週番 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 39 野間宏集
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1. 現代日本の文学 39 野間宏集

: ほんまに : : どんな気いでいるね るように思えた。彼が寝台の上にたっている相手を見上げ「お前ら、なんやな・ : ると、相手は早口になり、言葉につまった。申告をやかまん : : : ー古い兵隊が言った。 しくいう班長は、ここにはそんなにいないです、申告はも「三年兵殿、週番下士官がよんでられます : : : 事務室ま 則とはちごてるかもしれへんけど、 で、きてくれて。」班の廊下のところで中隊当番がロに手 うやかましくはない、 と彼は言った。 をあてて大きな声で言った。 「うちの班長だけにきちんとやっといたらいいですよ。班すると曾田の顔は見る見るくもった。「おい、豊浜、な うまじゅりよう 長のうちで一番うるさいのは、松市班長やけど、馬受領にんや。」 行ってて一月ほどせんとかえってきませんから、かえって「週番下士官殿が : : : 」 きたらすぐ言ったげます。そら、その日にすぐ申告しとか「週番下士がどうした : : : ちっとは、休ましたれ : : : なあ しいながらも、当番がよ ・ : 休ましたれ。」三年兵はそう、 んと、おれの班にそんな奴いたかしらんというようなこと 言いだしよるから。」 んでいるからと木谷に言って出て行った。 「はあ、よろしゅうたのみますぜ。」木谷は相手の指が顔木谷が自分の寝台の上にかえるとストー・フのところか ら、またさわぎがきこえてきた。 や体と同じような感じで余り太くないのを見た。 * おおすみ 「大住班長の方は年とってて、もののわかる班長ですけ「おい、安西、これお前何や : : : おい、これで薪をもって ・ : なんや : : : こんなもん、一ペ : ・吉田班長がうちの班長で他の二人は班付班長やけかえってきたつもりか : ど。今度吉田班長が兵器班長になる命令がでるんで、そしん、もやしたらしまいやないか。」 「はい、上等兵殿 : : : 自分は営庭をぐるっとまわって、さ たら大住班長が班付から班長になることになってるので、 そのつもりでいやはったらいいでしよう。」彼は次第におがしたんでありますが、これだけしかとれなかったんであ ります。」 帯ちついてきた声で言った。 地「今度の外出のとぎ、一ペん学校行ってみたいな : : : 」一一「何 ? 営庭をぐるっとまわった ? よし、どこからどこ へ行って、どこでどうしていたか言ってみろ。」 人の後で初年兵が言った。 か、 うまや ほうしよう 真 ・ : あのー、先ず砲廠の裏から厩へ行き向うの垣を いきとう「はい 「学校なんていって、お前どないすんねん。 ないことないけど、俺やつばり家で一日中、ねてるわこわそうと思って寄ってみたんですが、もう、みんなが折 り取ってしまって、垣は一本ものこっていないので : : : 」 やっ

2. 現代日本の文学 39 野間宏集

逃げやがってみろ。」彼は声を大きくしてまことに荒々し体に外へ出すな。」彼のふりむいた顔は片方だけがなま白 く初年兵の方へせまっていったが、何のすべもなく全くあくゆがんでいるように見えた。・ : このようなさわぎのな わててしまっていたのだ。用水兵長は、すぐに下士官室にかでもっとも気をもんでいるのは二年兵と補充兵だった。 連絡を取らせて、古年兵を二人っれて、事務室へ行き、さ彼らは頭のわるい、動かない地野上等兵の全く一定しない らに、週番士官の命令で衛門の方まで様子をみに行った。命令で動きまわったが、彼らの行動はむだにひとしいもの 曾田は安西一一等兵がひょっとしたらもう帰ってこないのでオナ ・こっこ。しかし兵隊は動いておれば気がすむものである。 曾田は事務室にとんで行ったが、五分前だというのにま はないのかという気がちらとして、逃亡兵となった安西が 巨大な重い石の下におしつぶされて行く様をかんじた。彼だ安西はかえってきていなかった。 が寝台のところから前をみると、木谷がまるでけもののよ ジリジリジリリン : : : 衛兵所から電話がかかってきた。 うにきき耳をたてて、じっと班内をみはっている。彼は木週番下士官は自分ではしりよって、受話器をもどかしそう 谷のその姿にぎくっとして、右手を上衣の胸の物入れにつに取った。・ ・「は、は : ・ : はあー、衛丘 ( 所・ : ・ : なに : ・ き入れた。彼はしばらくその様子をうかがっていたが、彼はあ : : : 」彼は週番士官の方へふりかえって、送話器のロ もこのさわぎをよそにして班内にとどまっていることはでをふせていった。「週番士官殿 : : : 衛兵所からです : ・ きなかった。しかし彼が班内を出ようとしたとき彼は地野ホ隊、外出者異常の有無報告がまだでてないが、すぐだす 上等兵の怒声に後をおそわれて、ちょっと、ふみとどまらようにと言っています。どうしましよう : なければならなかった。 「よし、報告してくれ : : : もう、これ以上まてんからな。 「初年兵 ! きさまら、お前の同年兵がもどってこんいう このときに班内にすっこんでやがって、ちっとも心配にな「中隊当番、中隊当番、その台の上の報告書もって、 帯らんのか、同年兵ゃないか、衛門位までみに行ってきてやすぐ行け。」週番下士官は言った。「衛兵所ですか・ : : ・ホ隊 地らんか。」地野上等兵は事務室へかけつけようとして班内一名、外出者がまだ帰隊しておりません : : : 初年兵です へもどってきてどなったが、またすぐにあわててこの自分 ・ : 安西一一等兵。」 真 の言葉を取消した。 また、電話がかかってきたが、衛兵所だった。安西一一等 「ええ、えい。初年兵動くな。みんな初年兵、ここいかた兵は今朝確実に外出したのかどうか、今朝一緒に衛門をで まっとれ。外へでるんでない。今井たのむそ。初年兵を絶たものがいるかどうかしらべてくれという要求だった。そ

3. 現代日本の文学 39 野間宏集

とがっているのを見た。 等兵の前まで歩いて行ったが、こんどは小さい甘い声でつ 「おい、田川、部隊長訓をいってみろ。」班長はひょいとづけた。「おい、どや ? こんど、俺は、外泊確実か じゅんい うてた。 ・ : おい、外泊くれなんだら 体を返して木谷の列のなかにいる初年兵を指した。すると准尉さんどないい 木谷から一一人ほど左にいた安西一一等兵が体をふるわせたのな、こんどはきっと、塩漬けやそ : : : 」 兵隊たちは笑った。しかし曾田一等兵はただにやにやし がはっきりわかった。 「はい、一ッ互いにいましめ合うこと。二己を捨てろ。三ているだけだった。木谷はじっとその方をみていた。 うそ 「点呼 ! 」週番下士官が下の廊下でどなった。「点呼。」 嘘を言うな。四誠心に生きろ、であります。」田川二等兵 てんじよう 点呼ラッパ ; なり渡っていた。 は言った。彼は眼を天井に向けていた。 「気をつけ ! 」班長は廊下に立って号令をかけた。兵長は 「あほんだら。初年兵係。」班長は言った。 「はい ・ : 」地野上等兵が言った。 すぐ横の寝台の前のいままで開けてあった位置にはいっ 「初年兵係、お前の初年兵さん、ほんまに頭がええなあ。 あほんだら、出直してこい。」班長は言った。 白赤の週番肩章をかけた週番士官は週番下士官をともな 「はい。」初年兵係は言った。「田川、おすけ野郎、お前班って威勢をつけたはげしい「点呼の勢い」でやってぎた。 班長は敬礼して、総員を報告し番号をかけ異常なしと言っ 長殿から質問されたら先ず不動の姿勢とらんか。」 「はい。」田川一一等兵の声はいつものように悲壮だった。 彼は不動の姿勢を取った。彼の上には点呼後何が起こるか眼のくりくりして背の低い週番士官は兵隊の列の前をあ はっきりしているのだ。 るいて一人一人の顔色をしらべて行った。それがすむと彼 「あほんだら、おそいわ。」班長は言った。「おい、曾田。」は形式通り銃架と整頓に眼をやった。 帯彼は曾田一等兵の方へふり向いて言った。 「おい、大住、班長はどうした、吉田班長はどうして点呼 をうけんのか。」週番士官は言った。 地「はい。」曾田一等兵は言った。 かしよう かせ うまや ・ : 風邪をひいていま臥床 「は。吉田班長でありますか。 「何やこの勤務のつけ方は、俺の班から一一名も厩当番につ 真 けやがって : : : それに、炊事に将集。勤務ばっかりで班内中であります。」大住班長は低い気取った声で言った。そ 5 からつばやぞ。貴様、この班にうらみがあるのか、あほんれが彼がこの少尉に対する抵抗たった。 「そうか。よし。」週番士官は言った。それから彼は巧み だら。四つに折って塩漬けにするそ : : : 」班長は、曾田一 おのれ

4. 現代日本の文学 39 野間宏集

240 。ほんまに花枝 かとそればっかり気にしてたやもんな とその身をよせようとした。 彼の言葉は営舎の方のやつがどないおもてるやろうと気をもんでたら、「おい 木谷は歩きながらさらに話したが、 , 、弱々しかった。木谷、花枝はんは、おれらがかえりには泣いてたが に近づくにつれてもう非常に低声になり じようだん そうちょう おれ な、しくしくと』と憲兵が戯談のようにいやがったんやけ 「俺がな曹長室に入れられ、それから憲兵隊につれて行か れたとき、一番つらかったのは、同年兵に会うということど : : : そら、俺にわるい証言をしときやがって泣いてるい だしたな : 。同年兵が食事を班内から曹長室の俺のとこうのをきいたとき、ほんまに殺してしもたりたいとおもい へはこんでくれよるんやけど、じろっとのぞいてかえってましたな。」 行きやがるんや : : : みせ物みたいに : : : 食事もってきやが こうたい る奴が、いつもちごうてて、交代でのぞきにきやがるんや : ・。俺は曹長室でじっとねころんでたけど、朝おきて顔事務室で曾田は外出からかえってきた兵隊から外出証を をあらいに行くとき、便所に行くとき、部屋をでてみなに 受取り、外出者名簿に各人の帰隊時刻をかき入れた。彼は ていてつ 会うのが一番いややった : : : 曾田はんそらつらい・せ : 染一等兵がかえってくるのを待っていた。染に蹄鉄のこと 憲兵隊では竹刀でごんごんなぐりやがったけど、それはまを頼まなければならなかったし、染が木谷の手紙を入れて いやいまはもう面の皮かて、体の皮かて厚うきたかどうかそれをたしかめなければならなかった。或い た別や : ・ なったけどな : : : 刑務所では一年中頭から毎日十五分間水は染が木谷の心配していたように、直接に山海楼までそれ をもって行っていはしないかという不安もなくはなかっ をかけやがるよってな。」 最後に木谷は花枝のことを話したが、そこには彼の嘆きた。彼は事務室の前で「はいります。」という声がかかるご とに染の声でないと知ってがっかりした。 : : : 曾田は今日 がにじみでた。「あれは、ほんまに憎たらしい女です・せ。 ほん A 」に、 こっちではいちずにおもいこんでて、心のうち公用外出をすることができなかった。彼が馬運動から引き にあることみんなかくさず、しゃべってしもて、その気にあげて週番士官のところへかけつけたところ、今朝はお前 なってたのに、それがみんなうその皮やったんや : : : ただに俺の家まで行ってもらうことにしてあったが、お前のく ところがるのが余りにもおそいから、もうほかのものに代って行っ し・ほりとる一心で向うはいてやがったんや : てもらったというのだ。たしかに曾田は木谷と話して午後 俺はな山海楼へ憲兵が調べに行ったということをきいて、 あいつらが花枝に一体どないおれのことをいうてやがるのの時間一ばいをつかったのだ。週番士官がおこって他のも つら ある

5. 現代日本の文学 39 野間宏集

しつよう のを使いにだしたというのも無理のないことだった。しか はいいふらしていた。しかしその仕打ちは余りにも執拗 しそれとわかっていたのならば、曾田は木谷ともっと話しで、週番士官にたいするヘつらいにみちていた。とすれば 合って、軍法会議や刑務所のなかのことをきいておくべきそれは週番勤務あけに、外泊のロぞいをしてもらおうとの だったと残念だった。 ・ : それに彼はたとい三十分でも衛こんたんが明らかにみられるようだ。「もとへ。それが外 門をくぐって外界の空気にふれたかったが、それももはや泊をとまって一日中週番勤務をつとめていられる週番士官 できないことだった。週番士官は融通のきかない将校とし殿にたいしてとる態度か ? よおー。」彼は言った。彼は て通っていたので、ちょっとした用事をつくって曾田にそ兵隊の上衣の物入れを一つ一つ手でさわって検査した。 れを命じ、外出させてやるというようなおもいやりを示す「へえ、ふくらしてやがるなあー、おい、こい、食物入れ などということもありえなかった。 てるんやあらへんやろな。くいもん入れてるんやったら、 かけあし 兵隊たちは衛門から中隊まで駈足でかえってきた。兵隊このおすけのおれのとこいおいとくんやそ。」彼は机の向 たちは衛門に近づき門をくぐって再び部隊のなかにはいるう側で外出証の整理をしている曾田を笑わせようとして、 ということにはぐずぐずしていても、衛門はやはり眼をつ奇妙な声を出したが、曾田は笑わなかった。彼は笑いをこ らえた。 むってでもくぐって、かえってこなければならなかった。 ・ : 兵隊たちは事務室の前でボタンの線をただし、上衣の「第何班 xx 本日外出先異常なくかえりました。」兵隊た あいさっ 裾を引き、帽子をもちかえ、列をつくってなかへはいる順ちは週番士官と下士官に挨拶をすませると、曾田のところ にやってきた。 番をまっていた。「はいります。」兵隊たちは週番士官の前 「三年兵殿、外出帰隊の挨拶させて頂きます。」兵隊は言 にすすみでた。すると、これまで付いていた外界の貴重な 空気は彼らの服の上からこ・ほれおち、流れ去った。週番下った。「ええがな。」曾田は言った。 帯士官は今日は外出してふにやけてきたやつらに気合を入れ曾田は間もなく帰隊してきた小室一等兵と時屋一等兵に 地てやるのだと言って入口近くに竹刀をもって肩をつきだし外出証の整理の方をまかせておいて班内にかえって行っ こ 0 ていた。曾田はこの小肥りのした小生意気な週番下士官が 真 嫌いだった。この男の兵隊たちにたいする小細工をろうし「三年兵殿、はよう、おりておいなはれや、今日はもって かえってきましたぜ、砂糖たんともってかえってきました た意地悪な仕打ちというものは兵隊の間でも有名だった が、それは飯の盛り具合一つでどうにでもなると兵隊たちぜ : : : 」小室は言った。曾田は染のことが気がかりになっ すそ

6. 現代日本の文学 39 野間宏集

一豐入院下番入院から下りて内務班にもどること。「下番」は いう題名で「人間」に発表された。「曾田」という人物がこの 軍隊用語。週番の任務から下りたときも、「週番下番」などと あたりから意味を持ちはじめる。とくに第一一章が「曾田」が中 心。この作品は「木谷」と「曾田」を交互に中軸にしつつ話が 一四四一期入営後、幾月かの訓練を経て ( それが一期 ) 、その成 すすんでいく。 果を上官に検閲してもらう。 一公一満期操典「操典」は、のっとるべき教科書のこと。普通、 一四四兵長伍長の下位。上等兵の上位。兵隊としては最上位で、 「砲兵操典ーなどといかめしく使われているのだが、ここでは 下士官の役割をも果たす。 兵隊のもっとも望む「満期」 ( 期満して除隊になること ) にひ 一四五飛田大阪の南、天王寺の近くにある遊廓。北の曾根崎と並 つかけ、野卑な猥談に仕立てあげたもの。毎日が抑圧されてい 称されていた。 る故、内務班では、いじめあったり、猥談に流したりして解放 一四六酒保兵営内で、日用品、飲食物を売っているところ。 感を味わうことがしばしばであった。 一四九一ツ軍人は : 明治十五年一月四日、明治天皇によって陸一会せんつう疝痛。痛みの強い腹痛。 海軍人に賜った軍人勅語の一節。国家、天皇への忠誠と軍人と三 0 馬運動ここの場面で、「木谷」は突然雄弁になり、みずか してのモラルが強く要求されているもの。 らの過去の一端をしゃべっていく。 一五五大住班長同じ下士官同士のこの大住と吉田との対立は、そ三五幹候幹部候補生の略。現役兵のうち、幹候になる資格ある のまま部下たちの不和にきわめて露骨に波及していく。 もの ( 旧制中学以上の学歴 ) は、この制度を生かして志願して 一合教範類「軍隊内務書」「作戦要務令」「砲兵操典」などの類。 将校 ( 甲種 ) 、あるいは下士官 ( 乙種 ) になっていった。 一つの怪物がヨーロツ・ ( を : : : 「共産党宣言」の冒頭の一 一実女の小きざみな軽い下駄の音「木谷」の「花枝ーへの強い 句。「染」のような庶民出身の男が、内務班のような場所で、 執着、それは「兵営」外の女への異常な関心に結びつく。 平然と、急にこの一句を口走る。とくに意識があってのことで一三六大軌大阪電車軌道株式会社の略。現在の近畿日本鉄道の前 ーないが、読者は、思わずはっとして、以降、「染」の行動に 身。かっては大阪の上本町から奈良に至る線が主要ラインであ っこ 0 注意する。 解一六三林中尉 : : : 「木谷」のいかにもいわくありげな思いや行動 = 六経理室内の一一つの勢力の対立この作品は、小は、丘 ( 隊同士 は、これからの展開に興味を持たせる。「木谷」という小さな 内務班同士、下士官同士の対立から、大は、軍隊経理の関係者 存在から、軍隊惻度全体のゆがみが指摘されていくのである。 への対立に及んでいき、この「木谷」をまきこんでいくのであ すでにここにおいて、林中尉、金子伍長、岡本検察官、中堀中 る。対立、不和が、執拗にいくつも描かれていく。 尉らの名がつながって出ている。 一入五偕交社陸軍の将校たちの社交を主とした集会場。 一会真空管この作品は、はじめ最初の部分が「真空ゾーン」と一自分をもっている陸軍一等兵としての「曾田」と、軍服を 425

7. 現代日本の文学 39 野間宏集

ほわいちゃ : : : なにいうてんねんな ほわいちゃ。す 馬が。」誰かが馬の下からどなったが、その蹄を洗うタワ : たててやがって、ほしいか : : : びこんとた 四シの音は、あらあらしくいかにもさむそうだった。曾田はけ、すけ、 、なんや、お前ら、その辺で 馬が鼻をならしている間をずっと歩いたが、木谷をみつけててやがって、ほしいか : ・ほさーっとたってやがって、上等兵殿が、こないして、タ ることはできなかった。馬をこすっている手入兵たちは、 うまや みな木谷は厩にはこなかったと言った。曾田は初年兵のワシもって洗うてはるの、だまってみてやがるのか : : : よ 頃、この馬の手入れで、冬には指がひびわれ、泣いたことつ、そのー、たてー、たたんか。上等兵殿のもってるタワ しい合っては、西からシを取りに行くんじゃ : : : 上等兵殿に馬手入れなんどさし を思いだす。手入兵たちはぶつぶつ、 ふく風を馬の背のかげにかくれてふせぎ、厩週番上等兵のて、そばでみてやがって、初年兵としてはずかしゅうない ー染一等兵だ。どなられているのが初年 「手入れやめ」の号令をかけるのをまっていた。曾田は厩のか : : : おい : の一番端の石畳をしいたところに一「三人のものがかたま兵だとすれば、初年兵が砲手入れをすませたのち、馬手入 っているのをみつけて近づいてみたが、そこにも木谷はいれの方に廻ってきたにちがいないのだ。 「はー なかった。彼らの話しているのは野戦行きのことであっ 。二年兵殿。」それは安西一一等兵のあのきばった ような声である。曾田はすぐにその声の方にはしっていっ た。曾田はとつつかまらないように、すぐ厩の入口をはい たが、染はまだどなりつづけている。 って厩当番にきいたが、当番は二人とも木谷をみなかった 物いお 2 リ ねわら と言った。彼らは乾してあった寝藁を入れおわって、飼桶「おーい、初年兵さんよ、お前ら、馬ころしてしまうつも に馬糧を入れてまわっているところだった。一体木谷はどりか、そんな前へまわってやな、そんなとこい水をすてた ・ : もうこれで彼は中隊を全部さがら、馬がすべって脚おってしまうぞ。おい、初年兵さん、 こへ行ったのだろうか : したことになるのだが、いないとすれば、木谷は中隊には馬と砲と間違うてくれたらこまりまっせ : : : そら、どっち いないことになる。・ : ・ : すると曾田のうちに、或いは木谷かて、なでてやな、うったらんとあかんけんどやな : : : 砲 よ : ・ : 。たかい金だして大 : という考えがうかんできて、彼を恐怖におとし入れと馬の区別ぐらいみたらっくやろ : しゅほ る。木谷は逃亡したのではないだろうか。いや、酒保かも学へ行てきたんやろ。」 知れんぞ。 染は曾田が近づいて行くと、くらいなかでちょっと、あ まっげ の睫毛の長い眼をまばたいて、はずかしそうにした・、 このとき曾田がよくききなれた声が厩の南側でした。 「ほわいちゃあ、どんすけ、ほわいちゃ。ばーく、ばーく、「三年兵殿、わざわざこんなところまで、何か御用だっか。」 ひづめ ある

8. 現代日本の文学 39 野間宏集

だ刑務所の独房のなかで、毛布にくるまって、今日のことろにたって班内を見わたしながら、低い気取った声で言っ をいろいろ考えていたが、隊にかえってきてから自分の過た。点呼の位置とは真中の廊下のところはあけておいて、 去を班のものにかくそうなどという考えはもっていなかっ廊下よりの四つの寝台の前に立った兵隊に各寝台の兵隊が た。彼は隊に着いて、班内で聞かれたら、「将校の金をぬ右へならえをしてできるものだった。兵長は一「三度番号 すんでな、つかまったんや」とあっさり言おうか、それとをかけて、列を正した。番号は二十一だった。どうもおか も「そのうちにおいおいわかるがな」とだけ言っておこうしいそと言っているとき、曾田一等兵がかえってきて、木 かなどと考えた。そしてその時勝負でどうでもええやない 谷の列と向かい合っている列の一番右に位置をとった。兵 かと思っていた。そのように昨夜の彼の心も体も弾んでい長はまた番号をつけさせて、「今日は一名増えたんやった : よし」とやっと思い出して言った。木谷は刑務所の た。とにかく何かができるところに出て行くんだ : う思いで : : : 彼はみちていた。しかし一たびこうして帰っ炊事は今夜は一名減員して飯をたいただろうと思ったが、 てきてみると、そのようなわけこよ、 冫をし力なくなっていた。 それと共に今日隊の週番下士官は一体日報をどう切るのだ どういうわけか、彼の心にそれをかくそうという考えが動ろうか考えた。給与人員一名増、一名の増は陸軍刑務所ョ いてきた。そして彼はもう朝からしつかりとそれにとらわ リ受入とするのだろうか : : : しかもその増員は一班増と明 れたも同然だった。ーー彼は寝台を入れるから、そこをのらかに記されるのだ。木谷が以前週番上等兵のとき、彼は めしあ いてくれと初年兵に言われて、はじめて、そこの掃除が終週番下士官の切った給与伝票をもって炊事に飯上げに行っ ったことを知った。彼は曾田一等兵がはやくかえってきてたことがある。ああその給与伝票にはたしかに、「木谷一 くれないかと待ったが、曾田は仲々事務室からかえってこ等兵陸軍刑務所ョリ」と記入されるのだ。『くそったれめ」 てんこ なかった。曾田がかえってきたのはみなが点呼位置につい彼は思って斜め前の曾田一等兵の髪ののびた頭をみた。 くっ 帯て整列しているときだった。彼はそれをみつけて点呼が終「右へならえ。」兵長が号令をかけた。もう一度靴が床板 地ったら、何よりも先ず曾田のところにとんで行って、誰にをする音がざらざらとした。 も自分のことを言わないでくれと頼もうと考えた。しか「おい、誰だ : : : さっきから、腹つき出しやがって : : : 右 真 し、実際点呼がおわったときには、彼の足は前には動かなへならえがわからんのかい。 ・ : 」木谷の列の右翼のもの 。彼は曾田一等兵のところへは行かなかった。 がとんできたが、それが木谷だとわかると、「おいお前、 「点呼の位置につけ。」先任兵長は廊下のつき当りのとこはらがでとるそ : : : たのむそ : ・ ーといってもとへかえっ

9. 現代日本の文学 39 野間宏集

416 「おい、名前をいえ、名前を。」「はっきり言わんか。」衛れかえ、御奉公するんだぞ、というのだ。じつにそれは不 兵所で鼻の大きな衛兵司令は、白い息をはいて何度もきび思議なことだった。処罰一つおこなわれはしないのだ。 しい声で言った。ただちに迎えにきた週番士官は週番司令「ええか、木谷、わかったか。准尉、よくもっといいきか に、週番勤務を厳にせよといわれて、木谷にごっごっ当っせて、おしえてやれ、 しいか。おしえ方がたりないぞ、准 た。曾田もきていた。曾田は何もいわず、じっと後から彼尉。」隊長は言った。 を見守るだけだった。全員がたたき起こされた中隊のもの「木谷、準備はできたか、そうか、うん、足の傷はもう、 たちは、木谷が週番士官につれられてかえって行くと、ど手当をしたか。そうか、 ・ : じゃあ、行け。体を大事にせ どろ っと入口におしよせたが、泥だらけの木谷をみて、ああとえよ。それからこれはあずかりもんや、かえすぞ。」准尉 言った。それから木谷は将校室にはいって、弓山と補充兵は最後に言って、封筒にはいったものを渡したが、それが のもってきてくれたものにきがえたのだ。彼の身体は一晩花枝の写真であることは、なかをみなくとも、木谷にはは 中ふるえていた。そのふるえはどうしてもとまらなかっ つきり解っていた。 じゅんい そうらよう じようい 翌日准尉は週番士官から木谷をうけとると、曹長室につ その花枝の写真は彼の上衣のなかの軍隊手帳の間にあ れて行って、「木谷か、お前、それほど野戦へ行くのが、 る。それは前髪にしてちょっと遠方をみつめているような こわいのか。」と繰返しながらなぐったが、木谷は起上る眼付の半身像である。それはすましてよそ行きの顔にうつ と「金子軍曹に会わしてくれ。」と彼の方も繰返した。 っている。それは木谷のそばに近づいて少し大きな眼とう 「必要ない。」准尉は言った。 すい頬とに茶目の笑いが浮びでるあの花枝の顔ではない。 木谷は午後隊長室へよばれて行った。隊長は型通りおこ花枝は高等小学校のときに、髪の毛にいたずらした男の子 てぬぐい ってみせたが、ただそれだけで、いままで副官と週番司令を、手拭におしつこをつけたのを手にもって、おいまわし と相談し、部隊長殿にも申上げた、するとかえってきたばてやったという。彼女は岡山の北の方の農村に生れたが、 かりのお前を再びつみにおとすのは可哀そうではないか、 自分からすすんで、父に申しでて大阪へきたという。村へ しゅうせんや よくいいきかせよという部隊長殿のお言葉があったので、 は毎年、大阪から周旋屋のおっちゃんが、口説きにきて、 今回はお前を罰することはしない。しかし部隊長殿のこの娘をつれてかえって行くという。契約は長くはないが、そ 御心をきもに銘じて、向うへいって、こんどこそは心を入の約東どおり借金をかえして帰ってこられるものなどはほ かわ からだ ほお

10. 現代日本の文学 39 野間宏集

あてな とき、あっと小さい声をあげた。足を前につきだして、砂木谷は自分の出す手紙の宛名が曾田以外の中隊のものに 糖をさじですくっていた中隊当番はあわてたが、じろりと知れわたるのは、さけたいと思ったが、しかしもうこれ以 上、手紙をだすのがのびるということはたえられなかっ みた。 : はよう出してくれはるよ 木谷は自分のところに曾田がやってきたとき、今日外出た。「勝手やけどな、なんとカ するかしないかどうかをせきこんでたずねた。相手はすばうにしてもらえしまへんやろか。」彼は言った。 そめ やく木谷を事務室の外につれだし、今日ひるから多分公用「それやったら : : : 染知ってますね ? 染なら自分から頼 にでられると思うから、そのときには必ずあの手紙は入れめばちゃんとやってくれますけどあれなら大丈夫です。あ ・ : 整列、もう終ったな : : こらいかん : : : 」曾田は突然 られるだろうと思うと言った。 声を大きくしたが、もう隊長室の前のところから、身をお 「ひるから ? 」 すで 「ええ、ひるから週番士官にたのんで公用にだしてもらうどらせるようにして、外に出ていった。既に外出の整列は 終ったところだった。そしてなだれるように営舎の向うを ことになってるので : : : 」 えいもん ・ : そうでした衛門の方へといそぐ兵隊の群がみえた。曾田は帽子もかぶ 「何やて ? 昼から ? 昼からだっか ? 。でもならず、上靴のままはしって行ったが、やがて染をつれても か、あんた今日は外出しやはらしまへんのか : 昼からはきっと公用で出やはり、まっしやろか。」木谷のどってきた。彼は染をそこに待たせておいて、木谷の方は ふりむきもせず事務室のなかにはいって行き、先日木谷が 顔はもう牛のようにふくれ上っていた。 「さあー、そらでられますよーー週番士官の用で瓦町までたのんであずけておいた一通の封筒をもってきた。 「三年兵殿、なんだんねん ? 一体 : : : 。へえ : ・ : これだ 行くことになってますからね。」 つか、よろしま よろしま , ーー、花枝さんだっか : 「そうでつかな : : : でられまんのやな・ : : ・」 。その代り、こら、不寝番 : : : 一「三日、か 「あのあずかった手紙をはやく出してきてあげようと思うよろしま : て、考えてるんですけども、ひとに頼むのはいかんやろおんにんしたんなはらんとあきまへんで : : : 」染はにやにや もうてしているのでまだうまくいかへんのですよ。ひとにしながら後にいる木谷の方に眼をうっして行った。彼は歩 頼んでもいい、 というのなら、それやったらこれから外出筒を二つに折って上衣の物入れに入れはじめたが、ここへ する兵隊にたのんでだしてきてもろてもええんやけど入れたんではあぶないと言って再びそれをだしてきて、上 衣の前をあげて腹のところに納めたが、そのとき彼はもう じようか