安蔵 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 40 堀田善衛 深沢七郎集
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1. 現代日本の文学 40 堀田善衛 深沢七郎集

376 と言って、大きい声で、 「逃げたぞ」 と言うのである。おけいはお屋形様だちの中に入り込ん「お母ア、ここにいては駄目だ」 と言った。おけいはここから離れるという気にはなれな でいた。それから、お屋形様は急ぎ足になった。少したっ と止った。そこでおけいは「お母アお母ア」と言う声を聞かった。 ( 安蔵と平吉は甲府へ行って、用をすませれば家 へ帰るだろう。二人だけはここから帰らせれば、自分な いた。平吉の声である。それから、おけいは平吉が目の前 ど、どうなってもかまわない ) と田 5 った。平吉に指をさし に立っているのを見つけた。横で安蔵が目をキョロキョロ て、 させていた。平吉が、 「お前だち二人は早く行け」 「お母ア、これから甲府へ行くのだ、二人で」 と大きい声を出した。 と言って安蔵の方を見た。それから、 「そんなことを言わずに帰れ」 「家の方へ行くのだから、お母アを送って行く」 と、横から惣蔵が言った。惣蔵を見ると、去年生れたヤ と言うのである。 ョイをおぶって立っていた。その横にウメが着物を裾から 「ウメをここへおいてか ? 」 高くまくり上げてこっちを見ていた。そのうしろに嫁が立 と、おけいが言うと、 わらじ っていた。草鞋をいて立っている足のうしろには今年五 「ウメは」 ツになる久蔵が、ぶら下るように嫁の腕を招んで田螺のよ と言って首を横に振った。おけいは返事をしなかった。 うな目を開けておけいの顔を見ているのである。おけいは 返事もしないで動かないでいた。そこへ惣蔵が来て、 かく 「敵がこんなにそばまで来たのだから、お屋形様はもう覚 ( ここから行くものか ) と、また思った。平吉と安蔵に、 悟を決めている。平吉と安蔵はこれから甲府のお聖道様の「まごまごしていないで、早く行け」 と、おけいは纈ぎ立てるように言った。それから嫁のそ 所へ行くのだ、お屋形様の心配はお聖道様のことだけだ。 ばへ行った。久蔵の手をんでそばへ引きずり寄せて、 目が見えないお聖道様が敵の手に渡れば、どんなことにな るか、お屋形様の心配はそれだけだ。これから行って、早「今まで歩いていたのか」 と言った。抱き上げて背中へまわしておぶった。 くお聖道様に死んでもらうように知らせに行くのだ」 「いざとなったら、一緒に死ぐから」 と言った。平吉が、 と言って、おけいはわあわあと泣いた。泣きながら安蔵 「丁度行く道だから」 ため たにし すそ

2. 現代日本の文学 40 堀田善衛 深沢七郎集

と聞いた。安蔵は北の方へ指をむけて、 日が暮れて夜あけに田野の西の村へ出た。村の人に聞くと、 「山の方へ」 「下の方でいくさをしていやす」 と言った。平吉は一生懸命馬を走らせた。山道へ入る と言うので急いだが、田野へ着いた時はお屋形様だちは と、馬が動かなくな 0 たので安蔵だけを乗せて平吉は馬の死んでいた。行列の人達も死んでいた。ぼ 0 ぼっと音をた 口をとった。 ててまだ息をしている者もあった。おけいもウメも嫁も一 「お屋形様のいる方へ、この山の奥は塩山の方に出られる緒にな 0 ていた。嫁はヤョイを抱いていた。おけいは両足 から」 をひらいてうつ伏せになって、背中を大きく斬られて転が と、安蔵が言って、山道を夜も歩いた。馬はすぐ弱った っていた。 ので乗り捨ててしまった。安蔵は左足を斬られただけだが「惣蔵兄ゃんは ? 」 だんだん歩けなくなって、平吉が肩を貸して歩くのだが背と、安蔵も平吉も探しまわったが見つからなかった。そ 負うと同じだった。三日も歩いて川の所へ出た。 の頃惣蔵は、五ツになる久蔵を刺し殺して、天目山の入口 がけかど 「笛吹の川かみだ」 の崖角に隠れて、通る敵を片手で斬り倒していた。左手で と、安蔵が言 0 た。川しもへ行くと家があ 0 た。馬があ藤づるを撼んで身をささえながら一人しか通れない崖の曲 ったので黙って引っぱり出して、二人で乗って山道を下っ り角で、 ( お屋形様の御最期までは、敵を寄せつけるもの て行った。笛吹の川幅が広くなった村で、お屋形様の様子か ) をきいた。 と、一人斬っては崖下へをした。斬らなくても足を踏 「ずっと裏山のむこうの、田野でいくさをしているそうでみそこねて崖下へ落ちる奴もあった。崖下の川の流れは騒 がしかった。片手で刀を振り上げながら ( んでいる藤づ と言うのである。 ( それに違いねえ ) と思 0 たので、「どるが切れれば俺もこの川へ落ちるのだ ) と思 0 た。 ( この 吹っちへ行けば田野だ ? 」 川しもには笛吹橋があるのだ ) と思った。この ( 川の血も 家の方へ流れるのだ ) と思った。 笛 「その川に沿って上れば山の裏でごいす」 惣蔵は田螺のような目を開けて、 と言って、右側の枝川に指を差した。枝川を上って行く ( お屋形様の事切れるまでは ) と道はせまく急坂になった。馬を捨ててまた歩いた。山で と、片手に刀を振り上げて、片手の藤づるがちぎれるま たの えんざん たにし

3. 現代日本の文学 40 堀田善衛 深沢七郎集

年があけて早々、惣蔵は帰って来た。八代の虎吉の手下めて来る」 3 になっているというのである。 惣蔵はそう先を見てとったというのである。 「それじやア、お前を虎吉に預けておくというもんだ」 「その時は一働きして見せるから、お前も飛んで来い」 と定平は言って、いくらか気安めになった。 と、平吉に言い置いて帰ったのだった。惣蔵がいくさに おおすみかみさま 「虎吉なんて言うもんじゃねえよ、今は大隅ノ守様と言っ行ったのは、定平に内緒で八代の虎吉が誘ってくれたと言 うのである。 てえらくなってるだから」 と、怒るように、教えるように惣蔵は言った。 「それだから、俺も内緒でお前にだけはあかすのだ」 「それじやア、大将になったというもんだ」 と言って、惣蔵は平吉にだけは何もかも教えてやったの ・こっこ 0 そう言って定平は驚いた。惣蔵は一晩泊っただけで行っ 惣蔵が嫁を貰った時に、 てしまった。行くときに、 「早く嫁を貰うように」 「嫁を貰ってボコが生れれば」 と定平が言ったら、すぐ虎吉の耳に響いて虎吉が嫁を貰と定平は田 5 った。思う通りに次の年ボコが生れた。男 だんな きゅうぞう わせた。虎吉の死んだ旦那の遠縁の娘で、男兄弟はみんで、久蔵という名を虎吉がつけてくれた。 ながしの な、去年三河の長篠の合戦で討死して身寄りのない娘だと「嫁の顔を見ないでも孫の顔は見てえさよオ」 いうことだった。嫁を貰うと、 とおけいが言うので定平とおけいは孫の顔を見に甲府へ 「ノオテンキの半蔵おじゃんは土屋半蔵という名だった」 行った。惣蔵の家は陣屋のような構えだった。嫁の血縁が そう虎吉が言って惣蔵は土屋惣蔵という名になった。惣絶えてしまったので家屋敷まで惣蔵夫婦のものになったと 蔵は帰る時に、そっと平吉に耳うちをしたのだった。 いうのである。嫁にも逢ったが、 「八代の虎吉が大将になったのは、去年長篠の合戦で大将「ギッチョン籠の家は嫁に見せたくねえ」 があらかた死んでしまったから、大将が減ってしまったか と、おけいも定平も申し合せて、 らだ」と言うのである。 「石和より東へ嫁を連れて来るな」 「今は大将が少ないのだぞ」 と、内緒で惣蔵にだけ言い含めて帰って来た。 と惣蔵は力をこめて言った。 次男の安蔵がいくさについて行ったということを聞いた 「三河の長篠で負けたから、敵は味をしめて近いうちに攻のはそれからすぐだった。 かご

4. 現代日本の文学 40 堀田善衛 深沢七郎集

なぎなた 片手に薙刀を持ってお聖道様を抱えるようにして立って いと安蔵は「大丈夫だ」と大声を出して立ち上った。その時、 た。安蔵は庭で三人の敵に囲まれていた。平吉は一人と向お聖道様は両足を掬われるように切られたのだった。どー い合っているがお聖道様には三人の敵が向っているのであっと音をたてて坐ってしまった。平吉は頭の中が、カッと る。お聖道様の方も心配だが安蔵の方も心配だった。 ( どなった。夢中で刀を振りまわして敵の中へ飛び込んだ。敵 うしよう ? ) と思った途端、うしろで何か音がした。振りが後ずさりをして、庭の方まで追っぱらったことを平吉は むくとお聖道様の胸に槍が突き刺されていた。 ( ッと思っ夢中で知っていた。安蔵が刀を振りまわしているのも知っ た時、安蔵がお聖道様の方へ駆けつけた。平吉もお聖道様ていた。敵が向うをむいて逃げるのを平吉は暴れながら見 の方へ行って、敵のうしろから斬りつけた。敵はこっちをていた。お聖道様の方へ行くと、お聖道様は坐ったまま、 向いて刀を振り上げた。敵はみんな上り込んでお聖道様にうしろへ倒れていた。 向ってしまった。お聖道様は胸に槍を突き刺されたままだ「お聖道様」 あしもと った。御寮人様はもう殺られてお聖道様の足許へ転がって と平吉は言って肩を起こした。安蔵もそばへ来た。お聖 いた。安蔵はお聖道様の胸の槍を、ぐっと引きぬいた。そ道様はロを大きく開けて目を開こうとしているのである。 のカでお聖道様は安蔵の方へ倒れかかってきた。安蔵は膝白眼をして身体をふるわせた。手も足も寒いようにふるえ うな をついてお聖道様の身体をおさえていた。お聖道様は唸るて動いていた。平吉は ( お聖道様は暴れようとしているの ような声を出して、 だ ) と思ったので、そっと倒すように、うしろへ寝かせた。 「斬れ」 それから安蔵に、 と叫んで安蔵の顔へ頭をこすりつけた。安蔵は黙ってお「お聖道様は死んだそ」 聖道様の身体をささえているだけだった。敵が平吉の横か と言って立ち上った。安蔵の手をとって抱えるようにし ら飛び込んでお聖道様の顔を横から斬りつけた。そうすて表の入口に行こうとすると、さ 0 きから吠えたてている るとお聖道様は血だらけの顔で小刀を振りまわして暴れだ犬が、こんどは平吉たちに向「て吠えながら後を追 0 て来 したのである。敵や安蔵だちの見わけもなく暴れだしたのるのである。入口に行くと乗 0 て来た馬はまだいた。安蔵 だった。平吉は安蔵が立ち上ろうともしないで片膝をつい を馬にまたがらせて、平吉もその馬に乗った。馬を走らせ ているのを見た。安蔵は片足をやられて血が吹き出してい ながら、 るのである。あっと思って平吉は急いで安蔵を抱え上げる「ど 0 ちへ行くか ? 」

5. 現代日本の文学 40 堀田善衛 深沢七郎集

家を飛び出した平吉は舞うように近津の土手を駆けた。 を着ていた。ハッと思って平吉は、 川田の入口まで行った時、向うから馬に乗ってこっちへ来「兄ゃん」 るのが見えた。 と呼んだ。安蔵に聞えてこっちを見た。 ( 惣蔵兄ゃんでは ? ) 「ああ」 うなず と思ったが、通りすぎたら別の人だった。板垣でも、ま と安蔵は頷いて上の方へ指を差した。見上げるとウメが たこっちへ馬を飛ばして来るのに出逢った。五、六人一緒馬に乗っているのである。安蔵はウメの乗っている馬のロ になって通ったが、惣蔵でも安蔵でもなかった。甲府の入をとっていたのだった。 ( よかった ! ) と平吉は思った。 ロでもまた出逢ったが惣蔵だちではなかった。平吉は迎え安蔵は止って話をするかと思ったら、止りもしないで行列 に行くのだが行き違いになっては困ると思ったので、駆けと一緒に行ってしまうのである。平吉は安蔵の横を追いか さら て行く馬の上を、目を皿のようにして見ていた。甲府へ行けるように行列について行ったが安蔵は話をしかけないの ったが古府のお城へ行けばいると思って元のお城を目ざしである。平吉はたまりかねて、 て行った。だが、「お屋形様はまだ新府にいる」と言われ「惣蔵兄ゃんは ? 」 たのである。 ( 新府は焼けたというのに、まだそんな所に と聞いた。安蔵は、 いるのか ) と思ったらとび上るほど心配になってきた。急「あっちだ」 いで西の方へ走り出すと、向うから、大勢こっちへ来る行と言って、後の方へニ、三回速く指を差した。 ( 後の方に 列が見えたのである。 ( あの中にいる ) と思ったので、ほっ いる ) と思ったのでまたほっとした。とにかくウメと安蔵 として道の横に立って待っていた。行列はすぐそこまで来に家へ帰るように話をしなければならないと思ったので、 た。ウメや惣蔵だちは、きっと一緒になっていると思って安蔵のすぐ横へ、割り込むように行列の中へ入ってしまっ 目を皿のようにして探した。行列は歩いている人が多いのた。小走りに走りながら、 吹だが、一一十人ばかりは馬に乗っていた。その前後を大勢か「迎えに来ただから、早く家へ」 たまって歩いて来るのである。荷物をしよっている人もあ と、小声で言った。そう言うと安蔵は横目で平吉を睨ん 笛 るし、大きい荷を馬に積んでいるのもあった。平吉は ( おで、怒るように、 屋形様のお引っ越しだ ) と思った。きっと、この中にいる「これから郡内の山へ籠って戦うのだ、先祖代々お屋形様 いぬちくしよう と思って探していると、目の前を安蔵が通るのである。鎧のおかげになって、どいつもこいつも大畜生のような奴ば よろい やっ・ にら

6. 現代日本の文学 40 堀田善衛 深沢七郎集

344 「あれ ! 」 きわを刺されてしまったのである。 と、おけいがびつくりするほど乱暴に上り込んだのだっ 「災難はどこにあるか、わからんものだなア」 た。虎吉は、 と、定平が言った。 みかたがはら 「三方ヶ原のいくさから帰って来たとこだ、お屋形様は死 「家の中に蜂が巣をつくっていたということでごいす」 と言って、おけいはウメが刺されたのでなくてよかったんだそ」 と思った。まだ九ツにしかならないウメだが、 と、早ロでささやくように言った。 「あと、一「三年たてば、ウメがわしの代りになりやす」 「信玄様が死んでしまったのか ! 」 うれ そう言って、ウメが役に立つようになるのを嬉しがって びつくりして定平は大声でこう聞き返した。虎吉は怒る した。いっかの夏の暑い日に、 ような顔つきをして、 「安蔵さんが、五十五両へ飛び込んたそうでごいす」 「黙ってるだぞ、まだ俺だけしか知らねえのだから」 と村の人に言われておけいも定平もそっとした。笛吹の と言った。定平は虎吉の側へ寄って行って、 日しもに五十五両という川底が釜のようになっているとこ 「いくさでやられたのか ? 」 と聞いた。それから、川の中へしやがんでいた時のタッ ろがあった。いつでもウズを巻いていて、巻き込まれたら っこう 出られないと言われている所だった。 の慨好が目に浮んだ。タッが拝んだからだと思った。虎吉 は目を光らせて、 「お前、ふんとに泳いだのか ? 」 「知ってるのはまだ俺だけだぞ」 と、定平が聞いた。 と言った。それから、 「ああ」 と、安蔵は答えただけだが、自分でも怖つかなかったら「お屋形様の人だちと : : : 」 とつけ加えた。 しいのである。 ( ノオテンキの奴だ ) と、定平は舌を巻し まん て、惣蔵より悪玉の奴だと思った。いくさに行って死んだ「お前はどうして知ってるだ ? 」 と、定平が聞いた。 ノオテンキの半蔵がそうだったが ( この家には、確かにノ オテンキの血統があるのだ ) と思った。いっかの夕方だつ「俺は死骸を運んで来たのだそ、それだから知ってるの た。八代の虎吉が表に来て、飛び込むように家の中へ入っ と、虎吉は教えるような口ぶりだった。 て来た。

7. 現代日本の文学 40 堀田善衛 深沢七郎集

と平吉が向うへ行くのを見ていた。 している」 安蔵と平吉は道を急いだ。 と小さい声で言った。目が見えなくて、下を向いてこう 「どこかで馬を探して」 言うのを平吉は安蔵のうしろで立って見ていた。 ( お聖道 と、安蔵が言い出して馬小屋を探しながら急いだ。馬小様は自分で死のうとしているのだ ) と平吉は思 0 た。お聖 屋のある家が見つかって、黙って二匹ひつばり出して乗っ道様は安蔵の方をむいた。顎をつき出すようにして、 た。塩山を通 0 て、和の方へは行かずに山づたいの近道「わしの最後を、諏訪殿に早く申し上げろ」 を走らせた。甲府へ行 0 て、お聖道様の家の門の中まで馬と、力を入れて言 0 た。 ( お聖道様は今、すぐ死ぬのだ、 を乗り入れた。そこはもう荒されていて誰か入口に死んでそして早くお屋形様に知らせろと言っているのだ ) と、平 いるのだ 0 た。平吉は ( 遅かった ' ) と思った。安蔵が吉は思った。その時、横の庭で犬が吠えだした。途端、人 「お聖道様」と呼びながら家の中〈入 0 て行 0 た。平吉もが来る足音がした。お聖道様は目は見えないが庭の方に顔 続いて飛び込んだ。家の中は静かで誰もいないのである。 をむけた。それから見えない目を開こうと白眼を吊り上げ 奥〈入 0 て戸を開けると、お聖道様がこ 0 ちをむいて坐 0 るようにして見せたのである。平吉は庭の方を見て思わ ていたのだ 0 た。広い部屋の正面に白い着物を着て、安蔵ず、あ , と思 0 た。敵が庭〈入 0 て来たのだ 0 た。槍を持 だちが戸を開けても黙っていた。側に御寮人様がやつばり った奴や、刀を持った奴等が目を光らせてこっちを向いて ひざ 白い着物を着て、女だが刀を膝の上に置いていた。安蔵が いるのである。その敵のまわりを大がキャンキャン吠えた 坐ってお聖道様に、 てながら狂いまとっていた。大は逃げ廻っているのだが裂 「お屋形様は郡内へも行けず、天目山へも行けず」 けたように口をあけて、敵にだけしか吠えていなかった。 と言 0 た。下を向いてその次を言おうとすると、お聖道安蔵が、わー 0 と怒鳴りながら庭〈飛びおりて敵に飛びか 様が、 かった。平吉も刀をぬいた。庭へ飛びおりようとした時、 吹「討死したか ? 」 敵は平吉の左右から上って来てしまった。その敵と平吉は と言った。安蔵が、 笛 向い合ったが、そのうしろからまた二人上り込んで来た。 敵はお聖道様に向って行ったのである、敵と向いながら平 と言うと、お聖道様が、 吉は ( お聖道様は ? ) と思って横目で見ると、お聖道様は 「ここ〈も敵が来ている、敵の手にかかるよりも、仕度は目は見えないが小刀をぬいて立ち上 0 ていた。御寮人様は やっ

8. 現代日本の文学 40 堀田善衛 深沢七郎集

で、ぶら下りながら敵を斬っては待ち伏せていた。 「いない」 安蔵と平吉は田野の畑や山道を探しまわったが惣蔵の様と言った。夕暮れ近くになってまた、 子はわからなかった。 「逃げ込んだ者を出せ」 「お屋形様の人だちは恵林寺へ逃げ込んだ」 と言うのである。住職は山門の所へ出て行って、 と、村の人が言ってるのを聞いたので、 「いない」 ( 恵林寺へ行けば逢える ) と言った。そうすると、敵は寺の軒下のまわりに藁やも と思った。急いで松里の恵林寺へ行くとお屋形様の人達しきを積みはじめたのである。敵はもしきを運びながら、 えん くそうす は来ていたのだった。庫裡の縁の下や山門の上にも隠れて「糞坊主、陽が当って、山門の上で鎧が光っているぞ」 いるが惣蔵はいないのである。 と、言ったり、 「姿を見せるな、敵は雲のように来ている」 「待ってろ、すぐに、燃してやるから、そのうちに温とく と言われて、山門の二階は身のおき所がない程詰まってしてやるから」 いたが安蔵も平吉も入れてもらった。 と悪態を言いながら藁やもしきを積み上げた。 「姿を見せちよ」 暗くなる頃、敵は山門のまわりに藁に火をつけて投げ込 と言われて、そこで寝泊りをした。 んだのである。山門に出ていた住職は火をつけられると二 その朝、恵林寺の住職は庫裡の縁側を、白襷をかけたト階へ上って行った。上って行くと隠れていた人達の鎧の端 かげ カゲが這っているのを見つけたのだった。黒いトカゲの背がチョロチョロとトカゲの様に動いて板戸の蔭に隠れてい に、白いタスキのような筋のあるトカゲだった。 った。だが、安蔵と平吉は隠れなかった。平吉は刀をぬし のど 「このトカゲは、ここの上の日にも出て来た」 て安蔵の喉に押し当てていた。 と、寺男のおじいが言って怖ろしがった。 「殺してやるから」 にら 「お屋形様が減びたからだ : : : 」 と言って喉仏を睨むと、 とえはたえ と、住職は言った。その日、恵林寺は十重二十重にとり「早く早く」 囲まれてしまったのである。 と安蔵は言った。その時、敵は本堂へも火をつけたので 「逃げ込んだ者を出せ」 ある。軒下の藁から白い煙が立ちの・ほると、本堂の横で敵 と、敵は言って来たが、住職は、 がざわめき出したのだった。敵の中をかきわけてタッが出 おそ しろだすき よろ、 わら

9. 現代日本の文学 40 堀田善衛 深沢七郎集

( 二、三里じや今日中に着ける ) と思った。だが、日が暮れ と、言うだけである。惣蔵安蔵もおけいには教えるの るまで歩いたが着かなかった。日が暮れて、やつばりお寺が嫌らしいので、おけいはまわりの人の話を聞いているだ の所で止って、そこに泊ることになった。小さいお寺で、 けだった。お屋形様は昨日のように急ぐでもなく、 ( ただ、 お屋形様だちはお寺の中へ入り、みんなはお寺のまわりで動いているだけじゃねえか ) と、おけいは気がついたがロ 野宿をすることになった。おけいは息子だちと縁の下へも には出さないでいた。 ぐり込んで寝た。夜中に、道の方で足音がしてみんなが騒昼すぎにおけいはいくさに出逢ったのである。歩いてい ぎ出した。 ( まさか ? ) とおけいは思ったが、後で「敵だつると、突然、道の横で騒がれたのである。横の桑畑の中で た、十人ばかり通った」と言っているのが聞えた。 騒ぎだされて、おけいは身ぶるいがした。 「通りすぎただけだが、様子を見に来たのだから、後で攻「それつ ! 」 めて来るかも知れん」 と、こっちでも騒ぎ出して、みんなお屋形様のまわりを と平吉が言うので、おけいは、 取り囲んだ。みんな桑畑の方を睨んでいると、こっちから 「そんなこともねえら」 桑畑の中へ一一人飛び込んだ者があった。すぐ叫び声が聞え て、少したっと桑畑の中から出て来たのは安蔵と平吉だっ と言った。惣蔵が、 こ 0 「来るなら来て見ろ」 とカんで言った。 「逃げてしまったそ」 と安蔵が言った。おけいは桑畑の反対の木のに隠れて 夜があけるとすぐお屋形様は出掛けた。天目山へ行くと 思ったが、 見ていたが、自分のうしろの高い方にも人がいるらしいの のぞ 「郡内の人達は、もう天目山へも手をまわして、寄せつけである。振りむくと、一一、三人こっちを覗いているのが見 ないようにしている」 えた。あわてておけいはお屋形様だちの方へ飛んで行っ 吹と、まわりの人が言っているのである。おけいは惣蔵て、指で向うを差した。 こ、 「それつ ! 」 笛 「天目山へ行くかと思ったに、そうじゃねえのかい ? 」 と言って、みんなが睨みつけた。安蔵が、 と聞いた。惣蔵は、 と騒ぐようにしてそっちへ走った。すぐ帰ってきて、 「どうなるかわからん」 きのう にら

10. 現代日本の文学 40 堀田善衛 深沢七郎集

に来たのだ、いくさはどんなことになるか、今のうちに家を見ると、みんな目を泣き腫らしていた。お御台様と並ん で木の枠に腰をかけているのがお屋形様だとすぐにわかっ へ帰らなきや」 ただ と、力を入れて言った。だが、惣蔵は、 た。女だちの中に男でいるのは唯一人だった。三十五、を六 「お屋形様のお供をして行くさ、先祖代々お屋形様のおかの人で、長顔で顔色が黒く、痩せた背の高い人である。 ( 八 げになって、みんなお屋形様に背く奴ばかりだ、お屋形様代の虎吉と同じ年だ ) とおけいは思って、ふっと虎吉の顔 は泣いてるぞ、行って見ろ、安蔵も平吉も行くと言うのでが頭に浮んだ。そうして虎吉が死んでしまったことを思い お屋形様は嬉しくて泣いてるそ」 出した。 ( みんな死んでしまうじゃねえか ? ) と思うと涙 がまたこ・ほれて来た。人垣の中から頻を引っ込めた。すぐ と言うのである。おけいは ( 平吉の奴も、やつばりそう くわ だったか ) と、また思った。 そばの芽をふいたばかりの桑の畑の横におろして声を立て 「それじやウメは ? 」 て泣いた。そうして ( ウメがどうしてもお屋形様と一緒に A 」旨ロ - っ A ス 行くと言うなら、自分も一緒にどこまでもついて行こう ) 「ウメもお屋形様と一緒に行くと言ってるそ、ウメもあそと思った。そう思うと、 ( 連れて行って貰わなければ ) と みだいさん こで、お御台様と一緒に泣いてるそ」 思って帰る気もしなかった。 と言うのである。 その晩、お屋形様はそこのお寺に泊った。惣蔵の親子四 「ウメの所へ」 人はお寺の廊下にかたまって寝て、そのそばで安蔵と平吉 そう言って立ち上った。 は板壁に寄りかかって寝た。おけいは平吉と安蔵の足の前 に寝転んで夜を明かした。ウメはお屋形様だちと一緒に奥 「行って見るけ ? 」 と言って惣蔵が歩き出した。行列の前の方は人がかたまの部屋に泊った。おけいは定平に黙って家を出て来てしま っていた。大勢とり囲んで立っている中の方にまた大勢がったのである。夜、安蔵と平吉の足をつつきながら、 吹坐っていた。おけいは人垣の中から顔だけ出してウメを見「お父ッちゃんに黙って来ちまって、待ってるら」 と、何回も小声で言った。だが、平吉も安蔵もはっきり 笛つけた。坐っている人達のまん中にウメが坐っているので わ ( ある。そばに木の枠へ腰をかけている人がお御台様だとすした返事もしなかった。うす目をあけて、聞いてはいるが うなす ぐわかった。お御台様もウメと同じ位の年だった。ウメも「うんうん」と頷いてもいた。「待ってるから」と言う一の お御台様も目を泣きらしていた。まわりに坐っている人に、「うんうん」と頷くだけではどうしようもなかった。 そむ