~ あんっ 0 、の、、みを 7 昭和 31 年新時君と遊ぶ 昭和 31 年中学時代の友人と佃島で 力を集めた。すると彼の真暗な肉体の中で、皮膚に そうて肉体の眼が大きく開き、彼に触れている彼女 の肉体の方に眼を向けるのを彼は感した。そして彼 の向い合っている彼女の肉体の中でも同じように彼 女の肉体の眼が大きく開いて、二つの肉体の眼が二 人の皮膚と皮膚との間でみつめ合っているのを彼は 感じた。二人は互の体の中で大きく眼を開き合った まま身を触れ合っていた。 ながながと引用してきたのは、この「肉体の眼」を ぬきにして野間氏の「肉体」は考えられないと思うか らである。「肉体」は決してセックスだけを意味しない 肉体はそのなかに思想をもち、眼を大きく開けること によって「行為」をもつ。ヒューマニズムの「人間」 を超えた、より積極的でアクチュアルな自己認識であ る。そして、そ、つい、つ「肉体」をとらえるためには、 新しい視点と人称とが要求される。つまりふつうの客 観小説の人称で書けば、田村泰次郎が提唱した肉体文 学にしかならないのである。『二つの肉体』にはそのす べてが試みられているとはいえないが、その芽ははっ きりと出ている 『顔の中の赤い月』は発表当時から好評だった。『二つ の肉体』と同しように、男と女の真実の結びつきへの 懐疑をとりあげているが、戦争の体験がどんなに深く
しみがこの小さな女を圧倒しおしつぶそうとしているのているのを認めた。そして彼の心は奇妙にその斑点のため 貶だ。しかしながら、俺は、この人のその苦しみにふれるこに乱れ始めた。それはほとんどあるかなきかを判定するこ とができはしない。俺は何一つ彼女のことを知りはしなとさえ困難なほどの、かすかな小さな点であった。或いは い。俺は俺の苦しみだけを知っているだけで俺の苦しみだそれは、何か煤煙か埃りによってできたものであったかも ほくろ しれない。 けを大事にもっているだけで : : : ただそれだけで・ : 或いは白粉の下からすいてみえる黒子であった 北山年夫は堀川倉子が顔を上げて彼の方に眼を向けるのかも知れない。とにかくその斑点は彼の心をこまかくゆす を見た。ほのぐらい空間をすかせて白い彼女の顔が彼の前 った。彼はその左の眼の上にある小さな斑点の存在をはっ に浮いている。彼は彼女のその顔に真直ぐ眼を据えてい きり確かめたい衝動にかられて彼の視力をそこへ集めた。 ・ : この顔の向うには、たしかに戦争のもたらした苦彼はその斑点をみつめた。しかし彼の心を乱すのは彼女の しみの一つがあると彼は思った。彼は如何にしても、彼女顔の上のその斑点ではなかった。そして彼は自分の心の中 のその苦しみの中にはいって行きたいと思うのだった。ものどこか片隅に一つの小さい点のようなものがあるのを感 なお しも彼のような人間の中にも、尚、いくらかでも真実とまじた。そしてその心の中にある斑点のようなものが何を意 ことが残っているとするならば、それを彼女の苦しみにふ味するのか、彼には既に判っていた。彼はじっと心の内の れさせたいと思うのだった。・ ・ : そのように二つの人間のその斑点のある辺りをみつめた。と彼は自分の心の中の斑 心と心とが面と向って互いの苦しみを渡し合うことがある点が不意に大きくなり、ふくらんでくるのを認めた。それ ならば、そのように、二人の人間が互いの生存の秘密を交は次第に大きくなり、彼の眼の方に近づいてきた。それは 換し合うということがあるならば、そのように一一人の男と彼の眼の内側から彼の眼の方に近づいてきた。それは彼の 女とが、互いの真実を示し合うということができるならば眼の方に近づいてきた。『ああっ。』と彼は心の中で言っ : しか それこそ、人生は新しい意味をもつだろう。 た。彼は堀川倉子の白い顔の中でその斑点が次第に面積を し、彼にはそのようなことは不可能のことだと思えるのだ拡げるのを見た。赤い大きな円いものが彼女の顔の中に現 われてきた。赤い大きな円い熱帯の月が、彼女の顔の中に 電車は、既に彼女の降りる四ッ谷に近づいていた。彼は昇ってきた。熱病を病んだほの黄色い兵隊達の顔が見えて なお 尚も眼を据えたまま彼女の白い顔をみつめつづけた。と彼きた。そして遠くのび、列をみだした部隊の姿が浮んでき はんてん はふと彼女の白い顔の隅の方に何か一つ小さい斑点がつい おれ すみ ばいえんほこ おしらい ある
やっ とら いものに滲むような思いが彼を把えていた。 ていて、彼は小泉清の輝くような眼をいつまでもじっとみ つめながらちらとこの考えが頭の中を駛り去るのを感じ 「うん、そうしよう。」彼は言った。そして彼はまともに のぞ こ。しかし彼は素直な心に返りながら言った。「その問題 小泉清の眼の中を覗き込もうとするようにじっと自分の眼ナ は未だ突きつめて考えて見たことがないんでね。一度ゆっ をその眼に注いでいた。 くり考えて見るよ。」 「永杉の場合は条件が違うんだからね。たしかに条件が。 親父が自由主義者の・フルジョアジーで、生活に困るという「俺はね、合法とか非合法とかいうように問題を考えてい るんではないよ。合法主義者だと皆が俺を言うけどね。」 訳ではないし、この条件は大きいよ。」小泉清の形の、 ひぎ ふたえまぶた 一一重臉の眼が大きく開かれたが深見進介の強い視線を避け小泉清が両膝を立て両腕でそれを組みながら言った。 ちょっと 「うん。うん。」深見進介は一寸眼を閉じ、その言葉を頭 るように、彼の後の店の間のテー・フルの上に向けられた。 ひきよう 「こういう点は考えても別に卑怯じゃないんだよ。むしろの中で組立て、しばらく探っているような様子で頭を振っ こ。「まあ、行って来るよ。」 後で同志を裏切るような結果を生むより、よく考えて見るナ ・ヘきなんだ。むしろ一生の問題なんだからね。進歩という「明日は学校へ出るね。」赤松三男が立上った深見進介を おれ 奴は。今伸びるか、四、五年先に伸びるか。 : : : 俺は、こ追いながら言った。「出たら一度共済会へ寄ってチュータ の日支の衝突が、永杉のいうように、日本の支配階級の危ーのロもう一度念をおしとけよ。俺の方からも、せかしと 機だとは未だ考えられんね。日本の・フルジョアジーは、未いてやるけどな。」 、ようこ 「うん、出るよ。」深見進介は立上りながら言った。「う だ鞏固だよ。我々が立つべき時機はもっともっと先だと思 うね。」小泉清の眼は再び大きく開き、或る輝きが表われん、共済会へも寄って見るよ。しかし君の方からも是非と て来た。「その条件の問題だがね。条件の問題は考えんでも頼むよ。」 もないのだがね。」深見進介が言った。彼には日支の衝突「よしよし。やっとくよ。」 に対する深い判断が欠けていた。従ってまだこの時にはそ「じゃあ失敬、行って来るから。」深見進介が言った。 れに対する最後の意志決定もなかったのである。あるいは「失敬。失敬。」皆が口々に言った。 小泉清のこの言葉の中に彼に対する深い好意があるとすれ「永杉に用心しろ言っといてくれ。」小泉清が店の戸を開 ばその好意をも、この場所を出るとすぐ裏切るような感情けて出て行こうとする深見進介の背に声をかけた。 あわ・がと に襲われるかも知れないという不安が彼の中に微かに残っ「うん、有難う。伝えるよ。」 おやじ にじ かす さぐ
「今晩は。」深見進介が言った。 英作も言った。濃い緑地に黄の小さい花模様を飛ばした蔽 こくたん 「今夜は遅いな。もう深見が現われる頃やぜと今話してたい幕の垂れた大きな白木の本棚の前の厚い黒檀の大きな食 わずみ とこだよ。」木山省吾が言った。 卓に、鼠色の細い毛糸編のジャンパーを着けた上半身をも 「うん、小泉の連中に会ってね、食堂で。」 たせかけるようにして、木山省吾の左、羽山純一の右に、 はいざら かっこう 「何か話があったんかい ? 」 三人が灰皿を囲んで円陣をつくるような恰好で膝を組んで 「うん、ちょっと、頼み事があってね。」 坐っている。そして深見進介の方を向けた彼の卵形の輪郭 「ふん ? まあ、はいれよ、そんなところできよとんとしの正しい顔全体に静かな徴笑が拡がり、まるで保護者がそ た顔で立ってんと。はいって来い。今日はこのあたりが終の子供を見守るような眼つきをして、少し冷たさの交じっ えびちゃ 点なんだろう。」入口から真向いの海老茶色の部厚い大きた柔和な眼を戸口に立っている深見進介の方に注ぎながら いカーテンを背に膝をくずして坐っている木山省吾の顔また言った。 が、電燈の周りに白く漂うている煙草の煙の向う側で徴笑「深見、はいれよ。」 んでいる。彼は特色のある眼と眼の間の幅の広い、一見四「うん。」深見進介は木山、羽山、永杉のすべての顔にあ やわら 角く見える奇妙な感じを与える大きな眼に、この男が深見らわれている軟かい微笑を、彼の今もなお幾らか重い心に 進介にのみ特別に示すいつもの人なつつこいうるみを付け受けながら、煙草の煙の立ちこめた部屋に足を入れた。 て眼で招きながら、終点という言葉に或る特定の意味を持「寒いね。今日は。」深見進介は木山省吾の横に立ったま たせようとするかのように、 この言葉だけをゆっくり発音ま、木山省吾の汚い見すぼらしいよれよれの夏の学生服を からに しながら言った。「また始めやがった。」羽山純一が言っ着けた、薄い肉のない、何処か身体が或る箇所に不治の病 やっ く下すじ た。「木山の奴、深見が現われると急に元気づきやがる。」気を持っているような頸筋を見つめながら、意味もない言 うなじ 入口に近く木山省吾の真向いに同じように膝を組んで坐っ葉を言った。少し尖った大きな耳の後に、項の毛がちちれ あか ている学生服の幅の広い頑丈な肩の上で後頭部の膨れ上って、垢のついているような木山省吾の頸に眼をやり、彼は たように大きい頭が深見進介の方を振り返った。そして彼右。ホケットの煙草を探った。 ほおしま まなじり ちょっと の顎の張った線の頬の緊った角形の顔の中で、眦の鮮かに 「うん、一寸寒いな。」木山省吾が言った。そして黙った 切れた視線の強いはっきりした眼が笑っている。「おい が、すぐ語をつぎ、「また何処かへ行くんかい。今夜の終 : でも、もう遅 はいれよ。」羽山純一が、また言った。「はいれよ。」永杉点は、どうも、大阪じゃあないのかい。 あみ おお
分のや 0 てきたことも、わるいこともなにもかくさずにみんが、茶をくれんか。」というので、木谷が気を取り直し なお前に話した。これはずっと前からお前には話そうと考て茶をくんでのましてやっていると、曾田はそれを不思議 えていたことでな : : : 。俺はいまでは以前とはずっとようそうにみた。 すいじゃく な 0 てきてる。しかし俺は以前はもう衰弱がはげしゅう曾田はやがて中尉の許可をえてから、木谷に姉さんが面 て、もうもつまいといわれた。俺はそのとき、ほんまにお会にきていられるから一緒につれてくるようにとの准尉殿 前をよべるものなら呼んでもらいたいと思ったそ・ : : ・」 の命令でやってきたということをつたえた。おお、やはり しかし木谷はたち上った。「しかしな、自分は二年門 それでは、これから准尉にぶつからなければどうもならな 毎日、あんたを殺してやることばかり考えて、監獄でいま いのだと木谷は思った。自分の野戦行きの準備はこうして したんやぜ。」 着々すすんでいるのだ。 林中尉は顔を上げて眼を光らせてだまったまま木谷をみ「面会人か : ・ そうか。木谷、では、すぐかえるか。」 た。木谷の唇はふくれていた。「勝手や、勝手なこという中尉は言った。 て ! 何や ! あ、あ、あんたなんかが、呼んだかて、自木谷は勢いよく 0 ツ・フの水をまいた。「明日な、補充兵 分がどないしてあんたのとこへ行きまっか。」 と一緒に出発だんがな : ・ 林中尉は顔をひいた。「木谷わかってくれんのか。お前 「えっ ! : 木谷、お前が補充兵と一緒に行く ? 」せきの もな、そうやろうけど、この俺もいま話したとおり、あのおさま 0 た林中尉は大きく眼をむいて言 0 たが、それは彼 中堀中尉のためにひどいめにあわされて : にはどうしても納得のいかないことらしかった。そこで木 「ちがう。そんなもんとちがう。あんたは勝手なことばか谷は金子軍曹が自分の野戦行きのことについて裏でうごい りいうてるのや。」木谷は火鉢の上をとぶようにまたいでたということを簡単に話してきかせたが、林中尉の眼だけ ちょう一 帯前へでて行こうとしたが、丁度このとき曾田がはいってきはいよいよ大きくかがやいて行った。 地て声をかけたので、彼は相手にとびかか 0 て行くことがで「あの金子のや 0 がや 0 たと ! あれが最近、隊にかえ 0 真 きなかった。彼は、じ 0 と相手の眼をにらみすえた。ただているということはきいていたが : 。それじゃ、中堀が れてしょ・ほしょぼと動いているようなその眼を。 また金子のうしろで、やってることではないのか。」 林中尉は余りにらみすえる木谷の眼にたえることはでき「南方行きだしたな。」木谷はそれには答えず言 0 た。 4 なかった。彼は急にはげしくせき入ったが、「木谷、すま「う : : : うん。そういうことやが、木谷、お前ほんまに行
ひと ら二回もたずねてまだっかまえることのできない金子軍曹一かたまりになって・ほそ・ほそと寒そうにしゃべりながら をさきにみつけて、その方を追求する方がほんとうだとい外出準備をしていた補充兵たちは、木谷があが 0 て行くと じゅんい う考えが彼のうちでまたつよくなってきたので、彼は准尉急にまるでこわいものがきたように静まった。いまや木谷 のいうことをそのままだまってきいていた。すると准尉は四年兵はこの班の一つの中心、別な新たにできた中心なの か。三年兵たちはそれでもなおざまをみろというように小 さらに「木谷、野戦行きを命ぜられるということはお前に づらにくい顔をして遠くから彼をみた。それは木谷の心に とってはこれこそ名誉を回復するときであって、ほんとに 正しい兵隊として更生する機会をめぐまれるわけなのだかふれた。木谷は帽子と靴をとって外へでて行こうとした ら、こんどこそ向うでまじめにつとめをはげんでくれ。」が、廊下に外套をひろげて輪巻きにしている補充兵の一人 につきあたった。 というのだ。 「だれがなんといおうと、自分さえまっすぐにしておれ「四年兵殿、どこい行かはりまんねん。四年兵殿、どこに ば、少しも気にすることはいらない、そうだぜ、木谷。な行かはりまんねん。四年兵殿、外出者の整列がありますよ : このような言葉って、すぐ準備しておくんなはれよ。」木谷がふりかえっ あーー」准尉はまたしばらく説いた。 は木谷がすでに何回もきいたものだった。そして准尉もまてみるとそれは東出一等兵だった。 たいま同じことを口にするのだ。准尉はじっと木谷をさぐ 「四年兵殿、ここへ四年兵殿の外套まいておきますぜ。」 るようにみたが、木谷は眼をそむけはしなかった。彼の眼東出は星のはいった眼をすえて言った。 は敵の眼のように相手をみた。 「ええよ。」木谷はかたまっている補充兵たちの顔をみた 「わかったなーー」 が、彼らの真面目な顔は一つ一つばつが悪そうで、また取 「はあ。」木谷はしずかに低い声で言った。しかし彼の眼りかえしのつかぬことをした顔のようにつらそうだった。 はその入口の戸の上の壁に三日月型のきずが二年前と同じ「ええよ。おれは、外套なんていらんそ : : : 」 ぶきいく ように白くついているのや、床の上の一カ所に不細工にも「四年兵殿、外出は ? 外出はどないしやはりまんので つくろ 繕い板がはってあるのなどをさがしていた。「くそったす ? れ。」と彼は曹長室をでて准尉とわかれるや言った。彼は「あほんだらめ、外出 ? この俺がそうやすやす外出し すぐ班内へあがって行ったが、彼の頭のなかはさがしださて、野戦へ行かされてたまるかい : 補充兵たちはみな口をつぐんで彼をみた。木谷はそこに なければならない金子軍曹のことで一ばいだった。 ぐんそう くっ おれ
ひぎ はりばん り、両膝に両手をのせて眼をひらいたまま身動きすることえ、とうとうお前もくたばってきやがったか。」いつも張番 なく、一日中じっとしているということがどういうことで看守になったとき、彼の房にからかいにきた色の白い男振 あるかを思いしらされた。規定は囚徒から自由をうばう目 りのよい背の高い看守は或る日覗き穴から声をかけた。た 的でつくられていたが、それは手足・眼・鼻・眉・耳などしかにこの頃、木谷はもう全く元気を失って房のなかで真 を動かす自由を奪いとった。それ故眼をまたたくことや、直ぐに正坐の姿勢をたもっているということができなくな かゆいところをかくこと、首をふること、顔をしかめるこ っていた。木谷はのちに刑が決定して作業にでるようにな もちろん となど、いわば自然動作というべきものも勿論禁ぜられってから、陸軍刑務所に於いては未決囚よりも既決囚の方 た。それをするためには看守の許可を必要とする。とする がはるかにらくだと感じたが、彼は当時毎日夜の九時がく と許可なくしてできることは、自由に呼吸するということるのをまち、朝の六時がくるのをねながらおそれていたの である。木谷が体を動かすことのできるのは朝六時に起床 てんこ してから点呼までの十分間の洗面と房内掃除のときと、検 四 察廷にでて行く出廷のときとであった。・ ・ : 六時に起床の とびら そして二週間たったとき木谷はもう塩菜のようにぐった鐘がなると、木谷は毛布を所定の大きさにたたんで扉の右 りしていた。夜の九時になって彼はようやくこのような規手にかさねておいた。それから扉の前一尺のところにひろ ぞうきん 則から解放されて寝床にはいることができた。彼は規定にげてある雑巾を取って床をこすった。そして彼は立上って からだ したがって細くたたんだ毛布のなかに身体をつつこんだ。柱、壁、扉などをこすった。彼はこの自分の身体を動かす またた 彼は毛布のなかで眼を瞬いたり、手で腹をさわったり、陰ことのできる時を利用しようとして、雑巾を使ったが、や のぞ どう、 部にふれたりした。看守たちは覗き穴から全身がみえる位がて彼の身体はふらふらとして動悸ははげしくうち、血は ほおわき あた 帯置に木谷をねかせて、規定の寝方をとるように注意した。 まるではじめて動きはじめたように頬と腋の下の辺りにあ 地 つまって全身は酒に酔うているかのような状態になってい 「おい、七十五号、木谷、お前もう影あらへんやないか。 わす 空 : え。そんなに背中まるめたりして反則だそ、ちゃんとた。ああ、しかし僅か十分後には彼は雑巾をもとの場所に 真 ひじ してるんや。ちゃんと手を膝の上において肘をはって正坐もどして、動きのない世界に正坐しなければならなかっ 昭して真直ぐ前の壁をみんか。眼をばちばちしてはいかん。 なに ? お前、背を真直ぐにしてることができないのか、 「おい、七十五号、上等兵、お前一体どないしたのや、肩 ・こっこ 0 しおな かね
「貴様、曾田三年兵を倒しておきながら、一言の謝ざいも同じように体に力がなかった。彼は寒そうだった。さらに しないのか : : : よう、しないのか。」 もはや動作がこれ以上できないかのようであった。それは 曾田にかっての自分の姿を思わせた。しかし彼はこの佐藤 「はいつ。」 に心を動かさなかった。 : はよう、 「何が、はいぞい 「いい、刀 ・ : おれのところへきたって、俺あしらんぜ 年兵殿に思いきりなぐってもらってこい : ・ : 」曾田は地野上等兵のところにとどく声をつくって言 「はやく行くんだ。」 曾田は自分の前にたった佐藤を見たが、彼はさらに自分「でも、上等兵殿がどうしても、なぐってもらってこ のすぐ前にあるふくれた二つの眼の玉をみた。その眼は一一 まぶた こちらをふりかえって、二人をみていた木谷は、じっと 重のなめらかな臉でつつまれていたが、力をもたなかっ 曾田の方に眼をそそいだが、頭をふって、再び窓の方に向 た。彼のきている略衣は前が油とほこりで真黒だった。 いてしまった。 「曾田三年兵殿 : : : 」 「俺あ、手が痛うて、なんぎしてるのに、なぐれんよ : : : 」 「なんだ。」 「地野上等兵殿が、行ってなぐってきてもらえといわれま曾田は地野上等兵が、あるいは、今日は、このあとで自分 をなぐることになるかもしれないと考えていた。彼はいっ ものように廊下の真中につったって食事準備をする兵隊た 「ふん。そうか。」曾田はわざと地野の方はみなかった。 おれ 、あほなことすちを見はっている地野上等兵の威圧が自分の上にも及んで 「俺のとこなどへくるやつがあるかい いることを知っていた。「ええよ、 いってくれ、俺あいま な。」 いそがしいんや : : : おい 「はい 「はい : そうでありますか : : : 」佐藤は言った。彼の声 佐藤はそのまま帰って行ったが、曾田が木谷の後のとこ は元気がなかった。彼は何かもっと言葉を待っていたが、 ろに近づいたとき再び彼のところにやってきて、どうして 冫だまって も彼になぐってもらってこないと承知しない、もしなぐっ待っても甲斐ないことをさとったもののようこ、 てもらってこなければ、地野上等兵自身、ここへ来て曾田頭をさげてまたかえって行った。が、曾田はすでに地野上 に話があるからと言っているというのだ。佐藤はその眼と等兵がむこうからこっちにむかってやってくるのをみた。 いって、曾田三 ふた
のところでたしかに木谷一等兵は、木片をつかって地面を「准尉殿 ? 」木谷はゆっくりと顔をうごかした。・、 カその眼 ほっているのだ。木谷はほりながらときどき、頭をあげは曾田のうしろの方にいっていた。と不意に、その眼玉が て、左右に気をくばったが、またほりつづけた。そして曾次第に上の方につり上って行ったと思うと、「おい貴様、 田はむしろ木谷が何かわけのわからない作業を仕終えてか何をぼんやりつったっとるか ? おい ? 」という声がし えってくるところをつかまえようと考えたが、木谷は案外て、便所の方から週番肩章をかけた将校が近づいてきた。 はやくそれをおえてやってきた。木谷は射てき台の裏から「 おい、お前はだれだ ? 何隊のものだ ? どうして胸に ほおひげ すぐこちらに抜けでてはこないで、そのまわりを一回まわ隊号をつけんのか ? 何隊だ ? 」頬鬚の濃い士官は言っ って向う側から営庭の方へ出て行き、まるで営庭の方から た。それは他中隊の週番士官だった。 まっすぐにやってきたという顔付で便所の横の洗面所にあ「はい ? らわれた。 「なぜ、敬礼と声に出して言わんか ? なぜ敬礼をせん らようど 「木谷さん。」曾田一等兵は、丁度便所を終って手を洗い かっこう にきたという恰好で木谷のすぐ横の栓をひねった。木谷は「はあ , ーー」 ぎくっとしてふり向いたが、水道の栓が半ばこごりついて「なぜせんか。」 ちょろちょろしかでない水をそそごうとっき出していた両「はあーーー」 ひさし 手を動かすと、丁度雲の間からあらわれた太陽が前の庇の「何隊だ・ーー」 下から一すじの光線をおくりこんで木谷の手をてらしだし「ホ隊であります。」曾田一等兵は傍から言った。 た。すると曾田はその手首がまるでやけどでつぶれてしま「お前にきいてはおらん。」将校は言った。「おい、返事せ ったかのように、幾筋も肌がひきつっているのをはじめてんのか ? ー 帯みた。木谷は返事はせず、首から上を前へつき出した。そ「はあ、ホ隊であります。」 地して上眼づかいにじろ 0 と曾田の方をみた。それからもう「ホ隊じゃ、将校が、兵隊が一一人以上いるところをとおり 一度、首から上を前へつき出すようにおじぎした、「曾田 かかったらどうするか、おそわらんのか ? : : : おい、お前 真 はんでしたな。」 のその姿勢は何だ : : : それで不動の姿勢のつもりか。お前 じゅんい 「准尉殿がね、よんでられるんですが、すぐ行ってくれまのその眼玉は何だ、しよっちゅう、きよろ、きよろ動きま すか。」 わってるじゃないか : : : それにその体は、何だ : : : 全然左 せん
さっき ころがいま木谷は、曾田が林中尉のことを知らせてやった上彼は先刻の木谷の態度が一体どこからきたものか、それ にかかわらずそれほど喜ぶということもなく、眼を一点にが気にかかってならなかった、たしかに木谷があのように すえて、何か別のことを考えこんでいるようなのだ。木谷なったというのは、木谷が刑務所からでてぎたということ が班内のすべてのものに知れわたり、みなのものがそれを は曾田に自分の横に腰をおろせともいわなければ、さそい もせず、そわそわとして何かに気をくばりつづけているのロにし、問題にし、ささやきだしたところからきているの である。 である。それはそれ以外に考えることはできないことであ 曾田は事務室から中隊当番がよびにきたので、またくわる。それは曾田の不安をかきたてる。もはや班のものが木 じわる しいことがわかったらしらせてやるといっておりて行った谷に意地悪な眼をむけていることは明らかなことである。 が、木谷は、「曾田はんたのみますぜ。」といっただけだっ班内の一人一人の眼はなにかというとものめずらしげに改 かんごく た。しかし曾田は事務室にかえる前に便所へ行ってでてきめて木谷の上にそそがれていたし、監獄がえりという言葉 いしろうか てみると、靴をもった木谷が石廊下をつききって、外へでは地野上等兵の口からでると同じように何かけがれた色を て行くのをみてはっとした。たしかに木谷は二中隊へ林中つけて班内を行き来しているのだ。そしてそれこそこれま 尉のことをしらべに行くのではないかと曾田は直感したで木谷がもっとも心配していたところではないだろうか。 ・、、はたして林中尉がいま頃まで部隊にいるかどうかは疑一体木谷は今後このような班内でどのようにしてあと七カ わしかった。こんな時間にもう林中尉はきっと家へかえっ月の期間をすごすだろうか。たしかにこのような疑惑と不 けいべっ 審と軽蔑と敵対の眼が、彼の上にそそがれるというのは、 てしまっているのではなかろうか : 木谷自身に原因があるとみることもできる。なぜといって 木谷は帰隊してからすでに十日以上もたっというのに、ま 帯石廊下に飯鑵を炊事にとりに行っていたものたちがかえだ帰隊当初と同じように、ずっと寝台の上にすわりこんだ ままで、班の掃除や整頓などについては全然協力しようと 地ってきたらしく、さわがしい声がその方にあがっていた。 曾田はそれをとおくの方にききながら、不寝番の名前をきしないばかりではなく、ときどきだれにも行き先をつげな 真 いで姿をけし、どこかをほっつきあるくという状態だっ め、それを黒板にかきだした。しかし彼は今夜の不寝番に た。最初は古い兵隊たちも、そのうちに木谷が班内の事情 は既に野戦行きに予定されているものをつけるということ 3 はしたくなかったのでえらぶのはかなり手間どった。そのに少しなれてくれば、班の仕事を手伝うようにもなるだろ すで くっ