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検索対象: 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集
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1. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

准そく 告を受けていた。各地の方位測定所で捕捉測定した敵の艦んでいるらしい等という話も出た。尤もそれは、日本で進 船や航空機の報告が大和田の通信隊から集約されて入ってんでいるのかアメリカで進んでいるのか、よく分らなかっ 来る、一課二課の当直員は翌朝の説明に備えてそれを整理た。 して図に記入して置かなくてはならない。 「一九一一五、エンナ・トン・アール・ケー、高雄の四十八 「近い内に大きな会戦がある模様なんですか ? 」耕二は訊度、一九二七、目標フェミイ、トラックの百四十五度」 いてみた。 「皆はこの頃又、理事生達と・ハレーをやったりしてよく遊 ごをげん 「大体あと一カ月でしようねこれで敗れたら残念ながらんでいるけど、首席班員が大分御機嫌が悪いようですよ」 日本はもう勝ち目がありません。あとはフィリッビン、台福田少佐は話の序手にそんな事を言った。 もよっと 湾とじり貧ですね。そうしたら皆で腹を切りましよう」福自分に言われたのでない事は分っていたが、耕二は一寸 田少佐は又微笑した。 狼狽した。彼は久木、谷井と続いて二人に別れ、仕事は行 よそ 「鱚し皆の人格を認めないような事を言うのは失礼だけれきづまりで、気持が自然に他処の方へ向いていた。谷井が ど、皆は必要以上に味方作戦の事を知ってるね。英国なん上野を発って十日もしないうちに、彼は心に或る波立ちを か、その点は徹底していますよ」ーー印度から飛行機でビ覚え出した。それは智恵子との時以来、未だ誰にも感じた ちょうじゃ ルマの奥地へ入って来る英国の諜者等は、着地すると服装事の無いものであった。彼は近頃用もないのに、特務班の まわ をビルマの服に整えて、腰の周りにアンテナを巻き、携帯廊下をぶらぶら歩いたり、退庁の時刻に忘れ物をした振り 無電機を手宮に仕立てて活躍を始めるのであるが、彼等ををして幾度も階段を昇り降りしたりしていた。相手は矢野 じんもん 逮捕して訊問してみても、味方 ( 英国 ) の事に関しては驚理事生ーー谷井といっか感じがいいと話し合った矢野典子 く程無智である。敵 ( 日本 ) の軍事組織や艦船の名前に関であった。矢野は班のタイビストで、耕二とは仕事の上 かかわ しては実に精確な知識を持っているに拘らず、カルカッタの繋がりが全く無いので、ロを利く折が無く、彼は無理に せきすう の在泊艦艇に就てなど、隻数の他何も知らない。知らない事を拵らえて、 事は言えない、危険に備えて彼等諜者の教育はそういう方「じゃあ、塘少尉にそう言ってくれ給え」等とつまらぬ用 針でなされているらしい、少佐はそういう話をした。 を頼んだ。矢野はロの中で、「はいとはにかんだ返事を くび いろど ウラニュームを使って、マッチ箱一つぐらいの量でニ、し、頸をかしげて笑う。金持の娘が多く、彩りの派手な特 ざら ーヨーク全市を破壊出来るほど強力な爆弾の研究が可成進務班の中で、矢野は服装が貧しく、よく洗い晒しの紺がす かなり ろうばい つな こし つつみ もっと たかお こん

2. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

110 っとそうだよ」 ろでどうせ結果は平凡なものに違いないと思った。何処か 「そういう事はあるかも知れない。それだっていいじゃなの女学校を中程度の成績で卒業し、父親は退職官吏か何か いか。何も錯覚という事はない。俺は本気なんだ」 で、姉や弟が二三人いる、あまり豊かでないが平和で平凡 「本気 : : : か : : : 」和田は言った。「然しどうしてもやるな家庭、恐らくそんなところであろう。彼は貧しい人と結 んなら、余程慎重にやれよ。家の事なんかちっとは調べた婚しても、自分が貧乏暮らしに落ちなくてはならないとい のか ? 」 う事は無かったし、平凡な家の平凡な娘と一緒になるのが 「いや。何も知らん。家は何処かな ? 」 自分にはいい事のような気がした。今にあの眼も、腰も細 「無茶だな、まるで」 い腕も自分の物になる、自分は満足してそれを大切にし 耕二は和田の奨めで興信所に調べを頼む事だけは承知して、定められただけ生きる、それでいい。彼はそう思って しま たが、あとの処置は全部この二人に委す事にし、消極的に或る幸福感と共に、生涯の事が決って了ったような軽い寂 反対している二人を無理に納得させてしまった。 しさを感じた。 以前和田が親戚の人の結婚調査で頼んだ事があるとい う、銀座の興信所を教わり、翌日耕二は背広に着えて其 たす 処を訪ねて行った。廊下の壁に沿うて、埃まみれの黄色い 「小畑、一寸屋上まで」 戸籍の綴じが、崩れそうになって天井まで積み上げてあっ 二三日後の朝、和田が何気ない調子で、 o 班の部屋へ耕 うなす た。彼は主任という陰気な感じの男に仕切部屋の中で逢っ二を呼びに来た。耕二も何気なく頷き、仕事の上の連絡の かっこう た。被調査者の勤務先が軍隊の中だと、機密に触れるのがような恰好に、書類を一束掴んで部屋を出た。 うるさ 煩くて中々厄介だが、十日くらいで何とかなろうという返庁舎の屋上では塘が待っていた。 事であった。彼は自分の名前は他人名義にして伏せて置い 「矢野の出た女学校がわかった」 ぬす た。一方塘と和田とは仕事の暇を偸んで、少しずつ矢野の 「そうか、ありがとう」 事をさぐり始めた。 「貴様がっかりするな。家政女学校だそうだ。あの仲間 ひょうそくみつ 平仄密の解読は彼の机の上ですっかり投げ出しになっての田村が言ったんだ」 へいそう いた。助手の佐野兵曹だけが、毎日黙ってローマ字の行列「ふうん」耕二は、いい報告を聞いたともさすがに言えな いわゆる に鉛筆をあてていた。耕二は矢野の事は、調べてみたとこ かった。家政というのは、東京であまり所謂上等な家庭 こ しんせき てんじよう 椴こり ひとたばっか

3. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

の娘の行く学校ではなかった。・ : カ彼は直ぐ、 「馬鹿な。いい加減にしろ」塘は頭ごなしに言った。「貴 「まあそんな事は構わない。ちっとも構わない。田村は矢様以外に誰が矢野なんそ問題にするもんか」 野の事詳しいのか ? 」と気持を払うように言った。 「まあ今のところそれだけだ。・ : それより」和田は言っ 「学校は家政よって言うんだが、よく遊んでる癖に大した。「ゆう・ヘポルネオの附近に大分アメリカの潜水艦が測 もっと て知っちゃいないようだな。尤もあんまり根掘り葉掘り訊定されてたよ。三艦隊があの辺にいるらしいね。久木の奴 くのもおかしいから : : : 」 どうしてるかな」 「それからね、もう一つ、矢野が近々此処をやめるというその日の昼休みに、耕二は一一人から聞かされた話を頭の 話がある」和田が言った。 中で繰返して考えながら、一人で人のいない弓道場の方へ 「どうして ? それは何故だろう ? 」耕二は不安そうな顔歩いていると、道ばたの 0 たクロー ーの上に、木津理 をした。女子理事生がやめるのは大抵結婚の為であった。事生ともう一人の理事生が、腰を下ろしているのが見え 「ゆう・ヘ俺は当直だったから、一課で測定線を入れる手伝た。小さい虫が来るらしく、木津は顔の前を手で左右に払 いをしてたんだが、状況が閑散で三井中尉や酒井中尉が理 いながら、脚を投げ出して話していた。ふとその会話の端 とら 事生の品評会をやり出したんだ。いい機会だと思って調子が彼の耳を捉えた。 を合せて聞いていると、どうも矢野が近くやめるらしい。 「お決りになったんですってね」それから、「三井中尉」 矢野や田村や、あの子供みたいな連中の中の誰か知らない それだけ聞えた。彼ははツとした。そして耳に神経を集め が、三井中尉の遠縁の奴がいるんだね。田村も矢野も時々て通り過ぎると、今度は、「三菱重工業 : : : 、もうすぐね」 いったん こっそり三井の家へ遊びに行くらしいんだよ」 又それだけ聞えた。彼は一旦弓道場の裏手まで遠去かって 「へえ」耕二は不快な感じがした。「それはよくないね。 行った。柔らかそうな幹から枝を出して、桐に似た大きな たくさん 城首席班員が知ったら怒るそ」 葉を沢山繁らせている樹が幾本も立ち並んでいる。彼はそ なじ の「身勝手な事ばかり言うな」塘は笑いながら一寸詰るようの葉を二三枚むしり、何気なく又木津のいる方へと引き返 春な調子で言った。「首席班員が聞いたら怒るのは、貴様のして行った。二人は話をやめて耕二の来るのを見ていた。 事だ」 彼は木の葉を振り振り、 「然し、まさか、矢野は三井中尉と結婚するんでやめるん「木津理事生、これ何の葉だか知りませんか ? 」そう言っ じゃあないだろうな」 て立ち止った。 ため

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りのもんべ等はいていた。それが却って耕二に好感を抱か「相手は矢野だ」耕二は自分の気持が動いて来た筋道を話 せた。そしてその時でも寂しそうにうるんでいるようなし、「色々厄介な問題があると思うんだけど、俺が表面に 眼つきが彼は好きであった。そういう気持でいたので、彼出ちや不味いから、貴様たちでやってくれよ。何とかなる は福田少佐の話に、思わずぎくりとした。だが、その晩だろう ? 」そう言った。 へえ : ・・ : 」塘は言った。 は、その話はそれきりで、やがて用のない者は順々に、当「あの矢野をねえ・ : 「然しそいつは、余程注意しないと、スキャンダルになる 直室のペッドへひぎとって行った。 しか 然し彼の気持は、六月になると、仕事の不調と生理的なぞ」和田は言った。 しようはく 衝迫とから、段々昻じて来た。昼の休み等、彼は庁舎の屋「あの眼がいいな」耕二は舌を出した。 いわゆる 上に上って、遙か下の・ ( レー。ートの横に戯れている所謂「言 0 ちゃ悪いかも知れないけど」塘は言った。「矢野の 眼のどこがいいかね ? 俺は彼女を浄書で始終使ってるん 幼稚園組の少女達の中に、矢野理事生がいるのを、その小 だぜ。よく見てみたのかい ? 物欲しそうないやな眼つき さな腰や発育しきらないほそい脚を、盗むように眺めてい ゃぶにら だ。子供の癖に妙に色気づいて見える。あれは藪睨みだ る事があった。〈いっそ結婚したらいいんだ〉ーーー耕二は よ。俺はそれは一寸不賛成だな。貴様がよほど考えた上で 本気でそう思い始めた。彼は智恵子との事を思い出すと、 常に曖昧な、そしてその為に重苦しい感じが残 0 た。矢野どうしてもやると言うんなら、するだけの事はしてやるけ と結婚してしまえば、善く悪しくも智恵子との間はさつど、一度水でもかぶって来てからにしろよ」 「俺はどんな事があったってやるよ」耕二は反射的に相談 ばりする、彼はそう思った。 「一寸話したい事があるんだが、今夜つき合えよ」耕二はの口調でなくな 0 た。 「一寸待てよ、その矢野じゃないか ? 」和田が言った。 或る日和田と塘とを晩飯に誘った。八分方決心をつけてい と言ってたというのは」 城たが、具体的な面を相談したく、又ともかく誰かに打ち明「何時か谷井が感じがいい とん のけてみたかった。三人は霞ヶ関の本省から近い陸海軍将校「そう。俺と谷井とが殆ど同時にそう言い出したんだ」 「分ったよ、貴様。それはね、錯覚だぜ」和田は続けた。 集会所へ、ビールを飲みに出かけて行った。 「つまりだな、大学以来一緒の谷井が千島へ行って了って、 「俺は実はある理事生と結婚しようかと思うんだがね」 さび あき 8 「何だ、それは ? 」塘は驚くより、呆れたという顔をし貴様は淋しくなったもんだから、それで谷井の言ってた事 こ 0 が頭の中で変に固定し出したんだ、よく考えてみろよ、き なが い やっかい ょど

5. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

二は軍服で来た事を気の毒に思った。応接間へ通され、彼か、その場合の貴様の奥さんとして矢野を考えてみて、ど はさりげない調子で簡単に矢野の事を訊ねた。 うにもまるでびったり来ないんだ。あれは、興信所の調べ 「矢野さん ? 矢野さんて方、数人ございましたけど、矢がどんな風だか解らないが、俺にはどうも好い娘さんだと 野典子さんというのは一寸記憶にございませんが : ・ 。わは思えないよ。貴様は盛んこ、 冫ししいいって言うけど、あ はす たくしこの学校に八年勤めております。その間の卒業生での眠っきは蓮っ葉な眼つきだ・せ。貴様は自分でそう意識し したら大抵全部憶えているのでございますが、 でも一ていないかも知れないが、この前も言ったように、谷井が っと ただいま 寸お待ち下さい。只今名簿を調べてみますから」先生はそあんな事を言って出て行ったのが、相当貴様の気持に影響 う言って、名簿を繰ってくれたが、やはり矢野典子は無かしてると思うんだ。どうだい、 もう一度考え直す事は出来 っこ 0 「改姓でもなさった方では : 「いやだよ」耕二は和田に向き合って、何かに抗するよう 「いえ、そんな事はないと思うのですが」 に言った。「大体貴様、俺が将来又文学をやり、貴様が人 耕二は何処に間違いがあったのか解らず、妙な気持で寄類学をやり、久木が外務省へ帰る、そんな事がどれだけ現 のんき 宿舎を出、下宿へ帰って行った。 実に想像出来るかね ? 俺はいっか俺が又昔のように暢気 翌朝耕二が出勤すると直ぐ、和田が呼びに来て、一一人はな旅をしたり、原稿用紙や小説本をいじったり、そんな時 また 又屋上へ上った。 が来るという事が、何だかもうありそうもないような気が 「今朝早く、昨日の事を塘に聞いた」和田はいやに堅い顔するんだよ。それで何でも無茶をやっていいとは思わない をして言った。 さ。然し唯、俺は現在の自分の純粋な気持には忠実になり 「そうか。どうも不安でしようがないもんだから : ・ : ・」耕たいんだ。へんにもやもやしたくないんだ。もう一一度と来 城二は一寸照れた。 ないかも知れない事なんだぜ。死ぬかも知れないんだも の 「三井中尉との事ね、疑えばそう取れる節があるかも知れの、計算や遠慮気兼ねはもう沢山なんだ。参謀連中や一期 ない。然しこの機会に俺はもう一度貴様に言いたいんだ」 の連中から、スキャンダルと言われようと、敵視されよう と平気だよ。勇気が出るくらいだ。好きと思って、直ぐ結 「俺は貴様の気持を別に不真面目だとは思わないよ。然し婚と、そう結びついただけ、むしろ自分じゃあ今度は真面 士官としての貴様の奥さん、それから将来文学をやるの目な積りなんだ」 どこ ふまじめ ちょ ただ

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140 も、三時間掛ってそれの解けない者がいた。 置いて、二課から一課、三課と廻り始めた。 しばら 「頭が悪くて特務班の仕事が勤まるか」等と、彼は曾て江暫くして四課の扉が開き、木津が入って来るのを認める はす 崎中佐から言われたと同じ、頭ごなしの調子で新しい少尉と、耕二は赤くなりかけて、急いで席を外し、外へ出て了 達を怒鳴ったりした。 った。廊下では矢野と田村との二人が、腕を組んで、子供 たたず 麦克阿瑟 ( マックアーサー ) 、蒙巴頓 ( マウント・ハッテが花嫁さんの後をつけるように、珍しげに佇んでいた。耕 ン ) 、中途島 ( ミッドウェイ ) 、真理報 9 ラウダ紙 ) 、希二は行きちがいに矢野の例の眼を盗み見て、 ちょっと 特勒 ( ヒットラー ) というような時事用語の音訳意訳の字「矢っ張り一寸美しいな」そう思ったが、それ以上は気に ならなかった。 句は、他で解き難い文字の解読に役立つものであったが、 彼等はそれも中々読めなかった。彼は何とかして、その中 ひょうそくみつ 十八 から一人、平仄密のしつかりした後継者を作らねばならな かった。毎日のように通る町筋では、エ兵隊が出動して古廊下に並んだタイビスト達に送られて、木津理事生が退 い建てこんだ家々を崩す作業を始めていた。サイバンの失庁して行 0 た後、耕一一は又机に 0 て来て、平仄密に手を 陥が、そんな所にもうはっきりした影響を現しているようつけていたが、午後になって課長の岩本少佐から呼ばれ あせ で、彼は何となく火照るような、焦るような心で毎日を送た。課長はその前に、特務班長の部屋へ何か相談に行って いた様子で、彼は木津の事を何か言われるな、と思ってひ った。暇を割いて千島の谷井には長い手紙を書いた。矢野 の事から始めて、木津と和田の事、平仄密の事、近く矢張やりとした。 りビアニストの加山千鶴子と結婚する事に決った広川の事然しそれは思いがけず、彼の支那方面艦隊司令部への転 と、書く事はいくらでもあった。 勤の内命であった。 そのうち木津理事生の辞める日が来た。評判の・フルーが 別れを兼ねて、耕二と和田と塘は、一晩横須賀の讎時も 辞めるというので、士官達の間ではかれこれと騒いでいた行く料亭へ遊びに出掛けた。それまでに塘は、矢野の事以 が、彼は知らぬ顔をしていた。和田は然し彼以上に澄まし後和田と耕二とが何か始終相談しているのを勘づいて、露 て、落ちつき払っていた。雇員が辞める時には辞令を持っ骨に不愉快がっていたので、席で耕二と和田とは二人のロ あいさっ て各課長と関係の士官の所へ挨拶に廻るのが慣例で、そので木津の事の経緯を打ち明けた。初めて知った塘は、 朝彼女は和服を着て、おそく出て来ると、持ち物を纏めて「ふうん。それはまあおめでとう。小畑は相変らず無鉄砲 かっ つつみ

7. 現代日本の文学 43 阿川弘之 三浦朱門集

130 あら 「低能トイウ程ニハ非ザルモ、幼少ョリ学業ニ親シマズ、果を話して、礼を言った。 成績 ( 常ニ最下位ニシテ、 Z 女子商業学校入校後モ全ク学「ありがとう。済んじゃった」 業ニ興味ヲ有セズ、一年二学期ニテ自ラ退校シ、ソノ後ハ 「驚いたな、危いところだ。よかったじゃないか」和田は 家庭ニ在リテ家事ヲ手伝ウ。万事ニ飽キッポキ性質ナリ。 言った。 十八歳ノ三月 e タイプライタ 1 学院ニ入リ和文タイプヲ修「それで然し、もう未練は無いのか ? 」塘が言った。 うんぬん ちょっと メ云々」 「それが不思議に無い。今朝一寸矢野を見掛けたが、よく ゃぶにら 本人には兄や妹が数人あったが、それらにも少しも香ば見ると矢っ張りあれは藪睨みだね」 こと しい事は記されていなかった。殊に下の兄の友人で、或る和田と塘とは笑い出した。 専門学校の学生が、どの程度か本人と関係があって、調べ 「思い込むのも簡単だが、諦らめるのも簡単だね。は矢 には、「コノ事ハ別途探求ヲ要ス」と書いてあった。 野が少し可哀想になった」塘は言った。 耕二は自転車と衝突しそうになって、はっと眼を上げ「まあ、何とでも言え。とにかくへんにせいせいした」 た。そして書類を鷲掴みにすると、 「そうだよ。和田が言ってたように、貴様は谷井の言葉の ちょうどとま 「低能という程には非ざるも、か」と呟きながら、丁度停幽霊に化かされてたんだ」 っていた新宿行の都電に飛び乗った。電車は動き出した。 「その傾向があったんだろうな。どうしてだろう、然 彼は窓の方を向いて、自分の身体で書類を隠しながら、もし ? 」 う一度その箇所に眼を落した。 「いやに今日は素直だね」 それはずいぶんひどい言葉だという気がした。然しその 「三井中尉との事はどうなんだ ? 」 ため かえ さわや 為に彼の気持は却って爽かになって、二度目にざっと書類「それがどうも、全るで関係は無いらしい」 全体を読み了えると、彼は何か霧でも霽れて行くように、 三人は一緒に声を立てて笑った。 自分の胸の中から矢野に対する執着が消え始めるのを感じ「然し機密保持もあったものじゃないそ。矢野が特務班で た。「これは駄目だ」はっきり彼はそう思った。苦痛は少昼飯に出るコッペパンを、食わずに家へ持って帰る事まで しも感じられなかった。その晩彼はひどく朗らかになって、調べてあった。興信所というのは偉いものだね。仕事の事 きちょうめん 下宿の人に冗談を言ったりして、夜はぐっすりと眠った。 も、これは比較的几帳面だと書いてあった」 つつみ 翌朝、耕二は特務班へ出ると、塘と和田とを呼んで、結「じゃあ純情ないい娘じゃないか」塘は耕二をすこしから わしづか つぶや かん おさ

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月一日附でそろって中尉に進級した。 るという結論が出て、作業は一時全くの停頓状態になって それから一週間ばかり後、丁度サイバンとの無電連絡が いたが、五月末に何かの都合で大連に住んでいた堀大尉の 遂に完全に断れたという報らせで騒いでいる時、四課長の細君が、急病で亡くなり、堀大尉は一時仕事を離れて大連 岩本少佐が外出先から汗を拭き拭き帰って来ると、 までその後始末に行って、十日程して東京へ帰ってから新 「小畑中尉、ちょっと」と耕二を呼んだ。 しい気持で暗号を見始めたところ、ニューデリー発信の電 かばん しばしば 少佐は厚い鞄から何か書類を出しながら、 報に、 0 と > とが屡 ~ 特殊な現れ方をする事を認め、其処 ひょうそくみつ いわゆる 「参謀本部で平仄密を解いたそうだ」と言った。耕二はハ に所謂ウィ 1 ク・ポイントを掴んで、解読の手掛りを作っ ッとした。 たという事であった。〈やはりあの O と > とが : : : 〉と思 「未だ極く一部が分っただけらしくて、中々くれそうもなうと、耕二は矢野や木津の事にかまけて、それをいい加減 へいそう かったが、今後は協同解読で、こちらも平仄密に人員を増に扱っていた事が、佐野兵曹に対しても済まなかったよう あら やして、凡ゆる解明事項を毎日交換し合うという事にしに、今更に感じられた。日本中でこの暗号の事を実際に即 て、折り入って頼んで来たから、君は今から直ぐ参謀本部して詳しく研究している者は、この堀大尉と自分と佐野兵 へ行ってくれ給え」 曹とその他二三人を出ない人間だけで、おまけに世界でも 耕二は「はあ」というような感嘆詞を発しただけで、返それは少数の中の者であったというような事が、妙な気持 事が出来なか 0 た。あれがどうして解けただろうと、不思で考えられた。これが機密ずくめの仕事だから、成功も坏 議な気がされた。彼は鞄に平仄密に関する海軍側の資料成功も黒幕の蔭であるが、例えば科学上の或るテ 1 マに就 と、紙や鉛筆を詰めると、急いで特務班を出、市ヶ谷の参ての研究であったような場合なら、自分は世界中に対して 謀本部十八班へ向った。 面目を失う立場だったというような、誇張した気持もし 城海軍の内部とちがって、陸軍の解読班の中は、やはり陸た。 うす・よ′」 の軍特有の薄汚れた陰気な感じが漂っていた。彼は堀という彼は机に差向いで、堀大尉から一々のデータの説明を受 牛のような感じの大尉に面接した。その人がこの暗号を解け、それを纏めて特務班へ帰って来た。 春 いた当事者であった。 平仄密はやはり (bus) が「敵」、 (gol) が「英」 (iic) が 堀大尉がぼそぼそ話すところに依ると、参謀本部でも海「船」、という風に三字一符字の暗号であった。そして暗号 いわゆる 軍側と同様、これの解読には理論上から数年の日子を要す書は所謂一冊制で、青密と同じく発信用受信用とも同じ本 し よ につし いまさら ていとん

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「迷惑じゃないけど、俺は貴様のような無鉄砲は出来な 十五 い」和田は言った。 、、な′け 二三日して興信所から通知が来た。耕二は夕刻背広に着 「どうも俺は納得が行かないな。大体許婚が出来たって、 人の口から又聞きの不正確な話なんだろう ? 場合によっ更えて有楽町の事務所へそれを受取りに行った。金を支払 こわ 、丈夫な封筒に入った部厚い書類を貰うと、彼は外へ出 ては話を毀せるかも知れないし、ひとりでに毀れているか ひら て、日比谷の方へ歩きながら、書類を披いて読んだ。美濃 も知れやしない」 きれい けいし 燈火管制で町が暗いので、砂を撒いたように星が沢山見の罫紙に複写紙を入れ、タイ。フライターで綺麗に浄書した えた。家並の向うにエビスビールの工場の大きな建物が影物々しい書類で、本人の祖父母、血統から書き起してあっ 絵に浮いている。 「貴様は好意のつもりだろうけど、いくら言われたって駄矢野の事を、平凡な家庭の平凡なお嬢さんと決めていた 目だよ」和田は言った。 耕二の気持には、それを最低限と見て、多分それより悪い 「そうかなあ。それだけの気持をむざむざ捨てて了うもの事はあるまい、少しでもそれ以上のよい事を知ればもっと じゃあるまいと思うがな」 喜べゑそういう想いが知らず知らず働いていた。然し活 しる 「それより貴様の方はどうなんだい ? 興信所の調べは未字が記している事実は、それ以下であった。 だ来ないのか ? 」 矢野の家は維新の頃没落した小士族で、父親は現在大蔵 「未だだ」 省に守衛を勤めていて、家は貧しく、順位をつければ中流 くだり 「ああ、おい、星が流れた」和田は言った。「貴様流れ星の下である。其処まではよかったが、母親の条になると、 の大きさってどの位あるか知ってるか ? 」 子供に構いつけぬとか、隣組で出しゃ張るとか、配給物に きたな 城「おい、こら。話をそらすな」耕二は言った。和田は然汚いとか、恐らく近隣の評判を聞き込んだものであろう が、悪い事が多く、耕二は読みながら、金歯など入れた、 「疲れたよ。もう寝ようじゃないか。サイバンもお終いだ無教養な顔の平ったい五十女を想像して、あまり面白くな 春 な。久木が生きて帰るといいがね」と、もうそれ以上は相い気がした。しかしそれも未だよかった。本人の項になる 手になろうとしなかった。 と、家政女学校を出たというのは全くの嘘か誤りである という事が記してあった。 こ 0

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一通は陸軍省に、一通は国務省に、「アンド、ラスト・ワ かだ」 ン、フォア、 = ー」と言ったので、米国が日本の暗号電報「この間の九州爆撃の程度じゃあまなくなるね」 ますすし を研究している事が分ったという話をした。又アクロン号皆は夜食に出た麦飯の不味い鮨を食いながらそんな事を という飛行船の墜落事件の時、駐在武官は米国の海軍省に話していた。東京通信隊から電話で、遅延していた味方電 ちょうもん はす なかなか 弔問に行く筈であったが、東京からの公式の弔電が却々入報が一通入って来た。 電しない、それで時機を失しないうちにというので、表向「昨夜触接ヲ失セル敵機動部隊ヲサイバンノ二六〇度一五 ひが き弔電を受取 0 た形にして次官を訪問すると、向うの海軍〇浬 = 発見ス。彼我ノ距離一一八〇 = 一〇〇浬」という、 ていちょう ちょっと 次官は鄭重に謝意を表してから、さてにやッと笑って、攻撃部隊からのもので、皆は一寸色めいたが、その後は又 はす 「東京から未だ電報は来ていなかった筈ですが : : : 」と言何も入って来なかった。 よそお ったという話も出た。 和田が青い参ったような顔をしていた。平静を装ってい 「これでサイバンも駄目だったら、一体どうなるんだろたが、サイ。ハンの事とは別に、和田はすっかりふさいでい う」森井大佐が席を立った後で耕二は言った。 る、それが耕二だけには分っていた。今まで一切包み隠し 「次はフィリッビン、台湾、沖繩。福田少佐が言ってたていた木津理事生との事を、つい口にして、その後耕二が そば よ。じり貧さ」中田中尉が言った。三井中尉も傍にいた。色々な事を言う為に、変な気分になっているに違いなかっ 耕二は然し、三井中尉がいると、とかく矢野の事が頭にまた。 つわりついた。 疲れて当直室のべッドへ引上げる者が出始ると、耕二は 「駄目だったらって、もう駄目に決ってるじゃないか」和和田をそっと屋上へ誘った。暗幕を出ると、気温がぐっと っゅどき 田は小声で言った。「 r-o も可哀想だな」特務班からとい違い、風があって、梅雨時に似ない晴れた星空であった。 やっかい う同期の少尉がサイバンに行っていた。 「貴様、気持が落ちつかないんだろう ? 矢野の事で厄介 「久木もどうかな」 を掛けてるからという訳じゃないが、何でもするそ。・フル 「サイバンが陥ちると東京の空襲が始るね」海図にコムパ ーにもう一押し踏み出してみる気はないのか ? 」 スをあてていた広川が言った。 「又その話か」和田は言った。それまでに幾度か、耕二は 「何イルある ? 」和田は立 0 て海図を覗いた 0 「あとは押し強くや 0 てみる事を和田にめていた。 時間の問題だな。敵が四の基地を造るまでに何カ月掛る「迷惑かね ? 」 かいり