四十六歳 昭和四十ニ年 ( 一九六七 ) 三月まで英語の授業を担当。「つむぎ唄」を講談社より刊行。八月、 紀行「郡上八幡」を「朝日ジャーナル」に発表。十月、「石垣いちご」一月、「山高帽子」を「文芸」に発表。「流れ藻」を新潮社より刊行。 三月、「卵」を「朝日新聞 , 日曜版に、七月、「丘の明り」を「展望」に を「文学界」に発表。 四十三歳発表。十一一月、「丘の明り」を筑摩書房より刊行。 昭和三十九年 ( 一九六四 ) 四十七歳 一月、「多摩の横山」を「新潮」に発表。一一月、「鉄の串」を「群像」に発表。昭和四十三年 ( 一九六八 ) 三月、「子供の怪我」を「婦人之友」に発表」証月、「鳥」を講談社より刊一一月、「星空と三人の兄弟」を「群像」に発表。随筆集「自分の羽根」 行。六月、「蒼天ーを「新潮」に発表。七月、「曠野」を「群像」に発表。九月、を講談社より刊行。三月、「雉子の羽」を文藝春秋より刊行。八月、「前 「思い出すこと」を「世界」に発表。「タベの雲」を「日本経済新聞」タ刊途」を「群像ーに、九月、「湖上の橋」を「文学界」に発表。十月、「前 に連載 ( 百一一十七回完結 ) 。十月、「佐渡」を学習研究社版芥川賞作家途」を講談社より刊行。 四十八歳 シリーズ庄野潤三集として刊行。十一月、次兄英二、「星の牧場」によ昭和四十四年 ( 一九六九 ) 一月、「秋の日」を「文芸」に、九月、「紺野機業場」を「群像」に、十一 り野間児童文芸賞受賞。 四十四歳月、「パナマ草の親類」を「海ーに発表。「紺野機業場」を講談社より刊 昭和四十年 ( 一九六五 ) 一月、「つれあひ」を「新潮」に発表。一一月、「冬枯」を「群像」に発行。 四十九歳 表。三月、「行きすり」を「文学界」に発表。「タベの雲」を講談社よ昭和四十五年 ( 一九七〇 ) り刊行。五月、「影」を「群像」に発表。六月、「思いちがい」を「風一月、「小えびの群れ」を「新潮」に、一一月、「年ごろ」を「文学界」 景」に発表。石川県安宅町へ旅行。十一月、「秋風と一一人の男ーを「群に発表。三月、「紺野機業場」により第一一十回芸術選奨を受ける。同 像ーに発表。十一一月、対談「文学を索めて」 ( 小島信夫と ) を「新潮」月、「さまよい歩く二人」を「文芸」に、四月、「野菜の包み」を「群 に発表。この年、イタリアのポン・ヒアニ社より刊行の「現代日本小像 , に発表。六月、随筆集「クロッカスの花」を冬樹社より刊行。 説集」に「道」 ()A STRADA) が収録された。 十一月、「絵合せ」を「群像」に、十一一月、「父と子」を「新潮」に発表。 四十五歳 五十歳 昭和四十一年 ( 一九六六 ) 昭和四十六年 ( 一九七一 ) 一一月、「タベの雲」により第十七回読売文学賞受賞。六月、「まはり道」一月、「仕事場」を「新潮」に、「蓮の花」を「文芸」に、三月、「カーン を「群像ーに発表。七月、福原麟太郎との対談「日本の文壇と英文ルと獅子座の流星群 , を「文学界」に発表。 学ーーー夏目漱石をめぐって」を「英語青年」に発表。十月、「流れ藻」 本年譜は著者自筆年譜に基き編課部 ) を「新潮」に発表。十一月、「詩三つ」を「新潮」に発表。十二月、 「雉子の羽」を「文学界ーに連載 ( 翌年十一月完結 ) 。イタリア、ミラ ノのフェロ出版社より「タベの雲」 (NUVOLE DI SERA) が翻訳 刊行された・
空息子を愛することができない小島信夫は別のところに書い その冒頭の部分に、「彼は女学校の教師をしながらちゃんとし た「父に似る」という文章の中で、「私は終戦の翌年この子ど た画家になろうと思っていた。そして画をかくのを「仕事」だ もが小児マヒになっているところへ復員してきた。私が出征す といっていたし、画家のことを作家だといっていた。そう教え るとき腹の中にいた彼は数えで五つになっていた。私はその後 こんだのは、満子であった。満子は良一が一人前の画家になる と信じていた。」と書かれてある。 この男の子の病気に対して色々と人なみのことはしてきたが、 どうしてもすなおな愛情がわかなかった。何故だか分らない。 一三五ヒゲの剃り合い作品の出だしの部分で、「兄弟というより 妻の強い性格のために、私がこの子に当たっていたのか、それ 夫婦」という表現があり、後になって弗が「僕はきみと絶交す とも私が育てなかったせいか、わからない。おそらく気が弱く る」という手紙を兄に寄せ、その「きみ」という表現で兄に叱 て、私のいいなりになり、そして小児マヒであったせいではな られたりする、というように、この兄弟は奇妙な関係を成して かろうか。この二つのことで私が愛さない、 というのなら実に ふとどきな話である。ふとどきな話だが、ほんとうのような気一三六お前に任せといたら兄は弟に、兄と満子のあいだの「書簡 もする。私はこの状態から逃れようと思った。そしてあまりう 集」の整理をさせている。 まくいかなかった。」 ( 「暮しの知恵」昭和四十一年九月号 ) と一四五都電の切符「理論物理学」を「美しい世界」だと言ったり、 述べているが、ここにあらわされた一一つの方向性と三人の関係 「都電の切符」を「はじめて知った」と言ったりする。満子の は作品自体にも反響していて、そこでは「愛」がどのようにし 生活が判断される手掛りの一つ。 て顔を出すかが作品の主題を形づくっていく。 一奕モナ・リザの像や笛吹きの絵モナ・リザ Monna Lisa( 英 ) は、永遠の微笑を象徴するレオナルド・ダ・ヴィンチの代表的 アメリカン・スクール な絵、笛吹きの絵は、印象派の画家マネの描いた「笛吹くこど も」。 一 0 一一アメリカン・スクール American school ( 英 ) 。終戦後、 アメリカ占領軍が在日アメリカ人の子弟を教育するために設け一合左翼芸術理論良一は「フロレタリア 1 トはプロレタリアー トしかその気持ちが分らぬ。」とも言っていた。肺を病み、プ た学校である。 ロレタリア画家志望で、しかも、プルジョワ的な満子に魅かれ 解一 0 三軍政部一般民政に対して軍事に関しての一切の事務を独立 して行なうところ。 るというところに、良一の矛盾したような全体像があり、作品 注一 0 五国防色陸軍の軍服の色で、茶褐色。カーキ色。 の持っている時代性もある。前記「女流」初出では、冒頭の部 分で良一が「おれが左翼芸術をやめたということか」といって 女流 弟と口論する場面がある。 4- 作家「女流」の初出 ( 「群像ー昭和三十五年十一一月号 ) には、一シモタヤ仕舞屋。商売をやめた家。店を出さない住宅だけ まか しか
昭和三十三年 ( 一九五八 ) 四十三歳鋭文学叢書 3 ・小島信夫集」を筑摩書房から、三月、「女流」を講 一月、長姉ふさゑ、没。毎日ライプラリーの「人生論」に〈おそれと談社から刊行。この年の春から、新潮社の書きおろし長篇「いっか ろう はずかしさ〉を執筆。パリによって、四月帰国。六月、「小さな狼また笑顔を」にかかったが、未刊。四月、「雨を降らせる」を「小 ぜき 藉者ーを「別冊文春秋」に、「広い夏」を「中央公論」に、七月、説中央公論」に、〈ひまわり学級の少年たち〉を「世界」に、〈モデ 「贋の群像ーを「新潮」に、「異郷の道化師」を「文学界」に、九ルとプライ・ハシー〉を「週刊読書人」に、六月、「靴の話」を「新 月、「城壁」を「美術手帖」に、〈アメリカ画家の淋しさ〉を「芸術潮」に、七月、〈大岡昇平のシニシズム〉を「群像ーに発表。九月 新潮」に発表。 末転居、ひとまず昔世話になった国立町の見心寮に住む。十月、妻 がん 昭和三十四年 ( 一九五九 ) 四十四歳の乳癌手術。〈わが家を建てるということ〉を「家庭画報ーに連載 一月、「汚れた土地にて」を「声」に、一一月、「家と家のあいだ」を ( 翌年七月完結 ) 。十一月、「四十代」を「文学界」に発表。 「文学界 , に、〈堅くて重い「私」〉を「日本文化研究」に、四月、 昭和三十七年 ( 一九六一 l) 四十七歳 〈横山操訪問記〉を「芸術新潮」に発表。五月、「夜と昼の鎖」を一一月、「眼。を「新潮」に、「弱い結婚」を「群像」に発表。三月か 「群像」に連載 ( 八月完結 ) 。「墓碑銘」を「世界」に連載 ( 翌年一一月ら九月まで、「大学生諸君 ! 」を「神戸新聞、に連載。四月、「鷹」 完結 ) 。八月、「ある作家の手記」を「新潮」に発表。十月、「実感・を「文芸」に、〈アメリカ文学私見〉を「新潮 , に発表。この月、 女性論」を講談社から刊行。十一月、「棲処」を「新潮」に発表。新築完成間近い国分寺町榎戸五七八に移る。七月、〈日本文学の気 十二月、「夜と昼の鎖」を講談社から刊行。 質ーアメリカ文学との比較において〉を「文学」に、十一月、「郷 昭和三十五年 ( 一九六〇 ) 四十五歳里の言葉ーを「新潮」に、「幽霊」を「現代の眼」に発表。妻の乳 一月、〈中本達也訪問記〉を「芸術新潮」に、一一月、「冷たい風」を癌再発、五月と十月に一一回手術。 「新潮ーに発表。〈阿部知一一ー無念の爪〉を筑摩書房から刊行の「新昭和三十八年 ( 一九六一一 l) 四十八歳 選現代日本文学全集 9 」に執筆。三月、「墓碑銘」を中央公論社か一月、「女の帽子」を「群像」に発表。四月、妻の乳癌が肺に転移。 ら刊行。六月、「家の誘惑」を「新潮」に、七月、「船の上を「群五月、「大学生諸君 ! 」を集英社から刊行。〈私小説と家庭小説〉を 像」に、「小さな歴史」を「文学界」に、「洪水」を「小説中央公「文学界」に、六月、「自慢話」を「文学界」に、七月、「オノサト・ 論」増刊に、八月、〈怒りと笑いと怒りー政治と芸術の間〉を「文トシノ・フ論」を「芸術新潮」に、十一月、「十字街頭」を「群像」 学界」に、九月、〈文学と教育〉を「文学」に、十一一月、「女流」をに、「釣堀池ーを「新潮」に発表。「愛の白書ー夫と妻の断層」を集 「群像」に発表。 英社から刊行。十一月十七日、妻キョ永眠。この朝、〈妻の病気〉 昭和三十六年 ( 一九六一 ) 四十六歳を「日本経済新聞」に発表。 一月、「ガリレオの胸像 . を「自由」に、「ある一日」を「文学界」 昭和三十九年 ( 一九六四 ) 四十九歳 に発表。「夫と妻の断層」を「家庭画報ーに連載 ( 十二月完結 ) 。「新一一月、〈家内の死〉を「東京新聞」に発表。〈梅崎春生ー基準の喪失
三十一一歳を「別冊文藝春秋」に発表。七月、「海の景色」を「中央公論」に、「薄情 昭和ニ十八年 ( 一九五一一 l) 一月、「喪服」を「近代文学」に発表。 = 一月、国立大阪病院長野分院な恋人、を「知性」に、「三つの葉。を「小説新潮」に発表。八月、 で療養中の伊東静雄、死去。四月、「恋文」を「文芸」に発表。六月朝日放送を退社、文筆生活に入る。九月、「かの旅ー伊東静雄回顧」 「先生のこと」を「詩学」に発表。七月、「恋文」「喪服」が上半期のを「文学界、に発表。十月、「ビ = ール水泳服実験、を「文芸」に、 芥川賞候補となる。八月、「会話」を「近代文学」に発表。九月、朝「少年、を「小説新潮」に「緩徐調」を「文藝春秋、に発表。十ニ 日放送東京支社に転勤。東京都練馬区南田中町四五三番地に移転。月、「無抵抗」を「別冊文藝春秋」に発表。この年、母春慧の病気 東京には、前年から東京に来ていた島尾敏雄のほか、この二、三年見舞にたびたび帰省した。 三十五歳 の間に知り合っていた吉行淳之介、阿川弘之、安岡章太郎、小島信夫、昭和三十一年 ( 一九五六 ) 小沼丹、近藤啓太郎、進藤純孝など、ほ・ほ同年代の友人がいた。十一一月一月、「可愛い人」を「婦人朝日」に発表。文庫本「フールサイド小 景」を角川書店より刊行。一一月、次男和也、誕生。三月、「勝負」を 「流木」を「群像」に発表。最初の創作集「愛撫」を新潮社より刊行。 三十三歳「文芸」に発表。四月、「机ーを「群像、に、「離れ島ーを「小説公園」 昭和ニ十九年 ( 一九五四 ) この年の初め頃から杉並区清水町に井伏鱒一一を訪ねる。一月、「噴に発表。母春慧、死去。五月、「旅人の喜び」を「知性、に連載 ( 翌年 水」を「近代文学」に発表。一一月、「臙脂」を「文学界」に発表。一一一月、二月完結 ) 。「孔雀の卵、を「小説新潮」に、「スカランジ = 口さん」 「流木」を「文藝春秋」に発表。六月、「里、い牧師、を「新潮」に、「桃を「小学六年生 , に、「〈ミングウ = イ」を「近代文学」に、「ダゴン 李、を「文学界」に、「団欒」を「文芸」に発表十月、「結婚」を「文学界」にさんの恋人」を「オール読物」に発表。六月、「ナイター」を「別冊 文藝春秋」に発表。七月、「ザポンの花」を近代生活社より刊行。八 発表。十一一月、「フールサイド小景」を「群像 - に発表。 三十四歳月、「黄色いガウン」を「若い女性」に発表。九月、「夢見る男」を 昭和三十年 ( 一九五五 ) 一月、「異端糾問」を「近代文学」に発表。母春慧危篤となり、家族「小説新潮」に発表。十月、「不安な恋人」を「文学界」に、「会話の を連れて帰省、看護にあたる。脳血栓であったが、次第に意識を回練習」を「小説公園。に発表。十一月、「 ( ンモック」を「オール読 復した。「プールサイド小景」により、第三十一一回芥川賞受賞。外島物」に、「梅崎春生論」を「文芸」に発表。十一一月、「太い糸」を「別 信夫の「アメリカン・スクール」と一緒であった。二月、「伯林日冊文藝春秋、に、「家族旅行の楽しさ」を「旅」に発表。 三十六歳 記」を「文芸」に発表。「プールサイド小景」をみすず書房より刊昭和三十ニ年 ( 一九五七 ) 行。三月、「鵞ペン」を「別冊文藝春秋、に発表。「文学界」同人雑誌一一月、「ある町」を「群像しに、「独身」を「小説公園」に発表。この ーの旅」を頃より夏にかけて、剃刀負けによるアレルギー症に苦しむ。六月 現地座談会出席のため札幌へ行く。四月、「・ハングロー ーの旅」を現代文芸社より 「文芸」に発表。「ザポンの花」を「日本経済新聞」タ刊に連載 ( 百「父」を「文学界」に発表。「・ ( ングロー 五十二回完結 ) 。新書判「結婚」を河出書房より刊行。五月、「兄弟」刊行。七月、「自由な散歩、を「小説新潮」に発表。八月、「私のパタ を「新潮」に、「雲を消す男」を「文学界」に発表。六月、「帰宅の時」シ、」を「新女苑ーに発表。ロックフ = ラー財団の招きによりアメ
た ( 野、近藤、島尾、結城、五味のほか、奥野、日野、進藤などの批評行。八月から十二月まで、「島」を「群像」に連載・九月、「凧」を ュリイカから六十部限定で、十月、短篇集「チャベルのある学校」 を書いている連中がいた。四月、「大地ーを「文学界」に、七月、 「雨の山ーを「同時代ーに、八月、「吃音学院」を「文学界ーに、十を筑摩書房から刊行。十一月、〈抽象的傾向の文学〉を「東京新聞」 に、十二月、「声」を「文学界ーに発表。 一月、「丹心寮教員宿舎」を「同時代」に発表。十一一月、短篇集「小 銃」を新潮社から刊行。 昭和三十一年 ( 一九五六 ) 四十一歳 三十九歳一月、「離れられぬ一隊」を「文芸」に、「ある掃除夫の観察 , を 昭和ニ十九年 ( 一九五四 ) 「同時代」をやめた。二十年来つきあってぎた友人と事実上別れる「新日本文学」に発表。一一月、「島」を講談社から刊行。四月、「遅 ことになった。三月、〈近代文学の功罪ー戦後文学と第三の新人〉をれる男ーを「文学界ーに、五月、「勝手な人」を「群像」に、〈摩擦 コニ田文学」に発表。四月、小石川高校をやめ、明治大学工学部教養音の如きグロテスク〉を「新日本文学」に、〈我が精神の姿勢〉を 課程の教師になる。四月、「星」を「文学界」に、「吃音学院」を芥「文学界ーに、九月、「無限後退」を「新潮」に、十月、「裁判」を 川賞候補作として「文藝春秋」に、六月、「殉教」を「新潮ーに、「城「文芸」に連載 ( 十一一月完結 ) 。〈人間像より人間〉を「文芸」に、十 一月、「巡視」を「世界」に、〈消減の文学ー武田泰淳論〉を「文 砦の人」を「群像」増刊号に、七月、「最後の慰問演芸」 ( のちに 「護送者」と改題 ) を「小説公園 , に、「微笑」を「世潮」に、八月、芸」に、十一一月、「愛の完結」を「文学界」に発表。十二月、「裁 「家ーを「近代文学」に、「馬」を「文芸」に、九月、「アメリカン・判」を河出書房から刊行。 スクール」を「文学界」に発表。短篇集「アメリカン・スクール」 昭和三十ニ年 ( 一九五七 ) 四十一一歳 をみすず書房から刊行。十一一月、「神」を「文学界」に、〈分類ー「第一一月、「教壇日誌」を「別冊文藝春秋ーに、〈消去の論理ーカフカに 三の新人」と呼ばれて〉を「朝日新聞」に発表。〈時間の傷痕ー・フおける抽象性について〉を「文芸」に、三月、「黒い炎」を「群像」 ロンテ「嵐ヶ丘」〉を岩波書店刊行の「文学の創造と鑑賞」に執筆。に発表。四月、ロックフェラー財団の招きでアメリカへ出かけた。 四十歳はじめアイオワ州のアイオワ市の大学付近にいたが、その後、農家 昭和三十年 ( 一九五五 ) 一月、「犬」を「文芸」に、「狸」を「新日本文学」に発表。この月、に住み、十一月、南部ルイジアナ州の北方にあるグランプリングと いう黒人のカレッジ、黒人の大学をまわってニューヨークに出た。 譜「アメリカン・スクール」で第一一一十一一回芥川賞を受賞。三月、短篇集 「微笑」を河出書房から刊行。四月、「憂い顔の騎士たち」を「知性」それからフィラデルフィヤのクエーカー教徒の道場のある・ヘンデ に、「温泉博士」を「文学界 , に、「鬼」を「三田文学」に発表。「アル・ヒルに滞在した。五月、〈思想と表現ーゴーゴリ、ドストエフ 年メリカン・スクール・殉教」を新潮社から刊行。このころ中野区仲スキー、カフカ〉を角川書店刊行の「現代教養講座 6 」に執筆。七 町一〇の同じ番地の斜め西の上の家へ移る。五月、「音」を「新潮」月、「神のあやまち」を「キング」に発表。短篇集「愛の完結」を に、「チャベルのある学校」を「世界」に、六月、〈待伏せするもの〉講談社から刊行。八月、角川書店刊行のサローヤン「人間喜劇」 ( 訳 を「新潮」に発表。この月、短篇集「残酷日記」を筑摩書房から刊著 ) の解説〈善人部落の寓話〉を執筆。
四十歳 リカに留学することになり、妻千寿子とともに一一十六日、クリー・フ昭和三十六年 ( 一九六一 ) 一月、紀行随筆を「いけ花龍生」に連載 ( 十一一月まで ) 。一一月、「湖中 ランド号で横浜港出帆。サン・フランシスコ、ロサンゼルス、グラ ンド・キャニオン、シカゴを経て、九月初旬にケニョン大学のあるの夫。を「新潮」に発表。三月、「花」を「小説中央公論」に発表。「群 オ ( イオ州ガンビアに到着。詩人のジョン・クロウ・ランサム教授像」の座談会「私小説は減びるか」に出席 ( 亀井勝一郎、上林暁 あい、やく と ) 。四月、「マッキー農園」を「文学界」に、「グランド・キャニオン」 に住居や聴講手続などで世話になる。十月、「相客」を「群像」に、 つりばし 「詩人・生活」を「文学界 , に発表。十一月、「吊橋」を「オール読を「風景」に、「セーラの話」を「小学六年生 , に発表。神奈川県川 崎市生田九〇八八番地に転居。六月、次兄英二、自家版「ロッテル 物」に発表。十一一月、ワシントンに旅行。 三十七歳ダムの灯」によりエッセイスト・クラブ賞受賞。七月、「群像」の創 昭和三十三年 ( 一九五八 ) 三月、・ ( スで南部 = 、ー・オーリンズへ旅行。六月、ニ、ーヨーク、作合評に出席 ( 安部公房、三島由紀夫と ) ( 九月まで ) 。八月、次兄英 ポストンを経て、カナダ国境へ旅行。八月、クリー・フランド号で帰一一と長野県御代田へ旅行。九月、「二つの家族」を「新潮」に発表。 国。十一一月、「五人の男」を「群像、に、「イタリア風」を「文学界」書きおろしの「浮き燈台」を新潮社より刊行。十月、「リッチソン夫 妻」を「群像ーに発表。十一月、「一夜の宿 , を「文学界」に発表。 に、「梶井基次郎ーを「文学者」に発表。 三十八歳アメリカのま THE LITERARY REVIEW ・・誌秋季号「戦後日 昭和三十四年 ( 一九五九 ) 一月、「南部の旅」を「オール読物、に発表。三月、「父母の国 , を本文学特集号」に「フールサイド小景」が収録された。 四十一歳 「婦人之友ーに、「話し方研究会」を「別冊小説新潮」に発表。書ぎ昭和三十七年 ( 一九六一 l) おろしの「ガンビア滞在記」を中央公論社より刊行。「群像」の小説一月、「近代文学」座談会「戦後文学の批判と確認ー島尾敏雄ーその 執筆のため、次兄英一一の友人の住む和歌山県九度山町へ行く。四仕事と人間」に出席 ( 二月まで ) 。四月、「道、を「新潮」に発表。五 月、十和田操と武蔵嵐山、越ヶ谷に遊ぶ。七月、「・フリヂストン・ = 月、紀行「天龍川をさかのぼる」を「旅、に発表。六月、「雷鳴」を , ース、の原稿執筆のため、岐阜県御母衣へ旅行、ダムを見学。九「文学界」に、「熊谷守一の回顧展、を「芸術新潮」に発表。七月、 ・イングランドびいき」を「婦人画報」に発表。十月、「薪小屋」を「群像」に発表。「道」を新潮社より刊行。八月、「日ざ 月、「ニュー 譜「静かな町」を「別冊小説新潮」に発表。十一月、「懿」を「群像」に発表。かり」を「新潮」に発表、「つむぎ唄」を「芸術生活」に連載 ( 翌年 三十九歳七月完結 ) 。「文学を志す人々へーある夏の読書日記」を「群像、に 昭和三十五年 ( 一九六〇 ) 六月、「静物」を「群像、に発表。七月、「なめこ採り」を「文学界、発表。十月、「休日、を「文芸」に、「写真家スナイダー氏ーを「風 年に、「土人の話」を「小説中央公論」に発表。八月、「グアム島の日本景、に発表。十一月、「老人」を「新潮」に発表。 四十一一歳 昭和三十八年 ( 一九六 = I) 兵」を「新潮」に発表。十月、コ一人の友ーを「声ーに発表。「静物」 を講談社より刊行。十一月、「王様とペンギン , を「婦人之友」に発一一月、「橇」を「文学界 . に発表。「旅人の喜び」を河出書房より刊行。 七月、「鳥」を「群像ーに発表。早稲田大学文学部講師として、翌年 表 ( 十一一月完結 ) 。「静物」により第七回新潮社文学賞を受ける。
へ〉を新潮社から刊行の「現代日本文学全集」に執筆。三月、を担当 ( 十一一月まで ) 。七月、〈自由な「新しさ」ということ〉を「群像」 「新日本文学全集九巻・遠藤周作・小島信夫集」を集英社から刊行。に発表。八月、「愛の発掘」を講談社から刊行。十月から「別れる理由 〈座談会・第三の新人〉を「群像」に、四月、「街 , を「世界」に、 ( 町 ) 」を「群像」に連載、今日に至る。十月、〈小説と演劇についてのノ 〈サリンジャー私論〉を「文学」に、五月、「返照」を「群像 , に発 ト〉を「不死鳥」に、〈教師と学生〉を「新潮」に発表。 表。六月、浅森愛子と結婚。七月、〈無償の希望〉を「日本」に、 昭和四十四年 ( 一九六九 ) 五十四歳 十月、〈小説風人物論ー安岡章太郎〉を「群像、に発表。 一月、「花・蝶・犬・人」を「新潮」に、〈東大よ、もっと苦しめ〉 昭和四十年 ( 一九六五 ) 五十歳を「中日新聞」に、一一月、〈現代における神と悪魔・大学問題〉を 三月、「愉しき夫婦」を学習研究社から刊行。七月、「抱擁家族」を「マイウ = イ」に、三月、「坂」を「文学界」に、四月、「隣人」を 「群像」に発表。〈座談会・文学と資質〉を「文芸」に、〈成熟の門 「文芸」に、「山門不幸 , を「季刊芸術」に発表。八月、不動工房刊 題などー「第三の新人」とアメリカ文学〉を「文芸」に発表。九行の平光善久詩集「骨の遺書」の序文を執筆。 月、「抱擁家族」を講談社から刊行。十一月、〈「抱擁家族」ノート〉昭和四十五年 ( 一九七〇 ) 五十五歳 を「批評、に発表。十一一月、「実感女性論」改装版を講談社から刊一月、「腕章」を「文学界」に、「おの・ほりさん」を「新潮」に、 行。〈対談・文学を索めて〉を「新潮」に発表。 〈小説は通じ得るか〉を「文芸」に発表。五月、短篇集「階段のあがり 昭和四十一年 ( 一九六六 ) 五十一歳はな」を新潮社から、評論集「現代文学の進退」を河出書房新社か 一月、「疎林への道」を「群像」に発表。三月、「小島信夫文学論ら刊行。八月、南雲堂刊行の「講座・アメリカの文化 6 」に〈 = ダ 集」を品文社から刊行。四月、「手紙相談」を「文学界」に発表。ヤ系作家の進出〉を執筆。十一月、戯曲「どちらでも」を「文芸」 短篇集「弱い結婚」を講談社から刊行。五月、「獣医回診」を「新に発表。「どちらでも」を河出書房新社から、短篇集「異郷の道化 潮」に、八月、「郵便函」を「文芸」に発表。九月、「抱擁家族」で師」を三笠書房から刊行。十一月七日、弟日出夫、没。十一月十四 第一回谷崎潤一郎賞を受賞。十月、「階段のあがりはな」を「群像」日から三十日まで、俳優座劇場で「どちらでも」を上演。 に発表。十一月、「文芸」賞審査員を担当、現在にいたる。 昭和四十六年 ( 一九七一 ) 五十六歳 譜昭和四十ニ年 ( 一九六七 ) 五十一一歳一月、「観客」を「文学界」に、「人探し」を「新潮」に、〈「どちら 六月、「われらの文学Ⅱ・小島信夫」を講談社から刊行。新潮文庫版でも」稽古立会日誌〉を「季刊芸術」に発表。「小島信夫全集」 ( 全 「アメリカン・スクール」を新潮社から刊行。七月、〈永遠の弟子ー草六巻 ) を講談社より刊行 ( 現在、刊行中 ) 。四月、評論集「小説家の 年平と漱石についてのノート〉を「季刊芸術」に、八月、〈現代と諷刺日々」を冬樹社から刊行。昭和四十四年四月から「潮」別冊 ( 季刊 ) 文学〉を「文学」に、十月、〈作家のディレンマ〉を「不死鳥」に発表。に連載の〈私の作家評伝〉は、〈徳田秋声〉、〈夏目漱石〉、〈森外〉、 昭和四十三年 ( 一九六八 ) 五十三歳〈有島武郎〉、〈島崎藤村〉、〈二葉亭四迷〉、〈岩野泡鳴〉、〈高浜虚子〉、 一月、「町」を「群像」に連載 ( 九月完結 ) 。朝日新聞の〈文芸時評〉〈田山花袋〉と続き、現在連載中。
三月、世田谷区松原町の武蔵アパートに移る。三月、東京帝国大学岐阜市中竹屋町の清水屋旅館に移る。九月、岐阜師範学校に勤めた。 三十一一歳 Ⅷ卒業。卒業論文はサッカレイのことを書いた。「 = ーモリストとし昭和ニ十ニ年 ( 一九四七 ) てのサッカレイ」という題で、独創的なつもりだったが、乙でがっ四月一一十八日、長女かの子出生。九月、岐阜市高見の岐阜師範学校 かりした。四月、私立日本中学の英語教師になる。四月末あるいは学生寮望峰寮へ移る。 三十一一一歳 五月、徴兵検査、第一乙種合格。 昭和ニ十三年 ( 一九四八 ) 一一十七歳四月、千葉県佐原女学校に勤め、教員住宅に住む。五月、金沢の本 昭和十七年 ( 一九四一 l) 一月末、松原町のア・ ( ートを引き払って岐阜へ帰る。緒方キョは佐屋から「同時代」を創刊。創刊号に「汽車の中」を発表。同人は、 賀県の実家へ移る。一一月一日、岐阜の中部第四部隊へ入隊。十日た岡本謙次郎、宇佐見英治、原亨吉、矢内原伊作、白崎秀雄。 三十四歳 って北支の大同へ連れて行かれ、すぐ一一十里ほど離れた渾源へ移昭和ニ十四年 ( 一九四九 ) 一月、「佐野先生感傷日記」を「玄想」に発表。四月、佐原の奥の利 り、五か月間訓練を受けた。一期の検閲後暗号兵の教育をうける。 幹部候補生の試験を受けたが、内務班の席列は一番よかったのに、根川を越えて奥に入った八筋川の女生徒の家の蔵を借りて住み、そ たた こから学校まで三里の道を通う。この月、母はっ乃、名古屋で没。 十三名のうちただひとり落ちた。学生時代に教官に言ったことが祟 九月、東京都立小石川高等学校へ移った。家族を佐原の耳鼻咽喉科 ったらしい。五月一一十七日、長男一男、出生。 一一十八歳医院の病室を借りて移し、単身で東京の早稲田諏訪町一一五にある旅 昭和十八年 ( 一九四一一 l) 三月、上等兵に進級。夏、今堀部隊 ( 泉五三一五部隊 ) の一員とし館に下宿。十一月、「卒業式」を「潮流」に発表。 えんぎん 三十五歳 昭和ニ十五年 ( 一九五〇 ) て山東省塩山に移る。 一一十九歳三月末、小石川高校の寮である国立市の見心寮に移る。 昭和十九年 ( 一九泗 ) 三十六歳 大同へもどり、のち朔県で暗号兵として勤務し、春、ひとり転属し昭和ニ十六年 ( 一九五一 ) えんきよう て北京の燕京大学の中にあった情報部隊で通信訓練を受けた。転属三月、中野区仲町一〇に移る。明治大学文学部講師を兼ねる。 昭和ニ十七年 ( 一九五一 l) した直後、原隊の今堀部隊はレイテヘ転進、全減した。 」」汁叱歳 三十歳二月、「ふぐりと原子ビストルーを「草原」に、四月、「燕京大学部 昭和ニ十年 ( 一九四五 ) 八月十五日、終戦。領事館や司令部で渉外事務に従事。十一月、三隊を「同時代」に、十一月、「燕京大学部隊四 ~ 旧」を「同 時代」に発表。このころ、森敦氏と知り合う。十二月、「小銃 , を 姉照子、没。 三十一歳「新潮ーに発表。 昭和ニ十一年 ( 一九四六 ) 三十八歳 一月、北京を出発、天津の貨物廠で待機したのち、三月四日、佐世保昭和ニ十八年 ( 一九五三 ) しんばく で復員。六日頃、岐阜にもどり、本巣郡上川内に疎開していた妻子と一一月頃、「文学界ーを通じて親睦会があるという案内状が、三浦、 しよくたく 会い、県庁の渉外課に嘱託として勤めた。四月、義姉藤江、没。五月、武田 ( 繁 ) 、吉行などの名前で来たので出席してみると、安岡、庄
二十六歳 月、友人と父の郷里・徳島に旅行〔剣山に登ゑ九月、再び朝鮮を昭和ニ十ニ年 ( 一九四七 ) ーマと黒猫」を「文学雜誌」に発表。以後、同誌に習作 経て満州に旅行。目的は東京城に淋国の首都上京龍泉府の跡を訪四月、「ビ、 ねることであった。十一月、徴兵検査を受け、甲種合格。帝塚山の発表の場を与えられ、励みになった。この頃、藤沢桓夫を初めて訪 自宅で初めての小説「雪・ほたる」を書く。これは、伊東静雄の紹問。六月、「青葉の笛」を「午前」に発表。この夏、「チ = ーホフ著作 介文とともに、翌年四月、同人雑誌「まほろば」に掲載された。十集」を耽読、読書ノートを作った。十月、長女夏子生まれる。十一一 一一月、広島県大竹海兵団に入団。大学はまだ一年あったが、翌十九月、「恋文 , を「新現実」に発表。 昭和ニ十三年 ( 一九四八 ) 一一十七歳 年十月付で卒業証書が授与された。 一一十三歳四月、「銀鞍白馬」を「文学雑誌」に発表。泉田行夫主宰の児童劇団 昭和十九年 ( 一九四四 ) 一月、武山海兵団にある海軍予備学生隊に入隊。七月、館山砲術学「ともだち劇場」のためにウィリアム・サロウャンの『わが名はアラ はたん、よう への旅」を劇化し、「巴旦杏の木の下」と題 校に移り、対空射撃訓練を受けた。十一一月、清水市駒越の砲台に隊ム」から「 ( ンフォード して上演。学制改革のため、今宮高校より大阪市立南高校に転勤。 長として勤務していた長兄を訪ね、一泊。海軍少尉に任官。 昭和ニ十年 ( 一九四五 ) 一一十四歳十一月、長兄一、死去。 ムにん 一一十八歳 一月、比島に赴任するべく佐世保に集結していた折、米軍が比島に昭和ニ十四年 ( 一九四九 ) すいばん 上陸したため、南方行士官はすべて配置変更された。一一月、大竹潜四月、島尾敏雄の推輓により「愛撫」を「新文学ーに発表。この作 品に関して鎌倉市極楽寺の中山義秀から葉書を貰う。「兄弟ーを「文 水学校を経て館山砲術学校勤務を命ぜられ、庄野隊を編成。さらに 伊豆半島の海岸基地部隊に所属して、米軍上陸に備えて砲台を建設。学雑誌 , に発表。七月、「群像」の「創作合評」 ( 青野季吉・中山義秀・ 八月、終戦により復員。立川の陸軍飛行隊にいた弟至も復員。清水荒正人 ) で「愛撫」が取り上げられ、同誌より初めて小説の注文を の長兄一は残務整理を終えて復員。十月、大阪府立今宮中学 ( 旧受ける。八月、「十月の葉ーを「文学雑誌」に発表。 二十九歳 昭和ニ十五年 ( 一九五〇 ) 制 ) に奉職、歴史を担当。 一一十五歳一一月、「舞踏ーを「群像」に発表。これは同誌四月号の創作合評 ( 宇 昭和ニ十一年 ( 一九四六 ) 譜一月、浜生千寿子と結婚。詩「チ = ル = のうた」を藤沢桓夫編集の野浩一一・平野謙・高見順 ) に取り上げられた。八月、「スラヴの子守 「文学雑誌」創刊号に発表。五月、前年に奄美大島より復員した島唄 , を「群像」に発表。十月、「メリイ・ゴオ・ラウンド」を「人間」 、ゆうせ 尾敏雄、山形県鶴岡市に疎開していた林富士馬とともに同人雑誌に発表。父貞一、急逝。 三十歳 年「光燿」を刊行したが、物価騰貴のため印刷できなくなり、三号で昭和ニ十六年 ( 一九五一 ) 廃刊。「光耀 . という名前は客員の立場で援助していた伊東静雄が考九月、朝日放送に入社、教養番組制作を担当。長男龍也、誕生。 三十一歳 えたもの。六月、次兄英二、レン・ ( ン島より復員。七月、「罪」、十一昭和ニ十七年 ( 一九五一 l) 四月、「紫陽花ーを「文芸」に発表。 月、「淀の河辺」を「午前」に発表。
氏が学途半ばにして、海兵団に入るのは、法文系学 生の徴兵猶予令の廃止となった昭和十八年十一一月のこ とだが、その前夜ともいうべき、戦争さなかの学生時 代に取材して、氏は昭和四十三年に長編「前途」を書 いている 一学徒の日記という形式だが、あの時代の現実感を 息吹かせるのに、実にあざやかな効果をあげている。 戦争という目的に向って一切が強力に統制された時代 であったが、そのために庶民の生活秩序は、めちゃく ちゃになった。明け暮れは、断片的な生活の明滅でし で年を、 ) き かなく、因果をたどって物語れるようなものはまるで 宮一り月好頃なか「た。あるのはただ、 庶民の呼吸の断片ばかり。 原兄め年が年 貶そういった時代の真実を盛るのに、日記という形式を 」橿 , 峡盟ビ和 既三嵐酥グ昭選んだ庄野氏の手は確かだ 11 、、イ 第 ( ・一フ 本当に、あの時代は、戦争に目を奪われ、振りまわ 、 1 月 , 都三 3 至京潤代潤されて、本質的なものを見分ける術を失った。戦場に 年弟で端時 駆り立てられてしまえば、選択も判断も無用、ただ命 船右学な 母形。中。令のままに動くまで。しかし、まだ庶民生活の中にと 紀父屋族吉た 分別に迷いつづけなければなら 家住つどまっている限りは、 よ上るあなかった。 上左右す右で 468