きまよ ムところ われて来て私の最愛の書になった「義経記物語』ーー・すつで、雪の中に彷う若い母親の懐で眠っている幼児は、間 ささりんどう きりとした紺の布表紙に源氏の紋章の笹龍胆を白く抜き、 もなく浮島原の青葉の下で頬を薄緑に染めながら、勇まし うれ むせ 背に黄色で本の表題と上村登志雄と云う名が刷り込んであい兄の前で嬉し涙に咽んでいる。それから一時間の後に ながねんせんじんよご る、そして枠入りの本文の所々に入れてある挿絵は江戸時は永年の戦塵に汚れた顔を物思いにらせながら、彼は敷 ちせつ 代の初期に出た『義経記』の極めて稚拙な、そして仄かに物の上にじっと動かずに石のように坐った儘でいる。腰越 ぜってん、はく 後の浮世絵を予想させているような挿絵が、異様に生きいの宿でこの武将は恐らく生涯の絶巓の稀薄な空気の中に、 いしよう むとんじゃく きとした大きな表情の顔と、衣裳や調度の虹頓着な時代錯前後に類のない苦しい闘いを魂の内部で闘っていた。一時 どうけい 誤とに新興市民階級の意気込みと憧憬とを邪気に写し出間前にはあのように純粋に喜んで協力を誓った兄が、今で しているのを、そのままこの三百年後の高度資本主義時代は全てを忘れて一個の老獪な政治家となり果て、ただ弟を の市民貴族的な芸術家の趣味によって複製されて掩まれて遠ざけ亡ばすことばかりを考えている。それは複雑な利害 からま かけひ いたーーその本は、私に我々の人生ーー様々な人間の欲望の絡りの結果であってーーっまり人生そのものの駈引きで や悔恨や疑惑や決意やに満ちた、それぞれのかけ換えのなあってーー個人の誠意や正義感ではどうにもならない。頁 い一生が一つに綯い合わされて出来ている複雑な東ーーをの上に暮れかかるタ暮れの影のために、字が見えにくくな 教えてくれた。気象学の研究のために低速度に撮影されたって来たので、腕を伸して窓の障子を開けると、頁が薄黄 雲が、銀幕の上で虚無の中から数瞬の間に生れ出て、刻々色に明らんで丁度三十分程先にそうであったと同じ程度に と形と大きさを変え、光と陰との限りない予想外の転調をなる。それは時間がそれだけ程逆戻りしたような錯覚を私 行いながら、また数瞬のうちに死んで行き、後には最初とに与える。その時間の外に漂い出たような感じはそれだけ ちょうど さび 同じように無愛想な丘の起伏だけが残される。 丁度そで奇妙な儚なさを惹き起す。奥羽下りの淋しい主従の後姿 わず 下んな風に、その書物は僅か三時間の読書時間のうちに、源を見送りながら、暖かい物の匂いの漂っているタ方の空気 の義経の出現と消減とを圧縮していた。現実に於いては決しの中に、伯母が畳を掃いている隣りの部屋のの音が妙に へんまう 心にしみじみと生活の悲しみのように聞えて来るのを、横 のて見られない雲の瞬間的な激しい変貎は、観客の胸を不思 議な息苦しさに誘うのだが、三時間の一生は私に眼の前でになって頬杖をついてぼんやり耳の端に意識して、私は読 は少しも動いているようには見えない人生と云うものの、書を中絶したままで、・ほんやり物思いに耽りはじめて 異様に深刻な変転の縮図を描き出してくれた。開巻第一頁た。人間の真情と云うものは、人生の残酷な機関の中では こん わく 、わ さしえ たば ほの ほおづえ たたか ほお にお こしごえ
417 注解 この作者の追求してやまないモチーフであり、この作品にもそ た。そこでキリストの時代には地獄の別名とされた。 の〈ためらい〉がみられる。 三 50 永遠なもの : : : 千枝子は汐見の愛したものは現実の生身の 自分ではなく、自分を通して永遠の理想の女性を夢みていたの三芫彼女の愛が死を約東する命がけで自分の存在の全てを賭け て愛しぬこうとすると、愛する相手を死に至らしめてしまう。 であろうと述懐している。平几な自分を非凡な女として見てい 純粋の絶対の愛は人間の存在そのものの破減をよびおこす。不 る汐見の眼は、千枝子にとっては苦痛であった。いっか自分は 可能な愛と死のテーマが提示された瞬間、ものがたりは、幻想 汐見に幻減を味わわせることになるという予感は、恐ろしいも から現実へと転換する。 のであった。千枝子は兄の忍と同じように過大に、理想的に愛 三合ひょっとしたらその空想は本当 : : : 人間の意識によってつ される重荷を感じとってしまうのである。 くり出される愛の形はもともと非現実のものである。大学生 三三運命の持つ意味千枝子は汐見の死んでいなくなってしまっ が、空想の中の会話のひとことを、ふみきって娘にしゃべって た今、人生の無意味さに堪えていかなければならない。彼女は いたら、イリュージョンの世界はたちまち現実となり、そし その生の意味を、神に託したのである。 この作品は て、本当にこのような別れがあったかもしれない。 一時間の航海 空想という方法で、現実と非現実の愛のかたちをうかびあがら せた、一つのメルヘンであろう。 三至不二洋子大一座女剣劇の一座。このポスターは、主人公の 大学生の空想が止まるときの現実への覚醒剤となっている。 夜の寂しい顔 三七一一鎖されている現実には、海があれて、狭い暗い船室に閉じ こめられていることであるが、それと同時に、主人公の心も開穴一夜福永作品に流れる〈夜の時間〉は、この作者の主要なモ チーフの一つである。それは死と隣り合ってすごした長い療養 放されずにいる状態をあらわしている。外界からくる不安の中 生活の体験から生じた思索の時間であり、人間の意識の氏に潜 では意識は鎖されているが、やがて主人公の内面は一つの対象 む絶望の深淵を垣間見てしまった者が、生の論理を裏側から照 〈綺麗な人〉に向かって開かれていく。大学生は、鎖された船 明をあてる恐ろしい時間でもある。その時間に人間は、〈幻影〉 室の中で、無限の空間を開いているように思われる娘に近づく や〈夢〉の方法で、死者の世界や〈冥府〉を訪れることによっ ことで、自己の鎖された心を開いていく。 て、自己の〈原存在〉ー実存ーに、無意識的に邂逅させられて 三「しかし : : : 。」空想の世界で、はにかみやの大学生は娘に しまうのである。「夜の寂しい顔」は、少年の〈夢〉を通して、 近づく。しかし、愛の告白の瞬間、彼はためらってしまう。愛 何ものにもなれない少年の日の未知の不安から、〈存在〉その の実現の可能な、その告白の瞬間のためらいは、不可能な愛の ものの不安、人間の意識の底に潜む、実存的不安を、夢の世界 予測が先行してしまうことからおこるためらいにほかならな に抽象化した作品である。 。全存在を賭けて愛し抜いていく愛の、不可能性の問題は、
響き渡った。 しつよう あれは自殺ではなかったろうか、 その疑問が執拗に みずか 第一の手帳 私に取り憑いて離れなかった。汐見は、自ら進んで手術を 受けた。手術中にも、最後まで手術をやり抜くように医師 に頼んだ。手術が危険なこと、彼の体力ぐらいでは生命の人はすべて死ぬだろうし、僕もまたそのうちに死ぬだろ 危険を伴うことを、彼は決して知らなかったわけではな う。そんなことは初めから分っている。ただ、人はそれが あらかじ 。もし私が強いて反対したならば。・ ・ : しかしそうした何時であるのか、予め知ることが出来ないから、安んじて きようじん さと 後悔にもまさって、彼の強靱な意志は恐らく他人のどんな日々の生活の中に、それが生きていることだと暁ることも わず 反対の言葉よりも強かっただろうという想像が、僅かに私なしに、しく月日を送って行くのだ。不確かな未来とい の無力感を慰めた。そしてこの悔恨と入り混って、最初のうものは、恐怖でも何でもない。しかしこの僕のように、 キリスト からだ あの手術は、基督教の洗礼を受けた汐見が故意或る一定の時間が過ぎ去れば、僕の身体は冷たくなり、雨 つらくれ に自分を殺すための方便ではなかったかという疑問が、降や風や自然の土塊とこの僕との間に、もはや何の区別もな きらめ りそそぐ日光と燦き反射する雪の白さとの中で、私の心をくなることを知っている人間には、事情はまったく別なの 引き裂いていた。 だ。僕は死ぬ。僕は確実に死ぬ。この一定の時間、僕の生 、わ そして霊安室の凍りつくような畳の上で、ひっきりなしき得る限りの時間は、恐らくは極めて短いのだ。 ゅ、い片こり に地面を打っ雪解の音を耳にしながら、ひとり私は汐見茂人は夢の中に夢を見た記憶はないだろうか。僕は子供の 思の二冊のノートに読み耽った。 頃、しばしば、悪夢におびやかされたものだ。蒲団を掻き とぎ むしるようにして眼を覚ますと、狭い鎖された部屋の中に なまぐさ 一人きり寝ている。空気は腥く、死臭を感ぜしめる。室 内に一点の光も洩れ入ることがなく、自分の手の指さえ見 定められない。それなのに部屋の天井も周囲の壁も、徐々 に僕の方に傾いて来ることが感じられるのだ。天井は刻一 刻と墜落して来る、壁はちょっとずつ躙り寄って来る、や がて僕の身体を無残に押し潰してしまうだろう。そして悲 つよ にじ ふとんか
て千枝子を愛する気持の上に、たまたま雲のように千枝子 を女として考える意識が走ると、僕はたまらなく自分を堕 僕は僕の小説を書き始めた。 ほとん 僕は孤独だ 0 た。毎日の勤務では、事務の上以外には殆落した者のように感じたものだ。 ( しかし芸術の上では別 ど他人と口を利かず、時間が終ると真直ぐに自分の下宿〈だ 0 た。この不思議な矛盾を僕はどのように説きあかした 帰り部屋の中に閉じこも 0 た。そして燈下のもと、それをらいいか分らない。どんな罪深い小説でも、例えば = イス 書いているという意識が絶えず孤独感を自分に強いることンスの「さかしま」や「彼方」のような小説でも、僕は よろこ 悦んで嘆賞した。兇悪な悪党で神なんか全然信じなかった を目的にして、僕の小説を書き続けた。 。ヒエトロ・ベルジーノの宗教画を、僕はこよなく愛した。 僕の書いていたものはおかしな小説だった。今は、僕は もうそれを詳かに思い出すことが出来ない。時間は現在僕はしかし、自分を分裂した人間として感じることはなか でも過去でもない一種の透明な時間だった。場所はここでった。 ) 、ずあとな もなくそこでもない夢の中の記憶のような場所だった。登僕は追いつめられた獣のように、自分の傷痕を嘗めなが 場人物は名前のない青年と名前のない少女とで、この二人ら、ただ走「た。しかし追われて行く僕に罪があるのだろ は或いは一緒に旅を行き、或いは遠く離れ合って心に相手うか、僕を追うこの眼に見えぬ悪、この天蓋のように覆い のことを想い合った。全体には筋もなく脈絡もなく、夢にかぶさって来る現実の悪の方が、比類もなく巨きいのでは すなわ と僕は考えた。僕が自分の孤独を磨 似て前後錯落し、ソナタ形式のように第一主題 ( 即ち孤ないだろうか、 みつ 独 ) と第一一主題 ( 即ち愛 ) とが、反覆し、展開し、終結しき、千枝子に会いたいこの蜜のような誘惑とあらがってま た。いな、終結はなく、それは無限に繰返して絞を高鳴らで自分の孤独の靱さを試そうと思ったのは、決して傷痕を はず 嘗めて小説を書くためではなかった筈だった。それなの せた。僕はその中に、一種の別の生を生きていた。 に、小説を書くというただこのことの他に、僕には抵抗の 花僕はもう千枝子に会いに行かなかった。孤独であること のの中には罪の意識があった。僕は子供の頃から、よく異常すべもなかった。千枝子を愛するというこのことの他に、 かしやく 草に敏感な良心の呵責に責められたものだ。あらゆる自分の心の悦ばしい自由さえもなか 0 た。 行為に、罪の匂いが付き纏 0 ているようだ 0 た。愛するこ僕は戦争を懼れていた。僕は理論としてこの戦争を絶対 とにも、ーー僕は藤木忍を愛していた時にも、この気味のの悪だと言い切るだけの内容を持っていたわけではない。 、わ むし 悪い観念に心の奥深いところで常に悩まされていた。そしそれは寧ろ多分に個人的な感情だった。ただこの感情は極 つまびら つよ
-4 た主人公は、「死は生の認識を深めること、いわばより濃厚に ドルの画家。・ハロック絵画の巨匠。 生きること」 ( 第一章末尾 ) としていた認識とちがって、「人は三 0 アレグロ allegro ( イタリア語 ) 愉快な。 息を引き取ると同時に死ぬのではない。それはむしろ死の開始一一一一 left ・ handed marriage ( 英語 ) 身分違いの結婚の意。 だ。」として、在るものの時間の中における変貌が、時間に蝕一三 coup de foudre ( 仏語 ) 雷撃。 まれる後に絶対的な死が来ることをとらえている。しかし又、 一一一一ポッテイチェルリ Sandro Botticelli イタリア初期ルネッ 父の鑑賞の能から、「芸術における伝統の再発見、それのみ サンスの画家 ( 1445 ~ 1510 ) 。「ビーナスの誕生」などの名画があ る。 が真に過去を恢らせる唯一の方法ーであることも理解している のである。 ミューズ Muse ギリシア神話で人間のあらゆる知的活動を 突ルカーヌス Lucanus ( 39 ~ 65 ) 詩人。コルド・、 ノの生れ。叙 つかさどる女神たちのこと。 びをん 事詩「ファルサリア」はポン・ヘイウスとカエサルの大闘争を取一 = = 児島高徳鎌倉末期の武将。備前の人。太平記によれば、後醍 り扱ったもので、ローマをおもう愛国の至情は切々として迫り、 醐天皇の隠岐に遷幸の際、天皇を救い出そうとしたが果たさず、 自由を愛する人々の愛読書とされた。 院の庄にいたり、桜樹を削って「天莫 / 空ニ勾践一時非レ無ニ范畆こ 九七ェビグラム epigram ( 英語 ) 警句。寸鉄詩。 と書して志を述べたという。ただし、その実在は疑わしい 智マキシム maxim ( 英語 ) 格言、金言。 一一一三欠乏の感覚主人公にとっては夢のようにはなやかだった都 一 00 ワインガルトナア Felix von Weingartner ( 1 3 ~ 1 2 ) 会生活、上流階級の社交の場を垣間見た憧をともなった興奮 オーストリアの作曲家、指揮者。 がまだおさまらない時に田舎へ帰って来たのである。主人公に 一 0 四レーゼ・ドラマ Lesedrama ( 独語 ) 上演を目的とせす、 とって田舎はなんと色褪せた喪失感を感じさせたことであろ 読むだけのために書いた脚本。 う。その心理を感覚的な描写で表現している。それは、対象そ 一只フォックス・トロット fox trot アメリカ舞踊の一つ。二 のものの変貌からくるものではなく、認識主体の変化にともな 分の一一拍子または四分の四拍子のもの。 う変貌ー喪失感であった。それは主人公の喪失感覚というもの 一一 0 セザール・フランク Cé「 Auguste Franck ( 1822 ~ 1890 ) が、第一章の冒頭から漠然とおとずれ、「千一夜物語」の紛失、 フランスの作曲家、オルガニスト。 友人利兵衛の死、金閣寺の不可避的な荒廃、そしてこの時点で 一一一田能村竹田江戸後期の文人画家 ( 1777 ~ 1 田 5 ) 。経学、詩文 自己の変化によるところの喪失感という段階に至っている。そ にも長じ、清高淡雅な画趣に独自の風格を示し、画論にもすぐ れはひとことでいえば〈幻減〉ということであった。意識の流 れた。 れを追うことによって、少一年期の人間形成をおさえていくあと 一一四 lnferiority Complex ( 英語 ) 劣等感。 が読みとれる・ 一一六ルーベンス Petrus Paulus Rubens ( 1577 ~ 1 0 ) フラン 一一一四故郷なき人間ここではこころのふるさとを喪失したという よみがえ 0 だい
しゅんげん 当局の取締りの峻厳さを見聞している私が、発見された時宮氏を・ ( トロンにして、芦屋の海岸で、宮田氏などとふざ わか だいたん 退学になるかも判らないような観劇をする大胆さのないとけ散らしていた、評判のフラツ。 ( アや、遠い昔の私の牧歌 つなが 云うことを、充分に承知しているそと云う皮肉な笑顏で私的な女王とも何の繋りもない。としたならば数年前の彼等 を見ている旗野を、私は頬を赤らめながら黙って見返すよは一体どこへ消えてしまったのだ ? その時間の彼方か ら、現在まで残っているのは、彼等の名前ばかりではない り仕方なかった。 なが しかし私は旗野が左翼の雑誌を読んだり、そう云う芝居のか ? その実体はもう死んでしまっている。永い間別れ を観たりする勇敢さよりも、そうした旗野の脳裏に描かれていた人に出会う時、人はそこに以前とは全く異った見知 ごと ている、上村氏や吉岡嬢の姿に、寧ろ驚かされていた。去らぬ他人を見出す。人間は生きていても一刻毎に死んでい かつばっ 年のクリスマスの晩の小説家の酔態と、遠い昔の園遊会のるのだ。私は活に動いている旗野の脣を見つめながら、 頃の吉岡嬢、それが私が彼等の名前を耳にした時、直ちにそうした死の形式のもう一つの発見に妨げられて、相手の 想い浮べる具体的なイマ 1 ジ = なのだが、その私の映像と言葉が次第に理解しがたくなっていた。 おい、どうし 旗野のそれとの間には、無限の距離がある。人生と云うもたんだ。くたびれたね。じゃあもう立とうか ! すきやばし のは、私の知らない部分で、私には構わずにぐんぐん動い 菓子屋から出た私達は、数寄屋橋の方から、尾張町へ向 て行っている。私の眼にはその一部分しか映じないのに。 って歩いて行った。夕暮れは東京の空を次第に闌がれた薔 丁度廻舞台の裏側で、見物の知らないうちに新しい場面の薇の色に染めていた。私はもう別れる時間だと知りなが したく 仕度がされ、くるりと一転した時、私を驚かすように。現ら、どうしても別れの言葉が脣に昇らなかった。遂に十字 、ようかんさなか 在の彼等、民衆の叫喚の最中に、生き返って立ち上った、路の交番の前に来ると、旗野は急に立ち止ってびたりと話 左翼作家上村氏、プロットやナップと云う略号と緊密に結を止め、じゃあと云って片手を出した。私はこの十字路が 下び付いた彼は、関西の・フルジョワのスキャンダルに面白そ旗野と一緒にいる今日の時間の終点だと意識しながら、彼 影うに私の父と興じていた、若い美青年とは何の関係もなが話に夢中になっているためにそれに気が付かず、もっと の 。丁度、その時の彼が、寺の書院で『義経記物語」を書築地の方角へでも歩いて行ってくれたらと、一緒になって 死 き進めていた老学者と何らの類似点がなかったように。ま会話に熱中している振りをしていたのに、一瞬にして希望 たンヴィエット友の会の集りで、簡潔で力強いティ・フル・ が裏切られてしまった。私は旗野の差し出した手を握った ス。ヒーチをやったと云う吉岡嬢にしても、・フルジョワ野々まま、身体中に今日の疲労が拡がって行くのを感じてし ほお からだ ひろ
413 注解 福永武彦集注解 独な姿は、この地上に孤独に生きていかなくてはならない人間 の姿を思わせて象徴的である。汐見は、この百日紅を見て「馬 かっこう 鹿げている」「こんな惨めな恰好をして、それで生きていたっ て何になるものか、死んでる方がよっ・ほどましだ。」とのべる が汐見の後の死を思うとき、深い暗示的なものが含まれている ことがうかがえる。 草の花 一一三七 routine ( 英語 ) ぎまりきった日常の仕事。 一三五冬福永作品を鑑賞するときに、どの作品にも色濃く流れる一一三九僕は自分の魂を殺して : 汐見は千枝子を「愛さずにはい 「愛と死」の主旋律の探求を強くささえているものとして、「構 られぬ」のに現実には「愛し得ない」愛の不可能の深淵をみて 成の緊密さ」を忘れることはできない。作者のライト・モチー しまった。このような純粋とまでいえる絶対的な愛は、その純 フをより劇的に、効果的に小説世界に構築してゆくために、作 潔さゆえに、死ななければならない。汐見はそういう意味で魂 者自身が、対位法、フーガという音楽用語で説明する独自の作 を殺してしまった人間であり、「死んだ真似」をしているよう 品構成法がうかがえる。時間の流れの前後が、あるいは事件の にみえる百日紅を、自己嫌悪に似た感情で嫌ったのである。 因果関係が、解体されたまま呈示され、読者は一見ばらばらな一一五一僕はもう死んでいたも同然 : : : 真に情熱的に生命を燃焼し 断片を読みすすむうちに、統一的なまとまりを見つけだしてい つくそうと生きた者が、それが不可能だった時に深く絶望の深 く。ある時には、物語の終りは、物語のはじまりにつながって 淵に沈みこむ。汐見にはそういう、真に絶望した者のもつ、カ 行き、どこから物語を読んでも終りのない小説世界のサイクル ラリとした明るさが感じられる。絶望の深淵はくりかえし作者 を創り出していたりする。 の追求するところのものである。 「草の花」はしかし、構成的には明確で正統的である。サナト一一五三 séraphique ( 仏語 ) 神々しい。清い。気高い リウムにおける初章「冬」から終章「春」への時間的推移を辿一一究 mortel ( 仏語 ) 死すべき。致命の。 っていく中に、語り手である私が、汐見の死後、ノートを紹介一堯 brillant ( 仏語 ) 光り輝く。立派な。すばらしい する「第一の手帳」「第一一の手帳」の章が挿入されている。 一一六 0 état d ・åme ( 仏語 ) 魂の状態、心境。気分。 一一三五ドアニエ・ルソー Henri Rousseau ( 1 4 ~ 1910 ) のこと。兵一愛するということの謎この汐見の疑問はとりもなおさず、 通称ドアニエ ( 税関吏 ) ・ルソーと呼ばれたフランスの画家。深 作者自身の作品のライト・モチーフとなって小説世界で追求さ い感動と驚くべき空想力によって再現されたスビリチュアルな れていく。作者はこの愛の問題を、自己の精神の中心課題とし 独創的絵画は、一一十世紀の絵画に新しい標柱をうちたてた。 てとらえ、生の根源に迫る問いかけの姿勢ー生存理由の問いか けとして、追求するのである。 一一三五百日紅の木が一本 : : : この百日紅のぼつんと立っている孤
228 虚無の底に燃え落ちた そのかみの うか 東の島の浮れ者 おも 苦しい想ひの宝もの 春の日の びと 大宮人の声のまを 悲しい乱れの花のまを 虚無の底に燃え落ちた そのかみの 揺らぐ微笑み黒い髪 み空に吸はれた恋の神 さすらひの 老ひたるのつぶやきと しぐれ つめたく時雨た想ひ出と 時間の涯に溶け散った ! そのかみの なほ ずる 狡いもみ手は今も尚 きぐっ 引づる木靴の音も尚 ・こが、とはの はて ほほ をのの 愛は扇は戦きと しゃうちょ 女王は娼女は小説と 時間の涯に溶け散った ! あゝ、サランポオ赫映姫 , えいごム 永劫回帰の祈り秘め 虚無の底に燃え落ちた ! 時間の涯に溶け散った ! はて はて かぐやひめ
こうこっ さえもある、その場合、彼の仕事は時間の外に於て営まれだ。考えてみると、僕はもう久しくそうした恍惚感を感じ げんうん ているわけだ。」そこで彼は、思い出したように煙草を喫ない、眩暈のような恍惚感、とむかし僕は呼んでいたが はい 20 ・り あきかん んだ。喫み終ると、灰皿の代用品である歯磨粉の空罐の中ね。つまりそういうことがなくなってから、僕はもう死ん に、それを捨てた。「ところが、」と話し続けた。「僕等のでいたも同然なのだ、今更、肉体の死なんかに何の意味も ように芸術家でない人間にとって、人生は彼が生きたそのないさ。」 「君は、 : クリスチャンじゃないのかい ? 」 一日一日と共に終って行くのだ。未来というものはない、 死があるばかりだ、死は一切の終りだ。現在というものは「誰に訊いた ? 」と彼は不思議そうな顔をした。「それは キリスト : そう、多くの場合に現在さえもないのだ。そこね、僕は前から基督教には関心があった、その何たるかは もらろん むしはんばっ には過去があるばかりだ。それは勿論本当の生きかたじや知っていた、知っていて寧ろ反撥していたのだ。それが、 あるまい、今日の日を生きなくて何を生きると言うのだ。 つい僕の意志が負けたものだから、ふらふらと洗礼を受け しかし人間は多く、過去によって生きている、過去が、そちまったのさ、宣教師がとてもいい人でね、それに、 の人間を決定してしまっているのだ。生きるのではなく、 よ何にもならない、人間誰だって気の弱くなる こんな言訳を 生きたのだ、死は単なるしるしに過ぎないよ。」 / い、か 0 」 時もあろうじゃよ 「しかし、死は人生を運命につくり変えるというじゃない 「今でも信じているの ? 」 「いやいや、その時ちょっと信じただけだ。洗礼を受けた 「そういうこともあるだろう、」と汐見は言った。「英雄たら信じられると思ったのだ。僕は誠実に人生を歩いて来た つもりだけど、あのことだけは失敗だった。しかしね、」 ちはそういうふうに死ぬだろう、が、僕は英雄じゃない、 僕は英雄の孤独ということを考えたことがあるが、しかしと言って、彼は大きく息を吐いた。「失敗でない人生なん てものは、そうそうはないよ。」 花今、むかし生きたようには生きていないのだ。」 あわ の「病気なら誰だってそうさ。」 話が陰気になって来たので私は少し慌てた。手術の前の 草「病気なんて問題じゃないよ、生ぎる 0 てことはま 0 たく晩というものは、大体、元気をつけてやるべきものだ。私 別のことだ、それは一種の陶酔なのだね、自分の内部にあは、もう帰ろうと言って椅子から立ち上った。彼は手を伸 るありとあらゆるもの、理性も感情も知識も情熱も、すべばして、新しい煙草に火を点けた。 てが燃え滾って充ち溢れるようなもの、それが生きること「君、誰か家の人が来るのかい ? 」と私は窓際に立ったま の っ
、ない第 いくつか ばくは出歩くのが嫌いなたちで、東京は、 の大学と古本屋さんのはかは限られた場所しか知らな い人間だから、なんとなく心細い気持でいたら、中村 さん自身も一緒に散歩に出かけて下さることになった のよ、ト常に ~ 焙しかった。 につまり 開成中学は、国電の田端と日旅里とのほば中程のと ころにあるばくも教師業を ~ んでいるからわかるの たカ、よその学校というものはなんとなく入り難いも のだ。その上同行した出版部のさんがカメラマンの さんに、ばくらに向けてやたらと写真をうっさせる 氏 ものだから、ばくは開成中学の人っ子一人いない校庭 、象力を働かせることができなかった。 一では、あまり想イ 村中村さんが開成中学に通っていたころ住んでいた田 中端の家も、あたりの様子が変ってしまってわからなか れったし、福永さんの精密な地図をたよりにさがした「幼 ぞうしいや 訪 年」に出てくる雑司谷の家も、今はまったくなくなっ を 端ていた 「東 ~ 星はもうすっかり変っちまった、これし たやまるで植民地へ来たみたいなものですよ」と中村さ んか撫然としていわれるのを聞きながら、ばくは少し 過 をちがった東京の印象のことを考えていた 代 ばくは、やはり田端や雑司谷のあたりのたたすまい 時 学は、そこに長い時間の重みがあるのを感する。そして