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検索対象: 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集
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1. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

むな 景にしているために猫のように眼が光って見えることを知とのつながりを求め、空しくたちきられてきた。これから もそうなるだろう。そういうことそれを一きょになくする った。私は自分がほんとはどうなのだろうか、と考えた。 私は自分にかくしてきているが、たしかに彼女の身体を求のには、たった一つの方法しかない。それは彼女を殺すこ めている。といっても、それは彼女の身体の一つ一つの部とだ。私は自分が実行にうっす気持がほとんどないのを知 分をたしかめて見たいと思うだけのことではないか。彼女っている。だから私はもう一つの、いつまでたってもはて はその行為によって変るどころか、一層遠いところへ去っしのない方法だが、彼女のまわりをうろっく。 てしまうにちがいない。そのことが私は目に見えるよう「さあ、これでお芝居はすんだのね」彼女は笑いだした。 だ。しかし、といって、私にどういう方法があるという「私、今夜仕事をするの。ずっと仕事のことを考えていた のよ。あなた、このごろの女の作家どう思って。女ってい のか。 やと思わない。どの女の作家もみんな女くさくて、ユーモ 「僕は求めていますよ」 : チェホフだ 自分の言葉は空虚にひびいていることは分っていながアやヒ、ーマニズムというものがなくて、 って、女の弱点を書いてるじゃないの。女ってつまらない ら、私はいった。彼女はどのように考えるかという疑問が もた ものよ」 急に頭を抬げてきた。 彼女はそこまでいうと、大きく息をはき、机の上にうつ 「それはお気の毒ね。私の方はその気がないの」 彼女は笑うかと思ったら、笑わなかった。まだ花東をだぶせになって、「いい気持、すっかり酔っちゃった。昨晩 はずっと寝てないのよ。私、寝るわ。あなた、いいように いていた。 なさい。勝手にのんでていいのよ。でも二時間したら起し 「実は求めてはいないのです」 「それは当り前でしよう。あなた、お兄さんと私とのことてちょうだい。明夫だって、よく起してくれることあるの は、けつきよく、何んのかんのとおくそくしているのじゃよ」 流 といいながらペッドの上へあがって足袋をはいたままフ ない。でもつまらないことよ」 トンの中へもぐりこんでしまった。 女 ( つまらないこと ! ) 「おやすみになるのですか」 私はそこで大へんに腹が立ってきた。自分はほんとうに いよいよはげしく求めている、と知った。しかし、それ「とってもねむいの。私がね十一月八日をおぼえているの は、ロに出してはいえないようなことであった。私は彼女はね、よく考えて見ると、あの日はお友達のお嬢さんの誕 たび

2. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

398 気はしない な口惜しがって泣いたのよ」 とその人が思い出して話していた。そう彼女は云った。 「今はこんなに太っているので、・ハレーの選手をしていた河原田の営業所前で私は・ ( スを降り、待合室で相川行き と云っても信用してくれないんです」 の・ハスが来るのを待った。 と彼女は云った。 外から入って来た男が、椅子に腰かけている年輩の紳士 に声をかけた。 「やあ、どこへ ? 」 昨夜・ハスから降りた時には、人家が一軒もないさびしい ところだと思った。ところが、九時十五分の・ハスを待った「相川へ」 めに待合所に坐っていると、道路の向う側に一軒、家があ道路の向う側を黒と白のぶちの犬が歩いて行く。胴が長 って、ラジオのアナウンサ 1 の声が聞えて来る。 くて脚が短かくて、ダックスフント型のような犬である が、こんなところをのろのろ歩いているところを見ると、 「「私の本棚』五回目を終ります。明日は六回目です」 ただダックスフントに似ているだけの雑種の犬に違いな と云っている。 「こういうところでラジオをかけている人もいる」 「やあ、どこへ ? 」 と私は田 5 った。 ゆくえ かつおぶしのり と私は聞くかわりにその行方を見ていると、アイスクリ このラジオで浦部氏は、誰かが鰹節と海苔の弁当のこと 1 ムの箱を前に出してある駄菓子屋を通り過ぎて、そこで を話しているのを聴いたのだ。それはひと月ほど前のある 朝のことで、その時、浦部氏の家のあたりも多分、こんなちょっと立ち止まってから、隣りのお寺の門へ曲った。 この駄菓子屋にはバスの車掌が二人、ミルクを飲みに入 風に静かであったのだろう。 私はいまここにいて、ひとりで・ ( スを待っている。これっている。あとからまた二人入って来た。 相川行きの・ハスが来た。私が旅館の女中に教わった停留 まで考えたこともなかった佐渡へやって来て、ここにし る。 所の名前は、沢根質場というのであった。それはうつかり それは不思議と云えば不思議で、何でもないと云えば何すると忘れてしまいそうな名前であったが、降りたところ なか くつか商店が並んで は田舎の道によく見かけるような、い でもない。幻の橋と見えるものを私は渡って来たのだが、 にぎや はいるが、賑かではなく、そうかと云ってまるきりさびし ここにこうしていると、何も不思議なことが起ったという

3. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

にこたえることをいったあと、自分で作った、便所わきの 風呂場で風呂に石炭をくべていたようにもお・ほえている。 父は風呂場まで庭を横切って行くとき、行きも帰りもまる 裸かで、何か重大なことを考えているような堅い顔をして いたがそのときも、そんなふうに風呂場へ歩いていたかも しれない。い や、そんなことはあるまい。とにかく姉と兄 と彼とが外から帰ったとぎ、母は二階へあがって行くとこ ろだった。 しよく 間もなく階下に十六燭の電燈が二つ、一一階にも十燭の電 燈が一つともった。そのうち母は顔をかくすようにして降 たび りてくると、掃く度にでこぼこがひどくなったムキダシの 階段のあがりはなのところに、彼の母が坐りこみ、泣い ていた。 土のままの土間で足でさぐるようにして下駄をはいた。夜 四十何年も前のことだから、市に電燈がともるようになになると重い吊りあげ扉をおろすのが、彼女の役目なのだ が、その扉には眼もくれず、父の仕事場と座敷との間の、 ってから、何年もたっていない頃だ。土間から階段をのぼ ると屋根裏部屋があった。その階段のあがりはなは半畳ぐその土間を通って外へ出て行ってしまった。 一一時間後彼は姉と兄といっしょに母をさがしに出かけ らいが板敷になっていた。そこのところに、眉をそりおと たくさん た。彼には姉が沢山いたが、働きに出ていたり、そのひと なした四十をいくつか過ぎた母親が坐りこんで、拝むように つぶや 身体を折りまげて何か呟きながら泣いていた。父親にいし りは結婚したりしていた。結婚した姉は吉原から中村の遊 カこ、 ナしこともいい、家の中を自分ふうにきりまわしてきた彼廓にまわってきて、そこで若い足袋職人に請け出されると あ の女が何のために、そんなところに坐りこんで、他人の家み結婚して、恋女房になっていた。こういう父親に大した権 階たいにいるのだろう。七つになった彼の疑問だった。 限があるはずがない。その父親と何を争って母が家を出る 「泣いてござるがな」 必要があるのだろうか。 と彼は姉か兄にいったとお・ほえている。その時六十近い 姉は十六になり座敷で母を助手にして髪結をしていた。 やせた父親が何をしていたか、よく思い出せない。何か母彼の兄は彼より三つの年上であった。家から一一百メートル 階段のあがりはな ころ すわ おが はだ たび かみゆい

4. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

なが しね、おあそびでなく うな家を眺めた。私はキャン・ ( スをもった拍子に例の本を「それならビアノにでも精出せばい、 おぎ忘れたのを思いだして、キャイ ( スを門にたてかけるしつかりやればいいね」 くちびる と玄関のドアをあけた。そこに良一が ( ンカチで唇をふ「あとにして下さらない。あなたは私があそんでいるのが きながら「何だ」というのにぶつかった。その足もとにビ気がかりなのね。しかし子供の面倒だって大へんなのよ」 カソがいた。こんな暑いときに、二人は今、この応接間へ入「甲田くんは ? ー せつぶん 「甲田さん、先生が呼んでおいでになりますわよ」 る廊下のかげで接吻をしていたにちがいなかったのだが、 せいかんからだ 私が奥へ小走りに走って行くと、精悍な身体つきの小柄な「満子、とにかく、おれは、お前のいう通りにしてやって いるからな」 夫が身体をふきながら廊下へ出てくるところに出会ってし 私の耳にはこの短かい間に行われた会話の一言一言がの まった。 彼は満子とあわただしげに会話をかわした。私は二人のこっていた。 つじ 男の間にはさまったようなかんじになり、本をとると「失辻で一休みして待っていると、良一が歩いてくるのが見 ひたい 礼いたしますーと誰にともなくいって、また外へとび出しえた。めったに汗をかかない良一が額に汗をかいていた。 た。六十号と八十号の絵を一一枚かついで歩いて行くと、汗「明夫くんとビカンが僕のあとを追っかけてきたら、奥さ んが、見て笑っていた。先生の眼の前で笑っていたよ」 がふき出てきた。 「留守の間にきた手紙をみんな出しなさい。そういうもの「先生はこれからずっと家にいるのか。けつきよく絵の方 はどうなるのだ、兄さん」 は、ちゃんと整理して見せるようにした方がいいねー 彼は答えなかった。 「あなたのアトリエにおいてありますわー 「なぜ、あんなときに接吻などしたんだ」 「アトリエに ? そうかアトリエにか」 「お前、これからどこかへ行ってこい ! お前の世話する 「静養できたかね」 : あなたの御仕事で御出かけになつのはいやになった」 「静養ですって ? : : たのでしよう」 と良一はいっこ。 「犬のようには行かへんわ」 「しかし、それがお前の静養にもなるだろうと思ってもい と私はふてくされていった。 もし・カ、れー るのだ。身体の調子ま、 「この野郎ーと良一はなぐりつけてきた。 「あ 1 ら、あつい都会の真中にいて静養になると思って」 あせ

5. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

なら あったが、そんな時、彼は涼子と列んで坐っていても、次兄は黙っていた。兄嫁はじっとうつむいていた。部屋の 第に気が減入って来て、何時ともなく心は画面から離れて中に異様な沈黙が続いたが、次の瞬間、ワッと叫んで、兄 たたみ 嫁は畳の上に泣き伏した。 彼が沈んでいると、涼子は時々、机の上の紙をクルクル その晩以来、沼はこの兄の家には行けなくなった。この と細長く巻いて、それを望遠鏡のように眼に当てて、無精ようにして、沼はますますみじめになって行った。 ひげは 髭を生やして冴えない顔の沼をのそきながら、ゆっくりと或る時、沼は日曜日に涼子の家へ出かけて行ったが、彼 それを動かすのだった。 女は留守だった。母親は娘がどこへ行ったとも云わずに、 しんせき 沼の顔を見るなり「涼子は居りませんよ」と云った。その 彼はその頃では、親戚からも相手にされなくなってい た。兄の中では神戸の銀行に勤めている二番目の兄が、比言葉に怯んで、彼は部屋へ上って待つぎつかけを失った。 較的彼に対しては寛容であったが、六月の初めに沼がすり彼は六甲の駅へ引き返して、そこで朝の十一時から晩の十 切れた下駄を穿いて現れて、三百円貸してほしいと頼んだ時半まで涼子を待っていた。その間、腹が空いて駅の横の 時、「お前にはもう貸してやらんよ」と断られた。彼は、食堂へうどんを食べに入った時以外は、十一時間半という それまでにも、酒代や煙代に窮しては、この兄のところもの、駅から一歩も動かなかった。待って待って待ちくた びれて、やっと夜更けの電車から降りて来た涼子の姿を認 へ金を借りに行っていたのである。 くずお この時、そばでラジオのダイヤルを廻していた高等学校めた時、彼は思わず崩折れそうになった。 ひと 一一年になる甥が独りごとのように云った。 ( 彼は自分が県改札口を出て来た涼子は、沼を見て驚いた。 立の優秀校と呼ばれる学校に行って居ることが、かねがね「どうかしたの、沼さん ? 」 自慢で、大学は京都大学へ入るといつでも云っていたの 沼は ( こんなに長い時間待たせてあんまりじゃないか ) づら うら で、沼はその秀才面が気に喰わなかった ) と怨めしく思ったが、気弱く首を振ってから、 木 「僕は、大学卒業したら、四郎ちゃんみたいに遊んでん「どうしてたの ? 」と聞いた。 と、すぐに就職するよ」 「神戸のお友達の所へ行ってたのよ。ずっとここにいらし 流 もうれつ この言葉が終ったか終らないうちに、猛烈な音がしたか たの ? 」 と思うと、甥は畳の上に引っ繰り返っていた。沼が飛びか「うん」 ほお 「まあ ! かって、頬に一撃を加えたのである。 ひる ・ : ごめんね」 す

6. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

涙を流しつばなしにしとくものじゃない」 あるのか、とさぐるように待っていますね。 「もういい 、あなたには分らない」 「だからこそ、こうして外へ出てくるのじゃないのか ! 」 「分っている。分りすぎるくらい分っている。何もかもき「くるのじゃないのか ! 」といういしを 、方ま、吐き出すよう みのことは分っている。さっきから何を考えているかもずなダダをこねるようないい方ですね。 っと分っている。分っているからいうのだ」 だってお母さん、だから私こうして外へ出ているのじゃ 「もういい。私はだんだん不幸になるわ。せつかくあの林ないのか ! とダダをこねるようないい方だね。早くなだ に向って歩きながら、この道の途中でこんなに不幸になめないといけないですよ、加納さん。あなたは何もかも失 る。胸ぐらから不幸のかたまりをつかみだして、放り出しってしまいますよ。 たいくらいよ」 「そうだ、だからこそ外へ出てくるのだ。それでは本当は 「きみと僕とは家の中では争うことが出来ないのだよ。争いけないのだよ。きみは外へ出てきてはいけないのだよ。 、つ・ A 」い、つこ一よ、 。しいことだよ。それに・うということは、 あの家の中で、早くきみの歴史を作って、一日を三日にも 僕がきみの夫になり、きみが僕の妻になっているというこ一週間にもして、追いっかないといけないのだよ。じっと とじゃないか。何も悲しむことは、一つもありはしない。 辛抱するのだよ。みんな辛抱してきたのだからな。子供も 涙をふきなさい」 辛抱してきたんだからな」 「私もだんだん前の方みたいになる」 「前の方もでしよ。私だって病気になれば辛抱するわよ。 加納さん、あなた大丈夫ですか。こんなこといわせて大そうするより仕方がないじゃないの」 丈夫ですか。あなたの「前の方」とおなじ眼にあわせるの「僕のいうのはそうじゃないんですよ」 ちくいら じゃないですか。あなたは今の奥さんに逐一話しているの 加納さん、こんな道にも自動車がやってくる。畠の中の こみら 道ですよ。 小径から通りへ出たのだね。そこに一軒の家がある。つい か、わ へ「その心配はいらないよ。そういうことは出来ないと、さこの間まで垣根に・ハラの花が咲いていた。いっか夜ひとり オいか。あの露地一つがそうだ」 で通ったとき、車の音をきいてその妻らしい女と娘とが走 疎つきいったばかりじゃよ 「だから、だからよ。だから」 って出てきた。その家の部屋の間取りはどうなっているの 加納さん、そういうとき、あなたはいつも待っていますだろう。この家は大丈夫なのだろうか。この暑い日に汗を ね、一一人の女に同じものがあるのか、それとも違うものがふきながら、あなたは考えこみますね。 かた しんばう

7. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

子ともに投身したいような情けない気持にもなるのだつづけで何も食わず、明日にも腹の子をおろさなければ身体 た。そうして僕はその点では僕が紛れもなく母親の子であがもたなかった。僕は妻が僕を止めてくれるのを待ってい た。すると妻は僕にとびかかってきた。そうして僕は妻の ることを知った。 * むすこ 僕は自分が息子を愛することができないのは、直接手を首をしめた。僕は妻に下腹をけられてのけそった。妻は僕 かけて育てなかった報いだ、と知っていたが、そのためにといっしょになってはじめて、男の使うようなはげしい乱 ののし 、た 手をかけ鍛えねばならないと思ったりした。しかし実際は暴なことばで僕を罵りながら、うつぶせになっていた。 僕が愛さないどころではなく、憎んでいるのは、息子が不「なにをしやがる」 妻はたしかに僕にそういった。僕より育ちのいい妻が、 具であったからなのだ。僕は息子の割の悪さを考えると、 そういうことばをどうして使うことが出来たのであろう、 いても立ってもいられなくなったりした。 しか 妻は子供が不具であることを忘れて叱った。そして夜僕僕はむしろそのことばにおどろき冷静にもどることが出来 に背中を向けて泣いていた。僕はむしろ不具であるために ( なにをしやがる ) 叱っている。僕はその意味で妻の心が一番こわいのだ。 この言葉を心の中でくりかえし、フトンの始末をすると 妻はながいことつわりで寝ていた。息子は小用が近い ( これも一つは病気のためだが ) 。僕が起すと息子はフトン子供をねかしつけ ( 息子は僕にそうされたことさえ、しば の上に立って小用をしだした。僕は息子をなぐり倒し、倒らくすると忘れて眠った。そしてこれが病気の特徴なのか あし れた息子の硬直したからだの脚をもって屋根のところまでどうか分らない ) 、妻の頭を冷やし、長いあいだ坐りつづ しび はこんで行った。僕はそうしながら痺れるような快感を味けていた。僕は宿屋の一一階に下宿していたので、僕の所行 っていたのだ。僕はもちろん自分が一個の悪魔にちがいなは皆に見られていた。 かったが、実は小悪魔を退治しているような感じであった僕はこの残酷な所行をどうして思いついたのか検討して のだ。 ( 僕は不具という悪魔をにくんでいたのだ ) 僕はそみる必要があると思った。僕は長い狂暴な軍隊生活でおと れから硬直した木ぎれのようなからだを、木ぎれを投げるなしい生活を送り、人のからだにふれたことさえなかっ しりたた 卩た。その僕がこんなことをするのは何故だろう。これほど ようにしてフトンの上に放りだした。僕はそれから尻を口 のことが出来るならば、僕は自分に用心をしなければなら きはじめた。太鼓を叩くように。 僕は終戦直後で疲れはてていたし、妻は一月以上も寝つない。

8. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

生日なのよ。その日に呼ばれたりすることあるのよ、私が日を経験した彼女が今そこにあった。私が空想した一つ一 つの部分がそこにあった。こいつにすがらねば、私という 名付親でしよ」 ものは何もないのに、それは今そこに寝息をたてている。 「待って下さい。寝てしまうのですか」 寝息をたてている ! ふくらみをもったこの身体で ! 彼 「そう。送っていただいてありがたかったわ。ああ眠い 女のロにすることは何も信用できない。私がすがるのはこ 眠いわ : : : 」 「ほんとに寝てしまうのですか」 の身体しかない。身体だけは正直にどこかに彼女をもって 私はとりのこされてポンヤリと彼女の寝息をききながら いるにちがいない。彼女が私の方をおびえる眼で見たのは 坐ってした。 / 、 - 彼女は油断がならぬといい、私に身体を求め一瞬ですぐ自分の中へとじこもってしまった。それなら かたま ているか、と問いかけたあと、自分からこうして私の前でば、こうして私が眼をとじて塊りとなった彼女を見ている つごう 眠りこんでしまった模様である。 ことが私に一番都合のいいことなのだろうか。すると彼女 私は何分かたってから、立ちあがって壁の上の地図を眺の足が動いた。足袋をはいた足はのびてきてペッドの端か はだ めた。それは、世界のことを考えているというつもりなのら垂れさがった。裸かになった彼女のふくらはぎが、二十 丿へ旅行した時のことを思いうセンチばかり見えた。小さなうめき声がきこえたところか か、あるいはずっと昔、 かべるためなのか、いずれか、分らない。それは戦前の古ら判断すると、ほんとうに前後不覚に眠っているのだ。私 い地図だが、彼女は自分の手で新しい国にはその国名を書はその時、足が叫んだように思った。 き入れていた。私はそういうものを見ながら、ほんとうは 「長太郎さん」 別のことを考えていた。私は車の中で良一の代りになっ長太郎というのは、その長いほっそりとした脚のことの て、彼女を自分の胸の中にだきしめることを空想した。アように思えた。彼女はそれから苦しげに寝返りをうち、そ ・ハートの道で「並んで歩くものよ」といわれた時、またそれとともに、今まで私の前に見えていた脚はするするとま たフトンの中へ姿を消してしまった。 へ行けば、しよう の気持が強まった。私が彼女のアパート 「長太郎さん」 として出来ないことはない。彼女がその気はないにせよ、 それは、その間の抜けた名蔔よ、、 月。しうまでもなく足では 誘いかけるにつれてその気持は私から遠ざかってしまっ た。私はふくれあがったフトンと裏だけはみだしている足なくてあの科学者のことだ。彼女は今夜だけでもおびただ 袋を眺めていた。あの冬の日や、夏の日や、良一の死んだしい男の名を口にしていた。謙一「良一、明夫、太田、チ なが

9. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

すが、荷物を大分よそへおいてくるので僕がさきに来ても といいましたね。加納さん、あなたは、あんなことをい う四時間も待っているのですよ。私、乱暴よ、というのでっていいのですか。 見ているとほんとうに取扱いが乱暴で、アパート の階段か「今日からもう家へくることが出来るのですね」 らタンスを僕の上に落すようにしましたよ。きみは乱暴で「私のこと ? ー なくて、アメリカの女のように活湲なのだよ、と僕はいっ 「そうですよ。あなたのことなんですが。来てくれるので たのですよ。そう、アメリカのウェイトレスはドラッグ・すね」 うけざらま ストアのカウンターで、受皿を先ず放り出すようにするん「あなたって、ずいぶんティネイな言葉を使う方ですの ですよ。それからコーヒーを大きな音を立ててカップの中ねー に注ぎこむと、受皿の上にガチャンとおいて、それからカ といって彼女は笑いだしましたね。 ウンターの上をこっちへ向ってすべらせるのですね。ま「やつばり二度目の人は落着きがあって、もうこの家の主 あ、そういったぐあいなんですよ。私はこんどお宅へ行っ婦みたいですねー たら、出て行くわけには行きませんよ。私は荷物を整理し「私、いそがしいんです。モチロン私は今日から泊めてい たび て行くんですから。動く度に整理し、整理してきたんですただきますわよ、だってほかに行くところがないんですも はだか 0 、、 から、もうこんどはほんとに、まる裸なのよ ししてすの。アパートは明け渡したし、荷物はみんな持ってきた ね。それを誓って下さるわね、とこういったんですよ」 し、たったこれだけだけど、重複するものはどんどん、よ 加納さん、あなたはこう呟いていましたよ。新しい奥さそへよけて整理します」 んは、トラックに乗ってやってきましたね。そして塵とり「それがいいですね、それがいいですね。大丈夫ですよ」 と、色物の端切れで作ったはたきとをもって降りてきて、 「何がですか」 道「ここよ、この家なの」 「大丈夫、あなたはもう主婦ですよ。僕はうれしくてしょ しつば へとトラックの運転手にいっているのを、ニコニコと笑っうがないんですよ。こうやって、もうあなたに尻尾をふつ 疎て見ていましたね。加納さん、あなたはそばへよって行ていますよ」 き、サンダルをはいて運転手に荷物のおく位置を指示して と呟いていました。 「奥さん、さあ運びますよ。だんな受けて下さいよ」 いる、新しい妻に向って、 運転手が業を煮やすようにいいましたね。 「後光がさすようだよ」 つぶや かつばっ らり ごうに

10. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

「こうしているうちに眠れるんです」 「だって奥さまも私のお店へいらっして、ごひいきになっ がんこ 彼は首をさげたままいった。 ているのよ。そういっちゃ何ですけど、頑固はおやめにな 「薬を止めるわけに行かないの ? 」 って、おわかいうちに早くいっしょにおなり遊ばせ」 しし力い。人間というものはね、ある時ま 彼は黙っていた。また私がいるということを忘れてしま「ね、マダム、 ったのは、彼がまたロをもぐもぐやりだしたことで分っではそういう気持もあるものだよ。これだけ長く別れてい るとね、まったく他人より非道いものだよ。普通の人は別 「お母ちゃまは、いつまでたっても業のものにならない」れていてどこかで顔を合わすと、私たちの年になれば淡々 と話すことも出来るだろうがね、私どもはどういうものか 私がそのまま立っていたのは、ストープの火はもえてい いかんね」 るが、彼が寝息を立てはじめたら、・ヘッドの上へはこぶつ 「いかんですかね。いかんとは情けないですわね」 もりだったからだ。 と女がいった。「あんなりつばな奥さまをね。それとも、 しかし彼はまた立ちあがると絵の方へ進んだ。そうして 絵の横の空間に絵筆を動かしてこんどははずみでころがっきっとりつばすぎるのよね」 「つまらぬ女だよ。もう私は家へ入りますよ。あいつのし た。そのままたおれているうちに、寝息を立てはじめた。 ますます 私は近よって彼の眼が閉じられているのをたしかめたうえていることは益々見つともなくなりましてね」 「泊めていただくかなア」 で、もう暫らく待ち、べッドの上へはこんだ。すると、 「冗談を よよしてくれよ。マダム」 ためいき と声をだした。明夫が溜息をついているというより身体という男の声が手きびしくひびいた。するとそれに答え て、 の中から息がしぼりだされたようなかんじであった。 ムとん 私が明夫に布団を着せて電燈を消して自分の部屋にもど「やつばり奥さまのこと忘れられないじゃありませんか。 からすなき ZJ え 流 ってしばらくした頃、外で車がとまり、烏の啼声のようなどうせ私はもともとモデルですからね」 「むかしのことじゃない。毎日毎日腹の立っことをしてる 女声がもつれながらきこえてきた。 「アッハッ、ツ、ツ、ア / ツ、ツハッ」と笑った。 んだ、あいつは。 くだらぬ物を書いたり考えたりしている だめ しやく 「私にそんなことすすめても駄目だ。もういいかげんにしと思うと癪にさわるんだ。明日のことが嬪にさわるんだ。 て下さい、マダム」 明日もラジオで座談会をやる。それから明後日はデモだ。