。安西 るいは少なくとも四十分前に帰隊して補充兵とともに、タ二等兵の姿がみえないのが曾田の心にひっかかったが、そ ま - き 食準備、ストー・フの薪取り、馬手入れにでなければならなのとき染の大きな声が班内にしたので、彼はそのことを放 ってしまった。 かった。今日はいつの日よりも力を励まなければならなか った。外出した兵隊たちの手は今日はいつものようには動「染めえー、野郎、酔うてきやがったな。」舌を口のなか ていてつ で、ペろべろさせるようにして声をあげたのは、蹄鉄屋の きはしなかったが、残留して一日中班内にごろごろしてい た古年兵の眼は、彼等のあとを追いまわしていた。彼等は彦佐一等兵たった。 一週間かかってようやく手に入れ、そして半ば自由に伸し「三年兵殿、酔うてる ? あほらしい、飲んでるけども、 、ヘー。」染 てやった「自分」を、またまた、重いカでおしつぶされるあてが酔うたりしてたまるもんでつかいな は一一 = ロった。 のだ。 初年兵はストー・フをがんがんもやした。曾田がかえって「こいつ、また、大けえこと、こきゃーがって。」ぐりつ あいさっ 行くと、「おいー、初年兵、はよう曾田三年兵殿に挨拶せとした眼はしているが、ひとのよい彦佐三年兵は言った。 んか。ストー・フたいてあたってもらわんかー。三年兵殿は「おい、馬手入れみに行くよってな、はよう、服ぬいで、 したくしてこい、まってたらあー。」 今日は残留やぞ。」古年兵はさけんだが、曾田は初年兵か 、ひえー、馬手入れ : : : あ ら挨拶を受けるのがはずかしかった。しかし初年兵たちが「馬手入れ ! 三年兵殿 あわてて佐藤、弓山、次々とやってきたので、曾田は挨拶あ、なさけなやー。まだ、こっちゃあー、あての水与えも を受けないわけこよ 冫いかなかった。「ゆっくりしてきた ? 」すんでえしまへんねんぜー。」 彼はきいた。「はい、ゆっくりしてきましたです。」弓山は「水ぐらい厩へいけば、馬の水が一ばいあるわ、おい、 もちろん うまや