仲代 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 42 島尾敏雄 井上光晴集
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1. 現代日本の文学 42 島尾敏雄 井上光晴集

たのではない」とはっきりわからせるために、全納の家 大友がその本と雑誌を手に取ると、全納は「この雑誌は 奴らが研究会に使用したものだ。おれは別のルートで手に ( 外科病院だった ) を訪れたのだが、「お前だけが持ってい 入れたがね。まあ読んでみろ」とくり返してその頁を指摘るんじゃないぞ」というふうに『芸文』六月号をひらひら させて、「これはひどい評論ですよ、たくみにカモフラー 大友が読むと、表題になっている徳田馨の『新世代の倫ジュしてあるのがわからなかったのですかねえ、いや、君 岩上順一のが悪いといっているわけじゃないですがね」といったと 理ーーー文学と道徳についてーー・』はそっくり、 ひょうし けいさい 評論集『新文学の想念』に掲載されていた。「岩上順一のき、思わず相手の胸ぐらをんだのであった。その拍子に ことは君も知っているだろう。札つきの左翼評論家だ」と仲代自身がびつくりするほどゆっくりした動作で全納は後 うめ に倒れ、「うつ」と呻いたままうつぶせになってしまった 全納が大友にいったと、三浦吾郎は語ったのである。 「じゃ徳田馨が岩上順一だと知らずに、それを研究会でやのだ。口元を押さえた両手がみるみるうちに血まみれにな じやけん あわ 、「僕の責任だなあ」と ったというのだな」石井博がいい り、慌てて家人を呼んだ仲代を、母親は邪険に追いだした。 数日経って全納保が結核で死んだということを、退学処 仲代庫男は顔をうなだれた。 「お前の責任じゃないよ」桜井秀雄はい 0 た。そして、分と引換に仲代庫男はきいたのである。警察沙にしない ひぼう 「要するに全納はおれたちの土曜会を誹謗したんだな、奴代りに、仲代の退学を家族は要求したというのであった。 「もうすぐ広島よ」芹沢治子はいった。「あ」と仲代庫男 の目的はわかっているさ」と続けた。 はびつくりしたようにこたえた。「腐った関係」と仲代は 「僕が悪かったんです」仲代はいった。 「お前はいし 、よ、岩上順一だと知らなか 0 たのは鷓だ 0 思 0 た。「え 0 」けげんな顔をして芹沢治子が彼の暗い眼 ン たが、彼はいまはっきり転向しているんだからな。まあそをみた。「ええ」と仲代はまた曖昧な返事をした。その夜 、として、全納をそのままにはしておけんな」桜井 ( 全納保が倒れた夜 ) 、仲代庫男は桜井秀雄の下宿を訪ねて レれはいし ク 一部始終を話したが、桜井は「そうか、あいつは元々結核 三期だ、心配はいらんよ」といい「それにしてもお前一人 きけん 虚「僕が全納と会ってきます」仲代はいった。 でよく行ったな。まあ今夜は泊れ」とひどく機嫌よく振舞 「いいよ、お前は」桜井はいった。 った。しかしそれから数時間後、議論に疲れた仲代庫男は、 7 そしてその夜、仲代庫男は全納保を襲撃したのである。 襲撃というより、はじめ「左翼にかぶれたような報告をし桜井秀雄の異様に力をこめた腕によってある行為を強いら

2. 現代日本の文学 42 島尾敏雄 井上光晴集

の家族は : : : 」「失礼だが、その満州にいるという君のおまあ坐って下さい」江下課長はふたたび前の椅子にうなが やじさんの職業は」「なに、わからん、わからんというこした。 とはなかろう」「何も誤解しちゃおらんよ、しかしこっち「片づいた、といいますと」椅子に腰をおろして仲代庫男 も商売ですからな」「空襲にあったから帰郷した、そしては江下課長をみた。 学校には戻らんでこの炭鉱にきた、それで入営延期ね、ふ 「朴本に話したという男が今朝逮捕されたはずだ。二坑の りやまこんしやく 李山根錫という坑夫だがね、これで片づくんじゃないか」 一年程前、東京本社から直接派遣されてきたという若い労 「なんなら一度ゆっくり話合ってもいいですよ」 畑中警部補の鈍いからみつくような声がたてつづけに彼務課長はこともなげにいった。 のこめかみのあたりを衝つ。斜坑のレールにまたがった鉄「そうすると李山根錫という男が : : : 」 小、 4 う かっしよく 「事件のことは谷田君からきいたろう。そいつが事件の中 の架橋をわたると、すぐ前に、本坑の事務所が褐色の濃い めいま、い 心人物かどうかしらんが、とにかく朴本が白状したんだか 迷彩をして建っていた。 「課長は」ときいた仲代庫男に、労務課の入口の机に坐っらあとはもう簡単だよ」 ている高等科をでたばかりの女給仕が、「課長さんはきと「朴本が白状したんですか。朴本もあの事件に関係があっ たんですか」仲代庫男の声はうわずった。 られますよ。陣頭指揮で早いから」と首をすくめた。 「お早うございます。養成所の仲代です」開け放たれた労「直接関係があったかどうかしらんが、その男のことをし っていたんだからね」江下課長はこたえ、それはそれだが 務課長室の入口に立って仲代庫男は声をかけた。 「ああ、仲代君か、どうそ」という課長の返事がして、何というふうに、ちょっと間をおいて別のことをぎりだした。 か報告をしていたらしい係員が仲代庫男と入れちがいにで「どうだ君、労務課に勤めないかね」 レてきた。 「労務課に、僕が ? 」仲代庫男はびつくりして反問した。 の「どうそ」養成所の教員だが、炭鉱の正式の職制について「いや、はっきりわからんがね。大体養成所は近く休むこ 、よ、中代こ対して、けじめをはっきりつけるように、ひとになったんだ。休むといっても、解散と同じだがね。そ れで君のことを考えたんだが、このまま猩成所にずっと勤 どく丁寧な口調で江下労務課長はいった。 めるつもりでいるのなら、この際はっきり正式に労務課の 「朴本のことで、何か」仲代庫男はいった。 「朴本、ああ、あれは片づいた。その話じゃないんだがね、人になってもらったらどうかと、副長に話したんだ。臨時 ていねい

3. 現代日本の文学 42 島尾敏雄 井上光晴集

イカノタメ」という日本語をどううけとめるべきか、仲代させられたのであろう。仲代は何故かその「テンノー」と ふじよく いう片言がひどく実際の天皇陛下を侮辱したもののように 囲がとっさのことに迷っていると、シュッシュッというサイ レンの鳴る前の音が頭上にきこえ、そのサイレンが実際に感じた。そしてその侮辱感は朝鮮勤労者をおき去りにした 鳴りだす前に「警戒警報解除、警戒警報解除」という声がまま自分だけ防空壕に待避した班長 ( 多分日本人であろ ひきよう う ) の卑怯なふるまいにそのまま結びついているように思 遠くで上った。つづいて頭上のサイレンがうなりはじめ、 「面白いわね、さっきは鳴らずにここの待合所のサイレンわれたのであった。「朝鮮人も日本人じゃないか」と仲代 は解除のときだけ鳴るのかしらんね」と芹沢治子ははしゃ庫男は思った。「テンノーヘイカノタメ」という言葉だけ いだ声をだした。「さあ、皆が帰ってこないうち、一番先お・ほえさせて、その言葉の意味の重さに責任も持たず、自 分だけ卑怯に待避したのだと彼は考えた。佐世保港外の海 頭のところに 十分位経って、ふたたび待合所の中が人々でいつばいに底炭鉱に彼は昭和十二年から昭和十七年春まで ( その間一 なったとき、いつのまにきたのか岸壁に迷彩をした連絡船年ほど大阪の工場で働いていた期間をのぞいて ) いたが、 その小学校五年から高等一年を終え、そして炭札夫、坑内 が音もなく横づけになった。 「二列で改札しますから押さないように、順にならんで乗道具方で働くようになるまで、彼の友達の半数は朝鮮人だ 、中代庫男と芹沢治子は最初にとったのだ。 って下さい」係員がいしイ 「乾。ハンたべますよ。仲代さんもたべたら」彼女は急に黙 びだし かんん 「二階甲梗の方がいいのよ、仲代さん。船が沈没したときりこんでしまった仲代を不審そうにみた。 ちゅうとしようこう 「ええ」彼はこたえた。炭札夫をしていた時分、中途昇坑 一番助かる率が多いからね」彼女は船のタラップをかけの してきた朝鮮人が労務係員によっていやというほどゴム・ヘ ・ほっていった。 「何考えているんですか」上甲板のペンチに腰をおろすとルトで背中をなぐりつけられるのを毎日みていた。その血 こん すぐ芹沢治子がきき、彼は「うん、いや」と生返事をし痕のついた繰込場の情景が急に生々しく彼の中によみがえ りはじめたのである。 た。彼はさっきからずっと「テンノーヘイカノタメ」とい はんすう 連絡船がボウーという汽笛を鳴らし、その白い蒸気が暗 った朝鮮人の言葉を反芻していたのである。 恐らく他の日本語はろくろく覚えぬままに、北部朝鮮かい海面に綿のように流れていった。対岸の門司港には明り あんしよう ら日本内地に向けて出発する時、その言葉だけ無理に暗誦ひとつみえず、ふと背後で仲代が考えていることと重なる けっ

4. 現代日本の文学 42 島尾敏雄 井上光晴集

「そうやったかね」仲代庫男はいった。 「教会のむこうのとこだから、戸尾町かな」津川工治は昻 「何だ、忘れとるんか、一緒に立たされたくせに : : : 」津ぶった声でいった。 日工治は歌い終ったレコード の針をあけた。その時、軍港「いや、もっと遠いだろう、峰の坂あたりかもしれん」 の方角からボウボウボウという船の蒸気音がたてつづけに仲代庫男はいった。 上り、つづいて海軍防備隊のサイレンがその蒸気音を圧し「危いそこりあ」津川工治はいった。 つぶすような勢いで鳴りわたった。 「爆音がきこえんとはおかしいね仲代庫男は空を見上げ 「おかしかね、今頃」といって立上った津川工治が電灯をた。その彼の顔を吹きとばすように、軍港の左手にある天 消した。 神山の高射砲が射撃を開始し、同時に、・四の爆音が頭 「空襲ね、警戒警報は鳴らんやったとにね」ムラは、焼き上にきこえた。 かけているにくてんをどうするかというふうに息子の方を「空襲か、エ治」津川工治の兄、陸一がいやにはつぎりし みた。 た声をあげて起上った。 「焼いてしもうたらよか、おれは二階にいってちょっと様「うん兄さん、服着て、早う待避しないと」津川工治はう しちりん 子をみてくる」津川工治は七輪の火に照らされたそのムラわずった声で陸一の方をふりむいた。 の眼にこたえて二階にかけ上った。 「下にいこうか」仲代庫男はいった。 うわぎ 「火を消しといた方がいいですよ、危いから」仲代庫男は「兄さん、ズ・ホンはいとるのならそのままでよかよ、上衣 っこ 0 はおれが持っていくから」津川工治は陸一の手をひつばっ 「そうですね、そうしましよ」ムラは鍋ごとその七輪を台 た。何もいわず不思議に素直な動作で陸一は段を下りた。 所の方に持っていき、その時「おーしイ 、、中代きてみろ、燃「どこがやられとるとね、火消したよ」防空頭巾をかかえ えとるそ」という津川工治の叫びがきこえた。 たムラがいナ 「どこだ、燃えとるのは」仲代庫男は二階に上った。 「母さんは兄さんをつれてすぐ町内の横穴にいった方がい 「ほら、みろみろ」津川工治は指さした。その指さした方いよ、おれは後で荷物持っていくから」津川工治はいった。 向に赤い雲のような煙が上り、その下にさっき通ってきた「荷物って何だ」仲代庫男はきいた。 せんとう 駅前の教会の尖塔が影絵のように黒くくつきりと浮きたさ「うん、ポストンとあのミシンだけど」 れていた。 「ミシンなんかとても持って逃けられんそ、燃えだしたら むすこ 食カ

5. 現代日本の文学 42 島尾敏雄 井上光晴集

てくる。どういうふうにこの侮辱感を払うべきなのか、ど「あの人たち、必死なのよ。明日死ぬかもわからん人だか ういうふうにこの「抜け刀」という行動を考える・ヘきなのら」 か、悲鳴をあげたのは朝鮮人だけではなかったのに、大尉「明日死ぬかもわからんとだからさ、よけいわからんごと は同じ日本同胞に向ってな・せ軍刀をつきつけたのか。見習なるんだ」 っ ! さきしよう 士官たちが林威彦と同じ年輩の翼の徽章を胸につけた青年「 : ・ たちであるだけに、仲代庫男は何かとりかえしのつかぬこ 「門司港発の汽車はもう今夜はないかもしれんね」「空襲 そば とをしでかし、とりかえしのつかぬものをみてしまったよでやられたからわからんね」という声が仲代のすぐ側で起 あかだすき うな気がした。 った。汽車の中でききなれた赤襷の男の声のように思えた 「仲代さん、どうされたの」芹沢治子は心配そうに彼をみので仲代はふり返ったが、全然ちがう五十すぎの男であっ こ 0 「あの士官たちはやつばり学生かな」仲代はその言葉に直仲代はその場所を離れて見習士官たちのいるところに近 くったく づいていった。さっきの固い沈黙は消え、屈託のない笑い 接こたえなかった。 「学生よきっと。将校服がまだ板についてないもん」芹沢声が上っていた。 「どちらにいかれるのですか」仲代は少しかけ離れて海を 治子はいった。 眺めている見習士官にきいた。「はあ」と、その見習士官 「そうかな、学生かな」仲代はいった。 は仲代の方に顔をむけ、ちょっとためらうように「熊本の 「そうだと思うけど、どうして」彼女はきいた。 飛行場にいきます。近く出撃します」といった。 「やつばり特攻隊かな」仲代はいった。 「特攻隊ですか」なぜかそうきかずにはおれない気がして 「さっきのことを考えてるの」彼女はいった。 仲代はきいた。 レ「わからんね」仲代はいった。 「そうです」見習士官は明確にこたえた。 の「何が」彼女はいった。 虚「手紙をたのんだりするのに、どうして軍刀抜いたのかわ「学生ですか」仲代はまたいった。ちょっとけげんな顔を からん」仲代はいった。本当はそのことを考えていたのでして「そうです。自分は多賀高ェでした」と青年はいっ た。「がんばって下さい」仲代はいった。「な・せ軍刀を抜し はなかったが、自分の考えをまとめることができずにそう こたえたのである。 たのですか」とよっ・ほど口にでかかったのだが、かろうじ こ 0

6. 現代日本の文学 42 島尾敏雄 井上光晴集

いアクセントで揺れた。 られんことになるからね」仲代はズックの鞄から乾パンを だして半分入った袋をそのまま芹沢治子に渡し、もう一つ「朝鮮の人ね」仲代の後で彼女は小さい声でいった。 の袋を破って、中から一つかみとり出してそれをまた彼女「ここは危険かもしれないですよ、照明弾が落ちると一ペ んに何もかもまるみえだから」仲代はいった。 の分に加えた。 「ありがとう」素直に受取って、「でもどうしますか」と「危いけどね、班長さんがそういったからね」同じ声がい っこ 0 いうふうに芹沢治子は仲代の顔をみた。 「防空壕はこの待合所を出たすぐのところと駅の前にあり「班長さんは」仲代はきいた。 たくさん ます。しかしそう沢山は収容できませんから、できればこ 「班長さんはいないよ。さっきでていった」影がこたえた。 のままこの待合所で待機していて下さい」メガホンの声が「いない ? 」仲代はいった。 「いないよ」男は明らかに朝鮮人とわかる発音でいった。 また上った。 「いく ? 」ものもいわず下関駅の防空壕に向って後退しは 「班長だけ待避したのね」芹沢治子はいった。男は何とも こたえなかった。 じめた待合所の人々に押されながら、芹沢治子はいった。 「あとで別の防空壕をみつけて入ろう、こんなんじゃとて「皆朝鮮から来られたんですか」仲代はきいた。 も」仲代は彼女の腕をひつばった。 「北の方だからね、あまりニホン語しらないよ。空襲がぎ 待避する人々を一、たん便所の横の曲り角で避け、一番後たら逃げられるとよいね」朝鮮人にしても下手すぎるいし から町の防空壕を探しにでかけようとした仲代に、芹沢治方で立っている男はこたえた。夜の目にもよれよれだとわ かる薄い菜っ葉服を着た他の朝鮮人たちが仲代の方をみて 子が、「ほらみなさい、あの人たちは何かしら、な・せここに しやペ ン 残るのかしらね」といって指さした。みるとガランとなっ朝鮮語で何かしきりに喋りはじめた。 「どこにいくんですか」仲代はいっこ。 レた待合所の中央の様子に十二、三人の人々がまるで縛りつ うなが かっこう 「行きましよう」芹沢治子は彼を促した。その時さっきの のけられているような恰好で坐っていた。「どうしたのかな」 っぷや 構 と呟いてその中央の人々に近よっていった仲代は「あなた男とちがう椅子に坐っている朝鮮人が、びつくりする声で 仲代にこたえた。 たちは待避しないんですか」と声をかけた。 「班長さんがここにおれといった」暗い待合所の中で集団「テンノーヘイカノタメ、タンコーユク」 あんしよう の一番右端に椅子にもかけずにつっ立っている男の声が強そのまるで幼稚園の子供が暗誦するような「テンノーへ へた

7. 現代日本の文学 42 島尾敏雄 井上光晴集

して、仲代が机の上にカ・ハンをおくとすぐ、庄野係員が岩 「昨日は学校にでて、仕事しとったんだ。それからまっす松助手と同じことをいった。 「何かあったんですか」庄野係員と仲代の方を交互にみて ぐ朴本の家によったからおそくなった」 「朴本はまだかえらんけど、一昨日の晩警察は何というた小野係員がきいた。 「朴本の釈放をねがいに仲代君が警察にいったんですよ」 んですか、あの新聞持っていっても駄目ですか」 「うん、一昨日の晩はね : : : 」と、仲代庫男がいいかけた庄野係員はずばりといった。 とき、「やあ、仲代君お早う」と声をかけて、岩松助手が横「そんな : : : 」仲代庫男は制した。それはそうだけどそん なにいっぺんにいわれてしまっては困るとい ) 思いで。 に並んだ。 「あ、お早うございます」とこたえて、仲代庫男はまた後「ほう」小野係員はいった。 「朴本の釈放というと、どうかしたんですか」一昨日の午 でというふうに倉林をみた。 「一昨日は活躍したそうだな、仲代君は」倉林がかけ去る後いなかった化学を教えている用度課の久米係員がいっ こ 0 のを目で追て岩松助手はいった。 、よどんだ。 「朴本が警察にひつばられたんですよ。何か変なことをい 「は : : : 」ぎくっとして仲代庫男はいし めんどうくさ って : : : 」岩松助手は面倒臭そうに説明した。 「朴本のことで、わざわざ警察まで出むいたそうじゃない 「それで朴本は」釈放されたかというように小野係員はき か」何もかもしっているそという調子で岩松助手はいった。 「は、いきましたが : : : 」 「朴本が無罪だという有力な証拠を持っていったらしい 「いや、昨日ね、警察から電話がかかってきたらしくて、 が、仲代君何を警察に持っていったんだ」庄野係員はいっ おれが課長からよばれてね」 こ 0 レ「労務課長が何かいったんですか」 「何もそんなことでいったんじゃないんです。事情をきぎ の「いや、別に、君の活躍ぶりをきいただけだけどね : : : 」 にいったんです」新聞記のことはしらないのだな、と仲 虚岩松助手は急に話をそらすような口ぶりになった。 二人はそのまま黙ってせまい校庭をよぎり、養成所の職代庫男は思った。 「変なことって、朴本は何をいったんですか、そんなひっ 員室に入った。 「あ、仲代君、一昨日大変たったそうじゃないか」挨拶をばられるようなことをいったとですか」久米係員はいっ ら」 めいさっ

8. 現代日本の文学 42 島尾敏雄 井上光晴集

た先の尖った言葉をだした。「薬はいいけど、今晩は何時でもよかったですよ」仲代庫男はこたえた。 「大宮町もやられとるのか」津川工治はいった。 頃かえってくるとね」 その時、「焼けなくてよかったですね」といって仲代庫「ああ、べらっとやられとる、おれが通った時、ちょうど しよういだん 焼夷弾が落ちてきたんだ」 男が縁側に顔をだした。 「仲代さんの家はそれでよかったんですね」ムラはいった。 「あ、仲代か、おかげで助かったよ」津川工治は立上った。 「ええ、うちのへんは : : : 」と返事をしながら、仲代庫男 「陸一さん、どうかされたんですか」仲代庫男は呻き声の 方をみていった。 は新聞紙をかぶせた・ハケツを縁の上にあげた。「ジャガ芋 「仲代さん、昨夜は本当に世話になって : : : 」ムラは礼を蒸してきたんだけどよかったらたべませんか、もしかして 、その言葉のつづきをひきとって津川工治は説明した。焼けとったら困ると思って持ってきたんだけど」 「防空壕からとびだしてね、火傷したんだ」 「親切にね、そいでもうちはいらんから鹿島さんのところ 珠子は黙って仲代庫男に頭を下げた。 に持っていかれたら」ムラはいった。 「病院にはいったんですか」仲代庫男はいった。 「うん、鹿島のところに持っていけ、よろこぶぞ」・ハケッ 「病院といってもあなた」ムラはいった。 のジャガ芋を一つつまんで津川工治はいった。 「火傷立じやどうにもならんやろいまは。油をつけとるか「うん、鹿島のところにはいまからいくけんど、少しやる さら ら : : : 」津川工治はいった。 から皿持ってこい」 「まだ普通の体ならよかですけどね」ムラはいった。 「うちはほんとにいりませんよ」ムラは手を振って制した。 「そんなことは関係ないよ、 いまは」津川工治はいった。 いつばいあるから」 「いいですよ、 「それじゃ、少しもらうか。鹿島のとこにいくなら」そう 「まだよくみてないが、大分ひどかごたるね、鹿島のとこ いいかけて津川工治は皿をとりに台所にいき、それをさし レろも駄目らしかね」仲代庫男はいった。 の「あ、そうか鹿島の家は駄目かもしれん」津川工治はいまだした。 はじめて思いついたようにいっこ。 「鹿島のところにいくなら一緒にいこうか、どうなってい けが 「昨日、あれから仲代さんは何も怪我がなくてよかったでるか心配だからね」 「うん一緒にいこう」 すね」ムラはいった。 「ええ、大宮町のところでちょうど燃えはじめてね、それ陸一がまた呻きだし、「そう痛がってもどうにもならん からだ うめ いっしょ

9. 現代日本の文学 42 島尾敏雄 井上光晴集

どうにもならんけんね、それより機械だけ箱に入れて前のだから」仲代庫男はこたえた 庭に埋めろ、大事なもんと一緒に、食糧もあるだけ持って「ミシンを箱に入れて」陸一がだるい声をあげた。 すいとう いっといた方がいいぞ、水筒に水も入れて : : : 」東京空襲「箱がなければ風呂敷でくるんでもよかそ」台からミシン を外す津川工治に手を借しながら、また仲代庫男はいった。 の経験を役立てるような口調で仲代庫男はいった。 きんばく さっ 「エ治、空襲か」緊迫した空気を察したのか同じところを 「間に合うかね」津川工治はいった。 陸一はぐるぐるまわった。 「庭の防空壕に入れて、上から土をかぶせたらいいさ、加 「ああ空襲だ、兄さん、じっとしていうことをきかんとい 勢するよー仲代庫男はいった。 か 「仲代さんも早くうちに戻りなさらんと」ムラはいった。 かんよ」津川工治はいった。その時ムラが駈け込んできた。 はず 「ええ、うちは外れだから大丈夫だと思うけど、とにかく「スコップ借りてきたよ、もう近所の人はみんな防空壕に ミシンだけ埋めて、すぐかえります」仲代庫男は何かため逃げよらす」 かっこう らうような恰好で立っている津川工治をうながした。 ミシンを埋 「母さんは兄さんをつれて早く待避しなさい、 めてすぐいくから」津川工治はいった。 「水筒ゃなんかはおれが持っていくからいいよ、母さん、 ポストンだけ持って兄さんを早く横穴につれていって」初「よし、おれは庭を掘るぞ、ミシンをくるんだらすぐ持っ めての本格的な空襲に動揺した気持をそのまま声にあらわてこい」仲代庫男はムラが借りてきたスコップをつかんで をはいた。 して津Ⅲ工治はいった。 「ミシンを外して何かに入れてくれ、風呂敷かなんかで包「仲代さんはかえりなさらんと」ムラはさつぎと同じこと をくり返した。 んでもよかそ、それからスコップみたいなのであればいし 「ええ、 ミシンを埋めたらすぐかえります。大丈夫ですよ けど」仲代庫男はいった。 こねぎ レ 「前の田村さんの家にスコツ。フがあるから借りてくる」とまだ」なるべく柔かいところをと、小葱の植えてある庭の ク いってムラがとびだした。 隅を掘りおこしながら仲代庫男はこたえた。 の 虚「燃えるかね」この辺も、という意味を含ませて津川工治「母さん、兄さんに靴はかせて、早う横穴にいきなさい、 ミシン外したそ、すぐ持っていくぞ」ムラと仲代の がきき、それから「ミシンを外すから」といった。 こう・こ しよういだん 「焼夷弾で包まれたら逃けられんごとなるけんね、街の周方を交互にみて津川工治は叫んだ。 りから焼きはじめて、後で十文字に焼夷弾で切っていくん「ポロ切れでもなんでもいいぞ」仲代庫男はいった。 ごう こ

10. 現代日本の文学 42 島尾敏雄 井上光晴集

「いえ、もういいですよ、たべて下さい」仲代庫男はいっ 「何でも、といっても何にもない」津川工治は蓄音機と一 緒に持ってきた四、五枚のレコードをためらうような手つた。ムラがだまって残りのうどん粉の汁をかすって鍋の中 そり に入れた。橇の鈴さえさびしくひびく、雪の礦野よ町の灯 きで仲代の前にだした。 しようじたろう 「珠子、おそいね」新しく焼けたにくてんを皿にうっしてよ、という東海林太郎の声が前奏をぬいて急調子に鳴りひ ムラはいった。そのムラの言葉をきいてちらと津川工治がびいた。 仲代の方をみたが、彼はわざとそれにきづかぬふりをして「はじめのところにひびが入っとるんだ」津川工治はいっ こ 0 「これかけてくれ」と一番上のレコードを手にとった。 「少し音が高かごたるね」ムラはいった。 「何だ〈国境の町〉か、少し痛んどるけど」津川工治はい っこ 0 「うん」津川工治はレコードの速度をゆるめた。一つ山越 ・ : 故郷はなれて しや他国の星が、凍りつくよな国ざかい : 「いいよ、かけてくれよ」仲代庫男はいった。 「仲代さん、これたべて下さい」ムラはにくてんの皿を仲はるばる千里、なんで想いがとどこうぞ、遠きあの空つく づくながめ、男泣きする宵もある : : : さびた東海林太郎の 代の前におしだした。 しよっこう 「いや、さっきから一一つもたべとるから」仲代庫男は断っ歌とメロディが二燭光の電灯に・ほんやりうっしだされた畳 こ 0 の目にしみこんでいくといったふうにつづぎ、「前によう はやったね」とまた津川工治はいった。明日に望みがない 「たべろよ」蓄音機のハンドルをまわして津川工治はいっ こ 0 ではないが、たのみすくないただ一人、赤いタ陽も身につ 「いやもう いい、お前たペろ」仲代庫男は笑ってにくてんまされて、泣くが無理かよ渡り鳥 : : : という歌の文句をす くいあげるような気持でききながら「ようはやったね」と の皿を津川の前においた。 あいづち レ「そうか、じやた・ヘるか」レコード の針を選りだしてか仲代庫男は相鎚をうった。 のら、また「母さん、もう二枚位焼けるやろ、一枚ずつ仲代「ちょっとよかもんね」津川工治はいった。 「こういう歌、だんだんなくなってきたね」仲代庫男はい 虚とわけてた・ヘたらよかよ」と津川工治はいった。 っこ 0 「おれはもうよかよ」仲代庫男はいった。 あい娶ス 「もう二枚も焼けんから、残りを全部焼くよ、仲代さんあ「ほら、〈愛染かつら〉歌うて、松田先生から立たされた ことのあったね」津川工治はいった。 がって下さい」ムラはいった。 こうや