立の内的欲求によるものである。戦後、野間氏は、「学生 た絶対的な詩的世界を構築する」サンポリスムからの 脱出を意図する。そのとき、一つの方向を提示したの時代から戦争中、私はすっと個人の確立ということを かジイドである 考えてきた。私はその当時から学生運動、社会運動に 「アンドレ・ジイドの存在は僕の生き方を決定したと関係していて社会ということを考えなかったわけでは オし しかし私は社会運動そのもののなかにあっても 一一一一口える。もしも僕が亠月生・・時代にジイドに出ムぞっことが なかったとすれば、僕は今日の僕ではなかったにちが個人の確立というものが必要だという風に考えていた」 と回想している いない」とまで野間氏はいうのである。野間氏にとっ 野間氏が作家になろうという目的をもったのは旧制 てジイドは、『法王庁の抜穴』のラフカディオである。 にせがね 純粋小説論やその実践としての『贋金つくり』ではな中学時代からだといわれる。座談会「私はどうして小説 無償の行為である。自意識の密室に人間を押込め家になったか」の発言や、「読書遍歴」などによると、ま そくばく るのではなく、無限の自由が同時に無限の束縛でもあす夏目漱石の『草枕』『夢十夜』『坊っちゃん』『二百十日』 ぐびじんそう る無償の行為に、社会的実践へ踏み出す契機を発見す『虞美人草』などの初期の作品から読みはじめ ( 漱石 るのである。そして、一九三五 ( 昭和十 ) 年、三高かの後期の『道草』や『明暗』は、よみたいと思わなか 、、にざきじゅん じゅっかい ら京都大学仏文科へ進んだ直後、師の事故死にあってったと述懐されている ) 、中学の終りごろから、谷崎潤 まんじ ・、んび いちろう ショックをうける一方、積極的にマルクシズムへ接近一郎の『刺青』『卍』やオスカー・ワイルドなどの美 していったのであった。 派の文学を読んでいる。そして、高等学校へすすんで かわばたやすなり よこみつりいち サンポリスムを脱出して社会的実践へというコース横光利一の『ナポレオンと田蟲』『機械』、川端康成の初 は、それほど単純ではない。サンポリスムの影響を深期作品など、新感覚派の文学を勉強して、やがてフラ ンス・サンポリスムへはいってい くうけながら、思想的にマルクシズムにつなかってい ひとりの少年の文学的関心が、あくまでも唯美主義 くのは、それ自体内的分裂であろう。京大事件のあと、 政治運動にはいって いく ( まもなく弾圧によって運動的であった点は注目に価する。日本の近代文学を、自 は壊滅してしまう ) けれども、政治活動への参加は内然主義文学を中心にしてとらえる根強い文学史的常識 的分裂を強引に統一するというよりも、むしろ自己確 からみれば、異例といえよう。しかし異例の文学勉強 0 、一うちく 0
昭和七年 ( 一九三一 l) 十七歳 三月、北野中学校を卒業。四月、京都の第三高等学校文科丙類 ( 仏 語科 ) に入学。同学年に桑原 ( 現竹之内 ) 静雄、吉田正次らがいた。 入学後間もなく、理科一年に在籍中であった富士正晴を知り、その 紹介で桑原とともに、フランス・サンポリスム系の詩人竹内勝太郎 を訪ね、以後次第に深く傾倒するようになった。十月、竹内の影響 大正四年 ( 一九一五 ) 下に、富士、桑原とともに同人雑誌「三人」を創刊した。この雑誌 一一月一一十三日、神戸市長田区東尻池の発電所社宅で、野間卯一、まは季刊で刊行を続け、大学卒業後、昭和十六年十月に応召するま っゑの次男として生まれた。父の勤務先が変わるにつれ、一家は横で、毎号欠かさす作品を発表、敗戦までの文学活動はほとんどこれ 浜市、岡山県津山の山地、西宮市に移住した。父は親鸞の教えを奉に拠った。多くの象徴詩 ( 詩集「山繭」、「星座の痛み」その他に一 じる在家仏教の一派を貧困者の間でひらき、教祖となった。以後、部を収載 ) のほか、小説「車輪ー ( 未完 ) 「青年の環」 ( 未完 ) や、評 母の尽力を得て布教に献身、自宅に説教所も設けた。その影響で幼論、感想、批評などを書いた。この雑誌を通じて、井口浩、尼崎安 時から仏教の思想の在りかたと生きかたに強い関心を持つようにな四、吉田行範、瓜生忠夫、伊東乾治、桑原島雄 ( 戦死 ) 、尼崎涼香 らと知り合った。 、後年この問題が文学の重要な課題の一つとなった。 大正十年 ( 一九二一 ) 昭和十年 ( 一九三五 ) 一一十歳 四月、西宮市今津小学校に入学。五年の時、小野義彦が同級に転入三月、第三高等学校を卒業。四月、京都帝国大学文学部仏文科に入 してから、再び転校するまで約一年間交友した。また兄の友人の兄学。京大を選んだのは師竹内勝太郎のもとを離れたくなかったから 羽山善治とも交友があった。 だが、六月、竹内の不慮の事故死に逢い、深い打撃を受けた。十一 大正十五年・昭和元年 ( 一九一一六 ) 十一歳年五月、雑誌「学生評論」を創刊した。同人には永島孝雄を初め、 小学校六年。十月一一十七日、勤務と布教活動の過労から父が死去。布施杜生、内海省三、草野昌彦、村上尚治、小野義彦らが加わった 一家再建のため母は苦労したが、それにより以後大学卒業まで勉学が、小野の紹介でこれらの人々や奈良本辰也、永井智雄、飯沼馨ら 譜を続けることができた。 と交友関係を持つようになった。 昭和ニ年 ( 一九二七 ) 昭和十三年 ( 一九三八 ) 十一一歳 一一十三歳 年三月、今津小学校を卒業。四月、大阪府立北野中学校に入学。一年三月、京大を卒業。卒業論文は「マダム・ポヴァリー論」。かねて 後輩に瓜生忠夫がいた。三年ごろから校友会誌に、詩、小説、俳から希望していた労働組合に職を得ることができなかったので、社 句、感想文などをさかんに発表、母は医者になることを期待した会事業機関に身をおくという意味で、大阪市役所社会部福利課福利 が、将来小説家になることを考えていた。 係にはいった。融和事業、地方改善事業、セッルメント事業などを
を「近代文学」に連載 ( 七月完結 ) 、「崩解感覚」を丹頂書房より刊のなかで、十一月、「人民文学」が創刊され、翌一一十六年三月、そ 行。八月、「炎に追われて」を「文芸」に発表。九月、詩「海の笑の編集委員会に参加した。 い」を「群像ーに、「馴鹿」を「人間美学」に、「布施杜生のこと」 昭和ニ十六年 ( 一九五一 ) 三十六歳 を「短歌主潮」に発表、十一月、「化粧、を「新文学」に、「家の一月、「悲しい錘、を「群像」に発表、「真空ゾーン」を「人間」に 中 , を「丹頂」に、「自分の作品について」を「文学前衛」に発表。連載 ( 一一月完結 ) 。一一月、「夜の脱柵」を「人民文学」に連載 ( 三月 十一一月、「盛り場の店、を「序曲」に発表、「小説入門」を真善美社完結 ) 。三月、「シナリオについて」を「近代文学」に発表。「文学 より刊行。この年より一一十四年まで、明治大学文学部仏文科講師と界」で座談会《新しき文学のために》、「現代日本小説大系」別冊第 なり、ヴァレリー 「シャルム」の講読を担当。 三巻を河出書房より刊行。四月、「ジイドの問題」を「人間」に、 昭和ニ十四年 ( 一九四九 ) 三十四歳「戦争に抗して」を「人民文学」に発表、「顔の中の赤い月」を目黒 三月、「眼」を「芸術」別冊一号に、「戦争小説について」を「新日書店より刊行。五月、「意識ー自然と社会にでるまで」を「群像」に、 本文学」に、「田山花袋」を「文芸往来」に発表、詩集「星座の痛「奪いとられて」を「展望」に、「民衆詩人の誕生」を「人間」に発 み」を河出書房より刊行。四月、「自画像」を「群像 , に発表、「ポ表。六月、「モラル企業」を「世界」に発表、「詩人集団について」 ール・ヴァレリー「シャルム」について」を「近代文学」に連載を「人民文学」に連載 ( 七月完結 ) 。九月、「・ジイド」を「近代 ( 七月完結 ) 、「青年の環」 ( 第一部 ) を河出書房より刊行。七月、「時文学」に発表。十月、「照りかがやく光ーを「人民文学」に発表。 計の眼ーを「展望ーに、「日本の最も深い場所」を「文藝春秋ーに 昭和ニ十七年 ( 一九五一 I) 三十七歳 えすばわーる 発表。八月、「金融。を「展望 , に、「言葉に対する愛。を「勤労者一月、「希望」運動を援助する。書き下ろし長篇「真空地帯」を河 文学」に発表。「犯罪の影」を「展望」に発表。十月、「どう人間を出書房より刊行。四月、「夜学」を「文芸」に発表。五月、「雪のし とらえるか」を「近代文学」に発表。 たの声が : 。を「群像」に発表。六月、「「真空地帯」を完成して」 昭和ニ十五年 ( 一九五〇 ) 三十五歳を「近代文学」に、「行動の文学」を「文学界ーに、「未来の光にて 一月、「人間の虹」を「中央公論」文芸特集一一号に、「書斎をもたぬらして」を「文芸」に発表、「雪の下の声が : : : 」を未来社より刊 人たち」を「潮流」に発表、「青年の環。 ( 第一一部 ) を「文芸」に連載行。七月、「作家に聴く , を「文学」に、「作家の態度ーを「近代文 譜 ( 六月完結 ) 。四月、「文芸」で座談会《現代文学の全貌》。五月、「青学」に、「作家との対話ー「真空地帯」に至るまで」を「希望」に発 年の環」 ( 第一一部 ) を河出書房より刊行。六月、詩「信号、を「近表。九月、「国民文学について」を「人民文学」に発表。十月、「人 年代文学」に発表。八月、「狭い場所」を「近代文学」特別号に、「小 間の要素の分析と綜合」を「文学界」に発表。十一月、「一夜」を さい空の下 , を「人間、に、「プロレタリヤ文学覚書ーを「近代文「群像」に、「最近の創作理論について」を「人民文学」に発表。同 学」に発表。十一一月、「硝子ーを「世界」に、「風と炎」を「日本評月、「真空地帯」により毎日出版文化賞を受ける。十一一月、「ハター -4 論」に発表。この年、新日本文学会の内部対立が激化し、分裂状態ン白昼の戦」を「文藝春秋」別冊三十一号に、「別れ」を「文芸」
を「新潮」に発表、「続現代日本文学の問題」を「文学 . に ( 三、 昭和四十ニ年 ( 一九六七 ) 五十二歳 五月 ) 、「青年の環」 ( 第一一一部 ) を「文芸」に連載 ( 第一篇は三十八一月、「サルトルの小説論と想像力論」を「新日本文学」に連載 ( 四 年十二月完結。以後、三十九年四月まで連載、未完 ) 。九月、「日本十三年二月完結 ) 。五月、「竹内勝太郎の詩の世界」を「竹内勝太郎 の戦争文学」を「風景」に発表。「わが塔はそこに立つ」を講談社全集」第一巻に発表。七月、「「サルトル論」批判をめぐって」を「文 より刊行。同月、ソビエト作家同盟の招待で、光子夫人とソビエト 学」に連載 ( 十月完結 ) 。 におもむき、十一一月、・ハリ を経て帰国。 昭和四十三年 ( 一九六八 ) 五十三歳 昭和三十八年 ( 一九六 = l) 四十八歳一月、「「文芸時評」を否定する」を「三田文学」に発表。二月、 一月、「モスコオを去る日」を「新日本文学」に発表。八月、「夜の「サルトル論」を河出書房より刊行。四月、「長篇の時代」を「群 終りに」を「群像」に発表。 像ーに、「「青年の環」について」を「文芸」に発表。九月、「文体 昭和三十九年 ( 一九六四 ) 四十九歳について」を「東京新聞」に、「現代文学と想像力」を「群像 , に 一月、「へチマ顔と石頭と」を「文藝春秋」に、「部落問題を取扱っ発表。十月、「作者とフィクションとしての読者」を「風景」に発 た最近の小説」を「風景」に発表。同月六日、病気検査のため氷川表、「影の領域」 ( 「青年の環 , 第五部 ) を河出書房より刊行。 下病院に入院、一一十七日、退院。三月一一十四日、東大病院に再入昭和四十四年 ( 一九六九 ) 五十四歳 院、四月末、退院。八月、詩集「歴史の蜘蛛」を思潮社より刊行。 一月、「対話・全体小説への志向」を田畑書店より刊行。一一月、「知 この年静養につとめる。 覚意識と想像意識」を「文学」に発表、「創造と批評」を筑摩書房 昭和四十年 ( 一九六五 ) 五十歳より刊行。四月、「全体小説と想像力」を河出書房より刊行。五月、 四月、「日本共産党の中の一一十年」を「展望」に、「入院、検査、わ「被差別部落は変ったか」を「朝日ジャーナルーに連載 ( 三回 ) 、「歎 が胎児たちーを「文学界 , に、「戦後二十年か明治百年か」を「朝異抄」を筑摩書房より刊行。 日新聞」に発表。 昭和四十五年 ( 一九七〇 ) 五十五歳 昭和四十一年 ( 一九六六 ) 五十一歳八月「青年の環ー第六部脱稿。九月「ほんとうの教育者はと問われ 一月、「小悪党またはちんば哲学」 ( 「青年の環、第三部第二章 ) をてー落合太郎教授、を「朝日新聞 , に発表。十一月「「青年の環」 「新日本文学」に、「「青年の環」の環」を「文芸」に発表、「華やかを書きおえて」を「読売新聞」に発表。十二月「錯誤にみちた政治 な色彩」 ( 「青年の環」第一、一一部 ) を河出書房より刊行。三月、「舞の短絡」を「朝日ジャーナル」に発表。 台の顔」 ( 「青年の環」第三部 ) を河出書房より刊行。六月、「今日 の創造行為と批評行為」を「新日本文学」に発表、「表と裏と表」 この年譜は、森川達也氏のものを参考に編集部で作成しました。 ( 「青年の環」第四部 ) を河出書房より刊行。七月、「「青年の環」と 私ーを「南北 . に発表。
をいき第 第を第をこ 大正 7 年、家族と食事をともにする右から 父卯一、野間宏、兄稔生、一人おいて母まっゑ 大正 4 年、生後 139 日目 実な願望も、あるかもしれないのである 文学運動としての戦後文学は、昭和一一十年代の終り 4 とともに、ピリオドをうった。が、戦後文学の役割は、 決して終止符をうってはいない。昭和三十年代以降、 戦後文学にかわって、新しい世代の文学がそのときど きの文学界に話題を提供してきたが、そういう文学が 戦後文学を「超えた」とは思えない。野間氏にしても 中村氏にしても、戦後文学運動時代よりも更にラディ いまなお続けている目まぐるし カルな創造活動を、 い文学的関心の変遷のなかで、とっくに色あせていた はすの戦後文学が、気がついてみるといつも、最も現 代的な文学の問題を突き刺していた、といえそうであ る。そのとき、過去形で処理されがちな戦後文学とは 何か、という疑問が当然生起するであろう。一体、戦 後文学とは何か ? 個人全集形式にはどうしても過去完了ないしは現在 完了的な感しがっきまとうものだが、野間氏は、全集 という完結的形式に最も不適応な作家の一人である。 処女作『暗い絵』からはしまって、『真空地帯』『さい ころの空』『わが塔はそこに立っ』『青年の環』と書き つづけられた小説、それに未完の長篇を念頭に思い浮 べただけでも、野間氏の文学が、より深くより広い方 向へ動いていることがわかる。野間氏の文学は常に、
ワ 1 -4 行なっていくやりかたをいう。 0 ナロードニキ Narodniki ( ロシア語 ) 人民の中にとびこん 北住由起の姿 : この作品には、女性、性欲のにおいが、 だロシアの革命的知識人たちのこと。 政治や社会問題に微妙にからまりオヴァラップして出てくる。 八七ニエクラーソフ Nikolai Alekseevich Nekrasov ( 1821 ~ 「肉体 , ということばも頻出する。社会の問題にあわせて、人 1877 ) べリンスキーに学んだロシアの革命的エネルギーにみち た詩人。「デカプリストの妻」などがある。 間の心理と生理がともに追求されているのが野間文学の特色で ある。 ^ 七コロレンコ Vladimir Galaktionovich K03 一 enko ( 18 ~ 契カンテキ関西では「七輪のことをこのようにいう。 1921 ) ナロードニキ派のロシアの小説家。シベリアに追放され たんなるエゴイズムの確立というのではな たりもした。「盲音楽師」などがある。 公一自己完成の : 0 シチェードリン Nikolai Shchedrin ( 18 ~ 1 田 9 ) 帝政ロ く、また、たんなる自己の儀牲の強調でもなく、それらを統一 シアの腐敗面を鋭く諷刺した作家。「ゴロ・フリョフ家の人々 し科学的にあわせ持っ態度をいう。この時点においては賞讃に などがある。 値するほどの困難なことでもあった。 公一形のいし 、しかし鼻先の : : : 友人たちの肉体についての的 0 ゾチアリスト Sozialist ( ドイツ語 ) 社会主義者。 確な描写があり、あわせて、彼らの出身、環境にまつわる生い 三一一年テーゼ一九三一一年にコミンテルンより打ち出された たちが語られていく。 「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ ( 綱領 ) 」 のこと。 公一京大事件昭和八年に生じた京都大学のいわゆる滝川教授事 件。彼の著書が発禁となり、時の文部大臣鳩山一郎より休職を兊ホイエル・ハツ・ハ ヘーゲルから唯物論に転じたドイツの哲学 者ホイエル・ハッハをもじっていったもの。 申しわたされたのに対し、法学部の教授、学生、全国の大学人 などが反対した事件。これを契機に、日本はファッショ化への 兊東亜新秩序の建設昭和十一一一年十一月、日支事変の進行直後 道をとっていく。 近衛内閣から出た声明。東洋平和のために戦うという態度で貫 かれている。 会何をなすべきか一九〇一一年に書かれたレーニンの著書の 名。現在、何をなすべきか、に焦点があてられ、いわゆる日和九 0 レネガア renegat ( ロシア語 ) 背徳者。 見的態度をきびしく批判したもの。 九 0 カウッキイ Karl Johann Kautsky ( 1854 ~ 1938 ) ドイツ の経済学者で、はじめマルクス主義の理論家。のち、ロシア革 会憎しみの坩堝「憎しみの坩堝に赤く焼くるくろがねの つるぎを打ちきたえよ」という歌詞 ( 鹿地亘の訳 ) を持っロシ 命後、反革命的色彩を強め、レーニンに批判されたりした。 アの革命歌。階級的憎悪にみちた歌。 空デスポチズム despotism ( 英語 ) 絶対主義的な専制政治の こし J 。 0 由比正雪江戸初期の兵学者 ( 1 き 5 ~ 1651 ) 家光の死後、彼 九四、ポッシュ Hierongmus Bosch ( 148 7 ~ 1516 ) オランダ が中心となって浪人たちを集めて起こした慶安の乱で著名。
に発表。 一月、「一日」を「新日本文学」に、「わが無花果の実」を「文学 三十八歳界」に、「山間地の人々」を「群像 . に発表。一一月、「文学をする 昭和ニ十八年 ( 一九五一一 l) 一月、「たたかいの詩」を「文学」に、「ガルシン」を「文芸」に発心」を「文芸」に、「わが昭和十年代」を「文学」に発表。三月、 表。一一月、「急流、を「世界ーに、「過去・現在 , を「明窗」に、「詩「一条の光線」を「文学界ーに発表。四月、「トルストイとドストエ を読む運動」を「詩運動」に発表。三月、「原爆について」を「文フスキー」を「知性」に、コ一葉亭の想像力」を「近代文学」に発 学界」に発表。四月、「読書とものをみるカーを「文庫ーに、「リア表。五月、「自分の進む方向ーを「東京新聞」に発表、「典型につい リスティックな追求をもとに」を「ぶどうの会通信」に発表。五て」を「新日本文学」に連載 ( 九月完結 ) 。九月、「現実主義と反逆 月、詩「雪はおおう . を「人民文学」に発表。六月、「逃走」を「群の魂」を「文学界。に発表、「地の翼」を「文芸」に連載 ( 三十一一年 像」増刊号に、「政治における虚偽」を「群像」に、「南十字星下の三月まで。「文芸」休刊のため未完。十一月、「立っ男たち」を「新 戦」を「文藝春秋」別冊一一一十四号に発表、コ一十世紀文学と民主主日本文学」に、「青春喪失」を「文学界」に発表。十一一月、「椎名 義文学」を「文学」に連載 ( 八、十、十一一月 ) 。八月、「国民文学論三」を「文芸」に発表。この年、埴谷雄高、武田泰淳、堀田善衛、 の総決算ー各階層の自覚の仕方のちがい」を「希望」に発表。九中村真一郎、梅崎春生らと「あさって会」を結成。 四十一歳 月、「思出のうた」を「婦人公論」に発表。十月、「砲車追撃」を昭和三十一年 ( 一九五六 ) 「文藝春秋」別冊三十六号に、「近代日本文学への評価ーを「日本読三月、「気で病む狼」を「文学界ーに、「緑の原稿用紙 , を「文芸」 書新聞」に、「新しい人間の誕生」を「文学評論 , に発表。十一一月、に発表。五月、「狼は消えた」を「文学界」に発表。六月、「動くも ののなかへ」を「新潮」に発表。七月、「人類の立場ーを「群像」 「昭子とたき子」を「改造」に発表。 昭和ニ十九年 ( 一九五四 ) 三十九歳に発表。八月、「綜合的文体ーを「文学界」に発表。九月、「軍法会 一月、「労働者文学の問題ーを「群像 , に、「真実追求の文学」を議とその後 , を「新日本文学」に発表。十月、「日本文学における 「学園評論 . に発表。一一月、「私の小説観」を「文章倶楽部」に、「透粋の問題」を「思想」に発表。十一一月、「地の翼」上巻を河出書房 谷の教訓に学ぶ」を「東大学生新聞」に発表。同月、次男新時生まより刊行。 昭和三十ニ年 ( 一九五七 ) 四十一一歳 れる。四月、「詩における自然と社会 , を「新日本文学」に発表、 「現代文学の基礎」を理論社より刊行。六月、「孤立的文学の克服」一一月、「ミュ 1 ジカルについて」を「群象ーに発表。三月、「近代主 を「希望」に発表。九月、「思想と文学」を未来社より刊行。十一義批判以後」を「前衛」臨時増刊号に発表。四月、「文学運動の組 月、「恋愛について」を「文学界」に、「日本における社会主義リア織について」を「新日本文学」に発表。五月、「忘れられぬ批評」 リズム」を「日本読書新聞」に発表。十一一月、「人類意識の発生」をを「群像」に発表。六月、「新しい記録の意味」を「中央公論」に 発表。九月、「「転向文学論」について」を「図書新聞ーに、「一九五 「文芸」に発表。 昭和三十年 ( 一九五五 ) 四十歳一年以後の統一の問題 . を「前衛」臨時増刊号に発表。十月、「胎
昭和 11 年白浜千畳敷で兄稔生 ( 左 ) と ~ : 、 = 3 大ぶ 二青春の出合い 中と 学 ) 野間氏の文学的青春は、同人雑誌「三人」の仲間た ふじまさはる くわばら ぐちっし 学彦ち、富士正晴、桑原 ( ) 静雄、弗ロ浩らとの交 大嘉 都村友にみることもできようが、野間氏が決定的な影響を たけうちかったろう 京西 うけたのは、サンポリスムの詩人竹内勝太郎と、アンド 年友レ・ジイドとの出会いであろう。 野間氏が「偉大な人間」とよび、「業にはほんとうの 昭山 文学の仕方と、生き方とを教えてくれた」と尊敬して やまない竹内勝太郎を知ったのは、三高の文科丙類に 入学した、一九三二 ( 昭和七 ) 年の春である。野間氏 は、この竹内勝太郎との出会いを、「生涯の大事件」と 形容している。当時十七歳の旧制高校生は、「独力で、 マラルメをきわめていた」この無名のサンポリスム詩 ランポ 人によって、マラルメをはじめ、ヴァレリ ジイド、アランを知るようになる。「三人」はこの 詩人の指導のもとに、ヴァレリ ーが主張する「純粋詩」 の確立を目的に、はしめられたのであった。「三人」を 創刊した富士・桑原・野間の三人の弟子たちが、無名 の師、竹内勝太郎の全集 ( 全三巻 ) を編集してその業 績を顕彰したのは一九六七 ( 昭和四十一 I) 年である。 この全集に野間氏は、「竹内勝太郎の詩の世界」と題し 438
かんのう 、 0 とりわけ詩や散文が自然美に敏感に感応する っそ、っそうである 文学伝統をもつ国においては、 しよくどう たとえば李印が歌った蜀道の嶮、江南の風物、 ~ 巴蕉が ほそみち 歌った奥の細道の風景を、その文章の美しさにひかれ て自らもたどってみたい と田 5 ったとしても、特別、そ れは不自然というわけではない しかしながら、多くの場合、そうしてみることで人 人が得るのは、苦い失望であるはすである。雄大な自 せんさい 然、あるいは繊細な風景はそれ自体崇高であったり、 慰めであったりもするが、しかし、自然の彫奇は文章 によって浮びあかるイメージの美とは、位相が違うの であって、素材を生のかたちで知ることは作者の感受 隸想とその思想を とみすからのそれを比較したり、 どじよう 育てる土壤との特有の関連性を知ったりする、要する にあくまでも鑑賞を深めるための補助的な作業として 有意義である場合もあるというにすぎない。あえて極 あ・み ーの葡 ャックの作品に童れてポルド 論すれば、モー どうばたけ 萄畑を見にゆくよりは、も、つ一度しつくりと作ロ聞を ~ 冗 かわばたやすなり み返す方がよく、 端康成の「雪国」にでてくるトン ずいどう ネルが何鉄道の何隧道かを詮索するよりは、そのイメ あたた ジをそれ自体として温め、あるいは批判する方かい いのである。 そっちよく 率直に言ってしまえば、目下の私の任務は〈文学紀 もっか 京都大学正門
児」を「文藝春秋」に、「よいどれの時、 ( 「地の翼」第一一部 ) を「綜一月、戯曲「オオム社長の誕生日を祝う」を「新日本文学 , に発 合」に連載 ( 「綜合」廃刊のため一回分のみ ) 。十一月、「文学創造表。三月、「わが稲妻」を「新潮」に発表。四月、「手首・足首」を の条件」を「日本読書新聞」に、「人間内容の追求」を「文章クラ「群像」に発表、「干潮のなかで」を「世界」に連載 ( 四、五月、お プ、に発表。十一一月、ミ , ージカル脚本「冷凍時代」を「文学」によび三十六年一月続篇「夜の死」 ) 。五月、中国訪問日本文学代表団 団長として、亀井勝一郎、松岡洋子、竹内実、開高健、大江健三郎 発表。 四十三歳とともに中国訪問旅行。七月、「原隊復帰」を「小説中央公論」臨 昭和三十三年 ( 一九五八 ) 一月、「車の夜」を「群像」に、「疑惑」を「新日本文学」に、「映時増刊号に発表。十月、「手」を「小説中央公論、二号に発表。十 画における記録の問題」を「中央公論」に発表。一一月、「不思議な一月、「動物図鑑」を「新潮」に、「親鸞」を「現代芸術」に発表、「わ 環」を「群像」に発表、「さいころの空」を「文学界」に連載 ( 三が塔はそこに立つ、を「群像」に連載 ( 三十六年十一月完結 ) 。 四十六歳 十四年十一月完結 ) 。四月、「ドキ、メンタリーと具象しを「芸術新昭和三十六年 ( 一九六一 ) 潮」に発表。五月、「検閲・発禁・伏字」を「群像」に発表。六月、一月、「山道の座席の左に」を「新日本文学」に、コ一人の男」を 「現代を探求する新人たち」を「週刊読書人」に発表。七月、「感覚「小説中央公論」三号に発表。同月、コロンボで開催された・ と欲望と物について」を「思想」に、「方法の問題」を「群に作家理事国会議に阿部知二と出席。同月、・作家会議東京大会 発表。八月、「批評の問題 , を「群像。に、「コレヒドールへ、を「文に日本代表として参加。四月、「作品の構造を中心に」を「新日本文 学」に発表、「セイロンにあって」を「文学」に連載 ( 四、七月 ) 、 藝眷秋」別冊六十五号に発表。八月、「綜合の問題」を「群像」に、 「新感覚派文学の言葉」を「文学」に発表。十月、戯曲「黄金の夜「干潮のなかで」を新潮社より刊行。五月、「作品のイメージを中心 明ける」を「現代芸術」に発表。同月、タシ、ケントで開かれた第にして」を「新日本文学」に発表。六月、「感性の変革について」 を「新日本文学」に発表。七月、「作品のテーマについて」を「新 一一回・作家会議に伊藤整、加藤周一、遠藤周作らと出席。 四十四歳日本文学」に、「白い部屋」を「新日本文学」別冊一号に発表。 昭和三十四年 ( 一九五九 ) 一月、「部落」を「朝日新聞」に、「文学自伝ー鏡に挾まれて」を月、「怨霊対談、を「新潮」に発表。九月、「労働者の主体につい 「群像 . に発表。三月、「 = シ = ット座のイオネスコ」を「現代芸て」を「新日本文学」に発表。十月、「創造のための組織と組織と 譜術」に発表。四月、「日本文化論」を「アカ ( タ」に発表。六月、文学の主体」を「新日本文学」に連載 ( 三十七年一月完結 ) 。 四十七歳 昭和三十七年 ( 一九六一 I) 「芸術大衆化について」を「現代芸術」に、「「戦後文学」の新しい 年出発」を「週刊読書人」に発表。十一月、「君の地獄」を「新日本一月、「現代日本文学の問題、を「思想」に、「平野謙に答える」 ( 上 文学」に発表。十一一月、「「さいころの空」創作ノートから . を文学下 ) を「毎日新聞、に発表。二月、「文学を志す人々へ , を「群像」 に発表。三月、「プロレタリア文学批判と松本清張論」を「群像」 界に発表、「さいころの空」を文藝春秋新社より刊行。 四十五歳に、「創造運動の新段階」を「新日本文学」に、「仏教書を買い込む」 昭和三十五年 ( 一九六〇 )