汐見 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 41 中村真一郎 福永武彦集
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1. 現代日本の文学 41 中村真一郎 福永武彦集

413 注解 福永武彦集注解 独な姿は、この地上に孤独に生きていかなくてはならない人間 の姿を思わせて象徴的である。汐見は、この百日紅を見て「馬 かっこう 鹿げている」「こんな惨めな恰好をして、それで生きていたっ て何になるものか、死んでる方がよっ・ほどましだ。」とのべる が汐見の後の死を思うとき、深い暗示的なものが含まれている ことがうかがえる。 草の花 一一三七 routine ( 英語 ) ぎまりきった日常の仕事。 一三五冬福永作品を鑑賞するときに、どの作品にも色濃く流れる一一三九僕は自分の魂を殺して : 汐見は千枝子を「愛さずにはい 「愛と死」の主旋律の探求を強くささえているものとして、「構 られぬ」のに現実には「愛し得ない」愛の不可能の深淵をみて 成の緊密さ」を忘れることはできない。作者のライト・モチー しまった。このような純粋とまでいえる絶対的な愛は、その純 フをより劇的に、効果的に小説世界に構築してゆくために、作 潔さゆえに、死ななければならない。汐見はそういう意味で魂 者自身が、対位法、フーガという音楽用語で説明する独自の作 を殺してしまった人間であり、「死んだ真似」をしているよう 品構成法がうかがえる。時間の流れの前後が、あるいは事件の にみえる百日紅を、自己嫌悪に似た感情で嫌ったのである。 因果関係が、解体されたまま呈示され、読者は一見ばらばらな一一五一僕はもう死んでいたも同然 : : : 真に情熱的に生命を燃焼し 断片を読みすすむうちに、統一的なまとまりを見つけだしてい つくそうと生きた者が、それが不可能だった時に深く絶望の深 く。ある時には、物語の終りは、物語のはじまりにつながって 淵に沈みこむ。汐見にはそういう、真に絶望した者のもつ、カ 行き、どこから物語を読んでも終りのない小説世界のサイクル ラリとした明るさが感じられる。絶望の深淵はくりかえし作者 を創り出していたりする。 の追求するところのものである。 「草の花」はしかし、構成的には明確で正統的である。サナト一一五三 séraphique ( 仏語 ) 神々しい。清い。気高い リウムにおける初章「冬」から終章「春」への時間的推移を辿一一究 mortel ( 仏語 ) 死すべき。致命の。 っていく中に、語り手である私が、汐見の死後、ノートを紹介一堯 brillant ( 仏語 ) 光り輝く。立派な。すばらしい する「第一の手帳」「第一一の手帳」の章が挿入されている。 一一六 0 état d ・åme ( 仏語 ) 魂の状態、心境。気分。 一一三五ドアニエ・ルソー Henri Rousseau ( 1 4 ~ 1910 ) のこと。兵一愛するということの謎この汐見の疑問はとりもなおさず、 通称ドアニエ ( 税関吏 ) ・ルソーと呼ばれたフランスの画家。深 作者自身の作品のライト・モチーフとなって小説世界で追求さ い感動と驚くべき空想力によって再現されたスビリチュアルな れていく。作者はこの愛の問題を、自己の精神の中心課題とし 独創的絵画は、一一十世紀の絵画に新しい標柱をうちたてた。 てとらえ、生の根源に迫る問いかけの姿勢ー生存理由の問いか けとして、追求するのである。 一一三五百日紅の木が一本 : : : この百日紅のぼつんと立っている孤

2. 現代日本の文学 41 中村真一郎 福永武彦集

せんよ。信者になったら自殺は出来ませんからね。」 得意になって繰返した。それから私の顔を見て、急に真面 「うん、でも不思議だな、汐見がね。そういうことは全然目な顔付に戻って言った。 汐見らしくないような気がする。何だか」 の人の話を聞く 「君、誤解しちゃいけない、僕は決して安っぽいヒロイズ なお みたいだ。」 ムで手術を頼み込んだのじゃない。万一、供が癒るとした 私は病棟へ帰ってからも、この話を汐見にすることを憚ら肺摘以外に方法がないのだ、もし癒らないのなら、むざ った。冬の間に、汐見は一一三度村田先生のところへ出掛けむざ死ぬよりちっとでも医学の進歩に役立った方がいい めぐ て行った。医局会議の席上、汐見の手術問題を廻って烈し君だってそう思うだろう。 : とにかく、きまって僕は嬉 たたか い議論が闘わされたというニュースが、看護婦の方から流しいよ。」 れて来た。そして結局、汐見の希望が通った。手術は一一月汐見の明るい表情、ーーしかも何かを隠したような不可 中旬に予定された。 解な表情を見詰めながら、私は一種の不安を禁じ得なかっ 「先生だって、僕みたいなケースを手掛けてみたいという た。あれほど関心を持っていた部屋の連中が、きまったと 気持はあるんでしよう ? 」と彼は訊いてみたそうだ。 聞くと、急に黙り込んでしまった。汐見はしんとした部屋 たくさん 「それは勿論ですよ、一人でも沢山やってみたい、何しろの中を見廻し、ペッドの上に机を据えて、煙に火を点け すくな 肺摘を希望する人はまだ尠いんでね、」と村田先生は笑った。それは暮れやすい冬の日の夕暮時で、配膳室の方向か こ 0 らアルミの食器の打ち合う音などが聞えて来た。汐見はノ からだ 「じややって下さい、医学の進歩のために僕の身体が役に ートをひろげ、いつまでもぼんやりと左手で頭を抱えてい 立っとしたら僕は満足です。」 「そういうことは君、君の身体に万一にでも危険があると 花したら、医者として : : : 。」 かま の「しかし患者である僕が構わないと言うんですから、ちつ手術の前日に、汐見は外科病棟の個室に移った。夕食を たず 草とも問題とするに足りないんじゃありませんか、何なら一済ませてから、私はその部屋を訪ねて行った。 あぐら 彼は不断のように寝台の上に胡坐をかき、窓の方を向い 札入れますよ。」 私達の部屋に帰って面接の模様を説明しながら、汐見はて煙草をくゆらせていた。私も成形手術後の二週間を個室 で過したことがあるが、べッド一つと床頭台一つとを容れ 「一札入れますよ、」と言ったのが効果があったらしいと、 はばか うれ かか

3. 現代日本の文学 41 中村真一郎 福永武彦集

汐見の遺骨は、その兄の手に抱かれて郷里へ帰った。私せた。 嚇の手許には二冊のノートが残された。私は、汐見の出た高私は石井千枝子の長い手紙野火止の橋を越した草の 等学校の同窓会名簿を借りて来て、彼の友人達の名前を探上で読んだ。汐見の手帳を読んだ頃はまだ冬の央だった し出し、その訃を伝えた。そして私は、そうした文通の結が、今はもう草は暖かく燃え、たんぼ・ほの花が咲き乱れ ひばり かしま さえず しばら 果、暫くの後に石井千枝子の現在の住所を知った。彼女はた。空には雲雀が喧しいように囀り、おだやかな白い雲が とびとびに浮んでいた。それには次のように書かれて 東海道筋の市にいた。 私は汐見の遺したノ 1 トを、石井千枝子に読ませた方がた。 しいかどうか判断がっかなかった。彼女は、恐らくは、田 舎で幸福な結婚生活を送っているだろう。汐見との交渉 お手紙をありがとうございました。悲しいお手紙でござ は、もう遠い過去の出来事に違いない。私はお節介なこと いました。 をして、他人の平和を傷つけようとは思わなかった。しか し汐見茂思の心中を忖度すれば、彼が彼の手記の最も理解わたくしは汐見さんのことを忘れてはおりません。しか ある読者として予想したのは、彼が生涯に於てただ一人愛し忘れようとっとめてはおりました。もはやどうにもなら あ、ら はず ないことと諦めてはおりました。あなたさまのお手紙を拝 した、この女性を措いて他になかった筈だ。 私は長いことためらい、遂に石井千枝子に手紙を書い見し、存じ上げぬ方から何のお便りだろうかといぶかりな びんせん がら、便箋をひろげたとたんに汐見茂思という名前が眼に た。私は汐見茂思と私との間柄から、その死の模様につい て説明し、また彼のノートの内容についても、出来るだけ写った時には、急に手がふるえ出して便箋を手に持ってい わら 詳しく紹介した。もし彼女にそれを読む意志があるならることも出来ない位でございました。お嗤いになりますで ば、いつでもお送りすると付け足した。私はその手紙を出しようか、私は怖れたのではございません。ただあの方が ある 応召なさって以来、わたくしはあの方の消息をほとんど耳 してから、或いはまったく余計なことをしたのではないか にしたこともございません。わたくしは女子大を卒業して と、ふと心の痛む時もあった。 ようや 返事はなかなか来なかった。漸くそれが着いた時に、春石井と結婚し、やがて子供が生れ、終戦の年に、主人が当 はもうたけていた。その手紙は切手を何枚も貯った、ずつ地の高等学校に奉職することになりましたので、それきり しりと重い封筒で、細かいペン字が私に一種の感慨を催さ田舎へ引籠ってしまいました。汐見さんもきっと無事に復 そんたく おそ のびどめ さなか

4. 現代日本の文学 41 中村真一郎 福永武彦集

汐見の言いかたがあまりに強かったので、若い医師は少 肉が通じたかどうかは分らなかった。しかし良ちゃんは、 し気分を害したらしかった。診断が済んだあとで、私達は それからあまり怒鳴ったりなんかはしなくなった。 かわ 私達が一番熱心に議論を交したのは、何と言っても、私私達なりに議論を交した。 達の病状に関する話題の時だった。その中でも、汐見の病「汐見さんは呆れるほど勇敢だよ、」とまず角さんが感心 カルテ 状、その手術予定が最大の関心を集めていた。診療簿に記した。角さんは毎週の気胸でさえもびくびくものだったか 載された汐見茂思の診断所見には、次のように書かれていら、手術なんて考えただけでもそっとする、と口にしてい 「左上葉肺門部ニ鶏卵大ノ空洞一個、下葉中野ニ撒布性滲「肺摘というのはまだ危険なんじゃないかな、」と私は言 じゅん 潤、右中葉ニ中等度ノ滲潤ヲ認ム。」 った。「もう少し様子を見てからの方がいい。」 ていねい 汐見はこのサナトリウムにはいって来る前、近くにある「僕はやってもらうつもりですよ、」と汐見は丁寧に言っ キリスト という基督教関係のサナトリウムにいた。私達のいるこた。 の村には、大小十幾つかのサナが並んで療養村と呼ばれ「成形だっていいだろうに、」と小父さんが口を挾んだ。 ていた位だが、サナトリウムは中でもごく小さな方で外「成形は駄目だ、」と良ちゃんが言った。「成形したってこ 科手術の設備がなかった、それで手術を受ける目的で私達んな大きな空洞は決して潰れやしないよ。」 「肺摘ならどうだい ? 」と私は訊いた。良ちゃんは何と言 の方へ移って来る患者の数も尠くなかった。 初めての診断の時に、担当の若い医師はレントゲン写真っても医科大学の学生だったから、その専門的意見は一応 と汐見の顔とを、等分にしげしげと見た。 尊重された。 「成形しても、充分の効果があるかどうかは分りません「駄目だ、危険ですよ、」と大きな声で答えた。「安静にし カヴェルネ ね、空洞の場所が場所だから、」と医師は言った。 て、ストマイを打って、よっぽど病巣が落着いてからな はいてき 「僕は肺摘の手術をしてもらいたいんです、」と汐見は答ら、 : しかしそれでもどうかな。」 「とにかく僕はやってもらいますよ、」と汐見はにこにこ えた。 がんこ 「肺摘 ? そうですね、反対側が綺麗ならいいけど : : : そして、しかし頑固に、言い張った。 実際に病状は悪いのに、外見にはひどく元気そうな患者 れは少し冒険じゃないかな。」 力しる 汐見なんか、その最たるものだろう。微熱も 「しかし、僕はぜひ肺摘をやってもらいたいのです。」 すくな 、れい さんゑ しん だめ つぶ そとみ はさ

5. 現代日本の文学 41 中村真一郎 福永武彦集

あなたさまはわたくしがなぜ汐見さんから離れたかとお汐見さんに対する愛とが、わたくしの中に共存できるもの 尋ねでございます。わたくしは弁解しようとは思いませと思 0 ておりました。しかし神は厳しい主でございまし ん。あの方が事実、幸福におなりになることが出来なかっ た。わたくしはいっか、この二つの愛の何れかを選ばなけ たとすれば、それはわたくしの誤りでございました。しかればならない気持に追いやられました。汐見さんは神を信 しわたくしは、芸術家というものを理解できませんでしたじてはいらっしゃいません。もしあの方がわたくしを愛す し、わたくしのような平凡な女が、もしあの方と一緒になることによって少しでも信仰の方へ歩み寄られるようなら いらず れば、お互いに不幸になるだけだと一途に考えておりましば、二つの愛を共存させることも可能だと考えました。し た。幸福とか不幸とか言っても、本当に燃え上 0 た愛に較かし汐見さんはかたくなに、自分を守り通したかたでござ べれば、そんなものは恐らく何の意味も持たないのでござ います。そしてわたくしは、わたくしの信仰を失いたくは 、ましよう。 わたくしにはそれが分りませんでした。それありませんでした。 にわたくしは、このわたくしとして、この生きた、血と肉わたくしはその頃ルッターを読んでおりました。自分の とのあるわたくしとして、愛されたいと思いました。あの幸福のために神を求めることは罪の本質だということを知 方が、わたくしを見ながらなお理想の形の下にわたくしをりました。わたくしは自分の幸福という言葉が、汐見さん 見ていらっしやると考えることは、わたくしにはたまらなとの愛を指すもののように取ったのでございます。わたく い苦痛でした。わたくしは平凡な女でございます。それをしが汐見さんを愛することに純粋であればあるほど、わた あの方は非凡なように御覧になりました。そのような思い くしは自分の不純に気づき、そのために一層神を求めざる 過しはいっかは覚めるものでございます。わたくしはいつを得なかったのでした。ルッターは繰返して、悔改めの本 か幻減の瞳であの方から眺められるのかと思えば、ぞっと質は、人が相手を自分のために愛するのではなく、相手を 寒気立ちました。あの方は夢を見て暮らすかたでございま相手のために純粋に愛することだと述べております。そこ したし、わたくしは現実をしか見るすべを存じておりませにわたくしのジレンマがございました。わたくしは心の強 んでした。 い時には、わたくしが本当に汐見さんを愛しているのな わたくしが汐見さんにお別れしようと申しました頃、わら、あの方のためにわたくしなんぞお側から離れた方がい たくしは熱心に基督教を信じておりました。わたくしはこ いのだろうと考え、また心の弱い時には、わたくしのよう すが の二つの愛、もとより次元は違いますが、神に対する愛とな者は、神にお縋りして心を強くするより他に生きかたは キリスト

6. 現代日本の文学 41 中村真一郎 福永武彦集

ないように思いました。いずれにしても、わたくしはあのした。わたくしは汐見さんからエゴイストだと言われまし 方を愛していればいるほど、本当の愛はかえってあの方か た。きっとそうでございましよう。わたくしはその時、汐 ら離れることにあるのだと考えました。この気持は苦しゅ見さんがもしそうお望みになるのなら、わたくしもまた、 うございました。夏の間、汐見さんからは手紙一つ来ず、わたくしの神を捨てても悔いない気持になりました。浅は うちか わたくしは自分の寂しさに打克っためにも、毎日一心に祈かだとお思いになりますでしようか。わたくしは噴火する おそ り続けました。その年の八月に、わたくしは湖畔で開か浅間山を怖れる以上に、未知の事柄を怖れました。しかし れた沢田先生の聖書講習に参りましたが、湖の青さ、空のわたくしのエゴイズムが、それを望んでいなかったわけで はございません。わたくしはそうして、一一人とも、ゲへナ 青さを見るにつけても、汐見さんを思い切ることの出来ぬ この心弱さを、祈りの足りないせいだと思おうと存じましの火に焼き滅・ほされてしまえばいいとまで考えました。 た。しかし心を偽ることは出来ません。眼に見えぬ神より しかし汐見さんは、そのようなわたくしをきっとおさげ あやま も、眼に見える汐見さんの方が、何層倍もわたくしには恋すみになったのでしよう。 わたくしたちは何の過ちも冒さ しく感じられました。そしてこの気持は、ただわたくしだず、日暮に山を下りて参りました。タ陽が赤々と山肌を焼 かかわ けの幸福と関りがあり、あの方の幸福とは別のものだと考いておりました。わたくしはその時、わたくしたちの心が えることは、わたくしには苦しくてなりませんでした。わあまりにも遠く離れているのを感じたのです。それと共 たくしがお友達の菅とし子さんと御一緒に、八月の末に信に、わたくしは急いで神の前に額ずき、この心弱く、誘惑 ぎんげ 州の 0 村の寮へ参りました時には、わたくしはわたくしのに負けやすい自分を懺悔いたしました。わたくしは汐見さ かっ 嘗ての決心を半ば後悔していたのでございます。 んがわたくしを選んでくれなかった以上、神がわたくしを わたくしはそこで、半ば偶然のように、半ば予期してい選んだのだと考えました。これは自分ひとりに都合のよい 花たように、汐見さんとお会いしました。わたくしたちは、 エゴイズムに違いありません。しかしわたくしは苦しむこ めぐ かわ のまた前のような堂々廻りの議論を交し、わたくしはあの方とに疲れたと申し上げれば偽りになりますでしようか。わ 草がどんなにかわたくしを愛して下さいますことをはっきり たくしが石井から結婚を申し込まれました時に、しばらく らゆうちょ と知りました。わたくしは神を忘れました。もし本当にその躊躇の後にそれを承諾したのは、自分の意志というもの ごと わずら みこころ あ、ら のほうが汐見さんにとって幸福なようなら、わたくし如きが煩わしく感じられ、すべては神の御心のままだと半ば諦 者の魂の平和なんか地になげうっても惜しくないと思いまめてしまったせいなのでございます。しかし石井を選んだ おか

7. 現代日本の文学 41 中村真一郎 福永武彦集

370 のはわたくしの意志で、決して母に言われたからでも沢田う。今でも覚えておりますが、それは短い、汐見さんらし 先生に言われたからでもございません。もしその後わたくい文章でございました。 しが不幸になったとすれば、それはみんなわたくし一人の はず あずか 千枝ちゃん、とうとう僕のところに召集が来た。僕は 責任で、母も石井も与るところはない筈でございます。 汐見さんの応召の御通知のことはわたくしは何も存じま最後に音楽会に行って、その晩の夜行で郷里に立つつも せんでした。わたくしは風邪を引いて一週間ほど学校を休りた。此処に同封したのはその切符だ。もし君が来てく れたら嬉しい。何といっても僕達は、長い間の友達だっ んでおりました。そして学校へ参りまして、初めて菅とし たからね。 子さんから、汐見さんがその間に出征されたことを聞かさ よろ お母さんに宜しく。 れたのでございます。その時のわたくしの驚き、本当に眼 の前が真暗になる気持でわたくしは菅さんのお話を聞きま した。わたくしは自宅に帰って、泣きながら母にその話を手紙は結婚しました時に他の手紙と一緒に焼いてしまい いたしました。汐見さんはなぜしらせてくれなかったのだましたが、その時の切符たけはもう色も褪せたまま、今も ろう、とわたくしは申しました。その時の母の顔は忘れらわたくしの聖書の間に挾んであります。わたくしの子供っ わら れません。母は汐見さんの速達を受け取り、わたくしが具。ほい感傷をどうそお嗤い下さいませ。わたくしはその手紙 ひぎすが 合を悪くしておりましたので、つい自分でそれを開いたのと切符とを手にしたまま、その時母の膝に縋って泣きまし た。そうしてわたくしは汐見さんと、再びお会いすること だと申しました。わたくしの風邪がもしやこじれはしない もなく別れてしまったのでございます。 かと心配し、音楽会には自分が代りに行くつもりでいなが わたくしは長々と書いて参りました。この上何の書くべ ら、その晩わたくしの熱が高かったので、そうもならず一 ばくぜん 人心に隠していたのだと申しました。わたくしは泣いて怒きことがございましようか。その頃わたくしが漠然と感 りました。お母さんの鹿とののしりました。たとえ風邪じ、今いっそうはっきりと感じますことは、汐見さんはこ を引いていても、たとえ熱があっても、わたくしはお別れのわたくしを愛したのではなくて、わたくしを通して或る に行きたかったのです。しかし母の身になってみれば、わ永遠なものを、或る純潔なものを、或る女性的なものを、 たくしが石井と婚約した後のことでもあり、容易にその手愛したのではないかという疑いでございます。或る永遠な ものとは、あの方が遂に信じようとなさらなかった神、或 紙をわたくしに渡す決心がっかなかったのでございましょ

8. 現代日本の文学 41 中村真一郎 福永武彦集

か、と言って誘うように藤木の顔を見た。あたりは暗く、 幸福はすべて充たされるのだ。僕は再び溜息を吐いた。 その表情は分らなかったが、藤木は黙って僕と並んで歩きが、藤木はそれを別の意味に取ったらしい 出した。何から話したらいいのだろう、一番大事なことは そうなんです。みんな余計な心配なんです。僕はそ しんなお いや 何だったのだろう。頭の芯が尚もずきずきと痛んだ。 んな、汐見さんが苦しんでいるのなんか厭だ。 僕は苦しくてしかたがない。 だってしかたがないじゃないか、藤木。僕は苦しむ そんなに飲んだの、汐見さん ? ように生れついているんだ。 しりあ それでも、僕のことでは苦しんでほしくはないん 藤木は僕と肩を並べ、僕等が初めて識合った頃のよう な、甘えるような声で僕の方を見た。僕は首を横に振っです。 愛していれば苦しくもなるよ、と僕は言った。 僕はどうすればいいんたろうね、君は部をやめるそ愛するという言葉、それが藤木の気に障りはしなかった ろうか。僕は一瞬言いすぎたように黙ったが、藤木は沈黙 うじゃないか。 の中で動かなかった。 僕が ? しばら どうして苦しむことがあるんでしようね、と暫くし 僕の存在がそんなに君に、 つぶや 待って下さい。僕そんな、部をやめるなんて。ひょて低く呟いた。汐見さんはただ、苦しんでいることを僕に っとしたら通学するかもしれないだけですよ。 見せつけようとするだけじゃないんですか ? そんなことはないよ。 そうか、柳井は何とも言わなかった ? 柳井さん ? そうやってお酒を飲んで、こんなに苦しんでいると 藤木がびつくりしたように訊き直した。 言って僕をおどかして、それで汐見さんは満足なんだ。そ 花 いいんだ。僕ただ矢代からそんなことを聞いたものれが僕は厭なんです。 のだから。きっと余計な心配をしたんだね。 ーーそれは君の誤解だ。君は物の表面だけを見ている ためいきっ んだ。 草僕はほ 0 と溜息を吐いた。僕は松林の中を歩いてい そうかもしれません。しかし汐見さんが本当に苦し た。あたりは暗く、海の上で漁火が水にきらきらと光っ た。僕は藤木と一緒にいるこの瞬間を、永遠のように愛しんでいるかどうか、表面以外にどうして分るんです ? 僕 た。こうして二人きり向き合ってさえいれば、それで僕のなんか何の価値もない人間なのに、汐見さんにはもっと別 さわ

9. 現代日本の文学 41 中村真一郎 福永武彦集

の間にも皆の視線を痛いほど感じた。「駄目だった、」と私 はそれだけ言った。皆は一言も口を利かず、雪のさらさらあくる朝はうららかな上天気で、雑木林の枝という枝が と降りこぼれる音のみが、沈黙を一層深くした。 雪を戴いてきらきらと太陽に光った。地面に雪は一尺の余 うれ 「上葉はうまく取れたんだ、」と私は看護婦に聞いた通りも積っていた。元気な患者達は庭へ出て、嬉しげに声をあ を話した。「しかし下葉の病巣も意外に悪いので、村田さげて叫んだ。南側の屋根からは点滴の音が次第に烈しくな すすめ んがどうしようかと汐見に訊いた。汐見はやってくれと頼った。雀がしきりに啼いた。 ゅちゃく しかばね んだのだ。ところが癒着がひどくてね、途中で村田さんが私達は汐見の屍を守って霊安室へと足を運んだ。林の もう止そうと言ったところ・ : : ・。」 中を抜けて行く散歩道には、まだ人の足跡もなく、雪は純 とぎ 私は息苦しくなって口を鎖した。皆は身動きもしないで白に敷きつめられて、そこに樹々の梢から陽光が縞をなし かま しずく 待っていた。「 : : : そしたら汐見が、構わないからやってて流れ込んで来た。時々冷たい滴が、道の真上の枝から私 したた くれ、と元気に頼んだって言うんだ。それで手術を続け達の頭に滴り落ちた。 ほら′【」ら・ したい はず て、とにかく下葉も取れた。で、最後に縫合にかかるとい 汐見の屍体は解剖に付される筈だった。今夜此処で営ま さが うとこで、急に血圧が下り始めた。輸血も一一回ほどしたられるお通夜の時まで、私達はもう用のない身体だった。私 しいんだが : : : 。」 達は祭壇の前に写真なそを飾り、また病棟へ戻った。その 私は黙った。すると不意に、良ちゃんが怒鳴ったのだ。時、私はふと汐見の話したノートのことを思い出した。 が二冊、さり 個室の冷たい蒲団の下に中判の大学ノート 「馬鹿野郎、汐見さんの馬鹿野郎 : : : 。」それは大きな、 こわ、かか わめ 喚くような声だった。「だからおれが止せって言ったんだ、げなくはいっていた。私はそれを小脇に抱え、蒲団は取り 纏めて消毒に出すように看護婦に頼んだ。郷里の兄さんが あれほど止せって言ったんだ : : : 。」 花良ちゃんは肥った身体を蒲団の上で揺ぶって泣いた。薄こちらに着くのは、今夜晩くか明日の朝になるだろう。片 の暗いスタンドの灯の中で、彼はいつまでも泣きやまなかっ付ける荷物といっては、蒲団の他には何ほどのものもなか 草た。私達は、誰も、重い罪を責められている者のように、 たど こすえ 首をうなだれていた。雑木林の中で、折々、音を立てて梢私はまた霊安室へ通じる散歩道を辿った。陽はいよいよ の雪がくずれ落ちた。 明るく、雪はいよいよ白い。下駄の歯に食い込む雪を、私 は木の幹でぼんぽんとはたいた。その乾いた音は遠くまで おそ

10. 現代日本の文学 41 中村真一郎 福永武彦集

416 ) 。カトリック主義に反対し、ジ、ネープで改革を遂行した。 三五 0 会ったことを一つの奇蹟 : : : 会うまでは切望しあこがれ、 三三一・フロテスタント protestant 新教徒。 その夢みていたものが現実に実現すると、とたんに色褪せたも ひしよう ミッション mission 伝道団体。 のになってしまう。それは夢想が現実を大きくとびこえて飛翔 三三五愛することのみで足りた千枝子の兄に対する時も同じくこ してしまっているからにほかならない。そのギャップの大きさ うのべる。千枝子の前で精神の自由を孤高に守る傲慢さを自己 に主人公は空しい気持になってしまう。 に課した汐見ではあったが、一方千枝子からのささやかな愛を三五一神の愛を通してしか : : : 愛する汐見から孤独だと言われた 期待している自己への嫌悪の感情がわきおこる。 時、千枝子は自分の無力を知ったのである。やがて千枝子は、 三三七ソナタ形式 : : : 福永作品の構成の特色の一つに、その音楽 愛や生の意味を神に託したのである。 性をあげることができる。汐見の書き出した、ソナタ形式の第三五一一御真影天皇、皇后の写真の敬称。 一・第一一主題が、「終結はなく、それは無限に繰返して」いく三五五何かが僕をためらわせた汐見のこの逡巡は「愛さずにはい 小説の構成は、福永作品のほとんど全ての作品にみられる共通 られぬ」のに、肉体的にもその愛が定着されようとする時に、 の特色である。 「愛し得ないことーを感じていることから生まれている。全身 三三七ュイスマンス Joris Karl Huysmans(1848A907) フラン ですがりついてくる千枝子を見てしまった時に、汐見は千枝子 スの神秘的自然主義の小説家。「さかしま」「彼方」は厭世的、 に自らの欲望の具象のかたちを見る。肉体関係を結んでしまっ 頽廃的、唯美的、悪魔的色彩をおびた作品で世間を驚嘆させた。 たあとにやってくる、絶対的な愛の不在を直感した汐見は、た ベルジーノ Pietro di Cristoforo Vanuci peru ・ 三三七・ヒエトロ・ めらい、恐怖し、千枝子を未知の女、自己の内部への闖入者と gino ( 1446 ~ 1523 ) イタリアの画家。ラファェロの師。宗教画 感じてしまうのである。汐見にとっては、獣のようになって肉 を多く残した。 体関係を結ぶことが、〈愛〉の不在を決定してしまい、一方、 三三〈 kosmopolites ( ギリシア語 ) 古代ギリシアで、紀元前四世 千枝子にとっては、肉体関係を結ばなかったことが、決定的な とな 紀にキニク派のディオゲネスらが唱え、せまい都市国家的な社 〈愛〉の不在の証明と感じられるのである。こうした〈愛〉の 会的風習を退け、超国家的個人主義的な生活意識や思想をもっ かたちは、それそれを悲劇にみちびいていく。すなわち、汐見 た。コスモポリタニズムに発展していく。 は純潔な孤独のうちにやがて一人きりで死ななければならす、 三三九傀儡あやつり人形。 愛にこばまれ、問いかける相手を見失なった千枝子にとっては、 三三九 その愛の意味を神に託すよりほかはなかったのである。 ミューズ Muse ギリシア神話の人間の知恵をつかさどる女 神たち。 三六四野火止用水埼玉県北足立郡新座町野火止を貫流する用水路 三空一 Post mortem, nihil est ( ラテン語 ) 死後には何もない。 三究ゲへナ Gehenna イエルサレム南方の谷間で、死刑囚の遺 三四一一エン・ヘラー emperor ( 英語 ) 皇帝。天皇。 体などで汚された場所としてユダヤ人からみきらわれてい