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検索対象: 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集
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1. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

しかしそれとは別な意味で、彼の話は面白かったし、ひということは知っていたし、なるべくなら汚れた手で平気 で食事できるようになろうと努力した。事実、洗わない手 よっとすると彼と一緒に仕事をすることがないでもない、 という気持があった。いや、そういう打算的な目的はむしで食事をして病気になったことなどない。久保と初めて会 ろつけ足しで、清は久保に親愛感を最初から持つようになった時も、テー・フルに坐った時から、清は手を洗いに行こ うかどうしようか迷っていた。 はじめて知りあった日、清と久保はレストランで食事を「手を洗いに行きます。」 久保がそう言って立ち上った時、清はむしろホッとして したが、その店は欧米風のつもりなのかお手拭きが出なか った。清は汚れた手で食事をするのが嫌いだった。特に汚一緒に立ち上った。久保の手の洗い方を見ると、まず湯を やけ れていなくとも、何万という人の手が触れたドアの取手を出して、水道のコックをシャポンで洗うのだった。次に火 握り、お金をいじった手で、・ ( ンを裂く気になれなかっ傷しそうな熱湯で手を洗う。最後に手首を使ってコックを くせ た。それは神経的に参っていた駐在員時代についた癖なのおして湯をとめ、紙タオルで手を拭く。そして別の紙タオ せつかく だが、とにかく手を洗わなければ食卓につけない。折角手ルでドアの取手をつかみ、要するに洗った手を、一切の物 を洗っても、その後でポーイに小銭を渡して何かを頼んだに触れないようにするのだった。 り、他人と握手すると、手を洗いなおさねばならない。そ清は久保を自分の同類だと思った。食事をするにも、眠 ればかりでなく、一度手を洗った後は食物と食器以外、椅るためにも、無意味とは思っても、一定の儀式を型通りや ってゆかないと落ちつけない人間だと思った。清は久保が 子にさわるのも気味悪かった。 レストランや料亭で出してくれるおし・ほりを、清はそれ明けてくれたドアを判でおさえて、 びんじよう ほど信用している訳ではない。しかし密閉したビニールの「便乗させていただきます。」 と言った。久保は驚いた顔をしたが、すぐニャッと、親 袋の中で、一度は数十度に熱せられたものなら、洗面所で 洗った手と同程度には清潔だろうと思う。しかし外人客のしげな微笑をうかべた。 その久保が多恵子に目をつけた。 くる高級めいた日本のレストランではかえっておし・ほりの 類をおかないから、清は手を洗う衝動をおさえるのに苦労「あの女、高校の時に、初恋の男から淋病をうっされて、 男アレルギーになったみたいな所がある。」 する。 ばいどく 清はそれが合理的でも衛生的でもなく、神経的な問題だ「それは君のことだろう。最初の女に梅毒をうっされたも きら てふ りんびよう

2. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

430 えば、それはすぐ全員に伝わるにちがいない。しかし爪のまい。 会と、彼らの出世したいという欲求を否定したり、笑った 良樹の生活は本質的には繰り返しだった。最近まではあ りすることは、ある意味では簡単であるが、良樹は本気でる積み上げがあると思っていたが、一度、爪の会に出た今 それを記事にしようと思っているのではなかった。そんなではそんな嘘で自分をだますことはできない、仕事と休息 テーマに関心を持っ編集者もいまいが、それよりも彼自はペダルを踏むネズミの足のテンボと同じなのだ。ネズミ 身、爪の会を笑うことに抵抗があった。良樹はある心理学 にしても、刺撃をあたえる電流は一瞬しか流れないから、 の動物実験の記事を忘れることができない。 また足をあげて、踏みなおさなければならない。しかし久 動物の脳の深部の、原始的な部分に快感を感ずる部位が住も田代も目の前の・ヘダルを踏もうともしない。何かにお ある。そしてネズミがペダルを踏むとその部位に刺撃が伝びえて、金網にしがみつき、手の届かないペダルを押そう わるようにしておくと、ネズミは狂ったように、死ぬまでともがいている。すると、良樹も何か不安になってくる。 ペダルを踏みつづけるという。良樹は自分の生活をかえりそして、自分も手の届かないペダルを押そうと努力すべき みて、そのネズミとよく似ていると思うことがある。 だろうか、という気がしてくる。狂ったように、目の前の 彼の前には本質的には一つだが、形の上ではいくつかに ペダルを踏んでいると、刺撃と消耗の悪循環で倒れてしま わかれたペダルが並んでいる。良樹はそれを踏むと快感がう。現に良樹のまわりにも、若いのに体をだめにしたり、 らく・・」 得られることを知っている。彼は・ヘダルを踏む。足が疲れ精神の軟かさを使いきって、落伍してしまった男たちが少 れば手で、右手が疲れれば左手で。ネズミとちがう所は、 なくなかった。だから爪の会の連中が手を先にさしのべる 良樹は疲れた四肢をかばうことを知っているし、また、ああせりがわからないではない。しかし彼らとても、前途に しよう、もう まりにも消耗が激しいと、より長く快楽をうるために、休一つの目標があるとは思えなかった。彼らが望んでいるの 息し、栄養をとる余裕があるだけだ。 は、逆戻りすることのない人生の歯止めのようなものなの しかしまたペダルの中には、手の届かない所にあるものだ。永続的であって、消耗的でない快楽をあたえてくれる もある。爪の会の連中は、そういうべダルに何とかして手ペダルなのだ。大関は負ければ幕下にもおちてしまうが、 を届かせようと努力して、目の前のペダルには殆んど目も横綱はさがることはない。彼らを減・ほすのは死だけなの くれない。ペダルを踏むことによる体力の消耗を恐れてい るのだ。田代にしても、エミのところへは週に一度も通う まかの男たちは、 そうはいっても、室津は知らないが、を

3. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

や 新しく建てられたもので、しかしその部屋割りな どは三浦氏が担当した由である。 氏は構内を凄い早足で歩いた。私があとを追うのに の室 て務難儀するくらいに。そして芸術学部の講師室という部 つ事屋にはい「た。すると、中にいた男女がいすれもいか の学 にも懐しげに口々に挨拶をした。かっての教え子で助 浦氏手をしていた方や後輩の先生方である。すいぶんと慕 三夫われているといった印象であった。 皆さんの話によると、やはりまことに立派な先生だ ったらしい外国へ行くにも休暇を利用したり、卒論 氏聞 、休講 の審査が終ってからとか、こまかに気をつかい 杜し 北楽もごく少なかった。あまっさえ勤続二十一年で表彰さ るを す話れた。 を出 昼食にてんや物をとると、必ず他人のとった ものを食べたがり、「ばくもそれをとりゃあよかった」 取思 と言う癖があったそうだ。 さ時 ぶ当 三浦氏の食いしんばうぶりは私も知っている。かな り前、偶然香港で三浦御夫妻に会い、大御馳走をふる て在 ら まわれたことがある。そのレストランへ行くタクシー つか にちの中で、氏は後部座席から中腰にのびあがり、手を運 浦人転手席にまでのばし、「サット・コーナー、レフト」と か「ネクスト・コーナー、ライト′ . 」とか大声でわめ くのだった。飯を食べにゆくというより、ギャングを 中講 0 あいさっ

4. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

366 元の三階の研究室に帰ってきた時、根守は、 「何だか、君の方が患者みたいだったぜ。彼の方が明るい 「あなた、お盆に何するんでしたつけ。そうそう、お友達 のに、君の方がオドオドして。なに、気にすることはなくと旅行ね。とにかく、この人ったら、お盆の前後に休みを て、何でもしゃべってよかったのさ。」 集めるために、ほかの日、本当は今日も休みなんですけれ と一言った 0 ど、休みをとらないんですって。」 その次に里子から帳簿を見に来てくれ、と頼まれた時、 一一人きりになると里子は果物をすすめた。清がそれを一 っとろうとすると、里子は彼の手をとって、手の甲をつね 今度は決して、この前のようなことはすまいと決心した。 だから、ベルを押して、手伝いの娘が出てきた時は、確かった。痛い、というほどではなく、コリコリという肉の抵 今日は休みのはずだったが、と意外ではあったが、救われ抗感を味わっているようなつねり方だった。清はそうされ たような感じだった。 るままにしていた。しかし、自分としては、里子の手を握 「まあ、南部さん、わざわざ恐れいります。この間、病院りかえすようなことはすまいと思っていた。里子が手を放 した。彼は器のオレンジをとった。 へお見舞に行って下さったんですって。」 清がポカンとしていると、里子は手伝いに気附かれない その日、彼女は帳簿を持ち出そうとしなかった。店の経 ように、目くばせをした。 理を調べてもらうほどの深い関係であることを、手伝いの 「主人から電話がございまして、『お前はオレの言うこと娘には見せたくなかったのであろう。彼女は自分を誘い出 なぞ を信じないから、南部さんが主治医の先生に聞かれたことしてほしいという謎なのか、 を伝えていただく。』と申しますの。もう、そんなによろ「夫が入院してると退屈ですのよ。かといって、鬼のいぬ しいんですの ? 」 間と遊び歩く訳にも参りませんし。」 「ええ、心臓神経症の方は、丁度いい薬の調合がわかっ と言ったりしたが、清は終始、白ばくれていた。 て、それを定期的に飲んでいれば心臓がおかしくなること お盆の間に里子は会う機会を作りたいらしく、研究所に はなくなったから、もうすこし、様子を見てから退院とい も電話してきたが、そのころは清も家族をつれて、郷里に う話でした。」 いる両親の家へ、墓参りに行かねばならなかった。そうし 「まあ、まあ・ : : ・」 ているうちに夏は終り、避暑に行っていた里子の子供たち 里子は清を客間に通すと、冷たい飲物を運んできた手伝も東京に帰ってきた。それと重なるように広吉も退院した しに、

5. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

180 止め、全身の力を脱いて、いに楽な姿勢で伏せた。 握った。そして合の手に、 はふく 真暗で時計が見えないが、それから十分か、或いは二十「おーい、助けてくれー」と叫びながら、軍隊の匍匐前進 ようや 分か経った。ふと耳を澄ますと、ゴオ、ゴオ、と低い潮騒の要領で、一寸刻みに前へにじり出て行った。慚く二尺程 のような音がしている。先生は倒れる時見た大きな赤い火身体を進めて、手を正面の壁に伸ばし、左右に撫で廻して の玉を憶い出し、火災が起っているのではないかと思っ いると、一箇所、湿った柔らかな所がある。土だ。 た。ゴオ、ゴオという音はひどく遠方のようでもあり、音「おやー」という希望を先生は感じた。 が遮られていて、実は直ぐ近くで鳴っているようでもあっ ナイフで切り込むと土は崩れ出した。手を突っ込むとも あぶらた くす た。自分の身体が生身のまま、脂を垂らして焼け始める ? っと沢山崩れた。やがて奥行五寸程に其処がえぐれると、 そう想像すると先生はぞっとして、居たたまれない気穴の奥に徴小な白い点が見える。白い砂粒なのか、針の先 持でもう一度大声で叫びながら冖身をくねらせ始めた。然程光が洩れているのか、確かではないが、非常な希望が湧 しもがく度に、肘も肩も頭も、空しくコクンコクンとコン いて来た。その白い点を目がけて、先生は懸命に土を掘っ しばら クリートの壁にぶつか 0 た。暫く叫んでいたが、先生は又た。口にも鼻にも耳にも土が無懼と入って来て、舌がじゃ 静かに腹邁いになって了った。焼け死ぬ事も覚悟し、暗闇りじゃりする。掘った土を一握りずつ、根気よく肩から背 ますます の中で先生はじっと眼をつむった。 へ撒き捨てて、掘り進んで行くと、土は益崩れて穴が大 だがそうやって伏せて待っていても、一向何事も起らなきくなり、白い点は明らかに光のロである事が分って、間 はのあか 。次第に拍子抜けのした気持になり、自分の意識が確かもなく其処からタ暮のような仄明りが中へ射し込んで来 である事、時間の余裕もあるらしい事が、いやにはっきり た。先生は身体が乗り出せるように、一心になって土の穴 ただ 感じられて、只寝ているのが如何にも勿体ない気がして来を拡げて行った。 しやにむに た。先生は三度気を持ち直し、生命のある限り遮二無二脱手で押したりナイフでこじたりしていると、漸く土の向 たちま まぶ け出す努力をしようと決心した。 さを、はど あた うで二枚の板がぐわッと口を開き、忽ち真昼の外光が眩し 先程から腹の辺りで引っ掛っている物がある。手を伸ば く眼を射た。先生は其処へもぐらのように鼻面を出した はお いったん してみると、革鞄だ。手さぐりで開けると、中から預金通が、頬と耳とがっかえてそれ以上は顔が出せない。 帳、印鑑、ノート、弁当箱、ナイフ、と心覚えの品が一つ込んで土を掘り、やっと首まで出るようになると、今度は 一つ出て来た。他の品は捨てて、先生は手にそのナイフを肩がっかえて身体が出せない。然しその時、矢代先生に もったい しおさい

6. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

に、可もなく不可もないようなものが多くなっていった。 たのかと思って、和泉がもう一度、行先を言おうとしてい はじめのうちこそ、伊藤は、 ると、運転手が振返った。目が血走って、ねじくれたよう くちびる 「いよいよ、老巧だね。」 な唇から、黄色い歯がのぞいていた。 と、彼の反省を求めるような批評をしていたが、やがて 「気に入らなかったら、下りて下さい。こっちは忙しいん 何も言わなくなった。見離したつもりなのだろうと、和泉 だ。いやいや乗って貰うこたあねえ。」 は考えた。伊藤は昔と同じような作品を続けていたが、和 「失敬なことを言うな。」 伊藤が横面でもはりとばされたかのように、急に怒り出泉から言わせれば、それもまた、「老巧」、と言えないこと もなかった。伊藤がこれまでに使って評判のよかった手法 「なにい、降りろったら、降りろってんだ。引きずり出しを様々な形で繰返しているのである。 デザインの世界は流行の移り変りが早い。次々に新人 てやろうか。」 が、新しいエスプリを持って出てくる。そうなると、十年 運転手はドアのハンドルに手をかけて、自分から降りよ 前には新しかった伊藤の線と色も、近頃ではいささか古い うとした。根が気の小さい伊藤は急におじけづいたのか、 自動車のデザインを見るような感じだった。 「おい、降りよう、降りよう。」 「社の電気力ミソリをデザインした、大島という奴な と和泉に対して乱暴に言うと、先に降りてしまった。排 気ガスを道端の二人に、思い切り吹きかけてタクシーが行あ、あれなかなかいいじゃないか。」 ってしまうと、 というような形で、二三度、伊藤にそれとなく忠告して - 彼を見離し 「だからおれは、穢い車はいやだってんだ。そういう車にみたが、反応はなかった。そして和泉もまた、 , てしまった。 限って、運転手はガラが悪いし、事故を起すんだ。」 そろ その問題を改めて思い出したのは、ロココ風の家具を揃 穴と悪いのは和泉だと言わんばかりの口調でそう言った。 えたレストランができたと聞いて、伊藤と一緒に行った時 同和泉は結婚前の尚子が伊藤の言葉を聞いたら、何というだ わく のことである。金。ヒカの枠にはまった鏡や、曲りくねった ろうか、とおかしかった。 偕 結婚後二三年もすると、和泉の仕事の変り方は、はっき脚の椅子がやたらに多い店だった。 おぎくぼ り彼自身にも意識されるようになってきた。昔、荻窪の屋手洗に立とうとして、ふと前を見ると、どこかで見たこ 台で伊藤と一緒に論難した、当時の大家達の作品のようとのある猫背の男の後姿が鏡にうつっていた。後頭の毛が ねこ懸 やっ

7. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

れでも清は香代子の買物籠をとり、純子の手をひいた。 なかったが、異常というか、見事というか、そこに自分の 「クミちゃんは。」 子がいると思うと、不思議な感動があって、手を引っこめ と手伝いの娘のことをきいた。香代子は立ち止って、肩る気になれなかった。 で息をした。汚れてはいないが、アイロンをあてていない 「いくっ ? 」 えりもと プラウスの襟元が見苦しい。 「え ? 」 「買物なんか頼めないでしよう、十八九の子に。純ちゃん「多恵子さん、いくつになったかしら。」 もついてくるっていうから、手をひいてこなくちゃならなコ一十五、いや六になったかな。」 「実家の父の知人に富岡という青年がいて : : : 」 香代子は不服そうに言う。クミちゃんは香代子のつわり しかし、その縁談もうまくいかなかった。青年の方が会 がひどくなるころ、やっとの思いで頼んだ手伝いの娘だう前に、多恵子が年をとりすぎていると言ったのだ。つま が、彼女は夜、洋裁学校に通うのが目的のようで、昼間でり話が多恵子の所に届かないうちに立ち消えになってしま も、自分の部屋で学校の宿題ばかりやっていて、家事を積ったのだが、多恵子がオールドミスになりかけているとい 極的に覚える気はなさそうだった。給料をろくに出せない うことは、清にとっては新しい驚きであった。そう言われ からとは思っても、これでは洋裁学校の生徒を食事附きでてみると、彼女はもうかなり前から事務室では一同の注目 こさん 無料でおいた方がまだましなのではないか、と思うことがの的ではなくなっていた。入社五六年というと、古参とは あった。 いえないが、決して新参ではない。記者を除くと、彼女は その夜、多恵子を結婚させなければならないというと、高田の次に古い人間になっていた。 横に並んで寝ていた香代子はちょっといやな顔をした。他そのころ清は久保を知った。彼は研究所の記者の一人に けんか 人の女の結婚に気を使うよりも、我が家の出産の方を心配しつれてこられたのだが、編集長と喧嘩してある出版社をや なてほしいということかもしれなかった。それで、清は縁談めたという、三十二三の男だった。久保は清にしきりに出 版をすすめた。出版は後に別な形で実現することになった 誠の話はやめてうまれてくる子供の名前の話などした。 のだし、清も当時からその意図はないではなかったのだ 「男の子よ、きっと。純子の時とちがうもの。」 と香代子は自分の腹をなでた。清も手をのばして、妻のが、久保の持ちこんできたプランというのは、資本的にも 腹にさわってみた。丸々としてなめらかで、病的な感じは今の研究所の能力から言っても、現実性はゼロであった。

8. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

と、外は真暗で、ガラスには部屋の中の光景がうつり、そを長くのばし、日本なら、小学校一一三年の女の子が着そう 引こで、一人の東洋人の女が大口をあいて笑っていた。そしな、短く、裾のひろがったワンビ 1 スを着て、跣だった。 てその声が、彼の耳許でひびいたのでふりかえると、たしゴーゴーを踊っているのだが、べギーが・ハタ・ ( 夕、激しい ダイナミックな踊り方をしているのに、この娘は、軽やか かにそれは日本の女だった。彼に似ているというケイとい ひじ う娘にちがいなかった。彼が何もいわないうちに、女が手に床の上をとびはねていた。手も、肱を軽くまげ、手首か ら先を顔の前であおぐようにしたり、また、いやいやをす を出して英語で、 るように首を振ったりするだけで、テンポが早いのに、激 「あなたが、私に似ているという川田さんね。」 しい踊り、という感じはしなかった。 「あなたに似ている、と言われて、光栄に存じます。」 彼がくだけた言い方ができなくて、商業英語の文例のよ美しい娘ではなかったが、どこかいたいたしい感じがし うな表現をすると、女はもう一度、甲高く笑 0 た。と思うて、彼はふと、ポチチ = リ 1 の春という絵をした。そ と、そばにやってきた女と、けたたましく、何か話しあして、肉体的には、・ヘギーの方が、はるかに女性的で、こ 、頬をつけて、抱きあった。そして、またたく間に人混の娘はむしろ中性的なのに、ペギーが男で娘が女役のよう に思えるのだった。 みの中に見えなくなった。 小さな家なのに、人が多すぎた。まるではね時の劇場の踊っている二人のそばに、赤ん坊が一人、はっていて、 その子をつかまえようとしている三つほどの女の子が、二 廊下のようだった。台所には飲物の瓶をのせた台があり、 隣の居間のテー・フルには、桶一杯のサラダと、山のような人に踏みつぶされそうにして、動ぎ廻っていた。 ・ハンがのせてあり、それと並んでこの国の女の尻ほどもあ「踊りますか。」 金沢に日本語で耳許で言われた。金沢という男は、ベト る肉塊があって、何人かの女が、手に手に刃物を持って、 コンのように神出鬼没だ、と思った。 それをきりきざんでいる所だった。 音楽が急に鳴りだしたので、そちらに行ってみると、三「あの娘、あんなに典雅なゴーゴ 1 を踊る人を、はじめて 畳敷ほどのせまい場所で、二人の女が踊っていた。一人は見た。」 「どの娘、ああ。」 まだサングラスを頭にのせたままのべギーで、・ハスタオル 金沢は急に笑い出した。 を腰にまきつけたほどの、短い皮のスカートをはいて、・ハ タ・ハタ、踊っていた。相手の女はか細い十五六の娘で、髪「あれはね、ここの主人の奥さんですよ。赤ん坊は彼女の おけ びん すそ

9. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

294 えり 尚子は気スタンドをつけて、ネルの・ ( ジャマの襟をか をさまさせまい、というだけの理由らしかった。 そでつけ それは和泉にとって、愚劣な争いだった。元々、その争き合せた。ボタンがとれてしまい、袖付がほころびて、黄 いの動機となるべき欲望を彼は殆ど持っていなかったので色い肩の肉が出ていた。尚子は和泉の方をふり返りもせ ある。その場になれば、長年の経験が条件反射のように働ず、息をはずませながら、おむつを替えた。恋や性欲とは およそ無関係な臭いが、部屋の中に拡がった。 いて、何とかなると思っていた。しかし抵抗の激しさは、 それが済むと尚子はガウンをはおり、隣の部屋へ行っ あまりにも欲望から縁遠いものだった。生じっかな欲望を 消してしまいそうなほどであった。尚子の体の中に怒り以て、長男を便所につれていった。尚子の床の上にちぎれた いっしょひ ボタンが落ちていた。ボタンと一緒に裂きとられた、湯上 外に何もないことは明らかだった。 もめん りタオルのように分厚な、木綿の切端が、しつかり糸で縫 和泉は二十年近く前に、彼が入学試験に失敗したのを、 弟に冷かされた時のことを思い出していた。彼は弟を組伏いつけられていた。あの・ ( 力な女は、黒いナイロンの夜着 せて思いきりなぐってやろうと思った。しかし本当は弟にを持っていた。それは平凡な体を魅力的に思わせる程度 はとん 対する怒りは殆どなかったのである。試験に落ちた口惜しに、すけて見えるのだった。 和泉は悲しかった。おむつの臭いも、コケットリーから さを、弟との組打ちでごまかしているにすぎないことを、 けんか 彼自身よく知っていた。その後、弟とそんなに激しい喧嘩は、およそ縁遠い尚子のパジャマも悲しかった。そして、 をしたことがない。それは恥ずかしい愚劣な思い出で、他尚子を組伏せることに失敗したために、彼の生活の実質を 人には勿論、当の弟とも、そのことは話しあいたくないこ作っている、下らないが貴重なこれら一切を失うのではな い力という気がした。 とだった。 こつけい 尚子は隣の部屋で一言、二言、長男に何かささやいて、 尚子を組伏せようとしている自分を、和泉は滑稽に思っ やみ た。馬鹿らしくて、闇の中で、苦笑したくなった。ともす寝かしつけているようだった。やがて彼女は影のように部 屋に入ってきた。そして、自分の寝床にあぐらをかいてい れば彼の手の力はゆるみそうになった。 かけぶとん その時、長女が急に泣きだした。寝つきのよい子で、沸る和泉を押しのけるようにして、横になり、掛蒲団をかぶ 多に夜、目をさますことはないのだが、おむつが濡れすぎろうとした。その時、尚子はふと手をとめた。和泉が泣い ると、こうして夜泣きすることがある。尚子は起き上ろうているのを見たのだ。 和泉はもう一度、尚子に手をかけた。尚子の抵抗は前の とした。和泉も手の力をぬいた。 にお

10. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

のぞ く海へ飛び込んでいた。久木が舷側から覗き込んで見る 停止していた。 「一体どうしたんだ ? 」 と、海面から姆何にも高く、彼は訓練時代以来水泳の高飛 うす 「ガソリンの誘爆です」候補生は答えた。「後部のカッタ込は大の苦が手で、断念した。足と耳とがひどく疼き始め どこ 1 を降ろしませんか」 た。候補生や水兵達は何処かへ分れ分れになって了ってい たいほう ガソリンのガスと空気との混合が或る比率に達すると、 た。駆逐艦が一隻、大鳳が爆発を起している為に近寄れな しき その爆発がどんな爆弾より強烈になるという事を聞いてい いらしく、チカチカと頻りに発光信号をやりながら遠巻き ゅうよく たのを、瞬間久木は思い浮かべた。彼は然し未だ艦全体のに游弋している。久木はもう一段下のデッキまで降りて行 状況は充分呑み込めなかった。 った。其処でも整備長の中佐が指揮を取って、多勢の兵員 「退艦命令は出ていないだろう。上へ行こう」久木は三人が靴を脱いで海へ入り始めていた。 にりつけるように言った。 「おい貴様、大分やられとるじゃないか。先へ入れ」整備 「久木少尉、然し大分怪我をしとられます」兵隊の一人が長は久木を認めるとそう声を掛けた。水兵達が黙って道を からだ げんそくっ 言った。久木は初めて自分の身体に異状がある事に気づい開けた。彼は整備長に敬礼をし、舷側に吊るした太い索を た。右脚には斜めに深い裂傷があり、靴とズボンを捨ててんで、ずるずるツと海面まで降りると、水へ落ちて大き ふんどし 来たので下半身は褌一枚である。右耳に手をやると、耳なうねりの中へ潜った。索のとげが掌に沢山刺って痛かっ が赤貝のように垂れていた。水兵が手でをきつく た。浮き上って見ると、近くに腰掛けの取れたソフアが浮 してくれた。四人は飛行甲板に向った。ラッタルの途中に いていたので、久木はそれに取りついた。ソフアには端に 身体を引っかけて、外舷へ落ちそうに手を投げ出して死んもう一人、重油で顔を黒くした男が取りついており、ゴム はす でいる者がある。無傷の兵隊が無と右往左往している。 まりのように弾んで浮いているので、心強い感じがした はげ 城広い飛行甲板は屋根型に中を持ち上げてへし折れ、到る が、久木の身体の傷は海の中で烈しく痛み始め、特に深く の所から黒煙が赤い焔を包んで吹き出し、艦橋も既に煙に包えぐれた右脚の傷の為、脚きが自由に出来ず、手で掻い 春 まれていた。久木はラッタルの途中からそれを見て引返ているだけではソフアは中々進まなかった。余程泳いだと たど し、艦内で僅かにまともな形を留めている後甲板まで辿 0 思って振返ると、未だすぐ後に大鳳の巨体が、覆い被るよ はう て行ってみると、其処では既に浮く物をどしどし海中に抛 うに傾いていた。久木の身体の側に人間の手首が一本流れ り込んで、勝手な退艦が始り、年少の元気な連中が勢いよ寄って来た。それはンフアにまつわりそうになったが、又 ほのお すで