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検索対象: 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集
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1. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

海軍予備学生時代の弘之 ( 昭和十八年 ) 昭和 22 ~ 23 年ころ文学仲間といっし ょに後列左より 2 番目が弘之真鍋 呉夫氏 ( 後列左端 ) や島尾敏雄氏 ( 前 列右より 2 番目 ) の顔もみえる 合格ですから、どっちにしても出たらすぐ軍隊に一打 かなくちゃならなし : ばくは陸軍へ行くのが絶対い やだったんでね。 大岡どうして、 阿川鉄砲担いで「どろ水すすり、草をかみ」とい うのがいやなんだ。やつばり船の上でうまいめし食 べて、ウイスキー飲んで、戦って、ドカンと一発で ポカ沈食うほうかいし とい、つ咸じもあったし、とに A 」い、フ かく陸軍よりは海軍の方がものわかりかいい 感しもしてましたしね ちょうど予備学生制度というものができて飛行科 の方は前からアメリカのまねをしてとっていたんで すけど、一般の兵科 砲術、通信、機雷というよ カ うな関係の大学出の士官を、つまり陸軍の幹部候補 端ろ 左こ 生みたいなものをとろ、フということになって、その 年 一一期目なんです。 る 2 れ ~ その年に大学を出たばかりの青年五百人ばかりが志 願して訓練を受け、翌年の夏には少に任官して各地 か十みせき 学昭 に配属された。阿川さんは霞ヶ関の軍令部付となって、 京 傍受した敵の通信の暗号を解読する任務についた。 の まだその頃中学生だった私は、同しようにして軍隊 校 に入って行った大学生を何人も知っている。その人た 母 之ちはみな真面目で、学生時代はお互に東亜協同体や新 かっ

2. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

いるのであろう。 建物を出たとき、一人の学生が近づいてきて、「三浦 先生は今、どこでも教えておられないのですか」 と尋ね、氏がうなすくと、 「ばくは先生が希望の星でした」 と、はつんと言って去っていった。 「ワア、 こと聞いちゃった′ . 」と氏 私はつい、 をからかったが、、いの奧ではしんとなった。 ー風景 「二つの家」には、大学の先生の主人公が、事業家の の娘を妻にし、その妻のほうが生活上の主導権を握っ いて、三浦半島の先端のマンションに住むところがで 穴 一口 てくる。「妻の父親と彼の仲間がそこにヨット・ ーを作り、ヨットの所有者が利用するためのマンシ ョン」である このヨット・ ーヾーは実在する。三浦氏の山荘が この近くにあり、氏は年に三カ月ほどそこで仕事をさ 本れるそうで、おそらくそこでの見聞を利用したのだろ そこを訪れたときは、幸い晴天で、車窓から見る海 青 もごく鮮やかであった。ただ私は体の具合がわるく、

3. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

-0 七月の初めに彼は広島へ帰省した。汽車が広島へ近づく で単位を取ってみる事にしたものであったが、現在大学の 講義で、耕一一が僅かに興味を持っているのは、これだけで時の気持を、耕二は好きであった。瀬野の長い峠をプレー あった。学生達は互いに少し照れながら、中学生のようにキの音を立てながら、列車は何度も大きくカーヴを描いて ひら あきなかの 口を大きく開いて、先生の発音を追った。新しい外国語が下りて行く。安芸中野の駅を後へ飛ばし、切り拓いた崖の ぶどう 順序よく、少しずつ頭の中へ組み込まれて行く感じは、妙下をゆるやかに川に沿うて曲ると、右手に現れて来る葡萄 りくっ な理窟っ・ほい講義より、耕一一にははるかに気持がよかっ畑。山側の窓に、「かいたいち」「むかいなだ」という駅の こ 0 標識がすい、すいと過ぎて行く。港の輸送船を隠す為に、 北京生れの朱講師の、舌にもつれるような北京語の発音車掌が海測の・フラインドを下ろしに来る。ビール工場の大 そうく は大変美しかった。朱先生は長身痩驅の色の黒い人であっきな建物が畑の中に現れて来る。その向うに伊吹や石川と ラオビン とうたん * べーハイ たが、或る時、黒板に、北海公園とか東単とか烙餅とかい幾度も登った呉娑々宇山。白っぽい山肌。田植えの済んだ しき う単語を書き列ねて、頻りに北京の町の自慢を始めた。そ水田。小さな鉄橋を越すと、長い操車場。貨車を入れ替え シャンハイ して次に上海、と書いて、ロの中で「ツオッ」と言い、横ている小型機関車の蒸気の音がする。機関庫。大踏切。べ はくぼく ルの音。列車の速力がルくなる。そして駅の見馴れたフォ に「美国化」 ( アメリカ化 ) と書いて、白墨で斜めにさっ ームに着く。 と線を引いた。それから黒い顔を赤くした。 朱先生はよく赤くなった。会話で家庭問答があって、自梅雨の上った広島の町は美しかった。そこには、引ぎ潮 分の家族の事をいう時、やつばり真っ赤になった。耕二は時には砂底を見せた浅い流れとなり、潮が満ちると緑色の ふち 朱先生を見ていると、同じように時々顔を赤くする矢代先深い淵に変る、見馴れた川があった。どの川筋でも子供が 大勢泳いでいた。 生を思い出すのであった。 こうとう 朱講師の時間が終るのはいつも四時半で、先生は叩頭し耕一一はズボンにシャッ一枚でよく散歩に出掛けた。 て教室を出ると、り切れた黒い胞を脇に抱いて必ず巻 いらよう 五 煙草に火をつける。それから独りで銀杏並木をゆっくり正 さび 門の方へ歩く。その姿は妙に淋しげに見えた。先生の故国矢代先生は最近、高等学校の裏の溝の匂いのする借家 ため と日本とが、泥沼に入ったような戦争をしている事を、先が、一一人の子供の健康の為によくないというので、市の中 たす 心地に近い所へ引越していた。耕二はその新居へ先生を訪 生はどう思っているだろうかと、耕二は時々想像した。 たばこ わす した どぶにお

4. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

かに日本人の学生はおらんのかね。」 電話が鳴っていた。闇の中で、不機嫌に、いつまでも鳴 りつづけている。彼はしぶしぶ起き上った。濡れた下着の彼を学生だと思っているらしいことがわかった。英語が し年をして、中学生みたいに。 よくわからなくて、とにかく、日本人に電話してくれと、 感触が不快だっこ。、、 交換手に頼んだものの、 受話器をとると、女の声がきこえた。 「あなたは日本人ですか。」 「中条という客員教授がいるが、」というような説明は全 「イエス。」 く聞きとれなかったのであろう。それにしても、教授だか 「日本語を話しますか。」 ら学生よりえらい、という態度が愉快ではなかった。 「そりや、行ってもいいですが、どういうことですか。」 「オフ・コース」 「いや、ユニオンの宿泊費が九ドルというんだがね、もう 「では、切らないで待っていてください。」 すこし安いホテルはないかね。」 「ちょっと来てくれんか。」 呼びつけて、タクシーをよばせたり、荷物を運ばせよう いきなり太い男の日本語になった。 というのだろうか。彼は急に腹が立ってきた。九ドルの宿 「誰ですか、あなたは。」 泊費は決して高くない。大都会のホテルなら、同じ設備で 彼はむっとして、荒い声になった。 「 x x 大学の理学部の教授だがね。今、ユニオンという所倍の料金をとる。この町にそれより安いホテルはない訳で ーなしが、まず五六 / ドルだろう。それだって、タクシーに にいるんだが、ちょっと来てくれんか。」 時計を見ると、十二時近かった。ュニオンというのは、乗ったり、チッ。フを払ったら、そのくらいの差はすぐ消え てしまう。もし川田が荷物を運んで、深夜の道を、一時間 大学の共済組合と、同窓会館が一緒になったような所で、 宿泊施設や食堂、各種の催しのための部屋などを持っ建物以上も歩き廻ってやれば、三四ドルの費用は浮くが、それ 町のことだった。近いならともかく、それは大学の向う側のなら、川田としたら、金をやった方が楽だった。すくなく ふゆかい あはずれにあるから、歩けば二十分もかかる。それに汚れたとも、会ったこともない、そして不愉快な日本人のため 楡下着のことを思うと、来てくれんかと言われても、行く気に、重い荷物を持って、二十分も三十分も歩く気には全く ならなかった。 にはとてもなれなかった。 「ここの大学に来た以上、誰か知人があるでしよう。」 「どうしたんですか、一体。ここからは遠いんですがね。」 「いや、ここの大学もだが、実はウイスコンシンに用があ 「今までにも、中条、金沢というのと話したんだがね。ほ

5. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

ー・トーマス・フリ ィッ・フス提督 そして二人で鼻唄で軍歌を唱いながら、どこかへ行って了国東洋艦隊司令長官のサ っこ 0 が、「プリンス・オヴ・ウェールズ」の攻撃されている間 終始艦橋にいて、愈沈没に瀕すると、「乗艦せられたし」 ハワイの奇襲攻撃で、戦争が始ったのは、それから八日という信号を発しながら近寄って来る駆逐艦に対し、「ノ きよしゅ ・サンキュー」と答えて、艦長と共に挙手の礼をしつ 後であった。 つ、艦と運命を共にしたという話であった。彼はこれに、 あつま すすが アメリカの太平洋艦隊も英国の東洋艦隊の主力も数日で清々しく天れな気持を覚えた。 壊減した。日本本土攻撃に備えられていたフィリッビンの彼は戦争で興奮した気分を矢代先生の所へも持ち込ん しようほう 米空軍は立ち上る前に完全に叩かれた。素晴らしい捷報がだ。然し先生は、 「あんまり、一生懸命になって、その方に気を取られて、 続いた。日本中が興奮と感動で湧き立っているように見え 卒業論文もなげやりになるようでは、困るんじゃないか よしだしよういん 耕二の気持も、開戦を境にして大変にはっきりして来な」などと言い、彼に勉強する事をすすめた。吉田松陰が た。彼はこの戦になら、本当に命が投げ出せそうな気がし獄中で同獄の囚人達に論語の講義をして聞かせるので、囚 ゆえ だした。それが自分達若者の光栄ある義務だという風に彼人達は、我々は明日処刑される身の上故そんな話は止めて は思った。 くれというのだが、松陰は、お前達は明日処刑される身で ありながら飯を食っているではないか、人倫の道は飯より ロ髭を蓄えた大男の水兵が、幗子を一寸斜めに 0 て、 誇らしげに大手を振って銀座を歩いていた。今まで、黙っ大事であると言って、講義を続けたという話を、先生は彼 にして聞かせたりした。 て、訓練だけにんで来た日本の海軍が、偉大な存在に思 然し何しろ耕二は戦争の事で頭が一杯になっていた。彼 城われ出した。 耕二たちの仲間は始終誰彼の家に集って、戦争の話に花や彼等の仲間の卒業は繰上げられて、もうすぐ、この夏の の を咲かせた。 休みが済むと、そのまま学生から兵隊に早変りさせられる 年が明け、シンガポールが落し、春の休みになって耕事に決っていた。 二が広島へ帰っている時、彼は新聞で「。フリンス・オヴ・ 徴兵検査の結果は甲種合格で、それに予備学生という制 ウェ 1 ルズ」の生残りの英国水兵の話を読んだ。それは英度が出来て、文科からも海軍の士官候補生になる道が開 こ 0 まナ ひん

6. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

「君は恋人がいますか。」 「お招きは有難くお受けしますが、要するにいただけるん 加奈子は驚いた顔をした。 ですか、ダメですか。」 「こんなことを聞くのは失礼なんだけど、実は、君が一年受話器の底で、笑い声が聞こえた。 のころから好きだった。できれば結婚したいと思う。た 「さし上げます。一生、面倒を見てやって下さい。御承知 だ、僕は君より十も年上だし、教師の収入なんか知れたもの通り、できの悪い娘ですが。」 のだから、貧乏させることになるけれど : : : 。」 その年の謝恩会に、康郎は出席しなかった。婚約した女 加奈子は体を堅くして聞いていた。それはハーディを教が学生としている席に、教師として出席する勇気はなかっ えた時の弘子と似ていた。しかし、あれから、六七年たっ た。しかし後で聞くと、新卒学生が次々に卒業後の計画や た康郎は、性急に娘の体に手をかけないだけの分別を持ち就職先を話すうちに、加奈子の番になると、誰からともな あわせるようになっていた。 く拍手がおこって、鳴りやまなくなってしまった。加奈子 「何だか、教師として、君に要求し、 0 ているみたいなは両手で顔をおお 0 て立往生したが、にそのまま坐 0 て 感じになっちゃったけれど、僕は君に愛してくれと幀んでしまった。誰か気のきいた学生が、仲間の拍手や笑声をお あわ いるのだ。キザにならないなら、ひざまずいて、君の憐れさえて、 みを乞いたい気持だ。」 「はい よくわかりました。では次の方。」 「そんな、そんなこと。」 と言ってくれなかったら、加奈子はその席にいたたまれ 「しかし本気なんだ。考えておいて下さい。」 なくなったかもしれないという。康郎はその話を聞いて加 加奈子は夢遊病者のように研究室を出ていった。翌日も奈子を哀れに思った。自分のために、彼女が不当に苦しん 翌々日も、加奈子から、電話も手紙もこなかった。彼がそでいる、という気がした。 あきら 家ろそろ諦めかけている時に、彼女の父親の大介から電話が 五 のあった。娘がいろいろお世話になっている上に、先日は特 マサも留吉も息子がいつまでも結婚しないことに、よう 一一別のお話があったようだから、ゆっくり食事をさし上げた かんじん いということだった。康郎はそんな挨拶よりも、肝腎なこやく心配しはじめていたから、彼が結婚する決心をしたこ とだけが聞きたかった。しかし電話ロのそばにマサがいたとはむしろ喜んでいたが、同時に、嫁が幼すぎることを危 ので、 ぶんだ。すくなくとも、年も三十近くになり、社会経験も あいさっ むすこ

7. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

大学ではもうさよなら講義と試験とが前後して始ってい * とうこうはくにのぞみ しいとしていずくによらんとっす そうだいドゆかく 諌綿薄暮望。徙倚欲何依。 耕二の聞いていた「宋代儒学」の講師はしめくくりの 樹樹餡。〔唯落暉。 ぼくじんとくをかってかえり りよう ! きんをたいしてか・鷲る 六七行を読んで了うと、学生達の方を向いて、 牧人駆犢返。猟馬帯禽帰。 あいかえりみるにそうしきなく ちょうかしてさいびをおもう 「以上で約一年有半にわたった私の「宋代の儒学』と題す 相顧無相識。長歌懐采薇。 る講義を終ります」と言った。 というのと、 「在学三年の諸君とはこれでお別れでありまして、諸君は その十六七年の長きに及んだ学生生活を了えて、ここに新 かどで しく社会への首途をされる訳でありますが、国の情勢は諸 城闕三。風煙望津。 はな おなじくこれかんゅうのひと きみとともにりべつの 君に必ずしも華やかなる前途を許さず、大部分の方は直ち 与君別意。 同是宦游人。 てんがいひりんのごとし かいだいちきをそんす に軍に服して征戦の事に従われるものと思います。私は諸 海内存知己。天涯若比鄰。 けっぺっ じじよとともにきんをうるおすを なすなかれきろにありて 君と訣別するに当って、言うべき言葉を知らない者であり 無為在岐路。 児女共沾巾。 くそう * がくようろうき せんく * はんぶんせい ますが、ここに北宋正学の先駆、范文正公の岳陽楼記の一 もっ 節を高唱し、以て諸君の恐らくは苦難の多い前途に対し、 という詩であった。 はなむけ ささやかながら餞の言葉としたいと思います」 先生は自分で書いた詩をすぐ黒板拭ぎで消した。白墨の そで 講師はくるりと後を向くと、黒板に漢文を書きつけ、粉が背広の黒い袖にかかったのをはたき、朱先生は一歩退 びようどう すなわそのたみうれ 「廟堂ノ高キニ居リテハ則チ其民ヲ憂工、江湖ノ遠キニ処いて、 これ リテ ( 則チ其君ヲ憂ウ。是進ムモ亦憂 = 退クモ亦憂ウ。耐「再会再会」と言 0 て、学生達の方へ頭を垂れた。 いずれのとき ラ・ハ則チ何時ニシテカ楽シムャ。其レ必ズャ言ワン。天耕二はあとで唐詩選の註釈書を見ていると、「野望」と 城 ちょうざん いう題の前の詩の解題に、「秋タ凋残の景色を叙べたるが 下ノ憂ニ先ンジテ憂工、天下ノ楽シミニ後レテ楽シマン の 力」と、朗々と声を挙げて二度繰返し、一揖すると、身を為め、或に町く際のびんとするを悲しむなり」とあるの 春。、して教室を出て行った。 に気がついて「おや」と思った。 とうし 朱先生は最後の時間に唐詩を一一つ黒板に書いて、それを耕二の海軍へ入る日取りも決定した。それは、九月三十 ーぎんしよう 日佐世保海兵団集合で、その上でどこか外地へ訓練に連れ 吟唱して聞かせた。それは、 ) 0 しま ツアイホイ

8. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

イ ~ ー下 ことを言うものだ。これは氏が根が真摯で、かっ照れ 屋のためだ。 といって、氏は若いころから、決して優等生タイプ なかんすくがチ勉タイプではなく、むしろその逆であ った。読書好きで、小学校のころから「新青年」とい う雑誌を読み、また漱石の「猫」を読むと、あわせて 中学初年で「雄猫ムルの人生観」を読むなど、一般少 年とは変ったところがあった。しかし、国衄より、数 学、物理がまだトクイだったという。 さかたひろお 氏と高知高校からの友人である阪田寛夫氏にお聞き したところ、学校ではすいぶんと授業をさばったり、 田・見い 金アもしむしろ教師に睨まれていて、タバコを吸った ( 戦争中 できびしかった ) ために停学を食った。秀才ではあっ た」 , 刀 「したたかな秀才」で、一部の学生が生意気だ よシウ家 とやつつけようとすると、意外に腕力が強く、何人も 島るハの 半あ・つ で抑えつけようとしても、はねのけてしまった由だ。 浦にプ二 三湾ラ「 駈けっこは早かったが、その走る姿がどうにもまと ノ、代クは 咲網写まらす、皆の失笑を買った。学校はさばるのだが、何 まね 花小一描 せ頭がいいので、氏の真似をして怠ける学生は落第し の ン右一辺してしまうのに、三浦氏は通ってしまう。英語はむろ コ んできたが、当時からスペイン語までかしり、漢学の イむ・こ ダ望ト 素養が深かった。 をッる 大学になって同人誌「新思潮」時代は、まあ一種の 上湾ョえ しんし

9. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

263 という人も多かった。 会でもやりながら授業をすすめてゆけば、結構ごまかして 「老いては子に従え、ですよ。」 ゆけそうだった。 と言って微笑する年配の教授もいた。しかし、康郎は老康郎は恐らく学生の粗野なエネルギーが恐ろしかったの いていなかったのかもしれない。あるいは老人たちのよう だ。それで会議の席で、学生に譲歩して大衆団交に応ずる に、学生をなめることがでぎなかったとも言える。学生のべきではないと主張した。そのために研究室にカンヅメに 言うままになると、しまいには教壇でストリツ。フをやれとなったことがあった。学生たちは扉を破って、康郎を大衆 言われても、そうすることになりそうな不安があった。ま団交に引き出そうとしたのだが、鉄製のドアは学生の手で た学生たちの幼稚さに主導権をわたすことに耐えられなかは開けられなかった。彼らはそこに坐りこんで、康郎を軟 った。紛争の前に教室にはいったら、活動家学生が教壇を禁したのである。二十何時間かの後に、彼は警官隊に救出 せんきょ 占拠して、 された。その間に大衆団交があり、そのきびしさにおびえ けいがいか 「形骸化し、空洞化した語学教育をポイコットしよう。」 た教授会が、急にタカ派の言うままに、機動隊を入れるこ と演説して、彼が教壇に上ることを許さなかった。そことになったのである。 で康郎は学生を見上げながら、語学教育を改良するため そのことが、つまり康郎がカンヅメになったことが、紛 に、どうしたらよいかたずねた。 争の折り返し点となった。それまでは一週、また一週と、 「真に革新的な、学生を体制打破に立ち上らせるような内会議の度ごとに、康郎の意見を支持する者が減っていった 容のテキストを使う。」 というのに、カンヅメから解放されてみると、彼はちょっ 「それから。」 とした英雄になっていた。 「写真や絵をもっと多くする。」 康郎自身がヒロイックになったとすれば、カンヅメ以前 家驚いたことに学生は誰も笑わないのだった。この分ではの、次第に自分が孤立していると感じていたころだった。 じぼうじき の豚を英雄的にかける画家がいれば、オーウ = ルの「動物農いささか自暴自棄も手伝って、光栄ある少数者と自称した 一一場」などは活動家学生向きのテキストになる。最後の一章いような気持だった。従ってカンヅメになったことを英雄 にどうにも革命的にこじつけられない部分があるが、一年扱いされると、照れくさかった。研究室に閉じこもったの 間でテキストを全部あげられる訳ではなし、時々、人間には、意志が強かったからでなく、学生の暴力がこわかった はんらん 対して叛乱をおこした動物たちの行動に関するクラス討論からだ。むしゑ彼にとっては少数意見を教授会で述・ヘる たび

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て行かれるらしかった。国文科からは耕二と谷井と、もう飾った軍服姿の総理大臣は、二千人の繰上げ卒業生を前に して、はなむけの言葉を述べた。「人間の長い一生におい 一人広川という学生と、三人が予備学生に合格していた。 さわ 卒業式には耕二の父母が広島から紋つきを持って上京して半年くらいの学業の短縮は、少しも差し障りのない事で て来た。式場の安田講堂の周りには二千人の卒業生と、晴ありまして、わたくしは此所に、一つの、大きなる」そう しばら いって首相は暫く絶句した。やがて「ーーーと、申します れ着を着たその父兄達が群がっていた。耕二の両親は、栗 あいさっ ねんご か、一つの、実例を持っております」とつづいて、それが 村の母親や谷井の父母に紹介されて懇ろな挨拶をしてい こ 0 総理大臣自身の事である事がわかった時、卒業生の間には 「おい、生きて帰ろうぜ」栗村は谷井と耕二とを三四郎の低い失笑の波が起 0 た。しかしそれはすぐ又消えた。彼自 ちょうど 池の方へ引張り出し、頬を染めながら言った。栗村は仙台身の士官学校卒業が、丁度日露戦争の時にあたっていて、 の東部二十二部隊へ入る事になっていた。「どんな時にもやはり時期を繰上げて卒業させられた経歴を持っているの かかわ であるが、にも拘らず自分は今諸君の前に、一国の総理大 気を確かに持つんだ。そして必ず生きて帰るんだ」 臣として立っている、これが首相の話の眼目であった。 「なるべくそう願いたいね」耕二は言った。 式が済むと地下室の食堂で、文学部学友会主催の送別会 「なるべくじゃあない。生きて帰る。意志の問題だよ」 ル・ろ・か・ん 「そんな訳には行くもんか。僕は勇敢に戦う。今日は元気があった。モー = ングを着た教授達も、坊主頭の学生達も 立ったままで寿司をつまんでビールを飲んだ。 で別れようよ」耕二は言った。 「ふうん」と谷井は鼻を鳴らした。「よくグラウンドで教耕二たちの仲間はビールのジョッキをぐいぐいあおっ 1 エスへ行ってビールを飲んだっけなて、すぐ外へ出た。 練を終っちゃあ、ユ 「どうしよう ? もう一度どこかで飯でも食うか」谷井が 「どんな時でも感傷的になるな」栗村は言った。「決死隊言った。 一歩前へ、と言われたら、気を確かにして、一歩後へをや・「もう、別れようか」栗村は言った。 「そうだな。それじゃあ、失しよう」皆はそれで気軽に るつもりになるんだ。みんなそうしなきや駄目なんだ・せ」 「さあ、行こうよ。皆人ってる」耕二は学生達が、そろそ手を挙げて別れた。未だ何となく、明日は又集ってビール ろ入り始めた講堂の入口の方を指して言った。壇上には特を飲む相談でもするような感じがしていたのである。 別の来賓として総理大臣が列席していた。勲章をたくさんその晩八時一一十分の下関行で耕二は父母と共に東京を発 ここ