注解 深沢七郎文学アル・ハム 評伝的解説 深沢七郎集目次 深沢七郎文学紀行 ラブミー牧場と石和町 笛吹 東京の。フリンスたち 月のア・ヘニン山 : ・一一七三 : 三発 紅野敏郎 / 小野寺凡四三八 噐五 秋山駿四六六 装幀大川泰央 写真撮影榎本時雄 稲葉喬 青木千枝子 作品校正鴻本実夫 編集責任桜田満 製作担当田中梓 尾崎秀樹三三
いさわ ラブミー牧場と石和町 尾崎秀樹 深沢七郎文学紀行 昭和四十五年十一一月、埼玉県町のラブミー牧場を訪れた尾崎秀樹氏 ( 右 ) と深沢七郎氏。 農業のこと、気象のこと、甲府のブドウ酒やプランデーのこと : : : 話題はっきなかった。
深沢七郎集 2 0 O O O O 6 c.o 2 工 ギターを弾く深沢七郎氏。かたわら」は ~ る」愛大 0 。 ( 埼玉県菖蒲町 0 ラ一ミー牧場で ) 文学紀行Ⅱ尾崎秀樹 評伝的解説Ⅱ奥野健男 秋山《 ~ 夂 監修委員 編集委員 伊藤整足立巻一 井上靖 奥野健男を 川端康成尾崎秀樹 三島由紀夫北杜夫 記〈ふ碑 深沢七郎集 笛吹川 果京のプリンスたち 現イに日本の文学 40 ー 堀田善衛 ~ 架沢一ヒ公 現代日本の文学 「《れ 0 本職」だら、ナイ ~ 0 洪水」【ま 0 と = ろ《を相手」れ来る ナイル河 ( ルクソール付近 ) 学研
1 を ! ッ 2 を第 上鉢植えの木に水をやる深沢氏 左午後のひととき、芝生の上にむ しろをしいて牧場の人達とお茶会 3 い、つ人か少なくない しかし深沢七郎はみんなと話し なからも、三行書き、話をつづけ、そしてまた何行か 書くといったやりかたで仕事をつづけるという。一室 にとじこもって圭日くのは、ど、つも、つまくゆかないらし 「そのほうが並日通じゃないですか」とい、つあたり に、彼の文学の秘密もひそむようだ。 私たちはおでんの材料をかかえて行って、帰りにラ プミー牧場特製の昔味噌をもらい、おまけに甲州産プ ランデーと醤油までおみやげにもらって帰った。 にん、エ・つ さー」 いさわ 伝説と仁侠の里ーー石和 不 + 月からひいた用水か ラブミー牧場の斤一くには、 流れていた。深沢七郎の書いたものによると、江戸時 代につくられた用水で、時代を経ているためか、人工 の川とは思えないはどごく自然に周囲の風景とマッチ している。この用水の土手には、春になるとっくしゃ よもぎかは、疋ることだろ、つ し - うぶ 菖蒲町の静かな風景にくらべると、深沢七郎の故郷 である石和恭の景観は、山がせまって雄々しく感じ られる。 石和町は笛吹川沿いの古くからの甲州街道の宿駅の ひとつである。甲府市から車で行っても二十分とかか
四歳 一 ~ 太男 げ卩 1 上 次次 隣正 父男 深沢七郎とともに、私は、文学のなかのもっとも興 ら次 味ある、あるいは何かしら深い奇妙な場面に到達する それは、この深沢七郎といういま眼の前で語ってい ならやまぶしこう る生きた身体の、内部のどこから、あの『楢山節考』 c-O 白い 正七という作品の結品が生み出され、また、その結品が生 産されるために、彼の内部において、精神のどんな種 類の意図と方法と構造が準備されていったのか、作品 に向けていったい何が、芽生え、枯れ、育てられ、彼 自身の手が描くものによって形成されていったのか、 そ、つい、つことかまるでよく分らないのである 一つの芸術作品は、例外なく、これを制作した人間 つぎめ の個性に相対的である。作家と作品は一つの継目のな い ~ 石の関係にある。しかし、現代では、またはとんど 年貞 の例外なく、その個性とは、人が生活の場面であらわす 正弟 大と或る生得のオリジナルなものではなくて、文学的な訓 評伝的解説〈深沢七郎〉 466
深沢七郎集
深沢七郎文学アルバム 昭 郎 465
「山と山が連っていて、どこまでも山ばかりである 向う村のはすれにお この信州の山々の間にある村 りんの家はあった。」 ( 「楢山節考」 ) 長野県更埴市郊外 おばすて より姨捨山方面を望む では西を流れていて、石和の町も笛吹川の川底のよう な土地で土質も砂地である。笛吹川は石和辺を流れる 間は鵜飼川とも呼ばれていて謡曲の『鵜飼』のテーマ の川である。前は、笛吹川と鵜飼川では違う川らしい が、よくゼするので今は一緒にな「てしま「たらし 、 0 同し川を笛吹川と呼んだり、鵜飼川と呼んだりし ているし、笛吹橋の下の橋は鵜飼橋なのである。鵜飼 橋から下は笛吹川としか言わないから鵜飼川と呼ばれ ならやまぶしこう るところは五百メートルぐらいしかない楢山節考』 が出た当時、山本健吉先生が週刊朝日に「石和という ところは謡曲の鵜飼だ』と指摘されたが、私の町は西 も東も伝説で囲まれている」 ( 「自伝ところどころ」 ) 石和の町は伝説で囲まれているというが、東の伝説 おん 0 よう が「鴇飼」、西の怨霊ばなしは笛吹川の北にあたる 「小ム」とい、つところに云わるものたそ、つだ。 深沢七郎は一九一四年一月、この石和町の市部という わきはんじん ところで生まれた。祖父さまの代まで甲府の脇本陣か なにかをつとめた家柄らしく、代々法華経の信者だっ た ) A 」い、つ 家業は印刷屋で、今でも実兄がそのあとを 継いでいる。私は深沢七郎の甥にあたるたくましい青 年の案内で、深沢七郎の学んだ小学校や中学、笛吹橋 や万年橋、それに " ギッチョン籠。といわれる建物の 跡などをみてまわった。
冖、を一 ヴ第を ~ 考 : ーっみ はこら 校門の手前左手に小さな祠のようなものがあって、 そこでも昔はお仕置きをしたそうだが、ドバシという のはその間をつなぐ橋だったのか。校庭を走りまわっ 一ている学童たちの嬉々とした表情には、そういった百 可年も前の暗い話は影さえうかがえなかった。 現在跏雌高校とな「ている日川中学は、行和から六 キロはどはなれた笛吹川の上流にある。深沢少年は靴 の紐と紐を結んで振りわけのように肩にぶらさげ、下 駄をはいて笛吹川の土手沿いに通学したという。その これらのこと、は全 頃はもう煙草を吸っていたらしい 部深沢七郎の自伝的な文章のなかから仕入れた知識オ が、この中学は笛吹へそそぐ支流の日川にあり、武田 っちゃそうぞう てんもくざん 家滅亡の時には天目山の途中の岸つぶちで土屋惣蔵が 片手斬りで敵を何人も倒し、そのため三日の間川が血 に染ったという。以前三日川といわれたのはそのため だそ、つだ。 こういった郷土にまつわる歴史を、中学の歴史の教 自かいろいろと授業中に話してくれて、それがいっか 深沢七郎の時間感覚にとりこまれていったようだが 武田の二十四将といわれる武将たちが、いすれも笛吹 川の東の地域出身の百姓たちだといった云い伝えなど が、長篇「笛吹川」の骨子となって生かされることに なるのであろう。 ひも
攵昜の一日 深沢七郎がラブミー牧場をはしめたのは一九六五年 だ。主所は埼玉県南埼玉郡菖蒲町大字上大崎 : : : と うことだが、車で行ったので土地カンがきわめてあや 、日勿・斤こ ど、つ一丁けばよいと目一一体的に見月しにく ある。つまりだだっ広い関東平野の一郭に、大地にヘ ばりつくようにしてそれはあるからだ。深沢七郎はそ のあたりを、つぎのように書いている 「見渡すかぎり広く平坦な上地である。西の空には富 なんたい 士が、その右には妙義山が、北の空には日光の男体、 あかぎはるなさん つくばさん 赤城、榛名山、東の空には筑波山。これからは、遠くか すんで雲で見えない日も多い。広く、平坦な私の畑か ら見える田んばや森は静かな風景ばかりである」 ( 「生 態を変える一三ロ」 ) だがあいにく私が出かけた日は、富士はおろか、筑 波もみえなかった。あおいものの少くなった田んばや : と考えても何も 畑の向うに森かあって、それから : 思い出せないような平凡な風景だった。しかしさえぎ るものがないので、亠建くからでもそれとわかる。「ビ ニールハウスが目しるしです」と、案内にたった編集 者はいうが、そこまで行きつくのに、畑の中のどの道 いっカ′、