440 「しかし室津は肺炎なんかで死ぬような男じゃなかった。 を数えているような時間だった。それにしても「死ぬ年」 勤労動員に行って、みんなシラミをわかした時も、彼だけというものがあるのだろうか、と良樹は思った。何歳で死 はシャツを洗い、お湯で煮て、シラミを近よせなかったかんでも、まだ「死ぬ年」ではないと思いたいのではないだ ろうか。 らな。」 タ・ハコの煙でかすんだ部屋のすみから答がきた。 「とにかく、中途半端なんだよ、この年で死ぬのは。親、 「そうだ。いつだったか、大阪の尼崎に出張した時、同じ女房、子供、職場、どこも皆、室津に死なれちゃ困るんだ。 く出張してた室津にばったり会って飲んだんだが、その時契約違反だよ、この年で死ぬのは : : : 」 こうちゅうばいどく の飲み屋の女がロ中梅毒じゃないかとおれが言ったら、あ と誰かが一一 = ロった。 いっ非常に気にして、東京へ帰ってきてからも、注射しな「室津が生きてたらどうなったろう。」 くっていいか、とおれに聞きにきたぜ。」 ふと田代が言ったが、部屋の中の者は誰も田代をふりか えりもしなかった。田代の質問を、主語を変えて、自分の 「接吻でもしたのかい。」 さかすき 「室津が ? とんでもない。一二度、盃のやりとりをした胸に問いかえしていたのかもしれない。顔の赤い男が、首 をかしげながら、 だけさ。」 「家庭的には予想はやさしい。平凡な亭主、平凡なオヤジ 「そういうが伽にな 0 たのさ。」 さ。しかし官吏として見るとだな、ま、よく言うことだ 中央の顔の赤い男が吐き出すように言った。 「かぜを引いたんだ、年末に。予算のシーズンだろう。国が、戦前のアイクを大統領になると思う人間はいなかった そうだから。」 会もあるし。体めやしないよ。薬でごまかしてたんだが、 あいっときたら、たかが風邪なのに、抗生物質をじやかす部屋のあちこちから、せりのように声がかかった か飲んだんだそうな。だから肺炎になった時、もう効く薬「しかし、切れたな、室津は。」 がなかったんだとさ、奥さんが泣いとった。」 「そう。努力家たった。」 「線が細い。」 「全く、古典的な病気で死にやがったな。」 「女房役。」 「そう言えば、あいつも古典的な男だった。」 「しかし、とにかくまだ死ぬ年じゃないよ。」 「電気計算機だった。正確だが、自分の問題を持たなかっ しばらく部屋の中が静かになった。一人一人が自分の年たな。」 せつぶん
に、一点の疑も持たない田代の態度が、良樹に、 なった方なんだな。」 「いや、おれはここの・ハーによっただけさ。」 と手放しで喜んでいる心があった。 と一「凵いにくくさせた 0 良樹はホテルの駐車場に車をあずけて、狭い階段を登り ながら、まだ田代の会に行こうか行くまいか決めかねてい 「久生と斎藤がもう来てるよ。室津は、今日は来れない。 ごうしゅう た。意識的にはそういう会を軽蔑していたし、欠席すべき濠洲かどっかの商務官とのパーテイだそうな。」 だと思っているくせに、久しぶりだから、とか、・ハ ーの女田代が案内してくれた小部屋には入口に小さな札が立て と浮気するのとどうちがうのだ、というような口実が次々てあって、そこに、 に思い出されるのだ。 「爪の会御席」 しかし一階のロビーに出る頃には、良樹の心はきまって と書いてあった。 いた。ホテルの・ハーで軽く一杯やってから、仕事の仲間が久住も斎藤も長らく会わなかったし、顔も忘れているに たむろしていそうな・ハーへ行って見ようと思った。二十年ちがいないと思っていたのに、会えばすぐわかった。中年 ぶりで会う中学時代の同級生と飯をくうよりも、顔なじみ肥りになったり、久住は早くも禿げかかってはいたが、彼 の男女のいる・ハーの方がずっと気安そうだった。 らの顔立はまるで古い写真のように、良樹に中学時代の二 「おい、甲田だろう。」 人の姿を思い出させた。久住は授業中姿勢正しくすわり、 もちろん すぐ後ろから不意に声をかけられて、良樹はギクッとし私語は勿論、脇見すらしなかった。いかにも軍学校志望者 じゅうたん た。厚い絨毯のせいで、足音が全く聞こえなかったのだ。 らしいタイ・フだった。そして、先生に授業中の態度をほめ ふりかえると、色白の肥えた男がいた。田代だった。髪のられると、ロをへの字にして、背筋をのばしたまま、伏目 毛を油でビッタリなでつけているから、ただでも肉のつい になるのだった。良樹はそれと同じ表情を再会後、一分足 会ている頬がいよいよ・フク・フクして、頭がひどく小さく見えらずで見ることができた。 のた。 「〇〇建設の部長だってね。」 「こっちだよ、部屋は。」 と言いかけた時、久住は昔と同じ姿勢で、目だけを、手 爪 職業柄か、田代は良樹の体に手をふれるのでもなく、ま元のグラスにおとして、低く、 「うむ。」 行た進路を妨害するのでもないのに、否応なく良樹を一定の と答えた。 方向に案内してゆくのだった。また彼がその会に来たこと けいべっ
サラダを食いながら言った。 「分らないな。とにかくこうなった以上、全力を傾けて自 つつみ 「へえ」耕二は、二日前の戦況説明で、久木や塘が、「東分の仕事を守って、日本に有利な道が開けるように願うよ 京湾の南で沖鷹がやられた」と言っていた事を億い出しり仕方がないと思いますよ」耕二は言った。 ちょうほう こ 0 「小畑の仕事は通信諜報か ? 」 「それで今度は岩国へ行くんだがね」伊吹は又言った。 「よく知ってるな。然しその話は電車の中では具合が悪 「石川の奴はどうしてるだろう ? 」 「さあ : : : 。全然便りがないけど」 「三艦隊にも特務班の人がいたからね」伊吹は言った。 もうま ( 、は・、り 「網膜剥離という、見たって一寸分らない都合のいい病気「ーーー少くとも近代戦で、講和の条件というものを考えず を作って貰って、丙種になったそうだがね。それからどうに始められる戦争というものはあり得ない、という事を聞 いた事があるんだが、・ したかしら」 とう収拾をつける積りか、中央では どう考えているんだろう」 「いくら何でも、もう北大は卒業したでしよう。 ~ 要領がい いからな。絶対死なない工夫をすると言ってたからね」耕「分らないですよ」耕二は言った。「私は軍令部なんて言 二は言った。 ったって、特別な事をやってるんだし、そんな事は分らな 伊吹は手帳を出して、次の横須賀線の電車を調べた。 。高松の宮さんが、今一部一課に大佐でいられるんだけ 二人は残ったビールを乾し、地下鉄で新橋へ出て、電車ど、毎日帽子も被らずに、ポケット ( ンドをして、集会所 を待った。乾いた風が高架のフォームを吹き通していた。 へ弓をひきに行ってる、宮さんも色々面白くないのかも知 たんがいとう 短外套を着た中年の佐官が一人、コッコッ靴音を立てながれないな」 らフォームを行ったり来たりしている。鎌倉あたりの家族「考えたって仕方がないんだ、実際」伊吹は言った。「然 城連れらしい一組が、やはり寒そうに待っていた。 し艦隊にいると案外暇でね。カビエンでも戦争らしいもの 「し、人間の命というものは実に安いものだね」伊吹はは、我々は何も見ないんだ。一度丘 ~ 曹長の腕の切断手術を の ぼつんとそう言った。 しただけだよ。ただ朝ね、士官室の食卓で、椅子がゴンツ 横須賀行が入って来た。一一等車の中は空いていた。 と減るんだ、それだけだよ。暇だから余計色々な事を考え 「小畑は一体、この戦争はどうなると思うかね」伊吹は言るんだがね」 った。 電軍は横浜を過ぎ、トンネルを抜けて土ヶ谷か弓の へいしゅ かふ
214 びんあめ 籠がちゃんと立 0 ているのは妙な気がした。ガラス瓶が飴障子がひらいて父が炬燵に向うむきにあた 0 ていた。 のように延びて、くつついてころがっていた。川を渡す橋「お父さん帰りました、よく生きていて下さいました」 は〈の字型に歪んでいる。これは、し原子爆弾のせいで父は不自由そうに体を道雄の方〈ねじむけると、じ 0 はなくて、その後の大水の時こうなったのだと、子供が言と顔を見ていたが、何も言わず、 う。川の水はよく澄んで変らず流れていた。 「おう、おう」 「小母ちゃんの所へは時々遊びに行くの」 と、入歯のない奇妙な口元をぼかんとあけ、うめくよう 「ううん」と子供はかぶりを振り、「小母ちゃんは目が悪な声を出し、そのまま「う、う、う」とり泣きだした。 うて不自由なんじやけん、お母ちゃんがあんまり行ったら二階から甥の浩がとぶように降りて来た。 しけんいうてんじゃ」 「おかえり、道兄さん。僕もう帰って来ると思った。いっ ちょっと 「坊や、荷物は僕が押して行くから、一寸先へ走 0 て行 0 も駅に行 0 て復員者らしい人をつかまえて様子さぐ 0 て て小母ちゃんに報せてくれんか」 た。だけどおじいさん、おばあさん、生きてたなんて、不 うなす 子供は素直に頷くと、走り出した。少し走って立ちどま思議でしよう」 振りかえって彼に道を教えた。そして又走って行っ道雄は父母が泣いているので、眼のやり場がなく、浩に 「うん、うん」と頷いて間の抜けた返事をした。母は涙を ふきふき、 五 「初めは大丈夫と思うてたけど、まる半歳になっても便り 「まあまあ、まあ、坊やが来て何をいうやらと思うたら、 はなし、こっちから出した手紙は皆戻って来るし、ひょっ あんた帰って米たのか、ほんとに帰って来たのか」 としたらどこどで死んでしもうたかと思うて : ・ : こ 母はめがねを脱しながら出て来た。 「お母さんは、ああいうて心配ばかりするがのう、俺は自 「さあおあがり、靴をはよぬいで、さあ」 信があった。新聞をみても、もう大方帰る頃とは思うてお 「よく生きていて。私はとてもお母さん、生きてるなんった」 ふるえる手の甲で涙をふきながら父は言った。歯がない 「そうやろうとも、さあ」 ため、息が抜け、ひどく老い込んだ感じだった。 言ったまま顔をそむけて泣き出した。 「そんな、私の事は、わたしはずっと元気だったんです。 こ 0 くっ しようじ うなず
てている木原の裸形が見えた。 して迷いながら、 「誰 ? 小畑中尉か ? 」木原は眼をつむったまま、屈託の「分隊長の部屋で物を探したって ? 泥棒扱いされては困 無い声を掛けて来た。 りますね。何か失くなったんですか ? 」 と言い返した。 「失礼」耕二は言って一身体に湯を流して、湯槽に入り、 湧きロの熱い湯を手で掻きながら、名状し難い不愉快な気「人の私室〈無に上り込むもんやないぞ。あまり舐めた なが 持で、頭をごしごし洗っている木原の背中を眺めた。木原真似をするな」木原は言った。 は頭を流し終ると、桶を持って彼の傍へ寄って来、 「何故分隊長、そんな事を言うんですか ? 何か失くなっ たんですか ? 」耕二は言った。 「なあ、小畑中尉。日本ももうびよっとするとあかんのと 違うか。他の者は信用出けんよってんなあ、隊の事はこれ「何も失くなりはせんが : : : 」 から我々二人であんじようしょで」どういう積りか、小声「舐めるも何も、私は前の分隊長の送別会の時以来、この でそんな事を言った。 部屋へは初めて入るんだ」 しばら むすか ・ : 」彼は返事が出来なかった。 」木原は難しい顔をして暫く考え込んでいた それから四五日して、彼は木原から一寸用事があると言が、今度は、 とう って私室へ呼ばれた。木原はいつになくきっとした顔で籐「それなら、もう一つ訊くが、この間風呂で貴様は俺の服 をいじっただろう」 子に掛けて、 ろう ! 、 「上ってくれ」そう言った。 「ああ、それはいじった」彼は一寸狼した。 「今電報が沢山入ってて忙しいんですがね。何ですか ? 」 「あれは何の真似だ ? 」 耕二も反抗的な気持を隠そうとせずに言った。 耕二はぐっとつまり、木原の顔を見据えながら、いっそ 城「構わん。ーー貴様に訊きたい事があるのやが、さっき貴思いきって言ってやろうかと思ったが、・ハンドを証拠とし うわさ の様は私の部屋へ入って何か探したろう。何であんな真似をて、東京での噂だけで自分に勝味があるかどうか自信が持 する ? 」 てなかった。彼は咄嗟の思案で、 「あれは : : : 分隊長の : : : 風呂に入ろうと思うと、ズボン 「え ? 」彼はびつくりした。全然知らない事であったが、 おび 直ぐ、この男は何かひどく勘違いして自分で怯えているのに中々立派な革帯が着いてるので、一寸見せて貰おうと思 だなと思った。彼は出来るだけ意地の悪い言葉を吐こうとって、失礼だけどいじったんだ」そう言った。 ゅぶね まね とっさ どろぼう
こうしつ 伊藤はいたずら好きの男ではなく、実は、口実さえつけ関連を見出すことができても、それは素材としての人間に なった尚子のどの部分と照合するのかわからなかった。 ば、親友の妻まで寝とる男だ、と和泉が思うようになった のは、尚子の考え方に屈服したためである。伊藤と利害が何よりもいけないのは、和泉がそういうことの徒労を思 はとん 殆ど一致している和泉や、利害関係のない相手なら、こうい知ってしまったことである。性の営みの中で、裸になる いう性格をいたずら好きと受けとるかもしれない。しかしのは尚子ばかりではない。和泉が相手の衣服をひきむしろ がたき 女性や、商売敵の立場から、伊藤をみれば、彼は確かに悪うとすること自体が、自らの衣服をすてることになる。そ 党であるかもしれなかった。そしていつの間にか、和泉はのようにしてつかみだした尚子の裸は、同時に和泉自身の 伊藤とある距離をおいて、たとえ伊藤が嘘をついても、ひ裸でもあった。そういう際の尚子の個性を問題にしように も、もし和泉が違った個性の持主であって、尚子に対して どい目にあわないような配慮をするようになった。 別の近づき方をしたら、彼女はやはり別の反応を示したか もしれないのだ。 そして気がついてみると、和泉と尚子は目のどんより曇 和泉にとって、結婚後の性生活は、ただ単に快楽のため むさぼ けしよう った男と女になっていた。もう相手に対する貪るような好 ではなかった。尚子の心身の化粧や衣服を引きはぎたいと いう衝動があった。別に伊藤のことに限らないが、彼とは奇心もない。そして自分を少しでもよく見せることは、お 違う角度を持っている視野が、本当に存在するものか、そ互にとって無意味であることを知りつくした男と女であっ れともそれはただの媚態でしかなかったのか、はっきりさた。 ふしようひげ 工房の休の日など、和泉が無精髯をのばしていると、尚 せたいと思った。 せんたく 確かに結婚によって、和泉は尚子の衣服をはぎ取り、彼子は化粧もせず、洗濯こそしてあっても、アイロンのかか おり 女を理性や打算以前の姿にまで還元することはできた。そっていない服を着て家にいる。和泉は自分達を動物園の檻 して、外界の影響を排除した、素材としての人間、とも言 に入れられた野獣の夫婦のように思うのだ。 こうなってしまうと、虚勢や嘘などは、髯をそったり、 うべき尚子の姿を見たようにも思ったが、その場合のどこ までが彼女の個性であり、どこからが一般的な人間の姿なキチンとした服装をするのと同じように無意味に思える。 のかはわからなかった。従って日常生活での尚子の伊藤にそして、尚子が自分の前に、いぎたなくしているというこ きら けんお 対する嫌悪や、紫色が嫌いだ、ということの間こ、 ー冫たとえとのために、和泉は尚子の言葉を信じられるようになっ びたい こうまう
のだ、とにかく、日本人に会って、事情を説明して、方針「で、女の子はどうしたんです。」 ふそん 「ウェイティング策戦に出ることが見破られたのか、電話 を建ててほしかったのだ。不遜な言い方は、彼の虚勢だっ でつきがかわったのか、ビシ、ビシ、とストライクが三つ たかもしれない。 風呂の水をおとしてから、彼は = = オンに電話してみよきまって、見送りの三振だそうな。」 ーク電話を切ったものの、行く所もすることもないので、散 うかと思った。しかしもう一時を廻っている。彼は・ハ へ行こうと思った。 リイにひっこしたか、もう眠っているだろう。とにかく、歩がてら、中条のア・ ( ート ここへ来た時は楡の枯枝がささくれだった神経のよう 明日にしよう、彼はもう一度、ペッドにはいりなおした。 目をさましたら、九時近かった。起きて、冷蔵庫から冷に、おだやかな住宅地の風景を切りぎざんでいたのに、 えたグレープフル 1 ツを出してたべていたら、電話がかかつの間にか、うっすらと芽ぶいて、若草色というより、カ ーキ色のものが、枯枝の輪郭を・ほかしていて、その間に見 った。 える教会の尖塔も、青い空も、かくおちつきをとりもど 「ちょっと来てくれんか。」 したように感じられた。 言葉は同じだったが、声は中条だった。 を明けると、中条が例 ノックもせずに、中条のアパート 「あ、僕ん所にも来ましたよ。」 、 - 彼を見ると、まる 「済まん。あんまり横柄だろう。それに、二ドル、三ドルのソフアに寝て、テレビを見てしたが、 , 呉れって言うならわかるが、それを節約するために、見ずで来ることを予期していたかのように、電話の会話をつづ 知らずの人間にトランクを運ばせようというのは失敬じやけて、 ないか。おれは金沢の電話番号を教えて切ってしまった。」「全く、日本人というのは困るなあ。英語のしやべれんよ うな奴は、よこしちゃいかんのだよ。」 「金沢はどうしたんです。」 と初対面の時とは、大分とちがう意見を言ったので、彼 町「あいつは、ちょっと取りこみ中でね。あいつの表現によ あると、ノーストライク・スリーポールで、敵は乱れとるかは吹き出してしまった。中条も苦笑しながら、 こっちだって、やっと立ってるんだ。日本人 のら、待っていればホワーポールで一塁まで行けると思って「本当だい。 たんだそうな。そこへあの電話だろ。日本語で押し問答しだからってんで、よっかかられちゃ、共倒れだあ。」 とちょっとべらんめえの交った調子で歯切れよく言いぎ ていたら、女の子は里心がついて帰ると言い出したんで、 君の電話番号教えて切ったんだそうな。」
ろしい風景である。恐らくはこの画家の死顔もそうだった鄭は大きな溜息をついて、ふいに戯つぼく笑ってか ら、 のではあるまいか。生命を入れる余地がないのではない。 おもてそむ 生命あるものが面を背けざるを得ない山水であった。それ「李白がこの西湖に入ったのはこんな晩じゃなかったか きようこく もはや もちろん は最早、真夏の峡谷ではない。勿論春でも秋でも冬でもなな。」 いっせき 、 0 強いて言うなら、それは冥土の山水図であった。 外を見ると、湖水はもう一隻の船もなく、岸にも明りは * せんせん 潺々たる戸外の水音に、居士はそとの明かるいおおらか見えなかった。月だけが湖を照らして、岸は黒々と沈んで さら こうしゅう りつ読 な風光を思い出して慄然とした。しかし風雨に曝されたこ いた。杭州に住んでいる私達にしてみれば、こんな景色は ほとん の画は、時の働きによって、自然の山水の持たない暗く切毎度見慣れている訳だが、こんな景色を見る時は殆どいっ なく鋭い迫力を持っていた。 も酔が醒めかかる時だから、この景色を見ているとやはり 物悲しくなった。 「船頭、起きろ。帰るそ。」 まぶ どな 語り終った鄭は、眩しそうに目ばたきをして、口元にて鄭はそう怒鳴っておいて、 れ臭そうな笑いを泛べた。 「少し寒けがする。」 そでか もうせん 「結局我々は時という奴の下職なんだね。時というのは気と袖を掻き合せて、氈の上にゴロリと横になって目を閉 よふ まぐれで、反古を後世に残して名作にするかと思うと、名じた。春とはいっても夜更けの冷気は灯の色にもにじんで いっしょ おれ ごめん 作を腐らしてしまう。己は、下職は御免だ。だから筆をといた。ギッギッという櫓の音と一緒に揺れる船の動きに体 ゅううつ らぬ画家になろうと思うんだ、その時のようにね。屁理窟をまかせながら、私も酔い醒めの憂鬱な気持で鄭を眺めて かな。」 いた。しかしその時は、今の話を思い出している訳ではなか ちょっと むすこ 図そこで一寸首をかしげたが、やがて、 った。息子が進士の試験に及第して、どんどん出世して、 山「今から考えると、あの時の衡山居士の話は居士の作り話末は、そう大学士にまで、 : : : 私はそんな事を考えていた からだ。 府じゃないかと思うんだ。己があの頃、功名心に焦 0 ていた さと から、それを訓すための話じゃなかったかと思うんだ。居 士は詩人だからな。しかし今の己にして見れば、それが本 うそ 当だろうと嘘だろうと同じ事だけど。」 へりくっ
「悪質だな。」 のよ。だからあたしと仲がいいの。だからもし、久住さん 「そうよ、こわいんだから、あたしとか則子みたいな女が重役になりそこなうと、あたしとも会わなくなるわよ。」 は。則子はね、あたしと似た生活をしているから、靖子さ「それから、お互いに相手の悪さと自分の悪さを知ってる きら んを嫌ったのよ。それからお芋しかたべさせてくれないか からじゃないかな。」 ら、お母さまを憎んだのよ。」 「そうね。でも、彼女、自分の悪さというか、敗戦後の何 ふぐたいてんかたき 「じゃあなたたちはいわば、不倶戴天の仇みたいなもん年かは悪夢だと思ってるのよ。海軍士官のお嬢さんから、 大会社の有望社員の妻、そして重役夫人になると思ってる 「そうよ。則子が田代をあたしに紹介したのは、彼がドンのよ。悪夢の時代はどうしても、日の当る生活とはつなが ファンなのを知って、あたしを誘惑させようと思ったのらないんですもの。」 そこまで聞けば、良樹にも則子が靖子の行方を気にする 「まさか。」 訳がわかるように思った。則子にとって、良樹と知りあっ にせ 「そうなのよ。だって、あたしだって、久住さんを田代にた頃の生活は、賢の時代だったのだ。彼女の生活のテンポ へコへコさせようとして、ホテルを新築する時に、久住さが混乱した時代なのだ。だから彼女はその時代のことに触 まゆみ んの会社に頼んだんですもの。」 れたがらない。ただ、良樹や檀らのように、そのころの則 「ちょっとわかんないけれど、わかるような気がする。」子の世界を知っていて、今は別の世界、現在の則子と同じ 「そんなことしてるうちに、もう憎もうにも憎む材料がな世界にいる人間は別である。彼らとなら、芝居の場面を話 くなっちゃったのね。あたしは田代と結婚しちゃうし、久しあうように、「あの頃」の話に興ずることができるし、 住さんはうちの仕事を物にして、会社で顔がよくなった相手にその時代がかりのものであることを印象づけること ができるからだ。 久住と田代の間だったら、この一一人の男が友情と信じて しかし靖子は別である。則子の不安な空想では、彼女は いる打算から、相手に結婚の世話をしたり、仕事を廻して宋だに悪夢の時代を続けている。そういう靖子が目の前に やったりすることはありそうに思ったが、妻たちの間で現われることは、彼女が虚像だと思いたがっているあの時 は、それとは別の感情の交錯があったものらしい。 代が、決して虚像でないことを立証することになる。彼女 「今、則子はね、久住さんが会社の重役になると信じてるは靖子に会いたくないのは、あの時代を現実のものと思い
「ふん」耕二は然しその話での和田の態度を一寸不満に思 和田の父親は厄介な肝臓の病気で病院生活をしているの ちよとっ ドった。「俺のはまあ、あんまり猪突猛進かも知らないが、 で、自分の余命の事を考え、一人息子の和田のこの話をョ あき 常に喜んだ。母親も賛成した。和田は話がスキャンダルに貴様のそれは又、少し弱気で諦らめがよすぎるな」 ならないように、極く内々で話を進め、それがうまく運べ「余計な事を言うんじゃなかったよ」和田は言った。「こ ば適当な折に木津に特務班をやめて貰い、それから皆が少れは絶対に誰にも言っちゃあ困るぞ。塘にも、広川にも」 し忘れた頃になって目立たぬように話を具体化するつもり又屋上への出口の扉が開いた。塘がにやにやしながら姿 しぎ であった。ところが三月の中頃になって、それまで頻りとを見せた。 興信所以外の訊き込みに努めていた和田の母親が、その本「いると思った。どうだい ? 」塘は寄って来て、「注意し 人には既に許婚者があるという事を、可成確かな筋から聞ろよ、おい。三人がよくこうやって話しているだろう。田 いて来た。和田はがっかりした。病気の父親も大変失望し村が何か勘づいてるんだ。今朝廊下で逢ったら、いきな た。然しそうと分れば、それ以上押して行くのは、不必要り、『塘少尉、今日は矢野さんお休みよ』て言うんだ。び に事を表立て荒立てるだけだというので、三人とも不幸につくりしたけどね、この野郎子供の癖にと思ったから、 なるのはだと思って、和田は話を留める事にした。然し「へえ、そうかい、然しどうして君、そんな事を教えてく 特務班では仕事は毎日一緒で、始終木津と話をし、そのれるんだい ? 』 0 て言 0 てや 0 たら、田村の奴つま 0 て、 体を身近に感じているので、何もなかったような顔をして真っ赤になって逃げて行ったよ」と言った。 あ 「よしよし。もう下へ降りよう。大分長い間机を空けっ放 和田はそのように話した。 いるのが大変っらい 「やつばりプルーとね。 : : : 貴様がパンを残すのはそれだしだ」 はじ 階段を降り始めると、弾くようなタイプライタ 1 の音が ったんだな ? 」 城「そうでもない。胃も悪い」和田はむつかしげな顔をして一に聞えて来た。耕二は二課の部屋の前で和田と塘に別 れた。四課へ帰りかけると廊下で彼は広川に逢った。広川 の言った。 いいなずけ はどうしたのかひどく緊張していた。 「どういう男なんだ、その許婚というのは ? 」 「其処までは知らない。もうよそうじゃないか。まあ俺の「小畑一寸来い」そう言って広川は耕二を一課の部屋の方 みちみち 場合はそうやって此方が身を引いたという話さ。別に貴様へ引っ張り、途々、 「貴様達この頃仕事もせずに、何だかごそご・そやってる の事と関係は無いよ」 やっかい ・こ む汁こ かなり ちょっと