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検索対象: 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集
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1. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

青木氏は出勤を始めることにした。 暗闇の中で夫がじっとして何か考えている様子だった。 十日間の休暇は、終ったのである。子供たちが、「いっ 「眠れないの ? 」 までお休み出来るの ? 」と尋ねるようになった時、もう休 彼女が声をかけると、夫は急いでそれを打ち消すよう暇を切り上げるべき時期が来ていたのだ。 それに近所の人たちの中に、何となく疑わし気な眼で青 のが 「いいや、いまウトウトしかけているところなんだ」 木氏を見る者が出て来たことを見逃してはならない。現に それから、ちょっとして、 買物に行った先で、彼女に向って探りを入れるような質問 「だいぶ昼寝したからな」 をした奥さんもいたのである。 と、云った。 こういう秘密は、驚くべき速さでひろがってしまうもの 「眠れるおまじない、して上げようか ? 」 だ。近所に同僚の家は無かったが、どんなところから噂が 彼女はそう云うと、夫の顔の上に自分の顔をそ 0 と近づ伝わ 0 て来ているかも知れないのだ。 ける。二人の眼蓋がふれ合うくらいの距離になる。 とも角、子供たちのことを考えると、休暇だと初めに云 * あいぶ おまじない、ではない。これは彼女が発明した愛撫の方った以上、時までもこうしているわけには行かない。そ 法なのだ。睫毛の先と先とが重なるようにして、眼ばたきしてそろそろ新しい勤め口を探しにかからねばならないわ を始める。 けだ。そこで、青木氏は朝、いつも会社へ出かけていた時 景自分の睫毛のまたたきで相手の睫毛を持ち上げ、ゆすぶ刻に家を出かけることにしたのである。 るのだ。それは不思議な感触だ。たとえば一一羽の小鳥がせ イっせとおしゃべりに余念がないという感じであ 0 たり、線最初の日。夫が出かけて行くと、彼女は何となくグッタ ル香花火の終り近く火の玉から間を置いて飛び散る細かい模リしてしまった。彼女の心には、夫が晩夏の日ざしの街を プ様の火花にも似ている。 当てもなしに歩いている姿が映る。雑沓の中にまぎれて、 暗い夜の中で、黙って彼女は睫毛のまばたきを続ける。知った人に出会うことを恐れながら、おぼっかない足取り しす それは、慰めるように、鎮めるように、また不意に問うよで歩いている夫の悩ましい気持が、そのまま彼女に伝わっ とが うに、咎めるように動くのだ。 て来るのだ。 ざっとう うわさ

2. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

398 気はしない な口惜しがって泣いたのよ」 とその人が思い出して話していた。そう彼女は云った。 「今はこんなに太っているので、・ハレーの選手をしていた河原田の営業所前で私は・ ( スを降り、待合室で相川行き と云っても信用してくれないんです」 の・ハスが来るのを待った。 と彼女は云った。 外から入って来た男が、椅子に腰かけている年輩の紳士 に声をかけた。 「やあ、どこへ ? 」 昨夜・ハスから降りた時には、人家が一軒もないさびしい ところだと思った。ところが、九時十五分の・ハスを待った「相川へ」 めに待合所に坐っていると、道路の向う側に一軒、家があ道路の向う側を黒と白のぶちの犬が歩いて行く。胴が長 って、ラジオのアナウンサ 1 の声が聞えて来る。 くて脚が短かくて、ダックスフント型のような犬である が、こんなところをのろのろ歩いているところを見ると、 「「私の本棚』五回目を終ります。明日は六回目です」 ただダックスフントに似ているだけの雑種の犬に違いな と云っている。 「こういうところでラジオをかけている人もいる」 「やあ、どこへ ? 」 と私は田 5 った。 ゆくえ かつおぶしのり と私は聞くかわりにその行方を見ていると、アイスクリ このラジオで浦部氏は、誰かが鰹節と海苔の弁当のこと 1 ムの箱を前に出してある駄菓子屋を通り過ぎて、そこで を話しているのを聴いたのだ。それはひと月ほど前のある 朝のことで、その時、浦部氏の家のあたりも多分、こんなちょっと立ち止まってから、隣りのお寺の門へ曲った。 この駄菓子屋にはバスの車掌が二人、ミルクを飲みに入 風に静かであったのだろう。 私はいまここにいて、ひとりで・ ( スを待っている。これっている。あとからまた二人入って来た。 相川行きの・ハスが来た。私が旅館の女中に教わった停留 まで考えたこともなかった佐渡へやって来て、ここにし る。 所の名前は、沢根質場というのであった。それはうつかり それは不思議と云えば不思議で、何でもないと云えば何すると忘れてしまいそうな名前であったが、降りたところ なか くつか商店が並んで は田舎の道によく見かけるような、い でもない。幻の橋と見えるものを私は渡って来たのだが、 にぎや はいるが、賑かではなく、そうかと云ってまるきりさびし ここにこうしていると、何も不思議なことが起ったという

3. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

らも恨まれず、学校の先生は無償で教えてくれ、誰も喜んうになってしまった。わしが三十七、妻が一一十五の時や。 でくれている。校舎も古てを市から貰ったものや。トラッ 二月たっと帰ってきたが、その間わしは妻を探しにも行か おとさた なんだし、先方も音沙汰がなかった。皆の衆も知っとるよ クも二台あるし、わしの伜の清市が運転しとるトヨペッ ト・クラウンも、あれは半分は同志の会員が寄付してくれうに、わしらは夫婦といっても妻はもともとわしの妻では たものや。あとの半分の金にしても、アメリカ産の種豚なない。わしは何も妻の夫というわけではない。わしのもの どを買った時とおなじように、余剰金から出したものやではない。わしは妻のものではない。妻にわしは、帰って ただ が、もともとみんなの金で、もとは奉仕から自然と出てきこなんだ理由というものは只の一度もきかなんだ。 ところがそれから一月もたたぬうちに山岡さんは店をた たものや。 ここへ移っ 皆の衆、わしとわしの妻の像はあそこの庭の小高いとこたんで、自分の家内の茂子さんといっしょに、 てきた。そのときの山岡さんの家はそっくりここへ寄付さ ろに立っとる。わしらは夫婦といえども互いに拝み合う。 世間の人は道で会っても拝むようになっとるが、わしが拝れて、いろいろに使ったが、今は私の住居になっとる。わ んで托鉢をしとる二、三歩あとを、妻がおんなじように拝しは良子さんにも山岡さんにも山岡さんの妻の茂子さんに んで歩いとる像や。頼みもせんのに、奇特な仁があんなもも何もきかなんだが、茂子さんがわしに話したところで のをこさえてくれて、人眼につくところにそなえつけ、市は、茂子さんは妻の良子さんが女学校の教師をしとったと を遠く見晴らすようにしかけてあるんやが、どうせあれはきの教え子やったそうや。わしの妻の良子さんは、はじめ いっかは、石といえどもこわれてしまう。わしの妻は、むから山岡さんの家に住みこんでいたわけやのうて、はじめ ギ・ウ は、親セキの家におった。そこから夜になると、山岡さん かし皆の衆と別れ別れになって市へ行に出かけたときに、 ある商人の家で便所の掃除をさせてもらった。わしもようの家へ出かけて行き、泊るうちに山岡さんの妻の茂子さん 頭知っとる山岡という家や。わしも掃除をさせてもらって御の方が外へ出るようになり、茂子さんは寝泊りさせてもら ちそう っている友達の家から、自分の家の外へやってきて、二階 馳走になったことがあり、わしに話をきかせてくれという 字 にいる夫に声をかけるのやそうや。が、妻はどうしても帰 ので、下らん話をしたことがあった。どうせわしの話やで 十 自分の今まで歩んできた道をくりかえし話しただけのことらんようになったのやそうや。わしは妻をムリャリにわし やが、大へん感心してくれたように思った。それから一一度の妻にしたわけやない。やはり妻の実家に行に行き便所掃 くろかみ ばかり妻の良子さんはそこへ行に行ったが、帰ってこんよ除をさせてもらううちに、まだ一一十二の娘やった妻は黒髪 せがれ

4. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

香川県・小豆島 右それから彼は宿屋から近くの醤油会社へ 電話をかけて、機械のついた漁船を急いで一 艘用意してもらうように頼み、更に警察へ遭 - そ、・さく 難を知らせ、付近海岸からの捜索を求めた。 上その年の夏、八月中旬に劇研究会は小豆 島へ恒例の地方公演に出かけた。一行は二十 まがら 四人で、そのうち女子部員が四人、真柄涼子 もそのうちの→んであった。 ( 「流木」 ) 小豆島・内海湾東岸近くの醤油会社

5. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

が鳴った時、ワン・ビースの服に着換えて外出の用意をしでもなく、そのポーイ・フレンドと話すのでもなく、じっ としている。外出を急ぐ風でもなかった。 芻て出て来た。 さっき電話をかけて来たクララのポーイ・フレンドが来アンジェリーニ氏は若い二人を気にかける様子がなく、 たのであった。同じカレッジの学生らしく、髪は短く刈っさっきの続きの、「アメリカの妻」についての議論を続け ていて、まだ子供子供した顔をした青年である。 ようとした。矢ロは遠慮して、声を弱めた。これから遊び 母親からも父親からも、入ってお茶を飲んで行くように に出かける一一人には、こういう話を聞かせられるのははた 云われると、素直にみんなのいるテー・フルへ来た。 迷惑に違いない。 いかにも育ちのよさそうな青年で、アンジェリーニ氏が やがて青年がコーヒーを飲んでしまうと、二人は立ち上 矢ロたちを紹介すると、手を差し出して挨拶した。この青った。クララは豊子と矢口に向って途中でこの席を離れる うれ 年には、しかし矢ロたちに対する興味は全く無さそうに見ことを詫びてから、「家へ来てくれたことを嬉しく思いま すーと云って握手をした。 えた。 矢ロはその手が女のように柔いので、それが少しばかりそれから両親に、「行って来ます」という風にちょっと 声をかけて、戸口のところで待っている青年と一緒に外へ 気持に引っかかた 出て行った。 「コーヒー・カししか、一アイーか ? ・」 と母親が聞くと、コーヒーを青年が頼んだ。気の無い返アンジェリーニ氏と矢ロの話は続けられた。 ことわざ 「日本にこんな諺がある」 事であった。二人ですぐに何処かへ出かけるつもりで来た と矢ロは云った。 のだから、それも無理からぬことであった。 アンジェリーニ老人は、この間も日本語の勉強を休まず「「男子は外に出ると七人の敵がいる』という諺だ。妻は 続けていた。今度は古いノートに書き写した日本語教授の七人の敵と戦って家へ帰って来た夫に慰めと休息を与える 講義録らしいものを持ち出して来て、読んでいた。ずいぶ役目を持っている」 うなず ん云い廻しが古風なので、よほど昔に学んだものらしく思 アンジェリーニ氏は頷きながら聞いていたが、真面目な ↓ 4 / 顔で、 「八人目の敵が家にいる」 クララが運んで来たコーヒーを、青年は黙って受け取っ と云った。 て飲んだ。クララはその近くに坐って、みんなの話を聞く あいさっ

6. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

とんでもないことをいい出したものだ。そこで私たちは家へ。だから、帰られたらこっちがこわいから、もういわ 急いで「つるかめ、つるかめ」といった。縁起でもないこない 0 て約東して、行 0 たの、そのまま。それで、・ ( ウム とを口にした時は、すぐにこういっておかないといけなク 1 ヘン買って、帰りに家まで競走しようといって、店か ら出て走ったの」 「つるかめ、つるかめ」 「どっちのお菓子屋 ? 」 「つるかめ、つるかめ」 「散髪屋のとなりのお菓子屋さん」 それで、私の質問は途中で立ち消えになってしまった。 いつも私が郵便を入れに行くボストのそばに一軒、お菓 子屋さんがある。お昼ごろに行くと、よく郵便配達の若い 四 人が、自転車をとめて、店の横のべンチに腰かけて、パン と牛乳でお昼弁当にしているのを見かける。 散髪をしに行っていた高校一年の男の子が帰ったので、 私は部屋へ呼んで話を聞いた。 子供が・ハウムクーヘン ( それとも、下の男の子のいった 「何か買いに」 のが本当なら、アイス・クリームであるが ) を買いに行っ と子供はいった。 たのは、このお菓子屋さんではなくて、少し駅の方へ寄っ たところにあとから出来たお菓子屋さんである。 「アイス・クリーム ? 」 「あ、アイス・クリーム。いや、・ハウムクーヘン。たし私はまだ一度もこの店で買物をしたことがないので、よ か、・ハウムクーヘンだ」 く知らないが、子供がパンやアイス・クリ 1 ムを買いに行 く用事を頼まれて、うらの崖をかけおりて行く時は、たい 私は、上の男の子がどっちかに決めるまで待っていた。 「下の道ーのお菓子屋に、セロファンで包んだ一個二十五がいこっちの店へ行っているらしい 円の・ハウムクーヘンを売っている。 「それで、思い切り走って、良二はあまり走らなかった。 どこかのパン屋の製品である。 だから、相当差がついたの。それで、はじめから帰りにお 「買いに行くので、良二と行ったの。行く時、何かおどかどかすつもりだったの」 してたの。ここいらがねずみ、捨てたところだといって」 「行きにおどしておいて、また ? 」 「もう暗かったんだろう」 「うん」 上の男の子は、笑った。 「暗くなってた。そしたら、良一「帰るといい出したの、

7. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

192 さ」「俗悪に対する軽蔑」をうたいつづけている。 指定の番号札がくばられていて、私もその一つに腰かける ことになったので、そちらの方へ進むと、光彦の姿が見え としま た。光彦達の演奏はまだすんでいなかった。私がわざと遠 池袋にある豊島公会堂へ三時頃になって私がやってきた のは、満子に会って約束の金の一件を話すつもりであった廻りをして時間をかせぐことにしたのは、光彦の父親がい が、ちょうど文化人団体と書いたトラックに、満子と明夫るのではないかと思ったからだ。そうして案のじよう肩を いからした、贅肉というものが全然ない横顔を見せてじっ が乗ってくるのが曇ったガラスを通してホールから見え た。トラックの中に、満子から少し離れたところに写真でと舞台を見ている彼がいることが分ったとき、これからど めがね うわぜい 見おばえのある眼鏡をかけた上背のある科学者の矢部教授ういうことが起るか、そのまま離れたところから眺めてい が立っていた。彼はそのまま車の中にのこって満子にアイた。光彦は思いだしたように入口の方ばかり見ていたが、 サツをしていたが、ソフトをとると、チヂれた髪の毛があ明夫と満子が近づいてくると、立ちあがってそばへよって らわれた。その男は私より五、六歳年上で、だいたい良一ぎた。すると父親は光彦がいなくなったのでふりかえり、 の年齢に近く見えるが、じっさいは太田氏の年輩なのだろ急に立ちあがった。そうして反対の舞台に向って進み、ず う。満子はそれに気取った徴笑をかえして明夫に助けられっと一まわりして、私のそばをすりぬけて、外へ出ていっ えり て車から降りるとコートの襟を立てながらこちらへ走りよたので、光彦が気がついたときには、その姿がなかった。 満子は今まで夫のいた席へ近づいてきたが、心持ち頭を ってきた。 「ほんとうにお父ちゃまがいたんですって、おやおや、あさげながら走るようになって行く夫の姿を見た。私がその 席へ近よって行くと、満子がささやくような声だが、それ の人もこの法律が通ると困ることあるのかしら」 「美術団体の中の組合を作ってるんですから、あたりまえからカを入れて、「ここにお父ちゃまいたのね。私はお父 ですよ」 ちゃまのいた席はイヤよ」といった。 おんど 「音頭をとるのは昔から好きだけど、おかしいじゃない 「光彦、お前が連れてきたのね。、、 ししこと。私は、あなた のものを見たらすぐ帰りますから。光彦も明夫もどうせお 彼女は笑いながら明夫と階段をの・ほってきた。私が彼等父ちゃまのところへ出かけるのでしよ」 の話をききすてながら、講堂の中へ入った時、ある有名な コ 1 ラスは終っていた。もう光彦は自分の番が近づいて らいひん 大学の付属高校のコーラスがはじまっていた。来賓席にはきているのでそこにいるわけには行かなかった。光彦は私 けいべっ ぜいにく

8. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

つついていた。 れるそうだ」 「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男「兄さんはどうするの」 から取ったものだからこれを女と名づけよう」 「おれは行けない。今夜も帰れるかどうか分らない」 「そう」 私は別の頁へ移った。 空には、雲が一つもなかった。この家を支えている満子「お前と新宿で待ち合わせるというんだ。行ってこい」 の夫は今、何をしているのだろう。彼はスケッチ旅行やら「いつ、そんなことをいったの」 会議やら講演やらでとびまわっていたが、秋の制作の時期「さっきお前が買物に出かけた留守に女中さんがきたん も迫っているので、もうやがてもどってくる。彼は砂・ほこ りの道をやってくる。子供達は、やがてお父ちゃまを迎え「女中さん ? 」 に満子といっしょに駅へ行くとすれば、彼等の家族は、あ「あの色の白い方だよ」 のあつい砂ぼこりの道を一団となってやってくる。私はま「道野さん ? 」 だこの主人というのを見たことがなかった。その日は何と「それに奥さん、警戒しているだろう。あの子にあんまり つらいだろう。その日彼はフロへ入り、洋酒を飲み、女中話しかけない方がいいよ」それから、 「あの子、お前好きかい」 には、「だんなさまお帰りなさいませ」といわれながら、 私や良一が腰かけたことのある椅子につくだろう。そのと「どうだかな」私はわざと思わせぶりにいったあと、 き、良一や私はどうするのだろう。良一はともかく私はど「第一、女なんて面白いもんじゃないだろう」 うするのだろう。 この家の者は女中といえどもこわかった。 ある日の午前中、良一は私の裸を描きながらいった。 「どんな女だって仕事のじゃまになるさ。それに女づきあ ( その絵はあまりうまく行っていなかった。満子の肖像は いをすると、男友達の眼が冷たくなる」 流 私達の部屋にもちかえってあったが、その方は小品でまと私は良一にいわれた通り昼近くなって出かけていった。 こうぜん 女まりがよかった。満子の昻然とした瞬間がよく出ていた。映画館のあるゴミゴミした路地のある地下のレストランで しかし私を描いたのは、大作のせいもあって出来がわるかフランス料理の店とかいて、フランス語らしいものが看板 った。それが腹立たしくもあった ) に出ているところだった。 0 ちそう 「謙一「今日は奥さんがお前に映画を見せて御馳走してく中では既に彼女が本を読みながら待っていた。 はだか すで

9. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

ところが、その日は到頭一匹も釣ることが出来なかっ 朱の色がはっきりして来た。つまり、何処となく大人っぽ た。折角持って来たプリキの・ハケツも今度は役に立たなか くな「て来たように感じられた。 日ざしの明るい窓際の水の中で、さかんに泳ぎ廻る。そった。 れは見ていて気持のいいものだ。 釣れないのは三人だけではなくて、釣堀に来ている人が みんな調子が悪かった。初心者の池の方でも、専門家の池 「こんなに元気な金魚は珍しいわ」 細君がうれしそうに云う。すると、父親はこう云うのの方でも、ちっともかからなかった。 時刻は夕方近く、釣堀の空気は沈滞していた。 「みんながこんなに釣れないようでは、とても今日は駄目 「有難いことだ。この調子で行ってくれるといいな たび 細君は一日おきに水を半分くらい替えてやり、その度にだろう」 父親はそう思った。 塩をほんのちょっぴり落してやっている。 エサをつけかえる時も、やっても無駄なことをやってい 食べ物は三日に一度、パンのやわらかいところをちぎつ てやる。ビスケットやクッキーのかけらをつまんでやるこるような気がするのである。それでも時間が切れるまでは ともある。 最初に糸を下した場所を動かないでいた。 こうなると、この前初めて来た時にかかったあの一匹の 食べ過ぎないように気を付けているので、子供が自分の 手で食べ物をやりたがる時は、この前は誰が上げたから今金魚が、たいへん貴重なものに思われて来る。一匹釣れた のと、一匹も釣れないのとでは大きな違いがある。そうし 度は誰という風に細君がうまく加減する。 父親は何にもしない。ただ、家にいる時、そばへ行ってて、一匹だけ釣れたということが、よけいに何かのめぐり 合せのような気もして来るのだ。 見ていることがある。 「前にも進まず、後ろにも進まず、胸びれをあんな具合に ハンチングをかぶった老人が釣道具をしまって帰りかけ る時、ひとり言のように云った。 かわるがわる動かして、尾びれをちょいちょい動かして、 調子を取っているんだな」 「東風の日は釣れないんだ。最初から分ってるんだ」 そんなことを考えながら、感心して見ている。 その後でちょっと珍しいことがあった。専門家の池の方 つり」り 釣堀へはあれからもう一度出かけた。父親と女の子と男で、一人の釣師について来た男の子が水の中にはまったの である。 の子と三人で出かけた。 おとな

10. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

339 静物 ることもあるが、この父親はもうずっとそんな具合にやっ 思議にそういうところのある子供である。 あの日の朝、部屋の隅っこに縫いぐるみの仔大と一緒にて来たのだ。そうして、子供の方でもそれに馴れている。 ころがっていた。何が起ったかを知らないで、みなし子の休みの日は家にいて、自分らで遊ぶものと決めている。そ ようにころがっていた。あの時は生れてからまだ一年とちれで結構楽しんでいる。 だが、物ぐさはよくない。釣堀までは歩いて十分くらい よっとの子供であったのだ。 で行けるのだ。 「行ってらっしゃい」 前は田圃で、その向うに灌木の茂みのある丘の斜面が見 と細君が云った。 らようだい える。小さな魚を釣る初心者の池と、大きな魚を釣る専門 「お腹を空かして来て頂戴、みんな」 三つになる下の男の子は、細君と一緒に家で留守番だ。家の池と二つに分れている。 日曜日なので、どちらも満員であった。 仕方がない。釣堀へついて行くにはまだ小さ過ぎる。 父親は家を出ると、気持がよくなっていた。何でも新し「大人一人、子供一人ー いことをやりに行く時の気持はいいものだ。それに子供が初めて入場した父親は、電車の切符を買うようなことを 意気込んでいる。男の子は水遊びに使う・フリキのバケツを云って、一時間分の代金を払い、エサと貸し釣竿を二本貰 提げて来た。 った。前に使った者がいい加減なことをして戻して行った 「何でもこういう風にやる方がいいな。この方がいさぎよので、糸が減茶苦茶に巻きついている。針が引っかかって いるので、どうして解いていいか分らない。 い感じでいいな」 釣れないので気を悪くして帰って行った客の釣竿ではな 子供の・ハケツを見て父親は考えた。 いかと思われる。 釣れるか釣れないかが問題ではない。・ハケツを提げて出 かけることが大事なのだ。何でもないようなことに見える釣堀の小母さんが解いてくれた。 「大丈夫ですか」 が、こういうのがもしかするとコツなのかも知れない。 ナししちよくない。休みの日「ええ、釣れますよ」 何にもしないというのが、・こ、、 小母さんが笑いながら答えた。 は大抵彼はぐずぐずして過すのだ。今度の日曜日はひとっ 男の子は糸が解けるのが待っていられなくて、あっちへ 何処へ出かけようという風に計画を立てることをしない。 無論、出かけもしない。子供と細君に相済まない気がす走って行ったかと思うと、すぐ戻って来て、「早く、早く。 すみ おとな たんば かんばく