多恵子 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集
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1. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

えり ので、それ以後は女にさわった後で、手を熱湯消毒しなけ屋が嫌いでしよう。シャツの襟にのびた毛がかぶさってい ればならないもので、三十すぎても結婚できない。」 清は久保が一人者だということを聞いていたが、多恵子「それは彼が床屋のや剃刀の衛生状態を信用しないから の気のきき方は、久保が三十すぎまで独身でいたのと同じかもしれないぞ。」 清はそう言いながらも、久保の襟足をありありと思い浮 神経質な性格のあらわれということもありうるのだった。 久保に言われてみると、多恵子は就寝する前に三度ずつ戸べた。久保は多恵子の言う通り服装には気を配り、もぎ 締りを確かめずには眠れないというタイ・フの女に思えてきれいに剃っているのに、髪だけは何カ月に一度床屋へ行く か、と思うくらいのびていた。鬢の毛がのびて、耳たぶに た。そういう人間として彼女を見たことはこれまでなかっ たのだが、清が久保に感じたと同じ同類意識が、それとはさわるのが邪魔なのか、清と話しながら、机の上の鋏で一 のり 自覚しないうちに清の心の中に働いて、彼女を信頼するよっまみばかり切りとっては、屑籠に棄てる。襟足の髪は糊 うになったとも考えられる。中務が多恵子に近づくことをのきいたワイシャツの上におおいかぶさっている。外人の あぶら 嫌ったのは、嫉妬からではなくて、多恵子という同類を異ようにウェー・フして脂っ・ほい久保の髪は、同性にはむさ苦 ゆだ 類の男に委ねたくなかったのであろう。 しいという印象をあたえるにせよ、女性の身になればそれ 久保が多恵子をさそって遊んでいることは清も気附いてが青い剃り跡などと組合されると、久保は動物的な荒々し いた。五時ごろになると、久保が来て、清に用事かと思うさをさせる男になるのだろう。 かみくすかごす と、紙屑籠を棄てにゆく多恵子の手伝いなどして、やがて「それに食べたことのない物、行ったことのない店へ行く 一緒に姿を消してしまう。一一人は似合いの夫婦になりそうのを妙に厭がるんです。」 うちペんけい だった。もし二人が似たような潔癖感の持主なら、お互の確かに久保にはそういう子供の内弁慶のような所があっ 人神経をいたわりあって、うまくやってゆけるだろう。 て、行きつけの店の顔見知りのマダムや店員には、なれな 彼は予備知識をあたえるようなつもりで、多恵子に久保れしいのに、そうでない所では居心地悪そうにしているの 誠の印象や性格について話した。しかし多恵丘はちょっとまだった。 ぶしそうな目をして、 多恵子が久保にひかれ、時には母性愛に似たいたわり 「でも、久保さんて、割と神経の行き届かない所もありまで、 弓いくせに我ままな彼とっきあっているらしいこと す。ワイシャツなんかひどくおしゃれなんですけれど、床は、清にも想像できた。久保も飽きもせず多恵子の所に通 しっと とこ じゃま よさみかみそり びん

2. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

前の話の幹也が多恵子と結婚する方がいいと思った。彼 机の上においた。 中務の用件というのは、彼が多恵子に求愛しているのが弁護士で社会的に通りのよい肩書を持っているからでは で、彼女に対する彼の特殊な地位を認めてほしいというのない。幹也なら、現在までの清と多恵子の関係をそのまま であった。それは彼女に縁談など持ってきてくれるな、と認めてくれそうに思ったのだ。いや、関係というほどのこ ともありはしないのだが、相手が幹也なら、彼女との関係 いう意味のようでもあり、清をはじめとする社内の者は、 じようだん 彼女に対してあまり興味を持ちすぎないでほしいと言うよのその後の進行状況を冗談半分に聞けそうな感じだった。 うでもあった。清としては、何故、中務が自分にそんなこすくなくとも、婚約者のことで多恵子をからかったり、問 いつめたりしても、清に文句を言うこともなさそうだっ 、つめる気はなかった。 とを言うのか、し 「いや、僕は何も彼女に対して、特殊な感情など持ってなた。 しかし、中務は違う。彼はどこやらの新興国のように、 いよ。」 などと弁解するのも響だった。しかしまた中務の、多恵婚約者や世間に対して、ひたすら自己の権益を主張しそう 子はオレの女だ、という言い方にも反感を持った。 だった。そういう中務の押しの太さが、清は嫌いだった。 「まあ、そういうことは、君が言うことじゃなくて、菱田中務は中国地方の出身だったと思う。清の研究所の事務員 君が言うことじゃないか。君なら君という婚約者がいるか にいってくるくらいだから、あまり聞いたことのない大 ら、縁談はお断りします、と菱田君が言えばすむことだ 学を悪い成績で出た、記者のうちの誰かの紹介ではいって 来た男だった。彼の前任者は郷里の市の劇場の支配人の見 習になるといってやめてしまった。三十すぎても三万なに 「しかし、 がししか給料を出せないのだから、大概の者は二十五六で 「僕はこれからも、菱田君にいい話があって、その気にな 人ったら世話をするし、君向きのいい娘さんがいたら、話をやめていった。最初、中務はおとなしい青年といってよか な持 0 てゆくかもしれん。その時、君たち一一人の仲がどうな 0 た。入社して間もなく、研究所の旅行で可に行 0 た 時、清は中務が丹崩を着てあぐらをかいた姿勢が板につい 誠っているかは、僕の知ったこっちゃないからね。」 ているのに反感を持った。嫉妬したと言ってもよいかもし 「所長は彼女に気があるんですか。」 れない。 「馬鹿言うんじゃない。」 40 んいすを、 彼は若いくせにあぐらをかいて盃を口に持ってゆくやり 清は立ち上って、出した。ハイプをポケットにしまった。 しっと ぎら

3. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

方が、研究所の誰よりも堂々としていた。記者たちにしてそれなのに、中務が多恵子の夫になるのに清は反対だ 0 ひざふぞろ た。一生うだつが上らないサラリーマンの女房になるに 肪も、あぐらをかいたつもりだろうが、左右の膝が不揃いに もったい ・ ( ッタの跳び足のように持ち上 0 てしまう。清は正坐しては、彼女は勿体ないという気がする。若いのに冠婚葬祭の いると勿論しびれてしまうのだが、あぐらをかいても足がしきたりも一応は知っているし、センスもよい。挨拶の手 しびれる。いろいろな坐り方をしたあげく、長くもない自紙や中元の贈物など、ロで条件を説明しておけば、あとは 分の脚を持て余して、結局、柱によりかか 0 て、脚をのまかせておける。こういう娘は中務よりましな男の妻にな った方が、彼女の美点が生きるのではないかと思った。 下に投げ出してしまう。 またそれは中務に対する嫉妬かもしれないという反省も 中務はその一座の中で、最も雰囲気にとけこんでいた。 あった。つまり多恵子のそういう能力を発見し評価したの 記者たちも冷かし半分に、 は清であって、中務には彼女の美点などわかる筈もなく、 「いや、中務君、かなり遊んだんだろう。」 ただ彼女の体によって性欲をみたそうとしているにすぎな などと声をかけた。彼はそれですっかり調子に乗って、 いのだと、清は考えたか 0 た。職場のと従業員という 「おい、おれが歌うから弾け。」 せつかく と芸者に言いつけると、昔の軍隊で歌われたような淫ら形で、清と多恵子の間に、折角、好ましい人間関係ができ な歌を高唱した。研究所の面々がお上品だというのではなかけているのに、それを恋愛とか結婚というような別の人 間関係で破壊されたくはなかった。 いが、芸者を入れて、二三時間酒を飲んでから、思い思い そのころ家の近くの洋装店のウインドーの人形が、多恵 に夜の街を散歩したり、列車の中からもちこした経済上の 論争を続けるのが従来の旅行のやり方だった。それを新入子のとよく似た服を着ていて、通勤の途中そこを通る度 に、多恵子を思い出したのだが季節の変り目がぎて、清が りの中務が崩してしまった、という感じだった。 ぎら 清が中務に好感を持とうと、嫌っていようと、会社で一会社の帰りにその店を通りかかると、一一人の男がウインド ーの中で人形の服を脱がしている所だった。ニ人の暴漢が 緒に仕事をする上では大きな問題ではなかった。中務のそ うう性格は、印刷の仕事をしているアル・ハイト学生たち若い女を襲っているようだった。清はその日多恵子が中務 にら に睨みをきかすことになったし、学生たちの労働条件改善と一緒に帰っていったことを思い、不安になった。そして 要求なども、中務がいるために円滑に折衝がすすめられる電燈の下でむき出しになった人形の肌を見ながら、多恵子 の裸を想像した。それは何も初めてのことではなく、彼女 という利点もあった。 みた いっしょ

4. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

うまくゆかず、夫が多恵子のことを家でロにしなくなるが知らない言行を告げロしたというのではないが、清にし ても職場の人間関係や、研究所の経済上のデリケートな状 と、自然に彼女のことを忘れてしまった様子だった。 中務も何カ月か多恵子につきまとっていたが、求愛は失態について誰かに理解しておいてほしかったが、それが多 敗したらしい。彼女が入社して一年ばかりたってから、中恵子しかいなかったということなのだ。 氏から電話がかかってきたら、こう答える。氏から 務は既製服会社に勤めている友人にさそわれたから、と言 のこういう質問には、こう言っておく。ほかの事務員だ って研究所をやめていった。 うちかぶと 夫婦の間でも情熱が持続するのは結婚一二年の間で、そと、清の内兜を見すかされそうで言えないことが、多恵子 になら言えた。彼女は秘密を守るし、電話がかかってきた の後は異性というよりも、肉親に似た感情が強まってゆく ように、職場の男女の間にも、関心が急激に高まる時と、時、受話器をとるのは、まず彼女だった。 小さな研究所には組合などなかったが、多恵子は従業員 潮の引くようにそれが消えてしまう時期があるようだっ た。幹也との縁談の世話をしたり、中務がやめた後に、彼の不満や要求をよく伝えた、盆暮になると、清は多恵子か 女から、中務の押しの強さや身震いするような不潔感のこら聞いた話を胸にしまって、皆の前に通帳をさらけ出し とを聞かされて、忠告めいたことを言っているうちに、清て、ポーナス交渉をした。従業員というと記者が過半数で ぎぜんてき あり、彼らは午後の暇な時間に、他社の原稿書きやコンサ は最初はいくらか偽善的な感じがないではなかったが、い つの間にか彼女を異性としてよりも、頼りになる下僚としルタントの助手などの内職をしていたので、ポ 1 ナスに目 の色を変えるのは高田たち二三名の事務員だけだったか て考えることの方が強くなってきてしまった。 しかしそうなってからの方が、清は彼女を仕事の上の相ら、多恵子からの話で、彼らの考えは見当がつくのだっ 談相手として頼れるようになった。記者は研究所より、自た。 人分の仕事、自分が自由業の人間として独立することを考え記者たちは一人一人、清にむかって要求することは要求 なているし、他の事務員は、月給分だけの仕事しかしたがらした。しかし事務員たちはその勇気もないままに、何時の ない。多恵子はアル・ハイトや印刷係、女給仕を除くと、研間にか多恵子に代弁を依頼するようになっていた。事務員 しんざん 齦 究所で新参の方ではあったが、研究所内の人間関係や、仕の中の最古参の高田までが十以上も下の多恵子に頼むのだ 事のことについて、自分の問題として、清に提案する唯一つた。 の人間だった。多恵子はス。ハイになって、同僚、先輩の清「所長、菱田さんにも口そえをお願いしときましたが、昇 みぶる

5. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

「一度、会社に来て、見たらいい。」 「いや、ほかの事務員は阪売なんかを担当して外に出るこ こひきずりこもうとした とが多いから、デスクワークは彼女になってしまうんだ。」高田と中務が多恵子をワイ談冫 と答えたものの、自分がそんなにも家に帰ってからも多時、清は男たちの手から多恵子を救い出そうかとさえ思っ 恵子の話をするということ、いやむしろ、そのことに自分た。しかし経営者である彼がそこまで心を使うことは、社 で気附かなかったことを反省した。自分で意識しないうち員に悪い影響をーー・多恵子が清のペットだという印象をー に多恵子に関心を持ち、彼女に関するさまざまな事実を妻ーあたえることになりそうだった。清は知らんふりをしな に話している自分のだらしなさが不だ「た。自分はあがら、自分が彼女のことで、これだけ心に・フレ 1 キを必要 んな小娘に魅力なんか感じていない、ということを立証すとすることは、自分の心がどんな意味にもせよ、彼女に傾 るために、多恵子を会社から追い出してしまおうと思っきかけていることだろうかと思った。 た。といって、クビにすることもできないから、結婚させ考えてみると、そのプレーキは会社にいる限り、常に働 てしまうのがよい 0 いていたに違いないので、その反動として、家に帰ると香 「しかし、いい娘だよ。高田君と中務君がワイ談している代子に向って、多恵子の気のきき方とか、清純な娘らしさ などを、だらしなくしゃべる結果になった。そのことを妻 、彼女は仕事していてね。まあ、高田は彼女が聞いてい ないフリをしていると思ったんだろうな。『菱田さん、どに指摘されて、プレーキは家庭でも必要だ、と思うにつけ う思う。』と声をかけた時、彼女の白ばくれ方は、全くへても、自分にそんな心理的負担をかける多恵子に腹を立て タだった。ただ目だけが死物狂いというか、真剣なんだるべきだと感じた。彼は三十四歳の妻子ある中年男で、 な。精一杯無邪気な表情を作っていても、顔がいくらか赤さいとはいえ一つの企業の中心的人物ではないか。彼が気 くなってる。そういう時、男と平気でワイ談できる娘とい を病まなければならないことはほかにいくらでもある。粕 谷という記者が二年ほど前から大学の講師になったのはよ うのも厭なもんだが、あんまり見事に白ばくれられると、 いが、文章が次第にアカデミックになって、毎日起る世界 水商売の女みたいで可愛げがないもんだ。」 「娘らしい娘なのね。」 の経済現象を、どう解釈したらよいか迷っている読者には * かっかそうよう 「そうなんだ。いい嫁のロでもあったらと思うんだ。心当隔靴掻痒の感じになっている。しかし、粕谷は清より年も かな 上だし、経済の知識も、頭のよさも、とても清は敵わな りないか。」 「でも、どんな人かしら、彼女は。」

6. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

368 「何だって言うんだ、君は。」 えると、そのまま、階段の方へ歩いていった。屋上に来い 「所長は気が弱いし、男だから、会えばあの人を断れな、 しという意味らしかった。 にら でしよう。そんなことして、所長の奥さまに悪いわ。隠し屋上で多恵子は清を睨むように見た。 てもいっかは奥さまにも知れてしまうし。」 「話はっきました。」 「君はどうして分るんだ。」 「どうも。」 「スポーッシャツをお買いになった時、何だかへんだな 多恵子がふと目をおとした。 あ、と思ったんです。そしたら、あの人から規則的に電話「いやです、もう、あんなこと。」 があるし。」 「すまない。」 これは多恵子ではなく、香代子に言うべき言葉ではない スポーッシャツのことで、行き届きすぎた弁解をしたの ・、、けなかったのだろう。彼のシャツが変ったことだっ か、と思った。しかし顔を上げると、もう彼女は屋上にい て、ただ、途中で買ったのだと言えばしし 、、。シャッと頭のない。多恵子の嫁のロを考えなければならない、と清はふ いっしょ 毛の焼けたのを、一緒に説明しようとしたもので、かえっと思いついた。自分の弱味を握られたから、追い払おうと うそ て嘘が目立った。着て出たワイシャツが見えないことに多いうのではなく、このままにしておくと、彼女について結 恵子は気附くだろうが、工事場の針金にひっかけて破いた婚、情事の相手に対するのとは別の形で清が責任を持たね ばならなくなりそうで、しかも責任の取り方がわからなく から棄てたとでも言えばよかったのだろう。 なると感じたのだ。 「あたし、 e 堂の奥さんに会いに行ってきます。はっきり 断ってきます。」 四 清が何も言わないのに、多恵子はハンド・ハッグを取上げ その日、仕事が手につかないままに四時すぎに研究所を て出ていった。外を廻っていた高田たちが三時ごろ帰社し ても、多恵子はまだ帰らなかった。清はすこしも落着けな出た。家に近い郊外電車の駅をおりると間もなく、長女の いのに、仕事をしているふりをして、机に向っていた。ふ純子の手を引いて、心のように腹を突き出して歩く香代 と目を上げると、廊下に多恵子が立っていた。事務室には子の姿が見えた。香代子はあと一月足らずで二番目の子供 にぎ 今の所、清一人だが、隣りの印刷室の方が賑やかで、何時、が産れるのである。その丸い腹をつき出し、五歳の娘をつ はくちてき 人がはいってくるかわからない。多恵子は清の視線をとられて歩いている姿は、いかにも白痴的で見つともない。そ

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話のそばに椅子を持ち出してしゃべっていた。いずれ、多 やりたいの。」 ひろうえん 幹也と多恵子が披露宴で並んでいる光景を想像してみ恵子の縁談のことに違いないと思って、帰ってきたという はくせき た。似合いの夫婦になりそうに思えた。白晳の秀才と、し合図に妻の肩をたたくと、そのまま、居間で服を脱ぎす て、セータとズボンに着替えて、湯をわかして、お茶を入 つかり者のお多福の娘と。二人はお互に相手の欠点をカ・ハ まんじゅう ーしながら生きてゆけるかもしれない。しかし、その際れ、旅先で買ってきた饅頭を出した。その間中、香代子は は、多恵子の方に負担が多くかかるように思った。姉と弟電話でしやべっている。その受け答えを聞いているうち に、大体の様子がのみこめた。 が帰った後で、清と香代子は青年について話しあった。 どうやら問題になっているのは、多恵子が送ってゆくと 「どうかしら、あの青年。」 、う幹也を、自分の家まで連れてこずに、家のすぐ近くで 「そうだなあ。特に不足はないけれど、キンタマがついてし 追い返したということであるらしかった。幹也は突然のこ いるか、と言いたくなる所がある。」 とではあるから、多恵子の家に上りこんでもてなしを受け 「下品ね。一つには年よ。年がいったら、しつかりしてく ることまでは期待しなくとも、正式に両親に紹介してもら ると思うわ。」 「うん。しかし、三十代半ばをすぎると、あの男は生え際えるものと思っていた。それが家から数十メートル離れた 所で帰されたことについて、彼もその姉も大いに不満で、 がうすくなるぜ。あれはの性だ。」 香代子はいわば、多恵子のかわりに非難を受け、弁護しょ 「まさか。」 「そうだよ。今から分け目があんなにダダッ広いようじうとしても、片端から論破されてしまうという状況である らしい。 や、先が思いやられる。」 やがて、やっとのことで電話を切った香代子は、清がい 「あなた、この話に反対なの。」 人「そんなことはない。菱田君の方だって、キリョウは悪いれたお茶を飲み、饅頭を一口たべてから、 「多恵子さん、見損っていたわ。あんなことされたら、紹 なし、マイナスはいくらもある。」 結局、正式の見合いということでなく、香代子と友人介したあたしの立場上困るわ。」 「うん。まだ若いとは言いながら、全くできていないんだ が、幹也と多恵子を連れてお茶を飲み、二人だけで、そこ な、人間が。」 に置いてゆくということになった。その日、清は用があっ げんか て、旅に出ていたのだが、夜帰宅してみると、香代子が電清は多恵子を弁護して夫婦喧嘩などしたくなかったか

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から、清が里子と彼女の「ンシ ' ンでひそかに会える可能うとして気がついたのだが、握りの部分が汗でヌルヌルに 性はほとんどなくなってしまった。 なっていた。清はそこを ( ンケチでふいて多恵子に返し 清はホッとして、彼女とのことは、すぎ去った過失だとた。 考えようとした。 「飯田さんの奥さんでしよう。」 しかし九月の末ごろに、多恵子が妙な顔をして、 多恵子がわかりきったことを言うのは、もっと深い意味 「堂の奥さん。」 があるのだろうか。清は事務室の中を見廻した。彼と多恵 と電話機をよこした。清は電話機を受けとるなり、廻転子と一一人きりだった。 椅子をくるりと廻した。多恵子に電話をする時の表情を見「会ってくれというのね。」 られたくなかったのだ。しかし彼女は自分の後頭部を疑わ「え ? 」 しそうな目で見ているに違いないと清は思った。 多恵子は目を光らせて清を見ている。彼は目をそらせ 「一体、何日に会って下さるの。」 て、ポケットからタ・ ( コを取り出した。妻に問いつめられ しら 里子のいらいらした声が聞えた。 ているなら、白を切る所だが、多恵子なら、ある程度は本 「飯田さん、その後いかがですか。僕も経験あるんですけ当のことを言ってもよい れど、退院後しばらくは、神経の負担になるようなことの「飯田さんは心臓神経症で入院したんだが、ノイ。ーゼ気 ないように、まわりの人が気をつけるんですよ。」 味の点もあって、僕はその方面の体験者だから、奥さんに 「つまんない、そんなの。」 頼りにされているんだ。」 「奥さまとお子さんも、店の人も、皆で協力しないと。」 「この間、スポーッシャッ買ってらした時ね。」 「会 0 てくれなきや、主人にあなたとのことを告白するわ清はをついた。どうしてこの娘は、こんなにも、何 人よ。」 もかも分ってしまうのだ。 なそんなことをするとは思えないが、やはり清としては聞「所長はあの人を好きじゃない。お嫌いよ。」 誠き流せない。 「好きにも何も、関心ないよ。」 「御主人も私も神経が弱い方なので、大きいシ ' ックを受「あの人だ 0 て、所長を好きじゃありません。キチン、キ けると、すぐ神経的に参ってしまうんですよ。」 チンと二週間おきに電話してきて。女の気持って、そんな やっとの思いで電話をすませて、受話器を多恵子に返そもんじゃない。」

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356 ロングスカートで婆くさいかっこすんだってね。」 給の件よろしくお願いします。」 と高田がヘラへラ笑いながら言うと、清は搦手を襲われと言った時だって、誰も笑わないくらい、多恵子は目立 たない女になっていた。いや、その後にはいってきた若い たような感じで、昇給の理由や金額を聞かないうちに、し 、という気男の社員にとって、多恵子は一つでも二つでも年上だとい くらか値切るにせよ、言分を認めねばならない うだけで、おばさんなのだ。 になるのだった。高田はこういうことを何もかも承知の上 で、多恵子をたてているふりをしているのだが、ほかの事ある日、清が外から帰ってくると、多恵子が、 務員はそのあたりの呼吸がわからず、多恵子に対して、不「 e 堂の奥さんから電話で、所長にお目にかかりたいとお 必要なまでに尊大になるかと思うと、見えすいたお世辞をつしやってました。」 言って、卑屈になる者もいた。清はそういう社内の空気 e 堂というのは紙屋だが、事務用機械、文房具も扱って いて、清の事務所にある備品のほとんどは、毎日使う紙は を、やはり前から恐れていた通りになったと思いながら、 勿論、ロッカー印刷機をもふくめて、 e 堂から買った物で 便利なので多恵子を遠ざけることができないでいた。 ある。堂の主人の飯田広吉は顔色の悪い中年の男で、 多恵子は二三の縁談が彼女の身辺を通りすぎ、入社四五つも低血圧だ、肝臓が悪いとこぼしていたが、いよいよ 年になったころ、急速にオールド・ミス風になった。黒い低血圧の治療に入院したと、夫人が挨拶に来たことがあっ 眼をかけ、髪を後頭部でひつつめたように結い、服装もた。彼女は淡い青か灰色のスーツを着て、胸元に白い・フラ そばかす 地味になり、タイ。フをやる中年の家庭婦人と変らないようウスをのぞかせて、色白の顔にかすかに雀斑が浮いてい こ 0 になった。彼女が清と一番近い研究所の人間でありなが ら、しかも同僚、先輩の悪意を受けないためには、そうす「ああ、あの美人の奥さんか。スラッとしてるくせにグラ マ 1 だよな。いい ることが一番よいことだったかもしれない。 よ、何時でも会うよ。」 ぶしようひげ いつも不精髯をはやしている高田が、 その時、多恵子がかすかに冊な顔をした。そして窓の外 「このビルには、ジジムサくなるビールスでもいるんだ に目をやりながら、 な。多恵ちゃんだって、入社当時はかぐや姫みたいだった「でも、あの奥さん、ちょっとおかしな感じ。」 と言って、顔を赤くした。 のが、今じや中学校の先生みたいになっちゃった。中学の しっと 先生ってのは何だってね、男の生徒に襲われないように、 それは競争心とか嫉妬ではなく、自分がふと女らしい心 からめて もちろん あいさっ

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で、今の多恵子がどういう服をほしがっていて、どういうることになった。 「ええ、新婦多恵子さんは、長い間、私の仕事の上の片腕 人と仲が悪いかということもわからなくなっていた。 ある日、編集会議を終えて、高田、多恵子の三人で事務として、よく勤めて下さり、私どものようなポロ会社には つる もったい あみバいした 上の打合せをして、ふと気がつくと、多恵子は黒い網下勿体ない人材、はきだめの鶴と申しますか、ええ、今ここ をはき、ミニスカートをはいているのだった。入社したこでやめられてしまいまするのは、誠に痛手でございまして ろ彼女がスリットのあるタイトスカートをはいてきたとい うので、彼女にやめてくれと言ったことがある。それが今清はしやべりながら、自分がこのような紋切型しか言え ないのが不思議でならなかった。いっか読んだス・ヒーチ上 では、多恵子がどんな服装をしようと、清は平気なのだっ 達法という本では、具体的な例をあげてしゃべれとあっ た。入社早々の彼女がタイトスカートで現れた時、彼女の 十年前は清も若かったし、 / イローゼで入院するような なが 1 の一人一すきをうかがって、むき・ほるようにその腰を眺めたこと。 男だった。だから十人足らずの研究所のメン・ハ 、ートに行き、そこに飾って 人を知っていた。そして彼ら相互の感情や、清と一人一人茶器を選ぶために、一緒にデ・ , ためいき の所員に対する気持などが大きな意味を持っていた。多恵あったガラス製の馬車の飾り物の前で、多恵子は溜息をつ 子のスカート一枚が清の気持に動揺をあたえた。しかし今き、清は衝動的に買ってやろうかと思ったこと。また、ど の清にとって、直接、仕事のつながりのある人が何十人もうやって話をつけたのか、里子に会いに行った後で、「も いる。彼らがどういう家庭生活を営み、どういう異性と恋う、いやです。あんなこと。」と言ったこと。 愛しているかは、彼の関心をひかなくなっていた。彼が年しかしどの例も、六年前、十年前のことばかりであり、 こういう席で話せることではなかった。記憶の箱の底まで をとって、感受性がってぎたのだろうか。 人その多恵子が結婚することになった。記者の友人の一人あさってみても、最近の多恵子のエ・ヒソードなど一つも思 なで、子供を残して細君に交通事故で死なれたという男だつい浮ばなかった。いや、最初から知らないのだ。 ひろう 誠た。記者から聞いた話では、夫になる人は、会社で課長を旅に出る新郎、新婦を見送ると、清は披露のあ 0 たホテ レの駐車場で、上衣とネクタイを外して、運転台にもぐり しているが、将来性もあるという。指を折って数えてみるノ すそ こんだ。香代子は美容院で着附けしてもらっただけに、裾 と、多恵子も三十一になるはずだった。 もよう 多恵子の結婚式の日に、清は彼女のためにスビ 1 チをす模様の礼服を珍しくキチンと着こなしていて、彼女の身辺 こ 0 もんきりがた